郵便投票のセキュリティ管理思考

 アメリカ大統領選挙の当確が出され、バイデン次期大統領への祝意が各国から発信され、敗北宣言をしないトランプ現大統領の往生際の悪さを非難する声一色に世の中は染まっている。両論あれば問題視しないが、日本のマスコミ、識者含めて、ほぼ一色であることが異様である。郵便投票やそのプロセスに対する疑問は実際にあるのだから、異論がないことが奇怪で仕方がない。

 客観的に、セキュリティ管理の常識の観点から言うと、今回の選挙における郵便投票は適切とは決して言えず、不正の有無に関わらず無効との主張に一定の論理性がある。
 とは言え、各国の国内法、この場合はアメリカの州法も含めた法制度において、問題なしと判断されたから実施されているのであり、国内法の理念が優先されるべきで、選挙結果は覆らないのも事実であろう。しかし、それは中国共産党1党支配による選出(選挙とは言わなくとも)を民主的手段での選出とは言わないが、他国から異論を挟めないことと同義であるに過ぎない。
 つまり、アメリカ国内の法的解釈問題であり、他国から口出しは出来ないが、客観的かつ民主的妥当性が担保されている事とは全く違う話なのだ。

 なのに、日本国内でも、郵便投票の全てをカウントすることが正義だと言う主張をそのまま民主主義の正義として伝え、不正の温床である郵便投票は無効だと言う主張は言いがかりで民主主義への冒涜だと、一方的に正義と悪を仕分けし決めつけている。これは決してフェアな構造ではない。

 誤解しないで頂きたいので繰り返すが、今回の大統領選挙の勝者は、民主党バイデン候補である。例え、フェアでない構造化での勝利であろうとも、結果としての勝利は覆らないだろう。それが権力闘争であり、アメリカの国家としての選択なのだからとやかく言わない。
 しかし、日本のマスコミ、識者が、トランプを悪、郵便投票も含めた手法が正しいかの様に伝えるのは、根本的に間違いである。

 日本としては、正確な分析をするべきで、真相は分からなくとも、正義の為に手段を択ばない国家の姿勢が示されていることを冷静に今後の判断の基礎にするべきなのだ。今の日本のマスコミ報道が偏向して、国民への正しい判断基準の情報提供を阻害しているのであれば、国民として今まで以上にメディアリテラシーを高める必要性がある。おかしいことにはおかしいと思い、自身で考え、調べる力が必要になってくる。

その観点で、本題の郵便投票のセキュリティ管理視点での考察を行う。

 まず、真っ先に断言すべきは、郵便投票の不正の証拠を示す必要があると言うのは、言いがかりである。不正が行えない、管理運用体制を説明する責任が運営側にあるのであり、疑義が挟まれたら、第三者監査含めた確認を受けてでも、正当性を示さねばならない。

 例えば、クレジットカードをスキミングされ、悪用されてしまった際に、利用者はスキミングされた事実の証拠を示し立証しなければ、不正を訴えられないと言っている様なものなのだ。そんな立証責任を求められたら、泣き寝入りするしかないだろう。
 この場合、ログとして残っている利用履歴、利用実態を確認し、不正の有無を確認するのは運用側の責任だ。運用側にデータがあり、それだけの情報を取り扱い、不正させないサービス環境を維持管理する責任があるからだ。

 選挙でも同様だ。本人確認の手順、不正として考えられる手段に対する防止策とその実施記録。郵便投票で言うならば、有権者登録から郵送した投票券が、戻ってきた際の真贋判定機能。受付から、集票までの処理の中で不正の入り込む隙間の無い運用手順とその運用実態、トレーサビリティログの開示。ここまでやっていれば大丈夫と言わせられるかどうかが一つの勝負だ。
また、郵便投票受付の有効期間延長や共和党の立ち合いをNGとした判断を下した事由と、その際に予め予測できる不正リスク指摘に対するリスク低減策の実施内容、判断の適正さ、等。

 郵便投票における不正防止が充分でなく、接戦において訴訟に発展するリスクは以前から予測されていた。にも関わらず、その点の対応策を講じておらず、強引に押し通している様にしか私には見えない。まさか、極一般的なセキュリティ管理の思考回路が存在しないとは思わないし、思いたくもない。
 繰り返すが、アメリカ国内的に押し通すのは口出ししない。しかし、日本の立場で、この状況で、トランプ氏が単に駄々をこねているだけでなく、ある意味正当な主張をしていることも理解しておく必要がある。その両面を伝えないマスコミは罪深いとしか言い様がない。

 その程度の正当性もなくして、7000万票以上の空前の得票を得ることなどあり得ないし、アメリカ国民はそんなバカではない。これが分断なら、分断と言う事実は多様性という意味で現実に存在していて、分断を認めリスペクトすることが重要だ。この分断には、時には厳しく、時には寛容に、是々非々で対応していくことで乗り越えていけるのだ。
 アメリカ的に言えば、選挙が終われば、一つになる、というのは幻想であり、多様性がある中での舵取りをするのが民主主義政権の責務だ。
 日本側からは、アメリカの多様性を正確に見極め、その判断基準などを分析し、その情報を国民に伝え、同盟国としての外交に活かせる様にすべきだろう。

トランプ絶体絶命の構造

 2日前に勝利宣言の原稿を投稿したが、翌朝から状況が一変した。ここに至って、木村太郎さんも、9分9厘トランプの負けを宣言したし、事実上敗戦は間違いないだろう。しかし、今回の大統領選挙の構造を仮説推論すると、見えてくるものがある。一部では今回の選挙を『機会の平等』と『結果の平等』の対決と称していたが、ある意味、バイデン勝利でアメリカは見た目の『結果の平等』を確立すべく、不都合な事実は見せない、知らせない、闇に葬る。正義の為には、採るべき手段は正当化される。まさに、中世ヨーロッパの様な世界観に突き進む危険性すら感じる。

 断っておくが、私自身はトランプ支持者では決してない。彼の出鱈目な物言い、乱暴な言動など決して支持は出来ない。しかし、客観的に見て今回の選挙はとてもフェアとは思えないものだった。郵便投票をトランプは不正の温床と言い続けたが、マスコミは往生際の悪さや、民主主義に従わない品性を非難し続けている。

 私のビジネス経験上からはっきり申し上げる、他国の選挙制度だから非難は出来ないが、日本であれば絶対にこの様な郵便投票は採用できない。それはセキュリティ管理上、公正を保つことが不可能だからだ。トランプが不正と言っているのは、実は極めてまともな発言であり、もし日本で同様の郵便投票が法案として出てくれば、不正の温床と叩きまくられるのは間違いないのだ。詳細までは記さないが、あの方法なら、何とでも票を操作することが可能である。いくらでも不正の方法は思いつくのだ。

 前日まで70万票リードして、残り未開票が100万票だったのに、夜が明けると、差は60万票に縮まり、未開票が140万票に増えた。つまり50万票どこかから増えたのだ。そして、結果逆転となった。
 投票数を見ても、トランプは大方のマスコミの予想、世論調査を覆し、歴代最上位にランクされる程の得票を得た。しかし、郵便投票でバイデンが後から上回った。
 負けていれば、どこまでも後から票を積み増せる様に見える。最終的に投票率が100%超えない限り問題にはならないだろう。

 それでも、郵便投票を公正な1票として、民主主義に従えと非難される。事実は、郵便投票では公平な民主主義が維持できないのだが。これは公平では決してない。
 不正の根拠、証拠を示せとトランプは非難される。しかし、その論理は、騙しとおせたら何をやっても正義だと言っているに等しい。不正の証拠が示せ、発覚するのは、氷山の一角でしかないのだから。これだけ穴だらけの精度であれば、1票の正当性を示す責任があると考える方が真っ当なのだ。

 トランプがアメリカ社会の分断を生み出した様に言われるが、実は、分断している実態を見える化しただけであり、既に分断はあり、隠蔽されていた様に見える。そして、いわゆるフェイクニュースが不都合な真実を隠し、不都合な異端児を攻撃する構造に見えて仕方がない。その結果、分断が無くなってしまうと、『統制された結果の平等』の完成である。それは、決して望む形ではないはずだ。

 今回の大統領選挙の構造を『トランプvs反トランプ』と2日前に称したが、『トランプvs反トランプ+マスコミ(情報)』という構造が垣間見えるのだ。

 トランプが勝利宣言をしたとマスコミは叩きまくったが、その前にバイデンが同様の宣言をしているが批判は皆無。バイデンの宣言は、勝利を宣言しつつ、最後の1票が開くまで敗北宣言しないと言っている。これも、負けている立場で、ある意味往生際が悪い姿勢だが、非難されず、逆転されたトランプは往生際が悪いと責められる。

 確かにトランプは非難を受ける言動が多いし、子供じみた発言もある。しかし、今回の選挙に関しては、同情を禁じ得ない。反トランプが完全正義として情報が統制されている。むしろ、論理的に真っ当なことを言っているのはトランプに見えるが、勝てば官軍、負ければ賊軍でしかない。

 今回の大統領選挙は勝負あったとすると、マスコミという反政府勢力が勝ったことになるが、これまでのアメリカは政権交代があろうとも政策の継続性があったが、今回はどうだろう。

 そして、日本も他人事ではいられない。今回の大統領選挙の日本における報道は、アメリカとほぼ同じ調子で行われている。つまり同じ構造である。であるならば、情報を鵜呑みにできない状態であり、素のデータから個々に分析し読み取っていく力がなければ、生き抜けない世の中だと認識しなければならないだろう。

トランプ大統領事実上の勝利宣言

 アメリカ大統領選挙の投票が行われ、早々にトランプ大統領による事実上の勝利宣言が為された。まだ確定できていない激戦州で郵便投票の開票がまだなので逆転もあり得ると多くのマスコミは未だに言い続けており、多くの識者もこの時点での敗北宣言の無い事実上の勝利宣言を発したトランプ大統領にフライングだとの批判を集中している。しかし、バイデン候補もほぼ同様の勝利宣言まがいの発信を先にしているのだが、そちらの批判は聞こえてこない。

 当初予想では当日開票で少しのリードをしたトランプ大統領が、郵便投票で逆転される接戦状態で、なりふり構わず郵便投票の開票停止を求める訴訟を起こすなどの対応が予測されていたが、実際は大きく異なり郵便投票完全開票を残した状態ではあるが、ほぼ逆転不可能なレベルの大差を付けているのが実態だろう。
 多くのマスコミは、大差の事実を受け入れることが出来ず、勝利宣言をしたトランプ大統領に対する批判に終始している。このこと自体が問題を露呈していることに一体どれだけの人が気付いているだろうか。私の知る限り、木村太郎さんぐらいだろうか。冷静にこの状況を予測し、現時点でのトランプ勝利を確信していたのも同氏である。(実は私も同様の予測であった)

 今回のアメリカ大統領選挙は、『トランプvs反トランプ』の構造であった。決して『トランプvsバイデン』ではなかったのである。民主党の代表がバイデンになった瞬間、私は、民主党は勝つ気がないのか、と疑った。そして、選挙戦を戦う内に、その構造が『トランプ+反バイデンvs反トランプ』に変異してきた。最後まで、バイデン推しはなかった。その証拠がレディー・ガガの最後の応援演説にも現れており、反トランプしか言っていない。この時点で、接戦だろうが、トランプ大統領優勢に動いていたのが現実だろう。
 そして、バイデンの目指す国家像、ビジョン、夢が押し出されない状態で政策論争もなく大統領になったらアメリカ国民は不幸だろうし、流石にその点は見透かされ、反バイデンが発生したのだろう。その時点で、勝負あった、トランプ大統領の勝利が決まったようなものだ。

 4年前のトランプ大統領勝利の際も、今回も、マスコミの多くは『隠れトランプ支持』を理由にしていたが、私は事実と反すると考えている。トランプ大統領が良く使う『フェイクニュース』が全てと考えている。支持率調査や、世論調査など、調査する分母を恣意的に選択し、アンケートの聞き方を工夫するだけで、簡単に事実と異なるデータに見せかけることが可能だ。アメリカの主要マスコミ(FOXを除く)の多くはリベラル系に偏向しており、報道内容を鵜呑みにできないのが実態であり、それを『フェイクニュース』と非難していたのである。速すぎる勝利宣言でも、バイデンは批判されず、トランプ大統領だけが批判されるのもその表れである。
 断言しよう、隠れトランプによる逆転などではなく、トランプvs反トランプの構造でトランプ支持が上回り、そこに反バイデンが加わって想定外の大差が付いたと見るべきだ。

 日本のマスコミも多くはリベラル系に偏向しており、この事実は絶対に認めないだろう。だからこそ、木村太郎さんの発言が貴重なのだ。しかし、トランプ大統領が露わにしたフェイクニュースの構造を認めない限り国民の目線は騙せなくなっていることも認識しなければこの先存在価値が無くなってくるだろう。

 マスコミの使命として『政権の監視』との時代錯誤の認識を持つ限り、保守ではなくリベラルに傾向するのだろう。しかし、民主主義を確立させ定着させていく過程ではそうかもしれないが、既に成熟した民主主義の時代において、マスコミの最大の役割は『事実を事実のまま客観的に伝える』であるはずだ。その先の判断は国民の判断なのである。もちろん、事実を伝えた上で、マスコミ各社の独自の見解として伝えることは良いが、事実の歪曲や操作は、例え政権監視の大義名分あっても許されるべきではない。

 そして、その批判構造に乗って、独自のビジョンなく、批判に終始する政治勢力は淘汰される。マスコミが偏向しようとも、判断が出来る国民に成熟しつつある状況下での批判勢力への裁定を下すだろう。今回の大統領選挙がそうであり、日本でも国民民主が袂を分けて一旦勢力を落としても、次回以降の選挙で維新と共に勢力を拡大し、健全な選択肢を国民に提供してくれる勢力に成長するだろう。その縮図が示された歴史的な1日であった。

内村選手偽陽性事案検証~『ファクターXの正体』緊急報告~

 拙著『ファクターXの正体』をお読み頂ければ、小生が指摘する問題性はご理解いただけるとは思うが、その典型的な事例がまた発生してしまった。体操の内村選手に対するPCR検査での偽陽性判定事案である。PCR検査で陽性判定を受け隔離処置が施されたが、あまりにも身に覚えがなく症状も全くない為、翌日に3か所での再検査を受け、偽陽性であったと結論された。

 偽陽性と結論される前、本大会の日本の参加辞退の可能性やオリンピックでの感染防止策は難しいと、危機感を煽っていた。それこそ、何万人に最低でも3日に1回、徹底検査をしなければならないと。そんなことをすれば、単純に被害者は膨大に膨れ上がることになるのが誰の目からも明らかなのだが、その後無責任な発言をした反省もなく、識者やマスコミは反省もなく報道もしていない。

 この件は、間違いなく、個人の活動・行動に対する不正制限事故であり、人権侵害問題である。表向きは事なきを得た様に、マスコミでは多くを語ってはいないが、数日間の隔離生活を強いられたことは、大切な大会直前のコンディションを整え、調子を上げていくピーキングが重要な時期に行動制限されることが、どれだけアスリートの成績に影響を及ぼすか、想像に難くない。アスリートにとって、その先の人生に及ぼす重大問題なのである。この様な事案が繰り返されると、多くの被害者が発生し、同時に多くの訴訟事案が発生してしまうだろう。

 なんとか、少しでも理解を広め、この様な事象を回避できることを願って止まない。

 さて、PCR検査の仕組みからおさらいしよう。明確にしておかなければならないのは、検査には誤差、誤判定が付きまとうことである。一部の識者、マスコミでは、PCR検査の精度が高く、誤差など無視できると言い続けているが、仕組みを考えれば、あり得ないことは明白なのである。

 採取した検体の中に微量でも存在する当該のウィルスを増幅する処理を複数サイクル繰り返し検出可能量まで増幅する。増幅されたウィルスの量が、ある閾値を超えると陽性、超えないと陰性という判定が為されるのが、PCR検査である。
 上述のことから常識的に考えて欲しい、増幅させるサイクル数によってウィルス量が増減することは自明なのだが、現在の検査は必要以上に増幅サイクルを増やしている。つまり出来るだけ陽性判定を多くするための検査設定なのである。今の検査方式では、感染などしていない、接触して存在しているだけのウィルスも同様に検出する。当然ながら、不活性化したウィルスであろうがお構いなしに増幅され検出されるのだ。

 そして、閾値を超えるか否かでの判定と言う、極めてアナログ的な判定であることも注意する必要がある。閾値を高く設定すれば、偽陽性は減少するかもしれないが、偽陰性が増加する。閾値を低く設定すればその逆である。
増幅処理で誤差が発生しないことはあり得ない。化学処理で反応に個体差が出ることは当たり前であろう。そして、増幅された結果、閾値近辺のウィルス量が検出された場合はどうなるのだろうか。陰性か陽性か、そんな簡単かつ明確に判定出来るはずが無いのである。

PCR検査の特性を整理すると
1. 検体を増幅処理した結果のウィルス量が閾値を超えたか否かの判定しかできない
2. 検出されたウィルスが不活性であっても活性ウィルスと区別は出来ない
3. 検出されたウィルスが感染したものか単に存在しているだけかを区別できない
4. 増幅サイクルにより検出するウィルス量は大きく変化しうる

 従って、個々人の人生に大きく影響を与えうる行動の許認可判定に、PCR検査の結果を利用するなど、本来はあり得ないのである。

 ここまで記述したのは偽陽性に関する問題点だが、偽陰性に関する問題は更に深刻なのである。多くの人、マスコミの報道も伝えているのが、PCR検査をして、陰性判定を受けた人が安心して経済を回す、或いは、GoToで旅行に行く、と考えられている。極めて危険な思考なのである。
 前述した様に、PCR検査結果が絶対でないだけではなく、感染の有無を示せるものでもないのだ。つまり、陰性と判定されても、非感染の証明にはならない。
 偽陰性は一定の確率で発生する。この確率は、偽陽性よりも遥かに高く、一般的には感染者の内30%もの人が間違って陰性と判定されるのである。

 詳細の統計的分析は拙著『ファクターXの正体』をご確認頂きたいが、この確率で偽陰性が発生し、間違った安心を与えてしまうと、検査をすればする程、感染は拡大する。先進諸国の感染爆発は、このカラクリで発生しており、日本の感染が桁違いに少ないのは、検査を医師が必要と判断した感染を疑う患者に限定されているからである。逆に言うと、先進諸国並みに積極的検査拡大を行うと、同様の爆発的感染につながる危険性が高いのである。

 ならば、何故先進諸国は積極的検査を推奨するのか、アジア諸国など感染が比較的抑え込まれている要因は何なのだろうか。ここでは詳しくは説明しないが、先進諸国の文化的、宗教的背景を考慮する必要があり、結局検査云々ではなく、非民主的な隔離政策が打てれば物理的に抑え込むことは出来るだけなのだ。日本は、文化的にも、民主国家としても同様に考える訳にはいかないのだ。

 従って、PCR検査を実施できるケースとして

1. 医師が他の臨床診断、検査結果と合わせて必要と判断した場合、確定診断として実施する
2. クラスター等、感染が疑われる人を対象に感染経路追跡のために実施する
3. ビジネス等で海外取引上、他国の要請に基づいた検査は実施を容認するが、陰性結果であっても非感染を証明するものではないことを理解した行動を誓約させると同時に陽性判定の結果被る損害も一切関知しないことの了承を受けて実施する

 こういうことを言うと、では無症状の感染者は野放しでいいのか、という反論が予想される。しかし、その通り、野放しで良いのである。
 その理由は、無症状の感染者による感染リスクは、確かにゼロではないが、確率的に極めて低くなるからである。無症状者でありながら他人に感染させるのは、発症の3日前から徐々にリスクが高まるのであり、それ以外は全て有症状者からの感染なのである。それは、ウィルス量が少ない場合や、多くても不活性の場合は他人に感染させないからだ。つまり、無症状の感染者と一般的に呼ばれている人達の大多数が、ウィルス量が少なく発症していない人や不活性ウィルスを保持していただけの人なのである。

 最後に、もうひとつ。PCR検査結果として、毎日、『今日の新規感染者数』と報道されているが、これは全くの誤報道なのである。正確には、『本日の陽性判定された検査検体数』であり、この場合の陽性判定とは、『増幅されたウィルス量が予め設定した閾値を超えた場合』なのである。感染とは全く関係ない。

詳しくは拙著をご一読頂ければ幸いです。

『ファクターXの正体;新型コロナウィルス感染症の日本における感染実態』
http://www.amazon.co.jp/dp/B08H1JGVYQ
『ファクターXの正体Ⅱ;VOL1-PCR検査の実態』
http://www.amazon.co.jp/dp/B08KSFT239

ゴルフ人生日記

 アマチュアなのでレッスンの類ではないが、我がゴルフ人生において、自分自身が悩めるゴルファーであることから、得た経験と知識、技術をある意味処方箋として語ることは多くの迷えるゴルファーにも少なからず共感頂ける内容や参考にして頂けることもあるだろうとの思いで書かせて頂く。偉そうに言っているが、自分自身が振り返って、反省し、更に極めたい競技生活のメモとすることが主目的なので、寛容な姿勢でお読み頂ければ幸いである。もし、ご意見があれば是非ご指導含めて温かいお言葉を頂けるとこの上ない喜びです。

 このメモは、シリーズ化していくつもりだが、その最初はパター偏とする。『パットイズマネー』と言うほどスコアに直結するが、『パットに形無し』という様に、出鱈目でも入れば良いし、唯一と言っていいだろうアマがプロに対抗できる領域だ。それをアマの視点から書かせて頂く。

 まず、パッティングの成功の要素を整理したい。以下の様に分類されるだろう。

1. 目標に対してスクエアに構える(アライメント)
2. 目標に対して真っ直ぐに打ち出す
3. パターの芯を外さない
4. ラインを読み、適切な目標を設定する
5. 距離感を合わせる

 この5項目で全てではないだろうか。そんな簡単に言うな、という声も聞こえそうだが、結構簡単、気軽に、でも少し真面目に考えて欲しい。もちろん、聞き流して頂いても構わないが、シリーズ通して共通の書き方と了解頂きたい。

 さて、この5項目を更にグループ分け、大分類すると、1から3までの3項目は技術、テクニック面であり、4・5は感性・フィーリング面と分類できる。この2面性があることを理解しないミスが多いのが実態ではないだろうか。
 例えば、2の真っ直ぐ打ち出そうと意識するがあまり、距離感がすっ飛んでしまい大ショートしてしまう、多くのプレーヤーがその様な経験をしているはずだ。普通に考えて欲しい、距離感がすっ飛んで大ショートしてしまうと、3パットのリスクが増大するが、真っ直ぐ打てないだけなら、そのパットが入らないだけで、距離感が合っていれば3パットのリスクは増えない。つまり、距離感さえ合えば、ほぼ2パット以内、ハーフで18打、1ラウンドで36打以内となる。
 4のライン読みも、細かい読みではなく、大まかな読みが3パット防止に効果があることは疑い様がないだろう。つまり、第一段階として、2パット以内におさめるためには、感性・フィーリングの要素が重要であり、その後1パットを増やしていく更なる追及のためにテクニックが重要になってくるのだ。

 では、最重要と位置付けた、距離感に関して語ろう。『感』というのだから、テクニックではなく、感覚、フィーリングである。ゴミ箱に、紙くずを投げ入れる時、距離を歩測もしないで見た目で、振り上げる大きさをこれぐらいだとかも考えず、目標に届かせるような感覚で投げるだろう。距離感とはそういうものなのだ。しかし、感性を百%発揮するためには、それだけの準備が必要になる、そこが重要だ。

 準備のその1が、普段から、気持ちの良い振り幅、力加減のパッティングスト―ロークを身体に覚えさせること。気持ちの良いとは、反復して同じことが同じ様に繰り返せる感覚。その感覚をショートパットとミドルパット、ロングパットの3段階の気持ち良さを準備できていれば最高だ。難しければ、まず2段階でも良い、試して欲しい。ここまでは感性を磨くイメージである。
 そして、朝のスタート前のパッティンググリーンにて、この気持ち良いストロークを打って実際にどれだけの距離になるのか、確認しておく。厳密である必要性はない、大まかにでも構わないが、出来る限り、往復での確認を推奨する。距離は歩測の往復の平均なのだが、それ以上に目視の感覚が重要、大体のイメージを刷り込んでおくのだ。遅い、速い、無茶苦茶速いなど。
 実際のプレーにおいては、実際の距離歩測と共に、視覚から得られる情報を整理する。登りなのか、下りなのか、芝の目は、風はなど。そして、自身の気持ち良いストロークのミドルパットの少し強めなど具体的にイメージして、素振りでそのイメージを身体にしみこませる作業を実施する。
 この際、多くのプレーヤーは、通常のラインに構えて、少しだけ後ろに引いて素振りを実施するが、私はそうしない。その理由は、構えた瞬間に視界が全体でなく、感覚的にライン重視になってしまい、折角事前に整理した情報を身体に刷り込む前に視覚情報が狭く変更されてしまうからだ。
 私は、目標を後ろから正対して、全体的に目標方向を視覚にとらえた状態で、素振りを行い距離感のイメージを身体に刷り込む。こうすれば、得た情報をそのまま身体に刷り込むことが出来易いのだ。構えて視野が変わるのは体に刷り込んだ後に行うのだ。この順番が重要である。
 繰り返すが、順番が重要で、<視覚・観察した距離感情報の整理>→<距離感情報の身体への刷り込み>→<アライメント>→<ストローク>である。これが、<視覚・観察した距離感情報の整理>→<アライメント>→<距離感情報の身体への刷り込み>→<ストローク>では、距離感が失われるのだ。
 そして、ストロークの際に注意するのは、目標を視界に捉えておくことだろう。誤解しないで欲しい、ヘッドアップや身体を動かして軸が変動することを指すのではなく、首から上、目線を動かすだけで視線を動かし、視界に捉えることだ。これを忘れてラインに集中しすぎると、折角刷り込んだ距離感のイメージが失われてしまう危険性が高くなる。あくまで、距離感を優位に、50%以上の注意を持って、ストロークすることだ。逆の言い方をすると、目標の方向性やスポットにばかり集中してしまうと、折角刷り込んだ距離感を忘れてしまうのだ。この様な経験は無いだろうか。

次に重要な要素はライン読みである。

 ライン読みと言うと、非常に難しい印象を持たれるかもしれない。確かに、プロや上級者のレベルでは小さなアンジュレーションや芝の状態変化なども確認するが、まずは、その様な細かな部分ではなく大まかに把握することでかなりカバーできるのだ。
 傾斜はグリーンに上がる前、グリーン面が見える時から、どこが高いか、どこが低いか、その程度の大きな傾斜を感じておく。
 グリーンに上がったら、自分のボールからだけでなく、反対側からも確認して傾きを感じる。人間錯覚が生じるのだが、反対から見ることでかなりの錯覚を防ぐことが可能だ。

 しかし、実はこれだけではそれ程正確な読みは困難なのだ。グリーンの癖や、曲がり具合などは、プロの様に練習ラウンドして情報を集めていない限り、情報を得ることは、それ程簡単ではない。まず、アマチュアの場合、その程度だと認識することが大切だ。
 では、アマチュアにとって情報取得するもっと効率的な方法はないのだろうか。それがあるのだ。他人のプレーをよく観察しておくことだ。どこから、どの程度の強さで打って、どの程度転がるのか、どの程度曲がるのか。注意しておく必要があるのが、上りのパットは、曲がるのはボールの勢いがなくなる後半部分であり、下りの場合は、早い時点から曲がり始めるという、物理法則を頭に入れて観察しておけば万全だ。
 そして、観察するのは、同組のプレーだけでなく、ショートホールなど前の組のプレーが見える時は、よく観察しておくべきだ。曲がり幅までは見えなくても、どちらから打って、苦労してそうだとか、簡単に入れてきているとか、その程度は観察できるはずだ。
 もう一つ、絶対逃してはならないのが、雨露や霜でグリーンについたボールが転がった後である。但し、先ほどの上りと下りで曲がり方が異なることを前提に情報として処理する必要がある。

 以上の様な情報を処理して、あとは決断のみ。自分の転がるボールをイメージして、どこから、どの程度曲がるか、真っ直ぐかを描いたら、打ち出し方向に仮想カップや目標を設定する。上りや、下り、或いは自分の視覚に対する距離感よりも遅い場合、速い場合を想定して、仮想カップを前後させる。速いグリーン、或いは下りであれば、その分だけ手前に仮想カップを設定する要領だ。

 ここまでのことを実行するだけで、かなりの3パットは防げるはずだ。ファーストパットがカップの半径90cmの範囲に止まれば、かなりの確率で入れることが出来るからだ。アマチュアの大たたきのミス、それこそトップアマのハーフパット数15~16でない限り、スコアアップ間違いないだろう。パッティングの誤差は、方向性よりも距離感による縦のブレの方がスコアの悪化につながるミスになるのだから。

 そして、2~3mの入れ頃、5~6mの勝負パットが少しでも入る確率が上がれば、更なるスコアアップだけでなく、気持ちの良さも格別になる。その為には、前記1,2,3が必要になってくる。

 2の目標に対して真っ直ぐに打ち出すと、3のパターの芯を外さない、この二つは実は同時に解決できるのだ。何が必要かと言うと、ストロークの再現性である。
よく、真っ直ぐ引いて真っ直ぐフォローする、だとか、ボディターンを意識してインサイドに引いてインサイドにフォローするなどと言われるが、それは何でも良い。特に、バックスィングを真っ直ぐ引くことを意識しすぎると、むしろインパクトでミスしやすい。私は、バックスィング自体は出鱈目でもインパクトからフォローを徹底的に意識する。それこそ、目標にパターのフェースが真っ直ぐ送り出すイメージで。

 インパクトからフォローさえ真っ直ぐ出せれば、必ずボールは真っ直ぐ打ち出せる。練習方法としては、バックスィングしないで、ボールに接触した状態からフォローだけで真っ直ぐ転がすこと。これで、かなりの感覚は養えるはずだ。
 その時に具体的にグリップは、ひじは5角形なのか3角形なのか、などなど形は様々だが、それは個々人でやりやすい方法を見出して欲しい。そして、1度掴んだからと言っても、人間の感覚は移ろい易いので、ちょくちょく確認しておくべきだろう。
 この確認の観点として、右手と左手が喧嘩しないことだろう。片手で打って、右手の方がフィーリングが出やすい人と、左手の方が良い人と様々であろう。左手主導の人の場合、どうやって右手が邪魔をするのを防ぐか。右手の邪魔を防ぐグリップとしては、逆オーバーラップや最近流行りのクロ―グリップなど。他にも自由に開発して良いだろう。
 右手主導の場合、左手及び左サイドがブレーキにならない様に、ひじが抜ける様なフォローを意識したり、全く逆に左脇を締めて制御するなど、他にも自由に開発して良い。
 一つだけ守る必要があるのは、ストローク中、フォローまで絶対に首から下の身体を動かさないことだろう。多くのビギナーは、パットを打った後に右肩が前に出て、カップの方に身体が動く。この動きが入ったら、インパクトでボールに真っ直ぐ、再現性良くヒットすることは不可能になる。初心者が、まず最初に練習すべきはこのヘッドアップ防止だろう。

 但し、注意すべき事項がある。それは、前述した距離感なのである。この首から下を完全に止める動きを習得するまで、身体を動かさないことを意識すればするほど、首から上も含めて身体全体が固まり、距離感が飛んでしまう現象が出易くなる。
 身体は静止した状態で、首から上を動かして視線を動かしカップ方向を確認し、ストロークを繰り返した後に、再度カップ方向を首から上だけで見る動きを、身に着けるべきだろう。これが出来れば、ミドルパットまでの直線性、ミート率は格段に上がるはずだ。

 これで終わりではない。上記の動きを試して欲しい。一体、首から下を止めたストロークで何m打てるのか。私でも、気持ち良く打って、5~6mまでだろうか、それ以上は難しいのだ。では、それ以上の距離にはどう対応するのか。簡単である、ゴルフスウィングをすれば良いのだから。そう、下半身で打つのだ。
 ゴルフスウィングは下半身主導の動きがあるからボールを飛ばすことが出来る。パッティングだって同じだ。身体を動かすな、と矛盾する様に感じるかもしれないが、頭の位置を動かさない、ビハインドザヘッドを守って、ニーアクションを使えばパッティングの距離は伸ばせる。大きく振り上げるのではなく、振り幅はそれ程変えなくとも、ニ―アクションを入れた瞬間に距離は伸びる。それでロングパットの距離まではカバー出来るのだ。

 さてさて、ここまでで、かなりのレベルでパット数が少なく出来るだろう。しかし、勝負所で入れたいパットが一筋違ったり、それでカップインできず、1打ロスしてしまう、最大の原因がアライメントである。構えた時に、目標に対して正確に真っ直ぐ立てているかだ。

 もちろん、初心者のレベルでの向きの不整合は、普通にある。初心者がいきなり真っ直ぐ立てる方が稀だろう。しかし、上級者レベルでも、最後まで苦労するのが、このアライメントであり、一筋の違いが1打差となる痛恨に繋がるのだ。
 その為には、ボールの位置は一定にしなければならないし、目線も目標の方向に対して、両目が並行であるべきだ。つまり、ボールの真上に目があり、首を動かして方向を確認する際も、打ち出す方向から目線がズレてはならない。

 私自身も長年、アライメントに関しては悩みに悩んできた。ボールマークを合わせるだけでは効果なく、ラインマークを入れたりもした。そして、傾向として、2通りのパターン、人による向き不向きのあることも発見した。打ち出すラインに対して、水平にパットを構える方法と、垂直にパットのフェースを合わせる方法の2通りだ。

 私に関しても、長年ラインに平行に合わせる様に苦戦してきたが、実は、最近パットのフェースを垂直に合わせる方法に変更して、アライメントの精度が格段に上がったのだ。
 その違いは、パターの後ろ側にラインをイメージする形状から、パットのフェースラインを明確に意識できるデザインに変更したのだ。

 アライメントを意識する練習は、真っ直ぐ紐を地面から20cm位の位置に張って、その下にボールを置いてラインに沿って打ち出す練習を繰り返し、紐を外しても同様に構えられる様に繰り返すことだろう。身に付けば、何もない状態で、いきなり構えて、真っ直ぐにアドレスすることが出来る様になる。

 後は、自信を持ってストロークを緩まずに打ち切ること。これでアプローチ次第だろうが、1ラウンドで30前後の勝負できるパット技術が身に着けられるだろう。

理系と文系の特性相違点

 私自身は理科系学問(理学部物理学科にて)を学び卒業し、就職後も技術開発などの業務を中心に従事し、企画販促や管理系、経営にも携わってきた。理系の中では幅広い分野に従事したが、その根底にある軸足、判断基準は理系脳による論理思考であったと思っている。

 ビジネスの世界で、理系と文系でどちらが優位なのか、判定は出来ないだろうし、答えはないかもしれないが、私の持論として、理系的論理思考力を持ちつつ、文系的幅広い視野での柔軟な思考展開が出来ることが理想的であり、そのバランスが勝負のキーポイントであると考えている。
 昔、データベース・マーケティング論をビジネスで語りあった時の1例を上げる。データの分析やその仕組みであるシステム思考など、構造的かつシステマチックに理解していなければ、マーケティング分析やCRM提案は出来ない。基礎となるシステムや技術面のバックボーンなく語るのは、いい加減な絵に描いた餅、机上の空論でしかないと論破していた。ちなみに、世の中のこの手の企画提案には、実にきれいに表現した夢の世界の絵に描いた餅の詐欺紛いのものが多いのも実態である。
 一方で、仕組みや論理、技術面に終始すると、その先の可能性や運用面の人の感性などが抜け落ちてしまい、面白くもなんともない、単に難しいだけの企画提案になってしまいがちである。これでは、正しいかもしれないが、実際の利活用には程遠く、夢もない状態に陥ってしまいビジネスでは通用しなくなる。
 実世界、実運用上は、理系、文系のバランスが取れる必要があるのだ。

 では、バランスと言ってもどちらを優位にするべきなのか。論争として、理系センスを持った文系と文系センスを持った理系とどちらが最終的に勝つのか。この論争に答えはない。しかし、実社会では双方のバランスが必要だということに異論はないだろう。しかし、現実社会は、どちらかというと文系脳に偏っている方が優位になる様に感じざるを得ないのは私だけだろうか。もう一つ、現実社会では、理系、文系の分類とは別に、軸としては直交する全く異なる軸として、体育系と芸術系が存在するが、複雑になる為今回はこの軸は除外して考える前提で、どうしても理系だけ偏った印象があるのは事実ではないだろうか。

 理科系学問の性格として、白黒はっきりしている事が上げられる。数学の計算結果に曖昧さはない。物理の法則も真しかなく、化学も再現性が要求される。もちろん、人類が知り得るのは、砂漠の一粒の砂に過ぎないのが自然科学の世界の真ではあるが、その一粒の真理を究明するものだ。解のない場合は、現時点で解がないとはっきりさせ、解を求めていく。万人に共通する解を。
 文科系学問の性格として、人それぞれの思想や考え方によって解は異なってくる。それぞれの見解として。法が絶対的なものと言いつつ、法律で明文化していながら、解釈が人によって異なってくる。歴史も学説として主流派はあっても、異説も異論も多々あるし、それぞれに正誤関係はない。新説に対して反証を繰り返し洗練されていく。しかし、どこまで行っても絶対真理には行きつかない。
 政治や経営の分野は、不確実な未来に対して、確実な答えを持たずに、今の手を打っていく。一長一短ある様々な方法論の中で、総合的に判断して決断するのだ。そこには政治、経営のポリシーが必要だろう。人間である限り、判断に迷う事もあるだろうが、その場合も基準となる根本的な基盤思想を持って判断される。しかし、判断のためにインプットされる情報が偏っていて全体像が俯瞰できなかったり、客観的な状況が見えていないと判断を誤ることもしばしばある。
 だからこそ、政治や経営の責任者は、多くの情報を多面的かつ総合的にインプットしたいと考えるのである。政治で言えば、専門家会議や話題の学術会議、経営であれば事業戦略部門やコンサル、シンクタンクだろう。
 では、この求める情報を提供してもらうためには、理系が良いか文系が良いかを考えて見よう。文系の性格上、答えには個人の思想信条、考えの偏りが必ず発生する。従って、決して客観的とは言えない。つまり、政治や経営に活かす情報としては、一人、一系統の文系系情報のインプットでは偏ってしまう事になり、判断を誤る原因になるのだ。確かに、政治家や経営者自身の思想信条、自分の考えに近しい系統から情報を得ると、自身の考えと一致しやすく、ある意味の心地よさが得られるだろうが、この様な場合の多くは裸の王様化してしまう危険性が高い。従って、文系的な情報をインプットとして活用する為には、真っ向対立する異論含めて多くの情報を多系統から求めなければ、総合的に判断することが出来ない。それが出来ないで偏ってしまうぐらいなら、初めから自身の思想信条、考えに則って他の情報を持たない方がむしろ良い。
 一方で、理系的情報を得るとどうなるのか。理系的性格上、正か誤か、その度合いを数値で表現するなど、情報としては明確になってくる。否定しようのない情報であふれるはずだ。しかしながら、現実に打つべき手が、その事に全面的に沿う必要があるかというと決してそうではない。何故なら、求めた情報の方向性においては真実であろうが、現実世界は多極面が存在する複雑化した社会である。実際に打つ手も、1か0かではなく、バランスが求められる。そのバランス感覚は政治家、経営者の手腕に委ねられるのだ。但し、絶対的事実の情報があれば、バランスが取れた判断に役立てられるのである。

 こうやって考えると、政治や経営で政策判断、経営判断の助けになる情報を取得する方法としては、基本的には理科系面の情報取得が必要不可欠だろう。やはり、客観的情報としては理系的な情報が望ましいと言わざるを得ない。少し、幅を広げても数学、統計的解析の経済まで広げても良いが、何が正か判然としない個々の思想が前面に出る法律系、政治系は情報としては偏ることを織り込む必要がある。人文科学的な情報は、アウトプットされる提言ではなく、その経緯の議事録、議論内容がなければ情報となりえないと言っても良い。一方向に考えをまとめ上げる事を求めているのではなく、両論を公平に聞きたいのであり、一方を封殺する様では採択できる訳がないのだ。
 例えば、原子力エネルギーの政策を検討する上での情報を取得する場合、理系的側面では、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーの夫々のエネルギー効率や温暖化ガス排出など多角的な影響面の科学的考察と開発のロードマップ、技術の可能性、安全面や想定リスクなどが情報として得られる。しかし、このことに関して文系的な情報を得ようとすると、イデオロギーを問う様な答えが、正解とは言い切れないにもかかわらず正解の振りをしてアウトプットされてしまう。こんな情報は百害あって一利なしなのだ。いや、言い過ぎたとすれば、住民感情や理解度、説明責任のレベル感などを推し量ることは出来るかもしれないが、事の是非を判断する情報では決してあり得ない。もちろん、最終的には民主主義的手段で決定していくのだろうが、その場合も政治家、経営者の信念で説得する以外になく、おもねる必要はないのだ。ダメだったら、政治家も経営者も進退を伺うだけなのだから。

 さてさて、そうこう考えると、今問題の学術会議はどうだろう。学術会議は政府の諮問機関であるのは誰も疑わないはずだ。しかし、3分の1が自然科学工学系、3分の1が医学薬学系、3分の1が社会科学法学政治学系であり、多くの発言は社会科学系、つまり文系の発信である。この3系統で言えば、母数となる研究者総数に対する比率で言えば、社会科学系は他の2桁下の数でありながら、会議体としては3分の1を占め、発信としては更に全体を牛耳っている印象が強い。これでは正当な判断の為の情報を得ることは出来ないと考えるのが通常だろう。それゆえ、政府は長い期間諮問をしていないのだ。
 この3分野を独立させ、数的にも適正数に配分し、もっと理系的な発信が前面に出る様な会議体にならなければ、政府諮問機関としては機能しないのだ。
 更に加えて言うと、政治家はプロである。そして行政の実行部隊である官僚もプロである。私には、人文科学系の学者がプロとして誇れるのは、自然科学系で言えば理学の分野であり、その実践に当たる工学の分野は、政治家や官僚の領域ではないのだろうか。であれば、人文科学系の学者に敢えて諮問する必要性は無く、あっても情報連携で充分。但し、政治家に絶対的比率で理系が少ないのが実態に見える状況では、自然科学、医学薬学系の学者、専門家への諮問は必要不可欠だろう。

 私は、理科系の人間なので特に強調したいのだが、もう少し理科系の人間を重用し、活躍の場が与えられる社会にならなければ、バランスの取れた判断による、本当の意味での発展にはつながりにくいと考えている。

学術会議問題に関しての検証3

 学術会議問題の本質的な議論が為されず、いや一般に公開されずに、行政改革で幕を閉じる方向に行く可能性が高い。本来的には、政府が公共の場に問題事項を曝け出し、存在自体を叩き潰すシナリオも想定されたが、菅総理は一般の考えをはるかに上回る、したたかさと、ある意味でのやさしさと妥協点を示して、あるべき姿に少しは近づけようとしつつ、負の部分も許容する方向性に見える。
 一般国民は、冷静に事の終止を見極める必要があるだろう。そうすれば、マスコミ、特に電波系の報道が如何に偏っているかと言うことも再認識できるだろう。

 では、この問題の本質論に迫るために、学術会議たるものの歴史的経緯を振り返ってみよう。

 設立は1949年、日本がまだGHQの占領統治下にあった時代である。従って、学術会議の制度設計には占領軍が深くかかわっていた。憲法で日本を武装解除し、軍需産業は解体、軍事技術を持てない様に監視する考え方が深く入り込んでいる。学術会議は総理府の機関として内閣に直属させ、会員は公選制としたが、武装解除という占領統治下の考え方、呪縛からは解放されなかった。戦後と言う特殊な時代環境下において、総理府の菅活力は弱く、共産党の支配体制が完成したのだ。公選制であったため、修士以上の研究者は誰でも投票でき、全国組織運動が盛んな共産党支持者を動員して多数の会員を確保し続けたのである。

 この様な状態で学術会議は、1950年に「戦争を目的とする科学研究には絶対に従わない決意の表明」の声明を出すなど、極左的な活動に終始し、政府の諮問機関として機能しなくなった。つまり、設立当初から諮問機関としての客観性のある機能は発揮できていないのである。

 この状態を是正するために、1984年に学術会議法が改正されたのだ。それが話題にあがる中曽根康弘首相時代である。その主要改正内容は、会員の選出方法が学会推薦に変わったことだろう。この公選制から推薦制に変えることは大きな改正であるが、同時にある意味ある種の取引として、推薦者を全員任命するという発言があったのだろう。しかし、それでも本質的な問題は解決しなかった。その後も共産党系の会員は前任者が後任者を推薦する仕組みの中で、一定の割合を確保し続けるとともに、各学会のボスが研究費の配分を行う場になってしまったのだ。
 その結果、2001年の省庁再編で科学技術会議が内閣府の総合科学技術会議になって、政府諮問機関としての役割を果たすようになった。学術会議は、業務重複の問題を抱え、総合科学技術会議の中に学術会議改革委員会が設けられた。
 2003年にアカデミーとして政府から独立した組織にするべきとの改革案が出されたが、学術会議は拒否した。その際に、会員の選出を学会推薦から会員の推薦に変更されている。その後も独立性を高める提案に対して、学術会議は拒否を続け、政府は2007年以降、諮問をしなくなり、名実ともに政府の諮問機関として機能しなくなったのだ。

 2017年に「軍事的安全保障研究に関する声明」を発出し、全国の大学・研究機関に呼びかけ、京大などの多くが軍事研究を禁止した事は広く知られている。実は、この声明自体は、僅か12名が出席する場で決定され、総会には報告のみされるだけで、日本学術会議としての正式文書となったのだ。この12名の中には、安全保障問題に関する専門家は存在せず、政治思想を専門とする政治学者が1名いただけであった。つまり、科学者の創意といえる声明では決してなく、優れた研究又は業績がある科学者による自身の担当する分野における意見でもなく、門外漢の非科学的、政治思想の偏ったものと言っても差し支えの無いものだったのだ。
 前述の声明の詳細文書作成は、「安全保障と学術に関する検討委員会」が対応したが、このメンバーは、先の声明で唯一の政治学者が委員長を務め、参加した社会学者3名中2名は共産党系の組織「科学者協会法律部会」の元理事である。
 この声明発出後、「軍事的安全保障研究声明に関するフォローアップ分科会」が設立され、先の組織から連続して就任した共産党系組織の元理事の2名が、継続的にフォローを実施。一部報道で伝えられている、自粛警察の様な活動で軍事的安全保障研究に含まれうる研究への参画を禁じてきたのである。

 ここまで見ても日本学術会議なる組織が、客観的公平性を保持した活動をしているとは思えず、政府の諮問機関としての機能は一切果たしていないことが理解できるだろう。
 学術会議が改革を拒否して一貫して守ってきたのは人事の独立性ではなく、内閣直属機関としての権威であり権益であろう。学術会議の年間予算は10億円と言われているが、その額の問題ではなく、科学研究費補助金の審査委員を選ぶ権限や科学技術予算配分の権限などを有するのであり、今年度予算規模でいうなら、科学研究費補助金は2300億円、科学技術関連予算は4兆3000億円と巨額の権益なのだ。
 先の軍事研究禁止の声明も、学術会議の政府機関としての位置付けによる権益がなければ、何の強制力も持てず、話題にすらならなかったのではないだろうか。

 会員の選出に関しても、「優れた研究又は業績」が必要条件となっているのであり、各科学者の選出条件となった研究や業績の分野における活動に制限されるべきだろうが、実態はその科学的研究・業績の領域ではなく、政治信条・思想面が前面に出して、他の領域へ干渉する活動に終始しているのであり、とても正当な活動とは言えない状態なのだ。例えれば、プロ野球の一流選手が、将棋界の運営に口を出すことを平気で行っている様なことではないだろうか。確かに、プロ野球の一流選手は、その道では一流だろうが、門外漢の分野に対しては、他の素人と何ら変わらず、ましてやそこに政治的思想を入れ込んでくる様では健全であろうはずがない。

 今回の騒動は、共産党機関紙である赤旗から抗議が始まった。そこに、政府攻撃の具として飛びついた立憲民主など野党が声高に「学問の自由に関する政府の不正侵害」「政府の違法行為、違憲行為」と攻撃を始めた。マスコミも同様、電波系を中心に政府攻撃ネタとして伝え続けた。途中から雲行きが怪しくなったと感じたマスコミは、説明責任を攻撃のネタに変更しているが、多くの左派知名人は未だ「学問の自由」「違法違憲」を叫んでいる。野党は国会でどんな無理筋の論理を展開するのだろう。

 しかしながら、ここまで見てきた学術会議の活動を見る限り、科学者による学問、研究の場ではなく、極めて政治的な活動をする組織になっている。その会員が科学者であるというだけで、その実は政治活動である。
 しかし、構成会員の多く、いや日本における科学者は決して全て左派思想者ではない。それどころか、多くは純粋に科学技術を追求する学者なのである。実は、多くの科学者は、現在の学術会議の運営状態に問題意識を持っており、自らの研究を進めるために仕方なく事を荒立てていないだけの被害者も多いのである。即ち、健全な活動に改善するポテンシャルは十二分にあるのだ。

 コロナ禍における専門会議でも話題になったが、専門家会議の役割はあくまで専門的知見、知恵の結集であり、それによって未来に起こり得る事態の予測や対応策を提言としてまとめることであり、それを受けて政策判断をして実行するのは、あくまで政治の役割である。

 科学技術に関する国家予算配分は、あくまで政治の役割である。国家としてどの研究に力を入れるのか判断するのは国家戦略なのだから。同時に、政府諮問機関としての機能を維持するためには、政治主導の任命権が無ければ成立しえない。学問を民間が、一般的に行うのは自由で独立すればよい、産学共同などスポンサーを募っての活動は自由だ。だが、あくまで政府の政策を検討する上での諮問を受ける組織としては、政治介入が必要不可欠である。そして、その正当性は民主主義によって保たれなければならないのだ。

 科学技術が人類の発展に寄与することは人類の歴史が証明している。しかし、使い方を誤ると人類を不幸に陥れることもある。正と負の遺産、双方を冷静に考えて、凡その結論は、科学技術の発展を停止させるのではなく、更に発展させ、使い方を誤らない工夫をするというのが基本的な考え方ではないだろうか。つまり、科学技術を発展させる分野の選別ではなく、分野自体は幅広く研究を推進する。これこそが学問の自由である、そして成果の活用に関して方向性を吟味する仕組みを検討する。従って、軍事研究であろうとも積極的に推進すべきであり、それを戦争抑止の平和目的にしか使えない様にする政治政策、いわゆるシビリアンコントロールが必要になるのだ。その政策は、ある特殊なイデオロギーにのみ委ねられるものではなく、民主主義的手段によって判断されなければならない。

 以上の様に考えると一つの提案が生まれてくる。まず、学術会議なる組織は、3つに分割、別組織化するべきであろう。一つが、自然科学・工業技術系、一つが医学薬学系、最後に社会人文科学系。それぞれ3系統は、独立し、相互に干渉しない。あくまで、専門分野における、政策提言、政府の諮問機関として機能する。組織の会員は、会議側からの推薦を幅広く実施し、推薦理由や実績も含めて公開し、その中から政府により分野や期待するべき分野のバランスなどを加味して選定し任命する。その任命理由も公開する。当然ながら、諮問内容や政策提言内容などは公開する。民主主義的なシビリアンコントロールを発揮して、科学技術の発展を政策に利活用する、最大にして最適な方法論と思えるのだが、いかがだろう。

 菅総理と梶田現会長との会談が行われた。恐らく、内々には収束していくだろうが、一部の抵抗勢力は抵抗を続けるだろう、場外乱闘として。梶田会長ご自身は、自然科学の分野に属する物理学の教授であり、常識的な理屈は通じるどころか論理思考に長けているはずなので、共通の落としどころに向かえるだろう。それでも続ける抵抗、抵抗勢力の背景を見れば更に、この問題構造が見えてくるだろう。科学技術、学問ではなく、イデオロギーを優先する一定の層と政争の具として攻撃ネタにしか考えていない野党、政権監視という大義名分を振りかざした単なる批判拡散のマスコミに限られてくる。今後、国会や報道でも揚げ足取りの追及が繰り返されるだろうが、その中身は冷静に見極めるのが国民の役割だろう。

学術会議問題に関しての検証2

 本件に関して、私は勝負あったと断じたのだが、いまだに反対の政府攻撃は収まらない。ネットでの誹謗中傷論は、ひと時も休むことなく多くの学者や専門家などから続けられていたが、電波による攻撃は一時静かになった。しかし、総理の105人のリストを見ていないと言う発言を境に、電波でも再燃した様に感じる。これは、あたかも沈静化しそうだったのを、再燃させるべく一石を投じたと見るのは私だけだろうか。

 リストを見なかった発言で、左派系野党議員は声を荒げて、違法行為とまで言っているが、本当に違法だと思っているのなら法廷に持ち込めばいい。本音では、違法行為ではない、少なくとも法廷で違法との判決を得られるとは思っていない証拠であり、政争の具としてあら探しをしているだけにしか一般的には見えない。例え告訴しても、勝訴を目的としている訳ではなく、世間に対する印象操作でしかない。

 リスト全体を見ていなくても違法でもなく、無責任でもないことは、仕事の仕組みが理解できていれば分かることだ。推薦に対して、責任部門が指示や方針に基づいて、全体リストを精査し、結果を説明して承認を得る。至極当然のワークフローである。何の問題もない。

 わざわざ、菅総理がこのことを情報として流したことに意図があると考える方が素直だろう。元々、任命理由に関して必要以上の説明を避けている、これも意図的だと感じる。

 分かっている人間が考えると、推薦理由が疑わしいリストに対して世間が納得できる推薦理由を学術会議側が説明出来ていない。『優れた研究又は実績』という理由を尤もらしく語っているが、その説明に当てはまる科学者は日本国中で105人以外に相当数存在するはずだ。従って、105人の推薦理由を『優れた研究又は実績』で説明すること自体間違っている。それはあくまで法的に定めた基準であり、理由ではない。
 『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』も確かに曖昧で、99人の任命理由として弱いのは事実だろう。だが、人事のことは詳細にできないという理由も尤もであり、何より、推薦理由と並べて同じレベルで語っているのである。そこがポイントであり、ある意味罠だろう。

 推薦者リスト自体が偏っている、と言うよりは学術会議の存在そのものが偏っている。従って、ここに手を付けたいが、抵抗勢力は強力で、一般国民の信任も簡単には得られない。学問の自由、言論の自由と言う大義名分で攻めてこられると、理性的・論理的な議論にはならず、感情的な陰謀論に終始してしまう。

 そこで、任命を99人に絞り一石を投じ、学術会議からの攻撃を敢えて受けているのではないだろうか。想像ではあるが、総理からの指示で定員以上のリストが出てこなければ、一定数の除外者を出せと。その除外する考え方として『総合的・俯瞰的』を指示したと考えられないだろうか。その目的は、はっきり言って、6人を拒否したというよりも任命権が内閣側にあることを意思表明することであり、一部のマスコミが言う様な反政府思想者の除外ではない。それは、99人の中にも相当数反政府思想者が含まれているのだから成立しないのである。

 そして、論理的に、法的に誹りを受けない最低限の発出に抑え、敢えて攻撃をさせている。それにより、馬脚を現わさせる。実際に、学術会議に参加している学者からの攻撃は目に余る酷さがある。一般の人が聞いてどう感じるだろうか。正直私が感じるのは、『上から目線の常識知らず』『自分の思い通りにならないことは他人の責任』『自分の学問の自由、自分の許さない学問に対する制限』『何様のつもり』など、世間常識を逸脱する、ある意味一国の政府に対する誹謗中傷の暴力的な暴言は聞き苦しいほどだ。学者先生の身勝手であれば、まだ百歩譲って笑って許せても、国家反逆とも取られかねない件も多く耳にするのは如何なものだろう。

 この様な実態を世間に詳らかにして、世論に問題提起をしようとしているのではないだろうか。

 確かに、6人を拒否した理由の説明を求める声は大きいだろう。それに詳細を応えないことは、国民の理解を得られないリスクも高い。しかし、それ以上に、この組織の実態を晒して、そうせざるを得ない現実を理解してもらう方が、構造改革には近道だろう。身を切らせて骨を断つだ。

 本当の意味での学術会議に求められる社会的責任は重い。学問の自由などではなく、国家として行く末を誤らないための、多方面からの検討、検証の機関として、聖域なく追及してもらう必要がある。その機能が、この様な偏った反政府組織になっていては国家としてのリスクである。
 学術会議から遠い学者たちも加えた、本当の意味での組織体とする為には、大なたが必要だろうし、次の総選挙の争点でもあるだろう。

日本学術会議問題の論理検証

 学術会議問題に関しての検証

 内閣総理大臣による任命拒否に関して問題視をする報道が圧倒的に多いが、聞く側の国民は、感情的にならず冷静に事実関係を正確に検証する必要がある。

 まず、任命拒否の法的裏付けに関して。日本学術会議法によると、『日本学術会議が内閣府令で定めるところにより内閣総理大臣に推薦し、その推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する。』とある。つまり、推薦に基づかない任命は出来ないが、推薦者を全て任命しなければいけないとは書いていない。大昔の中曽根総理の答弁が任命は形式的だと述べているかもしれないが、大昔であり時代は変遷しており、学術会議の活動自体も様変わりし、関連法も変遷している。何より。直近で推薦に基づいて全て任命する義務までは無い、という法制局の解釈文書も提示されている。従って、任命拒否に関して、なんら法的に問題は無い。
 逆に、ここまで明確な状態で、違法と言う人達は、法治主義を根底から覆す、自分の都合のいいことは合法で、政府を責める際は何でも違法と言う、あまりの稚拙さを露呈してしまう。

 次に、独立性の問題に関して。これも同様の日本学術会議法によると、『日本学術会議は、独立して〇〇の職務を行う。』とある。つまり、会議組織の独立性を担保するのではなく、職務の遂行に関して独立性が担保されていることになる。そして、会議自体に関しては、それよりも上位条項に『日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。』と明確に記されている。つまり、内閣総理大臣が所轄する組織の定められた任命権を行使することに、何の問題性も感じられない。

 ここまでの法的な位置付けに関して、実はよく練られた絶妙の民主主義的統制が効いていると感じるのは私だけだろうか。日本学術会議法に目的として記述されている『科学の向上発展を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする』を考えると、会議を組織する会員は、一定の民主的統制が必要だが、一般人の選挙では選定は困難なので内閣総理大臣の任命としつつ、行政府の恣意的な暴走を抑止するために、あくまで推薦を会議側から実施して、その中から任命する。つまり、内閣総理大臣には拒否権はあっても、人を指名することは出来ないのだ。

 学問の自由を侵害するという論は、あまりに論理が飛躍し過ぎていて説明の必要は無いだろう。間接的に忖度が起こって、学問の選択の幅が狭まるという遠い論理もあるが、学術会議会員に何らかの既得権益でもない限り、会員になることを目的とした忖度行動などあり得ないのではないだろうか。ここを、あまり強く言うと、裏においしい既得権益があると勘ぐってしまう。国庫負担の10億円を運営経費が6割締め、個々人の会員に特典がある訳ではないと強調されていたが、そんなことは問題でなく、経費であろうと国費を使っており、独立したいのなら本当に独立して民営化すればよい。その場合運営経費も勿論賄う必要がある。そういう表向きの経費ではなく、裏の既得権益構造がもしもあれば、それこそが問題視されるべきで、正当で客観的な職務遂行に妨げがあり得るのだ。

 さて、そうやって考えると任命拒否に関して唯一残る問題性は、『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した。』とする総理の判断基準の説明責任だろうか。しかし、これまでの考察を経た上で言わせて頂くと、任命拒否の説明責任の前に、推薦理由の説明責任の方が先だろう。推薦は、『優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補を選定し、内閣府の定めるところにより推薦する』とあるのだから、大勢候補者を選定した後に、推薦者を絞っているのであり、その絞り方に『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』が存在するかが焦点である。
 学術会議側は、女性活用などのバランスを強く言っているが、本当にバランスがいいのか。念のため名簿を確認してみた。
 今回任命されなかった6名は、法律学者、思想学者と人文系である。では他に、同じカテゴリの人文科学者がどういう構成で存在するのか。継続会員で同じカテゴリが8名に対して、新規会員が7人。もし、6人もそのまま任命していると、13人と多くなり、バランスが崩れ半数に絞ったと考えると辻褄は合わないだろうか。少なくともバランスが崩れているのは事実だ。
 そして、カテゴリ分類して分かったが、情報系の学者が、継続会員は10人規模で存在するのに、今回の新規会員には3人しか存在しない。デジタル推進を改革の目玉に掲げている状況であれば、通常の感覚であれば情報系の学者が今までよりも増員しても良いぐらいだが、現実は大幅減なのだ。
 これは、バランスを欠いた推薦と判断されても仕方がない。本来であれば趣旨に合わせた、情報系の会員の推薦を託したいところだが、そこまでは踏み込めないぎりぎりの任命拒否ではないだろうかとの仮説が成立する。そこまで議論を始めると、会議のあり様から見直す必要がありそうだ。

デジタル化の波

 デジタル化推進に政府が大きく舵を切った。
 積年の課題であるが、コロナ禍による影響で、少しは世間に必要性が訴求され追い風が吹いている今こそ唯一無二、絶好のチャンスであろう。

 この課題は、何十年も前から目指すべき電子政府という目標があったにもかかわらず、抵抗勢力の影響だろうか、遅々として進まなかった。ナショナルIDも複数回チャレンジしてきたが、政府が悪の化身であるかの様な言い方で、政権政府に情報を握られることで、悪用されるリスクを誇張し続け、一般人の不安を煽り続け、実現を遠ざけてきた。
 マイナンバーは、何度目のチャレンジであろうか、恐らく今回のチャレンジで浸透ができなければ、先進国で唯一ナショナルIDが運用されていない劣後国のレッテルが貼られるだろう。

 デジタル化の課題は、難しそうでありながら、実はグランドデザインとしては、至極簡単なのである。縦割り行政が問題視されているが、正直言って縦割り状態でのデジタル化は可能なのである。ただ一つ、横串を貫く、データ連携設計を基に、基本設計基盤に各所から接続するインタフェースの形さえ作り上げれば良い。無理に縦割りを連結して、個々のシステムの自由度を奪うのでは、様々な逆の弊害も出てくるのである。
 従って、デジタル庁のあるべき姿としては、機能としてはクラウド・データセンター機能に特化する形が理想的であると考えられる。そうであれば、各省庁などの個別特有な業務に適したアプリケーションの対応が可能になる。縦割りの良さを活かしながら、横串が刺さった一気通貫の仕組みが出来上がるのである。

 それでも、いまだ抵抗勢力は根強く存在する。

 抵抗勢力は、今後も無意味で非論理的かつヒステリックに不安を煽り続けるだろう。その最近の例で言うならば、ドコモ口座などの不正出金被害にかかわる報道だろう。伝え方として、便利を追求すると、セキュリティリスクが高くなると言い切っているが、これは根本的に間違っている。便利さと、セキュリティは両立を目指せるのであり、その障壁となるのはコストなのである。

 不正出金の件の問題は、やるべきセキュリティ対策を怠ったことが主要因であり、基本的な2要素認証や2段階認証による接続と本人確認を行えば、問題なかった。更に、その先には、マイナンバーカードの電子証明書を本人認証として利用する様になってくれば、更にセキュリティ性は向上する。つまり、利便性を保ったまま安全な運用が可能になるのである。

 技術の進歩を享受するには、その技術の使い方が重要なのである。使い方を誤れば技術は宝の持ち腐れになるが、使い方を間違わなければ、宝となり、宝が次の宝を生み出す効果も期待できる。しかし、使い方を間違わないためには、初期コストの投資が必要になる。不正出金の問題は、この初期投資を目先の利益のため、嫌がった結果に他ならないだろう。
 この初期コスト、投資は、新しい技術による便利さの享受と言う大きなリターンがあり、経済的にも確実に投資回収が出来るのである。

 もう一つ、大きな抵抗勢力の反論は個人情報漏洩のリスクであろう。しかし、危機感を煽る言い方に、個人情報が何たるものかと言う基本的な知識の欠落すら感じるのである。
 結論から言おう、デジタル化を推進し、マイナンバーカードの利活用を拡大することで、個人情報漏洩のリスクも間違いなく低減できるのである。

 マイナンバーカードを落としても顔写真や基本情報の漏洩はあっても、それ以上の機微情報などの漏洩のリスクは極めてゼロに近い。マイナンバーカードには必要以上の情報が入っていないし、使用も出来ないのだから当然だろう。しかし、マイナンバーカードの電子証明書利活用が拡大しなければ、アクセス先である各省庁に存在するデータの脆弱性は高まり、漏洩リスクが高くなるのである。などなど、実はデジタル化を推進すれば、必要なセキュリティ対策さえ実施してあれば、安全性が高まるのである。確かに、必要なセキュリティ対策の実施有無による、リスクの差はデジタルの場合大きくなるのは疑い様は無いが、適切なセキュリティ対策を運用すれば全て解決するのだ。

 縦割り組織の最大の良さは、情報が分散することで、漏洩リスクを最小化出来ること。縦割り組織の短所である、情報連携、効率的な横連携は、デジタル化基盤の構築で解決できる。そして、安倍政権時代に野党から攻撃を受ける最大のポイントであった文書管理の問題も、デジタル化でアーカイブすることで解消できるのである。

 コロナ禍がもたらした、千載一遇のチャンスを活かして、遅ればせながら先進国並み、いや一気に最先端のデジタル・トランスフォーメーションを反対勢力に臆することなく、全力で進めるべきである。