デジタル化の波

 デジタル化推進に政府が大きく舵を切った。
 積年の課題であるが、コロナ禍による影響で、少しは世間に必要性が訴求され追い風が吹いている今こそ唯一無二、絶好のチャンスであろう。

 この課題は、何十年も前から目指すべき電子政府という目標があったにもかかわらず、抵抗勢力の影響だろうか、遅々として進まなかった。ナショナルIDも複数回チャレンジしてきたが、政府が悪の化身であるかの様な言い方で、政権政府に情報を握られることで、悪用されるリスクを誇張し続け、一般人の不安を煽り続け、実現を遠ざけてきた。
 マイナンバーは、何度目のチャレンジであろうか、恐らく今回のチャレンジで浸透ができなければ、先進国で唯一ナショナルIDが運用されていない劣後国のレッテルが貼られるだろう。

 デジタル化の課題は、難しそうでありながら、実はグランドデザインとしては、至極簡単なのである。縦割り行政が問題視されているが、正直言って縦割り状態でのデジタル化は可能なのである。ただ一つ、横串を貫く、データ連携設計を基に、基本設計基盤に各所から接続するインタフェースの形さえ作り上げれば良い。無理に縦割りを連結して、個々のシステムの自由度を奪うのでは、様々な逆の弊害も出てくるのである。
 従って、デジタル庁のあるべき姿としては、機能としてはクラウド・データセンター機能に特化する形が理想的であると考えられる。そうであれば、各省庁などの個別特有な業務に適したアプリケーションの対応が可能になる。縦割りの良さを活かしながら、横串が刺さった一気通貫の仕組みが出来上がるのである。

 それでも、いまだ抵抗勢力は根強く存在する。

 抵抗勢力は、今後も無意味で非論理的かつヒステリックに不安を煽り続けるだろう。その最近の例で言うならば、ドコモ口座などの不正出金被害にかかわる報道だろう。伝え方として、便利を追求すると、セキュリティリスクが高くなると言い切っているが、これは根本的に間違っている。便利さと、セキュリティは両立を目指せるのであり、その障壁となるのはコストなのである。

 不正出金の件の問題は、やるべきセキュリティ対策を怠ったことが主要因であり、基本的な2要素認証や2段階認証による接続と本人確認を行えば、問題なかった。更に、その先には、マイナンバーカードの電子証明書を本人認証として利用する様になってくれば、更にセキュリティ性は向上する。つまり、利便性を保ったまま安全な運用が可能になるのである。

 技術の進歩を享受するには、その技術の使い方が重要なのである。使い方を誤れば技術は宝の持ち腐れになるが、使い方を間違わなければ、宝となり、宝が次の宝を生み出す効果も期待できる。しかし、使い方を間違わないためには、初期コストの投資が必要になる。不正出金の問題は、この初期投資を目先の利益のため、嫌がった結果に他ならないだろう。
 この初期コスト、投資は、新しい技術による便利さの享受と言う大きなリターンがあり、経済的にも確実に投資回収が出来るのである。

 もう一つ、大きな抵抗勢力の反論は個人情報漏洩のリスクであろう。しかし、危機感を煽る言い方に、個人情報が何たるものかと言う基本的な知識の欠落すら感じるのである。
 結論から言おう、デジタル化を推進し、マイナンバーカードの利活用を拡大することで、個人情報漏洩のリスクも間違いなく低減できるのである。

 マイナンバーカードを落としても顔写真や基本情報の漏洩はあっても、それ以上の機微情報などの漏洩のリスクは極めてゼロに近い。マイナンバーカードには必要以上の情報が入っていないし、使用も出来ないのだから当然だろう。しかし、マイナンバーカードの電子証明書利活用が拡大しなければ、アクセス先である各省庁に存在するデータの脆弱性は高まり、漏洩リスクが高くなるのである。などなど、実はデジタル化を推進すれば、必要なセキュリティ対策さえ実施してあれば、安全性が高まるのである。確かに、必要なセキュリティ対策の実施有無による、リスクの差はデジタルの場合大きくなるのは疑い様は無いが、適切なセキュリティ対策を運用すれば全て解決するのだ。

 縦割り組織の最大の良さは、情報が分散することで、漏洩リスクを最小化出来ること。縦割り組織の短所である、情報連携、効率的な横連携は、デジタル化基盤の構築で解決できる。そして、安倍政権時代に野党から攻撃を受ける最大のポイントであった文書管理の問題も、デジタル化でアーカイブすることで解消できるのである。

 コロナ禍がもたらした、千載一遇のチャンスを活かして、遅ればせながら先進国並み、いや一気に最先端のデジタル・トランスフォーメーションを反対勢力に臆することなく、全力で進めるべきである。

セキュリティを守る『組織風土』

 組織の構成員がモチベーションを高く保てない状態では、その組織は良い結果が出せないだろうし、一時的に無理して出していくと、その歪は大きな危機的現象を生みかねない。
 最も軽い現象は、組織員の脱退、会社なら退職。何らかの事由で、それも困難な場合、組織内犯罪、内部犯行、ハラスメントと組織の腐敗に向かって一直線に進んで行くだろう。

 セキュリティ・マネジメントの世界で、昨今強く言われるのが、組織内犯行を防止、組織員を疑う、いわゆる『性悪説』による対策の推進がある。しかし、はっきり申し上げるが、『性悪説』を究極に追及する体制において、実はセキュリティは守れないという矛盾が発生する。セキュリティの世界、いたちごっこであり、攻撃と守りは常に進歩しており、終着点は無い。
 組織内において、『性悪説』を基に、何もできない様に雁字搦めの状態では、仕事は出来ず、それが不必要で無意味に厳しい場合、モチベーションの低下とともに、つい出来心を起こさせてしまう環境となる。バランスが必要なのだ。
 簡単に言えば、『性悪説』の究極の対応は、人に何もさせないこと、なのだ。何もさせなければ、何も悪いことはできない、間違いも起きようがない、しかし、何も価値も生み出せないだけである。

 だからといって、セキュリティ度外視、ゆるゆるの状態では、これからの時代、サイバーセキュリティや情報セキュリティは他人事ではなく、明らかに攻撃の手段は高度化している。また、社会的風潮も、セキュリティ面での不正が発生した場合の社会的制裁は厳しく、機密情報漏洩や個人情報漏洩などが発生した場合、経営は危機管理状態に陥ることは間違いない。
 危機管理対応として最も重要視されるのが説明責任だが、発生した事象が何が原因でどうなったのか、その問題点は何で、どう再発防止策を採るのか、明確にかつスピーディーに説明する必要がある。
 この説明責任を確実に果たせれば、逆に信頼を勝ち取ることにもつながるが、説明できないと最悪の事態に突入だろう。ゼロリスクは、あり得ないので、インシデントを100%防ぐことは出来ない。如何にマネジメントできるかが重要であり、説明することで、そこまで対策していたのなら致し方ない、と思ってもらえる要点が『性悪説』を前提にした対策なのである。

 では、セキュリティインシデントを防ぐには、どうすれば良いか。『性悪説』対策でダメなら、何があるのか。

それは、断言しよう、『組織風土』なのだ。

 組織の内部犯行事例をその真因を追求し、考察を続けて行き当たる、答えが『組織風土』である。テレビドラマの様に、悪意を持って犯行に及ぶケースというのは、実はレアケースである。その犯行に対して失うものと、得るものを天秤にかけると到底釣り合いが取れないからだ。もちろん、米国ペンタゴンなど国家機密を取り扱う場合は、一発勝負、天秤は釣り合うかもしれない。しかし、それは一般のレベルではない。
 では、なぜ内部犯行が起きるか。それは、その組織内で、立場や居場所がなくなり、追い込まれ、已むに已まれず、つい犯行に及ぶ。それは、『組織風土』が病むことで、中にいる組織構成員が悪意を持った結果ではなく、負けてしまった結果なのである。人は弱いもの、これを『性弱説』と言う。

 つまり、これからのセキュリティ・マネジメントに求められるのは、発生しうるリスクに対して、説明責任を果たせる対策を実行し、真の意味で事故を発生させない、鉄壁の『組織風土』を構築することに他ならない。

 この『組織風土』を健全に保つために、構成人員のモチベーションの総和を高く維持する必要がある。この場合のモチベーションを測る方法として、モチベーションタイプやマズローの欲求モデルよりも、ハーズバーグの動機付け・衛生理論分析が適切だ。

 ハーズバーグの動機付け・衛生理論は、モチベーションの要素をプラス要因の動機付け要因と、マイナス要因の衛生要因に別けて考える。動機付け要因としては、『達成』『承認』『仕事そのもの』『責任』『昇進』『成長』に分類、衛生要因は、『会社の方針と管理』『監督』『監督者との関係』『労働条件』『給与』『同僚との関係』『個人生活』に分類する。
 各構成員に、アンケートするなどして、この分類ごとのスコアリングを行い、『組織風土』面の問題を洗い出し、対策を打つべき課題をあぶり出す。
 簡単なアンケートで、かなりのレベルのスコアリングがはじき出せるので、対策前と後の変化を見ることでKPIともなり得るのだ。

最後に繰り返しになるが、組織の弱さの順は
① 悪いことをやれてしまい、ついやってしまう組織
② 悪いことをやりたくても、やれない組織
③ 悪いことはやれてしまうが、やらない組織
④ 悪いことはやれないし、やらない組織
なのである。

感染症に関する情報発出の規制

 8月末電子出版発売を目標に執筆し、なんとか目標達成の8月31日にAmazonのKindle版として発売出来た。題名は『ファクターXの正体:新型コロナウィルス感染症の日本における感染実態_多田芳昭著』。http://www.amazon.co.jp/dp/B08H1JGVYQ

 しかし、発売までに一山二山あって、痛感させられたのが、この旬のネタは有象無象の出所不明、意味不明、論理矛盾の情報があまりにも多すぎるということだ。

 この情報氾濫の結果、現在では、基本的に、公式に発表された情報以外の発出を規制する動きがあり、情報発出は厳しい状況である。そのため、本書も当初は発刊を断られていたのである。確かに、情報氾濫による混乱を起こさせないためには必要なのだろう。しかし、その判断基準が不明である。想像でしかないが、医療系の肩書のない人間からは基本的に内容確認などせずに、いい加減な内容と勝手に判断されて審査さえされない。ましてや、無名の著者の著作物であれば相手にしないのだろう。

 今回発売した『ファクターXの正体』は、使っているデータは、厚生労働省や都道府県の公式データであり、そのデータを冬から蓄積し、独自に集計したものである。加えて、医大や研究所、マスコミなどの公式発表データも参考にしている。その上で、著名人の説や、論文などの考え方も検討させて頂いている。統計処理自体は著者の独自視点も加わり、論理展開して仮説を立て、検証するという極めて科学的なアプローチを主とさせて頂いている。
 つまり、どこからどう言われても、公式でない情報を元にしていると言う謂れはないと胸を張れるのだ。もちろん、科学には反論、異説が存在してしかるべきだが、他の意見を意味もなく排除する姿勢は、絶対に良い状態とは思えないし、科学的ではないのである。
 その結果、再審査して頂き、無事出版にこぎつけられたのだ。

 本書で展開されている説の多くは、一般的には異論があるかもしれない。であれば、議論を戦わせれば良いだけではないだろうか。むしろ、出鱈目な感情論に支配されている事態を憂いて筆を執っている内容なので、感情論で封殺せずに、議論を戦わすことは好ましい事態なのである。

 簡単に申し上げる。諸外国は、日本より桁違いに多くのPCR検査を実施したのは事実である。そして、感染者数・死者数は日本より桁違いに多かったのも事実。この二つの事実を原因と結果の因果関係と結び付けただけである。
 この状態で、多くの識者、モーニングショーなどの報道は、日本でPCR検査を諸外国と同じ様に増やして、徹底検査を実施しなければ、感染を抑え込めないと言う。PCR検査を増やせば感染を抑え込めると信じて疑っていないのだ。これを論理破綻と思わない方が不思議で仕方がない。
 PCR検査は医療目的で医師が診療方針を確定させるために行うのが基本だ。それ以外にも、クラスター対策など濃厚接触者の追跡には有用だろうし、日本ではこの必要とされる検査体制すら整っていなかったのも現実であった。そのための検査体制強化は当然必要である。しかし、諸外国のPCR検査はそこに留まっていない。PCR検査をして安心したい、と多くの人は言うが、検査で安心は決して勝ち取れない。

 常識という枠で、極めて感情的・情緒的に論理矛盾を無理に通す。検査という方法、手段の科学的事実を曖昧にしてしまい、極めて感覚的な安心と結び付けるのは、間違っている。この姿勢に異を唱えたのである。巷で感情的に危機感を煽る情報は、ウィルスや細菌に曝露される状態と感染との違いすらごちゃまぜにされて、時により都合よく使い分けている様にしか見えない。PCR検査は、そこにウィルスが存在することは検出できても、感染の有無は分からないと言っても、聞く耳を持ってすらもらえない。

 本書内では、PCR検査を増やすことによる影響を、様々な視点で分析し、結果としてオーバーシュートに至ってしまうからくりも解明している。それでも、検査を増やさざるを得なかった諸外国の事情を、単純な感染症の視点だけでなく、人間が活動する上での判断の基準となる宗教や文化・文明の影響も考慮して解明している。実は、日本と諸外国を論じる際に、この相違点を考慮しなければならないのだ。
 そして、感染状況の予測として提唱されている『K値』の改良版として『T値』を提唱してみたり、現状のデータの不足、不備から、トレーサビリティシステムやデジタル化運用の考えなども広範囲な視点で紹介させて頂いている。

 論より証拠、一度読んだ結果のご意見を頂き、議論に繋がることを期待しております。http://www.amazon.co.jp/dp/B08H1JGVYQ

部活動の外部チーム化

 教職員の働き方改革を考える上で、部活動が最も問題として取り上げられることが多く感じる。長時間労働の諸悪の根源として、時間外の練習、土日など休日の大会などの引率、指導など。
 文部科学省が改革案としてまとめているのが、休日に教員が関わる必要がない仕組みの整備として、外部チーム化を2023年度から段階的に実施を検討している。
 長時間労働に悩む教員の負担を減らすため、文部科学省が、休日に教員が部活動の指導に関わる必要がない仕組みを整備する改革案をまとめたことがわかった。今後、各地域にある拠点校で実践しながら研究を進め、2023年度から段階的に実施するという。
 そして、時間外労働の問題以外に、指導経験のない教員の負担になっている問題も解消を目指すという。

 改革案では、部活動は「必ずしも教員がになう必要のない業務」として、休日などは「指導に携わる必要がない環境を構築する」
 そのために、地域の活動として、民間のスポーツクラブや地域のスポーツ指導者、教員OBなどの人材を確保して対応する。一方で、指導を継続したい教員には指導出来る仕組みを提供するとのことだ。

 賛否両論あるだろう、事実、長短両面ある。ただ、ストレートに申し上げると、受益者視点に少々欠けている様に感じる。確かに、現時点で問題視されている事項が、教員側の問題ばかりであるから、この地点に帰結するのは仕方がないかもしれない。しかし、この問題の本質は、受益者、つまり生徒達、ジュニアアスリートにとって部活動とは何なのかという視点で考えるべきなのだ。

 この問題を検討する前に、現実を見てみると、各部活動には、外部指導員制度が既に存在し、部活動とは別に、地域のクラブチームも現実に存在し、多くのジュニアアスリートは、クラブチームに所属し指導を受けている。マラソンで日本記録を樹立し、1億円の賞金を獲得した大迫選手も、中学生ジュニア時代は東京都の強豪クラブチームに属して活躍していた。
 一方で部活動は、学校をアピールし、生徒募集の大きな要因になるもので、部活動参加率など、多くの学校が誇らしげに数字を掲げている。生徒側は、内申書に部活動参加、部活動の成績などが影響を及ぼすし、場合によっては推薦すら勝ち取れるのである。生徒側から見ると、前向きに活動したい生徒だけでなく、内申書のため、時間をムダに浪費する生徒も事実存在するのであり、現実は、決して、希望者が前向きに活動するだけの集団ではない。そして、極めつけは、学校側の都合が悪くなると、課外活動という名を逃げ口上に使えてしまう。
 また、別の視点で確認すると、例えば中学生の部活動の全国大会、全中には、中体連に所属した生徒以外に参加資格がそもそもない。つまり、その分野で頑張りたければ、学校の部活に所属しなければならないという縛りがある。
 また、一言でクラブチームというが、その中身は千差万別である。営利目的のスポーツクラブ、強豪チームとして多くの強豪選手を抱えるビッグチーム、ボランティアで細々ながら選手本位で活動するチームなど様々である。

 この様に部活動を改めて考えてみると、教育の場なのか、全生徒に自由に開かれた場なのか、将来の職の技能開発・進学の手段なのか、将来の社会活動における団体行動や共通の目的に向かう意識鍛錬の場なのか、それに伴って、学校の運営責任はどこまであって、クラブチームとどうやって共存するのか。

 筆者はテーマとして、「人が育つ環境」を大きな要素として掲げている。「人は育てるものではなく、育つもの」「人を育てたというのは、指導者の奢りに過ぎない」「人が育つことを阻害する環境要因」「人は自分が見えない、指導者はその人を見る目になれる人」「指導者の仕事は人が育つ環境の構築」などなど

 筆者自身もジュニア時代に自身のアイデンティティ基礎基盤を育成してきた環境として部活動が真っ先に挙げられるし、指導者としてもクラブチームを運営し部活動の外部指導員も担った経験があるが、比較して、ここまで確認してきた現実像は、変わり果てた環境に思えてならないのである。ストレートに、人が育つ環境とは思えなくなってきているのである。

 勝利至上主義を問題視する向も多い。しかし、勝利や、最高の結果を目指して、日々努力すること、チームとして協力し力を合わせることに問題があろうはずがない。結果としての勝利に価値がある訳ではなく、本気で勝利を目指すプロセスに価値があり、人が育つ。適当に目指すだけでは得られないプロセスなのである。個人の努力だけでなく、組織としての活動の重要性を学べる貴重な環境が、勝利を本気で目指す場なのである。

 うやって考えると、部活動がいつの間にか美化され、至高の教育の場として、学校のアピールの場になり、強豪校として結果を出さないとアピールできないから指導者にノルマが課され、学校という生徒たちが3年という限られた期間、短期間で結果を出すため、育てるのでなく、能力の高い選手を集めるスカウトに力が入り、部活動という教育の場とは乖離していった。

 そして、実際に集められた選手は、必要以上に大勢になり、少しぐらいの故障、痛みで休んだ瞬間、チャンスが失われるので無理をして多くの選手が潰れる。3年という短期間で結果を出すため、必要以上に長い時間の練習漬けで、故障しなかった選手だけが生き残る、その様な環境で、教育どころか、多くの選手が潰れていく。
 一方で、強豪校でない弱小校では、結果の成績でアピールできないので、全員参加、参加率アップという成果を求め、部活動の中身ではなく参加することに意義がある状態で、やる気もない大勢の生徒が、いやいや時間を浪費し、その時間に顧問という名の指導しない教員が超過労働となる。この場合、結果を求めないので、外部指導員などに任す予算は付かず、万が一ボランティアの協力を得ることが出来たとしても、前向きな目標以前に教員に課せられる後ろ向きな責任とバランスが取れず、直ぐに破綻する。その様な環境で、たまたま存在する才能ある選手も育つ環境が得られないで、才能を伸ばせない。
 強豪校でも弱小校でも、部活動は人が育つ環境とは乖離していっているのが現実の姿かもしれない。

 この状態で、地域のクラブチームに一定の役割を担わされても、何が解決できるというのだろう。強豪校でも、弱小校でも、何も構造は変わらない。確かに、顧問と呼ばれる、指導する気の無い教員の超過労働は削減されるかもしれない。しかし、肝心の生徒達、ジュニア選手たちの活躍する環境に何の変化もない。それでは全く意味がないのだ。

 極論を言うと、両極端の2通りでしかないだろう。
 地域のクラブチームを主とするならば、学校の部活動は全て廃止、教育の場などという偽りのプライドを捨て去って、あくまで個々の趣向に合わせた活動であり、ある意味習い事の一つとして、全ての大会をクラブチーム主導とするべき。それでも、人が育つ環境としては、現在よりは遥かに良くなるだろうし、個々の選手、生徒が自由に選択できる様になる意義が大きい。
 もう一つの極論は、全て学校の部活動を主とし、課外活動でなく、通常の授業と同じ扱いにする。学校に責任を持たせて、逃げ道の無い、主の活動に位置付けてしまう。超過労働問題は、外部指導員を所謂講師職と同様に一般化することで人材確保して解消することが出来る。地域のシニア世代、定年退職を迎えても元気な人間はこれからまだまだ増える。その人材を再登用すれば良いだけだ。

 筆者は、理想的には後者の学校が責任を持って運営する部活動が間違いなく良いとは思う。しかし、学校側既存勢力の意識改革が必要不可欠になってくるが、実際に可能だろうか。本音を言えば、その程度の意識改革すら出来なければ、学業の場すら、主人公を塾に奪われ存在価値が無くなってしまうのだが。