アイヌ差別発言問題で考える日本における差別問題考

3月12日の日テレ『スッキリ』の番組中で発生したアイヌ民族への差別発言が問題になっている。

発言自体は、なぞかけの言葉遊びの世界であり、当の本人に悪気は無かっただろう事は容易に想像できるが、人を犬呼ばわりする表現は、歴史的事実が無くとも、侮辱されたと受け取られても言い逃れできないだろう。ましてや、歴史的に、和人による支配構造で飼い犬と表現されていた事例などを知っていれば、冗談で済ませられない事は理解できただろう。

言葉遊びのレベルでは、筆者も、『お前のその服はタダ(多田と無料をかけて)か?』と子供の頃よくからかわれた経験があるが、私自身全く気にしなかったので大丈夫だったが、この手の冗談でも受け手によっては、傷つくこともある。許されるかどうかは、相手次第だろう。逆に言うと、公共の電波に乗せた発言としては、多数相手への発信であり、相応しくないとならざるを得ないかもしれない。

しかし、この種の禁句は、無数に存在し、その一つ一つを規制する事は困難だろうし、現実的ではない。従って、ある程度の発生リスクは存在するが、発生した都度、相手を傷つけてしまった事実に対して、丁寧に謝罪する事で対応する以外にないだろう。

一方で、歴史的背景がある等、根が深い問題で控えるべき表現は、本来放送禁止用語などで明確に定義されるべきである。放送禁止用語として明確に定義されている差別表現には、厳しいチェックが出来る。そのチェックにかからず、発信してしまった場合は、前述の言葉遊び以上の責任追及と再発防止策が要求されるだろう。

その様に考えると、今回の事案は、どちらに該当するのだろうか。

発言した当人は、反省の意を示し、謝罪し、今後勉強して償う行動、出来る事があれば対応する趣旨の発信もしている。他意もないことから、個人的には、謝意を受け入れ、雨降って地固まる、で前者の対応で良いのではないだろうか、と感じる。歴史的背景を熟知していれば、教育されていれば、との言質も多いが、それらは、感覚論、感情論に感じる。原理原則の差別問題教育は必須としても、個々の事例、事案の教育は言い出したら際限がなく、その全てに臨場感を以って網羅する事は現実的には不可能だろう。

しかし、日テレは放送事業者として、後者の観点の対策も必要ではないだろうか。確かに、今回の表現は、明確に定義できてはいないし、定義できる種類でもないだろうが、それが責任を逃れる理由にはならない。そこは、一般的な品質保証で必要不可欠な、発生原因と流出原因の観点が必要であり、この場合、流出原因対策が必要なのである。放送事業のプロとして、録画チェックなど、防げなかった原因と再発防止策の説明責任を果たす必要があると考えるべきだろう。

<日本における根深い差別問題の元凶>

差別問題は日本でも現実に存在する。しかし、諸外国のそれと比較すると、異質でレベル感が異なるのも事実である。

私自身の少年期を過ごした住環境は、近くに同和問題の地区もあり、在日韓国・朝鮮人問題の地区もあったので、日常生活、友人関係の中で差別問題が身近に臨場感を以って実感できた。そして、学校の同和教育だけでは、自分事としての臨場感は持てないだろうとも確信している。その証拠に、その後関東地区に転勤で引っ越した際には、周囲にその様な臨場感が感じられなかったし、同年代の人との会話でも、ピンと来ていない様子だったのが印象的であった。知識はあっても、現実感を持っていないのだ。

現在の教育では現実の臨場感、問題意識を醸成する事は困難なのだろう。諸外国では、今もなお、現実に目の前で臨場感を以って差別が行われているのと比較して、ある意味、過去の知識に風化している傾向がある。それ故、知識不足を問題として、教育を対策とするのは必要条件かもしれないが十分条件にはならず、本質的な解決にならないだろう。

アイヌ問題にしても、自身の生活で直面する事は少ないだろう。同和問題も教科書で知識はあっても、実生活での実感を持っていない人が多いのではないだろうか。良い意味で同化し、差別が解消され、風化しているのであれば良いが、臭いモノに蓋をしている事が問題なのではないだろうか。それが諸外国の様に差別が分断も生み、暴力的な社会問題化して、蓋など出来様がない状態とは、違う環境であり、対処は異なる必要がある。臭いモノに蓋の問題は、寧ろ被差別者側からすると、暴力的ではなくても、根が深い問題かもしれないのだ。

即ち日本的な、問題意識を口になかなか出さない、タブー視して発言を憚る事自体が、問題を根深くし、解決から遠ざけていると言うべきだと思う。

<日本人のメンタリティに潜む課題>

欧米社会において人種差別は今でも根深く存在している。日本人も黄色人種として差別の対象であった。『イエローモンキー』『ジャップ』などと侮蔑されて来ていた。しかし、日本国内でその様な差別に対して大きな問題として提起している訳でもなく、赦しの心情、寛容な感情で乗り越えているのが実態だろう。それ故、ユダヤ人に対するホロコーストは国際問題視されるが、日本に対する東京大空襲や2度の原爆投下は、差別問題としては語られておらず、事実検証上疑わしい、南京大虐殺や慰安婦問題、戦時労働者問題等は糾弾され、自虐的反応すら続けている。ある意味日本人は、差別を受ける際も、差別をする際も、鈍感で、いい加減で、お人好しなのかもしれない。

実は、今回の問題を提起する記事をいくつか読んでいて感じたのだが、アイヌ人に対する差別を語りながら、平気で『倭人』と表記しているものも複数存在していた事に違和感を感じざるを得なかった。

諸説あるかもしれないが、『倭』とは中華思想による差別表現であると言っていいだろう。歴史資料として残っている表記であれば(例えば『魏志倭人伝』等)、その通りに記述するべきだが、一般的には差別待遇を乗り越え、独立して勝ち取った『和』という表記が適切ではないだろうか。皆、寛容なので問題視しないが、『アイヌ人』との対象で『倭人』というのは極めて不適切な表現なのである。

筆者自身、前述の被差別地区の方々とも普通に交流もあり、友人関係もあった。その様な関係で、差別の問題もタブーではなかったし、逆差別の問題も話していた。その方が臭いモノに蓋をして臨場感を失うよりも、よっぽど差別問題は解消に向かうと確信している。

即ち、知識の共有は必要だが、それ以上に重要なのは、タブー視して腫物に触る対応を続ける事を止めて、喧々諤々と議論を戦わす事ではないだろうか。時には、度を越えてしまい、誤って相手を傷つけてしまうことがあっても、言うべきことを言って、誤解に対しても誠意を以って認め謝罪しつつ、最終的に分かり合える環境が必要であり、本質的解決に近づくことは間違いないだろう。

また、アイヌの文化の様に、文字を持たず、それ故記録も乏しいが、口伝伝承し継続してきた文化背景、メンタリティを研究する事は、実は日本の根深い問題を検証する為に有効かもしれない。

なぜ恐れる? 変異株

連日の様に、新型コロナの変異株を脅威と言われ続けている。変異株は何が脅威なのか?その事を理解せずに、危機感のみ殊更喧伝されるのは、極めて非科学的な感情論に過ぎないのだが、最近顕著な現象として、多くの人が思考停止し、盲目的に信用することで多数を形成し、排他的に異論を排除し、相手にしない傾向も現れている。信じて主張する当の本人は、正義と信じているのだから質が悪いのだ。この現象は、国家としてコロナよりも危機的であり、警鐘を鳴らし続けたい。

まず、コロナウイルスはRNAウイルスであり変異しやすい。そして、変異が検出されたのは、今回が初めてではない。少し振り返ってみよう。

昨年、一般的に第1波と言われる感染拡大で緊急事態宣言に繋がった3月中旬から始まった感染拡大は、欧州株である。それまで主流であった武漢株が3月初め頃収束に向かい置き換わったのだ。

欧州株は日本に2月下旬から上陸を徐々に始めた。そして、収束に向かう武漢株と入れ替わる形で、感染の主流となり、変異で高まった感染力を背景に、感染の拡大が発生した。変異株が上陸してからおよそ1か月以内に拡大したのだ。

次に、緊急事態宣言後、欧州株が収束状態になり、入れ替わって東京株による感染が拡大し始めている。この感染拡大は、筆者としては独自の説を唱えているが、それはさておき、夏に向けて感染波が生じた。

この様に、日本では、ダイヤモンドプリンセス号、武漢株、欧州株、東京株と変異株を経験している。そして傾向から見ても、同時に多種の変異株が流行するのではなく、入れ替わっていく事も見て取れる。一般的に、ウイルスの変異とはそういうもので、同時に異種が流行ピークを迎える事は無いのである。思い起こして欲しいが、インフルエンザでも、A型とB型は同一シーズンに流行すると言っても、入れ替わる様に流行が遷移している。同じなのだ。

変異株が国内に上陸したのは、昨年末であり、それから2か月以上経過している事と、一旦収束状況にある現在、既に一つの変異株に入れ替わっていても何ら不思議ではない状況である。しかし、未だ複数の変異株が併存していて、拡大の顕著な兆候もない。

即ち、変異株は、警戒は必要かもしれないが、少なくとも日本では脅威を感じる状況ではない。勿論、今後も変異は繰り返されるのは自然現象であり、追跡調査は継続強化するべきだろうが、変異イコール脅威と言うのは言い過ぎだろう。

そもそも、ウイルスの変異とは、ウイルスが生存していくために起こるのであり、宿巣との共存がなければ生存できない宿命上、感染力が上がれば毒性は低くなる。逆に、毒性が強まれば、感染力は下がるのが自然の摂理である。感染力が高く、毒性も強くなれば、宿巣である人間を絶滅させるため、ウイルスも生き残れないのだ。

今後、再感染拡大は起こるだろう。定期的な波を描く事は自然の摂理である。その時期の考え方は複数ある。一つは、既存の株が変異株に置き換わるタイミングだ。もう一つは、何らかの自然現象、例えば時期に起因するタイミングだ。前者であれば、いつ拡大してもおかしくない、否、既に感染拡大して置き換わっている筈なのだ。これは、変異株恐れるべからずと言っても差し支えない。後者の場合、昨年の欧州株の拡大時期、即ち間もなく拡大を示し始める。この場合は、自然現象として一定の拡大はあるだろうが、本来『まん延防止等重点措置』策をタイムリーに打って対処すれば良い。

そうやって考えると、緊急事態宣言は延長すべきではなかった。本来だらだらと長期間実施するべき策ではなく、解除しておいて、変異株の状況を観察し、適時『まん延防止等重点措置』を武器に使えば良かったのだ。複数の変異株が併存して置き換わっていない現実からも、感染が本当の意味で蔓延しているとは言えないのだ。蔓延していれば、各株が市中で遭遇し淘汰されていくと考えて良いだろうからだ。

筆者の論考は、客観的事実関係(事実を示すデータ)を基にした考察が多く、所詮帰納法的な論考に過ぎないとの非難もあるかもしれない。しかし、演繹法的な論考で結論を得ることは、この様な混とんとした状況では困難であり、寧ろ先が見えない状況では、演繹法的な考察に拘ると、現実を無視した誤りに陥るリスクが高い。

現実の数字を、客観的に、比較評価して初めて事実が見えてくるのである。もし、この数字がインフルエンザのものなら、今年の流行は低調であったと評価される数字で、脅威を感じる方が奇怪なのだ。

コロナ禍で進展するDX(デジタルトランスフォーメーション)、活かすも殺すも日本人のマインド改革がポイント

<日本社会はデジタル化後進国である>

日本のデジタル化が遅れている事は、昨年からのコロナ禍で誰の目からも明らかになった。

ナショナルID(※1)は先進国で普及できていないのは今や日本ぐらいだ。日本も今まで複数回トライし頓挫してきた。現在ラストチャンスとしてマイナンバー利活用を目指しているが道半ばである。

感染者数などのトレーサビリティも未だ不充分で、FAX手入力が残存し、データのリアルタイム性や正確性に課題を残している。

スピードが要求される環境下でも、未だに重厚長大なウォーターフォール式開発の発想が捨てきれず、要求品質とスケジュール感がアンマッチした様なシステムトラブル(COCOA等)が増えている。

振り返ってみると日本では、『ものづくり』で最先端を行き『ジャパンASナンバー1』と言われた時代以降、バブルが崩壊し、ロスジェネ時代を経ている内に、諸外国のデジタル化の進展に取り残されてしまい、生産性も低い国になってしまっているのが現実だ。

かつては、グローバル企業として多くの日本企業が君臨してきたが、今や日本企業の影すら見えないのが実態だ。

<コロナ禍は、デジタル化推進の絶好機>

一方で昨年からのコロナ禍の影響で、否応なくデジタル化は進んでいるのも事実だ。数年前から課題となっていた『働き方改革』の一つの回答になる様に、リモート業務が急増している。

筆者自身、多くの移動を伴う業務都合から、移動時の効率を考えたサテライト業務など、予てからリモート対応が日常的であったので、移動が激減しただけだが、多くの人には、根本的な仕事の有り方すら考える変化があっただろう。

この変化がもたらしたものは、『物理的距離の短縮』『物理空間の狭小化』なのだ。

歴史を振り返ってみると、16世紀のマゼランに始まる大航海時代、18世紀の蒸気機関発明による欧米の世界進出、20世紀後半のインターネット普及など、物理的距離を縮める事で、世の中に大きな変革をもたらしている。

21世紀の今、AIや5G、ブロックチェーン(※2)、その先の量子コンピューティング(※3)などの影響は計り知れなく、所謂DX(デジタルトランスフォーメーション)(※4)が時代の潮流になる事は間違いない。

例えば、都心一極集中は必要なくなるのだ。日本国中、どこにいても、仕事の効率が変わらなくなり、場所の概念が無意味になり、移動ロスが極小化する。結果として生まれる時間が更なる消費を拡大する。

その昔、グローバル化が叫ばれた当初、『グローカル(※5)と言う名で地域活性化、地方のグローバル参画の戦略性が語られたが、産地直送程度と成果は限定的だった。今回のDXは、それこそ地方にとっては千載一遇のチャンス、ものづくり企業にとっても新たなイノベーションを生み出す絶好のチャンスなのだ。

そう、DXとは決してデジタルだけで成立するものではなく、デジタルとアナログの融合、バーチャルとリアルの接点にこそ本当の活路が見出せるのだ。地域特性も活かしながら、ものづくりのノウハウを活用し、デジタルを利活用する事が、新たな価値を生み出し、生産性を向上させるのだ。

<日本社会に根強く巣くう課題>

但し、日本がこれまでデジタル化に関して後れを取った反省に立脚しないと、このチャンスは掴めないだろう。では、何故デジタル化は遅れてしまったのか、考察してみたい。

一番大きな原因は、デジタル化しなくても困っていない、裕福で満足しているからだろう。

デジタル化で大きな進歩を遂げた代表格は、エストニア、東南アジア、韓国などだが、これらの国は、デジタル化は国家存続の至上命題の様に、国家も国民も志向し取り組んだのだ。社会システム自体が成熟しておらず、殆ど白地からのデジタルインフラ構築、国家の命運をかけた取り組みだったのだ。

片や日本の場合、既に存在する重厚長大なレガシーと言われるインフラが存在し、まがりなりにも機能しているので、敢えて載せ替えるモチベーションが産まれ難いのだ。

そして、何といっても大きいのが、ゼロリスク信仰の強さではないだろうか。

日本人の行動心理を諸外国と比較する際に、昔からよく使われた例えに、コップ半分の水をどう考えるかがある。日本人の傾向として、コップ半分の水に対して『あと半分しかない』『もう半分だ』と危機感を募らせ、後ろ向きになり、守りに入りがちだ。しかし、グローバル標準は、『まだ半分も残っている』なのだ。この差による結果は、天と地ほど異なる事は、自明だろう。

例えば、ナショナルIDだが、間違いなく個人情報のリスクを過大評価し、適切なセキュリティ対策にも非論理的に耳を貸さず、ゼロリスクを盾に前に進む事を拒み続けている。

個人情報管理は元来、欧州の人権問題意識から発し、OECD8原則(※6)の元、様々な制度と対策を構築し、現在ではGDPR(※7)と言う保護規則を定め、欧州域内のリスク管理体制が確立されている。知っておいて欲しいのは、日本も安倍政権時に、このGDPRの十分性認定(※8)を受け、国際的には個人情報管理体制の確立は認められている。しかし、未だに『マイナンバーカードを落としたらどうするんだ』と無知な質問が繰り返されている。

また、システムは絶対でなければならないと言う、古い信仰が、スピード優先し、試用しながら柔軟に仕様変更するべき事案に対しても、リスクゼロ化を求めるという根本的矛盾による無理がCOCOAの様なトラブルを招いている。

<今こそチャンスを活かすべき>

首都圏で進展するDXは、所詮申し訳程度で最低限に留まる可能性が高い。『物理的距離の短縮』の御利益を得るのは、首都圏ではなく地方である。地方は創生の為に、必要に迫られる環境ではないのだろうか。

例えば、東京五輪と言いながら聖火リレーは全国規模のイベントだ。人が集まるのを恐怖と感じるのなら、バーチャルも並行すればよい。海外からの観客を受け入れないのであれば、その代わりに、バーチャルでご当地を走ってもらうのはどうだろう。リアルの走者の横をバーチャルの走者が走る。アバターでも良い、障碍者でも元気に走れる、パフォーマンスを披露してもらっても良い。全世界参加型の聖火リレーなんて、今までにない概念、大会の一体感を演出できるのではないだろうか。

当然、その中にご当地名産や観光スポットなどの紹介も織り交ぜれば絶大なる宣伝にもなる。新たなビジネスチャンスにも繋がるだろう。

3月25日にその様なシステムは間に合わないだろうが、それでも良い。当初はリアル中心になりながら、アジャイル開発でバーチャルを徐々に組み込み、改善しながら、進化する聖火リレーとして演出すれば良い。当然ながら、開会式や閉会式も同様だろう。

五輪以外にも、ものづくり企業、中小企業は事業拡大、生産性向上の好機である事は間違いない。無限の可能性がある。

この好機をつかむポイントは、『まだコップの水は半分もある』という、ポジティブなエネルギーなのである。

※1;ナショナルID;国民を確実に認識し、国民であることを確認できるデータベースシステム、国民に対して公. 正で公平な行政サービスが実施できる。

※2;ブロックチェーン;分散型台帳とも呼ばれ、高度なセキュリティ要求に対応する基盤技術

※3;量子コンピューティング;従来の0or1判定に加え、3段階にすることで、計算速度が飛躍的に向上する技術、スパコンで1万年かかる計算が数分で可能になる。

※4;DX(デジタルトランスフォーメーション);デジタル技術による業務やビジネスの変革

※5;グローカル;地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方

※6;OECD8原則;個人情報保護の共通した基本原則、1980年に採択され、現在もグローバル・スタンダードである

※7;GDPR;EU一般データ保護規則。EU域外でも広く影響ある、個人情報保護の規則

※8;十分性認定;EU域外の国や地域の個人情報保護が水準を満たしていることを欧州委員会が審査認定する。EU圏とのビジネス交流には必要不可欠である。

Noの論理よりYesの発想

<現状認識>

昨年からのコロナ禍で、朝・昼のワイドショーにおける『Noの論理』のオンパレードが、在宅勤務が中心になり否応なく耳に入ってきた。

朝から晩まで、徹底的に流される偏向情報に多くの国民がサブリミナル効果を受けているのか、余りにも感情的な言動も多く聞こえてくる。他の意見や現実に出ているデータすら見ざる聞かざるで、陰謀論まで展開し、自己の主張を絶対正義と押し付け、異論には暴力的に誹謗中傷まで展開する。両論あるのに、持論に決まっていると非科学的に断定し、両極端に分断が進行している。

元々、日本人は、コップ半分の水を『もう半分しか残っていない』と直ぐに悲観的になって守りに入りがちだ。グローバル標準は『まだ半分もある』と前向きに、半分の資源を使って次の打開策を進める。外圧や上からの指示には、Noと言えない日本人だが、じゃあやってみろと言われても、後ろ向きで自らは踏み出せない傾向がある。

この様な状態でもパレートの法則に則り、前向きな少数が全体を牽引出来ていれば良いが、後ろ向きでマジョリティが形成されてしまうと話が異なってくる。どうも最近の世論形成は、『Noの論理』に支配され、所謂悪しきポピュリズムを生み出す方向に舵を切っている様に感じる。

この事態を目の当たりにし、このままではとんでもないことが起きる。自分に何が出来るだろうかと考えさせられ、偶々、定年に向けてカウントダウン、第二の人生を本気で考える段階でもあり、一念発起、個人事業としてLogINラボ(屋号)を立ち上げ、一石を投じたいと考えた。まだ、この先何が出来るかは、暗中模索状態ではあるが、何か役に立てはしないかと日々考えている。

<回顧録>

思えば、私の人生は波乱万丈と言っていいだろう。『Yesの発想』なくして今の状態はなく、『Noの論理』に絡めとられたら、前進は出来なかっただろう。小学生まで身体が弱く虐められていた少年が、小中高と体育会系でトップとは言わないが、一端のアスリートには成長できた。進路指導の先生に100%不可能と言われた受験を成功させた。社会人になってからも、結果を妥協無く追求する事で、多くの敵を作りつつ、修羅場を乗り越え、成果も人一倍出してきたと自負している。Noという選択肢を持たず、否、歯を食いしばり常にYesと前を向いて、多くの火中の栗を拾ってきた。

新会社の代表職、伸び悩む新事業の製造部門長、日本中物資不足・サプライチェーンが破綻した東日本大震災時の調達部門長、国家の威信をかけた最後のチャンスである国家プロジェクトの受注生産部門のトップ、など、どれも修羅場であった。『Noの論理』に絡めとられる反対勢力と対峙し、組織を活性化し、一定の成果を挙げてきた。

<『Yesの発想』は最も楽な道の選択>

人は精神的に弱い動物で、危機を感じると守りに入る。守りに入った時に、次の前進を前提にすればまだ良いが、前進しない自分を正当化し、後ろめたさを覆い隠すための論理武装を始める。そして、いつしか、当初正当化した後ろめたさを忘却し、前進しない事が正義と本気で信じる様に変化していく。この負のスパイラルは質が悪く、本人は正義だと信じて疑わない。

そして、負のスパイラルは人に伝搬しやすい。脱出しようとする者には同調圧力をかけて、時には暴力的に反対行動を起こす。正義の名のもとに。どこかで、このスパイラルを打ち破り、前進に転ずる事が出来れば、結果は天と地ほど違ってくるのだが、そう容易くない。

私の経験から言おう。『Yesの発想』で前進する事は、一見難しく感じるかもしれないが、一旦ポジティブチェンジが出来れば、実はネガティブ状態より遥かに気分は楽になる。確かに責任は重くなるが、失敗したところで命までは取られないし、皆がNoであれば、失敗してもNoの状態のまま、失敗しても当たり前、マイナスは無い。一方、Yesに転じる事が出来れば大きな成功の果実が得られる。実は、負けて当たり前の状態は、それ以上悪くなることが無い、気楽な状態なのだ。

今、世の中がネガティブに染まり、『Noの論理』が跋扈する状況で、一人でも多くの人が負のスパイラルを断ち切る事が出来れば、日本は凄まじい発展を遂げる事が出来るはずだが、その為に必要な要素は何だろう。それは、そこいら中に転がっているオープンデータを元にして統計データ分析をベースとした、ロジカルシンキングによる真理の追及だと確信している。

<世の中に前向きな成果をもたらす>

真理は一つしかない。しかし、真理には人間如きがそう簡単に到達出来ない。だから、『Noの論理』を入り込ませる隙が出来る。しかし、『Noの論理』には必ず論理破綻、論理矛盾が内在する。それは、真理追及が目的ではなく、Noと結論する事が目的なので、論理がご都合主義に侵されるからだ。

『Yesの発想』も決して傲慢になってはならない。真理は一つでも、そこに至るプロセスには多種多様であり、考察の方向性も様々なのだ。決して、自身の分析・検討のプロセスは唯一絶対ではないことも知らねばならない。100人いれば、100の考え方がある。思想信条は人の数だけあり、それぞれに異なり、尊重されるべき。多様性に寛容である必要がある。

しかし、その100種類の考えから、前向きな『Yesの発想』を活かし、最大公約数を目指せば、大きな勢力となり成果に繋がることは間違いない。異なる意見にも耳を傾け、尊重しつつ、最善と思える意見を示し、粘り強く説得し続ける。継続に不可欠なのが、ぶれない論理性だろう。

『Noの論理』を振りかざし、ポピュリズム手法で、『煽り』『脅し』で扇動する方が簡単で多くの信任を得られるかもしれないが、それでは長続きしないだろうし、結果は悲劇的である可能性が高い。地道で粘り強い『Yesの発想』の追及と普及は、一朝一夕には拡大しないが、一旦定着すれば、根強く正のスパイラルアップを生み出し、大きな力に必ず成長していける。

『Yesの発想』を持ち続け、真理に近づく論理を軸に、小さな一石を投じる事が出来れば、この先の人生も充実できるだろうし、必ず前向きな成果を世の中にもたらすこともできるだろう。

島根県知事の主張、動き方に対して物申す

島根県丸山達也知事の一連の動きが物議を醸している。あたかも五輪反対の様に受け取っている人も多いのではないだろうか。しかし、中身はそうでもないのが実態なのだ。まずは、主要発言を列記し、検証してみる。

「新型コロナウイルス感染症対策の改善・強化がなされないままでは、今夏、東京2020オリンピック・パラリンピックを開催すべきではなく、また、そのプレイベントである県内での聖火リレーについても、中止と判断せざるを得ないと考えております」

漠然と感染症対策の改善・強化と言っているが、具体的に何を示しているのかこの文脈では不明。メディアや根強い五輪反対派(この層はコロナは関係なく反対)は、我が意を得たりと言わんばかりに、五輪反対キャンペーンを強化し、多くの国民は島根県が『五輪反対宣言をした』と誤解している状況だろう。

「東京オリンピックをこういった(逼迫した現状の)事業者(島根県の飲食店)のみなさんが快く受け入れられる状況にはありません

少々首を傾げるのが、島根県は緊急事態宣言の対象ではなく、時短などの要請は県独自の施策であり、本来通常営業をしても良い環境、感染状況ではないのだろうか。緊急事態宣言下の地域との往来、観光事業としてGoToなどを要望しているのだろうか。メッシュ細かくゾーニングして対策するべきだとメディアも専門家も言っているはずだが、全国統一の規制が必要と言わんばかりの、同調圧力に侵されて、県民を苦しめているのは県政ではないのかとも感じる。

「すべてとは申しませんが我々の地域で飲食店が残っていけるような別途の給付金の支給が必要だということで要望させていただいている」「日本の政治とか経済の世界ではルール破り、常識を外れたことをやっていることは分かります」とした上で、「この状況で我慢をしてオリンピックを受け入れるのが国民の義務だとは島根県民の方々には言いがたい

結局、金の無新なのか?

一連の島根県知事の主張に、吉村大阪府知事が共感するとして発信しているのが、

情報はすべて東京目線の発信。島根県知事からすると、地域経済は疲弊していると思う。観光や飲食は打撃を受けていて、全国から人が来ない。苦しい中でこれ(聖火リレー)をやるんですか?社会経済と感染対策の両立を図る、こういうところにもっと力を入れなきゃわれわれはやっていけない、ということでは」

地方が観光事業に立脚した経済基盤で成立している状況からも、地域経済の疲弊には手を打つ必要があるのは、その通りだろう。しかし、首都圏と地方とは、感染状況もその影響も同様に格差があるので、均一化する事は出来ないというより、するべきではないだろう。当然、地域によってバランスのとり方も異なるべきだが、その事を、『五輪反対』『聖火リレー反対』に繋げるのは、無理筋だろう。

これに対して、自民党竹下亘元総務会長の発言は、

「発言は不用意だ。注意しようと思っている」「・・・知事が決めるこっちゃねえだろう」

極めて乱暴に聞こえるし、国民向けの説明ではない為、国民目線では説明不足に感じるが、本質的に言わんとしていることは、地方と国の政治家同士の諫言としては理解できる。別に国から地方に対しての上から目線ではなく、無理筋を窘め、言っている事と求めている事が違うという事を言っているのだろう。

国が新型コロナウイルス対策の財源として自治体に交付する「地方創生臨時交付金」に地方と都市で格差があるのは事実だ。その部分の是正を求めるのであれば、その合理的な必要性を元に具体的な是正案を公に示し共感を得る必要があるだろう。

休業要請せざるを得ない状況があれば、緊急事態宣言発出の要請をするのも一つ。独自の対策の必要性があるのなら、その科学的合理性の説明とそれによる支援要請の具体的な提案。どちらにしても、具体的な要求を示さなければ、単なる駄々っ子の愚痴でしかない。これはサラリーマンだったら新人レベルに教育する事項であり、反対ではなく、前向きな提案をセットしなさいと教育される極基本的な心得すら出来ていない幼稚性がある。ましてや、聖火リレーに協力出来ないと持ち出すのは、国家事業を人質にした、不当要求の誹りを免れない。

青空の下で聖火リレーを実施する事で感染リスクが拡大するとは到底思えない。

県内の飲食業の苦しい状況を打開する為であれば、寧ろ、この聖火リレーを活用して、飲食業にお金が落ちる様なキャンペーン、工夫をするべきであり、この様なやり方は逆効果でしかない。

真っ当な事業ではなく補償で苦しい状況を凌ぐのは、他に方法が無く仕方がない状況に限られるべきで、出来うる限り事業が活性化する様にしなければ、本当の意味での復興はあり得ないし、復興なくしてコロナ禍からの脱却はない。

地方経済を立ち直らせるためには、寧ろ、GoTo再開を要請するべきであり、感染リスクを云うのなら、緊急事態宣言下以外の地域の行き来を活性化するべきではないのか。

少し考えるだけでも、いくらでも打開策は出てくる、もっと考えれば、いくらでも出せるだろう。 この一連の動きをもってして、五輪反対運動に繋げる事だけは、絶対にやめて欲しいし、その様な事態を招いた島根県知事の罪は重い。

東京都の公園施設閉鎖措置に対する異議申し立て

東京都の公園施設閉鎖は、全く意味不明である。

人によって考え方が異なり、意見も異なるのは当然の事であり、多様性の尊重と言われるまでもなく、各人の主義主張は、それが責任を持った主張であれば尊重されなければならない。しかし、物事を決めて前に進める為には、異なる意見も交えて、議論した結果、決められた結論は決して総意ではないだろうが結論として、異なる主義主張の人間も従わねばならないのが民主主義のルールである。勿論、個人の主義主張を曲げろという訳ではなく、その後の言論も自由であるべきだが、ルールに従わない場合、或いは、言論の自由を笠に攻撃的で相手の名誉を棄損する行為や公序良俗に反する方法論は処罰の対象となっても仕方がない。それ故、結論を決める時の民主主義的ルールは厳格であるべきであるし、決められた根拠の説明責任が必要不可欠なのである。

前置きはこの辺にしておいて、

東京都が2月22日に、2月27日から3月7日までの公園施設閉鎖を発表した。目的は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止である。しかし、感染は収束に向かい、新規感染者数は11月水準にまで下がっている。減少スピードの停滞を問題視しているのだろうが、いつかは飽和するのが自然現象であり、決して緩みの影響ではないと断言しても良い。ましてや、屋外の施設など閉鎖する事にどの様な科学的根拠があるのだろうか?不明である。

『人流増が感染増加につながるのは当たり前だ』という事が絶対真理の様に語られ、多くの人が無条件に信じている。しかし、未だに人流増と感染増の因果関係を示す統計的根拠は示されていないのだ。あのGoToトラベルが感染拡大につながるエビデンスはないと言った時に、因果関係がないエビデンスもないと実しやかに『悪魔の証明』を求めていたのも記憶に新しい。如何に言いがかりであるかは、少しでも数学的論理展開を理解していれば自明なのだ。マクロ的に考えれば、GoTo実施時期、拡大時期に感染がどの様な状況だったのか、オープンデータで調べれば明確なのだから。

それでも、『人が動かなければ、ウイルスも動かない』というのは真理である。しかし、ウイルスが動いても即感染リスク増とはならないのだ。単純化するとAとB両者がウイルスを保有するキャリアだったとしても、位置を入れ替わるだけでは感染リスクは増大しない。もう少し複雑に考えても、感染者の移動が地域内であっても、域をまたいでも、通過した空間の時間積分値が感染リスクなので変わらないのであり、ロックダウン、いや完全隔離でもしないとリスクは同等なのである。その事は以前投稿している『感染拡大と因果関係のない対策』にも書かせて頂いている。

筆者の経験値も含めた持論になるが、無症状者の感染拡大よりも、軽症者含めた有症状者の行動制限を厳格化する事が最大の感染抑止効果につながるのだ。何故なら、無症状者と有症状者を比較して、ウイルスを含んだ飛沫を飛散させる量が圧倒的に有症状者の方が多いからである。従って、健康な人間がどれだけ移動しようとも感染拡大への影響は僅少と考えるべきなのだ。

更に、今回の東京都の対策は、3密とは無縁の屋外施設の制限に及んでいる。これには、開いた口が塞がらず、説明責任も果たされていない。

筆者の想像であるが、『緩み』を抑えるための精神的制限策に思えるのだ。これは、悪い言い方をすれば『煽り』もしくは『脅し』である。人々を煽り、脅し、恐怖により人々の行動を抑制しようとしていると言われても仕方がないのだ。事実、メディアやメディアで発言する専門家と称する人達、専門家でもなく知識もないのに適当に情動的発言を繰り返すコメンテイター達により少なからず、恐怖支配の構造で世論が影響を受けている。毎日の様に、正論と言い、正義を振りかざし、人流を悪と非科学的に喧伝され続けているのだから。

この構造は健全ではない。正しい情報が不明であれば、両論併記が大原則であり、両論の情報公開と一方的な排他的正義による断定を止めるべきであり、施政者はそれを政局に利用しては絶対にならない。

もし、『緩み』が問題であるのならば、その改善策は『煽り』『脅し』ではなく、『説明責任』『情報公開』でしかないのだ。国民は、客観的な情報に基づき行動するのだから。

五輪を開催できない理由は全く無い

冷静に考えて欲しい。何故、これ程までに開催国である日本の与論が開催に前向きでないのだろうか、その理由は何なのか?脊髄反射的に、『コロナ禍で出来る訳がない』『公平な競技が出来ない』『そんなお金があれば補償に使うべき』などなど。私に聞こえてくる限り、合理的理由になっていない、単なる言いがかりに聞こえてくる話が殆どだ。だが、そう感じるのは少数派らしく、猛反発を食らうかもしれないが、アスリートファーストで考えた場合に、どうしても黙っていられないので語らせて頂く。

『コロナ禍で出来る訳がない』だが、何故コロナ禍では出来ないというのだろうか。既に、様々なスポーツ大会は開催されている。プロ野球、サッカーJリーグ、大相撲、卓球、水泳、体操等、その中で感染拡大の問題は聞こえてこない。海外に目を向けても大リーグ,アメフト、バスケ、テニス、ゴルフなどなど開催されている。即ち、世界的にコロナ禍において、スポーツの大会を安全に開催運営するノウハウは獲得しており、これからも最後まで知恵を結集した、より安全な運営の模索は可能である。森前会長がコロナ禍でもやると言い切ったのは、言葉足らずだったかもしれないが、それだけの安全対策、リスク低減策に手ごたえがあっての事なのだ。ましてや、北半球が夏季に向かい、ワクチン効果も少なからずあるのだから反対する理由にならない。

『公平な競技が出来ない』に関しても、確かに国ごとに感染状況が異なり、選手派遣どころではないという事情もあるかもしれない。選手選考も困窮を極めているかもしれない。しかし、そもそも今までの大会で全ての選考が公平だったと言い切れるのだろうか。ボイコットやドーピング問題だけでなく、通常の選考でも悲喜交々であり、その時の状況、環境に大なり小なり影響を受け有利不利はあっただろう。それもドラマだ。そして、今回は突然でなく1年延期しての時間的猶予もあった。出来ない理由にはならない。

『そんなお金があれば補償や医療対策に使うべき』。いやいや、それは別の問題であろう。これだけ財政出動している状況で、五輪がなくなったらそのお金が余ると考える方が間違っている。必要なお金は、赤字国債発行してでも予算を組む状況なので、全く論点がズレている。

冷静に考えて欲しい。コロナ禍以前から、根強い反対層が存在したのは事実だ。その方々は、信念を持っておられるのだろう。しかし、多くの方々は、今のメディア報道の影響を受け、感覚的な感情論、排他的な思い込みが形成されてしまい、冷静に落ち着いて様々な情報を俯瞰して考えた結果とはとても思えないのだ。冷静に考えれば、開催できない理由はことごとく解消されており、世界的に外堀も埋まっているのだ。もし、反対論が出るとすれば、政治的な利害関係が伴うものと理解するべきであり、コロナ禍は言い訳に過ぎないのだ。

思い出して欲しい、出来ないではなく、どうやれば出来るのか考えて欲しい、という魂の叫びを。アスリートの心の叫びに少しは耳を傾けて欲しいのだ。

<組織委員会会長選出でもイチャモンが多すぎる>

森会長辞任を受けた、組織委員会の会長選考に当たって、皆が納得する答え、国民をステークホルダーとする国民参加型の意思決定とプロセスの透明性担保が必要と毎日の様に報道されている。川渕氏が一時内定された様に報道されたのは、何も川渕氏が自ら発表した訳ではなく、マスコミが直撃インタビューしたスクープの結果なのに、密室での決定と言い放つ。ご本人も、正式に推薦されればと前提を置いて話していたので、候補としての意気込みや使命感を語ってくれた内容だった。人事のプロセスにおいて事前に情報が洩れると破談になる典型例だろう。なのに、透明性を担保しろという?

国民参加の透明性確保は理想論であろうが、現実的なのだろうか。国民投票でもしろというのだろうか。その様な時間の猶予が無いことぐらい分かるだろう。そもそも、各理事が国民の意見を代表して理事会で発言するべきなのだが、そこから手を付けていると、制度改革や規則改定など様々な手順が必要不可欠で、何年先の話になるのだろうか。組織が機能不順に陥り、短期間で結果を出さなければならないのであれば、強力なリーダーシップがなければ何も解決しないことは、マネジメントや組織論を少しでも理解していれば自明なのだ。権限移譲が不可欠であり、総意などあり得ないのだ。

何か答えを出したら、何かにつけてイチャモンを付けるのが今のメディアだろう。つまり、どんな答えでも納得性を失墜させる強力な力をメディアは持っている。その逆風を真っ向から受ける状況下、所謂、修羅場に身を投じて結果を出せる資質は、綺麗ごとでは身につかない。寧ろ、平時は嫌われ者で、敵の多いタイプでないと出来ない汚れ仕事なのだ。

そんな修羅場をリアルに想像できる人間は実際には殆どいないだろうから、皆の総意では組織は破綻するのは当然なのだ。

不要不急の外出は感染拡大どころか国民の健康促進に繋がる

一般的にインフルエンザや風邪など上気道感染症は春から夏にかけて、感染は下火になる。しかし、新型コロナは、小さいとはいえ一定の感染拡大が発生した。この事実に対して論考、夏にも感染拡大が発生した要因の仮説検証する医療系専門家は、私の知る限り多くない。説明できない事から逃げて、それ程感染力が強いと言わんばかりで、何でも危機感を煽る方向にもっていく。とても科学者のスタンスとは思えないのだ。

発生する事象には必ず原因がある。複合要因もあり、単純化は困難な場合が多いのも事実だが、しかし、追及の考察は可能であり、そういった一つ一つの仮説と検証が、一歩ずつ事実に近づく唯一の道なのだ。医療分野は素人である筆者だが、理学部卒業後、企業でも様々な科学実験と開発、統計的手法も駆使してきた知見を以って、一つの仮説を提唱する。

その仮説とは、紫外線量の強まる春先、特にゴールデンウィークの期間、国民の多くが巣ごもりを行うことで、例年と比較して日光を浴びなかった為ではないだろうか、というものだ。

日光浴の効果として、様々あるが、その中でもビタミンDの体内での合成がある。このビタミンDは免疫力調整機能があり、実際にインフルエンザや風邪などの予防効果があるのだ。冬季に風邪が流行るのは、低温・低湿度によるウイルスの活性化が主に言われているが、紫外線量低下によるビタミンDの体内濃度の低下で免疫力が低下する事も一因と言えるのだ。

従って、折角紫外線量が多くなり、ビタミンD合成が増やせる時期に、巣ごもりをしたと云うのは大きな痛手であったのは間違いないと考えられる。

つまり、日中の外出は不要不急でなく、人間の健康に必要不可欠な行為である事が示されたのだ。

<人流を抑えても感染は収まらない>

もう一つ、常識として語られている非科学的な説が、人の行動が感染拡大に繋がるという事だ。ある条件下での行動が感染拡大に繋がることは事実だが、感染蔓延状況、ウイルス常在環境においては、それは当たらないのだ。

ある条件とは、非感染地区と感染地区が明確に区分できている状態、隔離されている状態を示す。その状態で、感染地区と非感染地区を人が移動すれば、当然のことながらウイルスも持ち込まれて感染が拡大する。

しかし、感染地区内での人の移動に関してはどうだろう。地区内での行動を一切禁じれば、感染拡大は無くなるだろう。それは感染地区を最小区分である個人単位とする強制隔離に他ならないからだ。それが出来ない自由主義国家においては、感染地区内での行動は一定量発生し、その時点で、感染地区内のウイルスの濃度は均一になっていく。

では、ウイルス濃度の異なる地域を跨ぐ行動の場合はどうだろう。濃度の低い地域は、行動により濃度が高まる可能性はあるだろうが、同時に元々高い地域の濃度は低下するのだ。地域を跨ごうが跨ぐまいが、ミクロで1人の感染者が発出するウイルスが同量だとすると、全国をマクロ的に見た場合濃度は等しくなる。寧ろ、全体的の濃度を薄めた方がリスク対応はやり易く、一部に集中するよりも、日本の皆保険制度、地域に根差した医療の力の発揮しどころのはずだ。

従って、GoToトラベルで人の移動を活発化させ様とも、一定の感染抑止行動さえ実行できておれば、感染拡大の要因とならなかったのは当然なのだ。2回目の緊急事態宣言時の時短要請も、対策が甘く、これでは収束しないとメディアに出演する専門家は猛攻撃していたが、実際は予想を上回る感染減少を示している。人流と感染拡大に因果関係は無い事が証明された。

<新型コロナ騒動で国民の健康促進が図れた皮肉と課題>

未だに、『徹底検査がゼロ化に繋がる』『人の行動が感染拡大に繋がる』と強弁し続け、サイレントマジョリティを騙し、世論を形成し、政府の政策決定にも一定の悪しき影響を及ぼしている。非科学的、非論理的な強弁は、『そうに決まっている』と断定し反論を許さない主張を繰り返し、反論にも『あり得ない』と馬鹿にして無視する事で民主的な議論すら封殺しようとしている。

しかし、実際に起こっている事象は、これらの説とは全く異なっている事は示した。

風邪は万病の元。インフルエンザは既往者や高齢者にはリスクが高い。これらは、新型コロナも同じである。違うのは、発生する症状や後遺症、メカニズムとして未だ解明されていない部分であり、この事は唯一、リスクと考えるべきだろう。しかし、風邪だって全て解明されているとは言えないのが現実で、安易に町医者で風邪だね!と言われるのは、症状だけの判断で、原因不明の場合も実際にあるので過剰反応も適切とは言えない。

言うまでもなく、国家として国民の健康は永遠の課題だ。今回の感染騒動で、日本では、肺炎死者、超過死亡など総数としては減少し、実は健康増進されたとも言える。理由は想定できる

  1. 風邪気味(或いは風邪患者)の人の外出自重風土が生まれ、人に移すリスクが減少した
  2. 不要不急の病院受診を控える事により過剰な医療が制限された

この2点に尽きるのではないだろうか。この事は、今後も継続するべき事項だ。加えて、人流は抑えるのではなく、適切な外出による活動を促し、個々人の免疫力強化促進する事で、更に良くなるだろう。

そして、残存する課題は、新たな新型コロナの後遺症含めた症状のメカニズムを解明し、治療方法を開発することだけではないだろうか。インフルエンザのリレンザやタミフルに相当する薬の開発が出来れば全く問題なくなるだろう。

人権派の攻撃は対象の人権を蹂躙する

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。発言は撤回され謝罪をして、IOCも一旦、問題は終わったと幕引きを図ったが、人権派の攻撃は過激化し、世界的世論も背景に同調圧力も加わり、公開処刑、私刑にも似た状況になっている。

森会長の発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、この様な騒ぎに発展しうるリスクを軽視し、自身の責任ある立場による影響力も軽んじたと非難されても仕方が無く、本意でなかったとしても、決して許されるものとは思えない。だからこそ、撤回し謝罪したのだろう。

日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と国際社会に評価されてしまうマイナスは大きい。ジェンダー・ギャップ指数が121位と低迷しているが、その中でも政治分野が144位と最悪なのだ。しかし、この順位が実態を本当に反映しているのだろうか、真の問題が見えなくなっているのではないだろうか、疑問に思っている。

実際、性差別は今でもゼロではないだろう。そして、差別は性差別だけでなく他にも様々ある。人は等しく平等で、人権は守られるべきだが、何故か差別は発生する。それは自己を優等種、或いは正義とするが故にそれ以外を劣等種、悪とする、自己正当化の原理主義、排他的なエゴなのだ。

そうやって考えると、性差別自体は社会悪である事は間違いないが、同時に森会長をバッシングする事象も同様の排他的な社会現象ではないのだろうか。好き嫌いあろうとも一定のリスペクトは必要であり、今の現象は不快感を通り越して忌むべきと感じるのは私だけだろうか。謝罪会見でも、逆切れも悪いが、質問の仕方が余りに下劣なのも問題と感じる。

百歩譲って、絶対悪だとしても、弁護人もなく私刑の集中攻撃に処して良いのか。釈明の余地を与え、つまみ食いでなく全容を正確に把握し、敵対するのではなく一定の寛容性も持ち、発言に至った背景の問題性を冷静に提起し、解決策を前向きに議論すべきではないだろうか。

森会長より発言があった際に、異論を挟めない空気感も問題とされているが、逆に、今森会長擁護発言を発信出来ない空気感、同調圧力が世間で出来上がっている。発言した瞬間、女性の敵、人類の敵扱いで攻撃を受けるだろう。その空気感で、遺憾の意を表する発信も増えている。これでは、集団リンチといっても過言ではない。

野党は政府に会長に辞任を要請する様に国会で答弁している。しかし、政府に人事権は無い。人事権を有する学術会議の人事に対して攻撃しながら、人事権の無い組織への政府の人事介入を言う神経が理解できない。

何より、女性アスリートと今回の発言に何の繋がりもない。オリンピックの主役は言うまでもなくアスリートだ。アスリートファーストで考えるならば、大会直前に何かにつけて反対活動の大騒ぎをするのではなく、本当に前向きに開催に向け、応援するメンタリティが必要だ。裁くべきがあれば、後に裁けばよい。今は純粋にアスリートファーストであるべきではないか。今回の事象の被害者はアスリートである。加害者は、森会長含め日本社会だと糾弾したいのだろうが、糾弾する側もアスリートを無視した加害者になってしまっているのが残念でならない。

逆境であればあるほど、アスリートの為に、騒がず、前向きに立ち上がるべきなのだ。

<ジェンダー・ギャップの現実と課題>

少し話題を戻し、オリンピックではなくジェンダー・ギャップの問題について考えたい。

日本が最も劣っているという政治の世界を見る為、2019年に行われた参議院選挙、直近の国政選挙の数字を見てみる。全体では、当選者124人中、女性は28人、22.6%である。立候補者総数370人中、女性は104人で28.1%。その差は、5.5pであるが、これをどう評価するか。

<総務省選挙関連資料令和元年7月21日執行参議院議員通常選挙速報結果より集計>

この中で特筆すべきは、与党の女性候補者の当選確率が85%を上回っている事だ。与党から出馬すれば、ほぼ当選しているという事だ。逆に野党は20%を下回っているのだ。

この数字から結果としての男女平等に近づける為には、与党の女性候補を増やすことが有効だと分かる。しかし残念ながら、与党からの立候補者の女性比率が13%前後と低いことが課題だろう。野党は50%に近い候補を擁立していても、当選率が低く、ある意味泡沫候補で数を揃えても意味が無い事が示されている。

従って、本当に実力があり、モチベーションも高い女性候補者を少しでも多く育成していくことが最短にして最大の対策になるだろう。

大学までの教育環境で、それ程大きな性差別は数字としては無い。というより学部学科による志向の違いで発生する差はあるが、合格に対して基本的に男女差は無いはずだ。では、社会に出る際はどうだろう。基本的に雇用機会均等は進み、最近の定期採用者の女性数は激増しているはずだ。しかし、管理職候補生は、まだまだ圧倒的に男性の方が多いのが現実だろう。選考に当たってはインセンティブという名の逆差別が堂々と行われているが、それでも簡単に差は埋まっていない。ここに課題がある。

それは社会構造の課題もあるだろうが、女性自身の意識、モチベーション向上なども不可欠なのだ。そんなに簡単ではないだろうが。

臭いモノを力で封じ、正義を押し付ける、グローバル的感覚では問題は本質的に解決しない。分断を生み出し、亀裂を深めて、見えなくしているだけである。排他的な原理主義で形や数だけ合わせるのではなく、遠回りかもしれないが、本質的な意識改革が必要であり、それが可能なのは、寧ろ日本社会の方だろう。

巨大情報企業の情報規制が及ぼす問題性

世界的巨大企業であるGAFAが、世界中の情報に一定の統制力がある事は誰も疑わない。トランプ前大統領のアカウントが停止されたことも記憶に新しい。建前としては、民間企業として自社のポリシーに則った規制は何も問題ない。しかし、世界中の情報を統制管理する力を持ったメディアとして、社会的責任もあると考えるべきだろう。

今、新型コロナに関する情報発信には規制がかかっている。建前は、世界的危機事態なのでデマゴギー等の情報拡散による混乱を防止する為であり、Expertise(専門性)、Authoritativeness(権威性)、Trustworthiness(信頼性)を盾に検閲まがいの事も行われている。

確かに、特にネット上には疑わしい情報も多く、玉石混交の状態である事は間違いない。しかし、前述の検閲で適切な評価が行われているとは思えず、内容の判別すら恣意的ではないかと疑わしいのが実態である。

実際にあった話をしよう。

昨年8月末にKindle電子出版で拙著『ファクターXの正体』~新型コロナに関する書籍を発刊した際の話である。最初は取り扱いできないとの断りの回答が来た。その理由を問い合わせつつ再申請したが、公式の情報以外は取り扱えないとのことで2度目も却下だった。間違いなく、内容を読まずに審査していると感じたので、1次情報として政府発信の情報を利用、札幌医科大学にも連携したデータを活用し、統計的・科学的・論理的考察を行っていることを主張し、再々申請を行ったところ、ようやく承認されたのだ。

つまり、情報の内容ではなく、筆者が無名であり、医療関係者でもないが故にデマゴギー扱いされたのである。確かに他の専門家とは異なる説だろうが、一定の論理性はあると自負していたのだが。読んで頂き、疑いは晴れたのだが、異議申し立てしなければ封殺されていたのだ。そして、Googleアドセンス審査は未だにOKになっていないのだ。

<従来の専門性・権威性・信頼性の概念は通用しなくなっている>

情報の価値に、発信者が有名か否かは本質的に関係ない。専門家であろうとも考え方は十人十色であり異説があるのは当然、寧ろ専門家故の専門常識バイアスも散見されるのも現実だ。テレビで発信している専門家の危機的な憶測が何一つ実現していない事からも、専門家でも絶対正しい訳ではなく、発信情報は同様に玉石混交なのだ。ましてや、他の分野で有名なだけで規制の対象にはならない、情緒的で非科学的な情報発信も多いが、有名であるが故に影響力があるので、むしろ大問題なのだ。

今や、インターネットを探れば、貴重なオープンデータは誰でも取得できる。専門的な論文も、詳しくは読破出来なくても、サマリ程度なら素人でも読み込める。それに対する様々な反対意見も調べれば確認できる。まさに情報発信、議論の俎上に上がるハードルは圧倒的に下がっているのだ。それ故、素人でも本質を突いた情報発信もあるし、専門家でも権威性を前面に押し出しているだけの、非論理的な発信もあるのだ。専門家も人間であり、個人の思想信条をベースにした発信もあるのだから当然なのだ。

即ち、情報の玉石混交状態では、従来の専門性、権威性、信頼性は適切な評価基準ではなくなってきている。従来の基準に則った、情報の選別は、良識ある情報の封殺にも繋がり、悪質なデマゴギーをのさばらせる原因にもなってしまうので、改めるべきなのだ。

<多様化する玉石混交情報社会での日本の位置付け>

GAFAなどは、自分たちの基準をグローバルスタンダードであり正義と称するだろう。これは、実は自分達の価値基準内では寛容だが、それ以外を悪とする極めて排他的なものなのだ。これは、宗教的思考基盤によるので、一朝一夕には改められないのだ。

一般的には殆ど語られていないが、グローバルとは、文化的侵略の一面がある。グローバルの発信源は、聖書を軸とする契約ありき、唯一絶対神を持ち、白黒、明確に判別する文化背景にある。一方で、日本は多神教国家として正義と悪の区分すらアナログ的で、生前は悪でも死去後に善の神になる大転換すらある。日本の文化的背景、宗教的背景の違いは、実は日本人自身が認識しているよりも遥かに大きいのだ。

GAFAは言うまでもなく、グローバル企業であり、それらの判断基準はグローバル基準である。グローバルは、多様性に寛容であるべきと言いつつ、異論には極めて排他的なのだ。しかし、日本の文化、良さは、多くの神を受け入れる寛容性を持つほど、実は多様性に関しては、国際的に先頭を行くべき存在なのだ。遅れていると評価されるのは、グローバル基準からの評価であり、日本人の奥ゆかしさから反論をしないで受け入れてしまっている結果に過ぎない。

この情報侵略ともいえる状況に抗う為に、日本が大きな役割を担う必要がある。グローバル基準も柔軟に受け入れつつ、他のマイノリティも尊重し、融合していくのは、本来的に日本の得意技だからだ。

その為にも、日本人一人一人の情報リテラシーを高め、アンテナを高め、自身の思考による意見表明と、反対意見にも耳を傾け、丁寧な議論が出来る様になる事が重要である。方法論として、教育から見直す必要もあるかもしれないし、電波メディアのワンセンテンス発信に流されず、しっかりと活字を読む力も養成する必要がある。本当の意味で、『広く会議を興し万機公論に決すべし』、『和を以って貴しと爲し』、が必要になってきたのだ。