ついに医療体制に対して強制力発動

いよいよ医療機関、医療資源に対しての政府、自治体の協力要請が始まった。遅すぎるという批判はあれども、必要で有効な策が打てる様になってきたと素直に歓迎すべきなのだ。

さざ波状態の日本の感染状況で医療逼迫が起こるという、当初からの課題でありながら、本質的な対策が打てず、国民の我慢を強いる緊急事態宣言を何度も発出するしかなかった。医療崩壊を検知する重要指標の一つである病床使用率は、分母が確保病床数、分子が入院者数なので、当たり前の対策として分子を減らす策と、分母を増やす策の両輪で検討される筈が、分子減少対策の一本足打法に終始する異常状態であった。

ようやく東京都と国が連名する形で医療体制強化策を打とうとしている。それなのに「ラクダと老夫婦」の例えの様に、批判する声は止まない。その声をざっとまとめると

・医療従事者は大変な状況なのにプラスの要請は破綻に追い込むだけ

・同様、折角頑張ってもらっているのに、公表までするのは如何なものか

・結局他の診療に犠牲を強いる事で国民の命は守られない

・政府の強権的なやり方は許せない

見事な誤認識の数々なのだが、一つ一つ確認していきたい。

まず協力要請をするのは、これまでコロナ対応の協力を拒んできた医療機関、関係者に対するものであり、現在コロナ対応に従事して頂いている方々に対するものではない。つまり、ここまで大変な思いをして支えて頂いていた医療関係者の負荷を、少しでも減少させる策、頑張っている方々を支える策なのである。

日本のコロナ対応は、これまで全病床の僅か数%の資源投入でしかなく、諸外国と比較して明らかに劣後していた。今まで何かと言い訳先行で協力が得られなかった、これは抵抗勢力と言っても過言ではない状態なのだ。国民の命と生活を守るためにようやく、ここにメスを入れ始めたのだ。

他の診療への支障だが、全体から言えば、所詮ほんの僅かの支援に過ぎない。何故なら年間1000万人罹患し1万人規模の死者が発生していたインフルエンザの医療体制があるはずなのだ。今まで新型コロナを2類相当に定めていた為に使えなかった医療資源を使えばいいだけなのだ。

それでも慎重を期して、専用病院などの箱モノを用意した方が効率的かもしれない。酸素ステーション等の箱モノも自宅療養者が本来入院まで必要がない状態で、精神不安定による不安感により、救急要請が発生している事に対するバッファ、不安の解消に効果はあるだろう。

実際に東京都議が発信しているが、都立病院のコロナ病床を増床し、近隣の医療関係者による体制を構築するとの事。NPO法人「日本ECMOネット」も全国の医師とネットワークを構築し死亡率の低さを維持するべく支えていくと協力に応じている。

昨年の大阪の専門病院に医療重視者の協力が充分に得られず、自衛隊派遣しなければならなくなった様な事態、直近での要請も全く受け入れてもらえなかった様な事態だけは避けなければならない。

そして、最後に強権的な政府のやり方に対する批判だが、一方で私権制限、強制力を伴うロックダウンの待望論、期待する声が高まっている事と矛盾、全く意味不明だ。国民生活の強制的な規制の前に、医療体制の強制的な構築の方が優先されるべきである。また、諸外国のロックダウンの効果が限定的であった事実も無視できない。この状態で、医療には強制を許さず、一般国民には強制すべきとは、支離滅裂すぎて意味不明なのだ。

<現状の新型コロナの実態>

ようやく東京都の新規陽性者の増加トレンドが変わってきた。これまでの傾向通り、感染ピークの度に、ピーク値は高まり、一定期間で自然にピークアウトする。少々特徴的なのは、予想をはるかに上回る陽性者数が検出されている事と、陽性検出者の内ワクチン接種者と未接種者の割合は1:10である事だ。

陽性者数の多さの検討は後に譲るとして、ワクチン接種の効果が陽性検出にも明らかに表れている。ワクチン接種なければ今よりも倍近くの陽性者が検出されていた可能性が高いという計算になる。更に、陽性率からの推定で、本来の陽性者数は現状ピークの4倍程度と考える事も可能なのだ。

ここまで増えると市中感染、ウイルス蔓延で、ほぼウイルス常在環境にあり、曝露は相当な確率で起こり得ると言っても過言では無い。

風邪やインフルエンザでも経験があるだろう。ウイルス暴露状態にあったから全員が感染する訳では無い。特に風邪は、感染したという意識よりも不摂生等の原因の方が感覚的には強いだろう。つまり、ウイルス暴露状態において、人間の初期免疫が負けた時に感染して発症するのであり、人間は風邪のひき始めを実感し、その時に徹底ケアをすれば概ね発症を防げるのだ。新型コロナでも同様ではないのか。

デルタ株の論文には、症状が従来と異なり、鼻風邪症状に似ているとの報告が為されている。コロナと思わない軽い症状が多数になるとどういう事が発生するか常識的に考えてみよう。今まで以上に初期症状状態、軽症者による市中のウイルス拡散が広まるのは自明だろう。感染力の強化を否定する訳では無いが、軽症状者による感染拡大と考えるのも今の陽性者数の多さを説明する妥当性があるのだ。

もう一つの傾向は、陽性者数と重症者数がほぼ同時に増減している。今まで、陽性検出から時間差をおいての重症者発生なのだが少し様子が異なる。重症化率は大幅減だが、陽性者数が大幅増なので絶対数としては増えており、重症病床使用率は東京都で70%近い状態だ。しかし、確保病床補償金詐欺でも無ければ満床では決してなく、重症者数が増えても死者数は増えない、陽性者数比で0.2%と諸外国と比べて今まで以上にさざ波なのだ。

これは、重症化しても死に至り難い傾向であり、これまでの重症者と少々状況が異なる。結局、初期医療が受けられる体制と不幸にも入院が必要な程の悪化をしてしまった場合の治療の医療資源拡充が為される事が、対策の全てと言っていいだろうから、今回の政策は大きな前進なのだ。

<自己防衛方法>

この状態でPCR検査をすれば陽性率は上がるのは当たり前だろう。常在しているのだから当然なのだ。それだけ、ウイルスは蔓延し、ほぼ常在化、誰でもウイルス暴露環境に居ると言っても過言ではなく、風邪と同様にコロナも普通に感染しうる状態なのだ。

その環境下で個々人が心がけるのは、今まで以上の「手洗いうがい励行」と「体調管理」であり「症状のある時は活動自粛」で、「風邪をひくな、うつすな」に尽きるのだ。

その上で発症してしまった場合も、必要以上に不安にならず、診察を受け、指示に従って療養する事だ。不安は身体に悪いのは間違いないのだから。

インフルエンザでかかりつけ医の診察、投薬を受け、家で寝ている際に高熱で苦しんでいても、不安に苛まれることはそれ程ないだろう。それは、インフルエンザと分かっていて、数日で収まると確信しているからだ。

コロナの場合、同じ症状でも不安に陥るだろう。報道から流れる情報は、最悪の事態ばかりだからだ。現実には、最悪の事態はほんの一部であり、レアケースである事を認識しておけば良いのだが、最悪のケースを標準の様に思わされていると、入院など必要のない状態でも入院を嘱望する様な不安を抱かされる事だろう。結果、メンタル面の影響での症状悪化だけでなく、医療逼迫に繋がってしまうのだ。

従って、正しい情報を正しく判断する事が自己防衛には必要不可欠なのだ。

総務省発表の「令和3年情報通信白書 コロナ禍における情報流通」によると、新型コロナに関して偽情報を入手した先として、ダントツ1位が「テレビ」で58.2%にも及ぶのだ。2位が「ニュース配信」の27.2%、3位は「SNS」の23.2%だが、その次の4位に「新聞」が19.4%と続くのだ。要は、ネット配信も含めたマスメディア発信情報にフェイクニュースが多いので、情報リテラシーを高め、騙されず、自分で調べ自分で考える能力育成が、不必要な不安を抱かず、正しく恐れ、自分自身を守る事に繋がるのだ。

ワクチン接種証明書無くとも経済活動再開は可能

新型コロナ分科会の尾身会長が「接種証明 議論の時期迫る」と以下の様に発信した。

・9月の末、10月中頃には希望者へのワクチン接種が完了する

・ワクチン接種が国民の7割になっても感染が下火になる事は絶対にない

・ワクチン接種や陰性証明書できた人の経済活動再開

まず、ワクチン接種完了はその通りだろう、今でもおよそ1日100万回のぺースの基本的な接種と、そこに職域接種の上積みが継続実施されている。マスコミや一部の自治体の言う、ワクチンが止まっている、という事はマクロ視点では一切発生していない。

8月18日時点で2回接種完了が49百万人38.8%、1回接種が64百万人50.3%、つまり2回目待ちが15百万人と言う計算だ。この後、仮に1日100万回とすると、10月中旬まで60日間で6000万回接種可能なので、単純に1回目2回目均等とすると2回目接種79百万人62.2%、1回目94百万人74.0%となる。これでほぼ希望者は完了でしょう。

ワクチンの作用は体内にウイルスが侵入した後の抗体反応であるならば、感染後のウイルス増殖反応を抑制する効果なので、メカニズム的には感染が下火になる事はない。その通りなのだ。

感染後の発症を抑え、重症化予防になる事は間違いないが、PCR検査では陽性検出され、マスコミ報道の新規感染者数に数えられるのだから、下火にならないのは自明だ。

但し、発症を抑えるという事は、他人に感染させるウイルス量以下に抑え、実行再生産数としては減少させる効果もあり、結果としての感染縮小、正確に言うと陽性検出数縮小になる事は予想される。

しかしよく考えて欲しい、インフルエンザも例年1000万人規模の感染者が報告されていた。それはPCR検査ではなく、発症した人が診察を受け、抗原検査の結果なのだ。もし、コロナと同様のPCR検査をしていたら、その何倍の陽性者が検出されるだろうか、計り知れない。夏季でもひょっとすると大流行があったかもしれないのだ。

以上の様に考えると、尾身さんの話はここまでは同意できる範囲だろう。しかし、次のワクチン接種や陰性証明書の出来た人の経済活動再開には真っ向異論がある。

<ワクチン接種証明書の目的は>

科学的に言うと、ワクチン接種しての効果は抗体生成量に依存するのであり、個人差がある。ワクチン接種は、YorNのデジタル判定だが、抗体生成量はアナログ値であり経時変化もある。だから、本来YorNで判定してはならないのだ。

従って、個々人のワクチン接種有無で経済活動への参加承認とするのは非科学的で非論理的なのだ。諸外国がワクチン証明やPCR陰性証明などを求めるは、宗教的文化的背景を考慮すれば、判断基準に曖昧さは許されず、白黒判定を求めるからだと理解すべきだ。しかし、日本は全く異なるはずだ。国際交流に必要だというのは分かるが、国内の施策に転用する意味が不明なのだ。

民間事業者が顧客を選別する事は営業の自由だ。従って、「喫煙者の来店お断り」「ドレスコードを守らない方の入店拒否」等は一般的にも行われており、差別ではない。それと同様に「ワクチン接種者のみ入店可能」とする考え方を主張する人もいる。それは自由だろうが、何の意味があるのか首を傾げるだけなのだ。

喫煙やドレスコードは顧客サービスの一環としての環境保全となるが、ワクチン接種有無は果たして感染リスク低減の環境保全になるのか。前述の様に、感染は抑えられないのだから意味が無いのだ。

この辺りの簡単な論理を取り違えるのは、自分が感染するリスクと他人に感染させるリスクを混同してしまう事、社会的規制と民間のサービス制限と混同してしまう事が原因だろう。はっきりと分けて考えないとリスク対応等語れないのだ。

間違って欲しくないのは、筆者の主張は、ワクチン接種証明など無くとも、普通に経済活動を再開させるべきだと考えている。それが出来るだけの効果がワクチン接種にある事は、重症化率や死者数のデータから明らかになっているのだからである。社会としての安全性は確保されるのであり、安心の為だけに非論理的にワクチン証明を求めるのは弊害が無視できなくなるのだ。

<他との比較でないと実態は見えない>

新型コロナに関して、他の病気と比較して語られるべきである。これまでは正体不明だったかもしれない。しかし、今やほぼ正体は見えており、臨床実績も積み上がっているので、他の病気と比較できるはずだ。

コロナだけ特別視している例は数限りなくあるが、いくつか確認してみる。「急激な悪化」がその一つである。当初は恐れられたが、肺炎症状がステルス性で進行し自覚症状少なく悪化してしまうというメカニズムも報告された。つまり、急変ではなく、悪化を自覚し難いというのが正確だ。ならば、自覚症状ではなく進行状況を正確に把握する事が必要になる。

対策としてパルスオキシメーターで酸素飽和度を観察、尿検査で確認する等の対策が報告されている。何より、医師が診察し適切な判断を下すのが何より最善策なのだ。ところが、未だに必要以上に「急速な悪化」と必要以上に正体不明と煽り続けているのは良くないのだ。

患者の意思での入院希望を優先する声が大きい。恐怖に煽られ、精神的にも弱った状態で、自覚症状が悪化すれば人間は弱気になる、症状も更に悪化しかねない。しかし、他の病気ではあくまで医師の判断の筈だ。

だから、町医者が普通に診療し、様子見なのか、投薬なのか、緊急入院なのか判断する必要があるのであり、素人の判断ではない。それが日本の医療体制の強みの筈だ。それを実践されているのが尼崎の長尾先生であり、この対応を後押しする為に5類相当への変更が有効なのだ。反対するのは患者視点が欠落していると言っても過言ではない。

そして「PCR検査絶対主義」も未だ特別視の典型事例だ。

PCR検査とは疫学的調査や科学分析に使われる分析実験手法であり、決して臨床診断に使われるものではなかった。確かに、強毒性の感染症の様に、隔離政策が基本になる場合は、有効なのだろう。しかしあくまで治療目的ではなく隔離目的である事を忘れてはならない。

これまで確定診断として臨床に使われていたのは、感染力のある発症者が保有するウイルス量に反応する抗原検査であり、新型コロナの初期はどちらかというと症状の進行を確認するCTが使われている。現場の臨床にPCR検査は必要ないのだ。「PCR検査絶対主義」の弊害で、患者への医療措置が遅れるのである。ここでも、抗原検査で早期に確定診断し投薬等の措置を行えば、確実に早期医療となり、他の病気と同様在宅療養で重症化も防げるのだ。

<終息に向けて>

それでも、冬季にはまた感染が拡大するだろう。発症すれば医者にかかり、抗原検査で判定され、医師の判断で治療される。発症者は、出勤や活動は一定期間停止する。などなど、現行のインフルエンザと同様の対応にすればよい。

ワクチン接種で、重症化、致死率は大幅低下している。感染が爆発的に拡大しても、現時点の数で言うなら年間1000万のインフルエンザやそれ以上の風邪と同等以下である。致死率もインフルエンザと同等以下になってきた。ならば、ワクチン接種証明書なんて不要、普通に社会活動を活性化させるべきなのだ。

そして、3回目のブースター接種というよりも、ある程度の定期的接種の目途が立つだろう。インフルエンザと同様の体制になれば、変異やワクチンの効果期間など関係なく、収束でなく終息となるだろう。

現在のインフォデミックは歴史の教訓「五つの教訓」に反する所業だ

最近の報道、メディアの姿勢などに憤りを感じ、危機感を持っているが、名著とされる『昭和史』(半藤一利著)の指摘する教訓に見事なまでに合致する所業である事を改めて確認した。

本著は戦前の過ちを再び犯さない為の原則、歴史の教訓として「五つの教訓」が述べられており、それを要約すると以下の様になる。

  1. 国民的熱狂をつくってはいけない、そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である
  2. 最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ
  3. 日本型タコツボにおけるエリート小集団主義の弊害を常に心せよ
  4. 国際的常識の欠如にたえず気を配るべし
  5. すぐに成果を求める短兵急な発想をやめろ。ロングレンジのものの見方を心がけよ

(『そして、メディアは日本を政争に導いた』半藤一利/保阪正康 東洋経済新報社刊)

1の国民的熱狂は、朝から晩までニュース、ワイドショーで新型コロナに関して危機を煽り続け、恐怖の熱狂を生み出している。テレビだけでなく、それをスポーツ紙や夕刊紙が文字起こししてネットに拡散、新聞や通信社まで誤報捏造何でもありの危機煽り一辺倒。そして何より、それに反する情報発信に対してバンと呼ばれるコンテンツ削除やアカウント停止が頻繁化し、言論の自由を侵害しようとしている。トランプ氏のアカウント停止は記憶に新しいが、他にも様々な実例があり、恣意的、偏向的としか思えない状態になっている。

2の抽象的な観念論も五輪に対する反対攻撃は正にその通りである。命と五輪の何方を取る?と比較できない要素による脅迫観念の繰り返し。冷静に考えれば、五輪を取っても命を失う訳では無い事は自明、感染数という結果でも五輪の影響が本来出始める開幕から2週間後から東京都の感染拡大は頭打ちになっている。今までも人流と感染の関係をマクロ視点で見れば相関関係にない事は明らかだが、その様なリアリズムが通用しない。

3のエリート小集団は、分科会や専門家と称する方々の発信。中には、単に学術的に推論を提示しているだけの場合も見受けられるが、メディアによってその単語を切り取り、金科玉条の如く専門家の意見と発信し、テレビ出演の専門家と称する人達は、非論理的な煽りを繰り返す。冷静に時系列で発言をつなぎ合わせると、如何に論理矛盾の発言をその場しのぎで繰り返しているのか理解できるはずだ。

4の国際常識は各国の感染状況との比較、長所短所の分析が冷静に出来ない。他国から見た時に死者数の少なさで日本の状況は穏やかに見えているにも関わらず、何故か大騒ぎ。五輪に関しても、国際公約という観点を持てず、身勝手な中止論を振りかざす無責任さ。他国視点では、日本で良かった、日本でなかったら出来なかったとの称賛は止まないが、未だに悪夢を生み出すと国際感覚とズレた認識を発信し続ける。

5に関しては、常に短期的視点でその場の揚げ足取りの連続。ワクチンに関して、ワクチン慎重論を展開し、副反応のリスクを殊更拡大評価していたにも関わらず、接種が順調に進むと、ワクチンの確保、接種が遅れていると攻撃。1日100万回を目標に掲げると、そんな無理は自治体が対応できないと批判し、実際に100万回を超えると、ワクチンが来ない、停滞していると言う。テレビではワクチン供給は止まっていると批判するが、その時点でも100万回は平均で遥かに上回り、ピークでは200万回まで記録しているにも関わらずだ。

何と「五つの教訓」の全てに反する行為をメディアは見事に繰り返しているのだ。

<教訓に違反する事案例>

そして、その極みとも思える事件が発生した。テレ朝の大人数カラオケ泥酔深夜の転落事件である。

この事件はメディアがあり得ない行為と言い続けた「長時間」「大人数」「飲酒」「カラオケ」の全てにおける違反を行った事件であり、自社の行動を棚上げした身勝手さが問題である。そして、初犯ではなく過去にも同様の違反行為でクラスターまで発生させている。その際、再発防止のための検証をして真摯に取り組むとワイドショーでは発言していたが、その結果は説明されず、今回も同様の発言を繰り返している。昔の事を視聴者は忘れている前提で、その場しのぎの反省の振りして、やり過ごせばそれで良いと考えているとしか思えない。

そして、それ以外にも分かったのが、救急搬送は確実に行われたという事実。救急搬送が機能不全に陥っているとの報道があったが、東京都議員から東京都の救急搬送に報道される様な搬送出来ない事態は発生していないとの、現場確認した上での発信もある。何を根拠に救急搬送先が見つからないと報道しているのだろうか。

断っておくが、発覚した事件は氷山の一角に過ぎないはずだ。ハインリッヒの法則によると、発覚した何倍、何十倍もの事案が水面下に潜んでいるのだ。その全てを洗い出し、再発防止策の説明責任、組織としての引責が必要であり、それまでの間、同社グループ内の報道・ワイドショーは全て放送自粛すべきだろう。そもそも、自分達が他人に要求してきた事なのだから自分達がやってしまった時には、必要以上に厳粛にやるべきであろう。

是非、その場しのぎに騙されないで欲しい。

昔、経験したが、生徒や父兄に大変人気のある教師がいた。生徒の悩みに耳を傾け、何でも相談に乗ってくれるという評判だったが、ある日、優秀な生徒が出現した瞬間化けの皮が剥がれた。それは今まで何でも相談に乗る様に見えて、何も具体的に進める事はしない、単なるリップサービスだったのだ。優秀な生徒が、本当に悩み、前向きに改善する為に、具体的に実行プランを自分と教師に依頼する分含めて計画立案した瞬間、逃げたのだ。その生徒は、そのプラン通り計画を確実に実行したが教師は全く何もやらず、梯子を外した。リップサービスに騙されてはいけない実例だった。

<現状のリアリティ>

今再び、予測のシナリオが発信された。現状を実行再生産数1.7と想定し、3割削減では下げ切らず、5割減で僅かに減少出来るとの事だ。

当たり前だろう、1.7の3割減は1.19、5割減で0.85なのだから算数が出来れば言われなくても分かる。何より、3割減とか5割減と言う発想は、人流ありきの発想でしかない。人流があれば感染するのが基本だと言うが、他の諸条件の方が遥かに要因としては大きいから、人流との相関は今までの所示せていない。GoToとの関係も示そうと調査した論文も、結論は『相関関係があるとは言えない』である。いい加減に認めたらどうかと思うが、観念論と狭い世界の常識から脱する事が出来ていない。

リアルに発生事象と統計数字を見る限り、ワクチン接種がレジュームチェンジの鍵になるのは間違いない。しかし、PCR検査の陽性判定は減らない。何故なら、ワクチンはウイルスそのものを撲滅させないからだ。従って、ウイルス蔓延状態における、曝露は防げないと考えるべきだろう。

従って、個人に要求すべきは、曝露しても感染しない予防策、他人に感染させない対策が全てなのだ。人流減や行動規制ではなく、風邪をひかない、ひき始めに徹底ケア、そして他人にうつさない、即ち健康管理の徹底なのだ。

人流制限に求めるのは、医療資源の再配分、流行状況に合わせた柔軟な体制強化を図り、初期医療の充実と、重症者対応力強化を1年以上怠っている言い訳でしかない。

東京五輪無事閉幕、そしてメディアの暴走が再開

東京五輪が無事閉幕した。

多くの感動を生み出し、同時に多くの悔しさ、次につながるドラマが生まれた。五輪は、他の国際大会と比べても、難民も含めた多くの国家、民族の出場選手が参加し多様性が尊重されている。開催種目も、単一で企画として成立するメジャースポーツだけでなく、多くのマイナースポーツ、地域性にも考慮した種目により、種目の多様性と、その普及に大きな効果がある。これらは横のつながりとして成立する。ノーサイドの精神はラクビー特有のものではなく、全スポーツに共通する事が各種目戦い終わった選手たちの姿や閉会式でのアスリートを見ても分かる。明らかに大きな効果を生み出した。

そして、縦のつながりも同時に生み出せた。本来直接観戦できれば良かったのだが、それでもリモート観戦を通じて、多くの子供達に感動の実感を与えられただろう。また、ミュンヘン五輪から長年の課題でもあった不幸な現実、不運な選手達への気持ちを伝える等、歴史の流れの中での課題に向き合い逃げずに立ち向かい乗り越える、そういった精神も次につなげた。何より、東京で途絶えさせなかった事に安堵させられた。

その結果、世論調査では開催前は反対が大多数だった状況から、大勢の開催して良かったという声に変える事が出来た。

これらは、多くの縁の下の力持ち、大会関係者の方々の献身的で前向きな働きによるものであり、素直に感謝を申し上げたい。本当にありがとう。

私自身、学生時代はアスリートとして戦ってきて、指導者としても多くの子供達と競技に向あってきた経験から言わせてもらうが、大会を開催する為に、多くの人の力が必要なのだ。国際大会であれば尚更だ。

しかも今回は、何か悪い事でもしている様な謂れなきバッシングを受けながらの事だ。辛かっただろうし、厳しかっただろう。こぼれ聞く話では、状況変化や追加施策など、毎日の様に要求が変わり、その為の対応は相当な激務、ブラック状態であったのも事実の様だ。

その様な状況でも全力で支えるという気持ち、アスリートや競技に対する想いが強くなければ完遂出来なかっただろう。

確かに反省点や改善点なども多かっただろうが、それは何をしても、否、大仕事であればある程多いのは間違いないが、それは次の課題への前進なのである。何より、成し遂げた成果は計り知れない。

反対するのも個人の自由であり、思想信条はそれぞれに尊重されるべきだが、この大きな成果を挙げ、絶やさず次へつなげた業績を、無きモノにする事は出来ない。ましてや「瓦礫の山」と貶す論等は、決して受け入れることが出来ない。

嫌いであれば嫌えばいい、嫌なら嫌で、反対でも良い。しかし、純粋に成し遂げた業績に一定のリスペクトを持てないのなら、単なる難癖でしかない。これは、自らを絶対正義として、見下す姿勢が産み出す所作でしかなく、決して許せない。

メディアは開催前、総じて反対の論陣を張った。これでもかというぐらいの攻撃であった。命と五輪の何方を取るのだという、無茶苦茶な無理筋論も、声を揃えて同様に発信する事で無理を通してきた。

開幕後、掌返しの五輪報道で埋め尽くされた。結局、視聴率が取れれば何でも良いというメディアの節操の無さであった。五輪反対の影響で、スポンサー離れまで発生したのだが、それでも目先の視聴率稼ぎを正当とする、反省心の無さを露呈している。即ち、五輪後は再度の掌返しで煽り一辺倒に戻るのだろう。

「司法」「立法」「行政」に次ぐ、第四の権力としての力を歴然と持つ「情報」であり、その担い手である「メディア」だが、一部の左派勢力からは、権力監視という役割を持つのがメディアであり、五輪報道をポジティブに実施した事を政府批判の姿勢を忘れたと批判する論も出ている。しかし、それはメディアに絶対正義としての独裁を要求している様にしか感じない。

第四の権力である時点で、相互監視の対象であり、他の三権を監視するのなら、他の三権から権力行使の監視と牽制を受けなければならない。それを絶対正義で何でも叩けるとした時点で、他を上回る絶対権力となってしまう。そんな簡単な論理も分からない様だ。

健全な相互監視であれば、是々非々でなければならない。ダメな場合は糾弾する必要があるだろうが、良い場合に後押しをする事も重要な相互監視なのだ。何が何でも批判、是とする事は見て見ぬふりの報道しない自由では責任ある権力行使ではなく、「ラクダと老夫婦」の例えそのままのクレーマーでしかない。

「情報」事態が、第四の権力として力を持っている事は誰も疑わないだろう。しかし、その権力を執行する「メディア」にその責任感があるとは到底思えない。視聴率は重要だろう、スポンサー契約もなければ経営が成り立たない。しかし、それだけでは権力行使者ではなく、単なる娯楽企画推進企業、興行関係社でしかない。

第四の権力「情報」の健全な姿への変革の為には、放送法の改正と厳格化、電波権益改革などが必要不可欠だろう。

だが、その健全な方向に向かわせるエネルギーは、逆説的に言うと、そういった踊らされた視聴率を生み出さない、是々非々の健全な議論要求する国民が少しでも多くならなければならない。感覚的、感情的に踊らされ、妄信する空気によって世論を形成させない国民である必要がある。

その為には、教育は重要である。それも論理形成力の直結する理数系の力を育成する教育が。周りを見回しても、数学や科学などを不得手とする人が極めて多く、本人自覚していないだろうが、論理性を保てないのだ。

本当は、国語や社会等の文系科目も論理性が重要なのだが、学校教育では論理よりも記憶科目となっていて、本来の姿である、読解し、誤謬性なく表現したり、歴史の流れを読み解く等は、極めて論理的なのだが、記憶科目化する事で失われているとしか思えない。

第四の権力「情報」は、自国で制度整備をしないと、他国からの影響を受けやすい。それは、意図して他国から世論形成が出来、社会不安に陥れる事も可能という事になる。即ち、国防上の脆弱性にも繋がるのだから、それを防ぐ教育改革と情報制度改革はこの先の重要な国家課題なのだ。

リスク管理視点で考えるコロナ感染出口戦略

危機管理とリスク管理の違いを理解しない、間違った認識が拡散されている事に大きな危機感を感じていると以前より申し上げて来た。繰り返し言うが、危機管理とリスク管理は根本的に違うのだ。

リスク管理とは、将来発生しうる危機状態を予め予測し対策を講じてリスクを受容レベルに低減する事を言う。発生しうる危機状態はリスクを何らかの数値化をする事で評価されるが、一般的には、危機が発生しうる確率と発生してしまった場合のダメージ度合いの積で表される。そして、リスク評価値が取り決めた閾値を上回る状態が確認された場合に、リスク低減対策を実施し、閾値以内に抑える状態を維持するのだ。

従って、対策は発生確率を低下させる策と発生した際のダメージを軽減する策と二通りあり、目的を明確にする必要がある。

そして重要なのが発生しうる危機状態としてどこまでを想定するのかという観点である。考えられる最大限というのは根本的にあり得ない。最大限というのは際限がないからだ。記憶に新しいのは東日本大震災時の津波が想定外だったという言質に対しての様々な批判だ。この件も正確に検討経緯を確認すると、決して想定外ではなく、科学的に検討した結果、発生確率や対策内容等の条件より想定しないという判断をしている。つまりリスクとしては受容したというのが正確だろう。極論言えば、巨大隕石の衝突を想定する訳も無く、リスクとしては受容せざるを得ないのと同じだ。

一方で、危機管理とは、今現在発生している危機事態に対して対応する事である。

即ち発生してもいない危機に、かもしれないと可能性で対策を打つ事は危機管理ではあり得ない。

危機事態と認識、判断された時点で、最初に行うのはその危機の波及範囲、実態の確認である。事実何が起こっているのか、どこまで。そして次に、その危機を危機状態でなくすための具体策を実行する。危機を回避する事が最優先される為、危機状態である事の宣言が必要不可欠になる。

例えばの事例で説明しよう。

大切なお客様とのゴルフの約束が明日。日常よりかなり早起きが必要だが、連日の激務やプライベートのトラブルもあって疲労困ぱい、寝坊の可能性もある。寝坊すれば、大切なお客様を怒らせてしまうので、リスク管理策を実行する。強力な目覚ましを用意、出来うる限り早く寝る等は発生確率を低下させる策。万が一の場合に備え、緊急時にお客様に連絡が出来る様に携帯番号を確認しておくのは発生時のダメージ軽減策。そして、不幸にも寝過ごしてしまった時点で、危機事態発生となる。時間を確認し、スタートに間に合うか否か状況を整理し、予め準備した連絡手段で状況を連絡し、あらゆる手段を使って現地に向かい、謝罪から入り、先方に対して最大限の誠意を示す。そうやってお客様の怒りを鎮めるのだ。

参考までに、よく言われる事業継続計画(BCP)とは、事業が継続困難になる危機事態をリスクとして想定し平時より対策を実施、危機事態発生時に事業として何を優先して継続し、何をやめるか、予め方策含めて計画しておく事である。

実は、東日本大震災後、事業継続計画の取り組みの遅れを認識し、経営課題として多くの企業が取り組み始めている。政府も同様の戦略を持ち、特に医療介護業界に対しては、大きなリスクになり得るとして取り組み強化を業界に訴えかけていたが、業界として殆ど対応してこなかったのが現実である。医療逼迫や医療崩壊はこの事業継続困難事態に当たるので、取り組んでいれば、今の事態は未然に防げていたと残念でならないのだ。

<リスク状況が変化すれば対策も変化する>

さて、リスク管理の視点から、政府の発信した対策変更、自宅療養へのシフトに関して考察してみる。

医療崩壊という危機事態を発生させない為に、直接の管理指標値としては病床使用率がある。正直に申し上げて、現時点で50%前後であれば決して危機事態とは言えず、リスク管理策の実効性を高める時期である。

本来資源として50%も余らせるのは、経営視点からも疑問ではあるが、それは置いておくとして、この数値を低減する施策を検討する。真っ先に考える必要があるのが、分母の数字を増やす事、即ち医療資源を増強する事なのだが、この1年以上国家予算を潤沢に用意して要請しても大きな成果は得られていない。原因は追究必要だが、事ここに及んで分母拡大が期待できない前提に立つと、分子の数値を減少させる以外に方法が無い。

つまり入院患者数を減少させる方法になる。これまでは、陽性者数を減少させる方策に拘っていたが、本来のリスクである死者数や重症者数の減少にも繋がる事もあり、今まではそれでも良しと出来たかもしれない。しかし、重症化数、死者数激減により、リスクの構造が大きく変わってきている。つまり、陽性者が多くても、本質的なリスクは高まらない状況になってきた。

新型コロナの直接的リスクは大幅に低下したのが現実なのである。ワクチン効果や変異による症状軽減などの要因が考えられる。

しかし、残存リスクもある。陽性者が急増する状況で、陽性者が原則入院となると病床使用率の分子を拡大させ、病床の逼迫が生じ、医療の負荷を高め、間接的に医療崩壊に向かうというシナリオである。従って、大半を占める無症状者、軽症患者で病床を埋めるのは得策ではないという判断は適切であろう。

但し、であるならば本来は、2類相当から5類に変更するべきなのだ。現実的には1歩前進の策ではあるが、政治的折衷案としての妥協であり、本質的には誤魔化しの感は否めない。

野党や過激な専門家は猛批判、暴言まがいの発言を繰り返しているが、では対案はどうしようというのだろう、論理的で具体的な説明もない。特に確保病床など医療資源の拡充を図るのは、医療業界の役割なのだがその策を棚上げにしての批判はあり得ない。また、中等症の解釈など、騒動のきっかけとなった毎日新聞が誤報と認め訂正しているにもかかわらず、いつまでも揚げ足を取っているのは、あまりにも酷く嘆かわしい。

危機事態ではないので壊滅状態に至っていないが、もし危機事態であれば大変な事に成り兼ねない。もしかすると、今の日本の国家としての最大のリスクかもしれない。

感染拡大の虚実、専門家の言わんとする事と発信される情報のギャップ

過去最多の感染状況だとメディアでは危機を煽り続け、地上波でテレビ専門家は一般市民も矛盾に気付く様な、何が何でも危機煽り発言が止まない。

筆者は、これらの専門家は本当にこんな簡単な論理すら分からず、信頼をどんどん低下させる言動を繰り返すのが不思議で仕方が無く、本当の所はどうなのだろうか知りたく、京都大学の西浦先生に問い合わせてみた。

西浦先生は、多忙を極める中、小生如きの門外漢の質問にも丁寧に、分かり易く、そして複数回のやり取りを通じて説明して頂いた。正直、これ程丁寧にお答え頂けるとは思っていなかったので感謝以外の言葉は無い。そして、ある誤解は解け、ある仮説は確信となり、小生なりに一つの結論に至っている。そして、過去の小生の論説の中に西浦先生の真意を理解せず、かなり失礼な物言いをしていた部分もあるのではないかと反省し、その事は謝罪したい。

結論から申し上げる。西浦先生のお話になられた、医療崩壊のシナリオは、データに基づき、精度の高い予測として論理性を保っている事は間違いない。但し、それを伝える表現にかなり問題があり正確に伝わっていないと断言するに至っている。今回も複数回の丁寧なご回答を頂けたので、初めて一定の理解に至ったのだ。

そして同時に、問題状況を打開する方法論の検討等、マネジメントに関しては、失礼ながら素人であるが故、周囲の感情的な誤誘導影響も受け、論理性を欠く部分もある。論理と非論理が入り混じった状態の発信なので、論理の部分も正確に伝わらないのだ。

残念ながら、専門の道を究められている方に、プレゼンテーションやコミュニケーションを期待できないし、するべきではない。それは、本来メディアの役割の筈だが、真のメッセージを届ける事よりも、捏造でも何でも、政府を批判できれば良い、或いは視聴率が稼げれば良いという風潮で、本来の責任を果たす意識が欠落していると感じる。テレビ出演の専門家も同様、自己矛盾の論を強弁する上から目線の姿勢を視聴者から見て取れる時点で、何か別の目的を持っての発言と受け取られるのは必然だろう。伝わらない焦りから悪循環しているとしても弁解の余地はない。

<医療崩壊のシナリオと対応策>

西浦先生にご説明頂いた医療崩壊のシナリオを簡単にご紹介すると、重症化や死者云々ではなく、若者の陽性者が激増する事で、一般病床が埋まり、医療崩壊に繋がるという簡単なシナリオだ。そして、重症者数や死者数が激減している事は認められており、一般病床崩壊前の重症病床の崩壊を言っている訳ではないのだ。

即ち、一般の確保病床が埋まり、医師の負荷が高まる事で、医療サービス自体の低下を招くのだが、であれば違った対策のアプローチが本来ならば検討される必要があると考える。

それを専門外の五輪が云々だとか、人流や飲食店がどうのと言い始めると、そのエビデンスを示せる訳も無く、説明に矛盾を孕むので、本来伝えるべき情報すら信頼性が欠落していくのだ。

五輪と感染の関係を示す証拠は何もないが、逆に、他のイベントの1年間の取り組みから、実効性のある対策は実績があり、感染抑止と開催を両立できる事は示されている。飲食に関しても同様、感染リスクのある行動もあれば、抑止できる対策も明確になっている。旅行や人流も同様だろう。

であれば、実はやるべき事は明確になってくるはずなのだ。

<現在の日本で取り得る対策案>

  • 若者中心に、今は大事な時期で悪い病気も流行っているので風邪をひかない様に健康管理を徹底する様に注意喚起する
  • 医療の専門家を地上波メディアに出演させない
  • 政府の分科会や医師会などの発信を地上波メディアに載せない
  • 幅広い医療の専門家の情報、経済影響・政策の専門家の情報を受け、解釈し、総合的な提言としてまとめるマネジメント経験者の組織を設置する

『風邪をひかない様に健康管理』は実は核心を突く対策なのだ。入学試験などに備え、健康管路を徹底する事は普通に言われるのだから違和感はない筈だ。その為の方策も極自然に理解しているだろう。自然免役力を高めるために、睡眠を充分に取り、栄養も充分に採る。適度な運動、ストレス発散、ビタミンD取得、日光浴等もそう。ウイルス暴露しても感染を抑える為に、手洗いうがい、洗顔で目も洗浄を徹底する。風邪のひき始め、少しの変調に早期対応を徹底する事だろう。

『そんなこと今までもやっている』と言うのは間違いだ。今言われているのは、所詮コロナに感染しない様に、と言われているだけだ。風邪をひくなとは言われていない。この時期、例え単なる風邪であっても発熱すれば面倒臭いし、社会にも影響を及ぼす。ひいてしまったら仕方がないが、ひかない為の最大限の努力、心がけを訴えかける。社会人であれば、所属企業から、学生であれば、保護者や学校から、そういった社会構造が必要なのだ。

そして、正しく伝える事が出来ない、コミュニケーションやプレゼンのプロでない医療の専門家が政治発言を繰り返す様では、社会の混乱を招くだけだ。本来、メディアが節度を保ち、専門分野の情報も的確に解釈し、発進すべきだが、その意思も無く能力すら無い事が知れ渡ってしまった現状では、一定の情報統制も必要となるだろう。原論の自由が奪われる訳では決して無い。寧ろ、適正な言論の自由を担保する為に、ネットを最大限活用し、地上波メディアは厳格に放送法の適用をするだけなのだ。それでも反省しないなら、電波使用許諾を取り消すくらいの強硬策もありだろうし、少なくとも許認可の条件に、一定の政府発信枠や両論公平な討論、言論の情報番組の枠を確保させる事。ペーパーメディアも裏取りの無い情報発信で誤報とされた場合に強力な罰則を与える必要があるだろう。

メディアの萎縮?嫌々、これ程社会不安を煽る様では、少しぐらい委縮して頂いた方が社会の為であり、ネット空間には玉石混交だが種々の情報が入り混じる状態が存在しているのだから、言論や情報発信の健全化は図れるだろう。

そうやって情報発信が健全化されれば、本質的な問題が確実に見えてくる。

若者のコロナ陽性者で一般病床が逼迫するのであれば、最有力策は、尼崎の長尾医師の成功事例の水平展開ではないだろうか。初期医療を適切に実施し、非感染者と、無症候感染者を切り分ける。発症時に早期確認が出来る様にオンライン診療を充実させ、入院患者を未然に防ぐ。実は日本の医療体制の一番得意とする領域の筈なのだ。

それ以前に、2類感染症相当から外すだけで解決するかもしれない。インフルエンザやRSウイルス感染症と同様の対応で、重症化や死亡に至る不幸を同等に抑えられるのであれば問題ない筈だから。

西村大臣事件の真の問題性になぜ迫らない

西村大臣の法的根拠の無い酒類提供に纏わる民業圧迫発言、優越的地位の乱用は、法治国家として決して許されるべき問題ではない。しかし、責任追及、辞任要求と馬鹿の一つ覚えの批判一辺倒の野党では、国民の真の信頼獲得には程遠い。野党にとって、政権の息の根を止める絶好のチャンスなのだが、本質を突き、改善提案を展開する動きが見えてこないのが残念でならない。

真相究明が必要だ!と言うのはその通りだろうが、前後関係含めた連綿とした流れ、既にオープンとなっている情報から、構造的な欠陥と真の問題性は、ほぼ見えてきているはずだ。責任を問い、批判するのではなく、改善策を提案しなくてどうする。

<超法規的施策実行手段としての事務連絡>

少し重要事項の事実関係を深読みした整理、考察をしてみる。

一連の通達、指示内容が法的根拠を持たず、問題であるとの認識は官僚であれば周知のはずだ。もし政治家の暴走なら、『お代官様!ご乱心』と止めるはずだ。それがスルーされている。しかも『事務連絡』という手法にて行われた。『事務連絡』とは閣僚会議など経ずに行われる、まさに本当の意味での事務連絡に過ぎないが、つい先頃この手法を使った前例があった。

ワクチン接種に医師が非協力的で、打ち手不足のため、先行きが見えなかった際、超法規的措置により政府は打ち手を歯科医まで容認すると発表、更にそれでも不足の場合は、薬剤師など二の手三の手があると示した。それによって、自身の領域(権益?)が侵される危機感を感じたのか利得確保のためか、接種が加速し始めた。この時に使用した通達が『事務連絡』なのだ。

つまり、本来法改正が必要な事案に対して、目的達成の為に超法規的手段を講じる裏技的に『事務連絡』を使用する前例となったのだ。

断っておくが、ワクチン接種促進の為の超法規的措置は政府の英断であり、評価すべき政策実現だと筆者自身は思う。しかし、前例となってしまったが故に、悪用されるリスクも想定すべきであったと反省するべきだろう。

<事務連絡が使われた背景?>

東京都に対する4度目の緊急事態宣言においては、客観的に見ると酒類制限以外に制限措置は無いと言っても過言ではない。しかし、その措置自体、精神論であって、科学的根拠がなく、強制力もない為に実効効果に乏しいのも現実。巷では協力金の充実、早期支給があればという言われ方をするが、それは規制に対するダメージ軽減策でしかなく、措置の効果を有効化する手段ではない。

緊急事態宣言発出自体に科学的根拠が無い状態なので、納得感のある有効な手が無く、手詰まり状態で、苦肉の策として魔が差して血迷った方法論に向かってしまったと考えるべきだろう。

では『事務連絡』の利用、今回の措置のアイデアは西村大臣発のものだったのだろうか。もしそうなら、前例のワクチン接種と異なり、官僚の様々なブレーキが働くと考えるのが通常だろう。官僚側から見ると、少なくとも分かっていてスルーさせた、もしくは意図して仕掛けた可能性も否定できないと感じている。

それは、政権運営の基盤が揺らぎだした所で、官邸主導の状態から官僚主導に揺り戻したいという力が強まり、前例ある超法規的措置実行手段としての『事務連絡』利用を企てた。政治関与を弱めた政策強行手段としての活用、万が一発覚しても問われるのは政治であり、更なる政治弱体化を産み出せれば、官僚主導への回帰が加速でき、活用におけるリスクは低い。こう考えた企てだと考えるのは考え過ぎだろうか。

財務官僚幹部とテレ朝の社員との関係、情報リークに関して堂々と番組でも語られる事も含め、政治に対する官僚の攻勢が強まっているのは、事実だろう。

そして、もう一つの観点。この『事務連絡』の文書は自治体でもスルーされているという事だ。自治体で、これはおかしいと、抵抗があって然るべきだが、何事もなくスルーされている。

一部の話では、自治体の責任回避、国家への責任転嫁等、政治利用できる強力なネタとして使えるので握りつぶしてスルーしたという説も語られている。

<では、どうするべきか?>

どちらにしても、大臣の首を取ったり、責任を追及、真相解明という事が進んでも、国民には何の利益もない。改善策案を明示し、実効性を担保する方法を指し示すことが国民の利益に繋がり、信頼を勝ち取る唯一の方法だ。そして、政治主導の体制をもう一度作り上げるのか、官僚主導とするのか、バランス再考するのか、その議論が重要だろう。

個人的には、やはり民主的に選出された議員を主導とする政治主導とするべきと考えるが、ポピュリズム等で民主的に間違った選択に偏った場合の最低限のセーフティガードの為に官僚にも一定の力が必要だろうし、そうでないと国家運営における有能な人材、能力が育ってこない。従ってバランスだろうが、議論を重ね、固定化せずに一定の振幅幅での柔軟な体制変更で継続できる構造が必要だろう。

そして、やはり超法規的措置は、放置していては良くないだろう。従って、ワクチン接種の打ち手は、後付けとなっても法的裏付けを備えるべき。同時に、今の法制度では有効な手が打てず、手詰まりになる現実があるのだから、有効な措置が打てる法的整備が急務である。

4回目の緊急事態宣言に科学的根拠が無い事も問題だろう。有効な措置を発令する条件、緊急事態発令の根拠として、科学的根拠に基づく論理性を保った背景説明を必須要件とするべきだろう。

科学的条件は、一部の専門家と称する偏った意見に支配されずに、多様な意見の元に政治決断できる様にするべき。一部の専門家に権限が集中してしまうと、バランスが取れなくなりやすく、政治判断まで求められる事態に発展してしまう。

緊急事態時の措置において、補償は必要だが最優先ではなく、論理性を保った納得感のある条件設定の方が最優先なのだ。

まとめると

・政治主導の官僚統制体制の再構築、バランスの見極め

・既に発した超法規的措置(ワクチン接種)の法的裏付け構築

・科学的多様性のある見解の議論の場を整理し、政治判断に活かす体制の検討

・緊急事態の定義、科学的根拠と条件設定の法制整備

簡単ではないだろうか。法的根拠を作る事でしかない。立法府の皆さんが、法的根拠を作る事に全力を投じず、小手先の協力金や責任追及しかやらないのは、職務放棄に等しいのではないだろうか。

感情に論理が負ける日常が社会不安定を招く

スーパーコンピューター富岳による東京五輪で国立競技場に観客1万人入れても感染リスクは僅かだという、シミュレーションが報告されたが、あるテレビ番組で医療の専門家が、観客を入れたらリスクがある事は間違いない、と全否定した。正確に言うと、この専門家の発言は論理的には何も間違ってはおらず、富岳はリスクは僅かと結論しているがゼロだと言っている訳ではなく、リスクがある事は間違いないと言うのであり、何も矛盾しない。

しかし、ゼロリスクを前提とした論理を専門家の発言力によって発信する事は、誤誘導を発生さ、多くの人は安全ではないと頭では違うと理解していても、感情的に妄信してしまう。人の心理として危機を煽る方がインパクトが大きく、冷静にリスク論を論理的に、数字を使って語っても、心には届き難くなるからだ。つまり、社会不安を醸成する問題行為なのだ。

ゼロリスクとは、リスクが僅かでもあれば安心が得られないと強弁する事であり、医療の専門家はどうしても安心側から話をするという自己弁護を繰り返すが、これは自己矛盾を起こしている。スタジオでマスクもせずに強弁する行為、各地から放映の為にテレビ局に移動する行為に感染リスクがゼロとは言えないからだ。

その他にも数々のダブルスタンダード、言行不一致を繰り返す状況では、発言の正当性が失われている事に気付く必要がある。何故、その場のコメンテイターはこう追求しないのか『では、感染対策を実施したパーティーや寿司会食とどちらの方の感染リスクが高いのですか?』この質問の意図は、科学で語らないのなら、感情論で語っても納得ある説明が出来ないでしょうと気付かせる事だ。

この非科学的論理破綻の感情論の担い手は、いくつかの層に分類される。

一つは、確信犯的層。それは、

  • ① ネット言論空間で跋扈する活動家
  • ② 政府批判を目的とする野党勢力
  • ③ 地上波メディアで危機煽り発言を繰り返す専門家
  • ④ 権力の監視・批判が役割で目的達成の為に手段は問わなくて良いと誤解するマスコミ

等であろう。しかし、数的には本来少数派の筈なのだ。①は数年前からSNS利用の反対意見つぶし等目に余る行為もあるが所詮マイノリティであり、②もだからこそマイノリティで野党なのだ。しかし、③④の力は絶大であり、①②と連動する事で影響力拡大、第四の権力としての実効力を持つに至っている。しかし、そのもの自体はそれでも少数である事は疑い様が無い。この①~④に影響を受け扇動される層、従来であればサイレントマジョリティであったはずの層が影響を受け、感情論のマジョリティを形成している現象であり、この層の特徴をいくつか挙げる

  • ① 文章を読まない、或いは読めない。全文読まず、単語の切取りで分かった気分になる。
  • ② 書いてもいない事を印象で決めつけレッテル貼りする。
  • ③ 事実やデータから目を背け、否定する。自分で調べる事もせず、論拠がない。
  • ④ 論破されても次から次へと論点を変えるだけで、論理的な反論が出来ない。
  • ⑤ 著名人を呼び捨てにする等相手に対する敬意を持てない。異論を認めない。

これは、情弱そのものであり、この様な状態でまともな議論が出来る訳がなく、意思決定が健全に行えるとは思えない。SNSの書き込みや記事へのコメントなど気分が悪くなるくらい酷い内容が多い。結果として、ネット空間での集団リンチ、言論弾圧が平気で行える不健全な環境を産み出すのである。これが世論形成に影響を及ぼす規模に発達すると社会は不安定化してしまう。

感情論の危険性は、法治国家を揺るがす私刑、同調圧力に発展させてしまう事は疑い様がなく、民主主義の意思決定にまで及べば民主主義が破綻する。これに対抗し健全性を取り戻す為には、論理的な議論を活発化させる、その為の言論空間を整備することだろう。

反対意見を排除する為の報告利用は論外であり、直接言論弾圧なので法的罰則も必要だろう。そして、同時に言論の自由は無制限ではなく、一定のルール・マナーも必要だろう。

  • ① 異論に耳を傾け、敬意を払い、正当に解釈する寛容性を持つ事。
  • ② 持論の展開は事実を前提とし、裏付けと、論理性を保つ事。
  • ③ 反論の場合は尚更、ポイントを整理した上で論理性を保つ事。
  • ④ 不必要に議論を拡散、散漫させず、一つ一つ是々非々で決する。

であり、これは即ち読み書き算盤の基本、社会人として最低限のマナーなのである。

文章を読み、読解力を身に付け、科学的な知識を前提に、事象の検証の為に裏付け確認を怠らず、数字の意味を読み解く力を育成する。難しく書いたが、義務教育において獲得するべき基礎能力である。

残念ながら、この基礎能力に問題があるか、或いは能力はあっても、基本事項を無視する層が存在する。この層は、昔なら民主主義の意思決定には、浮動層の一部としては機能してきたが、ネット普及により多数世論を形成出来るマジョリティになり得る様になり、結果として社会不安定性が高まっている。

世界史的に国家や組織の統治方法として、国民、組織構成員への教育を充実させず、上記基礎能力を持たない人間で多数派形成し、情報操作で都合の良い方向に扇動し都合の良い安定化を図るという考え方もあったが、現代では通用しない。それはネットによるオープンデータが事実を知らせる効果を持つからだ。

幸いな事に、日本は有史以来上記の方法を採用する様な考えを為政者が持たず、国民への教育は文化発展と共に充実させてきており、識字率など古くから世界トップクラスを誇っていた。それでも、明治維新で西欧列強に肩を並べる為には、国民の基礎学力の支え、強化が必要であり、『学問のススメ』が提唱されたりもした。

世界的に情弱による社会不安、民主主義の崩壊が進みかねない状態において、現代版『学問のススメ』の考え方は復刻するべき事項と思える。

ワクチンパスポートに潜む問題性

ワクチン接種者に対して何らかのサービスを提供するパスポートと言う考え方が海外から発信され、日本も検討に入っている。これは一種の認証制度であり、認証手段としてのワクチン接種実績の利活用は根本的にまずいと、少しでも認証に携わった経験、知識があれば感じるはずだが、世の中では感覚的で安易な論調が支配的だ。

<ワクチンの効果>

ワクチンの効果に関して、そもそも誤解が多い様なので簡単に確認しておく。

ワクチン接種により体内に抗体が生成され、感染して体内侵入を許したウイルスに対して抗体反応を起こし、増殖を抑制する事で発症、重症化を抑える。この順番、仕組みを理解すれば本来感染予防には直接の効果が無い事は理解できるだろう。

感染症は、ウイルスに曝露する所から始まるが、曝露しただけでは感染しない。この時点でもPCR検査では陽性検出されるので要注意。次の段階で、体内にウイルスの侵入を許す、これを感染として良いだろう。この段階でも発症はしていない。次に、体内でウイルスが増殖し発症、更に増殖し重症化というステップを踏む。

このステップをワクチン接種後の実社会での現象をイメージすると、感染後にウイルス増殖を抑えるという事は、発症者を減少させるはずだ。つまり、発熱外来などに訪れて検査する人は減少する。その結果、感染者数は減少する。更に、ウイルス増殖を抑える効果は市中へのウイルス蔓延を量的に減少させる効果もある筈で、市中での曝露リスクも減少し、感染数はさらに減少するという効果を生み出す。

この様に考えると、集団免疫と言う仰々しい話以前に、ワクチン接種が進むことで社会としての感染抑止効果が期待できるのであり、諸外国でそれを裏付ける結果が出ているのだ。しかし、今の考え方でPCR検査を増やすと無症候感染者、曝露非感染者を拾い上げ、陽性者数はそれ程減少していない様に見えるかもしれないが、感染者は減少するのだ。

あくまで明確にしておきたいが、個人の効果だけではなく、社会としての効果があるのだ。従って、接種判断が個人の自由であっても、一定率での接種が実現すれば、社会的には何も問題なく、接種の有無で社会的サービスに差があってはならないのだ。

一方、個人としての効果もよく考える必要がある。というのは、個人によってワクチン接種後の抗体生成量に違いがある様に、誰でも同じ効果を生み出すものではない。つまり、感染抑止の個人の安全度合いは接種完了したからと言って一様ではないという事である。あくまで個々人毎に異なる効果であり、一律でなく確率で語るべき事項なのだ。

そして、ワクチン接種していないからといって、一様のリスクを持っている訳ではなく、個々人毎、健康状態の差異もあり、感染リスクの度合いは異なるのだ。諸事情により、ワクチン接種しない場合でも、それが即、感染リスクを増大させるものではなく、あくまで確率の問題なのだ。寧ろ、初期免疫、自然免疫力の充分な人の方が感染リスク自体は低いのである。

まとめると、個人の感染リスクはワクチン接種の有無で確定するのではないのに、サービスを受ける認証に使うのは不合理かつ不適切なのだ。即ち、社会的安全性獲得状況であれば、サービス提供が均一であるべきなのだ。

しかし、これは日本国内では議論すれば良い事だが、他国の動きをどうこうできるものではなく、既に海外ではワクチンパスポートなるものは使われ始めている。日本人であっても、海外との交流、グローバルビジネスの場では、日本事情だけを押し付ける事は出来ず、海外対応時のワクチンパスポートは必要になってくる。この両面を混同せず、理解した運用に落とし込む必要があるのだ。それは、以前拙著でも語った、陰性証明書なるものの運用と同じ考え方になるのだ。

では、何故諸外国ではワクチンパスポートが必要なのだろうか。

<ワクチンパスポートの価値観背景>

この事を考えるには、欧米、聖書文化圏における、知らず知らず影響を受ける思想基盤を考慮する必要がある。唯一絶対神の下に平等で、契約により成立している文化圏では、白黒はっきりとさせないと物事が進まない社会環境にある。逆に言うと、デジタル的に判定できる基準があれば物事が前に進みやすい。それが故、PCR検査を判定のツールに求め、陰陽明確にする陰性証明書が利用され、それらも包含したワクチンパスポートが有用になるのだ。

それは基本思想の問題、論理ではない価値観なので、他国・他民族が否定する事はあり得ず、多様性の範囲として容認すべきで、彼らとの交流においては受け入れる必要があるのだ。

この事は、はっきりと意識する必要があるし、日本の基盤思想と相いれない事も了解しながらの対応が必要なのだ。逆に言うと、完全に他国基準に合わせる必要はないし、合わせるべきでもない。

日本の文化基盤を考えると、絶対神とは対極的な八百万の神を抱く多神教基盤にあり、多様性を前提として、和をもって貴しとなす、万事公論に決すべし、と連綿と連なり、個々の価値感を容認しつつ、民主的に全体の方向性を決し、個人の価値感を超越した協力体制が築けるという基盤を有するのだ。

ワクチン接種に置き換えると、個々の価値判断は容認し、その事で差別化せず、社会全体の方向性を定め進む事が出来るし、日本に相応しい。そして、海外の価値判断も同時に容認し、適合させる部分は適合させ、ある意味節操なく、柔軟に対応していく。その為に、ワクチンパスポートは必要になるだろうが、国内利用は極めて限定的である必要があると結論する。

国家や民族は、自らのアイデンティティを失うと衰退に向かう。

今、日本は国際社会から、社会不安状態に見えている。それは、公論が成立せず、論理無用の感情論が正論を打ち負かし、政府政策にまで負の影響を及ぼしているからだ。歴史的には安保闘争に似た自らの絶対正義を打ち出す暴力性、国際連盟を脱退させ好戦的に向かわせた世論を醸成した言論環境と似た状況ではないだろうか。これは危険なのだ。

絶対正義を抱く論理を超越した排他的思想は、日本の根底には本来存在しない。

一つ一つ事実に向き合い、論理的思考による是々非々の言論環境を取り戻さねばならないだろう。

情弱が産み出す国民感情に政治は寄り添えるのか

リスク評価に対応する科学的対応策だけでなく、国民感情に寄り添い勘案するべきだとの主張をする有識者もいるが、では、国民感情とは何なのか?そこから考えなければならないだろう。

<感情とは>

感情とは個人がコントロールする事が難しい。アンガーマネジメントの方法論など書籍が多数発刊されているという事は、悩む人が多いから需要がある現れなのである。では、特に怒りの感情のコントロールが難しい原因を確認していきたい。

まず、完璧主義である事。物事が自分の理想的な思いの通りに進まない事にはストレスを受けるのだが、完璧主義であるが故、世の中の出来事の殆ど全ては思い通りに行くはずもなく、ストレスが極大化する傾向にある。

更に、ネガティブ思考は過去も含めていつまでも失敗や後悔、他の人への恨みなどを引きずってしまうので、同様にストレスを増大させる。

これらのマイナス要素でストレスを増大させることで、怒りの感情はコントロールできなくなり爆発してしまう。爆発してしまった感情に寄り添う事など事実上あり得ないので、爆発しない様に、コントロールできる範囲に収める事が必要不可欠になる。

では、コントロール可能な範囲に収める為にはどうすれば良いかを次に考える。

完璧主義に対しては、人の考えや意見などは多種多様であり、専門家といえども異論反論は普通に存在するという現実を知らしめることだろう。その結果としての個人の見解や主義主張を持つ事は問題ないが、それが唯一絶対の真理、絶対正義でない事を認識する必要があるだろう。

ネガティブ思考に関しては、言うまでもなくポジティブ思考に少しでも転換する事。ネガティブにより全否定される状況から、あの手この手、どうにかしてこの状況を好転させる為には何ができるか、確実に一つ一つ実行に移す事でストレスは解消されていく。ポジティブまでは難しい、とするのなら少なくともデータやFACTに目を向け、感情的にならず論理的に思考する事で、少なからず不要な不安に陥る様なストレスは回避できるだろう。

以上の事から、感情に寄り添うには、多様性を認めた議論、意見交換が活発に行われる事、ポジティブに、事実に基づいて思考する静かな環境が必要になる。

逆に言うと、この必要な環境を壊せば、感情はコントロールできない状態に導くことが可能なのだ。実は、この環境破壊を日常的に行っているのが地上波メディアによるニュース、ワイドショーなのである。

<情報弱者とは>

情弱とはウィキペディアによると、『情報環境が良くない場所に住んでいる』『情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でない』これらの原因により『放送やインターネット等から必要な情報を享受できない人』を元の意味として、『各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人に対する蔑称』と表現している。

今の地上波メディアは、多様な意見を封殺し、ある恣意的な一方的な意見だけで埋め尽くし、異論を許さず、異論を言う人間をあり得ないとあからさまに非難し続けて、情報環境が良くない場所を作り出している。

この悪環境は元来、平日日中に地上波テレビにお世話になる人達のみが晒されていたが、コロナ渦でホームステイ率が拡大し対象が増えている。つまり状態は悪化しているのだ。

この状態悪化は人々の能力を劣化させる。普段から、両論による議論に触れて、思考訓練されなければ能力は当然ながら劣化する。こうなると悪循環となり、多様性のある玉石混交状態のインターネットの情報に触れても、自身の触れてこなかった異質な情報を受け入れ、かみ砕き、考察する事が出来なくなり、見ても完全スルーで中身まで見る事が無くなり、都合の良い偏った情報だけに触れる偏りが強くなるのだ。この状態は、ネットでも多様な情報に触れていると勘違いし、かつ自身の意見が大多数であり正義であるとの誤った認識を持った情弱者が生まれる。

この事は、例えばヤフーニュースのコメント等を見ていると絶望したくなる状態になっている。

典型的な事例として、先日の五輪での酒類提供禁止の決定に関して昼のあるワイドショーでの一幕を挙げる。内容的には酒類提供の検討をして禁止と決定した事に対して、番組内コメンテイターは口を揃えて検討すらあり得ないと言い切っていた。たった一人、良識あるコメンテイターが検討は良いのでは、と言った瞬間、総攻撃で他の全員が全否定してのけたのだ。

この件を記事にしたヤフーニュースのコメントの大多数が、酒あり得ない、という感情論で番組趣旨に同調する内容であった。普通に考えれば、何か物事を決定しようとすれば、両論戦わせ、プラス面とマイナス面を考慮し、検討しなければならない。この手順を欠くと所謂独裁、独断でしかないのは自明なので、番組は民主主義を否定、自分達の意見は絶対正義で議論は必要なく従えと言っているに等しく、非難されるべき、少なくとも放送法第4条違反とされるべきなのだが。しかし多くのコメントは民主主義否定に賛同を示したのだ。

少し調べれば嘘と分かる事すら調べず、切り取られ偏向した断片を妄信し、少しまともに聞いていれば以前言っていた事と矛盾していると気付ける事もまともな思考回路を働かせる事が出来ない人達、情報弱者が大量生産されているのだ。

<国民感情に寄り添う為には>

まず、国民と冠が付いているが、決して全ての国民が同じ感情を抱いている訳ではないし、統一されている訳がない。従って、拡大解釈した、国民○○という言い方は、本来都合よく使うべきではない。よく、国民の総意だとか、政府を攻める時に使われるフレーズでもあり、ほんの一部の意見である場合のカモフラージュである事が多い。国民感情も同様である。従って、国民感情と称する場合は大抵の場合、一部の反対意見を持つ感情にどう対峙するかと解釈するべきであろう。

この反対感情に強行的に対峙し続けるだけでは、昔なら一揆に繋がる、現代でも社会情勢不安定に繋がり兼ねないので得策ではなく、寄り添うべきなのだろう。しかし、寄り添うと言っても、良い事と悪い事は区分けし、是々非々の対応が必要になる。100%反対感情に寄り添っていては、政治は全体最適を失い、他の多くの国民に悪影響を及ぼしてしまうからだ。

即ち、バランスでありバランスを欠いた時に支持を失うのが民主主義政治だろう。

反対感情に寄り添いながら、バランスを取り、出来うる限り全体最適を目指す為には、反対感情を生み出す元を改善する事の方が、より全体最適に迎える事は疑い様がない。

感情を爆発させず、コントロール可能で健全な範囲に止める為には、多種多様な意見、確かな事実とデータに基づく情報発信が行える環境を構築する必要がある。

そういう意味で今の地上波系のニュースやワイドショーの類はターニングポイントである。反省して、放送法第4条に恥ずかしくない形に改革するか、反省せず存在意義を失い、自滅していくか。どちらにしても、ネット空間の情報の充実とテレビに関しては、専用チャンネル等多種多様な情報発信に触れる事が出来る番組制作とNHK改革で両論戦わす討論系の番組を増やす等、明確な手を打っていく必要があるだろう。

一見正義に思える考えも、深く議論して見れば、様々な考え方や、越えなければならない課題なども見えてくる。時には、その課題を越える事で発生する弊害に気付き、寧ろデメリットの方が大きく、考えを変える事もあるだろう。そういった深い議論、深い思考が重ねられる環境こそが、国民感情に寄り添える環境になると確信している。