他説を封殺するのではなく、受け入れないと議論にはならない

違和感の塊。この閉塞した、重苦しい空気感が息苦しすぎる。

さざ波発言に対する攻撃は過激化している。グラフを見れば、FACTは諸外国と比較して明らかに平穏な状態である事をデータが示している。さざ波という表現に何も間違いはない。但し、最後の(笑笑)という表現が不謹慎で、不適切という感情論的指摘はあるだろう。しかし、攻撃はその範囲を大きく逸脱し人格攻撃に至っている。これは中世の魔女裁判だ。

<アスリートが発信し始めた内容の一部解釈>

アスリート達も声を出しつつある。錦織選手は、人が死んでまで五輪を開催させるべきでないと言う趣旨の発言、新谷選手は、アスリートは特別な存在でなくワクチン接種優先される事への違和感を語った。

人がバタバタ死んでいく様な状況では、その通りだろうし、欧米の感染ピーク時ならば考える必要があるだろう。しかし、日本はデータを冷静に比較するとワクチン接種が進み活況に沸いている英国などの状況と同レベルなのだ。逆に、だからこそ、この状態で医療逼迫となる脆弱性が一番の問題なのだが。

流石に1人も死なない状況でないと開催できないとは言わないだろう。そんなことを言っていたら、車に乗る事すら出来ない、いや、外出など出来様がないからだ。入浴中の溺死が年間5000人発生している現状では、風呂すら入れない事にもなる。

ワクチン接種の優先順位も確かに日本は少々疑問を感じざるを得ない。

医療従事者が最優先と、日本では誰も疑問を持たないし、発言できない空気がある。しかし、国際的には、この基準は日本だけであり、百歩譲って医療体制の事を考えると、10%もいないコロナ対応医療従事者が最優先とするべきなのだ。

日本の医療資源の数%しかコロナ対応していない。ワクチン接種も、政府が調達に成功しても、今度は接種に非協力的、非建設的な発言がメディアで吹聴されている。90%以上のコロナ非対応の医療従事者が協力すれば可能だろうし、少なくともワクチン接種者は協力するべきだろう。一般企業で社長からトップダウンの指示があったら、無理と言わずに、やる方法を徹底的に工夫しイノベーションを起こすべく努力する。何故、その姿勢が取れないのか。

高齢者も順番が違う。データから見れば明らかで、ぴんぴんしている高齢者よりも高齢者施設に入所している高齢者の方が明らかに致死率が高い。大阪などはその典型例なのだ。つまり、全ての高齢者を公平に接種するのではなく、施設入所者と施設への出入り関係者を優先接種すれば効果は大きい筈だ。実は、多くの国はこの考え方を取っている。

アスリートも優先接種の対象ではあり得ない。しかし、水際対策でバブル対応を実施したとしても確保できるのは安全であり、安心を確保する為には、入国者をワクチン接種者に限定すると考えれば、論理性が高い。そういう意味での優先接種なのだ。

新型コロナを恐れる必要は無いとは思わない。正しく恐れるべきなのだが、今の風潮は、恐怖で煽られ、事実に目を向けず、他説に対して排他的で攻撃的に絶対正義を押し付ける、極めて危険な状況なのだ。

正しく恐れるためには、正しく事実に目を向けて、他説にも耳を傾け、冷静な議論・考察を繰り返し、対処を判断していく必要がある。まさしく、冷静な議論が必要なのだが、国会審議でも排他的絶対正義での糾弾しかなく議論にならない。冷静な議論に必要なのは、データが示すFACTであり、そこから論理的、科学的考察を行う必要があるのだ。

<オープンデータが示す日本の感染状況>

日本の2021年5月10日時点での状況を、NHKのサイトから確認する。

累計感染者数は646,699人、死亡者が10,981人、重症者が1,152人である。

しかし、まず感染者数というのは大きな嘘である。正確に表現すると、検査陽性者である。正確に表現しているサイトもあるが、メディアなどは全く出鱈目なのだ。何が違うのか。感染に関わるステップを時系列で示すと下図の様になる。

つまり、公表されている感染者数というのは、ウイルス暴露以降の人の数を示しており、正確に言うと検査陽性者なのだ。陽性者とは、感染すらしていない人や感染後も無症状のまま発症しない人も含むので、実際の感染者より相当数多い数字になる。また、感染後も発症直前までは他人に感染させるリスクは極めて低い、逆説的に言うと、近い将来発症する人でないと他人に感染させないのだ。

ここで他のデータも確認する。2021年4月29日に朝日新聞デジタルで報道された世田谷区の実態調査である。無症状者に感染力のある人が存在したと騒いでいるが、その実態は、21,710人を対象に検査した結果、117人が陽性(陽性率0.54%)。その無症状陽性者78人の内、約3割の27人が感染力のある状態である事が分かった。つまり、0.18%の人が感染リスクを持っていると言う計算だ。

よく言われる無症状者からの感染リスクとは、この僅かの近い将来発症する人だけであり、その他大勢の無症状者を対象とした検査は不効率極まりない事が理解できるだろう。

次に死亡者数だが、これは厚生労働省の定義を示す必要がある。それは、陽性者で死亡した人であり厳密な死因を問うていない。極論言うと、ウイルス暴露しただけで陽性判定されれば、他の死因で死亡した場合もコロナ死に含まれるのである。当初は正体不明の為、広く確認する必要があったのだろうが、例年のインフルエンザ死者とは定義範囲が異なるのだ。インフルエンザ死者は、直接死因の死者がおよそ3,000人、関連死含めると10,000人である。コロナは関連死よりも更に定義範囲は広いので、現状の10,000人でもインフルエンザと同等以下であることになる。

では、実際の直接死者数はどうなのだろう。推定する情報があった。それは、日本COVID-19対策ECMOnet、COVID-19重症患者状況の集計の数字を流用する。ECMO治療成績の2021年5月4日現在の累計数では、

ECMO離脱  339件

死亡     194件

ECMO実施中 61件

この数字は、日本のおよそ80%をカバーしているとの事なので、ECMO装着後死亡に至ったのは、194÷0.8で243人が推定値となる。

そして人工呼吸治療の累計は

軽快  3046件

死亡   877件

実施中  520件

同様に80%カバーなので、人工呼吸治療後の死亡者は、877÷0.8で1096人。

ECMOと人工呼吸器を合わせると、1,339人が推定値となる。

1万人を超える死者をカウントしているのに、重症化からの死者がたったの1,339人なのだ。例外的に重症化せずに死に至るケースもあるが、それにしてもカウントされている死者数は多すぎる。これは何を意味するのか。

もう一つ他のデータだが、第三波の大阪における死亡事例をまとめたデータを見てみる。2021年4月13日時点の集計で、36,065人の陽性者中、重症で入院療養対象となったのが1,148人で内、229人が死亡している。その他の重症化していない入院療養者から704人が死亡しているのだ。入院して、重症者にカウントされる前に死に至るとはどういったケースなのだろうか。仮説として考えられるのが、看取りではないだろうか。

ここまでのFACTから想定できるのは、日本の新型コロナ感染者数は、60万人より遥かに少なく、最大でも感染率0.2%程度で、全人口で考えると25万人以下と想定できる。直接死因の死者数は、直接死因と推定である1,339人に、残念ながら天寿を全うした看取りの方が、その3倍4,000人程度、足すと、およそ5,300人という推計が算出できる。

メディアの多くは情報が少ない、説明が少ないと言うが、それは自分達の意見と異なる説明に対しては批判に終始し、感情的に攻撃するからであり、オープンデータは転がっている。ここに示した様なデータは、誰でも入手できるし、説明も繰り返されているが、何故か聞く耳を持たれていない。メディアを主流とする、一方通行の情報統制となっているのである。

<コロナ対策の基本>

それでも、問題なのは、この様な(敢えて使うが)さざ波状態でも、医療崩壊が起きている事が最大の問題である。

従って、筆者の自説では医療資源の緊急事態、有事対応における強制的資源再配分が可能な法整備が最大にして最高の対策になるのだが、時間もかかる事から(協力体制もしくは強制力を持てば今すぐにでも比較的容易にできると確信はしているのだが、現実は抵抗勢力の岩盤は厚いのだろう)、感染抑止対策が重要になる。

これも他の投稿で多く語っているが、人流抑止は直接の抑止力にならない。

まず第一に、各人の免疫力向上が最大にして最高の対策だろう。ワクチンによる獲得免役ではなく、自然免役である。個々の健康管理、自己防衛、昔から言う、風邪をひかない様に徹底的に養生する事だ。適切な運動、睡眠、栄養補給などなど。

そうはいっても、個々人の健康度は異なるので、社会的な対策も必要になる。

何と言っても、飛沫感染対策だろう。決して人流抑制ではない。即ち、感染抑止対策を実施している施設は営業を行っても良く、逆に、どういった施設であろうとも、飛沫飛散抑止の対策が不充分であれば、強制的に休業させるというメリハリを利かせた法整備が必要だ。そんなのチェックできない、というのは大きな間違いだ。例えば、スピード違反や飲酒運転は全てをチェックしている訳ではない。抜き打ちで確認するだけでも、飲酒運転などは罰則の厳しさから相当減少している。同様で良いのだ。

加えて、口コミサイトでの対策の公開と利用者による口コミ投稿、そして怪しい所への役所立ち入り確認だろう。

新たな情報で、飛沫感染以外に排泄物からの接触感染のリスクの高さを示す情報がある。確認は出来ていないが、このことが事実であれば、実際に今まで感染経路的に不明だった事もある程度の説明が出来る。この場合、マスク会食も接触感染リスクが高いことになる。笑い事ではなく、神戸市長の主張が正しくなるのだ。

やはり、究極の対策は、手洗いうがい、手指消毒なのだろう。

路上飲み、若者、夜の街、新宿・池袋、パチンコなど、非科学的にターゲットにして攻撃するのは、本質的な対策が疎かになってしまう。

そういった意味で、五輪はバブル対策を実行するとの事であり、これは隔離と同様なので、選手団から一般国民への感染抑止対策としては有効であろう。この方式であれば、理論的には周囲の感染状況が逼迫していても関係なく、大会運営が可能だ。後は、その理論的な対策が、現実の運用でどこまで可能かの検証であろうし、そういう意味でテスト大会による、シミュレーションと課題のフィードバックは重要なのだ。

五輪テストマッチに対する批判は国益毀損行為である

札幌で五輪マラソンのテストマッチが開催され、沿道メッセージ等でも批判が殺到した。政治利用や国益棄損を目的としている意思を持った行動は仕方がないだろうが、危機と煽られ、脊髄反射的に踊らされている人達は目を覚まして欲しい。それは、いじめに加担する無自覚・無責任層と同じ、加害者でしかないからだ。そこには、反対する論理的理由も持たず、その事により、アスリート個人を苦しめ、日本に大きな国際的悪影響をもたらす事を理解して欲しい。

恐らくここまでで、脊髄反射的に反論、暴論が発生し、以降は全く聞く耳を持たない、読みもしない誹謗中傷が、ワンセンテンスで飛び交うかもしれないが、まずは、冷静になって読んでもらいたい。

まず、最初に語るべきは、五輪開催は日本の国際公約である事。そして、開催の是非を決める権限は日本になく、IOCにある。つまり、日本の勝手な理由で五輪開催準備を滞らせる事は、国際公約を守らない、信用できない国になる事に等しいのだ。従って、現段階では粛々と開催に向けて準備を進める責任が日本にはある。

勿論、国内事情的にも感染対策を万全に行い、万が一にもクラスターを発生させない事を前提で、実際の大会時のシミュレーションをしっかりこなし、成功させるための準備にあたる必要がある。

3回目の緊急事態宣言において、プロ野球やサッカーなど、無観客や一部中止も発生しているが、機構側はあくまで決定には従うものの、感染対策は1年間のノウハウの積み上げもあり、観客を入れての開催にも自信を持っており、抗議の姿勢も示している。実際、実績としても感染拡大には繋がっていない。海外のスポーツイベントに関しても同様のノウハウの積み上げがある。これは、論文が出されていなくても、科学的実証と呼べるものであり、中止する科学的、合理的理由は存在しないのだ。

更に、五輪開催まで2か月ある。今、緊急事態宣言下である事は、先の中止の理由として説得力に欠け、ましてや感染状況の数字的にも、ワクチン接種が進み収束してきている国と同レベルの状況に過ぎない。こんな状態で、医療崩壊と騒いでいると、諸外国から嘲笑され兼ねないのだ。

『2週間後にはニューヨークと同様の状態になっている』、『死者は42万人になる』等、脅され続けてきたが、これまで何一つ実現していない。今度は、変異株の猛威で、『従来の対策では全く効果が無い』と危機を煽っているが、そろそろ化けの皮が剥がれてきた。思えば、昨年の緊急事態宣言1回目も変異株であり、繰り返される自然現象だが、初めて発生した脅威の様に危機を煽っている。報道にある様に、人流はそれ程減少していないが、爆発的に感染拡大している訳ではなく、均衡状態、下降トレンド推移が実態だ。変異と淘汰は自然現象であり、イコール脅威ではない。

それよりも、準備を怠り、実際の大会開催時に問題を起こす方が余程問題が大きくなる。少なくともIOCが中止と決定するまでは、準備を怠らず、開催に向けて努力する義務があるのだ。

その準備の足を引っ張る行為は、即ち、国益棄損に繋がり兼ねない事を理解するべきだろう。

そして何より、主人公であるアスリートは悩み、傷付いている。国民世論が反対しているという報道は、少なからずアスリートの心を傷付けているのだ。彼らは、不用意な発言が出来ず、とは言え、自分の人生をかけた戦いに臨むべく準備を進めている。外野の雑音を無くし、静かに専念出来る環境を提供するのが、開催国としての責務だろう。

今回の緊急事態宣言において、政府は人流抑制を前面に押し出した。それは、1回目の宣言と同様である。しかし、人流は報道にある通り、1回目と同様の減少は起きていない。

この理由は筆者には明確に思える。報道や専門家が言う、気の緩みや、もう我慢できないと言うのとは少し違って、人流抑制による具体的効果、合理的な必要性の説明が無く(非科学的でエビデンスが無いので説明のしようがない)、納得性が無い事だと思っている。賢明な国民の多くは、感染抑止のノウハウを1年積み上げてきた。情報不足時には盲目的に従ったが、今では8割削減の必要性が無いと判断しているのだ。

日本人は、それ程馬鹿ではない。本当に人流抑制が必要だと信じていれば、補償はなくとも、苦労してでも自粛する。人流がそれ程減少していないのは、必要性の乏しさを察知しているからに他ならない。声として聞こえてこないのは、同調圧力で本音を言えないだけであり、世論調査と実際の行動に矛盾が生じているのだ。政治は、声に出せない多数の声に耳を傾けないと政策を誤ってしまうだろう。

それでも盲目的に危機感だけ抱き、正しい恐れ方が分からなくなっている層は、一定数存在する。その中の一部がボーカルマイノリティとして、声を上げ、攻撃的で過激になっているに過ぎない。正しい恐れ方が分からないという事は、正しく感染抑止行動が出来ないという事であり、感染拡大の最大の要因となる。

諸外国から嘲笑されない様に、自爆だけは避けたいものだ。

省庁のブラック度調査から、次期政局を考える

コロナ禍における中央省庁の残業代支払い実態調査』というプレスリリースが、株式会社ワーク・ライフバランス社より4月22日に出された。中央省庁のブラックな実態が浮き彫りになっている調査結果であり、調査自体第三者である民間が行っていると言う点で価値がある内容である。

実態調査の概略

その中で残業時間に対する実態が報告されているが、少々耳を疑う内容である。民間企業は、コンプライアンス経営を重視し、法令遵守の精神で制度改革や組織風土改革、インフラ整備などを進め『働き方改革』を進めている。この問題は投資家視点からも重要視される、現在の企業経営上必要不可欠な課題なのだ。労働基準監督署より査察を受け、是正勧告を受けてしまうと経営が行き詰まり兼ねないのだから。しかし、中央省庁は20年前と何ら変わっていない実態が明らかにされたのだ。

そして、その原因も報告の中では明確になっている。諸悪の根源は、次の2点である。

・国会議員からの質問通告時間が遅い

・デジタル化に後ろ向きな議員の存在

2番目のデジタル化の問題は、『デジタル実践議員宣言』を86人の国会議員が実施し、デジタルツールの積極的活用を宣言しており、河野大臣の押印文化のデジタル化を評価する等ポジティブな意見も多く出ており、今後、時間はかかるだろうが、改善方向にある事も確認できるので、期待を込めても良いだろう。

敢えて政党別の実態を語ると、デジタル化対応をしている議員の所属政党は、

1位 日本維新の会(18)

2位 自由民主党(14)

3位 国民民主党(10)

であり、逆にデジタル化に対応していない議員の所属政党は、

1位 立憲民主党(26)

2位 自由民主党(17)

3位 共産党(14)

自由民主党は、両方に顔を出し、積極的な議員と後ろ向き(恐らく重鎮?)な議員が拮抗しているのは、変化していく過程に感じる。一方で、立憲民主党、共産党の所謂左派政党は、デジタル化に後ろ向きで、第三極になる可能性のある、日本維新の会、国民民主党は積極的な改革志向を持っている事がうかがえる。

<質問通告に関するルール逸脱問題>

問題は、1番目の質問通告に関する件だ。この問題は、相当以前から問題視されていた。国会戦術の一手法として野党の常套戦術である事は有名だ。要は、質問に対する答弁準備の時間を与えず、政府、与党の失策を引き出す為だ。しかし、これでは建設的な議論は生まれず単なる策略に過ぎず、国益に適わない事は明白で、その影響で官庁が不夜城化してしまう。筆者自身も一時期、政府外郭団体からの企画受託経験もあり、この対応に追われたのだが、その際は、夜寝る時間は無い状態だった。そして、その殆どが無駄な待機、必要のない準備であった。その状態が、未だ何ら改善されず、悪質化している実態も示されているのだ。

質問通告2日前のルールを守っていないことが多い議員の所属政党は

1位 立憲民主党(70)

2位 共産党(61)

3位 自由民主党(5)

4位 国民民主党(3)

逆にルールを守っていることが多い議員の所属政党は

1位 日本維新の会(14)

2位 国民民主党(11)

3位 公明党(7)

4位 自由民主党(2)

これを見て明らかなのが、立憲民主党、共産党がダントツでルールを守らないという事である。この2党に関しては、この事に関して国民に向けて説明責任を果たすべきであろう。最近テレビなどで、何でも反対野党ではなく、建設的な提案野党として活動しているとアピールしている場面を多く見受けるが、国民目線では、未だに何でも反対勢力としか見えていないのが実態であり、こういう説明責任を果たす事、言い訳をせずに真摯に反省し、改善策を提示し実行する事が、国民の信託を得られる唯一の手段ではないのか。選挙戦術で候補者調整も重要だろうが、国政を担う為には、避けては通れない重大事項として対策含めた説明責任の実行を期待したい。

一方で目を引くのが、日本維新の会と国民民主党ではないだろうか。特に国民民主党は、立憲民主党と袂を分けた良い影響が現れている様にも感じる。デジタル化も含めて、前向きで合理的な対応と評価しても良く、この2党は次の選挙の台風の目と化す可能性すら感じる。国民民主党は、変に野党連合に名を連ねるよりも、第3極を担う重要なポジション、いやそれ以上に化ける期待を持てるかもしれない。期待に応えてもらいたい。

<次期政局は>

国家の一大事案として緊急事態が3度も宣言された。海外からの評価では、日本の感染症対策は、過度な人権制限もなく、感染の被害を最小限に抑えているというのが、正当な評価である。ワクチン接種が遅いのは、リスク対比で遅くて当然なのだ。しかし、それでもここに来て、例え政府の直接責任は無く、国民世論の圧力に屈した形だとしても、結果として3度も緊急事態宣言を発出した事実は大きい。普通の感覚なら、一旦下野するのが自然だろう。

しかしながら、現政権が下野した場合、第一野党である立憲民主党が前述の様な体たらくでは、国政を委ねられない。前述の問題等、しっかりと説明責任を果たし、信頼を勝ち取れば別だが、現在の自己正当化に終始する、これまでの延長では、とても政権は委ねられない。

しかし、日本維新の会と国民民主党が第3極として、キャスティングボードを握った現与党との連立政権であれば、一つの選択肢にはなり得るかもしれない。この原稿を書きながら、調べていたら、『官僚・国家公務員たちから怒りの糾弾!民間大規模調査によって、立憲民主党と共産党の恐るべき実態が明らかに…』という動画を発見した。正に、同意見、同じ視点で語ってくれている。

逆に言うと、自由民主党も前述の調査でポジティブとネガティブの双方に顔を出すのではなく、ポジティブにシフトしたら、世論に迎合するだけではない、新たなポジションを確立できるだろう。

どちらにしても、健全な民主主義の為には、政権を委ねる複数の選択肢が必要である。次回衆議院選挙までに各党、何を示せるか、注目である。

3度目の緊急事態宣言は、日本を破滅に向かわせる

日本はどうなってしまうのだろう。まるで中世ヨーロッパにいる様な気分だ。それでも地球は回っていると叫び続けたいし、いつかは冷静な判断の世論が形成できる民主主義国家になりたいと切望する。

<緊急事態宣言発出の背景>

大阪の検査陽性者は4月13日をピークに上昇トレンドが止まっている。重症者数増も同様、15日をピークに下降トレンドになっている。死亡者数は、流石に時間差があって、まだピークかは不明だが、第3波のピークは上回っていない。変異株を殊更恐怖の様に言うが、数字を見る限り、陽性者数は増えても、重症者数、死亡者数はそれ程でもない。短期間に陽性者数が増加したので一時は警戒が必要だったが、そろそろ化けの皮が剥がれてきている。

東京都は新規陽性者数が上昇トレンドではあるが、いまだ指数関数的増加とは言えない状態だ。昨年12月中旬の状態に近似しているが、変異株に置き換わっている占有率の割に、陽性者数の増加はそれ程でもない。そして、重症者数はほぼ増加していないし、死亡者数も同様だ。来週には大阪と同じ様に急激に増加をすると言い続け、未だそうならない。

そもそも、『来週にはニューヨークの様になる』『最悪死者は42万人になる』などノストラダムスの大予言よりも不確かな予言は何一つ的中していないが、それでも恐怖の予言は繰り返され、多くの人は信用し、恐れ、冷静に実態を見極める事が出来ない。

イギリスはワクチンの効果だろうか、感染が収束して一安心。現在感染状況は横ばいで4月22日時点で2728人だ。イギリスの人口は、およそ日本の半分なので、日本に当てはめると5000人強の状態なのだ。なんと、現在の日本とほぼ同じ新規感染者数で収束なのだ。何故、日本は緊急事態なのだろうか。

<本当に必要な措置は>

最初の頃なら、未知のウイルスとしてある程度の恐怖心は必要だったかもしれないが、1年以上コロナ禍を経験して、ほぼ分かってきている。対策として必要なのは、人流抑制ではなく、飛沫飛散抑制である。科学的、統計的に明らかだ。変異株は今までとは違う、というのは数字では表れていない。常に、可能性があると言っているだけで、数字は寧ろ弱毒化の可能性も考えられる状況だ。従って、飛沫飛散抑制、この実効性を高める具体策を講じるのが、科学的対策だ。人流抑制という名の人権制限の必要は全くない。

もう一つ、極めて重要な対策が、医療資源の再配分である。最近、ようやく専門家と呼ばれるテレビ出演の医師が、資源再配分、ベッド数増が思うように出来ない理由、簡単ではない事を説明し始めているが、どれも筆者には言い訳にしか聞こえない。

医療だけでなく、緊急事態で対応する措置として簡単な事は何一つ無い。それでも、1年もあれば相当の事は出来るはずで、多くの事業者は工夫を重ねてきた。医療も同様、1年あれば言い訳出来ないはずだ。イギリスなど、政府の指示で大幅にコロナ対応ベッド数を増強している。日本の医師は、国民の恐怖を煽り、政治発言を繰り返す暇があったら、自身の責任領域の対策を進めるべきではないのか。

実は、東日本大震災以降に、事業継続性の必要性を鑑み、内閣官房は国家強靭化計画を推進し、民間企業の多くは、事業継続計画に取り組んでいる。事業継続の対象には当然ながらパンデミックも含まれるのだ。これは、医療機関も絶対に必要だとして、レジリエンス認証を医療機関に広めようとキャラバンまで行っているが、殆ど医療機関は見向きもせず、対応出来ていない。(事業継続計画(BCP)の対応を怠っていた医療福祉業界の実態

世界各国のワクチン接種優先順位を見ると、日本の様に医療従事者を最優先している国家は、筆者の知る限り存在しない。ほぼ、高齢者と高齢者施設関係者、つまりリスクの高い層が最優先なのだ。日本は、高齢者は2番目で、高齢者施設関係者は全く優先されていない。年末に医師会長が発言した、医療が全ての職業の中で最も尊いという趣旨の発言をしたと記憶しているが、職業に貴賤を付け、選別する思考なのだろうか。

<中世的措置に物申す>

東京都小池知事の次のターゲットは、路上飲酒者の様だ。確かに、モラルやマナー面では、ほめられたものではないが、感染拡大面は室内飲酒よりも遥かにリスクは低い。富岳が屋外でも飛沫飛散する事を示していると言う人がいるかもしれない。確かに飛散はするが、空間の広さ、気流などを考えると室内よりも間違いなく飛沫を浴びる確率は下がり、ウイルス暴露の量は減少し、到底感染に必要なウイルス量に届かないだろう。

要は、路上飲酒者は単なるターゲットで、見せしめの対象でしかない。思えば、パチンコ屋、新宿(and池袋)夜の街、若者など、票にはなり難い、弱い立場をターゲットに選んで、集中攻撃、晒し者にされる政策が繰り返されている。思えば、安全性が科学的に立証されていた豊洲市場を安心という概念で振り出しに戻そうとした手法と同様のパフォーマンスに過ぎない。

本来、国家が緊急事態宣言を発出する事態では、政権与党は一旦下野するべきだが、後を担う現野党が余りにもあり得なさすぎるのが日本の国家としての脆弱性かもしれない。立憲民主のゼロコロナという非科学的ファンタジー思想では医療崩壊どころか国家破綻を招くだろうし、唯一期待出来そうだった、維新+国民民主+α連合は、リーダー格の吉村知事が今回の正常とは思えぬ判断で全く期待外れになった。確かに、孤軍奮闘、攻撃に晒され、精神的に追い詰められているのだろうが、それでも国家運営は同等のプレッシャーを乗り越える必要があると考えると、極めて厳しいと言わざるを得ないだろう。

日本が国家として破綻に向かわない為には、最後の砦、一人でも多くの国民が目を覚まし、冷静に科学的、論理的思考を働かせられる様になるしかない。

まん延防止等重点措置が拡大、コロナ騒動はどこまで続くか

まん延防止等重点措置が大阪、兵庫、宮城に続き、東京、沖縄、京都などにも適用された。

吉村大阪府知事や橋下元知事などは、マスク会食を対策の要として、要は飛沫飛散を抑える事を重点的に実施する事を強調している。まさにその通りなのだが、その様な事は昨年当初から明らかだったのに、多くの専門家や野党の政府批判、メディアの煽り報道が、人流が問題と言い続け、PCR検査の強化が感染予防対策だとも言い続け、本質論から遠ざかっていただけではないのか。

<拡散された誤った認識とは>

どれだけ人が動こうが、飛沫を飛散させなければ感染は起き様がない事は、常識的に考えれば自明だ。勿論、呼吸で発生するエアロゾルもリスクがゼロではない。腸内感染の報告もあり、排泄物からの感染も報告されており、インドなどはその影響も疑われている。しかし、リスクの大小で言うならば、飛沫感染が最も大きく、接触感染等他の感染経路も飛沫飛散が無ければ起き様がないので比較的リスクは小さい。つまり、飛沫飛散を減少させる事が、最大の感染対策である。

もう一つ大きな勘違いは、PCR検査では感染は防げない事だ。中国など検査は関係なく、否応ない隔離で抑止しているだけで、検査自体で抑止出来ている訳ではない。無暗な検査で無症状感染者を発見できる確率は僅かであり、非効率で効果が薄い事は諸外国が実証している。寧ろ、偽陰性という誤った安心というリスクを膨大化させてしまう。有無を言わさぬ隔離で防げても、検査では防げないのは正常な思考回路があれば理解できる事なのだ。

<飛沫飛散防止が最大の対策>

神戸市などは、マスク会食に対して、マスクに付着しているウイルスからの接触感染リスクを訴えていたが、そのリスクよりも飛沫飛散を抑える効果の方が大きいという判断は出来る。但し、マスク着脱時の接触感染リスクを甘く見る事は間違いであり、注意は必要なのだ。ならば、会食時にマスク着脱でなく、一般的な咳エチケットと同様にハンカチ利用や手マスクも効果はある。あまり大仰に考えず、飛沫飛散を抑える目的思考を持つべきだろう。

ある番組で一部の専門家は、マスク着脱による接触感染リスクは問題ではないと言い切っていたが、耳を疑うしかない。いくら何でも、言い過ぎであり、そこまで言うのならば、今までの、マスクの着脱方法指導や手洗い、手指消毒励行なども全否定に繋がりかねない勝手な論理であり、やはり専門家の言うことは、余りにご都合主義過ぎて鵜呑みにできないと改めて確信させられる。

<数字を冷静に見れば分かる事>

感染抑止対策としては、飛沫飛散防止に絞られる訳だが、現実として抑えられないシーンが数々ある。その筆頭が、食事時であるので、マスク会食は、方法論はともかく、対策としての方向性は妥当である。

そして、食事以外では、マスク着用が困難な老人や小児なのだが、リスクとして考えると重症化リスクの高い老人施設の対策が実は最大の本丸なのだ。なので、各国ワクチンの優先順位として、出入り業者含めた老人施設関係者を対象としている。何故、日本は優先順位を上げないのだろうか不思議だが。

日本はワクチン後進国とメディアで叩かれている。確かに自国産ワクチン開発は後塵を拝しているが、軍事研究を忌避し、ワクチンの安全性に疑いを持ち、何年も安全確認が必要とされていたのではないだろうか。感染爆発している各国は、少々のリスクはあっても背に腹は代えられず、抑止効果を優先する考え方で先行しているだけで、同じ考え方を日本は持てるのだろうか。もしも、日本での接種が進んでいて、アストラゼネカ社製での血栓被害が日本で発生していたら、メディアは黙っている訳がないだろう、安全性を無視した勇み足と。

そもそも、イギリスなどワクチンの効果なのか、感染が収まりつつあるが、その状態で、今の日本とほぼ同じ感染状態だという数字の現実に何故目を向けないのだろうか。ワクチンの効果、90%や95%でようやく日本と同じ状態なのだ。米国CDCはワクチン接種で当人同士はマスクが不要だとまで言っている。つまり、日本の状態であればマスク不要と言うに等しいのだ。そもそも、日本の感染者数では治験すら十分な数の対応が困難であり、その事は即ち緊急性も低いという証左に他ならないのだ。

海外のメディアまで日本の感染対策がまずいと言うのは、日本のメディアの報道が政府攻撃に終始している情報をソースにしているに過ぎない。日本は客観的に見て、感染症対策としては上位にランクする結果を残している。

<自分が感染しない為には>

人に感染させない対策としては、飛沫飛散を徹底的の抑える事、それは感染の有無に関係なく、全員が対象だ。そして、同時に自分が感染しない対策も必要だ。飛沫を浴びないソーシャルディスタンス確保、手洗いうがい手指消毒などだが、何よりも個々人の健康管理が最大にして最高の対策なのだ。人間、元気であれば少々のウイルスは撃退する免疫力を持っている。だから栄養補給、睡眠などで所謂風邪をひかない対策が最重なのだ。そういう意味で、心配なのは、春に向けて温かくなってきて日差しが強くなってくる季節に、巣ごもりして、紫外線を浴びてビタミンDを生成するチャンスを逸する事だ。昨年、この時期に巣ごもりをすることで、夏季にも感染は収まらなかった。検証はされていないが、この時期に日に当たらない事はリスクとしか言いようが無いと筆者は確信している。

<いい加減に目を覚ませ>

人流が増えても、飛沫を飛散させなければ、物理的に感染は発生しない。しかし、日に当たらなければ、体内でのビタミンD生成が不足する事は自明であり、ビタミンD不足は免疫力低下をもたらす。従って、不要不急の巣ごもりは害なのであり、皆、飛沫飛散抑止を心がけた上で、青空の下、出かけるべきなのだ。

42万人死ぬと恐怖を煽った結果はどうだっただろうか。最悪のシナリオ想定に過ぎないと云うのなら、感染状態のステージの考え方として、42万人死ぬ状況の1歩手前がステージ4になる筈だが、異次元の低さの数字を管理値としている。

東京都で、直ぐに1日4000人の感染のリスクがあるとのシミュレーションが公表された。可能性はあるという言い逃れは成立しない。不要不急の外出を避けろと非科学的に言い続けるのはいい加減にするべきだが、聞く側もいい加減に目を覚ますべきだ。交通事故死を無くすために世の中から車を無くせと行っている様なものだと、そろそろ気付くべきだろう。

『安全第一』から『安全安心』への社会変化に適応する要点

安全は全てにおいて最優先するべき事項である。安全が担保されなければ、あらゆる活動に支障を来たすからだ。工場・プラント・建設現場などに、大きく『安全第一』と掲げられているのを一度は見たことがあるだろう。そこで働く人の『安全』が担保されなければ、結果としての事業や製品の品質にも差し障り、事業継続が困難になるのだから、最優先されるのだ。国家でも同じだ。安全でなければ、国民の生命・生活に支障を来たすのだから、安全確保が国家の最大の責務なのだ。

では、最近よく耳にする『安全安心』とは何か、『安全第一』と何が異なるのか。その理解をせずに都合よく乱用されているケースが多いのは憂うべき事なのだ。

<安全と安心の定義>

まず、安全と安心の定義、何が異なるのかを確認したい。

安全とは、危険ではない状態、許容できないリスクがないことであり、客観性と科学的事実にに基づく検証と評価が必要であり、主観的であってはならない。

一方で、安心は、主観的に評価してリスクの少ない状態のことであり、安全を心で感じるものなのだ。従って、極めて主観的であり心理的な評価になる。

この安全と安心の状態を4象限で表すと下図の様になる

右上と左下の象限、つまり安全と安心が同等の評価を受けている状態は、ある意味正常な状態である。

右上の安全・安心が両立している状態は、言うまでもなくベストの状態であり、この状態は、科学的データの公開、説明責任の履行で継続できるだろう。

左下の不安全で不安な状態は、不安全である事を認識できており、その科学的対策を客観的に実施する事で、この状態を脱する事が可能である。民間の事業であれば、安全策の実施が確認できるまでサービスを利用しなければ良い。国家事業であっても、厳しい追及を継続すれば良い。不安全が見える状態なだけ、健全ではある。

問題は、右下と左上だ。左上は、言わずもがなだが、科学的に不安全状態を不安に思わず、安心している状態なので、どの様なリスクが顕在化してもおかしくなく、危険と隣り合わせが放置されているのだ。

この状態が発生する原因は、不安全な状態の説明が充分に為されておらず、周知が甘い、或いは、意識的に隠ぺいされている場合。そして、逆説的には、どれだけ説明しても聞く耳を持っていない状態だろう。

次に右下だ。これは、科学的に安全な状態にもかかわらず、不安を抱いてしまう社会不安状態で極めて危険なのだ。安全性の説明が不十分な状態もあり得るだろうが、往々にして、どれだけ説明しても聞く耳を持たない、感情的、情緒的な脊髄反応が主原因の場合が多いので質が悪い。本人は、僅かに存在するリスクを極大評価していることに気付かず、至極真っ当な論理と思い込み、非科学的に妄信してしまう。100の安全性データがあっても、1のリスクで安全性はゼロと断じてしまう、勝手論理なのだ。

この状態に陥ると、何も前に進めることが出来なくなる。回避行動として、タブー視し語る事を憚り、隠蔽などの悪循環に至る可能性がある。これは悪循環であり、左上の状態を他に多数発生させる危険性がある。また、この状態は、論理的には手が打てず、社会不安状態となり、人心を扇動する独裁者が現れやすい社会環境でもある。

<不安状態を回避するには>

民間企業の事業、サービスの場合、基本的に右上の状態でないと成立しない。安心を勝ち取らないと、需要が無くなるからだ。例え、左上の様な不安全で安心となっても、いずれ発覚し、その時の信用の毀損はとてつもなく大きく、余程の悪徳企業でもない限り、この象限には向かわない。右下の状態の場合、安全性を強く訴えるだろうが、理解されない場合、市場が受け入れなかったとして事業撤退の選択となるので、ここも継続的に存在しえないのだ。

しかし、国家事業や行政となるとそうはいかない。事業撤退など出来ないからだ。だから、何が何でも説明し、安全である事を納得してもらう必要がある。逆に言うと、政局的にも攻め所であり、政治利用は激しくなりがち。同様に、政府を監視する使命を自負するメディアも、ここぞとばかりに不安を煽り、視聴率を稼ぐ。結果は最悪の社会不安状態でしかなくても関係ない。

この危機的な不安状態に陥る事を防ぐ方法はあるのだろうか。煽るなと言っても、止めるはずもなく、法的な縛りを設けようとしても、煽りのネタが増えるだけで、激しさを増すだろう。与党を追い込む絶好のチャンスとして、結果の責任も持たないで、野党の攻撃が増すだろう。本来危機的な不安状態では、与野党関係なく、メディアも含めて、緊急事態という名に相応しい協力体制で国難に向かうべきだが、現実はそうはならない。

本質的には、民主主義で選択された政権を信じ、委ねるべきである。しかし、これだけ政権とは別に不安を煽る構造が充実していれば、弱い人間は次の選挙まで待つという余裕もなくなり、不安が爆発してしまう。人間は、精神的に弱い動物だ。本能的、動物的な危機察知よりも、精神的な脅し、脅迫に弱い。命の危険、財産の危険などで不安を煽れば、論理的には理解出来ていても、意味不明の不安を抱きやすい。継続的に不安が高まれば、いつの間にか、論理も拭き取んでしまう。

そうすると、最後の砦は、国民一人一人であろう。個々人が責任を持った思考回路を働かせ、論理的に、是々非々で判断する責任が重大となる。本来、民主主義とは、例え間接民主主義であろうとも、一人一人が有権者として政権運営に責任を持つ。その為の選択の手段として選挙がある。

世の中、ゼロリスクにはならない。リスクがある限り、少なからず不安も生じる。確率が低かろうとも、当事者になった場合は、それは自身にとって100%の事実なのだから、不安を持つのは仕方がない。

結局、不安な事は、安全性の論理的、科学的、そして客観的考察によって和らげることしかない。それでも、不安全であれば、少しでも自身が安全に向けて出来る事を考えて実行するしかない。出来ない事を、あれこれ悩んでも、不安が増すだけで、何も良くならない。あくまで出来る事を一つ一つ着実に実行するのだ。そのプロセスが、前向きなモチベーションにもつながり、不安も解消していくという正のスパイラル効果も期待できるのだ。

国を動かす、32県知事の要望

3月17日にGoToトラベル事業の段階的な再開に関わる国への緊急要望が32県知事より提出された。これに対して、赤羽国土交通大臣は、『再開は簡単ではない』として、当面再開は出来ないとしたが、32知事の訴えは、一定のメッセージとして届いたのではないだろうか。その要望の要旨を抜粋すると、

・感染状況が落ち着いている地域では、独自に宿泊割引等の観光需要の喚起を行っているところであるが、これまでにクラスターが発生したとの報告はない。

 ⇒宿泊等の観光事業喚起と感染拡大には相関関係が無い事実を語る

・地域の観光需要喚起に有効な「GoToトラベル事業」の早急な再開

 ⇒地方の観光需要喚起(GoToトラベル再開)を要望

・まずは感染状況が落ち着いている県単位で早急に「GoToトラベル事業」を再開

 ⇒方法論として、具体的にリスクの低い所から徐々に再開を提案

・観光関連事業者の経営は極めて深刻な状況にあり、回復には相当の期間を要する。

 ⇒地方経済の根幹を支える事業の困窮を説明

・また、段階的に対象エリアを広げた場合、地域間に不公平が生じるおそれがある

・6月末とされている「GoToトラベル事業」の実施期間を大幅に延長する

 ⇒徐々に再開した場合のリスクを提示し、解消策まで提案

前向きな提案実施で、要望そのものは却下されたものの、観光事業者への支援策の検討を急ぐという約束を勝ち取った。

ビジネスの世界でも参考に出来る、上手いやり方だろう。あくまで前向きな提案、そして、想定リスクに対しても具体的に打つ手の可能性まで用意しているのが、相手を説得し、動かせた成功要因だろう。

ところで、32知事という事は、全知事ではないのだが、どういうメンバー構成なのだろうか調べてみると、頷く点と、驚く点の両面があった。

頷く点は、外れた都道府県だ。当然だろうが、現時点で緊急事態宣言中の1都3県含め、解除されたとはいえ緊急事態宣言の対象となっていた、東京・神奈川・埼玉・千葉・栃木・愛知・岐阜・大阪・兵庫・京都・福岡の11都府県。まだその時期ではないだろうという判断は理解できる。加えて、北海道・沖縄も現時点の感染状況、今までの感染拡大経験を踏まえて慎重になるのも分かる。

驚いたのは、宮城県だ。GoToイート再開の影響だろうか、感染拡大状況にあり、独自の緊急事態宣言を出さざるを得ない状況だが、32県に名を連ねているのだ。確かに、GoToトラベルは感染拡大との因果関係は無く、GoToイートは確証までは無くとも因果関係はありそうな状況で、GoToイートは止めて、GoToトラベルを再開と言う、極めて合理的な判断とも言えるが、県民感情的に大丈夫なのだろうか、と心配になる。

そして最後に意味不明が、名を連ねなかった、島根・徳島の2県。両県とも、感染状況は落ち着いていて、地域経済も疲弊しているだろう。島根県は、聖火リレーボイコット、五輪反対まで持ち出して、地域経済支援を要望していたはずだ。地域選出の国会議員に窘められても政府に反旗を翻した形になっているが、それでは結果を引き出すのは難しいだろう。徳島はなぜなのだろうか、聞こえてきていない。

32知事が勝ち取った支援は全地域に対して差の無いものにはなるだろう。しかし、人が動かす組織である限り、何らかの心情面が目に見えない形で差となる事もあり得る事を認識しているのだろうか。それをカバーする別の動きはあるのだろうか。

なぜ恐れる? 変異株

連日の様に、新型コロナの変異株を脅威と言われ続けている。変異株は何が脅威なのか?その事を理解せずに、危機感のみ殊更喧伝されるのは、極めて非科学的な感情論に過ぎないのだが、最近顕著な現象として、多くの人が思考停止し、盲目的に信用することで多数を形成し、排他的に異論を排除し、相手にしない傾向も現れている。信じて主張する当の本人は、正義と信じているのだから質が悪いのだ。この現象は、国家としてコロナよりも危機的であり、警鐘を鳴らし続けたい。

まず、コロナウイルスはRNAウイルスであり変異しやすい。そして、変異が検出されたのは、今回が初めてではない。少し振り返ってみよう。

昨年、一般的に第1波と言われる感染拡大で緊急事態宣言に繋がった3月中旬から始まった感染拡大は、欧州株である。それまで主流であった武漢株が3月初め頃収束に向かい置き換わったのだ。

欧州株は日本に2月下旬から上陸を徐々に始めた。そして、収束に向かう武漢株と入れ替わる形で、感染の主流となり、変異で高まった感染力を背景に、感染の拡大が発生した。変異株が上陸してからおよそ1か月以内に拡大したのだ。

次に、緊急事態宣言後、欧州株が収束状態になり、入れ替わって東京株による感染が拡大し始めている。この感染拡大は、筆者としては独自の説を唱えているが、それはさておき、夏に向けて感染波が生じた。

この様に、日本では、ダイヤモンドプリンセス号、武漢株、欧州株、東京株と変異株を経験している。そして傾向から見ても、同時に多種の変異株が流行するのではなく、入れ替わっていく事も見て取れる。一般的に、ウイルスの変異とはそういうもので、同時に異種が流行ピークを迎える事は無いのである。思い起こして欲しいが、インフルエンザでも、A型とB型は同一シーズンに流行すると言っても、入れ替わる様に流行が遷移している。同じなのだ。

変異株が国内に上陸したのは、昨年末であり、それから2か月以上経過している事と、一旦収束状況にある現在、既に一つの変異株に入れ替わっていても何ら不思議ではない状況である。しかし、未だ複数の変異株が併存していて、拡大の顕著な兆候もない。

即ち、変異株は、警戒は必要かもしれないが、少なくとも日本では脅威を感じる状況ではない。勿論、今後も変異は繰り返されるのは自然現象であり、追跡調査は継続強化するべきだろうが、変異イコール脅威と言うのは言い過ぎだろう。

そもそも、ウイルスの変異とは、ウイルスが生存していくために起こるのであり、宿巣との共存がなければ生存できない宿命上、感染力が上がれば毒性は低くなる。逆に、毒性が強まれば、感染力は下がるのが自然の摂理である。感染力が高く、毒性も強くなれば、宿巣である人間を絶滅させるため、ウイルスも生き残れないのだ。

今後、再感染拡大は起こるだろう。定期的な波を描く事は自然の摂理である。その時期の考え方は複数ある。一つは、既存の株が変異株に置き換わるタイミングだ。もう一つは、何らかの自然現象、例えば時期に起因するタイミングだ。前者であれば、いつ拡大してもおかしくない、否、既に感染拡大して置き換わっている筈なのだ。これは、変異株恐れるべからずと言っても差し支えない。後者の場合、昨年の欧州株の拡大時期、即ち間もなく拡大を示し始める。この場合は、自然現象として一定の拡大はあるだろうが、本来『まん延防止等重点措置』策をタイムリーに打って対処すれば良い。

そうやって考えると、緊急事態宣言は延長すべきではなかった。本来だらだらと長期間実施するべき策ではなく、解除しておいて、変異株の状況を観察し、適時『まん延防止等重点措置』を武器に使えば良かったのだ。複数の変異株が併存して置き換わっていない現実からも、感染が本当の意味で蔓延しているとは言えないのだ。蔓延していれば、各株が市中で遭遇し淘汰されていくと考えて良いだろうからだ。

筆者の論考は、客観的事実関係(事実を示すデータ)を基にした考察が多く、所詮帰納法的な論考に過ぎないとの非難もあるかもしれない。しかし、演繹法的な論考で結論を得ることは、この様な混とんとした状況では困難であり、寧ろ先が見えない状況では、演繹法的な考察に拘ると、現実を無視した誤りに陥るリスクが高い。

現実の数字を、客観的に、比較評価して初めて事実が見えてくるのである。もし、この数字がインフルエンザのものなら、今年の流行は低調であったと評価される数字で、脅威を感じる方が奇怪なのだ。

コロナ禍で進展するDX(デジタルトランスフォーメーション)、活かすも殺すも日本人のマインド改革がポイント

<日本社会はデジタル化後進国である>

日本のデジタル化が遅れている事は、昨年からのコロナ禍で誰の目からも明らかになった。

ナショナルID(※1)は先進国で普及できていないのは今や日本ぐらいだ。日本も今まで複数回トライし頓挫してきた。現在ラストチャンスとしてマイナンバー利活用を目指しているが道半ばである。

感染者数などのトレーサビリティも未だ不充分で、FAX手入力が残存し、データのリアルタイム性や正確性に課題を残している。

スピードが要求される環境下でも、未だに重厚長大なウォーターフォール式開発の発想が捨てきれず、要求品質とスケジュール感がアンマッチした様なシステムトラブル(COCOA等)が増えている。

振り返ってみると日本では、『ものづくり』で最先端を行き『ジャパンASナンバー1』と言われた時代以降、バブルが崩壊し、ロスジェネ時代を経ている内に、諸外国のデジタル化の進展に取り残されてしまい、生産性も低い国になってしまっているのが現実だ。

かつては、グローバル企業として多くの日本企業が君臨してきたが、今や日本企業の影すら見えないのが実態だ。

<コロナ禍は、デジタル化推進の絶好機>

一方で昨年からのコロナ禍の影響で、否応なくデジタル化は進んでいるのも事実だ。数年前から課題となっていた『働き方改革』の一つの回答になる様に、リモート業務が急増している。

筆者自身、多くの移動を伴う業務都合から、移動時の効率を考えたサテライト業務など、予てからリモート対応が日常的であったので、移動が激減しただけだが、多くの人には、根本的な仕事の有り方すら考える変化があっただろう。

この変化がもたらしたものは、『物理的距離の短縮』『物理空間の狭小化』なのだ。

歴史を振り返ってみると、16世紀のマゼランに始まる大航海時代、18世紀の蒸気機関発明による欧米の世界進出、20世紀後半のインターネット普及など、物理的距離を縮める事で、世の中に大きな変革をもたらしている。

21世紀の今、AIや5G、ブロックチェーン(※2)、その先の量子コンピューティング(※3)などの影響は計り知れなく、所謂DX(デジタルトランスフォーメーション)(※4)が時代の潮流になる事は間違いない。

例えば、都心一極集中は必要なくなるのだ。日本国中、どこにいても、仕事の効率が変わらなくなり、場所の概念が無意味になり、移動ロスが極小化する。結果として生まれる時間が更なる消費を拡大する。

その昔、グローバル化が叫ばれた当初、『グローカル(※5)と言う名で地域活性化、地方のグローバル参画の戦略性が語られたが、産地直送程度と成果は限定的だった。今回のDXは、それこそ地方にとっては千載一遇のチャンス、ものづくり企業にとっても新たなイノベーションを生み出す絶好のチャンスなのだ。

そう、DXとは決してデジタルだけで成立するものではなく、デジタルとアナログの融合、バーチャルとリアルの接点にこそ本当の活路が見出せるのだ。地域特性も活かしながら、ものづくりのノウハウを活用し、デジタルを利活用する事が、新たな価値を生み出し、生産性を向上させるのだ。

<日本社会に根強く巣くう課題>

但し、日本がこれまでデジタル化に関して後れを取った反省に立脚しないと、このチャンスは掴めないだろう。では、何故デジタル化は遅れてしまったのか、考察してみたい。

一番大きな原因は、デジタル化しなくても困っていない、裕福で満足しているからだろう。

デジタル化で大きな進歩を遂げた代表格は、エストニア、東南アジア、韓国などだが、これらの国は、デジタル化は国家存続の至上命題の様に、国家も国民も志向し取り組んだのだ。社会システム自体が成熟しておらず、殆ど白地からのデジタルインフラ構築、国家の命運をかけた取り組みだったのだ。

片や日本の場合、既に存在する重厚長大なレガシーと言われるインフラが存在し、まがりなりにも機能しているので、敢えて載せ替えるモチベーションが産まれ難いのだ。

そして、何といっても大きいのが、ゼロリスク信仰の強さではないだろうか。

日本人の行動心理を諸外国と比較する際に、昔からよく使われた例えに、コップ半分の水をどう考えるかがある。日本人の傾向として、コップ半分の水に対して『あと半分しかない』『もう半分だ』と危機感を募らせ、後ろ向きになり、守りに入りがちだ。しかし、グローバル標準は、『まだ半分も残っている』なのだ。この差による結果は、天と地ほど異なる事は、自明だろう。

例えば、ナショナルIDだが、間違いなく個人情報のリスクを過大評価し、適切なセキュリティ対策にも非論理的に耳を貸さず、ゼロリスクを盾に前に進む事を拒み続けている。

個人情報管理は元来、欧州の人権問題意識から発し、OECD8原則(※6)の元、様々な制度と対策を構築し、現在ではGDPR(※7)と言う保護規則を定め、欧州域内のリスク管理体制が確立されている。知っておいて欲しいのは、日本も安倍政権時に、このGDPRの十分性認定(※8)を受け、国際的には個人情報管理体制の確立は認められている。しかし、未だに『マイナンバーカードを落としたらどうするんだ』と無知な質問が繰り返されている。

また、システムは絶対でなければならないと言う、古い信仰が、スピード優先し、試用しながら柔軟に仕様変更するべき事案に対しても、リスクゼロ化を求めるという根本的矛盾による無理がCOCOAの様なトラブルを招いている。

<今こそチャンスを活かすべき>

首都圏で進展するDXは、所詮申し訳程度で最低限に留まる可能性が高い。『物理的距離の短縮』の御利益を得るのは、首都圏ではなく地方である。地方は創生の為に、必要に迫られる環境ではないのだろうか。

例えば、東京五輪と言いながら聖火リレーは全国規模のイベントだ。人が集まるのを恐怖と感じるのなら、バーチャルも並行すればよい。海外からの観客を受け入れないのであれば、その代わりに、バーチャルでご当地を走ってもらうのはどうだろう。リアルの走者の横をバーチャルの走者が走る。アバターでも良い、障碍者でも元気に走れる、パフォーマンスを披露してもらっても良い。全世界参加型の聖火リレーなんて、今までにない概念、大会の一体感を演出できるのではないだろうか。

当然、その中にご当地名産や観光スポットなどの紹介も織り交ぜれば絶大なる宣伝にもなる。新たなビジネスチャンスにも繋がるだろう。

3月25日にその様なシステムは間に合わないだろうが、それでも良い。当初はリアル中心になりながら、アジャイル開発でバーチャルを徐々に組み込み、改善しながら、進化する聖火リレーとして演出すれば良い。当然ながら、開会式や閉会式も同様だろう。

五輪以外にも、ものづくり企業、中小企業は事業拡大、生産性向上の好機である事は間違いない。無限の可能性がある。

この好機をつかむポイントは、『まだコップの水は半分もある』という、ポジティブなエネルギーなのである。

※1;ナショナルID;国民を確実に認識し、国民であることを確認できるデータベースシステム、国民に対して公. 正で公平な行政サービスが実施できる。

※2;ブロックチェーン;分散型台帳とも呼ばれ、高度なセキュリティ要求に対応する基盤技術

※3;量子コンピューティング;従来の0or1判定に加え、3段階にすることで、計算速度が飛躍的に向上する技術、スパコンで1万年かかる計算が数分で可能になる。

※4;DX(デジタルトランスフォーメーション);デジタル技術による業務やビジネスの変革

※5;グローカル;地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方

※6;OECD8原則;個人情報保護の共通した基本原則、1980年に採択され、現在もグローバル・スタンダードである

※7;GDPR;EU一般データ保護規則。EU域外でも広く影響ある、個人情報保護の規則

※8;十分性認定;EU域外の国や地域の個人情報保護が水準を満たしていることを欧州委員会が審査認定する。EU圏とのビジネス交流には必要不可欠である。

島根県知事の主張、動き方に対して物申す

島根県丸山達也知事の一連の動きが物議を醸している。あたかも五輪反対の様に受け取っている人も多いのではないだろうか。しかし、中身はそうでもないのが実態なのだ。まずは、主要発言を列記し、検証してみる。

「新型コロナウイルス感染症対策の改善・強化がなされないままでは、今夏、東京2020オリンピック・パラリンピックを開催すべきではなく、また、そのプレイベントである県内での聖火リレーについても、中止と判断せざるを得ないと考えております」

漠然と感染症対策の改善・強化と言っているが、具体的に何を示しているのかこの文脈では不明。メディアや根強い五輪反対派(この層はコロナは関係なく反対)は、我が意を得たりと言わんばかりに、五輪反対キャンペーンを強化し、多くの国民は島根県が『五輪反対宣言をした』と誤解している状況だろう。

「東京オリンピックをこういった(逼迫した現状の)事業者(島根県の飲食店)のみなさんが快く受け入れられる状況にはありません

少々首を傾げるのが、島根県は緊急事態宣言の対象ではなく、時短などの要請は県独自の施策であり、本来通常営業をしても良い環境、感染状況ではないのだろうか。緊急事態宣言下の地域との往来、観光事業としてGoToなどを要望しているのだろうか。メッシュ細かくゾーニングして対策するべきだとメディアも専門家も言っているはずだが、全国統一の規制が必要と言わんばかりの、同調圧力に侵されて、県民を苦しめているのは県政ではないのかとも感じる。

「すべてとは申しませんが我々の地域で飲食店が残っていけるような別途の給付金の支給が必要だということで要望させていただいている」「日本の政治とか経済の世界ではルール破り、常識を外れたことをやっていることは分かります」とした上で、「この状況で我慢をしてオリンピックを受け入れるのが国民の義務だとは島根県民の方々には言いがたい

結局、金の無新なのか?

一連の島根県知事の主張に、吉村大阪府知事が共感するとして発信しているのが、

情報はすべて東京目線の発信。島根県知事からすると、地域経済は疲弊していると思う。観光や飲食は打撃を受けていて、全国から人が来ない。苦しい中でこれ(聖火リレー)をやるんですか?社会経済と感染対策の両立を図る、こういうところにもっと力を入れなきゃわれわれはやっていけない、ということでは」

地方が観光事業に立脚した経済基盤で成立している状況からも、地域経済の疲弊には手を打つ必要があるのは、その通りだろう。しかし、首都圏と地方とは、感染状況もその影響も同様に格差があるので、均一化する事は出来ないというより、するべきではないだろう。当然、地域によってバランスのとり方も異なるべきだが、その事を、『五輪反対』『聖火リレー反対』に繋げるのは、無理筋だろう。

これに対して、自民党竹下亘元総務会長の発言は、

「発言は不用意だ。注意しようと思っている」「・・・知事が決めるこっちゃねえだろう」

極めて乱暴に聞こえるし、国民向けの説明ではない為、国民目線では説明不足に感じるが、本質的に言わんとしていることは、地方と国の政治家同士の諫言としては理解できる。別に国から地方に対しての上から目線ではなく、無理筋を窘め、言っている事と求めている事が違うという事を言っているのだろう。

国が新型コロナウイルス対策の財源として自治体に交付する「地方創生臨時交付金」に地方と都市で格差があるのは事実だ。その部分の是正を求めるのであれば、その合理的な必要性を元に具体的な是正案を公に示し共感を得る必要があるだろう。

休業要請せざるを得ない状況があれば、緊急事態宣言発出の要請をするのも一つ。独自の対策の必要性があるのなら、その科学的合理性の説明とそれによる支援要請の具体的な提案。どちらにしても、具体的な要求を示さなければ、単なる駄々っ子の愚痴でしかない。これはサラリーマンだったら新人レベルに教育する事項であり、反対ではなく、前向きな提案をセットしなさいと教育される極基本的な心得すら出来ていない幼稚性がある。ましてや、聖火リレーに協力出来ないと持ち出すのは、国家事業を人質にした、不当要求の誹りを免れない。

青空の下で聖火リレーを実施する事で感染リスクが拡大するとは到底思えない。

県内の飲食業の苦しい状況を打開する為であれば、寧ろ、この聖火リレーを活用して、飲食業にお金が落ちる様なキャンペーン、工夫をするべきであり、この様なやり方は逆効果でしかない。

真っ当な事業ではなく補償で苦しい状況を凌ぐのは、他に方法が無く仕方がない状況に限られるべきで、出来うる限り事業が活性化する様にしなければ、本当の意味での復興はあり得ないし、復興なくしてコロナ禍からの脱却はない。

地方経済を立ち直らせるためには、寧ろ、GoTo再開を要請するべきであり、感染リスクを云うのなら、緊急事態宣言下以外の地域の行き来を活性化するべきではないのか。

少し考えるだけでも、いくらでも打開策は出てくる、もっと考えれば、いくらでも出せるだろう。 この一連の動きをもってして、五輪反対運動に繋げる事だけは、絶対にやめて欲しいし、その様な事態を招いた島根県知事の罪は重い。