東京五輪_全力応援宣言

 自国開催の東京五輪。ここを目指すアスリートは選手生活の全てをかけて、いや人生をかけて、様々な困難を乗り越えて臨もうとしている。そして、その競技姿勢を通じて我々に感動と元気を運んでくれる。であるならば、コロナ禍であろうとも、いやコロナ禍だからこそ、全力で東京五輪を目指すアスリートを全力応援しませんか。

 様々なネガティブ情報も多いのは事実だろうが、それを乗り越えて挑戦する人達を、ネガティブな『Noの論理』ではなく、どうすれば出来るのかというポジティブな『Yesの発想』で応援しませんか。

 いまだ中止を叫ぶ声も多い。その殆どは、リスクを語るが、様々な種目、プロスポーツにおいても、どうやれば安全に開催できるか、真剣に考え、トライアンドエラーが行われている。その結果、現時点でもリスク低減策はかなりのレベルで積み上げてきている。
 応援できなくとも、ネガティブな発信で、挑戦する前向きな人達の妨げになる事だけは、避けるべきと思って頂けませんか。

 個々に考え方も異なるだろうし、国民全員賛同して欲しいとは言わない。しかし、認識して欲しいのは、『中止すべき』という声が大きくなると、少なからず東京五輪を目指すアスリートの活動に負の影響が及んでしまうことだ。
 確固たる信念を持って『中止すべき』との発信をされるなら仕方がない、それはそれで意見として尊重しなければならないだろう。しかし、空気感、感覚論で『中止すべきだと思う』のであれば、是非発想の転換をして『感染リスクを最小化出来るのであれば開催できる』とポジティブな考えを少しでも持って頂けないだろうか。

 個々のアスリートは、感染抑止行動という通常の活動にプラスαした対応を余儀なくされ、苦難に挑み、乗り越えている。それらアスリートの支援のために、感染抑止対策も工夫されレベルアップしているし、これからも新たな策がどんどん追加されていくだろう。
 であれば、出来るだけポジティブな意見を応援メッセージとして発信して頂きたいし、出来なくても、確固たる意思の裏付け無く『中止すべき』という発信は控えてもらえないだろうか。マイナスが減少するだけでも、アスリート一人一人には大きな力になる。

 これは切実な願いである。多くのアスリート達の為、少しでもポジティブに『Yesの発想』で『どうすれば出来るか』『どうすれば安心出来るか』の考えで、応援をしませんか。

<政治家の皆さんへ>
東京五輪を政争の具とするのはもうやめて下さい。政治的国家イベントである事も間違いありませんが、今一度、個々のアスリートに目線を合わせて下さい。野党の皆さん、政権与党を攻撃する格好のネタかもしれませんが、しばらく攻撃は控えて頂けないでしょうか。いやむしろ積極的に政府と連携して開催に向けて全力でご尽力頂けないでしょうか。結果として開催出来れば、皆さんの政治成果となることは間違いないでしょうから。

<マスコミ、メディアの皆さんへ>
ネガティブな情報発信、政府監視の役割も重要でしょうが、東京五輪に向けては全力応援の姿勢を前面に出して頂けないでしょうか。人類の英知を結集した感染抑止を施し、ポジティブな大会にするためには、皆さんの情報発信が極めて重要です。むしろ、メディアの発信が前向きになれば、様々なイノベーションに繋がります。『ここまで対策は考えられている』『もっとこういうことが出来るのではないか』という情報発信を強めて頂ければ、一般国民の意識も前に向き、対応策も確実にレベルアップし、前進できます。国民を前に向かせイノベーションを生み出すのも、後ろに向かせるのも皆さん次第だと言っても過言ではありません。

 先日の体操内村選手のコメントを真正面から受け止めませんか。多くのアスリートが同様の感情を持ち、発信を憚っていた内容、勇気を持っての発信、問題提起です。『できない、ではなく、どうやったらできるのか』『どうか、できないと思わないで欲しい』です。

残念ながら、その後の調査でもネガティブな意見が多いのが現実です。

 過去に自身の責によらずチャンスを奪われた選手として、マラソンの瀬古選手や柔道の山下選手が語られる。彼らは、金メダル確実と言われた選手だったが、同様にチャンスを奪われた。しかし、実際にチャンスを奪われ、人生が狂わされたアスリートは代表以外も含めて大勢埋もれており、その何十倍、何百倍も存在する。

彼らに、歴史の不幸な繰り返しを経験させないで欲しい。

 どうやったらできるのか、それを追求して達成できた時に、得られる成果は有形無形で計り知れない。できない、と思った瞬間に前に進むことが出来なくなる。負のエネルギーは、前を向いて、障害を乗り越え、前進している正のエネルギーにも負の影響が生じる。

 このメッセージは、極めて感情論として、感情的に発信している。その理由は、世の中の『できない』『中止すべき』との声の多くは極めて感情論だと思っているからだ。

 論理的にリスクマネジメント観点で語る事、状況を統計的かつ客観的に分析する事は可能であり、前向きな情報として発信することも出来る。しかし、それだけでは社会の感情的なパワーには届かない。マイナスパワーの方が多いのが論理的であれば仕方がないが、極めて感情的であり、論理だけでは押し戻せない。

 東京五輪は開催して欲しいし、開催するべきと信じている。代表選手だけでなく、選に漏れた選手も含めて多くのアスリートの人生を支え、チャレンジする価値を高めてくれる。その姿を見ることで、多くの人は正のエネルギーを得ることが出来る。その結果が社会に還元される効果が大きいからだ。

米国大統領選挙という権力抗争

 トランプ大統領の敗北宣言が為されず、未だ混沌とする米国大統領選挙だが、ニュースは相変わらず真実を伝えるのではなく、印象操作のフェークニュースに終始し、トランプ氏のダーティーで往生際が悪いという印象を発信し続けている。司法長官は、『重大な選挙不正の証拠なし』と発信したが、各種メディアは、あたかもトランプ氏の主張が言いがかりで不正はなかったと言わんばかりの裏付けとする報道に終始しており、聞きかじりの人は騙されてしまうだろう。では、この言葉の意味するところは何か冷静に考えて見よう。

 まず『重大な』であるがこれは、結果を覆すか否かが判断基準で、確認できている不正を合計しても結果が覆らない規模であることを意味する。例えば票差が1000票あったとして、不正が確認されたのが200票であれば、結果は覆らないということだ。
 そして『証拠なし』と言っているのは、証拠が確認できていないだけで、不正がなかったとは一言も言っていない。そもそも、証拠を押さえて確認する捜査が行われているかというと甚だ疑問であり、捜査していなければ証拠が確認出来ないのは当然である。
 原告側がいくら訴えても、原告側が掴める証拠など氷山の一角に過ぎず、本格的操作が大々的に行われない限り、覆す証拠は出るはずがないのだ。

 冷静に考えて欲しい。こういう話を客観的に事実検証する際の思考方法は、逆の立場で考えてみる事だ。トランプ陣営の不正が指摘され、一部、それ程大きな規模でなくとも発覚した場合を想定するのである。恐らく、メディアはこぞって、トランプ批判に徹底するだろう、発覚しているのは氷山の一角であり、一部でも不正が発覚したのであれば、選ばれる資格は無いと。

 えー、だったら不正で選ばれたバイデンは、大統領としては認められないじゃあないか、というのも間違いで、極論言えば、どんな不正をしようが、結果の選挙人獲得数で上回れば勝ちなのである。綺麗ごとではない、権力闘争、昔なら殺し合いなのだから。法的にも、立証できる不正で逆転できない時点で、現代の権力闘争では、それが結果であり、決定となる。

 事実として、数々の不正は立証されている。死者や不在者の名義での投票があったり、投票数が有権者数を上回っていたり、明らかな不正だが、結果を覆す規模ではないだけなのである。私が以前出稿した原稿でも、統計的な根拠と推論を書かせて頂いたが、ほぼ間違いなく、郵便投票が無ければトランプ氏が圧勝していたと推定できる。しかし、郵便投票なるものの実施を防げなかった時点で、この選挙、いや権力闘争の勝敗は決したのである。共和党陣営としては、極論を云うと、リアルの投票で有権者総数の過半数を獲得しない限り勝てないのだ。いや、ひょっとすると過半数を超えても、何故かそれ以上の郵便投票が作り出されるかもしれない。

 そもそも、郵便投票を大規模実施させた時点で、民主党の勝利なのだが、今回は新型コロナ感染抑止を口実に導入を阻止できなかった。しかし、この勝ち方が出来るのなら、あの手この手を使って、郵便投票の制度定着化が叫ばれるだろう、尤もらしい理由を付けて。投票率が格段に向上できたことを成果とするなど、民巣主義として進化出来る方法だとか、何とでも理由は付けられる。

 従って、4年後の大統領選挙、権力闘争は既に始まっており、トランプ氏のうったえは、その入り口に過ぎない。早ければ、来週早々にも4年後に向けての宣戦布告が発信されるのではないだろうか。敗北宣言ではない、次への宣戦布告として。

日本は、他国の出来事と達観するのではなく、そのことを前提に、自国の進む道、戦略を見極め、戦術を立てることを考えるべきだ。次期米国大統領は、日本人の感覚における、民主主義に則った、公平な投票制度で選ばれた政権ではないことだけは間違いなく、目的のために手段を択ばない政権を相手にすることになる。しかし、世界では、民主主義的に選ばれた為政者の方が少ないとも言えるのであり、綺麗ごとでなくその現実を前提とするべきだ。尤もらしく、メディアも使って、法的にも外堀を埋めてくる相手と、それでも同盟国として振舞いながら水面下での攻防は熾烈になる。それは国家レベルだけでなく、民間も含めてだろう。そして、一般国民も、米国メディアの発信がどれだけ偏向しているか、という現実を認識して鵜呑みしない、同時に、米国メディアをニュースソースとして発信する国内メディアも同様であり、鵜呑みせず、自らの頭で考える必要性が高まってきた、そういう時代なのだ。

アメリカ大統領選挙で不正はあったのか?

 アメリカ大統領選挙の結果として世間では、バイデン勝利一色に染まっており、トランプ現大統領が敗北宣言をせず、政権移行しないことに対して、バイデン候補は非難の攻撃を強めている。
 しかし、冷静に考えてみよう。バイデン候補の言うことも結構無理筋なのである。バイデン候補に当確を出して勝利としているのは、マスコミの報道であり、正式決定の結果ではない。トランプ候補にも訴訟の権利があり、最終的に司法で決着がついていないのだから、勝利宣言はまだ早すぎる。不正の証拠がないとか、報道されているが、戦前からマスコミが反トランプ一色なのだから鵜呑みにしてはならない。この点、日本の感覚とは全く異なるのであり、司法決着を待つ必要があるのだ。

 過去にも、再集計、手集計を行って票数が変わったりしているのだが、日本では考えられない事態ではないだろうか。日本で数え直して票数が変わるなど、もしあれば大事件である。
 つまり、アメリカの選挙は日本の様な厳格で、不正が困難な制度ではないのだ。ある意味、実弾を使わない戦争、権力闘争なのだ。しかも、州毎に選挙管理の体制も異なれば、知事の権限に左右される要素が大きい。不正は、行おうとすれば普通に行え、証拠など隠蔽するのは簡単と言っても過言ではない。だからこそ、接戦の最終決着が司法決着に委ねられるのである。

 だからと言って、今回、不正が行われた証明にはならないのはその通りだが、不正していないと言う客観的エビデンスを示すことも困難なのだ。日本では投開票に不正が無いことはエビデンスで示せるので、大きな違いなのである。

 マスコミの報道では、戦前はバイデン圧勝であった。明らかに支持率に違いがあった。隠れトランプと言う言い訳が横行しているが、普通に考えて、4年前に同じ票読みの間違いをしていて、同じことを繰り返すのなら、それはマスコミの情報収集能力がでたらめか、もしくは、敢えて情報操作をしてでも、間違ったアウトプットで反トランプの世論形成をしているか、どちらかだろう。私は、後者だと確信している。ならば、マスコミの情報は鵜呑みにできない、バイアスがかかっていると考えるべきなのだ。

 投票日、初日、郵便投票の多くが開票される前の段階は、トランプ候補が圧勝の様相であった。マスコミは郵便投票の開票で逆転の可能性もあり得ると、言っていたが、苦しい言い訳にしかその時点では聞こえなかった。その時点でのバイデン候補の発言も、最後の1票が開くまで待てと、最後の1票が開けば勝利できるという宣言をした。これは奇怪だった。私には、敗北宣言はしない、と宣言した様にも聞こえた。

 夜が明けると、状況が一変。郵便投票の開票が進み、バイデン氏の逆転の様相が強くなってきた。しかし、その票の中身を客観的に考察すると、次の様な図式が出来る。

画像1

 今回の得票数は史上空前の得票数であった。過去最高得票を、敗色濃厚のトランプ候補でも大きく上回っている。バイデンの得票は更に上なのだ。しかし、それ程の得票率をマークする程、選挙戦は盛り上がっていたのだろうか、疑問である。討論会も1回中止になり、最後も静かだった。バイデン候補の演説は、簡素だった。それで史上空前の票が得られるのだろうか。

 今回コロナ禍の影響で、郵便投票が従来の特別扱いでなく、ハードルを下げて、しかし公正維持策は施さず実施され、結果として6500万票も実行された。これはとてつもない数字である。しかも一説によると、その9割をバイデン候補が獲得したとか。9割は余りにも大きい差なので、少し加減して8割獲得で、郵便投票を除いた得票数をシミュレーションすると、トランプ候補が6000万票、バイデン候補が2700万票とトランプ候補の圧倒的優勢となるのだ。

 トランプ候補が獲得した郵便投票の2割を正として、バイデン候補の方が郵便投票においては優勢であったとして、その差を常識レベルの範囲に抑えて、倍を獲得したとすると、トランプ候補7300万票、バイデン候補5300万票と常識レベルの差でのトランプ候補の勝利になる。

 この状況では、トランプ候補が納得できず、不正が行われたと判断するのも、何ら不思議でない。しかし、不正の証拠がない。統計的に検証する方法はないのだろうか。

 実は、統計的手法でデジタルデータ分析を行うことが可能である。その一つの手法である、ベンフォードの法則を使ってみる。

 ベンフォードの法則とは、ランダムに発生する桁数もまばらな数字の上位桁の数字の出現確率を示すものであり、何らか人の手が加わると、この法則から不自然に外れることで、不正の検出を行うのである。例えば、上1桁目には、『1』が30.1%の確率で発生する。1~9までの数字が均等の確率で出現するわけではなく、統計的にはlog10(1+1/n)で表されるのだ。直感的には、変に思うかもしれないが、桁数が揃っていない数字の上の桁と考えると少し冷静に考えればお分かり頂けるだろう。個々では数学的証明など、詳細は割愛するが、そういうものだとして以下を読んで欲しい。

 激戦州でバイデン候補にマスコミが当確を出している、『ウィスコンシン州』『ペンシルベニア州』『ネバダ州』『ミシガン州』『ミネソタ州』『アリゾナ州』『ジョージア州』の郡毎の得票数の分布を調べてみたのが、次のグラフである。

画像2

 青線でベンフォードの法則の曲線を描き、赤線で実際の得票の分布を示した。青と赤のズレが大きいと統計的に不自然だということになる。
 そうすると、バイデン候補の『1』『4』は不自然にベンフォードの法則から外れているのである。確かに、統計としてn数が充分かと言うと、不充分であることは間違いない。本来であれば、もっと多くのデータを取得して検証する必要があるが、対象とできるデータが簡単に取得できないので、この結果は、あくまで簡易に検証した結果に過ぎない。従って、この結果をもって、不自然と断言はできない。しかし、不自然である可能性があることは間違いないのだ。

 ちなみに、このベンフォードの法則を利用した統計デジタル分析は、会計監査などで、不正を検出する手法として実際に使われている方法である。数あるデータの中で、不自然な所を検出し、ターゲットを絞って、深い調査を行うのである。これらの統計手法は、それ自体で不正の証拠とはならないが、怪しい不自然な部分を抽出し、集中的に検査することで不正を暴く。

 今回の司法判断の過程で、この様な手法を利用するとは思えない。従って、司法決着となってもバイデン勝利となるだろう。しかし、司法判断で不正が無いと言い切ることも出来ないだろう。不正があろうと、無かろうと、勝ちは勝ちと判断するのは、当事者でなく司法しかない。それが、アメリカ大統領選挙制度なのだ。

アメリカ大統領選挙の混乱を鎮める緊急提案

 アメリカ大統領選挙は、バイデン候補の当選確実と報道されており、勝利宣言もなされた。しかし、通常の手順で言うならば、トランプ大統領の敗北宣言があって、初めて勝利宣言が出来るはずだが、まだ敗北宣言は無い。

 それもそのはずで、今回の選挙における郵便投票は想像以上に問題が多い。6500万票もの投票が郵便にて行われたとのことだが、これはトランプ大統領が7100万票、バイデン候補が7500万票とすると40%以上も占めることになるのだ。それなのに、過去の郵便投票の様な限定的利用の枠ではなく、正常に実施するために必要不可欠な対策を充分に講じることなく、コロナ禍という言い訳の元、見切り発車で行われている。日本ではあり得ないだろう。従って、実際に不正があったかどうかではなく、やる気になれば不正はやりたい放題だったのだ。そして、事実不正があっても、ほぼ露呈はしないだろう。

 その状況で、郵便投票が開票される前まで圧勝であったのに、郵便投票で逆転されてしまったのだから、文句を言いたくなるのは当然である。本来であれば、バイデン側、もしくは選挙管理運営側が、公正性を証明するのが筋なのであり、トランプ大統領の訴訟を根拠ない言いがかりと言う誹りは、実は適切でない。

 それでも、郵便投票を法的に有効と認めて実施してしまったことを前提にすると、法的には証拠不十分とされてしまる。その結果、泥仕合になって混乱が継続すると、アメリカの無政府状態が及ぼす世界への影響は計り知れなくなる。

 また、トランプ氏に投票した7100万票の有権者の意思は絶対に無視できない。バイデン候補は、戦い終わってノーサイドの様に、一つになろうと宣言したが、そんな単純ではなく、実は極めて危険な発言なのである。まず、絶対に一つにはなれないのだから。

分断を生んだのがトランプ氏の様に一方的に悪者扱いして、除外するような物言いは、7100万の意思を逆なでする。分断はトランプ氏が生んだのでなく、以前からあり、そこを掘り起こして、目を向け、見える化したのであり、むしろトランプ氏の功績なのだ。今や見えていて隠せないので、臭いモノに蓋は出来ないのだ。一つには決してなれない、多様性を認めて、尊重し、マネジメントする以外に混乱を鎮める方法はないのだ。

 この7100万人の意思を鎮め、混乱を避け、前向きかつ建設的な方向に向かわせるのは、バイデン氏では絶対にできない、唯一出来るのはトランプ氏だけだろう。

 トランプ氏に、その方向に向かわせるモチベーションを持ってもらう方法論は簡単ではない。家族などの説得も噂されているが、その様な次元ではないだろう。極めて自己犠牲を伴う政治的で、未来創造的で、ビジョンを持った説得が必要不可欠だ。

 私の緊急提案は、それが出来るのは、安倍前首相以外に、世界中見渡して他にいないのではないだろうか、ということだ。

 負けを認めさせるのではない。選挙では勝った、アメリカ国民の選択はトランプ氏であったことを認め、その上で、政争上の権力闘争、政争に敗れたと伝える。アメリカ国民の為、世界の為にトランプ氏の名を勇退として残して一旦退き、この問題構造を是正し正常化させることは、貴方しかできない役割だと説得できるのは、安倍前首相しかないだろう。

 アメリカの為、世界の為、そして日本の為に、緊急提言が政府に届くことを期待して止まない。

郵便投票のセキュリティ管理思考

 アメリカ大統領選挙の当確が出され、バイデン次期大統領への祝意が各国から発信され、敗北宣言をしないトランプ現大統領の往生際の悪さを非難する声一色に世の中は染まっている。両論あれば問題視しないが、日本のマスコミ、識者含めて、ほぼ一色であることが異様である。郵便投票やそのプロセスに対する疑問は実際にあるのだから、異論がないことが奇怪で仕方がない。

 客観的に、セキュリティ管理の常識の観点から言うと、今回の選挙における郵便投票は適切とは決して言えず、不正の有無に関わらず無効との主張に一定の論理性がある。
 とは言え、各国の国内法、この場合はアメリカの州法も含めた法制度において、問題なしと判断されたから実施されているのであり、国内法の理念が優先されるべきで、選挙結果は覆らないのも事実であろう。しかし、それは中国共産党1党支配による選出(選挙とは言わなくとも)を民主的手段での選出とは言わないが、他国から異論を挟めないことと同義であるに過ぎない。
 つまり、アメリカ国内の法的解釈問題であり、他国から口出しは出来ないが、客観的かつ民主的妥当性が担保されている事とは全く違う話なのだ。

 なのに、日本国内でも、郵便投票の全てをカウントすることが正義だと言う主張をそのまま民主主義の正義として伝え、不正の温床である郵便投票は無効だと言う主張は言いがかりで民主主義への冒涜だと、一方的に正義と悪を仕分けし決めつけている。これは決してフェアな構造ではない。

 誤解しないで頂きたいので繰り返すが、今回の大統領選挙の勝者は、民主党バイデン候補である。例え、フェアでない構造化での勝利であろうとも、結果としての勝利は覆らないだろう。それが権力闘争であり、アメリカの国家としての選択なのだからとやかく言わない。
 しかし、日本のマスコミ、識者が、トランプを悪、郵便投票も含めた手法が正しいかの様に伝えるのは、根本的に間違いである。

 日本としては、正確な分析をするべきで、真相は分からなくとも、正義の為に手段を択ばない国家の姿勢が示されていることを冷静に今後の判断の基礎にするべきなのだ。今の日本のマスコミ報道が偏向して、国民への正しい判断基準の情報提供を阻害しているのであれば、国民として今まで以上にメディアリテラシーを高める必要性がある。おかしいことにはおかしいと思い、自身で考え、調べる力が必要になってくる。

その観点で、本題の郵便投票のセキュリティ管理視点での考察を行う。

 まず、真っ先に断言すべきは、郵便投票の不正の証拠を示す必要があると言うのは、言いがかりである。不正が行えない、管理運用体制を説明する責任が運営側にあるのであり、疑義が挟まれたら、第三者監査含めた確認を受けてでも、正当性を示さねばならない。

 例えば、クレジットカードをスキミングされ、悪用されてしまった際に、利用者はスキミングされた事実の証拠を示し立証しなければ、不正を訴えられないと言っている様なものなのだ。そんな立証責任を求められたら、泣き寝入りするしかないだろう。
 この場合、ログとして残っている利用履歴、利用実態を確認し、不正の有無を確認するのは運用側の責任だ。運用側にデータがあり、それだけの情報を取り扱い、不正させないサービス環境を維持管理する責任があるからだ。

 選挙でも同様だ。本人確認の手順、不正として考えられる手段に対する防止策とその実施記録。郵便投票で言うならば、有権者登録から郵送した投票券が、戻ってきた際の真贋判定機能。受付から、集票までの処理の中で不正の入り込む隙間の無い運用手順とその運用実態、トレーサビリティログの開示。ここまでやっていれば大丈夫と言わせられるかどうかが一つの勝負だ。
また、郵便投票受付の有効期間延長や共和党の立ち合いをNGとした判断を下した事由と、その際に予め予測できる不正リスク指摘に対するリスク低減策の実施内容、判断の適正さ、等。

 郵便投票における不正防止が充分でなく、接戦において訴訟に発展するリスクは以前から予測されていた。にも関わらず、その点の対応策を講じておらず、強引に押し通している様にしか私には見えない。まさか、極一般的なセキュリティ管理の思考回路が存在しないとは思わないし、思いたくもない。
 繰り返すが、アメリカ国内的に押し通すのは口出ししない。しかし、日本の立場で、この状況で、トランプ氏が単に駄々をこねているだけでなく、ある意味正当な主張をしていることも理解しておく必要がある。その両面を伝えないマスコミは罪深いとしか言い様がない。

 その程度の正当性もなくして、7000万票以上の空前の得票を得ることなどあり得ないし、アメリカ国民はそんなバカではない。これが分断なら、分断と言う事実は多様性という意味で現実に存在していて、分断を認めリスペクトすることが重要だ。この分断には、時には厳しく、時には寛容に、是々非々で対応していくことで乗り越えていけるのだ。
 アメリカ的に言えば、選挙が終われば、一つになる、というのは幻想であり、多様性がある中での舵取りをするのが民主主義政権の責務だ。
 日本側からは、アメリカの多様性を正確に見極め、その判断基準などを分析し、その情報を国民に伝え、同盟国としての外交に活かせる様にすべきだろう。

トランプ絶体絶命の構造

 2日前に勝利宣言の原稿を投稿したが、翌朝から状況が一変した。ここに至って、木村太郎さんも、9分9厘トランプの負けを宣言したし、事実上敗戦は間違いないだろう。しかし、今回の大統領選挙の構造を仮説推論すると、見えてくるものがある。一部では今回の選挙を『機会の平等』と『結果の平等』の対決と称していたが、ある意味、バイデン勝利でアメリカは見た目の『結果の平等』を確立すべく、不都合な事実は見せない、知らせない、闇に葬る。正義の為には、採るべき手段は正当化される。まさに、中世ヨーロッパの様な世界観に突き進む危険性すら感じる。

 断っておくが、私自身はトランプ支持者では決してない。彼の出鱈目な物言い、乱暴な言動など決して支持は出来ない。しかし、客観的に見て今回の選挙はとてもフェアとは思えないものだった。郵便投票をトランプは不正の温床と言い続けたが、マスコミは往生際の悪さや、民主主義に従わない品性を非難し続けている。

 私のビジネス経験上からはっきり申し上げる、他国の選挙制度だから非難は出来ないが、日本であれば絶対にこの様な郵便投票は採用できない。それはセキュリティ管理上、公正を保つことが不可能だからだ。トランプが不正と言っているのは、実は極めてまともな発言であり、もし日本で同様の郵便投票が法案として出てくれば、不正の温床と叩きまくられるのは間違いないのだ。詳細までは記さないが、あの方法なら、何とでも票を操作することが可能である。いくらでも不正の方法は思いつくのだ。

 前日まで70万票リードして、残り未開票が100万票だったのに、夜が明けると、差は60万票に縮まり、未開票が140万票に増えた。つまり50万票どこかから増えたのだ。そして、結果逆転となった。
 投票数を見ても、トランプは大方のマスコミの予想、世論調査を覆し、歴代最上位にランクされる程の得票を得た。しかし、郵便投票でバイデンが後から上回った。
 負けていれば、どこまでも後から票を積み増せる様に見える。最終的に投票率が100%超えない限り問題にはならないだろう。

 それでも、郵便投票を公正な1票として、民主主義に従えと非難される。事実は、郵便投票では公平な民主主義が維持できないのだが。これは公平では決してない。
 不正の根拠、証拠を示せとトランプは非難される。しかし、その論理は、騙しとおせたら何をやっても正義だと言っているに等しい。不正の証拠が示せ、発覚するのは、氷山の一角でしかないのだから。これだけ穴だらけの精度であれば、1票の正当性を示す責任があると考える方が真っ当なのだ。

 トランプがアメリカ社会の分断を生み出した様に言われるが、実は、分断している実態を見える化しただけであり、既に分断はあり、隠蔽されていた様に見える。そして、いわゆるフェイクニュースが不都合な真実を隠し、不都合な異端児を攻撃する構造に見えて仕方がない。その結果、分断が無くなってしまうと、『統制された結果の平等』の完成である。それは、決して望む形ではないはずだ。

 今回の大統領選挙の構造を『トランプvs反トランプ』と2日前に称したが、『トランプvs反トランプ+マスコミ(情報)』という構造が垣間見えるのだ。

 トランプが勝利宣言をしたとマスコミは叩きまくったが、その前にバイデンが同様の宣言をしているが批判は皆無。バイデンの宣言は、勝利を宣言しつつ、最後の1票が開くまで敗北宣言しないと言っている。これも、負けている立場で、ある意味往生際が悪い姿勢だが、非難されず、逆転されたトランプは往生際が悪いと責められる。

 確かにトランプは非難を受ける言動が多いし、子供じみた発言もある。しかし、今回の選挙に関しては、同情を禁じ得ない。反トランプが完全正義として情報が統制されている。むしろ、論理的に真っ当なことを言っているのはトランプに見えるが、勝てば官軍、負ければ賊軍でしかない。

 今回の大統領選挙は勝負あったとすると、マスコミという反政府勢力が勝ったことになるが、これまでのアメリカは政権交代があろうとも政策の継続性があったが、今回はどうだろう。

 そして、日本も他人事ではいられない。今回の大統領選挙の日本における報道は、アメリカとほぼ同じ調子で行われている。つまり同じ構造である。であるならば、情報を鵜呑みにできない状態であり、素のデータから個々に分析し読み取っていく力がなければ、生き抜けない世の中だと認識しなければならないだろう。

トランプ大統領事実上の勝利宣言

 アメリカ大統領選挙の投票が行われ、早々にトランプ大統領による事実上の勝利宣言が為された。まだ確定できていない激戦州で郵便投票の開票がまだなので逆転もあり得ると多くのマスコミは未だに言い続けており、多くの識者もこの時点での敗北宣言の無い事実上の勝利宣言を発したトランプ大統領にフライングだとの批判を集中している。しかし、バイデン候補もほぼ同様の勝利宣言まがいの発信を先にしているのだが、そちらの批判は聞こえてこない。

 当初予想では当日開票で少しのリードをしたトランプ大統領が、郵便投票で逆転される接戦状態で、なりふり構わず郵便投票の開票停止を求める訴訟を起こすなどの対応が予測されていたが、実際は大きく異なり郵便投票完全開票を残した状態ではあるが、ほぼ逆転不可能なレベルの大差を付けているのが実態だろう。
 多くのマスコミは、大差の事実を受け入れることが出来ず、勝利宣言をしたトランプ大統領に対する批判に終始している。このこと自体が問題を露呈していることに一体どれだけの人が気付いているだろうか。私の知る限り、木村太郎さんぐらいだろうか。冷静にこの状況を予測し、現時点でのトランプ勝利を確信していたのも同氏である。(実は私も同様の予測であった)

 今回のアメリカ大統領選挙は、『トランプvs反トランプ』の構造であった。決して『トランプvsバイデン』ではなかったのである。民主党の代表がバイデンになった瞬間、私は、民主党は勝つ気がないのか、と疑った。そして、選挙戦を戦う内に、その構造が『トランプ+反バイデンvs反トランプ』に変異してきた。最後まで、バイデン推しはなかった。その証拠がレディー・ガガの最後の応援演説にも現れており、反トランプしか言っていない。この時点で、接戦だろうが、トランプ大統領優勢に動いていたのが現実だろう。
 そして、バイデンの目指す国家像、ビジョン、夢が押し出されない状態で政策論争もなく大統領になったらアメリカ国民は不幸だろうし、流石にその点は見透かされ、反バイデンが発生したのだろう。その時点で、勝負あった、トランプ大統領の勝利が決まったようなものだ。

 4年前のトランプ大統領勝利の際も、今回も、マスコミの多くは『隠れトランプ支持』を理由にしていたが、私は事実と反すると考えている。トランプ大統領が良く使う『フェイクニュース』が全てと考えている。支持率調査や、世論調査など、調査する分母を恣意的に選択し、アンケートの聞き方を工夫するだけで、簡単に事実と異なるデータに見せかけることが可能だ。アメリカの主要マスコミ(FOXを除く)の多くはリベラル系に偏向しており、報道内容を鵜呑みにできないのが実態であり、それを『フェイクニュース』と非難していたのである。速すぎる勝利宣言でも、バイデンは批判されず、トランプ大統領だけが批判されるのもその表れである。
 断言しよう、隠れトランプによる逆転などではなく、トランプvs反トランプの構造でトランプ支持が上回り、そこに反バイデンが加わって想定外の大差が付いたと見るべきだ。

 日本のマスコミも多くはリベラル系に偏向しており、この事実は絶対に認めないだろう。だからこそ、木村太郎さんの発言が貴重なのだ。しかし、トランプ大統領が露わにしたフェイクニュースの構造を認めない限り国民の目線は騙せなくなっていることも認識しなければこの先存在価値が無くなってくるだろう。

 マスコミの使命として『政権の監視』との時代錯誤の認識を持つ限り、保守ではなくリベラルに傾向するのだろう。しかし、民主主義を確立させ定着させていく過程ではそうかもしれないが、既に成熟した民主主義の時代において、マスコミの最大の役割は『事実を事実のまま客観的に伝える』であるはずだ。その先の判断は国民の判断なのである。もちろん、事実を伝えた上で、マスコミ各社の独自の見解として伝えることは良いが、事実の歪曲や操作は、例え政権監視の大義名分あっても許されるべきではない。

 そして、その批判構造に乗って、独自のビジョンなく、批判に終始する政治勢力は淘汰される。マスコミが偏向しようとも、判断が出来る国民に成熟しつつある状況下での批判勢力への裁定を下すだろう。今回の大統領選挙がそうであり、日本でも国民民主が袂を分けて一旦勢力を落としても、次回以降の選挙で維新と共に勢力を拡大し、健全な選択肢を国民に提供してくれる勢力に成長するだろう。その縮図が示された歴史的な1日であった。

学術会議問題に関しての検証3

 学術会議問題の本質的な議論が為されず、いや一般に公開されずに、行政改革で幕を閉じる方向に行く可能性が高い。本来的には、政府が公共の場に問題事項を曝け出し、存在自体を叩き潰すシナリオも想定されたが、菅総理は一般の考えをはるかに上回る、したたかさと、ある意味でのやさしさと妥協点を示して、あるべき姿に少しは近づけようとしつつ、負の部分も許容する方向性に見える。
 一般国民は、冷静に事の終止を見極める必要があるだろう。そうすれば、マスコミ、特に電波系の報道が如何に偏っているかと言うことも再認識できるだろう。

 では、この問題の本質論に迫るために、学術会議たるものの歴史的経緯を振り返ってみよう。

 設立は1949年、日本がまだGHQの占領統治下にあった時代である。従って、学術会議の制度設計には占領軍が深くかかわっていた。憲法で日本を武装解除し、軍需産業は解体、軍事技術を持てない様に監視する考え方が深く入り込んでいる。学術会議は総理府の機関として内閣に直属させ、会員は公選制としたが、武装解除という占領統治下の考え方、呪縛からは解放されなかった。戦後と言う特殊な時代環境下において、総理府の菅活力は弱く、共産党の支配体制が完成したのだ。公選制であったため、修士以上の研究者は誰でも投票でき、全国組織運動が盛んな共産党支持者を動員して多数の会員を確保し続けたのである。

 この様な状態で学術会議は、1950年に「戦争を目的とする科学研究には絶対に従わない決意の表明」の声明を出すなど、極左的な活動に終始し、政府の諮問機関として機能しなくなった。つまり、設立当初から諮問機関としての客観性のある機能は発揮できていないのである。

 この状態を是正するために、1984年に学術会議法が改正されたのだ。それが話題にあがる中曽根康弘首相時代である。その主要改正内容は、会員の選出方法が学会推薦に変わったことだろう。この公選制から推薦制に変えることは大きな改正であるが、同時にある意味ある種の取引として、推薦者を全員任命するという発言があったのだろう。しかし、それでも本質的な問題は解決しなかった。その後も共産党系の会員は前任者が後任者を推薦する仕組みの中で、一定の割合を確保し続けるとともに、各学会のボスが研究費の配分を行う場になってしまったのだ。
 その結果、2001年の省庁再編で科学技術会議が内閣府の総合科学技術会議になって、政府諮問機関としての役割を果たすようになった。学術会議は、業務重複の問題を抱え、総合科学技術会議の中に学術会議改革委員会が設けられた。
 2003年にアカデミーとして政府から独立した組織にするべきとの改革案が出されたが、学術会議は拒否した。その際に、会員の選出を学会推薦から会員の推薦に変更されている。その後も独立性を高める提案に対して、学術会議は拒否を続け、政府は2007年以降、諮問をしなくなり、名実ともに政府の諮問機関として機能しなくなったのだ。

 2017年に「軍事的安全保障研究に関する声明」を発出し、全国の大学・研究機関に呼びかけ、京大などの多くが軍事研究を禁止した事は広く知られている。実は、この声明自体は、僅か12名が出席する場で決定され、総会には報告のみされるだけで、日本学術会議としての正式文書となったのだ。この12名の中には、安全保障問題に関する専門家は存在せず、政治思想を専門とする政治学者が1名いただけであった。つまり、科学者の創意といえる声明では決してなく、優れた研究又は業績がある科学者による自身の担当する分野における意見でもなく、門外漢の非科学的、政治思想の偏ったものと言っても差し支えの無いものだったのだ。
 前述の声明の詳細文書作成は、「安全保障と学術に関する検討委員会」が対応したが、このメンバーは、先の声明で唯一の政治学者が委員長を務め、参加した社会学者3名中2名は共産党系の組織「科学者協会法律部会」の元理事である。
 この声明発出後、「軍事的安全保障研究声明に関するフォローアップ分科会」が設立され、先の組織から連続して就任した共産党系組織の元理事の2名が、継続的にフォローを実施。一部報道で伝えられている、自粛警察の様な活動で軍事的安全保障研究に含まれうる研究への参画を禁じてきたのである。

 ここまで見ても日本学術会議なる組織が、客観的公平性を保持した活動をしているとは思えず、政府の諮問機関としての機能は一切果たしていないことが理解できるだろう。
 学術会議が改革を拒否して一貫して守ってきたのは人事の独立性ではなく、内閣直属機関としての権威であり権益であろう。学術会議の年間予算は10億円と言われているが、その額の問題ではなく、科学研究費補助金の審査委員を選ぶ権限や科学技術予算配分の権限などを有するのであり、今年度予算規模でいうなら、科学研究費補助金は2300億円、科学技術関連予算は4兆3000億円と巨額の権益なのだ。
 先の軍事研究禁止の声明も、学術会議の政府機関としての位置付けによる権益がなければ、何の強制力も持てず、話題にすらならなかったのではないだろうか。

 会員の選出に関しても、「優れた研究又は業績」が必要条件となっているのであり、各科学者の選出条件となった研究や業績の分野における活動に制限されるべきだろうが、実態はその科学的研究・業績の領域ではなく、政治信条・思想面が前面に出して、他の領域へ干渉する活動に終始しているのであり、とても正当な活動とは言えない状態なのだ。例えれば、プロ野球の一流選手が、将棋界の運営に口を出すことを平気で行っている様なことではないだろうか。確かに、プロ野球の一流選手は、その道では一流だろうが、門外漢の分野に対しては、他の素人と何ら変わらず、ましてやそこに政治的思想を入れ込んでくる様では健全であろうはずがない。

 今回の騒動は、共産党機関紙である赤旗から抗議が始まった。そこに、政府攻撃の具として飛びついた立憲民主など野党が声高に「学問の自由に関する政府の不正侵害」「政府の違法行為、違憲行為」と攻撃を始めた。マスコミも同様、電波系を中心に政府攻撃ネタとして伝え続けた。途中から雲行きが怪しくなったと感じたマスコミは、説明責任を攻撃のネタに変更しているが、多くの左派知名人は未だ「学問の自由」「違法違憲」を叫んでいる。野党は国会でどんな無理筋の論理を展開するのだろう。

 しかしながら、ここまで見てきた学術会議の活動を見る限り、科学者による学問、研究の場ではなく、極めて政治的な活動をする組織になっている。その会員が科学者であるというだけで、その実は政治活動である。
 しかし、構成会員の多く、いや日本における科学者は決して全て左派思想者ではない。それどころか、多くは純粋に科学技術を追求する学者なのである。実は、多くの科学者は、現在の学術会議の運営状態に問題意識を持っており、自らの研究を進めるために仕方なく事を荒立てていないだけの被害者も多いのである。即ち、健全な活動に改善するポテンシャルは十二分にあるのだ。

 コロナ禍における専門会議でも話題になったが、専門家会議の役割はあくまで専門的知見、知恵の結集であり、それによって未来に起こり得る事態の予測や対応策を提言としてまとめることであり、それを受けて政策判断をして実行するのは、あくまで政治の役割である。

 科学技術に関する国家予算配分は、あくまで政治の役割である。国家としてどの研究に力を入れるのか判断するのは国家戦略なのだから。同時に、政府諮問機関としての機能を維持するためには、政治主導の任命権が無ければ成立しえない。学問を民間が、一般的に行うのは自由で独立すればよい、産学共同などスポンサーを募っての活動は自由だ。だが、あくまで政府の政策を検討する上での諮問を受ける組織としては、政治介入が必要不可欠である。そして、その正当性は民主主義によって保たれなければならないのだ。

 科学技術が人類の発展に寄与することは人類の歴史が証明している。しかし、使い方を誤ると人類を不幸に陥れることもある。正と負の遺産、双方を冷静に考えて、凡その結論は、科学技術の発展を停止させるのではなく、更に発展させ、使い方を誤らない工夫をするというのが基本的な考え方ではないだろうか。つまり、科学技術を発展させる分野の選別ではなく、分野自体は幅広く研究を推進する。これこそが学問の自由である、そして成果の活用に関して方向性を吟味する仕組みを検討する。従って、軍事研究であろうとも積極的に推進すべきであり、それを戦争抑止の平和目的にしか使えない様にする政治政策、いわゆるシビリアンコントロールが必要になるのだ。その政策は、ある特殊なイデオロギーにのみ委ねられるものではなく、民主主義的手段によって判断されなければならない。

 以上の様に考えると一つの提案が生まれてくる。まず、学術会議なる組織は、3つに分割、別組織化するべきであろう。一つが、自然科学・工業技術系、一つが医学薬学系、最後に社会人文科学系。それぞれ3系統は、独立し、相互に干渉しない。あくまで、専門分野における、政策提言、政府の諮問機関として機能する。組織の会員は、会議側からの推薦を幅広く実施し、推薦理由や実績も含めて公開し、その中から政府により分野や期待するべき分野のバランスなどを加味して選定し任命する。その任命理由も公開する。当然ながら、諮問内容や政策提言内容などは公開する。民主主義的なシビリアンコントロールを発揮して、科学技術の発展を政策に利活用する、最大にして最適な方法論と思えるのだが、いかがだろう。

 菅総理と梶田現会長との会談が行われた。恐らく、内々には収束していくだろうが、一部の抵抗勢力は抵抗を続けるだろう、場外乱闘として。梶田会長ご自身は、自然科学の分野に属する物理学の教授であり、常識的な理屈は通じるどころか論理思考に長けているはずなので、共通の落としどころに向かえるだろう。それでも続ける抵抗、抵抗勢力の背景を見れば更に、この問題構造が見えてくるだろう。科学技術、学問ではなく、イデオロギーを優先する一定の層と政争の具として攻撃ネタにしか考えていない野党、政権監視という大義名分を振りかざした単なる批判拡散のマスコミに限られてくる。今後、国会や報道でも揚げ足取りの追及が繰り返されるだろうが、その中身は冷静に見極めるのが国民の役割だろう。

学術会議問題に関しての検証2

 本件に関して、私は勝負あったと断じたのだが、いまだに反対の政府攻撃は収まらない。ネットでの誹謗中傷論は、ひと時も休むことなく多くの学者や専門家などから続けられていたが、電波による攻撃は一時静かになった。しかし、総理の105人のリストを見ていないと言う発言を境に、電波でも再燃した様に感じる。これは、あたかも沈静化しそうだったのを、再燃させるべく一石を投じたと見るのは私だけだろうか。

 リストを見なかった発言で、左派系野党議員は声を荒げて、違法行為とまで言っているが、本当に違法だと思っているのなら法廷に持ち込めばいい。本音では、違法行為ではない、少なくとも法廷で違法との判決を得られるとは思っていない証拠であり、政争の具としてあら探しをしているだけにしか一般的には見えない。例え告訴しても、勝訴を目的としている訳ではなく、世間に対する印象操作でしかない。

 リスト全体を見ていなくても違法でもなく、無責任でもないことは、仕事の仕組みが理解できていれば分かることだ。推薦に対して、責任部門が指示や方針に基づいて、全体リストを精査し、結果を説明して承認を得る。至極当然のワークフローである。何の問題もない。

 わざわざ、菅総理がこのことを情報として流したことに意図があると考える方が素直だろう。元々、任命理由に関して必要以上の説明を避けている、これも意図的だと感じる。

 分かっている人間が考えると、推薦理由が疑わしいリストに対して世間が納得できる推薦理由を学術会議側が説明出来ていない。『優れた研究又は実績』という理由を尤もらしく語っているが、その説明に当てはまる科学者は日本国中で105人以外に相当数存在するはずだ。従って、105人の推薦理由を『優れた研究又は実績』で説明すること自体間違っている。それはあくまで法的に定めた基準であり、理由ではない。
 『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』も確かに曖昧で、99人の任命理由として弱いのは事実だろう。だが、人事のことは詳細にできないという理由も尤もであり、何より、推薦理由と並べて同じレベルで語っているのである。そこがポイントであり、ある意味罠だろう。

 推薦者リスト自体が偏っている、と言うよりは学術会議の存在そのものが偏っている。従って、ここに手を付けたいが、抵抗勢力は強力で、一般国民の信任も簡単には得られない。学問の自由、言論の自由と言う大義名分で攻めてこられると、理性的・論理的な議論にはならず、感情的な陰謀論に終始してしまう。

 そこで、任命を99人に絞り一石を投じ、学術会議からの攻撃を敢えて受けているのではないだろうか。想像ではあるが、総理からの指示で定員以上のリストが出てこなければ、一定数の除外者を出せと。その除外する考え方として『総合的・俯瞰的』を指示したと考えられないだろうか。その目的は、はっきり言って、6人を拒否したというよりも任命権が内閣側にあることを意思表明することであり、一部のマスコミが言う様な反政府思想者の除外ではない。それは、99人の中にも相当数反政府思想者が含まれているのだから成立しないのである。

 そして、論理的に、法的に誹りを受けない最低限の発出に抑え、敢えて攻撃をさせている。それにより、馬脚を現わさせる。実際に、学術会議に参加している学者からの攻撃は目に余る酷さがある。一般の人が聞いてどう感じるだろうか。正直私が感じるのは、『上から目線の常識知らず』『自分の思い通りにならないことは他人の責任』『自分の学問の自由、自分の許さない学問に対する制限』『何様のつもり』など、世間常識を逸脱する、ある意味一国の政府に対する誹謗中傷の暴力的な暴言は聞き苦しいほどだ。学者先生の身勝手であれば、まだ百歩譲って笑って許せても、国家反逆とも取られかねない件も多く耳にするのは如何なものだろう。

 この様な実態を世間に詳らかにして、世論に問題提起をしようとしているのではないだろうか。

 確かに、6人を拒否した理由の説明を求める声は大きいだろう。それに詳細を応えないことは、国民の理解を得られないリスクも高い。しかし、それ以上に、この組織の実態を晒して、そうせざるを得ない現実を理解してもらう方が、構造改革には近道だろう。身を切らせて骨を断つだ。

 本当の意味での学術会議に求められる社会的責任は重い。学問の自由などではなく、国家として行く末を誤らないための、多方面からの検討、検証の機関として、聖域なく追及してもらう必要がある。その機能が、この様な偏った反政府組織になっていては国家としてのリスクである。
 学術会議から遠い学者たちも加えた、本当の意味での組織体とする為には、大なたが必要だろうし、次の総選挙の争点でもあるだろう。

日本学術会議問題の論理検証

 学術会議問題に関しての検証

 内閣総理大臣による任命拒否に関して問題視をする報道が圧倒的に多いが、聞く側の国民は、感情的にならず冷静に事実関係を正確に検証する必要がある。

 まず、任命拒否の法的裏付けに関して。日本学術会議法によると、『日本学術会議が内閣府令で定めるところにより内閣総理大臣に推薦し、その推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する。』とある。つまり、推薦に基づかない任命は出来ないが、推薦者を全て任命しなければいけないとは書いていない。大昔の中曽根総理の答弁が任命は形式的だと述べているかもしれないが、大昔であり時代は変遷しており、学術会議の活動自体も様変わりし、関連法も変遷している。何より。直近で推薦に基づいて全て任命する義務までは無い、という法制局の解釈文書も提示されている。従って、任命拒否に関して、なんら法的に問題は無い。
 逆に、ここまで明確な状態で、違法と言う人達は、法治主義を根底から覆す、自分の都合のいいことは合法で、政府を責める際は何でも違法と言う、あまりの稚拙さを露呈してしまう。

 次に、独立性の問題に関して。これも同様の日本学術会議法によると、『日本学術会議は、独立して〇〇の職務を行う。』とある。つまり、会議組織の独立性を担保するのではなく、職務の遂行に関して独立性が担保されていることになる。そして、会議自体に関しては、それよりも上位条項に『日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。』と明確に記されている。つまり、内閣総理大臣が所轄する組織の定められた任命権を行使することに、何の問題性も感じられない。

 ここまでの法的な位置付けに関して、実はよく練られた絶妙の民主主義的統制が効いていると感じるのは私だけだろうか。日本学術会議法に目的として記述されている『科学の向上発展を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする』を考えると、会議を組織する会員は、一定の民主的統制が必要だが、一般人の選挙では選定は困難なので内閣総理大臣の任命としつつ、行政府の恣意的な暴走を抑止するために、あくまで推薦を会議側から実施して、その中から任命する。つまり、内閣総理大臣には拒否権はあっても、人を指名することは出来ないのだ。

 学問の自由を侵害するという論は、あまりに論理が飛躍し過ぎていて説明の必要は無いだろう。間接的に忖度が起こって、学問の選択の幅が狭まるという遠い論理もあるが、学術会議会員に何らかの既得権益でもない限り、会員になることを目的とした忖度行動などあり得ないのではないだろうか。ここを、あまり強く言うと、裏においしい既得権益があると勘ぐってしまう。国庫負担の10億円を運営経費が6割締め、個々人の会員に特典がある訳ではないと強調されていたが、そんなことは問題でなく、経費であろうと国費を使っており、独立したいのなら本当に独立して民営化すればよい。その場合運営経費も勿論賄う必要がある。そういう表向きの経費ではなく、裏の既得権益構造がもしもあれば、それこそが問題視されるべきで、正当で客観的な職務遂行に妨げがあり得るのだ。

 さて、そうやって考えると任命拒否に関して唯一残る問題性は、『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した。』とする総理の判断基準の説明責任だろうか。しかし、これまでの考察を経た上で言わせて頂くと、任命拒否の説明責任の前に、推薦理由の説明責任の方が先だろう。推薦は、『優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補を選定し、内閣府の定めるところにより推薦する』とあるのだから、大勢候補者を選定した後に、推薦者を絞っているのであり、その絞り方に『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』が存在するかが焦点である。
 学術会議側は、女性活用などのバランスを強く言っているが、本当にバランスがいいのか。念のため名簿を確認してみた。
 今回任命されなかった6名は、法律学者、思想学者と人文系である。では他に、同じカテゴリの人文科学者がどういう構成で存在するのか。継続会員で同じカテゴリが8名に対して、新規会員が7人。もし、6人もそのまま任命していると、13人と多くなり、バランスが崩れ半数に絞ったと考えると辻褄は合わないだろうか。少なくともバランスが崩れているのは事実だ。
 そして、カテゴリ分類して分かったが、情報系の学者が、継続会員は10人規模で存在するのに、今回の新規会員には3人しか存在しない。デジタル推進を改革の目玉に掲げている状況であれば、通常の感覚であれば情報系の学者が今までよりも増員しても良いぐらいだが、現実は大幅減なのだ。
 これは、バランスを欠いた推薦と判断されても仕方がない。本来であれば趣旨に合わせた、情報系の会員の推薦を託したいところだが、そこまでは踏み込めないぎりぎりの任命拒否ではないだろうかとの仮説が成立する。そこまで議論を始めると、会議のあり様から見直す必要がありそうだ。