3月12日の日テレ『スッキリ』の番組中で発生したアイヌ民族への差別発言が問題になっている。
発言自体は、なぞかけの言葉遊びの世界であり、当の本人に悪気は無かっただろう事は容易に想像できるが、人を犬呼ばわりする表現は、歴史的事実が無くとも、侮辱されたと受け取られても言い逃れできないだろう。ましてや、歴史的に、和人による支配構造で飼い犬と表現されていた事例などを知っていれば、冗談で済ませられない事は理解できただろう。
言葉遊びのレベルでは、筆者も、『お前のその服はタダ(多田と無料をかけて)か?』と子供の頃よくからかわれた経験があるが、私自身全く気にしなかったので大丈夫だったが、この手の冗談でも受け手によっては、傷つくこともある。許されるかどうかは、相手次第だろう。逆に言うと、公共の電波に乗せた発言としては、多数相手への発信であり、相応しくないとならざるを得ないかもしれない。
しかし、この種の禁句は、無数に存在し、その一つ一つを規制する事は困難だろうし、現実的ではない。従って、ある程度の発生リスクは存在するが、発生した都度、相手を傷つけてしまった事実に対して、丁寧に謝罪する事で対応する以外にないだろう。
一方で、歴史的背景がある等、根が深い問題で控えるべき表現は、本来放送禁止用語などで明確に定義されるべきである。放送禁止用語として明確に定義されている差別表現には、厳しいチェックが出来る。そのチェックにかからず、発信してしまった場合は、前述の言葉遊び以上の責任追及と再発防止策が要求されるだろう。
その様に考えると、今回の事案は、どちらに該当するのだろうか。
発言した当人は、反省の意を示し、謝罪し、今後勉強して償う行動、出来る事があれば対応する趣旨の発信もしている。他意もないことから、個人的には、謝意を受け入れ、雨降って地固まる、で前者の対応で良いのではないだろうか、と感じる。歴史的背景を熟知していれば、教育されていれば、との言質も多いが、それらは、感覚論、感情論に感じる。原理原則の差別問題教育は必須としても、個々の事例、事案の教育は言い出したら際限がなく、その全てに臨場感を以って網羅する事は現実的には不可能だろう。
しかし、日テレは放送事業者として、後者の観点の対策も必要ではないだろうか。確かに、今回の表現は、明確に定義できてはいないし、定義できる種類でもないだろうが、それが責任を逃れる理由にはならない。そこは、一般的な品質保証で必要不可欠な、発生原因と流出原因の観点が必要であり、この場合、流出原因対策が必要なのである。放送事業のプロとして、録画チェックなど、防げなかった原因と再発防止策の説明責任を果たす必要があると考えるべきだろう。
<日本における根深い差別問題の元凶>
差別問題は日本でも現実に存在する。しかし、諸外国のそれと比較すると、異質でレベル感が異なるのも事実である。
私自身の少年期を過ごした住環境は、近くに同和問題の地区もあり、在日韓国・朝鮮人問題の地区もあったので、日常生活、友人関係の中で差別問題が身近に臨場感を以って実感できた。そして、学校の同和教育だけでは、自分事としての臨場感は持てないだろうとも確信している。その証拠に、その後関東地区に転勤で引っ越した際には、周囲にその様な臨場感が感じられなかったし、同年代の人との会話でも、ピンと来ていない様子だったのが印象的であった。知識はあっても、現実感を持っていないのだ。
現在の教育では現実の臨場感、問題意識を醸成する事は困難なのだろう。諸外国では、今もなお、現実に目の前で臨場感を以って差別が行われているのと比較して、ある意味、過去の知識に風化している傾向がある。それ故、知識不足を問題として、教育を対策とするのは必要条件かもしれないが十分条件にはならず、本質的な解決にならないだろう。
アイヌ問題にしても、自身の生活で直面する事は少ないだろう。同和問題も教科書で知識はあっても、実生活での実感を持っていない人が多いのではないだろうか。良い意味で同化し、差別が解消され、風化しているのであれば良いが、臭いモノに蓋をしている事が問題なのではないだろうか。それが諸外国の様に差別が分断も生み、暴力的な社会問題化して、蓋など出来様がない状態とは、違う環境であり、対処は異なる必要がある。臭いモノに蓋の問題は、寧ろ被差別者側からすると、暴力的ではなくても、根が深い問題かもしれないのだ。
即ち日本的な、問題意識を口になかなか出さない、タブー視して発言を憚る事自体が、問題を根深くし、解決から遠ざけていると言うべきだと思う。
<日本人のメンタリティに潜む課題>
欧米社会において人種差別は今でも根深く存在している。日本人も黄色人種として差別の対象であった。『イエローモンキー』『ジャップ』などと侮蔑されて来ていた。しかし、日本国内でその様な差別に対して大きな問題として提起している訳でもなく、赦しの心情、寛容な感情で乗り越えているのが実態だろう。それ故、ユダヤ人に対するホロコーストは国際問題視されるが、日本に対する東京大空襲や2度の原爆投下は、差別問題としては語られておらず、事実検証上疑わしい、南京大虐殺や慰安婦問題、戦時労働者問題等は糾弾され、自虐的反応すら続けている。ある意味日本人は、差別を受ける際も、差別をする際も、鈍感で、いい加減で、お人好しなのかもしれない。
実は、今回の問題を提起する記事をいくつか読んでいて感じたのだが、アイヌ人に対する差別を語りながら、平気で『倭人』と表記しているものも複数存在していた事に違和感を感じざるを得なかった。
諸説あるかもしれないが、『倭』とは中華思想による差別表現であると言っていいだろう。歴史資料として残っている表記であれば(例えば『魏志倭人伝』等)、その通りに記述するべきだが、一般的には差別待遇を乗り越え、独立して勝ち取った『和』という表記が適切ではないだろうか。皆、寛容なので問題視しないが、『アイヌ人』との対象で『倭人』というのは極めて不適切な表現なのである。
筆者自身、前述の被差別地区の方々とも普通に交流もあり、友人関係もあった。その様な関係で、差別の問題もタブーではなかったし、逆差別の問題も話していた。その方が臭いモノに蓋をして臨場感を失うよりも、よっぽど差別問題は解消に向かうと確信している。
即ち、知識の共有は必要だが、それ以上に重要なのは、タブー視して腫物に触る対応を続ける事を止めて、喧々諤々と議論を戦わす事ではないだろうか。時には、度を越えてしまい、誤って相手を傷つけてしまうことがあっても、言うべきことを言って、誤解に対しても誠意を以って認め謝罪しつつ、最終的に分かり合える環境が必要であり、本質的解決に近づくことは間違いないだろう。
また、アイヌの文化の様に、文字を持たず、それ故記録も乏しいが、口伝伝承し継続してきた文化背景、メンタリティを研究する事は、実は日本の根深い問題を検証する為に有効かもしれない。