外国人の地方住民投票券は国防問題である

武蔵野市の松下玲子市長が発表した外国人に投票権を与える住民投票条例案に対する賛否が戦わされている。これは軽く考える問題ではなく、国防に関わる重要な問題である。

松下市長は、外国人参政権に通じる問題との指摘に対して「論理の飛躍だ。同姓でも離婚する人がこれだけいる中、夫婦別姓制度を実現すると『家族が壊れる』と言っている人に似ている」と発言し否定している。

この否定の仕方事態が論理になっていない。『同姓でも離婚する人がいる』は決して『同姓だから離婚する人がいる』のではない。つまり同姓、別姓に関係なく、結婚は人と人の繋がりなので離れる事もありえるということでしかない。『夫婦別姓制度を実現する』と危険因子が増加し『家族が壊れる』可能性が高まる、不要な争いが起きうることを『同姓でも離婚する人がいる』という事象で否定できない。これこそが論理の飛躍に他ならない。

この様な論理破綻の言い訳を堂々と発言できること自体、自己正当化の詭弁である誹りは免れないというのが筆者の見解ではあるが、そのことはさておき、この問題についてリスク面から考えていきたい。

<外国人への投票権を与えるリスク>

制度のリスクは性善説のみで語ってはならない。悪意をもって実行した場合に、どこまでのことが可能で、どれだけの影響があるか、そしてその行為は事前にどれだけ把握できて、影響最小化のリスク対策がどれだけ可能か、客観的にかつ冷静に検証する必要がある。

悪用の仕方は簡単だ。大人数の工作員を所定の市町村に住所変更させた後に重要な案件(市町村合併、原子力発電誘致、基地建設など)の住民投票を行い、多数の民意を形成して首長が強権を振るうことだろう。これは合法的、民主的な手段による独裁と言っても良い。

これは誇大妄想でも何でもない。歴史的にも、中世に宣教師がキリスト教を布教し、地域に根ざし、植民地支配に移行していく手段は同様であろう。新疆ウイグルやチベットなどへの侵攻も同様。もっと言えば、アメリカ大陸もオーストラリアも結局現地人よりも多数派の移民による、実力行使力獲得によるものといっても良い。

別の例を挙げると、現地の施政権は取れなくても、情報覇権を占有する方法。現代戦において、情報発信のチャネルを寡占し、規制する事は、世論操作や扇動が容易であり、制空権を握るに等しく占領を容易にする効果がある。そして更に効果的なのは、現地の教育現場を占有することだろう。

つまり地方自治体の攻略は、武器を使った攻撃の様な自軍被害のリスクもなく、平和裏に民主的に侵攻を可能にする手段なのである。

実は、日本国内で外国人に投票権を認める自治体は既に43存在し、在留期間を要件に付けない条例は、神奈川県逗子市、大阪府豊中市の2例存在し、武蔵野市は3例目で東京都内では初の事例になる。これほど多くの事例が既に存在することに驚きである。住民は本当に意味を理解しているのだろうか、筆者は疑問に感じざるを得ない。

<国益の全体最適思考が個人の利益にも通じる>

リスクがあるから、それが全て顕在化するとは限らない。しかし、今現在顕在化していないからといって、リスクがある事を否定はできないし、軽く見積もってもいけない。サイレント・インベージョンは現実の脅威と考えるべきであろう。

本来、国防や外交に関わる要件は国政マターの筈である。

全国に43もの侵略リスクの高い拠点が存在することを認識し、その危険性が無いか適宜状況確認を継続する必要がある。本来であれば、住民がその役割を果たすべきだが、恐らく正しく周知されていないのだろうから、正しく周知させる事から始めるべき。

その内リスクの高い2カ所には具体的な対応策が必要だろう。そして今後これ以上増えない様に、武蔵野市における議論を広く周知し、本当の意味でのリスクを周知する努力は必要不可欠だろう。

決して外国人を差別しようと言っている訳では無い。住民サービスや社会保障は外人であろうと、住民であれば享受できる権利があるものも多い。公平に受ける権利が行使できるようにするべきだろう。

しかし、リスクの高い重要事項に関する決定に関与する権利は基本的に住民である前に、日本国民である必要がある参政権に属するものではないだろうか。それは、そのリスクは地域で留まるものではないからだ。

よく言われる例えに、税金を払っているのだから権利も与えるべきだと言うのは詭弁に過ぎない。商品を購入するユーザーは、商品やサービスに関して物申す事は出来ても、株主として投資しない限り経営に口は出せない。それだけなのだ。

市民活動は、何故か、国家の利益を毀損する活動が多い。国家の利益よりも個人の利益を優先するのがリベラルの根本思想と聞いたことがあるが、個人の利益を追求し過ぎて、全体の国家として利益が失われるのなら、結局、個人の利益失墜にもつながることが理解できないのだろうか。これでは、単なる目先の利益、部分最適思考、利己的な利益追求でしかない。

個人と国家の利益やリスクは、あくまでバランスであり、全体最適思考で検討すべきであろう。

ゼロリスク原理主義の浸透は社会壊滅を招く

日本人と欧米人の心理的比較分析として昔からよく言われていたのが、コップ半分の水をどの様に考えるかだった。欧米人は、『まだ半分もある』と未来に向けて積極的な姿勢で、半分の水を使いながらも増やしていこうとポジティブに考える。一方、日本人は、『もう半分しかない』と将来の不安を極大化させて、なんとかこの半分の水を守り抜こうと考え、ネガティブな思考に陥る。

この違いは本来的には一長一短あるのだ。『まだ半分もある』という思考回路は、当然の事ながら、大きなベネフィットを得る可能性もあるが、リスクも伴う。アメリカンドリームの世界でもあり、社会は大きく発展するだろうが、格差も拡大するかもしれない。『もう半分しかない』の場合は、大きな失敗はないだろうが、大きな成功も期待できない。

しかし、バランスが取れた状態であれば一長一短で片づけられるが、極端な場合は大きな弊害を生む。例えば、『もうコップの水が1%減ってしまって先が不安だ』となると、これでは身動きできず、社会停滞に繋がる。ゼロリスク原理主義により弊害なのだ。

<確認した1事案は木、統計データによる確率は森>

このゼロリスク原理主義とでも言うべき論理と、前向きな現実策との典型的な衝突が『ABEMA-NEWS 2021/06/17』で繰り広げられていた。

この番組の中で、木村盛世女子は、新型コロナの感染データを元に、若者と高齢者の重症化リスクに大きな違いがある事を示し、重症化リスクの低い若者の行動制限、自粛を殊更強化する事に異を唱えていた。つまり、リスクの高い層に対して対策を集中する事で、重症化や不幸に至る事案を最小化出来るとの主張だ。

これに対して、宇佐美典也氏は、若者でも重症化リスクはゼロではなく、自身の周辺でも実際に若者が苦しむ姿を見ていると言い、確率論で語るのは間違いだと言う。

これは、典型的なゼロリスク原理主義とでも言うべき、騙しのテクニックなのだ。つまり、確率で例えば100万人に1人の確率であろうとも、その1人、当事者にとってみれば、100%なのである。人は、他人事であれば確率が高くても、それ程恐れないが、自身が当事者になれば、その時点で100%であり、事実として突き付けられる恐怖は100%なのだ。それが家族であっても当事者であろうし、身近な恐怖となる。有名人がその対象になったら、赤の他人が対象になるよりも当事者意識の度合いは高まる。昨年の志村けんさんの不幸は多くの国民に新型コロナの恐怖心を植え付けた。赤の他人だったら、あれほどの恐怖は無かったのだ。

この様に、確率に関係なく、当事者度合い、当事者との距離感で恐怖の度合いは変化する。この法則に則り、若者でも重症化する、重症化した若者を実際に見た、だから貴方も重症化する可能性があると脅せば恐怖は実際の確率以上に高まるのだ。

しかし、実際の政策を打つために必要なのは、この100%の当事者目線ではなく、マクロの確率論でリスクを評価し、政策の強弱、方向性を検討する事なのだ。

この様な単純で当たり前の事は言われなくとも分かっていると言うかもしれないが、メディアの報道は殆ど、この論調に終始し、宇佐美氏も何の疑いもなく強弁されているのだ。恐ろしい世の中だ。

井戸端会議で、『・・・とみんなが言っている』という話法が用いられるが、この場合のみんなは、多くの場合単数形だったりする。1人から聞いた事をみんなから聞いたと言い放てるのだ。身の周りの誰々が、若くても重症化したからといって、みんなにリスクがあると言うのは、この論調と同様に言い過ぎなのだ。あくまでデータで示された確率論が前提になる事を忘れてはならない。

弱者を切り捨てるのか、と言う反論も筋違いだ。一人も犠牲者を出さない、というのは聞こえがいいが、その結果多数の被害者を生むのである。犠牲者も被害者も最小限に抑えるために打つ策は、確率とバランスで語らねばならない。

<反対勢力の行動パターン>

経営に携わり、組織の問題に対峙し乗り越えた経験のある方であれば納得して頂けるだろうが、組織の問題の大部分は部分最適思考が元凶となる。全体最適思考による最適策は誰の目から見ても明確であっても、個々の部分最適ではなく、個々に苦労も強いられ、不利益になる事も少なくないので抵抗勢力と化すのだ。その場合の抵抗勢力は、決して自己の利益追求と表向きは言わず、大体の場合は、『できない』『現実的でない』ともっともらしく否定するのだ。

日本がさざ波の新型コロナ感染状況で医療逼迫が発生し、一向に医療体制強化、医療資源適正配分が進まない原因がここにある。

分かり易い討論が上記と同様の番組で繰り広げられていた。木村盛世女子は、前向きに医療逼迫を起こさない為に、患者の広域間搬送を提案していた。日本の重症病床数は4200床あり、その内1200しか使われていないので、オールジャパンの対応を提案したのだ。方法として示されたのは、ICU搭載の自衛隊ヘリによる搬送だ。

それに対して、宇佐美典也氏は、受け入れ側の病院に強制できない。机上の空論であり、出来ない事だと言っていた。しかし、その論法こそが部分最適の抵抗勢力のものに他ならない。その結果として、飲食店含め多くの国民に強制力のない自粛と言う名の要請を繰り返しているのであり、病院にだけ同様の要請が出来ない論理にならない。

百歩譲って、何らかの本当に出来ない理由があるのなら、その事を国民に、医療側が強化対応できない事を頭を下げて論理的に説明し、納得を得る努力が最低限必要では無いだろうか。ところが、日本医師会長や東京都医師会長など、記者会見では上から目線で国民の緩みを攻める様な論調を繰り返してきているではないか。しかも自分達はパーティを開催しながらなので、本当に出来ない理由があるとは誰にも思えない。

では、実際はどうなのかというと、実は一部の首長から、他県の患者受け入れに対しても前向きな姿勢が示された事もある。本気で、政府が号令をかけて、自衛隊の出動も辞さない姿勢を見せれば、少なからず対応する病院も出てくるのではないだろうか。それぐらい医師会が旗振っても罰が当たらないだろう。

ワクチンの場合も、菅首相が1日100万回と言った時、メディアは挙って出来もしない、出来る訳が無いと批判した。更に医師会の抵抗を受けても、自衛隊を出動させ、超法規的措置で歯科医などに展開し、職域接種まで拡大の手を次から次へと打って出た。いつまでも抵抗を続けていたら、存在価値を失うだけだろう。

<医療崩壊抑止の具体策整理>

1年以上、この状態を経験し、医療崩壊を防ぐ方法論はほぼ見えてきている。出来ない事ではなく、やる気になれば出来る方法として見えてきているのだ。簡単に整理すると

  • 町医者の体制で患者の早期ケアを強化する

尼崎の長尾医師の成功事例を水平展開すれば良く、制度面の後押しとしては、リモート診療を導入し効率化を図れば良い。

  • 重症化した患者は、オールジャパン病床の受け入れ態勢で広域搬送も辞さない

患者を受け入れた際の手当の充実は必要だろうが、既に相当レベルの法的措置は為されているはずだ。後は、号令次第だが、本来的には政府が号令をかける前に、医師会が音頭を取るべきだろうし、その方が将来の軋轢は少なくて済む。

  • 専用治療センター建設、強制的に医療スタッフを柔軟に配置

前項と競合する部分もあるが、所謂あの手、この手である。大阪府で同様のセンター設立の際、人材に関して結局自衛隊の支援を得たが、本来なら医師会が音頭を取るべきだろう。

実は、こんな簡単な事も出来ずに、既得権益を死守する意識で内乱状態になってしまっては、外から見ると、国家としての脆弱性を露呈している事になる。それはそうだろう、この国を攻めるのに武力は不要で、メディアに対しての情報操作に極めて弱く、多くの既得権益組織、特に学術団体系を攻め落とせば、易々と混乱状態に陥れる事が出来ると示しているのだ。

これに対抗する唯一の方法は、全体最適思考での政策が適切に打てる姿、岩盤既得権益構造を一つ一つ打破していく事だろう。まずは、医療体制の事業継続計画を確立する事が急務なのだ。