女性蔑視発言に対する世間の反応から見えてくる本質的な問題

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。謝罪はしたが、辞任する考えもなく、会見では更に火に油を注ぐ様な印象を与えたのではないだろうか。全力で五輪開催に向けて、後ろ向き意見を乗り越え、どうやったら出来るのか、前向きな知恵を結集し、ある意味イノベーションを起こす必要がある状況だと考えているが、誠に残念である。

この発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、決して許されるものとは思えない。日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と思われる大きなマイナスなのだから。

五輪問題は一旦置いておいて、本質的な問題である、ジェンダー・多様性に関する事を考えたい。

昼の番組での信州大学特任准教授の山口真由氏の意見が秀逸であった。それは、男女平等を訴えるばかりに、本音では反対意見を持ちながら、言い出せない雰囲気で封殺し、解決に必要な反対意見が聞こえてこない事が問題であると指摘。そして、海外などの状況も表面上は女性の社会進出が進んでいる様に見えるが、反対意識も根強く存在し、臭いものに蓋をしているだけなので、この様な本音の意見は実は貴重で排除すべきではないとの趣旨だった。

男性陣の発言は、時代の変化を認識するべきだとか、思っていても言うべきでないとかの意見が主だったのが対照的だ。それは、実は本音では男女平等に対して反論はあっても、時代が変わったので仕方がない、言わない、言えないと聞こえて来た。その様な状況で、女性からの本質的な問題提起は貴重である。表面上ではなく、本質的な問題に目を向けないと、本来的な解決は出来ないからだ。

実際に、ポストへの登用数はガイドライン等で数値目標が定められる傾向が強いが、本当は、男女区別せずに、適任者を登用するべきはずだ。適任者の男女比率が実際には等しくない事が本質的な問題であり、その状態で無理に女性から選任する事も同様に不平等であることは疑い様がない。結果の平等と機会の平等のどちらを選択するかなのである。

理想的には、機会の平等を担保し、現実に男女ほぼ同数の人材が育っていて、結果としても平等になることだろうが、現実はそんなに甘くない。

機会の平等を優先すれば、結果としては同数にならない可能性が高く、今現在であれば間違いなくそうなるだろう。それは、女性の社会参画に対するハードルもあるだろうが、それ以外にも個々人の意思、モチベーション、それに伴う経験値や能力の差は現実にあるだろう。

女性側にも厳しい競争環境を戦い抜き、自分を磨き、成長する強い意志と実行力が必要になるのだ。ある意味、女性には厳しい条件かもしれないが、これが本当の平等である。

結果の平等を優先すれば、新たな差別が生じるし、そのことを言及する意見を封殺する環境が出来上がっていく。だから、失言に対して問題の本質を正すのではなく、排他的で、ある意味差別的な攻撃が始まってしまう。

森会長の発言された組織運営幹部からすれば、ガイドラインに合わせ様とすると、現実は無理が生じ、能力のある男性人材が逆差別を受ける事になるという事だろう。そうならない為には、女性人材も、ほぼ同数揃う環境が必要なのだが、現実にはそうなっていないのに、結果だけ合わそうとすると無理が生じるのだ。環境が整っていない事を問題視するべきなのだ。

繰り返しになるが、森会長の発言、会見での発言は批判に値し、女性蔑視と取られても言い訳のしようが無く、決して許されるものではない。しかし、排他的な原理主義による結果平等を絶対正義と称して、本質的な問題を見ず、反対意見を吊し上げ、封殺する行為も決して許されるとは思えない。

この問題意識は、男女平等だけでなく人種差別なども同様であり、日本は、余程、機会平等が進んでいるが、結果平等までには至っていないジレンマを抱えている。逆に、欧米は結果平等を形の上で作り上げる事で分断が深刻化しているとも感じる。

本当の意味での多様性に寛容になる必要があるのだ。人は人の数だけ考えがあり、身体的にも得手不得手があり、個々に尊重されなければならない。個々の意見に問題性があるなら、目を逸らさず、膝を突き合わせて、理性的な議論が必要だ。そこには、必ず真の問題が隠れているからだ。