巨大情報企業の情報規制が及ぼす問題性

世界的巨大企業であるGAFAが、世界中の情報に一定の統制力がある事は誰も疑わない。トランプ前大統領のアカウントが停止されたことも記憶に新しい。建前としては、民間企業として自社のポリシーに則った規制は何も問題ない。しかし、世界中の情報を統制管理する力を持ったメディアとして、社会的責任もあると考えるべきだろう。

今、新型コロナに関する情報発信には規制がかかっている。建前は、世界的危機事態なのでデマゴギー等の情報拡散による混乱を防止する為であり、Expertise(専門性)、Authoritativeness(権威性)、Trustworthiness(信頼性)を盾に検閲まがいの事も行われている。

確かに、特にネット上には疑わしい情報も多く、玉石混交の状態である事は間違いない。しかし、前述の検閲で適切な評価が行われているとは思えず、内容の判別すら恣意的ではないかと疑わしいのが実態である。

実際にあった話をしよう。

昨年8月末にKindle電子出版で拙著『ファクターXの正体』~新型コロナに関する書籍を発刊した際の話である。最初は取り扱いできないとの断りの回答が来た。その理由を問い合わせつつ再申請したが、公式の情報以外は取り扱えないとのことで2度目も却下だった。間違いなく、内容を読まずに審査していると感じたので、1次情報として政府発信の情報を利用、札幌医科大学にも連携したデータを活用し、統計的・科学的・論理的考察を行っていることを主張し、再々申請を行ったところ、ようやく承認されたのだ。

つまり、情報の内容ではなく、筆者が無名であり、医療関係者でもないが故にデマゴギー扱いされたのである。確かに他の専門家とは異なる説だろうが、一定の論理性はあると自負していたのだが。読んで頂き、疑いは晴れたのだが、異議申し立てしなければ封殺されていたのだ。そして、Googleアドセンス審査は未だにOKになっていないのだ。

<従来の専門性・権威性・信頼性の概念は通用しなくなっている>

情報の価値に、発信者が有名か否かは本質的に関係ない。専門家であろうとも考え方は十人十色であり異説があるのは当然、寧ろ専門家故の専門常識バイアスも散見されるのも現実だ。テレビで発信している専門家の危機的な憶測が何一つ実現していない事からも、専門家でも絶対正しい訳ではなく、発信情報は同様に玉石混交なのだ。ましてや、他の分野で有名なだけで規制の対象にはならない、情緒的で非科学的な情報発信も多いが、有名であるが故に影響力があるので、むしろ大問題なのだ。

今や、インターネットを探れば、貴重なオープンデータは誰でも取得できる。専門的な論文も、詳しくは読破出来なくても、サマリ程度なら素人でも読み込める。それに対する様々な反対意見も調べれば確認できる。まさに情報発信、議論の俎上に上がるハードルは圧倒的に下がっているのだ。それ故、素人でも本質を突いた情報発信もあるし、専門家でも権威性を前面に押し出しているだけの、非論理的な発信もあるのだ。専門家も人間であり、個人の思想信条をベースにした発信もあるのだから当然なのだ。

即ち、情報の玉石混交状態では、従来の専門性、権威性、信頼性は適切な評価基準ではなくなってきている。従来の基準に則った、情報の選別は、良識ある情報の封殺にも繋がり、悪質なデマゴギーをのさばらせる原因にもなってしまうので、改めるべきなのだ。

<多様化する玉石混交情報社会での日本の位置付け>

GAFAなどは、自分たちの基準をグローバルスタンダードであり正義と称するだろう。これは、実は自分達の価値基準内では寛容だが、それ以外を悪とする極めて排他的なものなのだ。これは、宗教的思考基盤によるので、一朝一夕には改められないのだ。

一般的には殆ど語られていないが、グローバルとは、文化的侵略の一面がある。グローバルの発信源は、聖書を軸とする契約ありき、唯一絶対神を持ち、白黒、明確に判別する文化背景にある。一方で、日本は多神教国家として正義と悪の区分すらアナログ的で、生前は悪でも死去後に善の神になる大転換すらある。日本の文化的背景、宗教的背景の違いは、実は日本人自身が認識しているよりも遥かに大きいのだ。

GAFAは言うまでもなく、グローバル企業であり、それらの判断基準はグローバル基準である。グローバルは、多様性に寛容であるべきと言いつつ、異論には極めて排他的なのだ。しかし、日本の文化、良さは、多くの神を受け入れる寛容性を持つほど、実は多様性に関しては、国際的に先頭を行くべき存在なのだ。遅れていると評価されるのは、グローバル基準からの評価であり、日本人の奥ゆかしさから反論をしないで受け入れてしまっている結果に過ぎない。

この情報侵略ともいえる状況に抗う為に、日本が大きな役割を担う必要がある。グローバル基準も柔軟に受け入れつつ、他のマイノリティも尊重し、融合していくのは、本来的に日本の得意技だからだ。

その為にも、日本人一人一人の情報リテラシーを高め、アンテナを高め、自身の思考による意見表明と、反対意見にも耳を傾け、丁寧な議論が出来る様になる事が重要である。方法論として、教育から見直す必要もあるかもしれないし、電波メディアのワンセンテンス発信に流されず、しっかりと活字を読む力も養成する必要がある。本当の意味で、『広く会議を興し万機公論に決すべし』、『和を以って貴しと爲し』、が必要になってきたのだ。

2度目の民主主義の危機的緊急事態宣言発出直前

 世論調査という数字で、緊急事態宣言発出するべきという意見が60%を上回った様だ。民主主義体制における政権では、発出する以外に手が無くなってきた。例えどんなに意味が無く、効果が薄く、その癖、副作用による打撃は確実に国民が被るのに、正しい判断が出来ない感情論の数値が過半数を上回ってしまった。日本が好戦的な国内世論に圧され、軍部が台頭してきた歴史の繰り返しの様に、民主主義は時に論理性を欠いた、冷静とはとても思えない感情論に支配され、誤った道を選んで、自ら墓穴を掘る。どれだけ政府が懸命に抵抗しようとも、何を発信しても上から被せる様なメディアの情報という連続射撃で消され、発信力が無いと非難される。この場合の『発信力が無い』というのは、自分達と同じ意見の発信が無いことを云い、他の情報発信は全て間違いで血迷っていると否定され発信と見做さない事によって生じる現象。メディアという情報権力による有無を言わさぬ暴力的な政策誘導でしかない。

 自分達と異なる意見の発信には、馬鹿にしてスルーする。問われた質問にも答えず、一方的に断定して捲し立てる。そして、未だにそんな事を云う奴がいると上から目線で見下して一方的に話を断定的に進める。こうすると、確固たる自信を持っていない、自己判断を論理的に独自思考できない大多数は、この意見に従わなければ、周囲から冷たい目で見られると言う強迫観念を抱いて同調させられてしまう。

 結論から言うと、新型コロナは怖い病気である事は事実だが、即死亡とか、根治不可能の難病、いつ急変して死に至るか分からないといった類の病気ではない。だからこそ、正しく恐れなくてはならないのだ。そして、ゼロ化は出来ない事も理解する必要がある。

 どれだけ強制力のある抑止政策を実施して一旦ゼロにしても、再び感染は拡大する事は世界で実証されている。日本は、その事をいち早く理解し、Withコロナ施策に舵を切っており、正しく感染予防行動を行い、バランスの取れた現実的な政策実行を目指していた。それなのに、諸外国で失敗している、ゼロ化政策を絶対神の様に語り続けるのは、余りにも酷すぎる。

 ゼロ化絶対、PCR絶対信者は、欧米で無症状者に対しても無暗に検査を実施した結果、日本より桁違いに多い感染者数をマークしている現実を無視してはいけないし、全員検査を主張するなら、その原因を説明する責任がある。同じ様に検査を無症状者に拡大して同じ轍を踏むことを日本は避けなければならない。欧米の場合は、避けては通れない宗教的行動基盤のため、白黒はっきりさせないと前に進めない為に分かっていても悲劇を招いているとの仮説の説得力が高いのだ。

<医療崩壊は起こり得ない、本当に怖いのは2極化現象である>

 医療崩壊も日本では起こり得ない。何故なら、日本の新型コロナに割いている医療資源は、たかだか全体の3%に過ぎないからだ。ドキュメンタリー調で、ミクロな現場を放映すれば、その現場の厳しさは視聴者には伝わる。厳しいのは当然だ、医療現場なのだから。それは、他の病気治療現場でも同様の厳しさがある事を忘れてはいけない。

 この3%は、たった1ポイント医療資源を割り振るだけで、4%になる。この時点で占有率80%という数字は、60%に減るのは簡単な算数の問題だ。ましてや、昨年比較で、インフルエンザ激減、上気道感染系の肺炎は半減以下、他の肺炎も減少、という状況で、昨年比では余裕があるはずで、それを回すだけで、平気で6%までは可能なはずだ。そうすれば占有率は40%なのだ。そこまで資源再配分は不要だろう、地域ごとに最適な配分を断行すれば良いだけなのだ。それを許さないのが現在の医療業界の既得権益構造であるならば、有事の危機管理対応として法制化すれば良いだけだ。

 それよりも医療業界の構造を問題視するべきだろう。メディアの電波に出て、医療崩壊を訴えるのは、綺麗ごとではなく、医師会長ポストなどの勢力争いの売名行為や、自身の勢力範囲、例えば開業医の領域を守るためであったり、政治的には政治家の票固めであったり、様々な裏側の視点も考慮する事が必要だ。上記の医療崩壊の謎に、正面から答えないで、これまで感染症の経験が無かったことを理由にした体制整備の問題にすり替えているのは、論理すり替え、矛盾と見極める必要がある。

 だからと言って、繰り返しになるが、新型コロナは怖い病気である事は間違いなく軽視できない。しかし、世の中に出回るデマの多さに、騙されるか、あまりの酷さに聞く耳を持たずに軽視するかの2極化現象が最も恐れる危機なのだ。

 感染力は間違いなく強い、そして、肺炎や血栓症などに繋がり一定の重症化リスクも伴う。それに従って致死率も現状でも1%前後の数字を示している。無症状の、感染非確認者が一定数存在する事も想定できるが、実際の感染者が10倍までだろうと想定すると、致死率も0.1%までしか下がらない。風邪と同等には出来ない理由がここにある。

 しかし、風邪と同様の対応方法で抑止は確実にできる。これを正しく伝えられない原因は電波系メディアによって生じている2極化現象なのだ。どれだけ、正しいメッセージを伝えても、言う事を聞かない一定の率は絶対に存在する。それは民主主義国家では、少数意見という云われ方もするし、犯罪がゼロ化出来ない理由かもしれない。それはある程度は、社会悪として受け入れる必要があるが、デマでかき回された結果、多数を占めると危険なのである。

<正しく恐れて、正しい抑止行動が重要>

 自分が感染者のつもりで、人に移さない様に行動を心がける。うつさないと言うのは、まずは、飛沫を飛散させない事。通常時はマスク着用だろうが、勿論、話さない、クシャミや咳をしなければ飛沫は飛ばないのでマスクは不要。逆に、食事中の会話は飛沫飛散に繋がる最大のリスク、という事を理解した行動を徹底すればよい。そして、何よりも、風邪気味の時に、通常以上に気を付ける事。当たり前だろう、飛沫にウイルスが含まれる確率が増えるのだから。

 この点を忘れがちなのだ。無症状者全員に検査をして隔離するなんて非現実的な事よりも、ウイルスの拡散リスクの高い人の行動抑制、無症状者含めた全員に自分がウイルスを保有しているつもりでの行動抑制以上の感染抑止は存在しない。無症状者全員に検査をする意味などないのである。ましてや、検査結果の陽性の内、30%~40%が偽陰性であれば、安心してはいけない人に安心させてしまい、寧ろ、リスクが高まるのである。

 そして、何よりも、ウイルスの真っただ中にいても感染を防ぐ行動を心がける事が重要なのだ。マスクは無いよりも有るに越したことはないが、予防効果は万能ではない。それよりも、小まめな手洗いうがい、手指消毒の方が有効だ。それよりも大切なのは体調管理だ。受験勉強中、試験直前のケアは相当のレベルで実行しているはずだ。同様以上のケアをすれば良い。まず、初期免疫を高めるためのビタミン摂取、水分摂取で喉や鼻を常に潤す、マスクはこの保湿効果に有効だ。僅かな変調に敏感になることも大切。早めのケアで自分を守る。

 それでもゼロはあり得ない。不幸にも感染してしまうこともあるだろう、発症する事も100%は防げない。その場合は、発熱外来、保健所やかかりつけ医に相談をして対応を決めるのは義務である。自分の勝手な判断で、医療と関係ない検査を受けても義務は果たせない。素人判断ではなく、医師の判断を仰ぎ、指示に従う以外にないのだ。

旅行もOK、会食もOK、但し、前述の注意事項を守ることが前提で。

 ここまでのことを考慮すると、特措法で定める強制力のある措置として必要なのは、第一に医療資源の再配分に関する強制力。第二は、医療以外の検査で誤った認識を持たせない様に制限する検査の統制管理。第三は、情報の統制である。休業要請の強制力と補償など4番目以降で充分。

 よく考えて欲しい、マスコミの無い時代に、新型コロナが流行したら果たして、パンデミックになっただろうか。感染力が高いと言っても、身の回りでの患者数はどれほどだろう。無症状や軽症状が殆どであれば、普通の風邪と見極めることは出来ないのではないか。毎日、感染者数最高と言われ続けるから、必要以上に恐れているだけではないだろうか。実際に患者が発生していると言っても、新型コロナは実は2019年に既に上陸していたとの説もあるぐらい見極めがつかないのだから。全く、マスコミが感染状況を伝えなければ、同じ様に緊急事態宣言を出すべきに60%もの人が賛同するだろうか。

 今の感染状況が収束するとは、どういう状態を指すのだろう。誰も、恐れず、騒がなくなると、メディアは視聴率が取れないので必要以上に危機を煽るのをやめるだろう。メディアが報じなくなると皆は忘れていくだろう。鶏が先か、卵が先か。そのトリガーになるのがワクチンであり、治療薬であった。ワクチンや治療薬に効果は必要なかった、その存在で安心をして必要以上に騒がなくなる効果の方が高い。インフルエンザに対する意識がその事を示している。現状の新型コロナ以上の感染者数、死者数を毎年出していても、ワクチンと治療薬の存在で何故か精神的安定を得ている。よく考えて欲しい、ワクチンと治療薬が揃っていて、新型コロナよりも死者数が多いのだ。何故、安心できる?何故、新型コロナは必要以上に恐れる。

 つまり、ワクチン開発で新型コロナの精神的安心を得て、必要以上に騒がなくなり、結果メディアも報じなくなっていき、収束に向かう。例え、同様の感染者数、重症者数、死者数が発生したとしてもだ。

 しかし、緊急事態宣言やむなしの状況では、それまでに払う代償はとてつもなく大きい。懸命に、情報を見極め、冷静に論理考察できれば、払う必要のない代償なのだから、残念でならない。

今年は勝負の年だ、誓いの2021元旦

 一昨年の『凶』、昨年の『吉』から、今年は『大吉』と大躍進、大きな運気サイクルとも一致し今年は花咲き、その後の基盤となる基礎固めが確実に出来る年となると確信しております。ここ暫くの低迷状態から確実に脱し、大きな飛躍を目指します。

 今年の初詣は、コロナ禍の影響を受け、緊急事態宣言でも発出されそうな状態で、人出は例年よりも大きく減少。車での道のり、駐車場もがらがら、出店も例年の半分以下だろうか、寂しい限りだが、これなら密にはなり得ない環境での初詣であった。

 多くの人に、『今年は大変だ』『この感染状況はどうすれば』、と言われ、その都度確認したが、何を持って大変と言っているのか、全く説明不明、意味不明の、感情的、感覚的訴えが全てであった。私としては、それこそが大変な事だと、心配になって仕方がない。

 多くの人が死んでいる、新型コロナに感染している、重症者が増えている、急変で突然死までしていて不安だ、医療崩壊で通常診療が出来なくなる、などなど。しかし、これらは絶対評価できるものではなく、比較による相対評価しなければ本来何も分からない事ばかりなのに、毎日テレビで危機感を煽られ続けて感覚がおかしくなっている。

 交通事故は多数発生しているが、その多くは怪我もなく車の破損も軽症。時々発生する悲惨な事故を連日報道し、防ぎようのない逆行での正面衝突や暴走して歩道に乗り上げ多くの死傷者を発声させてしまう事故の危機を煽り、事故を防ぎ、身を守るためには不要不急の車両使用を自粛、歩道を歩くのも危険なので外出自粛、緊急事態宣言とは決してならない。比較して何が違うのだろう。

 いやいや、交通事故とは違うよ。という人は、今シーズンの気管系疾患、感染症の感染や死傷者と比較してどうなのか知っているのだろうか。

 東京都の1日1300人は過去最高を大きく上回る危機状態だと言う人は、1日10万人になったらどういうのだろうか。他国の危機的状況と比較すれば、これぐらいの数字の差があるのに、何故危機と言うのだろうか。

 テレビで政府を批判する際に使われる、危機管理の常道として最悪の事態を想定した対応が必要だと。そのこと自体は、大きな誤謬性を含んでいるが、そのことは置いておくとして、最悪の事態を想定するのなら、新規感染者数は、1日10万人規模の想定が必要不可欠だろう。その想定からすると、遥かに低い数字なので慌てる必要は無いはずだ。

 危機管理状態を示す数値的指標を明確にする必要性を訴えているが、その際に、1日10万位規模になればステージ4だと設定して納得が得られるだろうか。現状の数字から、少し上積みした数字を設定して納得を得ている状態だが、それでは本当の意味での危機対応ではないのは、冷静に考えれば分かるはずだ。

 医療崩壊の重症者病床数も同様だ。用意していた病床数の70%、80%というが、1日10万人規模の新規感染者の場合に必要となる重症病床数ではない母数に近づいたとしても、母数を増やせば良いだけなのだ。

 今の感染者程度で医療崩壊する訳は無い。もし、この状態で医療崩壊するのであれば、医療業界の構造改革、経営の刷新、統制管理が必要不可欠であり、その為の法改正、現業界のトップ層は総退陣が必要不可欠だろう。

 はっきり言って、新型コロナの感染力は高いだろうが、毒性は高くなく、死ぬ病気ではない。確かに不幸の死を遂げる事例の報告はあるが、インフルエンザでも同様に休止の例は多数存在する。その比較による説明もなく、一方的な話で危機を煽るのは、それ自体が既におかしい。風邪は万病の元とはよく言ったものだ。

 新型コロナ感染症は、病気だから怖くないと言うと嘘になる。感染力も高いので、基本的に市中にウイルスが常在している前提で行動しなければならない。でも、ウイルス常在状態でも必ず感染する訳ではない事は、風邪でも周知のはずだ。不摂生で初期免疫力が低下して初めて風邪をひくのだ。であれば、新型コロナも同様、風邪を絶対にひかない様に、養生すれば自身の感染は相当レベルで抑えられる。同時に、自分がウイルスを保有している全体で、他人にうつさない様に行動する。それで全てであり、それ以上でも以下でもない。

 利権があるのか既得権益構造なのかは明確ではないが、少なくとも言えるのは、人の気持ちというのは、危機を煽ることで簡単に導けるという社会実験となってしまっていることだ。それこそ社会的脆弱性が露呈しているのである。

 少し、立ち止まって、冷静に思考回路を働かせる事さえ出来れば、この様な事態には決してならない。私は、それは情報リテラシーを高める必要があると考えており、その為に必要な要素は、モチベーション力であり、胆力であろう。しっかりと、人の話に耳を傾け、自分の思い込みに固執し異なる意見を聞かずに批判、或いは面倒臭がって無視、何ら思考回路を働かせない悪癖を断つ。その為に、活字をしっかりと読み、反対意見に対しても自身の意見をまとまって語り、議論が出来るようになる。これは、新型コロナに限った話ではなく、全てに通じる事象であり、DXや環境問題など社会問題への適合が要求される激動の社会環境で必要不可欠な人財力なのである。

 その様な問題意識を持ち、社会貢献が少しでも出来るように、ジュニア層や日本の産業の中核を担う中小企業の支援を想定し、昨年活動し始めた。その活動の本格的基盤作り、土壌を構築し、軌道に乗せる、勝負の年としたい。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。