感情に論理が負ける日常が社会不安定を招く

スーパーコンピューター富岳による東京五輪で国立競技場に観客1万人入れても感染リスクは僅かだという、シミュレーションが報告されたが、あるテレビ番組で医療の専門家が、観客を入れたらリスクがある事は間違いない、と全否定した。正確に言うと、この専門家の発言は論理的には何も間違ってはおらず、富岳はリスクは僅かと結論しているがゼロだと言っている訳ではなく、リスクがある事は間違いないと言うのであり、何も矛盾しない。

しかし、ゼロリスクを前提とした論理を専門家の発言力によって発信する事は、誤誘導を発生さ、多くの人は安全ではないと頭では違うと理解していても、感情的に妄信してしまう。人の心理として危機を煽る方がインパクトが大きく、冷静にリスク論を論理的に、数字を使って語っても、心には届き難くなるからだ。つまり、社会不安を醸成する問題行為なのだ。

ゼロリスクとは、リスクが僅かでもあれば安心が得られないと強弁する事であり、医療の専門家はどうしても安心側から話をするという自己弁護を繰り返すが、これは自己矛盾を起こしている。スタジオでマスクもせずに強弁する行為、各地から放映の為にテレビ局に移動する行為に感染リスクがゼロとは言えないからだ。

その他にも数々のダブルスタンダード、言行不一致を繰り返す状況では、発言の正当性が失われている事に気付く必要がある。何故、その場のコメンテイターはこう追求しないのか『では、感染対策を実施したパーティーや寿司会食とどちらの方の感染リスクが高いのですか?』この質問の意図は、科学で語らないのなら、感情論で語っても納得ある説明が出来ないでしょうと気付かせる事だ。

この非科学的論理破綻の感情論の担い手は、いくつかの層に分類される。

一つは、確信犯的層。それは、

  • ① ネット言論空間で跋扈する活動家
  • ② 政府批判を目的とする野党勢力
  • ③ 地上波メディアで危機煽り発言を繰り返す専門家
  • ④ 権力の監視・批判が役割で目的達成の為に手段は問わなくて良いと誤解するマスコミ

等であろう。しかし、数的には本来少数派の筈なのだ。①は数年前からSNS利用の反対意見つぶし等目に余る行為もあるが所詮マイノリティであり、②もだからこそマイノリティで野党なのだ。しかし、③④の力は絶大であり、①②と連動する事で影響力拡大、第四の権力としての実効力を持つに至っている。しかし、そのもの自体はそれでも少数である事は疑い様が無い。この①~④に影響を受け扇動される層、従来であればサイレントマジョリティであったはずの層が影響を受け、感情論のマジョリティを形成している現象であり、この層の特徴をいくつか挙げる

  • ① 文章を読まない、或いは読めない。全文読まず、単語の切取りで分かった気分になる。
  • ② 書いてもいない事を印象で決めつけレッテル貼りする。
  • ③ 事実やデータから目を背け、否定する。自分で調べる事もせず、論拠がない。
  • ④ 論破されても次から次へと論点を変えるだけで、論理的な反論が出来ない。
  • ⑤ 著名人を呼び捨てにする等相手に対する敬意を持てない。異論を認めない。

これは、情弱そのものであり、この様な状態でまともな議論が出来る訳がなく、意思決定が健全に行えるとは思えない。SNSの書き込みや記事へのコメントなど気分が悪くなるくらい酷い内容が多い。結果として、ネット空間での集団リンチ、言論弾圧が平気で行える不健全な環境を産み出すのである。これが世論形成に影響を及ぼす規模に発達すると社会は不安定化してしまう。

感情論の危険性は、法治国家を揺るがす私刑、同調圧力に発展させてしまう事は疑い様がなく、民主主義の意思決定にまで及べば民主主義が破綻する。これに対抗し健全性を取り戻す為には、論理的な議論を活発化させる、その為の言論空間を整備することだろう。

反対意見を排除する為の報告利用は論外であり、直接言論弾圧なので法的罰則も必要だろう。そして、同時に言論の自由は無制限ではなく、一定のルール・マナーも必要だろう。

  • ① 異論に耳を傾け、敬意を払い、正当に解釈する寛容性を持つ事。
  • ② 持論の展開は事実を前提とし、裏付けと、論理性を保つ事。
  • ③ 反論の場合は尚更、ポイントを整理した上で論理性を保つ事。
  • ④ 不必要に議論を拡散、散漫させず、一つ一つ是々非々で決する。

であり、これは即ち読み書き算盤の基本、社会人として最低限のマナーなのである。

文章を読み、読解力を身に付け、科学的な知識を前提に、事象の検証の為に裏付け確認を怠らず、数字の意味を読み解く力を育成する。難しく書いたが、義務教育において獲得するべき基礎能力である。

残念ながら、この基礎能力に問題があるか、或いは能力はあっても、基本事項を無視する層が存在する。この層は、昔なら民主主義の意思決定には、浮動層の一部としては機能してきたが、ネット普及により多数世論を形成出来るマジョリティになり得る様になり、結果として社会不安定性が高まっている。

世界史的に国家や組織の統治方法として、国民、組織構成員への教育を充実させず、上記基礎能力を持たない人間で多数派形成し、情報操作で都合の良い方向に扇動し都合の良い安定化を図るという考え方もあったが、現代では通用しない。それはネットによるオープンデータが事実を知らせる効果を持つからだ。

幸いな事に、日本は有史以来上記の方法を採用する様な考えを為政者が持たず、国民への教育は文化発展と共に充実させてきており、識字率など古くから世界トップクラスを誇っていた。それでも、明治維新で西欧列強に肩を並べる為には、国民の基礎学力の支え、強化が必要であり、『学問のススメ』が提唱されたりもした。

世界的に情弱による社会不安、民主主義の崩壊が進みかねない状態において、現代版『学問のススメ』の考え方は復刻するべき事項と思える。

情弱が産み出す国民感情に政治は寄り添えるのか

リスク評価に対応する科学的対応策だけでなく、国民感情に寄り添い勘案するべきだとの主張をする有識者もいるが、では、国民感情とは何なのか?そこから考えなければならないだろう。

<感情とは>

感情とは個人がコントロールする事が難しい。アンガーマネジメントの方法論など書籍が多数発刊されているという事は、悩む人が多いから需要がある現れなのである。では、特に怒りの感情のコントロールが難しい原因を確認していきたい。

まず、完璧主義である事。物事が自分の理想的な思いの通りに進まない事にはストレスを受けるのだが、完璧主義であるが故、世の中の出来事の殆ど全ては思い通りに行くはずもなく、ストレスが極大化する傾向にある。

更に、ネガティブ思考は過去も含めていつまでも失敗や後悔、他の人への恨みなどを引きずってしまうので、同様にストレスを増大させる。

これらのマイナス要素でストレスを増大させることで、怒りの感情はコントロールできなくなり爆発してしまう。爆発してしまった感情に寄り添う事など事実上あり得ないので、爆発しない様に、コントロールできる範囲に収める事が必要不可欠になる。

では、コントロール可能な範囲に収める為にはどうすれば良いかを次に考える。

完璧主義に対しては、人の考えや意見などは多種多様であり、専門家といえども異論反論は普通に存在するという現実を知らしめることだろう。その結果としての個人の見解や主義主張を持つ事は問題ないが、それが唯一絶対の真理、絶対正義でない事を認識する必要があるだろう。

ネガティブ思考に関しては、言うまでもなくポジティブ思考に少しでも転換する事。ネガティブにより全否定される状況から、あの手この手、どうにかしてこの状況を好転させる為には何ができるか、確実に一つ一つ実行に移す事でストレスは解消されていく。ポジティブまでは難しい、とするのなら少なくともデータやFACTに目を向け、感情的にならず論理的に思考する事で、少なからず不要な不安に陥る様なストレスは回避できるだろう。

以上の事から、感情に寄り添うには、多様性を認めた議論、意見交換が活発に行われる事、ポジティブに、事実に基づいて思考する静かな環境が必要になる。

逆に言うと、この必要な環境を壊せば、感情はコントロールできない状態に導くことが可能なのだ。実は、この環境破壊を日常的に行っているのが地上波メディアによるニュース、ワイドショーなのである。

<情報弱者とは>

情弱とはウィキペディアによると、『情報環境が良くない場所に住んでいる』『情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でない』これらの原因により『放送やインターネット等から必要な情報を享受できない人』を元の意味として、『各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人に対する蔑称』と表現している。

今の地上波メディアは、多様な意見を封殺し、ある恣意的な一方的な意見だけで埋め尽くし、異論を許さず、異論を言う人間をあり得ないとあからさまに非難し続けて、情報環境が良くない場所を作り出している。

この悪環境は元来、平日日中に地上波テレビにお世話になる人達のみが晒されていたが、コロナ渦でホームステイ率が拡大し対象が増えている。つまり状態は悪化しているのだ。

この状態悪化は人々の能力を劣化させる。普段から、両論による議論に触れて、思考訓練されなければ能力は当然ながら劣化する。こうなると悪循環となり、多様性のある玉石混交状態のインターネットの情報に触れても、自身の触れてこなかった異質な情報を受け入れ、かみ砕き、考察する事が出来なくなり、見ても完全スルーで中身まで見る事が無くなり、都合の良い偏った情報だけに触れる偏りが強くなるのだ。この状態は、ネットでも多様な情報に触れていると勘違いし、かつ自身の意見が大多数であり正義であるとの誤った認識を持った情弱者が生まれる。

この事は、例えばヤフーニュースのコメント等を見ていると絶望したくなる状態になっている。

典型的な事例として、先日の五輪での酒類提供禁止の決定に関して昼のあるワイドショーでの一幕を挙げる。内容的には酒類提供の検討をして禁止と決定した事に対して、番組内コメンテイターは口を揃えて検討すらあり得ないと言い切っていた。たった一人、良識あるコメンテイターが検討は良いのでは、と言った瞬間、総攻撃で他の全員が全否定してのけたのだ。

この件を記事にしたヤフーニュースのコメントの大多数が、酒あり得ない、という感情論で番組趣旨に同調する内容であった。普通に考えれば、何か物事を決定しようとすれば、両論戦わせ、プラス面とマイナス面を考慮し、検討しなければならない。この手順を欠くと所謂独裁、独断でしかないのは自明なので、番組は民主主義を否定、自分達の意見は絶対正義で議論は必要なく従えと言っているに等しく、非難されるべき、少なくとも放送法第4条違反とされるべきなのだが。しかし多くのコメントは民主主義否定に賛同を示したのだ。

少し調べれば嘘と分かる事すら調べず、切り取られ偏向した断片を妄信し、少しまともに聞いていれば以前言っていた事と矛盾していると気付ける事もまともな思考回路を働かせる事が出来ない人達、情報弱者が大量生産されているのだ。

<国民感情に寄り添う為には>

まず、国民と冠が付いているが、決して全ての国民が同じ感情を抱いている訳ではないし、統一されている訳がない。従って、拡大解釈した、国民○○という言い方は、本来都合よく使うべきではない。よく、国民の総意だとか、政府を攻める時に使われるフレーズでもあり、ほんの一部の意見である場合のカモフラージュである事が多い。国民感情も同様である。従って、国民感情と称する場合は大抵の場合、一部の反対意見を持つ感情にどう対峙するかと解釈するべきであろう。

この反対感情に強行的に対峙し続けるだけでは、昔なら一揆に繋がる、現代でも社会情勢不安定に繋がり兼ねないので得策ではなく、寄り添うべきなのだろう。しかし、寄り添うと言っても、良い事と悪い事は区分けし、是々非々の対応が必要になる。100%反対感情に寄り添っていては、政治は全体最適を失い、他の多くの国民に悪影響を及ぼしてしまうからだ。

即ち、バランスでありバランスを欠いた時に支持を失うのが民主主義政治だろう。

反対感情に寄り添いながら、バランスを取り、出来うる限り全体最適を目指す為には、反対感情を生み出す元を改善する事の方が、より全体最適に迎える事は疑い様がない。

感情を爆発させず、コントロール可能で健全な範囲に止める為には、多種多様な意見、確かな事実とデータに基づく情報発信が行える環境を構築する必要がある。

そういう意味で今の地上波系のニュースやワイドショーの類はターニングポイントである。反省して、放送法第4条に恥ずかしくない形に改革するか、反省せず存在意義を失い、自滅していくか。どちらにしても、ネット空間の情報の充実とテレビに関しては、専用チャンネル等多種多様な情報発信に触れる事が出来る番組制作とNHK改革で両論戦わす討論系の番組を増やす等、明確な手を打っていく必要があるだろう。

一見正義に思える考えも、深く議論して見れば、様々な考え方や、越えなければならない課題なども見えてくる。時には、その課題を越える事で発生する弊害に気付き、寧ろデメリットの方が大きく、考えを変える事もあるだろう。そういった深い議論、深い思考が重ねられる環境こそが、国民感情に寄り添える環境になると確信している。