内村選手偽陽性事案検証~『ファクターXの正体』緊急報告~

 拙著『ファクターXの正体』をお読み頂ければ、小生が指摘する問題性はご理解いただけるとは思うが、その典型的な事例がまた発生してしまった。体操の内村選手に対するPCR検査での偽陽性判定事案である。PCR検査で陽性判定を受け隔離処置が施されたが、あまりにも身に覚えがなく症状も全くない為、翌日に3か所での再検査を受け、偽陽性であったと結論された。

 偽陽性と結論される前、本大会の日本の参加辞退の可能性やオリンピックでの感染防止策は難しいと、危機感を煽っていた。それこそ、何万人に最低でも3日に1回、徹底検査をしなければならないと。そんなことをすれば、単純に被害者は膨大に膨れ上がることになるのが誰の目からも明らかなのだが、その後無責任な発言をした反省もなく、識者やマスコミは反省もなく報道もしていない。

 この件は、間違いなく、個人の活動・行動に対する不正制限事故であり、人権侵害問題である。表向きは事なきを得た様に、マスコミでは多くを語ってはいないが、数日間の隔離生活を強いられたことは、大切な大会直前のコンディションを整え、調子を上げていくピーキングが重要な時期に行動制限されることが、どれだけアスリートの成績に影響を及ぼすか、想像に難くない。アスリートにとって、その先の人生に及ぼす重大問題なのである。この様な事案が繰り返されると、多くの被害者が発生し、同時に多くの訴訟事案が発生してしまうだろう。

 なんとか、少しでも理解を広め、この様な事象を回避できることを願って止まない。

 さて、PCR検査の仕組みからおさらいしよう。明確にしておかなければならないのは、検査には誤差、誤判定が付きまとうことである。一部の識者、マスコミでは、PCR検査の精度が高く、誤差など無視できると言い続けているが、仕組みを考えれば、あり得ないことは明白なのである。

 採取した検体の中に微量でも存在する当該のウィルスを増幅する処理を複数サイクル繰り返し検出可能量まで増幅する。増幅されたウィルスの量が、ある閾値を超えると陽性、超えないと陰性という判定が為されるのが、PCR検査である。
 上述のことから常識的に考えて欲しい、増幅させるサイクル数によってウィルス量が増減することは自明なのだが、現在の検査は必要以上に増幅サイクルを増やしている。つまり出来るだけ陽性判定を多くするための検査設定なのである。今の検査方式では、感染などしていない、接触して存在しているだけのウィルスも同様に検出する。当然ながら、不活性化したウィルスであろうがお構いなしに増幅され検出されるのだ。

 そして、閾値を超えるか否かでの判定と言う、極めてアナログ的な判定であることも注意する必要がある。閾値を高く設定すれば、偽陽性は減少するかもしれないが、偽陰性が増加する。閾値を低く設定すればその逆である。
増幅処理で誤差が発生しないことはあり得ない。化学処理で反応に個体差が出ることは当たり前であろう。そして、増幅された結果、閾値近辺のウィルス量が検出された場合はどうなるのだろうか。陰性か陽性か、そんな簡単かつ明確に判定出来るはずが無いのである。

PCR検査の特性を整理すると
1. 検体を増幅処理した結果のウィルス量が閾値を超えたか否かの判定しかできない
2. 検出されたウィルスが不活性であっても活性ウィルスと区別は出来ない
3. 検出されたウィルスが感染したものか単に存在しているだけかを区別できない
4. 増幅サイクルにより検出するウィルス量は大きく変化しうる

 従って、個々人の人生に大きく影響を与えうる行動の許認可判定に、PCR検査の結果を利用するなど、本来はあり得ないのである。

 ここまで記述したのは偽陽性に関する問題点だが、偽陰性に関する問題は更に深刻なのである。多くの人、マスコミの報道も伝えているのが、PCR検査をして、陰性判定を受けた人が安心して経済を回す、或いは、GoToで旅行に行く、と考えられている。極めて危険な思考なのである。
 前述した様に、PCR検査結果が絶対でないだけではなく、感染の有無を示せるものでもないのだ。つまり、陰性と判定されても、非感染の証明にはならない。
 偽陰性は一定の確率で発生する。この確率は、偽陽性よりも遥かに高く、一般的には感染者の内30%もの人が間違って陰性と判定されるのである。

 詳細の統計的分析は拙著『ファクターXの正体』をご確認頂きたいが、この確率で偽陰性が発生し、間違った安心を与えてしまうと、検査をすればする程、感染は拡大する。先進諸国の感染爆発は、このカラクリで発生しており、日本の感染が桁違いに少ないのは、検査を医師が必要と判断した感染を疑う患者に限定されているからである。逆に言うと、先進諸国並みに積極的検査拡大を行うと、同様の爆発的感染につながる危険性が高いのである。

 ならば、何故先進諸国は積極的検査を推奨するのか、アジア諸国など感染が比較的抑え込まれている要因は何なのだろうか。ここでは詳しくは説明しないが、先進諸国の文化的、宗教的背景を考慮する必要があり、結局検査云々ではなく、非民主的な隔離政策が打てれば物理的に抑え込むことは出来るだけなのだ。日本は、文化的にも、民主国家としても同様に考える訳にはいかないのだ。

 従って、PCR検査を実施できるケースとして

1. 医師が他の臨床診断、検査結果と合わせて必要と判断した場合、確定診断として実施する
2. クラスター等、感染が疑われる人を対象に感染経路追跡のために実施する
3. ビジネス等で海外取引上、他国の要請に基づいた検査は実施を容認するが、陰性結果であっても非感染を証明するものではないことを理解した行動を誓約させると同時に陽性判定の結果被る損害も一切関知しないことの了承を受けて実施する

 こういうことを言うと、では無症状の感染者は野放しでいいのか、という反論が予想される。しかし、その通り、野放しで良いのである。
 その理由は、無症状の感染者による感染リスクは、確かにゼロではないが、確率的に極めて低くなるからである。無症状者でありながら他人に感染させるのは、発症の3日前から徐々にリスクが高まるのであり、それ以外は全て有症状者からの感染なのである。それは、ウィルス量が少ない場合や、多くても不活性の場合は他人に感染させないからだ。つまり、無症状の感染者と一般的に呼ばれている人達の大多数が、ウィルス量が少なく発症していない人や不活性ウィルスを保持していただけの人なのである。

 最後に、もうひとつ。PCR検査結果として、毎日、『今日の新規感染者数』と報道されているが、これは全くの誤報道なのである。正確には、『本日の陽性判定された検査検体数』であり、この場合の陽性判定とは、『増幅されたウィルス量が予め設定した閾値を超えた場合』なのである。感染とは全く関係ない。

詳しくは拙著をご一読頂ければ幸いです。

『ファクターXの正体;新型コロナウィルス感染症の日本における感染実態』
http://www.amazon.co.jp/dp/B08H1JGVYQ
『ファクターXの正体Ⅱ;VOL1-PCR検査の実態』
http://www.amazon.co.jp/dp/B08KSFT239

ゴルフ人生日記

 アマチュアなのでレッスンの類ではないが、我がゴルフ人生において、自分自身が悩めるゴルファーであることから、得た経験と知識、技術をある意味処方箋として語ることは多くの迷えるゴルファーにも少なからず共感頂ける内容や参考にして頂けることもあるだろうとの思いで書かせて頂く。偉そうに言っているが、自分自身が振り返って、反省し、更に極めたい競技生活のメモとすることが主目的なので、寛容な姿勢でお読み頂ければ幸いである。もし、ご意見があれば是非ご指導含めて温かいお言葉を頂けるとこの上ない喜びです。

 このメモは、シリーズ化していくつもりだが、その最初はパター偏とする。『パットイズマネー』と言うほどスコアに直結するが、『パットに形無し』という様に、出鱈目でも入れば良いし、唯一と言っていいだろうアマがプロに対抗できる領域だ。それをアマの視点から書かせて頂く。

 まず、パッティングの成功の要素を整理したい。以下の様に分類されるだろう。

1. 目標に対してスクエアに構える(アライメント)
2. 目標に対して真っ直ぐに打ち出す
3. パターの芯を外さない
4. ラインを読み、適切な目標を設定する
5. 距離感を合わせる

 この5項目で全てではないだろうか。そんな簡単に言うな、という声も聞こえそうだが、結構簡単、気軽に、でも少し真面目に考えて欲しい。もちろん、聞き流して頂いても構わないが、シリーズ通して共通の書き方と了解頂きたい。

 さて、この5項目を更にグループ分け、大分類すると、1から3までの3項目は技術、テクニック面であり、4・5は感性・フィーリング面と分類できる。この2面性があることを理解しないミスが多いのが実態ではないだろうか。
 例えば、2の真っ直ぐ打ち出そうと意識するがあまり、距離感がすっ飛んでしまい大ショートしてしまう、多くのプレーヤーがその様な経験をしているはずだ。普通に考えて欲しい、距離感がすっ飛んで大ショートしてしまうと、3パットのリスクが増大するが、真っ直ぐ打てないだけなら、そのパットが入らないだけで、距離感が合っていれば3パットのリスクは増えない。つまり、距離感さえ合えば、ほぼ2パット以内、ハーフで18打、1ラウンドで36打以内となる。
 4のライン読みも、細かい読みではなく、大まかな読みが3パット防止に効果があることは疑い様がないだろう。つまり、第一段階として、2パット以内におさめるためには、感性・フィーリングの要素が重要であり、その後1パットを増やしていく更なる追及のためにテクニックが重要になってくるのだ。

 では、最重要と位置付けた、距離感に関して語ろう。『感』というのだから、テクニックではなく、感覚、フィーリングである。ゴミ箱に、紙くずを投げ入れる時、距離を歩測もしないで見た目で、振り上げる大きさをこれぐらいだとかも考えず、目標に届かせるような感覚で投げるだろう。距離感とはそういうものなのだ。しかし、感性を百%発揮するためには、それだけの準備が必要になる、そこが重要だ。

 準備のその1が、普段から、気持ちの良い振り幅、力加減のパッティングスト―ロークを身体に覚えさせること。気持ちの良いとは、反復して同じことが同じ様に繰り返せる感覚。その感覚をショートパットとミドルパット、ロングパットの3段階の気持ち良さを準備できていれば最高だ。難しければ、まず2段階でも良い、試して欲しい。ここまでは感性を磨くイメージである。
 そして、朝のスタート前のパッティンググリーンにて、この気持ち良いストロークを打って実際にどれだけの距離になるのか、確認しておく。厳密である必要性はない、大まかにでも構わないが、出来る限り、往復での確認を推奨する。距離は歩測の往復の平均なのだが、それ以上に目視の感覚が重要、大体のイメージを刷り込んでおくのだ。遅い、速い、無茶苦茶速いなど。
 実際のプレーにおいては、実際の距離歩測と共に、視覚から得られる情報を整理する。登りなのか、下りなのか、芝の目は、風はなど。そして、自身の気持ち良いストロークのミドルパットの少し強めなど具体的にイメージして、素振りでそのイメージを身体にしみこませる作業を実施する。
 この際、多くのプレーヤーは、通常のラインに構えて、少しだけ後ろに引いて素振りを実施するが、私はそうしない。その理由は、構えた瞬間に視界が全体でなく、感覚的にライン重視になってしまい、折角事前に整理した情報を身体に刷り込む前に視覚情報が狭く変更されてしまうからだ。
 私は、目標を後ろから正対して、全体的に目標方向を視覚にとらえた状態で、素振りを行い距離感のイメージを身体に刷り込む。こうすれば、得た情報をそのまま身体に刷り込むことが出来易いのだ。構えて視野が変わるのは体に刷り込んだ後に行うのだ。この順番が重要である。
 繰り返すが、順番が重要で、<視覚・観察した距離感情報の整理>→<距離感情報の身体への刷り込み>→<アライメント>→<ストローク>である。これが、<視覚・観察した距離感情報の整理>→<アライメント>→<距離感情報の身体への刷り込み>→<ストローク>では、距離感が失われるのだ。
 そして、ストロークの際に注意するのは、目標を視界に捉えておくことだろう。誤解しないで欲しい、ヘッドアップや身体を動かして軸が変動することを指すのではなく、首から上、目線を動かすだけで視線を動かし、視界に捉えることだ。これを忘れてラインに集中しすぎると、折角刷り込んだ距離感のイメージが失われてしまう危険性が高くなる。あくまで、距離感を優位に、50%以上の注意を持って、ストロークすることだ。逆の言い方をすると、目標の方向性やスポットにばかり集中してしまうと、折角刷り込んだ距離感を忘れてしまうのだ。この様な経験は無いだろうか。

次に重要な要素はライン読みである。

 ライン読みと言うと、非常に難しい印象を持たれるかもしれない。確かに、プロや上級者のレベルでは小さなアンジュレーションや芝の状態変化なども確認するが、まずは、その様な細かな部分ではなく大まかに把握することでかなりカバーできるのだ。
 傾斜はグリーンに上がる前、グリーン面が見える時から、どこが高いか、どこが低いか、その程度の大きな傾斜を感じておく。
 グリーンに上がったら、自分のボールからだけでなく、反対側からも確認して傾きを感じる。人間錯覚が生じるのだが、反対から見ることでかなりの錯覚を防ぐことが可能だ。

 しかし、実はこれだけではそれ程正確な読みは困難なのだ。グリーンの癖や、曲がり具合などは、プロの様に練習ラウンドして情報を集めていない限り、情報を得ることは、それ程簡単ではない。まず、アマチュアの場合、その程度だと認識することが大切だ。
 では、アマチュアにとって情報取得するもっと効率的な方法はないのだろうか。それがあるのだ。他人のプレーをよく観察しておくことだ。どこから、どの程度の強さで打って、どの程度転がるのか、どの程度曲がるのか。注意しておく必要があるのが、上りのパットは、曲がるのはボールの勢いがなくなる後半部分であり、下りの場合は、早い時点から曲がり始めるという、物理法則を頭に入れて観察しておけば万全だ。
 そして、観察するのは、同組のプレーだけでなく、ショートホールなど前の組のプレーが見える時は、よく観察しておくべきだ。曲がり幅までは見えなくても、どちらから打って、苦労してそうだとか、簡単に入れてきているとか、その程度は観察できるはずだ。
 もう一つ、絶対逃してはならないのが、雨露や霜でグリーンについたボールが転がった後である。但し、先ほどの上りと下りで曲がり方が異なることを前提に情報として処理する必要がある。

 以上の様な情報を処理して、あとは決断のみ。自分の転がるボールをイメージして、どこから、どの程度曲がるか、真っ直ぐかを描いたら、打ち出し方向に仮想カップや目標を設定する。上りや、下り、或いは自分の視覚に対する距離感よりも遅い場合、速い場合を想定して、仮想カップを前後させる。速いグリーン、或いは下りであれば、その分だけ手前に仮想カップを設定する要領だ。

 ここまでのことを実行するだけで、かなりの3パットは防げるはずだ。ファーストパットがカップの半径90cmの範囲に止まれば、かなりの確率で入れることが出来るからだ。アマチュアの大たたきのミス、それこそトップアマのハーフパット数15~16でない限り、スコアアップ間違いないだろう。パッティングの誤差は、方向性よりも距離感による縦のブレの方がスコアの悪化につながるミスになるのだから。

 そして、2~3mの入れ頃、5~6mの勝負パットが少しでも入る確率が上がれば、更なるスコアアップだけでなく、気持ちの良さも格別になる。その為には、前記1,2,3が必要になってくる。

 2の目標に対して真っ直ぐに打ち出すと、3のパターの芯を外さない、この二つは実は同時に解決できるのだ。何が必要かと言うと、ストロークの再現性である。
よく、真っ直ぐ引いて真っ直ぐフォローする、だとか、ボディターンを意識してインサイドに引いてインサイドにフォローするなどと言われるが、それは何でも良い。特に、バックスィングを真っ直ぐ引くことを意識しすぎると、むしろインパクトでミスしやすい。私は、バックスィング自体は出鱈目でもインパクトからフォローを徹底的に意識する。それこそ、目標にパターのフェースが真っ直ぐ送り出すイメージで。

 インパクトからフォローさえ真っ直ぐ出せれば、必ずボールは真っ直ぐ打ち出せる。練習方法としては、バックスィングしないで、ボールに接触した状態からフォローだけで真っ直ぐ転がすこと。これで、かなりの感覚は養えるはずだ。
 その時に具体的にグリップは、ひじは5角形なのか3角形なのか、などなど形は様々だが、それは個々人でやりやすい方法を見出して欲しい。そして、1度掴んだからと言っても、人間の感覚は移ろい易いので、ちょくちょく確認しておくべきだろう。
 この確認の観点として、右手と左手が喧嘩しないことだろう。片手で打って、右手の方がフィーリングが出やすい人と、左手の方が良い人と様々であろう。左手主導の人の場合、どうやって右手が邪魔をするのを防ぐか。右手の邪魔を防ぐグリップとしては、逆オーバーラップや最近流行りのクロ―グリップなど。他にも自由に開発して良いだろう。
 右手主導の場合、左手及び左サイドがブレーキにならない様に、ひじが抜ける様なフォローを意識したり、全く逆に左脇を締めて制御するなど、他にも自由に開発して良い。
 一つだけ守る必要があるのは、ストローク中、フォローまで絶対に首から下の身体を動かさないことだろう。多くのビギナーは、パットを打った後に右肩が前に出て、カップの方に身体が動く。この動きが入ったら、インパクトでボールに真っ直ぐ、再現性良くヒットすることは不可能になる。初心者が、まず最初に練習すべきはこのヘッドアップ防止だろう。

 但し、注意すべき事項がある。それは、前述した距離感なのである。この首から下を完全に止める動きを習得するまで、身体を動かさないことを意識すればするほど、首から上も含めて身体全体が固まり、距離感が飛んでしまう現象が出易くなる。
 身体は静止した状態で、首から上を動かして視線を動かしカップ方向を確認し、ストロークを繰り返した後に、再度カップ方向を首から上だけで見る動きを、身に着けるべきだろう。これが出来れば、ミドルパットまでの直線性、ミート率は格段に上がるはずだ。

 これで終わりではない。上記の動きを試して欲しい。一体、首から下を止めたストロークで何m打てるのか。私でも、気持ち良く打って、5~6mまでだろうか、それ以上は難しいのだ。では、それ以上の距離にはどう対応するのか。簡単である、ゴルフスウィングをすれば良いのだから。そう、下半身で打つのだ。
 ゴルフスウィングは下半身主導の動きがあるからボールを飛ばすことが出来る。パッティングだって同じだ。身体を動かすな、と矛盾する様に感じるかもしれないが、頭の位置を動かさない、ビハインドザヘッドを守って、ニーアクションを使えばパッティングの距離は伸ばせる。大きく振り上げるのではなく、振り幅はそれ程変えなくとも、ニ―アクションを入れた瞬間に距離は伸びる。それでロングパットの距離まではカバー出来るのだ。

 さてさて、ここまでで、かなりのレベルでパット数が少なく出来るだろう。しかし、勝負所で入れたいパットが一筋違ったり、それでカップインできず、1打ロスしてしまう、最大の原因がアライメントである。構えた時に、目標に対して正確に真っ直ぐ立てているかだ。

 もちろん、初心者のレベルでの向きの不整合は、普通にある。初心者がいきなり真っ直ぐ立てる方が稀だろう。しかし、上級者レベルでも、最後まで苦労するのが、このアライメントであり、一筋の違いが1打差となる痛恨に繋がるのだ。
 その為には、ボールの位置は一定にしなければならないし、目線も目標の方向に対して、両目が並行であるべきだ。つまり、ボールの真上に目があり、首を動かして方向を確認する際も、打ち出す方向から目線がズレてはならない。

 私自身も長年、アライメントに関しては悩みに悩んできた。ボールマークを合わせるだけでは効果なく、ラインマークを入れたりもした。そして、傾向として、2通りのパターン、人による向き不向きのあることも発見した。打ち出すラインに対して、水平にパットを構える方法と、垂直にパットのフェースを合わせる方法の2通りだ。

 私に関しても、長年ラインに平行に合わせる様に苦戦してきたが、実は、最近パットのフェースを垂直に合わせる方法に変更して、アライメントの精度が格段に上がったのだ。
 その違いは、パターの後ろ側にラインをイメージする形状から、パットのフェースラインを明確に意識できるデザインに変更したのだ。

 アライメントを意識する練習は、真っ直ぐ紐を地面から20cm位の位置に張って、その下にボールを置いてラインに沿って打ち出す練習を繰り返し、紐を外しても同様に構えられる様に繰り返すことだろう。身に付けば、何もない状態で、いきなり構えて、真っ直ぐにアドレスすることが出来る様になる。

 後は、自信を持ってストロークを緩まずに打ち切ること。これでアプローチ次第だろうが、1ラウンドで30前後の勝負できるパット技術が身に着けられるだろう。

理系と文系の特性相違点

 私自身は理科系学問(理学部物理学科にて)を学び卒業し、就職後も技術開発などの業務を中心に従事し、企画販促や管理系、経営にも携わってきた。理系の中では幅広い分野に従事したが、その根底にある軸足、判断基準は理系脳による論理思考であったと思っている。

 ビジネスの世界で、理系と文系でどちらが優位なのか、判定は出来ないだろうし、答えはないかもしれないが、私の持論として、理系的論理思考力を持ちつつ、文系的幅広い視野での柔軟な思考展開が出来ることが理想的であり、そのバランスが勝負のキーポイントであると考えている。
 昔、データベース・マーケティング論をビジネスで語りあった時の1例を上げる。データの分析やその仕組みであるシステム思考など、構造的かつシステマチックに理解していなければ、マーケティング分析やCRM提案は出来ない。基礎となるシステムや技術面のバックボーンなく語るのは、いい加減な絵に描いた餅、机上の空論でしかないと論破していた。ちなみに、世の中のこの手の企画提案には、実にきれいに表現した夢の世界の絵に描いた餅の詐欺紛いのものが多いのも実態である。
 一方で、仕組みや論理、技術面に終始すると、その先の可能性や運用面の人の感性などが抜け落ちてしまい、面白くもなんともない、単に難しいだけの企画提案になってしまいがちである。これでは、正しいかもしれないが、実際の利活用には程遠く、夢もない状態に陥ってしまいビジネスでは通用しなくなる。
 実世界、実運用上は、理系、文系のバランスが取れる必要があるのだ。

 では、バランスと言ってもどちらを優位にするべきなのか。論争として、理系センスを持った文系と文系センスを持った理系とどちらが最終的に勝つのか。この論争に答えはない。しかし、実社会では双方のバランスが必要だということに異論はないだろう。しかし、現実社会は、どちらかというと文系脳に偏っている方が優位になる様に感じざるを得ないのは私だけだろうか。もう一つ、現実社会では、理系、文系の分類とは別に、軸としては直交する全く異なる軸として、体育系と芸術系が存在するが、複雑になる為今回はこの軸は除外して考える前提で、どうしても理系だけ偏った印象があるのは事実ではないだろうか。

 理科系学問の性格として、白黒はっきりしている事が上げられる。数学の計算結果に曖昧さはない。物理の法則も真しかなく、化学も再現性が要求される。もちろん、人類が知り得るのは、砂漠の一粒の砂に過ぎないのが自然科学の世界の真ではあるが、その一粒の真理を究明するものだ。解のない場合は、現時点で解がないとはっきりさせ、解を求めていく。万人に共通する解を。
 文科系学問の性格として、人それぞれの思想や考え方によって解は異なってくる。それぞれの見解として。法が絶対的なものと言いつつ、法律で明文化していながら、解釈が人によって異なってくる。歴史も学説として主流派はあっても、異説も異論も多々あるし、それぞれに正誤関係はない。新説に対して反証を繰り返し洗練されていく。しかし、どこまで行っても絶対真理には行きつかない。
 政治や経営の分野は、不確実な未来に対して、確実な答えを持たずに、今の手を打っていく。一長一短ある様々な方法論の中で、総合的に判断して決断するのだ。そこには政治、経営のポリシーが必要だろう。人間である限り、判断に迷う事もあるだろうが、その場合も基準となる根本的な基盤思想を持って判断される。しかし、判断のためにインプットされる情報が偏っていて全体像が俯瞰できなかったり、客観的な状況が見えていないと判断を誤ることもしばしばある。
 だからこそ、政治や経営の責任者は、多くの情報を多面的かつ総合的にインプットしたいと考えるのである。政治で言えば、専門家会議や話題の学術会議、経営であれば事業戦略部門やコンサル、シンクタンクだろう。
 では、この求める情報を提供してもらうためには、理系が良いか文系が良いかを考えて見よう。文系の性格上、答えには個人の思想信条、考えの偏りが必ず発生する。従って、決して客観的とは言えない。つまり、政治や経営に活かす情報としては、一人、一系統の文系系情報のインプットでは偏ってしまう事になり、判断を誤る原因になるのだ。確かに、政治家や経営者自身の思想信条、自分の考えに近しい系統から情報を得ると、自身の考えと一致しやすく、ある意味の心地よさが得られるだろうが、この様な場合の多くは裸の王様化してしまう危険性が高い。従って、文系的な情報をインプットとして活用する為には、真っ向対立する異論含めて多くの情報を多系統から求めなければ、総合的に判断することが出来ない。それが出来ないで偏ってしまうぐらいなら、初めから自身の思想信条、考えに則って他の情報を持たない方がむしろ良い。
 一方で、理系的情報を得るとどうなるのか。理系的性格上、正か誤か、その度合いを数値で表現するなど、情報としては明確になってくる。否定しようのない情報であふれるはずだ。しかしながら、現実に打つべき手が、その事に全面的に沿う必要があるかというと決してそうではない。何故なら、求めた情報の方向性においては真実であろうが、現実世界は多極面が存在する複雑化した社会である。実際に打つ手も、1か0かではなく、バランスが求められる。そのバランス感覚は政治家、経営者の手腕に委ねられるのだ。但し、絶対的事実の情報があれば、バランスが取れた判断に役立てられるのである。

 こうやって考えると、政治や経営で政策判断、経営判断の助けになる情報を取得する方法としては、基本的には理科系面の情報取得が必要不可欠だろう。やはり、客観的情報としては理系的な情報が望ましいと言わざるを得ない。少し、幅を広げても数学、統計的解析の経済まで広げても良いが、何が正か判然としない個々の思想が前面に出る法律系、政治系は情報としては偏ることを織り込む必要がある。人文科学的な情報は、アウトプットされる提言ではなく、その経緯の議事録、議論内容がなければ情報となりえないと言っても良い。一方向に考えをまとめ上げる事を求めているのではなく、両論を公平に聞きたいのであり、一方を封殺する様では採択できる訳がないのだ。
 例えば、原子力エネルギーの政策を検討する上での情報を取得する場合、理系的側面では、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーの夫々のエネルギー効率や温暖化ガス排出など多角的な影響面の科学的考察と開発のロードマップ、技術の可能性、安全面や想定リスクなどが情報として得られる。しかし、このことに関して文系的な情報を得ようとすると、イデオロギーを問う様な答えが、正解とは言い切れないにもかかわらず正解の振りをしてアウトプットされてしまう。こんな情報は百害あって一利なしなのだ。いや、言い過ぎたとすれば、住民感情や理解度、説明責任のレベル感などを推し量ることは出来るかもしれないが、事の是非を判断する情報では決してあり得ない。もちろん、最終的には民主主義的手段で決定していくのだろうが、その場合も政治家、経営者の信念で説得する以外になく、おもねる必要はないのだ。ダメだったら、政治家も経営者も進退を伺うだけなのだから。

 さてさて、そうこう考えると、今問題の学術会議はどうだろう。学術会議は政府の諮問機関であるのは誰も疑わないはずだ。しかし、3分の1が自然科学工学系、3分の1が医学薬学系、3分の1が社会科学法学政治学系であり、多くの発言は社会科学系、つまり文系の発信である。この3系統で言えば、母数となる研究者総数に対する比率で言えば、社会科学系は他の2桁下の数でありながら、会議体としては3分の1を占め、発信としては更に全体を牛耳っている印象が強い。これでは正当な判断の為の情報を得ることは出来ないと考えるのが通常だろう。それゆえ、政府は長い期間諮問をしていないのだ。
 この3分野を独立させ、数的にも適正数に配分し、もっと理系的な発信が前面に出る様な会議体にならなければ、政府諮問機関としては機能しないのだ。
 更に加えて言うと、政治家はプロである。そして行政の実行部隊である官僚もプロである。私には、人文科学系の学者がプロとして誇れるのは、自然科学系で言えば理学の分野であり、その実践に当たる工学の分野は、政治家や官僚の領域ではないのだろうか。であれば、人文科学系の学者に敢えて諮問する必要性は無く、あっても情報連携で充分。但し、政治家に絶対的比率で理系が少ないのが実態に見える状況では、自然科学、医学薬学系の学者、専門家への諮問は必要不可欠だろう。

 私は、理科系の人間なので特に強調したいのだが、もう少し理科系の人間を重用し、活躍の場が与えられる社会にならなければ、バランスの取れた判断による、本当の意味での発展にはつながりにくいと考えている。

学術会議問題に関しての検証3

 学術会議問題の本質的な議論が為されず、いや一般に公開されずに、行政改革で幕を閉じる方向に行く可能性が高い。本来的には、政府が公共の場に問題事項を曝け出し、存在自体を叩き潰すシナリオも想定されたが、菅総理は一般の考えをはるかに上回る、したたかさと、ある意味でのやさしさと妥協点を示して、あるべき姿に少しは近づけようとしつつ、負の部分も許容する方向性に見える。
 一般国民は、冷静に事の終止を見極める必要があるだろう。そうすれば、マスコミ、特に電波系の報道が如何に偏っているかと言うことも再認識できるだろう。

 では、この問題の本質論に迫るために、学術会議たるものの歴史的経緯を振り返ってみよう。

 設立は1949年、日本がまだGHQの占領統治下にあった時代である。従って、学術会議の制度設計には占領軍が深くかかわっていた。憲法で日本を武装解除し、軍需産業は解体、軍事技術を持てない様に監視する考え方が深く入り込んでいる。学術会議は総理府の機関として内閣に直属させ、会員は公選制としたが、武装解除という占領統治下の考え方、呪縛からは解放されなかった。戦後と言う特殊な時代環境下において、総理府の菅活力は弱く、共産党の支配体制が完成したのだ。公選制であったため、修士以上の研究者は誰でも投票でき、全国組織運動が盛んな共産党支持者を動員して多数の会員を確保し続けたのである。

 この様な状態で学術会議は、1950年に「戦争を目的とする科学研究には絶対に従わない決意の表明」の声明を出すなど、極左的な活動に終始し、政府の諮問機関として機能しなくなった。つまり、設立当初から諮問機関としての客観性のある機能は発揮できていないのである。

 この状態を是正するために、1984年に学術会議法が改正されたのだ。それが話題にあがる中曽根康弘首相時代である。その主要改正内容は、会員の選出方法が学会推薦に変わったことだろう。この公選制から推薦制に変えることは大きな改正であるが、同時にある意味ある種の取引として、推薦者を全員任命するという発言があったのだろう。しかし、それでも本質的な問題は解決しなかった。その後も共産党系の会員は前任者が後任者を推薦する仕組みの中で、一定の割合を確保し続けるとともに、各学会のボスが研究費の配分を行う場になってしまったのだ。
 その結果、2001年の省庁再編で科学技術会議が内閣府の総合科学技術会議になって、政府諮問機関としての役割を果たすようになった。学術会議は、業務重複の問題を抱え、総合科学技術会議の中に学術会議改革委員会が設けられた。
 2003年にアカデミーとして政府から独立した組織にするべきとの改革案が出されたが、学術会議は拒否した。その際に、会員の選出を学会推薦から会員の推薦に変更されている。その後も独立性を高める提案に対して、学術会議は拒否を続け、政府は2007年以降、諮問をしなくなり、名実ともに政府の諮問機関として機能しなくなったのだ。

 2017年に「軍事的安全保障研究に関する声明」を発出し、全国の大学・研究機関に呼びかけ、京大などの多くが軍事研究を禁止した事は広く知られている。実は、この声明自体は、僅か12名が出席する場で決定され、総会には報告のみされるだけで、日本学術会議としての正式文書となったのだ。この12名の中には、安全保障問題に関する専門家は存在せず、政治思想を専門とする政治学者が1名いただけであった。つまり、科学者の創意といえる声明では決してなく、優れた研究又は業績がある科学者による自身の担当する分野における意見でもなく、門外漢の非科学的、政治思想の偏ったものと言っても差し支えの無いものだったのだ。
 前述の声明の詳細文書作成は、「安全保障と学術に関する検討委員会」が対応したが、このメンバーは、先の声明で唯一の政治学者が委員長を務め、参加した社会学者3名中2名は共産党系の組織「科学者協会法律部会」の元理事である。
 この声明発出後、「軍事的安全保障研究声明に関するフォローアップ分科会」が設立され、先の組織から連続して就任した共産党系組織の元理事の2名が、継続的にフォローを実施。一部報道で伝えられている、自粛警察の様な活動で軍事的安全保障研究に含まれうる研究への参画を禁じてきたのである。

 ここまで見ても日本学術会議なる組織が、客観的公平性を保持した活動をしているとは思えず、政府の諮問機関としての機能は一切果たしていないことが理解できるだろう。
 学術会議が改革を拒否して一貫して守ってきたのは人事の独立性ではなく、内閣直属機関としての権威であり権益であろう。学術会議の年間予算は10億円と言われているが、その額の問題ではなく、科学研究費補助金の審査委員を選ぶ権限や科学技術予算配分の権限などを有するのであり、今年度予算規模でいうなら、科学研究費補助金は2300億円、科学技術関連予算は4兆3000億円と巨額の権益なのだ。
 先の軍事研究禁止の声明も、学術会議の政府機関としての位置付けによる権益がなければ、何の強制力も持てず、話題にすらならなかったのではないだろうか。

 会員の選出に関しても、「優れた研究又は業績」が必要条件となっているのであり、各科学者の選出条件となった研究や業績の分野における活動に制限されるべきだろうが、実態はその科学的研究・業績の領域ではなく、政治信条・思想面が前面に出して、他の領域へ干渉する活動に終始しているのであり、とても正当な活動とは言えない状態なのだ。例えれば、プロ野球の一流選手が、将棋界の運営に口を出すことを平気で行っている様なことではないだろうか。確かに、プロ野球の一流選手は、その道では一流だろうが、門外漢の分野に対しては、他の素人と何ら変わらず、ましてやそこに政治的思想を入れ込んでくる様では健全であろうはずがない。

 今回の騒動は、共産党機関紙である赤旗から抗議が始まった。そこに、政府攻撃の具として飛びついた立憲民主など野党が声高に「学問の自由に関する政府の不正侵害」「政府の違法行為、違憲行為」と攻撃を始めた。マスコミも同様、電波系を中心に政府攻撃ネタとして伝え続けた。途中から雲行きが怪しくなったと感じたマスコミは、説明責任を攻撃のネタに変更しているが、多くの左派知名人は未だ「学問の自由」「違法違憲」を叫んでいる。野党は国会でどんな無理筋の論理を展開するのだろう。

 しかしながら、ここまで見てきた学術会議の活動を見る限り、科学者による学問、研究の場ではなく、極めて政治的な活動をする組織になっている。その会員が科学者であるというだけで、その実は政治活動である。
 しかし、構成会員の多く、いや日本における科学者は決して全て左派思想者ではない。それどころか、多くは純粋に科学技術を追求する学者なのである。実は、多くの科学者は、現在の学術会議の運営状態に問題意識を持っており、自らの研究を進めるために仕方なく事を荒立てていないだけの被害者も多いのである。即ち、健全な活動に改善するポテンシャルは十二分にあるのだ。

 コロナ禍における専門会議でも話題になったが、専門家会議の役割はあくまで専門的知見、知恵の結集であり、それによって未来に起こり得る事態の予測や対応策を提言としてまとめることであり、それを受けて政策判断をして実行するのは、あくまで政治の役割である。

 科学技術に関する国家予算配分は、あくまで政治の役割である。国家としてどの研究に力を入れるのか判断するのは国家戦略なのだから。同時に、政府諮問機関としての機能を維持するためには、政治主導の任命権が無ければ成立しえない。学問を民間が、一般的に行うのは自由で独立すればよい、産学共同などスポンサーを募っての活動は自由だ。だが、あくまで政府の政策を検討する上での諮問を受ける組織としては、政治介入が必要不可欠である。そして、その正当性は民主主義によって保たれなければならないのだ。

 科学技術が人類の発展に寄与することは人類の歴史が証明している。しかし、使い方を誤ると人類を不幸に陥れることもある。正と負の遺産、双方を冷静に考えて、凡その結論は、科学技術の発展を停止させるのではなく、更に発展させ、使い方を誤らない工夫をするというのが基本的な考え方ではないだろうか。つまり、科学技術を発展させる分野の選別ではなく、分野自体は幅広く研究を推進する。これこそが学問の自由である、そして成果の活用に関して方向性を吟味する仕組みを検討する。従って、軍事研究であろうとも積極的に推進すべきであり、それを戦争抑止の平和目的にしか使えない様にする政治政策、いわゆるシビリアンコントロールが必要になるのだ。その政策は、ある特殊なイデオロギーにのみ委ねられるものではなく、民主主義的手段によって判断されなければならない。

 以上の様に考えると一つの提案が生まれてくる。まず、学術会議なる組織は、3つに分割、別組織化するべきであろう。一つが、自然科学・工業技術系、一つが医学薬学系、最後に社会人文科学系。それぞれ3系統は、独立し、相互に干渉しない。あくまで、専門分野における、政策提言、政府の諮問機関として機能する。組織の会員は、会議側からの推薦を幅広く実施し、推薦理由や実績も含めて公開し、その中から政府により分野や期待するべき分野のバランスなどを加味して選定し任命する。その任命理由も公開する。当然ながら、諮問内容や政策提言内容などは公開する。民主主義的なシビリアンコントロールを発揮して、科学技術の発展を政策に利活用する、最大にして最適な方法論と思えるのだが、いかがだろう。

 菅総理と梶田現会長との会談が行われた。恐らく、内々には収束していくだろうが、一部の抵抗勢力は抵抗を続けるだろう、場外乱闘として。梶田会長ご自身は、自然科学の分野に属する物理学の教授であり、常識的な理屈は通じるどころか論理思考に長けているはずなので、共通の落としどころに向かえるだろう。それでも続ける抵抗、抵抗勢力の背景を見れば更に、この問題構造が見えてくるだろう。科学技術、学問ではなく、イデオロギーを優先する一定の層と政争の具として攻撃ネタにしか考えていない野党、政権監視という大義名分を振りかざした単なる批判拡散のマスコミに限られてくる。今後、国会や報道でも揚げ足取りの追及が繰り返されるだろうが、その中身は冷静に見極めるのが国民の役割だろう。

学術会議問題に関しての検証2

 本件に関して、私は勝負あったと断じたのだが、いまだに反対の政府攻撃は収まらない。ネットでの誹謗中傷論は、ひと時も休むことなく多くの学者や専門家などから続けられていたが、電波による攻撃は一時静かになった。しかし、総理の105人のリストを見ていないと言う発言を境に、電波でも再燃した様に感じる。これは、あたかも沈静化しそうだったのを、再燃させるべく一石を投じたと見るのは私だけだろうか。

 リストを見なかった発言で、左派系野党議員は声を荒げて、違法行為とまで言っているが、本当に違法だと思っているのなら法廷に持ち込めばいい。本音では、違法行為ではない、少なくとも法廷で違法との判決を得られるとは思っていない証拠であり、政争の具としてあら探しをしているだけにしか一般的には見えない。例え告訴しても、勝訴を目的としている訳ではなく、世間に対する印象操作でしかない。

 リスト全体を見ていなくても違法でもなく、無責任でもないことは、仕事の仕組みが理解できていれば分かることだ。推薦に対して、責任部門が指示や方針に基づいて、全体リストを精査し、結果を説明して承認を得る。至極当然のワークフローである。何の問題もない。

 わざわざ、菅総理がこのことを情報として流したことに意図があると考える方が素直だろう。元々、任命理由に関して必要以上の説明を避けている、これも意図的だと感じる。

 分かっている人間が考えると、推薦理由が疑わしいリストに対して世間が納得できる推薦理由を学術会議側が説明出来ていない。『優れた研究又は実績』という理由を尤もらしく語っているが、その説明に当てはまる科学者は日本国中で105人以外に相当数存在するはずだ。従って、105人の推薦理由を『優れた研究又は実績』で説明すること自体間違っている。それはあくまで法的に定めた基準であり、理由ではない。
 『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』も確かに曖昧で、99人の任命理由として弱いのは事実だろう。だが、人事のことは詳細にできないという理由も尤もであり、何より、推薦理由と並べて同じレベルで語っているのである。そこがポイントであり、ある意味罠だろう。

 推薦者リスト自体が偏っている、と言うよりは学術会議の存在そのものが偏っている。従って、ここに手を付けたいが、抵抗勢力は強力で、一般国民の信任も簡単には得られない。学問の自由、言論の自由と言う大義名分で攻めてこられると、理性的・論理的な議論にはならず、感情的な陰謀論に終始してしまう。

 そこで、任命を99人に絞り一石を投じ、学術会議からの攻撃を敢えて受けているのではないだろうか。想像ではあるが、総理からの指示で定員以上のリストが出てこなければ、一定数の除外者を出せと。その除外する考え方として『総合的・俯瞰的』を指示したと考えられないだろうか。その目的は、はっきり言って、6人を拒否したというよりも任命権が内閣側にあることを意思表明することであり、一部のマスコミが言う様な反政府思想者の除外ではない。それは、99人の中にも相当数反政府思想者が含まれているのだから成立しないのである。

 そして、論理的に、法的に誹りを受けない最低限の発出に抑え、敢えて攻撃をさせている。それにより、馬脚を現わさせる。実際に、学術会議に参加している学者からの攻撃は目に余る酷さがある。一般の人が聞いてどう感じるだろうか。正直私が感じるのは、『上から目線の常識知らず』『自分の思い通りにならないことは他人の責任』『自分の学問の自由、自分の許さない学問に対する制限』『何様のつもり』など、世間常識を逸脱する、ある意味一国の政府に対する誹謗中傷の暴力的な暴言は聞き苦しいほどだ。学者先生の身勝手であれば、まだ百歩譲って笑って許せても、国家反逆とも取られかねない件も多く耳にするのは如何なものだろう。

 この様な実態を世間に詳らかにして、世論に問題提起をしようとしているのではないだろうか。

 確かに、6人を拒否した理由の説明を求める声は大きいだろう。それに詳細を応えないことは、国民の理解を得られないリスクも高い。しかし、それ以上に、この組織の実態を晒して、そうせざるを得ない現実を理解してもらう方が、構造改革には近道だろう。身を切らせて骨を断つだ。

 本当の意味での学術会議に求められる社会的責任は重い。学問の自由などではなく、国家として行く末を誤らないための、多方面からの検討、検証の機関として、聖域なく追及してもらう必要がある。その機能が、この様な偏った反政府組織になっていては国家としてのリスクである。
 学術会議から遠い学者たちも加えた、本当の意味での組織体とする為には、大なたが必要だろうし、次の総選挙の争点でもあるだろう。

日本学術会議問題の論理検証

 学術会議問題に関しての検証

 内閣総理大臣による任命拒否に関して問題視をする報道が圧倒的に多いが、聞く側の国民は、感情的にならず冷静に事実関係を正確に検証する必要がある。

 まず、任命拒否の法的裏付けに関して。日本学術会議法によると、『日本学術会議が内閣府令で定めるところにより内閣総理大臣に推薦し、その推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する。』とある。つまり、推薦に基づかない任命は出来ないが、推薦者を全て任命しなければいけないとは書いていない。大昔の中曽根総理の答弁が任命は形式的だと述べているかもしれないが、大昔であり時代は変遷しており、学術会議の活動自体も様変わりし、関連法も変遷している。何より。直近で推薦に基づいて全て任命する義務までは無い、という法制局の解釈文書も提示されている。従って、任命拒否に関して、なんら法的に問題は無い。
 逆に、ここまで明確な状態で、違法と言う人達は、法治主義を根底から覆す、自分の都合のいいことは合法で、政府を責める際は何でも違法と言う、あまりの稚拙さを露呈してしまう。

 次に、独立性の問題に関して。これも同様の日本学術会議法によると、『日本学術会議は、独立して〇〇の職務を行う。』とある。つまり、会議組織の独立性を担保するのではなく、職務の遂行に関して独立性が担保されていることになる。そして、会議自体に関しては、それよりも上位条項に『日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。』と明確に記されている。つまり、内閣総理大臣が所轄する組織の定められた任命権を行使することに、何の問題性も感じられない。

 ここまでの法的な位置付けに関して、実はよく練られた絶妙の民主主義的統制が効いていると感じるのは私だけだろうか。日本学術会議法に目的として記述されている『科学の向上発展を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする』を考えると、会議を組織する会員は、一定の民主的統制が必要だが、一般人の選挙では選定は困難なので内閣総理大臣の任命としつつ、行政府の恣意的な暴走を抑止するために、あくまで推薦を会議側から実施して、その中から任命する。つまり、内閣総理大臣には拒否権はあっても、人を指名することは出来ないのだ。

 学問の自由を侵害するという論は、あまりに論理が飛躍し過ぎていて説明の必要は無いだろう。間接的に忖度が起こって、学問の選択の幅が狭まるという遠い論理もあるが、学術会議会員に何らかの既得権益でもない限り、会員になることを目的とした忖度行動などあり得ないのではないだろうか。ここを、あまり強く言うと、裏においしい既得権益があると勘ぐってしまう。国庫負担の10億円を運営経費が6割締め、個々人の会員に特典がある訳ではないと強調されていたが、そんなことは問題でなく、経費であろうと国費を使っており、独立したいのなら本当に独立して民営化すればよい。その場合運営経費も勿論賄う必要がある。そういう表向きの経費ではなく、裏の既得権益構造がもしもあれば、それこそが問題視されるべきで、正当で客観的な職務遂行に妨げがあり得るのだ。

 さて、そうやって考えると任命拒否に関して唯一残る問題性は、『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した。』とする総理の判断基準の説明責任だろうか。しかし、これまでの考察を経た上で言わせて頂くと、任命拒否の説明責任の前に、推薦理由の説明責任の方が先だろう。推薦は、『優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補を選定し、内閣府の定めるところにより推薦する』とあるのだから、大勢候補者を選定した後に、推薦者を絞っているのであり、その絞り方に『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』が存在するかが焦点である。
 学術会議側は、女性活用などのバランスを強く言っているが、本当にバランスがいいのか。念のため名簿を確認してみた。
 今回任命されなかった6名は、法律学者、思想学者と人文系である。では他に、同じカテゴリの人文科学者がどういう構成で存在するのか。継続会員で同じカテゴリが8名に対して、新規会員が7人。もし、6人もそのまま任命していると、13人と多くなり、バランスが崩れ半数に絞ったと考えると辻褄は合わないだろうか。少なくともバランスが崩れているのは事実だ。
 そして、カテゴリ分類して分かったが、情報系の学者が、継続会員は10人規模で存在するのに、今回の新規会員には3人しか存在しない。デジタル推進を改革の目玉に掲げている状況であれば、通常の感覚であれば情報系の学者が今までよりも増員しても良いぐらいだが、現実は大幅減なのだ。
 これは、バランスを欠いた推薦と判断されても仕方がない。本来であれば趣旨に合わせた、情報系の会員の推薦を託したいところだが、そこまでは踏み込めないぎりぎりの任命拒否ではないだろうかとの仮説が成立する。そこまで議論を始めると、会議のあり様から見直す必要がありそうだ。

デジタル化の波

 デジタル化推進に政府が大きく舵を切った。
 積年の課題であるが、コロナ禍による影響で、少しは世間に必要性が訴求され追い風が吹いている今こそ唯一無二、絶好のチャンスであろう。

 この課題は、何十年も前から目指すべき電子政府という目標があったにもかかわらず、抵抗勢力の影響だろうか、遅々として進まなかった。ナショナルIDも複数回チャレンジしてきたが、政府が悪の化身であるかの様な言い方で、政権政府に情報を握られることで、悪用されるリスクを誇張し続け、一般人の不安を煽り続け、実現を遠ざけてきた。
 マイナンバーは、何度目のチャレンジであろうか、恐らく今回のチャレンジで浸透ができなければ、先進国で唯一ナショナルIDが運用されていない劣後国のレッテルが貼られるだろう。

 デジタル化の課題は、難しそうでありながら、実はグランドデザインとしては、至極簡単なのである。縦割り行政が問題視されているが、正直言って縦割り状態でのデジタル化は可能なのである。ただ一つ、横串を貫く、データ連携設計を基に、基本設計基盤に各所から接続するインタフェースの形さえ作り上げれば良い。無理に縦割りを連結して、個々のシステムの自由度を奪うのでは、様々な逆の弊害も出てくるのである。
 従って、デジタル庁のあるべき姿としては、機能としてはクラウド・データセンター機能に特化する形が理想的であると考えられる。そうであれば、各省庁などの個別特有な業務に適したアプリケーションの対応が可能になる。縦割りの良さを活かしながら、横串が刺さった一気通貫の仕組みが出来上がるのである。

 それでも、いまだ抵抗勢力は根強く存在する。

 抵抗勢力は、今後も無意味で非論理的かつヒステリックに不安を煽り続けるだろう。その最近の例で言うならば、ドコモ口座などの不正出金被害にかかわる報道だろう。伝え方として、便利を追求すると、セキュリティリスクが高くなると言い切っているが、これは根本的に間違っている。便利さと、セキュリティは両立を目指せるのであり、その障壁となるのはコストなのである。

 不正出金の件の問題は、やるべきセキュリティ対策を怠ったことが主要因であり、基本的な2要素認証や2段階認証による接続と本人確認を行えば、問題なかった。更に、その先には、マイナンバーカードの電子証明書を本人認証として利用する様になってくれば、更にセキュリティ性は向上する。つまり、利便性を保ったまま安全な運用が可能になるのである。

 技術の進歩を享受するには、その技術の使い方が重要なのである。使い方を誤れば技術は宝の持ち腐れになるが、使い方を間違わなければ、宝となり、宝が次の宝を生み出す効果も期待できる。しかし、使い方を間違わないためには、初期コストの投資が必要になる。不正出金の問題は、この初期投資を目先の利益のため、嫌がった結果に他ならないだろう。
 この初期コスト、投資は、新しい技術による便利さの享受と言う大きなリターンがあり、経済的にも確実に投資回収が出来るのである。

 もう一つ、大きな抵抗勢力の反論は個人情報漏洩のリスクであろう。しかし、危機感を煽る言い方に、個人情報が何たるものかと言う基本的な知識の欠落すら感じるのである。
 結論から言おう、デジタル化を推進し、マイナンバーカードの利活用を拡大することで、個人情報漏洩のリスクも間違いなく低減できるのである。

 マイナンバーカードを落としても顔写真や基本情報の漏洩はあっても、それ以上の機微情報などの漏洩のリスクは極めてゼロに近い。マイナンバーカードには必要以上の情報が入っていないし、使用も出来ないのだから当然だろう。しかし、マイナンバーカードの電子証明書利活用が拡大しなければ、アクセス先である各省庁に存在するデータの脆弱性は高まり、漏洩リスクが高くなるのである。などなど、実はデジタル化を推進すれば、必要なセキュリティ対策さえ実施してあれば、安全性が高まるのである。確かに、必要なセキュリティ対策の実施有無による、リスクの差はデジタルの場合大きくなるのは疑い様は無いが、適切なセキュリティ対策を運用すれば全て解決するのだ。

 縦割り組織の最大の良さは、情報が分散することで、漏洩リスクを最小化出来ること。縦割り組織の短所である、情報連携、効率的な横連携は、デジタル化基盤の構築で解決できる。そして、安倍政権時代に野党から攻撃を受ける最大のポイントであった文書管理の問題も、デジタル化でアーカイブすることで解消できるのである。

 コロナ禍がもたらした、千載一遇のチャンスを活かして、遅ればせながら先進国並み、いや一気に最先端のデジタル・トランスフォーメーションを反対勢力に臆することなく、全力で進めるべきである。

セキュリティを守る『組織風土』

 組織の構成員がモチベーションを高く保てない状態では、その組織は良い結果が出せないだろうし、一時的に無理して出していくと、その歪は大きな危機的現象を生みかねない。
 最も軽い現象は、組織員の脱退、会社なら退職。何らかの事由で、それも困難な場合、組織内犯罪、内部犯行、ハラスメントと組織の腐敗に向かって一直線に進んで行くだろう。

 セキュリティ・マネジメントの世界で、昨今強く言われるのが、組織内犯行を防止、組織員を疑う、いわゆる『性悪説』による対策の推進がある。しかし、はっきり申し上げるが、『性悪説』を究極に追及する体制において、実はセキュリティは守れないという矛盾が発生する。セキュリティの世界、いたちごっこであり、攻撃と守りは常に進歩しており、終着点は無い。
 組織内において、『性悪説』を基に、何もできない様に雁字搦めの状態では、仕事は出来ず、それが不必要で無意味に厳しい場合、モチベーションの低下とともに、つい出来心を起こさせてしまう環境となる。バランスが必要なのだ。
 簡単に言えば、『性悪説』の究極の対応は、人に何もさせないこと、なのだ。何もさせなければ、何も悪いことはできない、間違いも起きようがない、しかし、何も価値も生み出せないだけである。

 だからといって、セキュリティ度外視、ゆるゆるの状態では、これからの時代、サイバーセキュリティや情報セキュリティは他人事ではなく、明らかに攻撃の手段は高度化している。また、社会的風潮も、セキュリティ面での不正が発生した場合の社会的制裁は厳しく、機密情報漏洩や個人情報漏洩などが発生した場合、経営は危機管理状態に陥ることは間違いない。
 危機管理対応として最も重要視されるのが説明責任だが、発生した事象が何が原因でどうなったのか、その問題点は何で、どう再発防止策を採るのか、明確にかつスピーディーに説明する必要がある。
 この説明責任を確実に果たせれば、逆に信頼を勝ち取ることにもつながるが、説明できないと最悪の事態に突入だろう。ゼロリスクは、あり得ないので、インシデントを100%防ぐことは出来ない。如何にマネジメントできるかが重要であり、説明することで、そこまで対策していたのなら致し方ない、と思ってもらえる要点が『性悪説』を前提にした対策なのである。

 では、セキュリティインシデントを防ぐには、どうすれば良いか。『性悪説』対策でダメなら、何があるのか。

それは、断言しよう、『組織風土』なのだ。

 組織の内部犯行事例をその真因を追求し、考察を続けて行き当たる、答えが『組織風土』である。テレビドラマの様に、悪意を持って犯行に及ぶケースというのは、実はレアケースである。その犯行に対して失うものと、得るものを天秤にかけると到底釣り合いが取れないからだ。もちろん、米国ペンタゴンなど国家機密を取り扱う場合は、一発勝負、天秤は釣り合うかもしれない。しかし、それは一般のレベルではない。
 では、なぜ内部犯行が起きるか。それは、その組織内で、立場や居場所がなくなり、追い込まれ、已むに已まれず、つい犯行に及ぶ。それは、『組織風土』が病むことで、中にいる組織構成員が悪意を持った結果ではなく、負けてしまった結果なのである。人は弱いもの、これを『性弱説』と言う。

 つまり、これからのセキュリティ・マネジメントに求められるのは、発生しうるリスクに対して、説明責任を果たせる対策を実行し、真の意味で事故を発生させない、鉄壁の『組織風土』を構築することに他ならない。

 この『組織風土』を健全に保つために、構成人員のモチベーションの総和を高く維持する必要がある。この場合のモチベーションを測る方法として、モチベーションタイプやマズローの欲求モデルよりも、ハーズバーグの動機付け・衛生理論分析が適切だ。

 ハーズバーグの動機付け・衛生理論は、モチベーションの要素をプラス要因の動機付け要因と、マイナス要因の衛生要因に別けて考える。動機付け要因としては、『達成』『承認』『仕事そのもの』『責任』『昇進』『成長』に分類、衛生要因は、『会社の方針と管理』『監督』『監督者との関係』『労働条件』『給与』『同僚との関係』『個人生活』に分類する。
 各構成員に、アンケートするなどして、この分類ごとのスコアリングを行い、『組織風土』面の問題を洗い出し、対策を打つべき課題をあぶり出す。
 簡単なアンケートで、かなりのレベルのスコアリングがはじき出せるので、対策前と後の変化を見ることでKPIともなり得るのだ。

最後に繰り返しになるが、組織の弱さの順は
① 悪いことをやれてしまい、ついやってしまう組織
② 悪いことをやりたくても、やれない組織
③ 悪いことはやれてしまうが、やらない組織
④ 悪いことはやれないし、やらない組織
なのである。

感染症に関する情報発出の規制

 8月末電子出版発売を目標に執筆し、なんとか目標達成の8月31日にAmazonのKindle版として発売出来た。題名は『ファクターXの正体:新型コロナウィルス感染症の日本における感染実態_多田芳昭著』。http://www.amazon.co.jp/dp/B08H1JGVYQ

 しかし、発売までに一山二山あって、痛感させられたのが、この旬のネタは有象無象の出所不明、意味不明、論理矛盾の情報があまりにも多すぎるということだ。

 この情報氾濫の結果、現在では、基本的に、公式に発表された情報以外の発出を規制する動きがあり、情報発出は厳しい状況である。そのため、本書も当初は発刊を断られていたのである。確かに、情報氾濫による混乱を起こさせないためには必要なのだろう。しかし、その判断基準が不明である。想像でしかないが、医療系の肩書のない人間からは基本的に内容確認などせずに、いい加減な内容と勝手に判断されて審査さえされない。ましてや、無名の著者の著作物であれば相手にしないのだろう。

 今回発売した『ファクターXの正体』は、使っているデータは、厚生労働省や都道府県の公式データであり、そのデータを冬から蓄積し、独自に集計したものである。加えて、医大や研究所、マスコミなどの公式発表データも参考にしている。その上で、著名人の説や、論文などの考え方も検討させて頂いている。統計処理自体は著者の独自視点も加わり、論理展開して仮説を立て、検証するという極めて科学的なアプローチを主とさせて頂いている。
 つまり、どこからどう言われても、公式でない情報を元にしていると言う謂れはないと胸を張れるのだ。もちろん、科学には反論、異説が存在してしかるべきだが、他の意見を意味もなく排除する姿勢は、絶対に良い状態とは思えないし、科学的ではないのである。
 その結果、再審査して頂き、無事出版にこぎつけられたのだ。

 本書で展開されている説の多くは、一般的には異論があるかもしれない。であれば、議論を戦わせれば良いだけではないだろうか。むしろ、出鱈目な感情論に支配されている事態を憂いて筆を執っている内容なので、感情論で封殺せずに、議論を戦わすことは好ましい事態なのである。

 簡単に申し上げる。諸外国は、日本より桁違いに多くのPCR検査を実施したのは事実である。そして、感染者数・死者数は日本より桁違いに多かったのも事実。この二つの事実を原因と結果の因果関係と結び付けただけである。
 この状態で、多くの識者、モーニングショーなどの報道は、日本でPCR検査を諸外国と同じ様に増やして、徹底検査を実施しなければ、感染を抑え込めないと言う。PCR検査を増やせば感染を抑え込めると信じて疑っていないのだ。これを論理破綻と思わない方が不思議で仕方がない。
 PCR検査は医療目的で医師が診療方針を確定させるために行うのが基本だ。それ以外にも、クラスター対策など濃厚接触者の追跡には有用だろうし、日本ではこの必要とされる検査体制すら整っていなかったのも現実であった。そのための検査体制強化は当然必要である。しかし、諸外国のPCR検査はそこに留まっていない。PCR検査をして安心したい、と多くの人は言うが、検査で安心は決して勝ち取れない。

 常識という枠で、極めて感情的・情緒的に論理矛盾を無理に通す。検査という方法、手段の科学的事実を曖昧にしてしまい、極めて感覚的な安心と結び付けるのは、間違っている。この姿勢に異を唱えたのである。巷で感情的に危機感を煽る情報は、ウィルスや細菌に曝露される状態と感染との違いすらごちゃまぜにされて、時により都合よく使い分けている様にしか見えない。PCR検査は、そこにウィルスが存在することは検出できても、感染の有無は分からないと言っても、聞く耳を持ってすらもらえない。

 本書内では、PCR検査を増やすことによる影響を、様々な視点で分析し、結果としてオーバーシュートに至ってしまうからくりも解明している。それでも、検査を増やさざるを得なかった諸外国の事情を、単純な感染症の視点だけでなく、人間が活動する上での判断の基準となる宗教や文化・文明の影響も考慮して解明している。実は、日本と諸外国を論じる際に、この相違点を考慮しなければならないのだ。
 そして、感染状況の予測として提唱されている『K値』の改良版として『T値』を提唱してみたり、現状のデータの不足、不備から、トレーサビリティシステムやデジタル化運用の考えなども広範囲な視点で紹介させて頂いている。

 論より証拠、一度読んだ結果のご意見を頂き、議論に繋がることを期待しております。http://www.amazon.co.jp/dp/B08H1JGVYQ

部活動の外部チーム化

 教職員の働き方改革を考える上で、部活動が最も問題として取り上げられることが多く感じる。長時間労働の諸悪の根源として、時間外の練習、土日など休日の大会などの引率、指導など。
 文部科学省が改革案としてまとめているのが、休日に教員が関わる必要がない仕組みの整備として、外部チーム化を2023年度から段階的に実施を検討している。
 長時間労働に悩む教員の負担を減らすため、文部科学省が、休日に教員が部活動の指導に関わる必要がない仕組みを整備する改革案をまとめたことがわかった。今後、各地域にある拠点校で実践しながら研究を進め、2023年度から段階的に実施するという。
 そして、時間外労働の問題以外に、指導経験のない教員の負担になっている問題も解消を目指すという。

 改革案では、部活動は「必ずしも教員がになう必要のない業務」として、休日などは「指導に携わる必要がない環境を構築する」
 そのために、地域の活動として、民間のスポーツクラブや地域のスポーツ指導者、教員OBなどの人材を確保して対応する。一方で、指導を継続したい教員には指導出来る仕組みを提供するとのことだ。

 賛否両論あるだろう、事実、長短両面ある。ただ、ストレートに申し上げると、受益者視点に少々欠けている様に感じる。確かに、現時点で問題視されている事項が、教員側の問題ばかりであるから、この地点に帰結するのは仕方がないかもしれない。しかし、この問題の本質は、受益者、つまり生徒達、ジュニアアスリートにとって部活動とは何なのかという視点で考えるべきなのだ。

 この問題を検討する前に、現実を見てみると、各部活動には、外部指導員制度が既に存在し、部活動とは別に、地域のクラブチームも現実に存在し、多くのジュニアアスリートは、クラブチームに所属し指導を受けている。マラソンで日本記録を樹立し、1億円の賞金を獲得した大迫選手も、中学生ジュニア時代は東京都の強豪クラブチームに属して活躍していた。
 一方で部活動は、学校をアピールし、生徒募集の大きな要因になるもので、部活動参加率など、多くの学校が誇らしげに数字を掲げている。生徒側は、内申書に部活動参加、部活動の成績などが影響を及ぼすし、場合によっては推薦すら勝ち取れるのである。生徒側から見ると、前向きに活動したい生徒だけでなく、内申書のため、時間をムダに浪費する生徒も事実存在するのであり、現実は、決して、希望者が前向きに活動するだけの集団ではない。そして、極めつけは、学校側の都合が悪くなると、課外活動という名を逃げ口上に使えてしまう。
 また、別の視点で確認すると、例えば中学生の部活動の全国大会、全中には、中体連に所属した生徒以外に参加資格がそもそもない。つまり、その分野で頑張りたければ、学校の部活に所属しなければならないという縛りがある。
 また、一言でクラブチームというが、その中身は千差万別である。営利目的のスポーツクラブ、強豪チームとして多くの強豪選手を抱えるビッグチーム、ボランティアで細々ながら選手本位で活動するチームなど様々である。

 この様に部活動を改めて考えてみると、教育の場なのか、全生徒に自由に開かれた場なのか、将来の職の技能開発・進学の手段なのか、将来の社会活動における団体行動や共通の目的に向かう意識鍛錬の場なのか、それに伴って、学校の運営責任はどこまであって、クラブチームとどうやって共存するのか。

 筆者はテーマとして、「人が育つ環境」を大きな要素として掲げている。「人は育てるものではなく、育つもの」「人を育てたというのは、指導者の奢りに過ぎない」「人が育つことを阻害する環境要因」「人は自分が見えない、指導者はその人を見る目になれる人」「指導者の仕事は人が育つ環境の構築」などなど

 筆者自身もジュニア時代に自身のアイデンティティ基礎基盤を育成してきた環境として部活動が真っ先に挙げられるし、指導者としてもクラブチームを運営し部活動の外部指導員も担った経験があるが、比較して、ここまで確認してきた現実像は、変わり果てた環境に思えてならないのである。ストレートに、人が育つ環境とは思えなくなってきているのである。

 勝利至上主義を問題視する向も多い。しかし、勝利や、最高の結果を目指して、日々努力すること、チームとして協力し力を合わせることに問題があろうはずがない。結果としての勝利に価値がある訳ではなく、本気で勝利を目指すプロセスに価値があり、人が育つ。適当に目指すだけでは得られないプロセスなのである。個人の努力だけでなく、組織としての活動の重要性を学べる貴重な環境が、勝利を本気で目指す場なのである。

 うやって考えると、部活動がいつの間にか美化され、至高の教育の場として、学校のアピールの場になり、強豪校として結果を出さないとアピールできないから指導者にノルマが課され、学校という生徒たちが3年という限られた期間、短期間で結果を出すため、育てるのでなく、能力の高い選手を集めるスカウトに力が入り、部活動という教育の場とは乖離していった。

 そして、実際に集められた選手は、必要以上に大勢になり、少しぐらいの故障、痛みで休んだ瞬間、チャンスが失われるので無理をして多くの選手が潰れる。3年という短期間で結果を出すため、必要以上に長い時間の練習漬けで、故障しなかった選手だけが生き残る、その様な環境で、教育どころか、多くの選手が潰れていく。
 一方で、強豪校でない弱小校では、結果の成績でアピールできないので、全員参加、参加率アップという成果を求め、部活動の中身ではなく参加することに意義がある状態で、やる気もない大勢の生徒が、いやいや時間を浪費し、その時間に顧問という名の指導しない教員が超過労働となる。この場合、結果を求めないので、外部指導員などに任す予算は付かず、万が一ボランティアの協力を得ることが出来たとしても、前向きな目標以前に教員に課せられる後ろ向きな責任とバランスが取れず、直ぐに破綻する。その様な環境で、たまたま存在する才能ある選手も育つ環境が得られないで、才能を伸ばせない。
 強豪校でも弱小校でも、部活動は人が育つ環境とは乖離していっているのが現実の姿かもしれない。

 この状態で、地域のクラブチームに一定の役割を担わされても、何が解決できるというのだろう。強豪校でも、弱小校でも、何も構造は変わらない。確かに、顧問と呼ばれる、指導する気の無い教員の超過労働は削減されるかもしれない。しかし、肝心の生徒達、ジュニア選手たちの活躍する環境に何の変化もない。それでは全く意味がないのだ。

 極論を言うと、両極端の2通りでしかないだろう。
 地域のクラブチームを主とするならば、学校の部活動は全て廃止、教育の場などという偽りのプライドを捨て去って、あくまで個々の趣向に合わせた活動であり、ある意味習い事の一つとして、全ての大会をクラブチーム主導とするべき。それでも、人が育つ環境としては、現在よりは遥かに良くなるだろうし、個々の選手、生徒が自由に選択できる様になる意義が大きい。
 もう一つの極論は、全て学校の部活動を主とし、課外活動でなく、通常の授業と同じ扱いにする。学校に責任を持たせて、逃げ道の無い、主の活動に位置付けてしまう。超過労働問題は、外部指導員を所謂講師職と同様に一般化することで人材確保して解消することが出来る。地域のシニア世代、定年退職を迎えても元気な人間はこれからまだまだ増える。その人材を再登用すれば良いだけだ。

 筆者は、理想的には後者の学校が責任を持って運営する部活動が間違いなく良いとは思う。しかし、学校側既存勢力の意識改革が必要不可欠になってくるが、実際に可能だろうか。本音を言えば、その程度の意識改革すら出来なければ、学業の場すら、主人公を塾に奪われ存在価値が無くなってしまうのだが。