大阪市咲州メガソーラー入札に関しての考察2

日本国のインフラである発電事業に中国資本が参入し、一帯一路として公表されている事態になっている事は疑いようのない事実だ。この件に関して、地上波メディアは殆ど取り扱っていないが、ネット界隈では問題視する声が高まってきている。

そして、ここにきて情勢が変わってきたと思えるのが、維新の国会議員が橋下氏を民間人であり党との関わりを否定しつつ、擁護の声を上げ、違法性の無い事と、安全保障上の問題であれば法制度の問題であり、国家の問題であって、地方自治体に責任は無いとの論調を繰り広げている。同時に、この様な外資参入によるリスクに関しては、予てより同党としては、国会で提案を繰り返し、実現していないのは与党の責任だと言い始めた。

この論調には2重3重の論理破綻が存在し、この様な橋下氏の論調に合わせた上から目線の発信をするメリットがどこにあるのか勘ぐってしまうのは私だけだろうか?

<維新国会議員主張の欺瞞性>

ネット界隈での批判には当然幅があり、各論あるが、真っ当な視点で整理すると、今回の事案に対する違法性を問う批判は少ない。寧ろ、法の抜け道を行く脱法行為的な手法に対する批判が主であろう。そして同時に橋下氏の強弁の数々は前論考でも書いたが、入札云々やWTOの国際調達ルールなど本筋とは異なるその場の言論を支配する行為に終始し、次の瞬間、外為法など言い方を変えてきている事に批判が集中している。仮に当初の主張に誤りがあり、訂正し異なる主張をするのなら、明確に訂正してからにするのが一般的常識であり、それすら逸脱する行為が余りにも頻繁で批判されているのだ。

維新の国会議員は、この様な橋下氏の姿勢に対しても一切批判せず擁護している。

維新という組織にとって、橋下氏の姿勢に一般からの批判が集中し、関係性を疑われる状況でもあれば、自らにも火の粉が降りかかる危機状態である。橋下氏が全く関係ない人物なのであれば、本来の危機管理、危機コミュニケーションの観点で考えれば、寧ろ、この様な振る舞いに対して、批判して、自組織と関係なく、考えも全く異なる事を表明するべきだろう。

しかし関係性は否定しても、当人を擁護すれば、その一連の振る舞いすら批判の対象でなく、正当性のある行為であり容認するべきと宣言しているに等しく、同様の行為をする組織と認識されかねない。現に筆者には論調が同様に聞こえてくる。これでは、自らに降りかかる火の粉が燃え上がり、炎上に繋がるリスクが高まるのではないのか。

次に、維新自身は、安全保障上の脅威となりうる外国企業の参入については、実行力のある法規制を国会で提案してきたとの事なのだが、それが政党としての主張であれば、咲州メガソーラー事案において、入札当初と異なる事業体制に変更される時点で、前述の観点で確認するのが筋では無いのか。

全てを確認など出来ない、という説明も、一帯一路として高々と宣伝される程の一大プロジェクトであれば確認するべきと考える方が妥当ではないのだろうか。

例え、WTOルールや外為法などが妨げとなって、自身の政策方針上の対応措置が、法的に困難だとしても、その時点で広く大阪市民、いや国民に状況を公開し、立法措置の必要性を訴える絶好のチャンスでは無いのか。

当時、発表されたり、問題視された事実は確認できていない。

『違法性が無いから問題ない』と『自分達は法規制を提案してきた』を同時に説明する事で論理破綻しているのだ。法規制の必要性を提案しているなら、現行法規制に問題がある認識の筈で、違法性が無いから問題ないという言い訳は決して出て来ないのではないだろうか。行政の不作為か、問題認識が無いかのどちらかでしかないと考えるべきだろう。

<今後期待すべき本質的な対応>

この問題に対して、筆者は明確に問題を二つに分けて論じるべきだと思っている。

最優先すべきは、今現実の発生している事態を正確に把握し、安全保障上のリスクを低減する為に為すべき事を議論し、法制度化を目指す事。これは、橋下氏がどうとか、維新がどうとか、関係ない。

現に発生している危機事態に対して、政治が向き合わなければ話にならないのだ。参議院選挙の明確な争点の一つになり得るだろう。

次に、再発防止の観点で、こうなってしまった経緯を調査し、明らかにする事だろう。これも橋下氏や維新がどうという事ではなく、全国各地で発生している事案を一つ一つ、明らかにしていく事ではないだろうか。

本当は、維新の立場で、この視点で動く絶好のチャンスであったのだが、全く逆の反応、問題はないとして収束させる方向に向かってきたので、もう期待はするべきではないだろう。

本当は、まず大阪市議会で明らかにしていくべきなのだろうが、維新自体が『違法性が無いから問題ない』という主張をしている限り残念ながらあまり期待できないかもしれない。

そうなると、違法性も見えてこない状況でもあり、ジャーナリストの皆さんの腕の見せ所ではないだろうか。前述の様に地上波系メディアや新聞等のオールドメディアは期待できないかもしれないが、一部では取材は進みつつあるとも聞くので期待したいところだ。

この追及では、維新だけではなく、与党にも多くの親中派が関与している可能性も視野に入れるべきであり、港湾パートナーシップなども含めた深堀がどこまで出来るか、注目するべきであろう。

しかし若干心配なのが、公党である維新と一部メディアが包括連携協定を結んだということ。報道機関と公党の包括連携協定で、報道に偏りが発生しないのか、正直不思議でならない。一般的に考えると、手心が加わると考えるのが自然であろう。

様々なハードルは現実に存在するが、国として安全保障上の課題であることは間違いなく、国益視点での追求と対策の議論、実行を避けては通れないだろう。

大阪市咲州メガソーラー入札に関しての考察

時の人橋下徹氏が自身のYouTube番組newsBAR橋下2022/05/07にて、北村弁護士をゲストに、咲州メガソーラー開発事業に上海電力が入札で参入し、WTOルールで事業者の排除は出来ないと強弁を振るった。

これは、中国の国営企業と言っても過言でない同社が、この大阪での事業参入を皮切りに日本各地での同様の事業に参入し、エネルギー安全保障上の問題を指摘される状態に陥っている現実に対して、それを誘導したと疑惑が当時大阪市長である橋下徹氏に向けられ、説明責任を果たすべきだと北村弁護士が指摘したことに対するものだ。

説明は簡単に言うと、入札だから排除できない。WTOルールを知っているのかと無知を論う内容だった。

しかし、上海電力は入札によって事業参画した訳では無いのが事実なのだ。

<咲州メガソーラー関連入札とは>

本事案の入札で確認できるのは、咲州メガソーラーの発電用地の不動産賃借契約であり、その条件付き一般競争入札だけなのだ。それには伸和工業と日光エナジー開発の日本企業2社が落札している。550,001円/月で落札し、その10日後に伸和工業が合同会社咲洲メガソーラー大阪ひかりの泉プロジェクトを設立、この合同会社に出資の形で上海電力が実質的事業者になったのだ。

落札後、僅か10日間で会社設立、出資というのは事前準備が無ければ不可能だろう。つまり、実態を隠しての入札参加スキームの出来上がりなのだ。

入札されたのは不動産賃借契約だけであり、その地での開発事業、電力事業に関しては入札でも何でもないのが事実である。つまり、上海電力を参入させるスキーム自体は入札案件ではなく、橋下氏が主張するWTOルールなど全く関係ない。いやむしろ行政が関与しない野放しでの決定なのか、或いは、予め指定していた事業者を隠して誘致した疑いが生じているのだ。

上海電力のホームぺージに記載されている『この事業は大阪市により招致いただいた』というくだりを疑う向きもあるが、想像するにこれは翻訳ミスで、正確に意訳すると『この事業は大阪市の入札により参入した』としていいだろう。

従って、『招致』を行政が指名した様に解釈するのは間違いだろうが、発電事業は『入札』も実施されておらず、この説明は虚偽と言っても過言ではないのは間違いないだろう。

<山口敬之氏による公開質問>

ジャーナリストの山口敬之氏はこの疑いに対して、当時の大阪市長である橋下徹氏に公開質問をYouTubeにて実施した。以下がその質問内容である。

1.上海電力の参入が入札というなら、入札日時とその内容を明確にせよ

2.上海電力を発電事業に招致したのは大阪市の誰で、どのように招致したか

3.2013/9~2014/3の間、上海電力関係者に何回面会したか、その場で咲州電力開発事業の話をしたか

1.に関しては、入札であり事業者として拒絶できないとする橋下氏の論理が正当ならば、入札実施の事実関係を明らかにせよという事であり、事実入札していないだろうから、橋下氏の虚偽説明が明らかになるだろう。

2.『招致』という言葉が額面通りであればその実態を明確にできれば一大疑獄に発展するだろうし、もし『入札』が正しいと解釈するならば、①の質問と重なり、表立った入札には姿を見せない『ステルス入札(山口氏造語)』が疑われる。

3.実際に上海電力関係者とのつながりがあれば便宜を図り、全国展開のきっかけを作りスキームを完成させた一大疑獄になるだろう。

しかし注意しなければならないのは、違法性があるのかだろう。例え便宜を図ったとしても、金の流れがなければ疑獄には発展できない。入札案件でなく、事業者排除の論理も働かせられないと言う強弁も通るかもしれない。

これは当人の説明などは期待できないだろう。なぜなら表向き違法性が無いと言う強弁が通るだろうからだ。捜査で立件でもしない限りだ。

但し、北村弁護士とのやり取りでの、入札だから問題無いと言うのは現時点で虚偽説明であり、WTOルールを持ち出して煙に巻く方法も批判されて然るべきだろう。そして違法性が無くとも同義的に問うこともあるだろうが、その場合は当人と言うよりも、同氏を出演させる放送局、スポンサーが考えるべきだろうし、視聴者として局へ意見発信するべきだろう。

<もう一つの視点、エネルギー安全保障の観点>

橋下氏の言い逃れの強弁はどこまで行ってもその場の強弁に終始し、過去とのつながりのない矛盾だらけで実りの無い議論にもならない喧嘩にしかならないだろう。

しかし日本の国家として、エネルギー安全保障の観点で現在発生している状態をどの様に考え、どう対策を講じるかは、建設的な別議論が必要だ。それこそ当時の責任論は検察の捜査にでも任すとして、今目の前にある事実は目を背けられないからだ。

エネルギー自給自足の問題、有事の際に、敵国に我が国のエネルギーの喉元を抑えられた状態をどう考えるかだ。

特に維新は、参議院選挙に向けて、この点を明確に有権者に政策として示すべきではないだろうか。行政の不作為であろうと、陰ながらスキーム構築し実質的に誘致したのであろうとも、きっかけを作った大阪の責任政党として、このままメガソーラー事業を野放しして良いのか、野放し出来ないなら、どの様な法案、制度改正でこのリスクと向き合うのか、国政レベルの公約にするべきだろう。

筆者としては、国益観点で見れば、例え賠償金が発生するとしても、それは損切りしてでも契約破棄し、国内事業者に移管するべきではないだろうかと考える。

こういう事を一つ一つ、鉈を振るって行かない限り、経済安全保障、エネルギー安全保障等遠い夢の話に終わるだろう。

戦争有事における情報戦、ロシア擁護派の欺瞞

ウクライナに侵攻したロシア軍の戦争犯罪と思われる惨状が、連日メディアだけでなくネット含めて報告されている。一方でロシアは全面否定、軍事施設への攻撃しか行っていないとの主張を続ける。これはある意味、戦時下における情報戦でもあり、お互いに自身が不利になる情報発信は決して行わない構造により発生する事象である。

その様な状況でロシア批判の意見が圧倒的に多くなるのは、客観的に見て当然と思えるのは筆者だけではないだろう。一方で、根強くロシア擁護論を展開する層も存在しており、いくつかのタイプに分かれている。

その中で質の悪いのは、「アゾフ」「ネオナチ」というワードに縛られる視野狭窄、客観性を欠いた論であろう。国際社会がどの様に調査し、その結果としてどの様に判断しているか等、客観的情報を全て陰謀論で片づけてしまう。そして陰謀論を信じ、国際社会の判断を覆しうる根拠は何も示しもしないのだ。

民族的ナショナリズムを前面に活動する組織が存在するのは事実である。しかし存在するから全ての悪行がその組織の責任である事にはならないし、それだけの活動力があれば、国際社会の目を欺くのは今の時代困難だろう。

また、周辺状況や過去の歴史を認識するだけで客観的に物事を把握する事は可能である。冷静に考えれば、「ナチズム」は現存しないが、民族的ナショナリズムは現存する。しかし、「ナチズム」程の過激な活動は確認できていない、何故なら国際社会の調査研究が物語っている。一方で「スターリニズム」は現存する事を否定できないし、ウクライナ都市の現況やその他のロシアの侵攻を見る限り戦争犯罪の疑いは晴れない。

この種のロシア擁護派は、これらの状況証拠を覆し、擁護する根拠に至る情報提示、感情的陰謀論でない論理的な説明が必要なのだが、今の所、聞こえてこないのが実態であろう。本来、それらの情報なく信じるに至る事自体が筆者には理解できない。

間違えてならないのは、日本のメディアが報じる情報は極めて偏っている事だ。例えば世界中の紛争が決して均等には伝わっていない。また、歴史認識も思考停止を継続している。

また情報がどの様にねじ曲がっていくかを我々日本人は目の前で見ている筈なのだが、その認識が甘い。「南京大虐殺」と称される事案は、当時の人口やその後の人口推移など客観的事実を見れば説明できないし、東京裁判で裁かれた内容を見ても大虐殺など無かったと考えるべきだが、それでも情報戦では異なる指摘を受ける。「真珠湾攻撃」も未だに象徴的レッテル貼りのワードとして使われ、慰安婦や旧朝鮮半島出身労働者も同様。デマを元に日本のマスメディアが誤報を繰り返し国際問題化した。

少し冷静に、事実関係を調べれば明確であり、論理的にも説明が出来る内容でも、プロパガンダにより国際問題化出来るのだ。ならば、例え悪意をもったプロパガンダ情報であろうとも、冷静かつ客観的に調べ、論理思考さえすれば、大きな間違いは避けられるはずであり、情報を受ける側一人一人の責任が実は大きいのだ。

<劣化し両極化するジャーナリズム>

最近のジャーナリズムはその精神を忘れ、裏取りもせずに誤報を垂れ流す事が多い。しかし、今回のウクライナ戦争において、その逆張りの自分の目で見ないものは信用しないと言う極論も一部で確認した。

それはロシア侵攻の跡地での惨状を伝えるウクライナ側の情報を現場・現実・その瞬間を見た訳ではないので、誰が、何の為にやったか判断できず、一方的にロシア軍の仕業と言うことは出来ないと言うのだ。

確かに一理はある。ジャーナリズムと言いながら、「アベガー」「スガガー」や「森掛桜」など判明した事実は報じず、裏取りしない疑惑を実しやかに報じる様な劣化現象が激しいのが現状であり、その反省に立てば、事実関係の裏取りが報道の前提であることは当然だからだ。

しかし、それも行き過ぎは良くなく、逆張りの疑いすら感じざるを得ない。

そもそも今回の様な戦争有事において、全て取材をして裏取りをする事は不可能だろうし、事実関係が判明するには相当な時間を要する。その間、全てにおいて分からない、判断できないでは報道にならないだろう。

状況証拠を並べ、各種の発信を時系列で論理的に分析し、その上で前提付きで判断すべきなのだ。そして前提を覆す情報が新たに出てくれば、訂正し、再発信すれば良いのだ。

<情報論理分析とは>

世の中に流通する情報には発信する側の意図が必ず介在する。情報とは、FACTを示すデータ(文字・画像・動画・数値)を分析し、解釈を加えて情報となるのであり、意図が介在するのは当然である。しかし、それは少しだけ注意して情報と向き合えば、比較的簡単に意図は透けて見え、フェイクは見抜ける。

従って、一つの情報を妄信する安易な行為が危険である認識さえ持てば、情弱に陥る事は簡単に防げる。実際は、それ程簡単でなく、人間は弱い存在なので、冷静さを失い、簡単に騙され妄信してしまい、情弱に陥る。その結果、社会不安定にまで発展させる危機を生み出す。

今回のウクライナにおける惨状において、確かに首をひねる様なものも多い。何故、その瞬間の動画が撮影できるのだろうか、この画像はいつのどこの画像だろうか、等である。しかし、SNSも含めた多様な情報を総合的に見ればある程度の実態は推定可能だろう。筆者が最大注目すべきと考えるのは、ロシア政府、外交筋から発信される情報を時系列で並べた時の論理矛盾があり説明出来ない事実である。ウクライナ発信は一方で誇張表現はあっても論理的矛盾は感じない。

情報論理分析とは、多くの情報を取得する努力を前提として、その時点における取得可能な情報の範囲で論理的に考察して判断する事であり、新事実・新情報が出てくれば当然ながら判断は覆る事もあるのだ。その反省があれば朝令暮改があっても良いだろう。むしろ、全ての情報を取得できると考えるのは傲慢でしかなく、その様な神の領域を求めるものではない。そして、最も重要なのが論理性の担保なのである。

侵略戦争が招く悲惨な現実を見て思考停止してはならない

ウクライナに侵攻したロシア軍が首都キーウ周辺から撤退し、近郊ブチャでの惨状が明らかになり世界が悲しみに包まれた。その事を伝えつつ、2022年4/6放送のワイドショーにて、何のため?と疑問を投げかけるシーンがあった。常識的に考えれば、こうなる事は容易に予想できた事なのにだ。

もちろん、現時点では悲惨な殺戮の結果としての映像が流布している状態であり、その深層部分に関しては今後の慎重な調査が必用であり、軽々しく語れるものではないのも事実だが、可能性として論じることは避けるべきではないだろう。

それは、可能性を論じることで、実態を解明する道筋にも成り得るからだ。受け身の姿勢で、調査結果を待ち、それまで思考停止と言うのでは問題への対処が遅れるだけでなく、例え調査結果が出たとしても自身の思考なく丸呑みするだけになる危険がある。あくまで一人一人が問題意識を持ち、論理的に思考することで、その考えが集約され対処が為されるべきと考える。

<悲惨な殺戮が行われた実態は>

都市制圧を実行する事を普通に想像してみれば分かるだろう。当初言われていた様な、ロシア軍を解放軍と崇めて迎え入れるのなら別だろうが、その場所は敵に溢れている。侵略なのだから当たり前なのだが、その事すら思考停止しているように思える。

侵略される側の立場でも考えてみる。一般市民と言っても、今回の様な短期間で逃げ場所、逃げる手段が確保できる筈も無く、侵略者が入ってくるならば、まずは自分達の命を守ろうとするのは当然だ。投降して命が助かるとは思えないだろうし、隠れられれば隠れるが、隙があれば反撃も試みるだろう。あくまで自分達の命を繋ぐために。

侵略者側は、この様ないつ反撃されるか、どこから攻撃されるか、分からない究極の状態で都市制圧する為には、慎重に見極めながら適切に踏み込んで行って制圧するのに、国際法上の戦争犯罪を犯さない様に実行する為には、相当な時間と労力、危険が伴うので、無差別攻撃で制圧する方法が簡単で攻撃側のリスクも低くなるのだ。しかも、侵略側のロシア軍の編成自体、潤沢な体制とは言えず、過酷な任務を強いられていたのも現実であろう。

20世紀型の戦争の姿だが、余りにも犠牲が大きく、悲惨な為に、第二次世界大戦後に戦争犯罪として、侵略戦争や国際法に違反する戦争の計画・開始・遂行の責任に関する罪(平和に対する罪)、一般民衆に対する大量殺人・迫害など人道に反する行為の罪(人道に対する罪)が加えられたが、ルールがあれば守られると考えるのは浅はかと言えよう。

つまり、このルールを守る限り、そもそもの侵略も禁止事項であり、更に都市制圧は実現が相当困難なのだ。だから侵略するなという、それ自体抑止になるのは間違いないが、逆に言うとルールを破った侵略が決断された時点で、他のルールも守られないと考えるべきである。その方が味方軍の損耗を最小限に作戦実行できるからだ。

かくして、前時代的虐殺が実行されたと考えられる。

そして、この現実はデジャビュ―の様に、過去のソ連からロシアにかけて行われてきた歴史の事実が思い出される。当事国は否定している様だが、その否定する論旨も少々矛盾を感じる内容が多い。最終的な結論は、調査を待つ必要はあるだろうが、現時点でも、ある一定の結論が導かれても仕方がない状況だろう。

<命を懸けて戦う戦闘員への報酬>

実はそれだけではない。20世紀、第二次世界大戦以前どころか、中世の戦争の様相が見えるのだ。

戦闘員は命を懸けて戦う。大義を感じ、主君への忠義で命を捧げる様な綺麗ごとではない。命令とは言え、命を懸けるに相応しい戦果が無ければ戦闘員の統率などとれるはずがない。

戦国時代なら首級を上げる事で、立身出世や土地などの報奨が得られる。というのは表の歴史で、実態としては、攻め落した地域の一般人からの略奪、拉致しての人身売買を認める事で、戦闘員の働きに報いるという痛ましい現実が存在した。もちろん、これは中世の負の歴史なのだが、今回のロシア軍の行状を見る限り、同様の状況が暗黙の了解であったかもしれないと考えられないだろうか。

国際社会には、第二次世界大戦後の秩序どころか、中世そのままの戦争観を維持し実行する国家も残存している事は疑い様のない事実であり、目を背けてはならないだろう。

<平和ボケから目覚めなければならない>

第二次世界大戦後、冷戦構造による戦力バランス拮抗で一定の秩序は保てていた様に見えるだろうが、それでも中東やアフリカなどでの紛争は絶えなかった。我々が、自分事に感じなかっただけであり、ウクライナ侵略は平和ボケに浸る日本人に現実を突き付けた。ここで目を覚まし、我々が侵略を受けない為には、どうすれば良いか、真剣に考える必要がある。いや、既に不当な侵略を許し、不当占領されている固有の領土も複数存在する。

攻めて来られたら、逃げの一手だと相手に思われれば、相手の侵略を容易にし、招き寄せる結果に陥るだろう。容易に攻めていけない、攻めればとんでもないしっぺ返しを食らうと本気で相手に警戒させる事が抑止力である。そのため、使わない力であろうとも、いつでも使える力があると知らしめ、実際に起きた場合に遅滞なく対応できる様に普段から訓練を積んで準備を怠らない事が、悲惨な侵略を防ぐ唯一の方法であろう。

繰り返すが、戦後秩序を守る国際ルールがあっても、侵略する国は守らない。話し合いで防げるなら苦労はしない。話し合いするにも、双方の譲歩とWinWinを達成させる為には侵略した方が早いと思わせない事が必用であり、それなしの妥結など夢物語だろう。

専守防衛とは、侵略が現実に行われると確認出来るまで戦わない事であり、その時点で本土は少なからず被害を受ける。侵略は起きてから逃げられるものではなく、悲惨な結果が待っている。だからこそ、侵略されない、侵略させない、侵略しようとも思わせない国家になる必要があるのだ。

平和ボケはあらゆる分野に悪影響、エネルギー問題も

令和4年3月22日、東京電力と東北電力管内で「電力需給逼迫警報」が発令された。

実際、100%を超える需要に対して供給のバランスを綱渡り的にかろうじて保つために、揚水発電が使われた状況で、しかも余力は無かった様だ。あるワイドショーでは「その様な状況だとは知らなかった」「もっと早く知らせてくれないものか」など、余りにも無責任な発言のMCやタレントコメンテイターに不快感を抱かざるを得なかった。

事実関係を簡単に整理しよう。

民主党政権時に超法規的政府要請により原発は稼働停止し、脱炭素・脱化石燃料の流れで火力発電設備は更新が滞り、休眠設備まで稼働させて急場を凌ぐ状況だった。その後供給側の状況は大きく変化していない。

一方で需要側は大きく変化している。省エネ効率を向上させる技術開発、製品化は大きく前進し、デマンド監視システム導入によるピークカットなど、企業においても様々な省エネ対策の設備投資を活発化し、エネルギー削減施策を行ってきた。

その結果、需要は拡大しているものの、省エネ・節電・効率化で絶対量としては最小限に抑え、かろうじて綱渡りが出来ていたのだ。しかし、この状態は、通常考えられるリスクの顕在化により、危機は起こり得ることを予てより警鐘が鳴らされてきた。実際に2018年9月に北海道でもブラックアウトの危機は訪れた。

その様な状況下で、元首相5人組等の一部の非論理的、非科学的な「再生可能エネルギーで対応可能」「原発は無くて大丈夫」という論が、大義名分である「環境」「安心」を盾にして、実しやかに叫び、現実から国民の目を晒し続けたのではないのか?マスコミは、両論併記せずに、これらの論を拡散し、或いは都合の悪い、原発稼働の必要性の論には目を背け報道しなかったのではないのか?

それを「知らなかった?伝えてくれなかった?」ふざけるにも程がある、マスコミが知らせなかった、伝えなかっただけだろう。

<エネルギー問題は今に始まった訳では無い>

まず前提として抑えておきたいのが、エネルギー需要はこの先大きく増大するということだ。デジタル化していく環境、セキュリティ安全保障上の問題でデータセンタの国内化が必要不可欠な状況で、現状とは桁違いのエネルギー需要が生じる。

つまり、現時点で綱渡りしている様では国家としてたちまち危機に陥るリスクが高い。コロナ禍で喧伝された様な「何もしなければ42万人死ぬ」と同様のロジックで語れば、最悪のシナリオは、凍死、熱中症死、入院加療時の治療不備、貧困による餓死、国防脆弱化による侵略を受け大量虐殺など、桁違いの被害も想定できる。もちろん、コロナ禍と同様「何もしなければ」というのは、あり得ない前提なので、その場での対処は実行され被害は抑えられるだろう。しかし、それが後手後手の泥縄方式であれば被害は無視できなくなるので、リスクに正面から向き合った根本的なリスク低減策が必要不可欠なのだ。

エネルギーを調達資源と考えるならば、偏ればあらゆるリスクが生じる。1極集中せず2重化、いや多重化することが安定調達の基本である。加えて、需要の量に相応する規模の調達が求められ、需給の変動に対応できる蓄積、需要地への適時運搬、デリバリも大きな課題なのだ。

多重化に関しては、例え再生可能エネルギーでも一極集中するのは危険だという事だ。エネルギーである限り限界はある。太陽光であっても、風も地熱も、無限ではない。既に存在するエネルギーは自然が吸収し環境を形成しているのだから、一部を別の形に変換すれば当然ながら、自然への供給量は減少する。僅かなら影響は無視できても、増えれば必ず自然環境変化を起こす。これを一般的に自然破壊と呼ぶ。環境に影響を与える限界は未知だから、多重化で一つのエネルギー源への依存度を少なくするのが安全なのだ。

従って、再生可能エネルギーを過信せず、原子力、火力(石炭石油ガス)、水力など可能な限りバランスを保つべきなのだ。

そして現実的には、現時点の技術レベルと需要供給量の実態を元に考えるべきである。

現時点の再生可能エネルギーで需要の大半を賄うのは難しい。将来、開発され、効率化され、絶対量が安定確保できる可能性を否定はしないが、現時点では無理である。しかし、原子力発電、火力発電ならば可能なのだ。その現実から目を背けるべきでない。

そうやって考えると、ブラックアウトするリスクに備える優先順位は

  • 原子力発電の再稼働
  • 火力発電所の設備更新、高効率発電設備の置き換え、増設
  • 再生可能エネルギーや小型モジュール等の新技術研究開発強化

の順に本気でエネルギー政策を再検討するべきであろう。

安全保障面から見た、絶対量の安定的確保と自給率向上も検討に必要な観点だろう。

<日本の技術力がカギを握る>

原子力発電に関しては、様々な感情的な反対論ではなく、冷静かつ論理的に現実論を展開するべきである。まず、現状ある設備は、安全基準をクリアした所から早急に稼働させるべきだ。テロ対策なども必要に応じて後からでも防御設備、運用改革をすれば良い。リスクがあるから出来ない、ではなく、リスクを低減しながら安全に運用するのがリスクマネジメントなのだ。

そして、将来を見据えて、日本が誇る最先端の技術力を失うべきでもない。軍事研究忌避、原発忌避の感情が蔓延れば、優秀な技術者は国内では育たず、海外に流出するだろう。学生も専攻しなくなる。それ程危険な事は無いのだ。技術力を失えば、現在の原子炉の廃炉や破棄物処理も対応力が無くなる事を忘れてはならない。技術力が継承されれば、最新の技術を開発し、更なる安全性と経済性も追求できるのだ。

そして優秀な技術者が育つ環境になれば、小型モジュールなど未来型の開発も安全に推進出来るのである。

再生可能エネルギーの最大の課題は蓄積と運搬だろう。エネルギー生成、変換自体は安定しないのは当たり前だろうが、効率的な蓄積、運搬性が高まれば可能性は高まる。筆者の本音を言えば小規模地産地消の形が全体のバランスを埋める有効な手段と考える。

逆に言うとその課題が解決されるまでは補助エネルギーでしかないのが実態だ。大きく期待すべきではない。

蓄積とは、蓄電池だけでなく、水素やアンモニアを生成し蓄積するのも有用、運搬も可能なのだ。そうなれば、内燃機関への応用も展開できるだろう。

火力発電を脱炭素で忌避する傾向も冷静に考える必要がある。再生可能エネルギーと比較して現実的にエネルギー効率や脱炭素など対抗しうる技術力はある。廃棄物処理の比較も同様だろう。

日本の技術力による高効率石炭火力発電は世界に誇るレベルである。少なくとも切って捨てるべきではないだろう。同じ理由で内燃機関の技術も日本が世界に誇るレベルであり、電気自動車と比較しても総合的には負けない環境性を有するエンジンも存在し、更に発展できるのだ。

日本の技術力を封じる戦略に振り回されるだけでなく、本来の課題を解決する日本の技術力を世界に示すべき時代なのだ。

情報論理分析の要諦、分かり易い情報とは?

企業内の業務遂行時に、自身の業務成果を資料として残す。また、自身の業務遂行において過去の他人の実績を参考にするために過去の資料を紐解き、分析して自身の業務に役立てる。当然の業務遂行上の規範である。

ある日耳に入ってきたのが、過去の資料が分かり難く、読み解くのに当時の担当者に何度もヒアリングするなど苦労したので、他人が見て分かり易い資料の作成を心がけよう、との事だった。しかし、言わんとすることは正論でも、それでは精神論でしかなく、結局何も改善しないと言わざるを得ないのだ。

分かり易い資料とは、具体的にどんな資料なのだろうか?

<資料が分かり難い原因は情報の中身?>

一言で分かり易い資料といっても、具体的にはどの様なものを指すのだろう。巷のハウツー本では、箇条書きにして、図表など一目見て感覚的に認識できる様にだとか、テクニックは語られている。しかし、それだけでは情報自体の品質は保証できない。情報を伝えるべき資料であれば最優先するべきなのにだ。

情報と言う観点で言うなら、あらゆる情報が満載された情報に不足ない資料は、読み手に取って極めて分かり難いだろう。プロセスを割愛したグラフィックや図表を使えば視覚的に理解し易いが、そのプロセスの誤謬性には気付き難くなる。

一方で、全ての必要情報が分かり易く論理的に整理されてあっても、読み手側の読解能力不足で誤った解釈をしたり、自明である推論すら、明確に記述されておらず曖昧と資料の責任に転嫁する場合もあるだろう。

そもそも人間が作成した資料であり情報なのだから、記載されている内容に間違いもある、或いは誤った解釈されている場合は当然あり得るだろう。従って、読み手側にも一定の解釈が必要なのだ。

<世の中にまん延する情報の誤謬性>

企業の業務報告や記録の例で語っているが、世の中に広まるメディア発信の情報も同様の誤謬性、読解力不足の誤解など、全く同じ構造が存在する。まずは、この情報について反面教師として考察してみたい。

マスメディアの発信する情報とは、2次情報、或いは3次情報である。従って、常々鵜呑みにせず、1次情報に当たり確かめる事を推奨している。1次情報からどの様なプロセスと論理考察で生成された2次情報なのか紐解くのである。ニュースソースは明かされず1次情報に辿り着けないとの批判もあるかもしれないが、殆どの場合、外堀を埋める情報は存在し、少なくとも推論は立てられる。

そうすると、余りにも可笑しい論理飛躍、結論ありきの無理筋が如何に多いか気付くのである。仮設としてその結論に辿り着く1次情報は何が考えられるか、推論すれば、その周囲の情報との矛盾が隠せず、帰納的にも論理破綻が示せる場合が多い。その様な作業を心がけておれば、自然と2次情報を見ただけで、その誤謬性の存在、胡散臭さに気付けるような能力も養われる。

マスメディアの発信する情報が偏向するという事実は、歴史的に見ても明らかである。大本営発表と悪の権化の様に政府情報統制を語られるが、事実は民間の新聞社の発信する情報だったのだ。

現在の、電波系メディア、新聞系メディアもある思想信条、意図を持った方向性に偏向しており、現実的に放送法4条は守られていない。結論ありきの無理筋、過去発言との整合性ない論理矛盾。意向に沿わない情報を発信しない報道の自由。これを鵜呑みにすることは危険極まりないのだが、未だ影響力は絶大で、多くの人は知らず知らずに信じ込まされている。

しかし現在はネット空間に発信される情報が存在する。もちろん、その情報の一つ一つ、個々に見ると夫々に偏向していると言っていいだろう。しかし、規制がかからない、いや色々な規制がかかっても全員参加の双方向性メディアとして、オールドメディアに比べて大きく情報発信の自由度が高く、種々雑多な情報が埋もれている。

実は、オールドメディア側から見るとこれは大きな脅威なのだ。自分達の情報の信頼度が低下する事態を招きかねないからだ。従って、ネットの情報は胡散臭く、オールドメディアが正しいというプロパガンダが蔓延り、規制に必死なのだ。場合によっては、報告などで広告剥しやアカウント停止を目論んだ抑制が厳しいのが実態である。

しかし、よく考えて欲しい。情報とは、発信側は自身が伝えたい意図に沿ったものなので偏向は当然だろうが、受け手側はあらゆる情報を受け取る権利がある。そして、多くの情報の中で自身が必要とする情報、活かせる情報を取捨選択するのが当たり前ではないか。

ならば、オールドメディアの様にどこを見ても金太郎あめの様な一律の情報(しかも偏った)ではなく、ネットを中心とする有象無象の情報から受け手側が是々非々で取捨選択する方が正しい姿ではないのだろうか。実は、今迄はこの役割を書籍が果たしてくれていた。これからも書籍の役割は継続するだろう。しかし、ネット情報の活性化により、情報革命が起こり、素人でも昔の諜報部員並みのオープンデータ取得した情報分析が可能な時代になったのだ。逆に大なり小なり、情報力を高めなければ、社会に適合できなくなるリスクすらあるだろう。

だから、常々、情報の論理分析力を高める活動を推奨し、1次情報に当たり、自身の頭で考察する癖を身に着けるべきだと言い続けている。

<企業における情報伝達、ノウハウ継承>

前述した情報論理分析力は、これからの社会において必要不可欠であり、企業人としても是非、普段から心がけてもらいたいと思っている。

その上で、そうは言っても資料の1次情報に毎回当たっていては業務効率が悪すぎるのも事実だろう。

そのために必要となるのが必要な情報の構造化ブレークダウンだろう。

前述の例で考えて見よう。過去実績の担当による資料が分かり難いのは、何故か考察するのだ。情報が不足していたのか、必要のない情報が満載で必要な情報が検出し難いのか、情報に誤りがあったのか等。

この考察の結果、情報不足であれば、どの様な情報があれば良いのか、具体的に項目出しをしなければならない。当然それは、継続的にフィードバックがかかるようなプロセスで、不足情報の項目出しを加えていく仕組みが必要になる。何故なら、一度の考察、検討で、必要な情報の全てを網羅するのは不可能だからだ。やりながら、レベルアップしていくのだ。そして必要項目記載をルールとし、ミスロス削減の為にもテンプレート化しておくべきだろう。

不要な情報が満載でと言うのなら、少し考える必要がある。何故取捨選択が出来ないのか。

情報が整理されておらず判然としないのなら、定型の情報は固定表記される様にテンプレート化して整理すれば良いだけだ。むしろ情報が満載なのは良い事で、受け手側とは一人ではなく多面的なので、それに対応するのは情報自体が最小公倍数を実現する必要がある。

必要な情報が整理され表記されていて、尚且つ分かり難いと言う事例を多く確認する事がある。つまりこの現象の原因は、受け手側の情報読解能力の問題なのだ。

その次の情報に誤りがある場合も難解だ。基本的には資料として記録を残す際にミスロスを防ぐ策が大前提である。前述の項目整理やテンプレート化は有効な策となろう。それでも人間のする事に完全はなく、一定のミスは発生する。

これは本質的には一定のリスクを受容する必要はあるが、最小化する為に資料作成時の対策は不可欠だが、加えて受け手側が利用する際に一定程度の感性を持って見抜ける能力の養成が必要不可欠なのだ。

ひとつの方法は、時々抜き取りでも、1次情報に戻る作業で能力を高める。普段から周辺で起きている時事問題、経済界の課題などに関心を持ち、書籍やネット情報を確認し、時々その背景にある1次情報、オープンデータや論文も確認し、自身の思考を磨く作業を行っておく事が重要だろう。

実は、この能力の基礎は、義務教育で誰もが教育されている、国語の読解力、長文を読んで筆者の気持ちは?この主人公の言葉の意図は?とい問いであり、演繹法や帰納法を駆使した論理証明などである。そんなに難しい事では無いはずなのだ。

国際社会の協力を勝ち得るウクライナの頑張りと今後の交渉

国際社会における交渉とは、「押してもダメなら引いてみな」的な日本文化で語られる方法論で語るのは危険である。

国家間の交渉とは国益のぶつかり合いであり、引くという事は一部の国益となる事を諦める事である。この一方的な譲歩で関係が良くなると考えるのはお花畑思考の非現実的夢想であり、性善説に過ぎない。国益のぶつかり合いという事は、ぶつかり、拮抗するポイントがパワーのバランス地点であり、引くという行為はこのパワーバランスを崩す事に他ならない。つまり、引いた結果として発生するのは、引いた地点がパワーバランスの拮抗点に変化するのである。

即ち、何か妥協して引く場合、別の何かを獲得する前提でなければ交渉ではない。これらの交渉カードを複数持ち、交渉に当たり国益を守るのが外交である。そして、軍事力は核も含め、この交渉カードなのだ。

実際に、ロシアのプーチン大統領がウクライナに対して核使用も持さない考えを公言したのは、大きな交渉カードになっている。逆にバイデン大統領がロシアのウクライナ侵攻前に、アメリカ軍の派兵を否定したため、国際社会側のロシアに対する交渉カードを失い、ロシアの侵攻を許す結果になってしまったと評する専門家が多い。

かろうじて、ウクライナのゼレンスキー大統領が国内に残り、戦う姿勢を明らかにし、ここまで立派に国を守る戦いをした事で国際社会の声もウクライナ側に大きく傾いている。これが、逃げて亡命政権として外から対応していたら、現在の様なここまでの国際協力、情報武装化と経済制裁は得られなかったのではないだろうか。

<パワーバランスを崩す情報戦と場外戦>

この様な状況で、国家の国土と主権のために自衛戦争を戦うウクライナの方々に、逃げろ、命を大事にしろ、今負けても長い目で勝つ道がある、プーチンは高齢のため数年我慢すればよい、等との発言が発信され、炎上している。当たり前だろう、当事者を愚弄する無責任発言にしか聞こえないからだ。

「降伏しろ」など一言も言っていない、と主張するネット民も大勢いる。確かに、その単語は殆ど使われていない。しかし、同義の発言は数々あり、論旨としてはその様に受け取られても仕方がない。ウクライナ人に命を優先して降伏せよと迫っている様に感じ取られ、憤怒され、炎上しているのは事実である。意図が違うというなら謝罪して弁明するのが当然だろうが、言い換えてはいるもののウクライナの方に寄り添う様な発言は現時点で聞こえてこない。

NATOの責任で交渉しろとの論点をずらしも多く見受けられる。

ウクライナはNATOには加盟できていない。同盟国も無い。その状況でNATOが交渉の前面に立つことがどれ程難しいか理解すべきだ。むしろ、今現在のウクライナの頑張りと情報戦が、国際社会の理解を得て、通常では考えられない武器供与や強力な経済制裁、国連でも緊急特別総会での非難決議など、ほぼ国際社会が連帯してロシア批判に踏み切らせている。この事実は実は大きいのだ。ウクライナが戦う姿勢を示さずに超えられる壁では決してないだろう。

中国の姿勢を云々する向もあるが、実はウクライナの頑張りが国際社会の連動を生み出した事実を垣間見る限り、自国の国益を考えた場合、取り得る手段としてロシアと同様の軍事侵攻は困難である事ぐらい馬鹿では無いので理解しているだろう。その上で、どの様に強かに立ち回るべきか、相当研究しているだろう。

その様な激動の国際情勢において、表面上、水面下共に活発な研究、論考、議論が聖域を排除して必要なのだ。それは、際秩序や人道などと綺麗ごとだけでなく、日本の国家としての存亡に関わる国益の観点でだ。

無責任なウクライナ撤退論は侵略者優位に働く結果に繋がる危険性を度外視できず、自国の国益も損ないかねない。もちろん、最優先されるのは当事国であるウクライナの国家としての意思を尊重するべきだが、その結果が我が国のこの先の判断にも影響するのも疑い様の無い事実である。国際ルールを無視してようと、非道であろうと、実効支配、征服した結果を覆すのは、話し合いで解決などと言うレベルではなく、無責任に他ならないからだ。

ウクライナのネオナチ化という批判もある。確かに大なり小なりその様な批判はあるかもしれない。それはそれで克服できていない部分があるなら、国際社会の批判の対象にはなるだろうが、それがロシアの軍事侵攻、一般市民を巻き込み、病院や市庁舎などの施設破壊、各施設への攻撃、占拠などの行為を正当化は絶対に出来ない。必要であればロシア自身が国際社会に訴えかける努力が必用だったのだろうが、一方的な論理が酷すぎる。日本に対して慰安婦や徴用工、アイヌ先住民問題などを交渉カードにするべくプロパガンダを繰り返すのと同様に見えて仕方が無いのだ。

未だに戦争ではなく、攻撃もしてない、ウクライナで核開発や生物化学兵器開発、コロナまで生み出したとまで言うロシアの情報を鵜呑みにして一方的に信用できるはずがない。

<交渉とは>

ここまでの状況は、例えロシアが前面侵攻に成功し、一部の地域を占拠し、傀儡政権を樹立できたとしても、既に国際社会を敵に回し、経済的には致命的な打撃を受け、国内の情報統制が崩れた時に国家存亡の危機状態にまで陥るだろうと見るのが妥当であろう。

つまり、ロシアにとって戦闘に勝って、戦争に負け、国益を失う状況なのだ。

国家間の話し合い、外交は交渉である。交渉とは、社会人なら当然の常識レベルで学ぶだろうハーバード流交渉術によると、WinWinを目指すのが前提である。つまり相手の利益も考えた上で、当方の利益も獲得する両立を目指すのである。

もちろん、国益は相互にWin-Winとなるとは限らず、Win-Loseの場合もあり得る。それは、スタート地点の国力、パワーバランスの崩れがその様な結果を招いているのだ。パワーバランスが崩れるから、そのバランスを適正化する為にWin-Loseとなってしまう。

このパワーバランスを崩す最大の状況は実効支配である事は、日本人であり、歴史を少しは勉強しているなら、理解しているはずであろう。

そして交渉に第三者を巻き込むには、当事者の本気が前提であり、第三者に相応の利益、つまりWin-Win-Winを成立させる必要がある。ウクライナの頑張りで第三者を巻き込む大義名分が生まれ始めている。もう少しだ。ロシアの窮状を生み出せたのは、大きな交渉カードになるのだ。

但し、物事は詰めが肝心である。無責任で当事者を愚弄する様な情報は逆行する力を増しかねず、その認識が拡散してしまうと、非道を正当化してしまう最悪の事態すら生まれかねない。そうなることで自国の活動が抑制されず、最大の利益を得る国家はどこか、考えれば自明なのだ。

ウクライナ情勢における日本の為すべきこと

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まった。G7を中心とする国際社会は批難表明し経済制裁を発動しているが、国連安保理は当事国が常任理事国であるため機能はしない。

ウクライナ自身は現時点でNATOには加盟しておらず集団的安全保障体制が弱く、ソ連時代に配備されていた核武装も放棄している状態であり、現実的な抑止力に乏しく、米軍なども軍事的な対抗手段が取り難い状態である。

この侵攻は日本にとって決して対岸の火事ではない。しかも周辺国の意思が見え隠れする様々な情報が飛び交っており、日本として何を為すべきか、どう考えるべきか、口先だけではなく本当の意味で“しっかり”考えた具体的行動が求められている。

<中国の動向>

周辺各国の情報としてまず、中国を見てみる。中国は、一見ロシア擁護の発信と勘違いしている向もあるが、実際は、米露含めた自制を呼びかけている。侵攻とは呼ばないと擁護しつつ、決して肯定はしていないからだ。つまりどちらかを擁護する訳では無く、正面からの回答を避け、自制を求める発言に現時点では終始している。

この理由を深読みすると、中国の抱える国際問題、新疆ウイグル地区や台湾などへの波及を避けたいのではないだろうかと読めてくる。

ロシアはウクライナ東部の分離派地域の独立を承認し「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」と称した。そしてウクライナが西側に植民地化されているとして、人民の安全の為、平和維持を目的に軍事侵攻を始めた。

中国の立場でこの理屈を表裏両面から冷静に見てみたい。例えば台湾に自分達が軍事侵攻する理屈と出来る考えも聞こえてくるが、台湾なり新疆ウイグルなりに侵攻するのにその様な論理武装は余り必要ではなく、従来の主張である自国であるとの論理で粛々と進めることに躊躇は無いだろう。この理屈を使うとしたら、沖縄に侵攻する言い訳だろうか。しかし、沖縄侵攻はリスクとして考える必要はあっても、ウクライナとの決定的な違いは米軍基地の存在である。全面抗争前提は相当困難であり、だからこそ基地反対活動に精力的なのだから。

それよりも逆に考えてみよう。もし西側諸国が、ロシアと同じ論理で台湾の独立を承認し、国連加盟を承認、軍事同盟を結んだとして平和維持の為に米軍を駐留させると宣言したらどうなるか。ロシアの論理を容認するなら、寧ろ、この台湾独立の論理の方が実現性は高くないだろうか。中国の煮え切らない、双方自制を求める姿勢は、このリスクを恐れての事ではないだろうか。

インドは今までのロシア寄りの姿勢を一変させ、ロシアに対する批判を強めている。まだ既存の関係式を壊す様な制裁には後ろ向きの姿勢だが、太平洋の安全保障連携国として、インドを明確に西側に引き込む絶好のチャンスではないだろうか。

一方で、韓国はロシア寄りの姿勢を保ち続けていたが、ようやく経済制裁に賛同と発表した。これは相当な米国からの圧力で追い込まれた結果だろうが、それでも賛同までであり、自国の具体的な対応に関しては明確でない。つまり、圧力をかけないと、いつ裏切るかもしれない、状況に応じてどう出るか分からない、信用に値しない国家との認識を強めるべきだろう。

<日本の採るべき道>

国際社会は決してユートピアやお花畑ではない。各国、自国の利益を最大化する為に、あの手この手、諜報活動も、サイレントインベージョンと呼ばれる施策も当然のごとく実行されている。自国を守る為、自国の利益を最大化する為に。綺麗ごとでは語れない。

日本がロシアと対峙しているのは、北方領土だけではない。ロシアではアイヌ民族はロシア人だと吹聴もしている様だ。つまり、北海道への侵攻も視野に、そうすることで北方領土、千島列島、樺太などの実効支配を確固たるものにしている。

韓国は全く理屈の通らない強弁で竹島を実効支配し譲らない。瀬取りの発覚を恐れたと一部で言われるレーダー照射問題や反日歴史認識による国際法無視など目に余り、理屈で語れないなら力で語る以外に建設的な打開策はないとすら思える状態だ。

この様な国際環境において、日本が国民の命と財産、国土を守る為に、為すべきことは沢山ある。

まずは、軍事的抑止力の強化。敵基地攻撃能力の議論に言葉遊びで無駄な時間を使っている暇はない。ウクライナに侵攻しても米軍含めた軍事的反撃が無いと見做され、ロシアの侵攻が始まっている。侵攻までにロシアはジャブを打って、観測気球を上げ、大丈夫と確信しての侵攻だろう。逆に言うと、侵攻すれば反撃を受けると思わせれば、一定の抑止効果になる。

抑止力は、その実効能力と行使する意思を持っている事が必要不可欠である。

実効能力としては、軍事費拡大は当然だが、原子力潜水艦配備など具体的に動く必要がある。意思としては、国会で敵基地攻撃能力に反対する勢力が存在する事自体他国から見たら大きなマイナスだろうし、憲法改正や緊急事態法制、スパイ防止法など当たり前のことを当たり前に進める国である事を内外に示すことが肝要だろう。

有事になってから有事対応を議論するのはポピュリズムを生む危険が指摘されるが、日本の場合、今の有事でない限り、真面な議論すらできない、軍事忌避マインドがポピュリズムとなっていて、縛られ続けて来たのではないだろうか。今こそ、対岸の火事ではなく、自国の事として、現実から目を逸らさず、正面から議論するべきだろう。

そして、意思を示す方法として、やはり軍事演習を行う事だろう。台湾海峡、沖縄、尖閣、竹島、千島列島、樺太などを具体的な対象として。

更にエネルギー政策も実は安全保障の最重要課題として舵を切るべきだろう。まずは、米国のシェールガス採掘拡大を促し、ロシアのエネルギー政策に打撃を与える事は重要な制裁にもなるし、西側諸国のエネルギー安全保障の下支えになる。そして、日本としては、原子力発電所の再稼働に大きく舵を切り、石炭などの石化燃料活用の拡大も目指すべきだろう。環境問題に関しても、世界に誇る省エネ・脱炭素技術は他国と比して環境にも優しい。化石と馬鹿にするのは技術の進歩を理解していない非科学的活動家か、意図的な利益誘導でしかないので、惑わされてはならない。

経済制裁は大した効果は無いだろう。経済制裁が致命的な影響力を持つのなら、北朝鮮はとうの昔に核やミサイル開発は断念しているだろう。そうならないのは、経済は取り戻せても、国土や国体を取り戻すのは簡単では無いからだ。

しかし、それでも経済制裁は必要不可欠であり、西側諸国の足並みを揃える意味合いもある。バイデン大統領は通貨取引規制にドル、ユーロ、ポンドに加えて円も入れた。しかし、日本の制裁内容に円取引の停止が含まれていない。これでは、韓国と同じ扱いにされてしまい、ブーメランが自国の喉に突き刺さりかねない。こういうところでも意思を即刻、明確に示す必要があるだろう。

お気楽に経済協力を言う外相は即刻更迭し、北方領土での経済協力も見直したいと宣言した髭の佐藤正久自民党外交部会長を前面に押し出す時かもしれない。

北京五輪が諸問題を露呈して終焉、されど五輪の価値はいまだ高い

ジェノサイド五輪と呼ばれ、ナチスドイツと並び称され批判され続けた(日本国内ではなぜか東京五輪程大きな批判は無かったが)五輪が閉幕した。

問題視された事項を簡潔に列記するだけでも数多くの問題が露見している。ジェノサイドが指摘されるウイグル問題、開会式では聖火最終ランナーとなりながらその後の取材が行えていない様だ。テニスの彭帥(ほうすい)選手に纏わる疑惑も有耶無耶のまま。

選手や関係者の情報の安全問題も永遠に闇の中だろう。セキュリティ問題とは、表面化しないからこそ問題が深刻化する。

持続可能性を社会命題とするのは、最早世界共通であるが、北京五輪、開催国に対して指摘されたのが、まさに持続可能性に関わる問題であり、政治的ボイコットなどあったが、その温度差もあり、決して一枚岩で向き合えた状況ではなく、解決にも向かっていない。

いざ競技が始まると、スケートショートトラックに関わる疑惑の判定、スキージャンプ混合団体時のスーツ規定測定方法の事前通知も無い変更による大量5選手の失格を生み出した問題。女子フィギアスケートにおけるロシア選手のドーピング問題は、未だドーピングが減少しないロシアの競技環境の犠牲に見える選手の人権問題、公平な競技環境を構築出来ていない事象だが、出場年齢制限の検討など本質からずれた案まで飛び出す混乱となった。

歴史的評価は後年為されるだろうが、大きな問題を抱えながら開催された北京五輪であったことは間違いないだろう。

<選手は自身の活動の場を自己都合で選択は出来ない>

しかし、決して間違えてはならないのは、選手には何ら罪はなく(ドーピング違反者は別)、純粋に自らの活動の場が北京であっただけなのだ。もちろん、ボイコットや中止などの決定があればそれに従うのも基本だが、競技自体は普通に開催され、参加するという大多数の決定に従うのが選手個々の立場では筋であるからだ。

五輪への反対意見は根強くある。人権派と呼ばれる人達を中心に喧伝され、一部メディアが陰謀論も含めて煽り、意味も深い理由も理解しない大衆が迎合する構造は、東京五輪の際に顕在化した。

五輪精神が崩壊している、金まみれで一部の既得権益者により私物化、個別競技の世界大会が開催されている現在に五輪の意義は無くなった等だろう。しかし、どれもこれも、本来の主人公である選手、競技者目線はなく、人権派と言いながら、個々の選手の人権など無視するだけでなく、貶める行為である欺瞞に溢れる活動であり、それこそ、自分達の思想信条の押し付け、自己利益誘導のエゴとしか思えない意見が多い。

確かに、現在の五輪に様々な課題がある事は疑い様がない事実であろう。しかし冷静に考えて欲しい、その理由でアスリートの活躍の場、夢の舞台を奪って良い訳では無い事ぐらい理解を示すべきであろう。建設的な対案のある反対論なら良いが、今の反対派にその様な姿勢は感じられず、単に既得権益者、権力者に対する攻撃、活動でしかなく、その被害を一番受けるのがアスリート達である構造を無視している。

<スポーツビジネスの経済性>

スポーツは普及することで底辺の競技人口が増大し、結果として全体の競技レベルが上がり、トップアスリートが育成される。トップアスリートは、自らの競技を通じて多くの人に感動と夢を与え、更に普及が深耕して、引退後の雇用も想像する経済効果が生まれる。

スポーツがコンテンツとしての価値を高め、経済的にも自立しビジネス化していく構造が成立する歴史はそれ程古くない。ほんの少し前ならば、ジュニア世代の選手達は、一部の競技とその更に一部の選手以外は、大人になって競技を離れていた。競技を継続しても趣味の範囲でしかなかった。

ところが最近は、社会人になってからも企業の支援を受け、企業に所属する形なども含めた競技継続者が増加し、プロ化などの道が存在する事もあって、学生時代のスポーツ推薦なども枠が昔に比べれば大きく増え、競技専従者に対する教育環境の選択肢も増えてきている。つまり、職業としてのスポーツという枠が増大しているのだ。

それでも、その世界で夢を適え、花開くのはほんの一部でしかない。その大多数を支える雇用環境の為には、マイナー競技も含めた正の経済発展がなければ成立しようがない。つまり、コンテンツとして、ビジネスとして育てる必要があるのだ。

スポーツ嫌いな人も存在するだろう。でも、芸術や芸能、音楽等にも好き嫌いがある。自分が嫌いでも、否定する理由にはならない。数ある企画、興行の一つであり、その幅を広げる事に異を唱えられる人はいないだろう。

その象徴的なシンボルとして五輪が存在する。この構造を否定できる人はいない。五輪に反対するならそれに代わる対案が必要だが、個別競技の世界選手権ではそれは賄えない。従って、未だ五輪は問題を抱えながらも価値は現存するのであり、事実を認める事から入らないと、身勝手な破壊論にしかならない。

<日本のスポーツビジネス環境の先行き>

日本のスポーツビジネスは今現在、実は曲がり角に差し掛かっている。

余り知られていないかもしれないが、ワールドカップサッカーの最終予選、日本のアウェー戦は地上波での放送が出来ていない。それどころか、カタール本大会すら放送権の獲得が危なかった。米大リーグの「毎日大谷さーん」のBSでの放送も危なっかしい。

コンテンツの放映権が高額化していっているのだ。しかし、単なる高額化ではなく、ワールドワイド市場の経済成長に対して、日本のデフレ環境における経済成長レスによる格差が、日本から見たコンテンツ高騰化に見える構造なのだ。

五輪を金まみれと言うが、世界的にスポーツコンテンツは価値が高まり、高騰化しているのだ。それは、不当な値上げと言う訳では無く、経済論理に沿った価格上昇であり、経済成長できない日本が立ち遅れている構造でしかなく、このままでは再びスポーツ劣等国家への道まっしぐらと言っても過言ではない。

今、抱える課題は、更なる普及によるコンテンツの魅力化、日本国内の企画価値向上を目指したビジネス拡大無ければ、衰退する以外に無いのだ。豊かな精神、健全な肉体を養い、経済的にも成立するビジネス構造を育成して、初めて日本国民も夢と感動を享受できる事を忘れてはならない。

高梨沙羅選手失格に揺れたスキージャンプ混合団体の疑惑

北京五輪、スキージャンプ種目に男女混合での団体種目が生まれ、日本勢にメダルの期待が高まっていた。

しかし、1本目高梨沙羅選手の大ジャンプ103.0m、124.5点がスーツ規定違反となりDSQ(disqualified)失格、得点が無効となった。1本目の10チーム中上位8チームが2本目に進めるルールの為、2本目進出が危ぶまれたが、残り3選手の頑張りと、他チームでも同様の失格者が発生したので、ギリギリの8位で2本目に進んだ。

2本目はその様な状況で、重大なプレッシャーを背負った高梨沙羅選手も涙ながらの大ジャンプ、佐藤幸椰選手、伊藤有希選手、小林陵侑選手もチームとして支える大ジャンプを揃え、メダルまであと一歩の4位に食い込んだ。

このチームとしての競技継続力、奮起を支えたメンタリティーは、なかなか一般には理解され難いかもしれないが、トップアスリートならではのものだろう。人間だから少なからず、『なんでやねん』というマイナスのメンタリティーも発生するだろうが、アスリート気質と言うものは、自分のできる事は徹底的に自分が責任を背負って最後まで執着するが、自分の力の及ばない範疇に関しては、存外無頓着と言っても良い程、仕方が無いと受け入れるのである。

野球のイチロー選手が打席に入るまでに出来る事は徹底するが、結果は気にしない、気にしても仕方がないと発言したのもこれに通じるのだ。

そして、このチームは佐藤幸椰選手が「怪我が無くて良かった」と声をかけ、伊藤有希選手や小林陵侑選手がハグをした様に責任を感じている高梨沙羅選手を支える姿は感動も呼んだ。

何より、誰よりも一番傷ついているのは、失格された当人である高梨選手であり、彼女の責任ではなく、その状態でも最後まで戦った彼女を称えるべきであろう。

<再発防止のために>

この事態に対して一部で「ルールだから仕方がない」「他の競技でも厳しいルールの下、行われているから仕方がない」という主旨の発言も多数見受けられるが、確かに正論なのだが、しかし問いたいのは、ルールは公平であって始めて意味があるという事だ。

この規定は女子の場合、身体の各部位から2~4cm以内の余裕しか許されていないのだが、事前確認と事後の抜打ち確認があるとされている。実際、ゆとりがある方が浮力を生み有利なため、各チームルールギリギリで対応しており、この規定違反自体は高梨選手自身、昨年も経験している様で、さほど珍しくないとも言われるが、同一日の同種目、女子だけから20名中5名も発生しているのが異常なのである。

しかも、この五輪のジャンプ競技に限ってもこの様な高確率での違反は他種目で発生しておらず、異常としか形容のしようがない。

事後検査の必要性を指摘する向もある。競技後に失格ではなく、競技前に確認して是正させて公平な環境を作り出して競技をするという主旨だ。アスリートの対場からいうとこれが正論である。

但し、反論もある様だ。検査合格後に伸縮性のある素材を伸ばして余裕を生ませる不正があるから事後でないと意味が無いというのだ。

この反論を聞いて違和感を感じたのは、伸縮する素材を前提にするならば、身体との余裕をどうやって測定するのかまで定義しないとルールとしては不備だという事である。測り方に恣意性が入る余地があれば、到底公平と言えないだろう。

通常この様な国際大会では、レギュレーションチェックを受けた後の選手は隔離環境にあり道具を使った不正は困難で、出来るとしても自力で密かに引き延ばす程度だろうか。到底、均等に引き延ばすなどは出来ないだろうから、万が一あったとしても事前事後のシルエットチェック程度で済む話だろう。あくまで、検査後の不正を検出する目的ならば。

選手に公平な環境で競技をしてもらう前提ならば、事前の検査を予め定めた測定方法に従い測定し確認する。事後は、あくまで事後の不正検出で良いだろう。

更にもうひとつの問題は、抜き取り検査の頻度などのルールである。これも恣意性が働くと公平性を欠く。

今回の失格者続出を異常事態として、失格を受けた各国は連盟に提訴してでも、今回のジャンプ競技全体と比較して「検査方法」「抜き取り頻度」がどうだったのか実態を明らかにし、他のジャンプ種目と大きく異なる違反者数が発生した原因を論理的に説明する事で、再発防止に向かう必要があるだろう。

公平なルールの下の競技である大原則のために。