理系と文系の特性相違点

 私自身は理科系学問(理学部物理学科にて)を学び卒業し、就職後も技術開発などの業務を中心に従事し、企画販促や管理系、経営にも携わってきた。理系の中では幅広い分野に従事したが、その根底にある軸足、判断基準は理系脳による論理思考であったと思っている。

 ビジネスの世界で、理系と文系でどちらが優位なのか、判定は出来ないだろうし、答えはないかもしれないが、私の持論として、理系的論理思考力を持ちつつ、文系的幅広い視野での柔軟な思考展開が出来ることが理想的であり、そのバランスが勝負のキーポイントであると考えている。
 昔、データベース・マーケティング論をビジネスで語りあった時の1例を上げる。データの分析やその仕組みであるシステム思考など、構造的かつシステマチックに理解していなければ、マーケティング分析やCRM提案は出来ない。基礎となるシステムや技術面のバックボーンなく語るのは、いい加減な絵に描いた餅、机上の空論でしかないと論破していた。ちなみに、世の中のこの手の企画提案には、実にきれいに表現した夢の世界の絵に描いた餅の詐欺紛いのものが多いのも実態である。
 一方で、仕組みや論理、技術面に終始すると、その先の可能性や運用面の人の感性などが抜け落ちてしまい、面白くもなんともない、単に難しいだけの企画提案になってしまいがちである。これでは、正しいかもしれないが、実際の利活用には程遠く、夢もない状態に陥ってしまいビジネスでは通用しなくなる。
 実世界、実運用上は、理系、文系のバランスが取れる必要があるのだ。

 では、バランスと言ってもどちらを優位にするべきなのか。論争として、理系センスを持った文系と文系センスを持った理系とどちらが最終的に勝つのか。この論争に答えはない。しかし、実社会では双方のバランスが必要だということに異論はないだろう。しかし、現実社会は、どちらかというと文系脳に偏っている方が優位になる様に感じざるを得ないのは私だけだろうか。もう一つ、現実社会では、理系、文系の分類とは別に、軸としては直交する全く異なる軸として、体育系と芸術系が存在するが、複雑になる為今回はこの軸は除外して考える前提で、どうしても理系だけ偏った印象があるのは事実ではないだろうか。

 理科系学問の性格として、白黒はっきりしている事が上げられる。数学の計算結果に曖昧さはない。物理の法則も真しかなく、化学も再現性が要求される。もちろん、人類が知り得るのは、砂漠の一粒の砂に過ぎないのが自然科学の世界の真ではあるが、その一粒の真理を究明するものだ。解のない場合は、現時点で解がないとはっきりさせ、解を求めていく。万人に共通する解を。
 文科系学問の性格として、人それぞれの思想や考え方によって解は異なってくる。それぞれの見解として。法が絶対的なものと言いつつ、法律で明文化していながら、解釈が人によって異なってくる。歴史も学説として主流派はあっても、異説も異論も多々あるし、それぞれに正誤関係はない。新説に対して反証を繰り返し洗練されていく。しかし、どこまで行っても絶対真理には行きつかない。
 政治や経営の分野は、不確実な未来に対して、確実な答えを持たずに、今の手を打っていく。一長一短ある様々な方法論の中で、総合的に判断して決断するのだ。そこには政治、経営のポリシーが必要だろう。人間である限り、判断に迷う事もあるだろうが、その場合も基準となる根本的な基盤思想を持って判断される。しかし、判断のためにインプットされる情報が偏っていて全体像が俯瞰できなかったり、客観的な状況が見えていないと判断を誤ることもしばしばある。
 だからこそ、政治や経営の責任者は、多くの情報を多面的かつ総合的にインプットしたいと考えるのである。政治で言えば、専門家会議や話題の学術会議、経営であれば事業戦略部門やコンサル、シンクタンクだろう。
 では、この求める情報を提供してもらうためには、理系が良いか文系が良いかを考えて見よう。文系の性格上、答えには個人の思想信条、考えの偏りが必ず発生する。従って、決して客観的とは言えない。つまり、政治や経営に活かす情報としては、一人、一系統の文系系情報のインプットでは偏ってしまう事になり、判断を誤る原因になるのだ。確かに、政治家や経営者自身の思想信条、自分の考えに近しい系統から情報を得ると、自身の考えと一致しやすく、ある意味の心地よさが得られるだろうが、この様な場合の多くは裸の王様化してしまう危険性が高い。従って、文系的な情報をインプットとして活用する為には、真っ向対立する異論含めて多くの情報を多系統から求めなければ、総合的に判断することが出来ない。それが出来ないで偏ってしまうぐらいなら、初めから自身の思想信条、考えに則って他の情報を持たない方がむしろ良い。
 一方で、理系的情報を得るとどうなるのか。理系的性格上、正か誤か、その度合いを数値で表現するなど、情報としては明確になってくる。否定しようのない情報であふれるはずだ。しかしながら、現実に打つべき手が、その事に全面的に沿う必要があるかというと決してそうではない。何故なら、求めた情報の方向性においては真実であろうが、現実世界は多極面が存在する複雑化した社会である。実際に打つ手も、1か0かではなく、バランスが求められる。そのバランス感覚は政治家、経営者の手腕に委ねられるのだ。但し、絶対的事実の情報があれば、バランスが取れた判断に役立てられるのである。

 こうやって考えると、政治や経営で政策判断、経営判断の助けになる情報を取得する方法としては、基本的には理科系面の情報取得が必要不可欠だろう。やはり、客観的情報としては理系的な情報が望ましいと言わざるを得ない。少し、幅を広げても数学、統計的解析の経済まで広げても良いが、何が正か判然としない個々の思想が前面に出る法律系、政治系は情報としては偏ることを織り込む必要がある。人文科学的な情報は、アウトプットされる提言ではなく、その経緯の議事録、議論内容がなければ情報となりえないと言っても良い。一方向に考えをまとめ上げる事を求めているのではなく、両論を公平に聞きたいのであり、一方を封殺する様では採択できる訳がないのだ。
 例えば、原子力エネルギーの政策を検討する上での情報を取得する場合、理系的側面では、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーの夫々のエネルギー効率や温暖化ガス排出など多角的な影響面の科学的考察と開発のロードマップ、技術の可能性、安全面や想定リスクなどが情報として得られる。しかし、このことに関して文系的な情報を得ようとすると、イデオロギーを問う様な答えが、正解とは言い切れないにもかかわらず正解の振りをしてアウトプットされてしまう。こんな情報は百害あって一利なしなのだ。いや、言い過ぎたとすれば、住民感情や理解度、説明責任のレベル感などを推し量ることは出来るかもしれないが、事の是非を判断する情報では決してあり得ない。もちろん、最終的には民主主義的手段で決定していくのだろうが、その場合も政治家、経営者の信念で説得する以外になく、おもねる必要はないのだ。ダメだったら、政治家も経営者も進退を伺うだけなのだから。

 さてさて、そうこう考えると、今問題の学術会議はどうだろう。学術会議は政府の諮問機関であるのは誰も疑わないはずだ。しかし、3分の1が自然科学工学系、3分の1が医学薬学系、3分の1が社会科学法学政治学系であり、多くの発言は社会科学系、つまり文系の発信である。この3系統で言えば、母数となる研究者総数に対する比率で言えば、社会科学系は他の2桁下の数でありながら、会議体としては3分の1を占め、発信としては更に全体を牛耳っている印象が強い。これでは正当な判断の為の情報を得ることは出来ないと考えるのが通常だろう。それゆえ、政府は長い期間諮問をしていないのだ。
 この3分野を独立させ、数的にも適正数に配分し、もっと理系的な発信が前面に出る様な会議体にならなければ、政府諮問機関としては機能しないのだ。
 更に加えて言うと、政治家はプロである。そして行政の実行部隊である官僚もプロである。私には、人文科学系の学者がプロとして誇れるのは、自然科学系で言えば理学の分野であり、その実践に当たる工学の分野は、政治家や官僚の領域ではないのだろうか。であれば、人文科学系の学者に敢えて諮問する必要性は無く、あっても情報連携で充分。但し、政治家に絶対的比率で理系が少ないのが実態に見える状況では、自然科学、医学薬学系の学者、専門家への諮問は必要不可欠だろう。

 私は、理科系の人間なので特に強調したいのだが、もう少し理科系の人間を重用し、活躍の場が与えられる社会にならなければ、バランスの取れた判断による、本当の意味での発展にはつながりにくいと考えている。