偏向する専門家に騙されない、データと事実に基づくワクチン接種の判断

ワクチンは若年層も接種すべきか、という問いに対する発信で公平な論述が殆ど存在しない。接種推進派と反ワクチン派は夫々に自分の考えを絶対正義として他意見を科学無視の印象論、レッテル貼りで攻撃を繰り返す。

勿論、厚生労働省や首相官邸ページには客観的な情報やオープンデータも提示されているので、その情報から個人が判断する事は充分に可能だ。しかし、その判断を惑わすマスメディアの一方的な発信が全てをかき消し、上書きしているのが実態であろう。

テレビに出演する専門家も同様である。交差接種に関して、政府が検討に入ったが、8月30日のある番組では専門家が「安全性が充分に確認されておらず時期尚早」と批判して見せた。デジャビュ―に襲われる感覚だったが、ワクチン接種開始に関しても、日本の専門家や野党が慎重論を発し、ワクチンのリスクを煽り続けた結果、政府として慎重な治験実施を決断し開始時期が遅れたが、後日諸外国と比較して接種遅れを批判しているのは同一勢力である。

交差接種は既に各国で議論が進んでおり、これを否定するなら、ワクチン接種自体の否定にも繋がりかねない意味不明の慎重論に思える。特に筆者は予てからウイルスベクターのチンパンジーアデノウイルスを1回目と2回目で同じモノを使用(スプートニクⅤは変えている)している事にメカニズム上の疑問を持っていたので、1回目アストラゼネカ、2回目にmRNAのファイザーやモデルナという選択は合理的に感じている。(単なる素人の感想であり疑問だがこういう事を論じる専門家がテレビ番組にはいない?)

その様な状況で、専門家のいう事を素人が鵜呑みにするのは極めて危険に感じる。その専門家を信用できるか、思想的に偏ってないか、セカンドオピニオンではないが数多くの情報、多様論に触れなければ判断しようがない。

しかし、素人でも判断する方法はある。それは政府などの発信するデータを元に考える事だ。データは決して嘘をつかない。但し、解釈の誤謬性はあり得るが、バイアスのかかった解釈による誤謬性を見極める事さえ出来れば、データそのものは決して嘘をつかないのだ。

<ワクチン接種の判断情報>

以前もワクチン接種判断の情報として発信したが、その当時まだ接種自体が少なかったので、続報の形で論じたい。

まず、ワクチン接種の安全性に関して、逆に言うとデメリット、危険性に関して確認したい。

ワクチン接種後の死亡例に関して、8月末現在で厚労省のページに掲載されている事例は、900件以上存在する。その中でワクチン接種が原因と特定された事例は1件もなく、圧倒的に多いのが「情報不足等によりワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの」である。

この情報不足という表現が発生するのは、病理解剖もそうだが接種前の精密検査が無いので、ビフォーアフターの比較ができない事が大きい。考えてみれば分かるが、ワクチン接種前に精密検査を受けている事例なんてほんの僅かだろうからだ。

素人目に見ても、因果関係が無いと思われる事例も確かに含まれるが、逆にこれは何らか関係あるだろうと思われる事例も事実存在する。そして、数字には自然発生とは思えない不自然さが現れる事もある。接種後の死亡報告までの経過日数がそれにあたる。下グラフをご覧頂きたい。

接種後の経過日数が自然発生とはとても思えない分布を示しているのである。明らかに接種後1週間程度までに事例が集中しているのだ。64歳以下でも実数は少ないが傾向は同じである。

これをもって因果関係を立証は出来ないが、否定はできないという前提を持つべきなのだ。そして、高齢者接種実績との割合を考慮しても、明らかに64歳以下の報告事例は少ない事も特筆すべき事実である。

直感的に言うと、コロナ感染で死に至るのと同様、高齢者は副反応が強ければ体力的に耐えられないケーズも存在するという仮説も成立する。

従って、ワクチン接種によるリスクは確実にあると言っても良いだろうが、だからリスクが高いと言うのは短絡的過ぎる。100万人換算で言えば、全数直接起因だとしても、7.65人程度で、この時点で交通事故の死亡リスク23人程度と比較して3分の1でしかない。更に、全て直接起因ではない事は自明であろうから、更にリスクは低まる。最悪のリスクはその程度なのだ。

一方で接種のメリットは、感染によるリスクを低減させる事。

死亡率は、高齢者の60台で1.2%、70台で4.6%、80代以上で13.2%に至るが、これを95%防ぐ効果があるという事だろう。陽性率は実績で約0.1%だが、隠れ陽性含めて仮に5倍と想定し0.5%と設定すると、例えば80歳代以上なら100万人換算で約70人の死亡者が発生し、ワクチン接種でこの95%、66人程度の命が助かる計算だ。同様に70歳代では24人、60歳代で8人が助かるのだ。70歳代以上で、交通事故死以上のリスクからそれ以下に抑える効果があるのだ。

但し、50歳代、40歳代では交通事故死リスクのおよそ10分の1のリスクであり、30歳代以下では、ほぼ死亡リスクとしては算出範囲外なのだ。

数字で検討すると、高齢者はワクチン接種のメリットが上回り、交通事故死リスク以下のリスク低減が期待できる事は間違いない。体力的に無理がある、例えば看取りを決断せざるを得ない状況では接種は慎重に検討する必要があるかもしれないが、それ以外は基本接種推奨で疑い様がない。

しかし、30歳代以下の若年層ではどうだろう。接種の致命的なリスクは低い。感染による死亡リスクもほぼゼロ。数字上はそうなる。勿論、ワクチンの中長期的リスクは未知数だ。まさか5Gに繋がる等のガセ情報は別として、何らかのリスクは想定されるだろうが、交通事故リスクと比較して大きいと思うか否かが検討のポイントではないだろうか。

これらを表にまとめると以下の様になる

上表の数字は、想定比率の設定以外は現時点の事実である。しかし解釈は様々出来るだろうし、個々の事情に応じて判断は異なって然るべきだろう。個人の事情には社会活動を実行する上での制限や、職業上の事由、思想信条による事由、個人の健康状態による事由なども加味すれば良いが、それでも数字度外視では判断を誤りかねないだろう。

専門家に騙されるのも自己責任といえばその通りだが、出来れば自分自身で数字を見て、調べ、自分の頭で考える、それこそ自己責任であり、自由の原点なのだ。

今回題材として取り上げたのはワクチン接種の是非。筆者自身は積極推進派でもなければ、決して反ワクチンでもない。事実を示すデータ、情報を正確に読み取り、本当に是々非々の判断を不確定要素の部分も含め個々人が行うべきであり尊重されるべきと考えている。

ついに医療体制に対して強制力発動

いよいよ医療機関、医療資源に対しての政府、自治体の協力要請が始まった。遅すぎるという批判はあれども、必要で有効な策が打てる様になってきたと素直に歓迎すべきなのだ。

さざ波状態の日本の感染状況で医療逼迫が起こるという、当初からの課題でありながら、本質的な対策が打てず、国民の我慢を強いる緊急事態宣言を何度も発出するしかなかった。医療崩壊を検知する重要指標の一つである病床使用率は、分母が確保病床数、分子が入院者数なので、当たり前の対策として分子を減らす策と、分母を増やす策の両輪で検討される筈が、分子減少対策の一本足打法に終始する異常状態であった。

ようやく東京都と国が連名する形で医療体制強化策を打とうとしている。それなのに「ラクダと老夫婦」の例えの様に、批判する声は止まない。その声をざっとまとめると

・医療従事者は大変な状況なのにプラスの要請は破綻に追い込むだけ

・同様、折角頑張ってもらっているのに、公表までするのは如何なものか

・結局他の診療に犠牲を強いる事で国民の命は守られない

・政府の強権的なやり方は許せない

見事な誤認識の数々なのだが、一つ一つ確認していきたい。

まず協力要請をするのは、これまでコロナ対応の協力を拒んできた医療機関、関係者に対するものであり、現在コロナ対応に従事して頂いている方々に対するものではない。つまり、ここまで大変な思いをして支えて頂いていた医療関係者の負荷を、少しでも減少させる策、頑張っている方々を支える策なのである。

日本のコロナ対応は、これまで全病床の僅か数%の資源投入でしかなく、諸外国と比較して明らかに劣後していた。今まで何かと言い訳先行で協力が得られなかった、これは抵抗勢力と言っても過言ではない状態なのだ。国民の命と生活を守るためにようやく、ここにメスを入れ始めたのだ。

他の診療への支障だが、全体から言えば、所詮ほんの僅かの支援に過ぎない。何故なら年間1000万人罹患し1万人規模の死者が発生していたインフルエンザの医療体制があるはずなのだ。今まで新型コロナを2類相当に定めていた為に使えなかった医療資源を使えばいいだけなのだ。

それでも慎重を期して、専用病院などの箱モノを用意した方が効率的かもしれない。酸素ステーション等の箱モノも自宅療養者が本来入院まで必要がない状態で、精神不安定による不安感により、救急要請が発生している事に対するバッファ、不安の解消に効果はあるだろう。

実際に東京都議が発信しているが、都立病院のコロナ病床を増床し、近隣の医療関係者による体制を構築するとの事。NPO法人「日本ECMOネット」も全国の医師とネットワークを構築し死亡率の低さを維持するべく支えていくと協力に応じている。

昨年の大阪の専門病院に医療重視者の協力が充分に得られず、自衛隊派遣しなければならなくなった様な事態、直近での要請も全く受け入れてもらえなかった様な事態だけは避けなければならない。

そして、最後に強権的な政府のやり方に対する批判だが、一方で私権制限、強制力を伴うロックダウンの待望論、期待する声が高まっている事と矛盾、全く意味不明だ。国民生活の強制的な規制の前に、医療体制の強制的な構築の方が優先されるべきである。また、諸外国のロックダウンの効果が限定的であった事実も無視できない。この状態で、医療には強制を許さず、一般国民には強制すべきとは、支離滅裂すぎて意味不明なのだ。

<現状の新型コロナの実態>

ようやく東京都の新規陽性者の増加トレンドが変わってきた。これまでの傾向通り、感染ピークの度に、ピーク値は高まり、一定期間で自然にピークアウトする。少々特徴的なのは、予想をはるかに上回る陽性者数が検出されている事と、陽性検出者の内ワクチン接種者と未接種者の割合は1:10である事だ。

陽性者数の多さの検討は後に譲るとして、ワクチン接種の効果が陽性検出にも明らかに表れている。ワクチン接種なければ今よりも倍近くの陽性者が検出されていた可能性が高いという計算になる。更に、陽性率からの推定で、本来の陽性者数は現状ピークの4倍程度と考える事も可能なのだ。

ここまで増えると市中感染、ウイルス蔓延で、ほぼウイルス常在環境にあり、曝露は相当な確率で起こり得ると言っても過言では無い。

風邪やインフルエンザでも経験があるだろう。ウイルス暴露状態にあったから全員が感染する訳では無い。特に風邪は、感染したという意識よりも不摂生等の原因の方が感覚的には強いだろう。つまり、ウイルス暴露状態において、人間の初期免疫が負けた時に感染して発症するのであり、人間は風邪のひき始めを実感し、その時に徹底ケアをすれば概ね発症を防げるのだ。新型コロナでも同様ではないのか。

デルタ株の論文には、症状が従来と異なり、鼻風邪症状に似ているとの報告が為されている。コロナと思わない軽い症状が多数になるとどういう事が発生するか常識的に考えてみよう。今まで以上に初期症状状態、軽症者による市中のウイルス拡散が広まるのは自明だろう。感染力の強化を否定する訳では無いが、軽症状者による感染拡大と考えるのも今の陽性者数の多さを説明する妥当性があるのだ。

もう一つの傾向は、陽性者数と重症者数がほぼ同時に増減している。今まで、陽性検出から時間差をおいての重症者発生なのだが少し様子が異なる。重症化率は大幅減だが、陽性者数が大幅増なので絶対数としては増えており、重症病床使用率は東京都で70%近い状態だ。しかし、確保病床補償金詐欺でも無ければ満床では決してなく、重症者数が増えても死者数は増えない、陽性者数比で0.2%と諸外国と比べて今まで以上にさざ波なのだ。

これは、重症化しても死に至り難い傾向であり、これまでの重症者と少々状況が異なる。結局、初期医療が受けられる体制と不幸にも入院が必要な程の悪化をしてしまった場合の治療の医療資源拡充が為される事が、対策の全てと言っていいだろうから、今回の政策は大きな前進なのだ。

<自己防衛方法>

この状態でPCR検査をすれば陽性率は上がるのは当たり前だろう。常在しているのだから当然なのだ。それだけ、ウイルスは蔓延し、ほぼ常在化、誰でもウイルス暴露環境に居ると言っても過言ではなく、風邪と同様にコロナも普通に感染しうる状態なのだ。

その環境下で個々人が心がけるのは、今まで以上の「手洗いうがい励行」と「体調管理」であり「症状のある時は活動自粛」で、「風邪をひくな、うつすな」に尽きるのだ。

その上で発症してしまった場合も、必要以上に不安にならず、診察を受け、指示に従って療養する事だ。不安は身体に悪いのは間違いないのだから。

インフルエンザでかかりつけ医の診察、投薬を受け、家で寝ている際に高熱で苦しんでいても、不安に苛まれることはそれ程ないだろう。それは、インフルエンザと分かっていて、数日で収まると確信しているからだ。

コロナの場合、同じ症状でも不安に陥るだろう。報道から流れる情報は、最悪の事態ばかりだからだ。現実には、最悪の事態はほんの一部であり、レアケースである事を認識しておけば良いのだが、最悪のケースを標準の様に思わされていると、入院など必要のない状態でも入院を嘱望する様な不安を抱かされる事だろう。結果、メンタル面の影響での症状悪化だけでなく、医療逼迫に繋がってしまうのだ。

従って、正しい情報を正しく判断する事が自己防衛には必要不可欠なのだ。

総務省発表の「令和3年情報通信白書 コロナ禍における情報流通」によると、新型コロナに関して偽情報を入手した先として、ダントツ1位が「テレビ」で58.2%にも及ぶのだ。2位が「ニュース配信」の27.2%、3位は「SNS」の23.2%だが、その次の4位に「新聞」が19.4%と続くのだ。要は、ネット配信も含めたマスメディア発信情報にフェイクニュースが多いので、情報リテラシーを高め、騙されず、自分で調べ自分で考える能力育成が、不必要な不安を抱かず、正しく恐れ、自分自身を守る事に繋がるのだ。

ワクチン接種証明書無くとも経済活動再開は可能

新型コロナ分科会の尾身会長が「接種証明 議論の時期迫る」と以下の様に発信した。

・9月の末、10月中頃には希望者へのワクチン接種が完了する

・ワクチン接種が国民の7割になっても感染が下火になる事は絶対にない

・ワクチン接種や陰性証明書できた人の経済活動再開

まず、ワクチン接種完了はその通りだろう、今でもおよそ1日100万回のぺースの基本的な接種と、そこに職域接種の上積みが継続実施されている。マスコミや一部の自治体の言う、ワクチンが止まっている、という事はマクロ視点では一切発生していない。

8月18日時点で2回接種完了が49百万人38.8%、1回接種が64百万人50.3%、つまり2回目待ちが15百万人と言う計算だ。この後、仮に1日100万回とすると、10月中旬まで60日間で6000万回接種可能なので、単純に1回目2回目均等とすると2回目接種79百万人62.2%、1回目94百万人74.0%となる。これでほぼ希望者は完了でしょう。

ワクチンの作用は体内にウイルスが侵入した後の抗体反応であるならば、感染後のウイルス増殖反応を抑制する効果なので、メカニズム的には感染が下火になる事はない。その通りなのだ。

感染後の発症を抑え、重症化予防になる事は間違いないが、PCR検査では陽性検出され、マスコミ報道の新規感染者数に数えられるのだから、下火にならないのは自明だ。

但し、発症を抑えるという事は、他人に感染させるウイルス量以下に抑え、実行再生産数としては減少させる効果もあり、結果としての感染縮小、正確に言うと陽性検出数縮小になる事は予想される。

しかしよく考えて欲しい、インフルエンザも例年1000万人規模の感染者が報告されていた。それはPCR検査ではなく、発症した人が診察を受け、抗原検査の結果なのだ。もし、コロナと同様のPCR検査をしていたら、その何倍の陽性者が検出されるだろうか、計り知れない。夏季でもひょっとすると大流行があったかもしれないのだ。

以上の様に考えると、尾身さんの話はここまでは同意できる範囲だろう。しかし、次のワクチン接種や陰性証明書の出来た人の経済活動再開には真っ向異論がある。

<ワクチン接種証明書の目的は>

科学的に言うと、ワクチン接種しての効果は抗体生成量に依存するのであり、個人差がある。ワクチン接種は、YorNのデジタル判定だが、抗体生成量はアナログ値であり経時変化もある。だから、本来YorNで判定してはならないのだ。

従って、個々人のワクチン接種有無で経済活動への参加承認とするのは非科学的で非論理的なのだ。諸外国がワクチン証明やPCR陰性証明などを求めるは、宗教的文化的背景を考慮すれば、判断基準に曖昧さは許されず、白黒判定を求めるからだと理解すべきだ。しかし、日本は全く異なるはずだ。国際交流に必要だというのは分かるが、国内の施策に転用する意味が不明なのだ。

民間事業者が顧客を選別する事は営業の自由だ。従って、「喫煙者の来店お断り」「ドレスコードを守らない方の入店拒否」等は一般的にも行われており、差別ではない。それと同様に「ワクチン接種者のみ入店可能」とする考え方を主張する人もいる。それは自由だろうが、何の意味があるのか首を傾げるだけなのだ。

喫煙やドレスコードは顧客サービスの一環としての環境保全となるが、ワクチン接種有無は果たして感染リスク低減の環境保全になるのか。前述の様に、感染は抑えられないのだから意味が無いのだ。

この辺りの簡単な論理を取り違えるのは、自分が感染するリスクと他人に感染させるリスクを混同してしまう事、社会的規制と民間のサービス制限と混同してしまう事が原因だろう。はっきりと分けて考えないとリスク対応等語れないのだ。

間違って欲しくないのは、筆者の主張は、ワクチン接種証明など無くとも、普通に経済活動を再開させるべきだと考えている。それが出来るだけの効果がワクチン接種にある事は、重症化率や死者数のデータから明らかになっているのだからである。社会としての安全性は確保されるのであり、安心の為だけに非論理的にワクチン証明を求めるのは弊害が無視できなくなるのだ。

<他との比較でないと実態は見えない>

新型コロナに関して、他の病気と比較して語られるべきである。これまでは正体不明だったかもしれない。しかし、今やほぼ正体は見えており、臨床実績も積み上がっているので、他の病気と比較できるはずだ。

コロナだけ特別視している例は数限りなくあるが、いくつか確認してみる。「急激な悪化」がその一つである。当初は恐れられたが、肺炎症状がステルス性で進行し自覚症状少なく悪化してしまうというメカニズムも報告された。つまり、急変ではなく、悪化を自覚し難いというのが正確だ。ならば、自覚症状ではなく進行状況を正確に把握する事が必要になる。

対策としてパルスオキシメーターで酸素飽和度を観察、尿検査で確認する等の対策が報告されている。何より、医師が診察し適切な判断を下すのが何より最善策なのだ。ところが、未だに必要以上に「急速な悪化」と必要以上に正体不明と煽り続けているのは良くないのだ。

患者の意思での入院希望を優先する声が大きい。恐怖に煽られ、精神的にも弱った状態で、自覚症状が悪化すれば人間は弱気になる、症状も更に悪化しかねない。しかし、他の病気ではあくまで医師の判断の筈だ。

だから、町医者が普通に診療し、様子見なのか、投薬なのか、緊急入院なのか判断する必要があるのであり、素人の判断ではない。それが日本の医療体制の強みの筈だ。それを実践されているのが尼崎の長尾先生であり、この対応を後押しする為に5類相当への変更が有効なのだ。反対するのは患者視点が欠落していると言っても過言ではない。

そして「PCR検査絶対主義」も未だ特別視の典型事例だ。

PCR検査とは疫学的調査や科学分析に使われる分析実験手法であり、決して臨床診断に使われるものではなかった。確かに、強毒性の感染症の様に、隔離政策が基本になる場合は、有効なのだろう。しかしあくまで治療目的ではなく隔離目的である事を忘れてはならない。

これまで確定診断として臨床に使われていたのは、感染力のある発症者が保有するウイルス量に反応する抗原検査であり、新型コロナの初期はどちらかというと症状の進行を確認するCTが使われている。現場の臨床にPCR検査は必要ないのだ。「PCR検査絶対主義」の弊害で、患者への医療措置が遅れるのである。ここでも、抗原検査で早期に確定診断し投薬等の措置を行えば、確実に早期医療となり、他の病気と同様在宅療養で重症化も防げるのだ。

<終息に向けて>

それでも、冬季にはまた感染が拡大するだろう。発症すれば医者にかかり、抗原検査で判定され、医師の判断で治療される。発症者は、出勤や活動は一定期間停止する。などなど、現行のインフルエンザと同様の対応にすればよい。

ワクチン接種で、重症化、致死率は大幅低下している。感染が爆発的に拡大しても、現時点の数で言うなら年間1000万のインフルエンザやそれ以上の風邪と同等以下である。致死率もインフルエンザと同等以下になってきた。ならば、ワクチン接種証明書なんて不要、普通に社会活動を活性化させるべきなのだ。

そして、3回目のブースター接種というよりも、ある程度の定期的接種の目途が立つだろう。インフルエンザと同様の体制になれば、変異やワクチンの効果期間など関係なく、収束でなく終息となるだろう。

現在のインフォデミックは歴史の教訓「五つの教訓」に反する所業だ

最近の報道、メディアの姿勢などに憤りを感じ、危機感を持っているが、名著とされる『昭和史』(半藤一利著)の指摘する教訓に見事なまでに合致する所業である事を改めて確認した。

本著は戦前の過ちを再び犯さない為の原則、歴史の教訓として「五つの教訓」が述べられており、それを要約すると以下の様になる。

  1. 国民的熱狂をつくってはいけない、そのためにも言論の自由・出版の自由こそが生命である
  2. 最大の危機において日本人は抽象的な観念論を好む。それを警戒せよ。すなわちリアリズムに徹せよ
  3. 日本型タコツボにおけるエリート小集団主義の弊害を常に心せよ
  4. 国際的常識の欠如にたえず気を配るべし
  5. すぐに成果を求める短兵急な発想をやめろ。ロングレンジのものの見方を心がけよ

(『そして、メディアは日本を政争に導いた』半藤一利/保阪正康 東洋経済新報社刊)

1の国民的熱狂は、朝から晩までニュース、ワイドショーで新型コロナに関して危機を煽り続け、恐怖の熱狂を生み出している。テレビだけでなく、それをスポーツ紙や夕刊紙が文字起こししてネットに拡散、新聞や通信社まで誤報捏造何でもありの危機煽り一辺倒。そして何より、それに反する情報発信に対してバンと呼ばれるコンテンツ削除やアカウント停止が頻繁化し、言論の自由を侵害しようとしている。トランプ氏のアカウント停止は記憶に新しいが、他にも様々な実例があり、恣意的、偏向的としか思えない状態になっている。

2の抽象的な観念論も五輪に対する反対攻撃は正にその通りである。命と五輪の何方を取る?と比較できない要素による脅迫観念の繰り返し。冷静に考えれば、五輪を取っても命を失う訳では無い事は自明、感染数という結果でも五輪の影響が本来出始める開幕から2週間後から東京都の感染拡大は頭打ちになっている。今までも人流と感染の関係をマクロ視点で見れば相関関係にない事は明らかだが、その様なリアリズムが通用しない。

3のエリート小集団は、分科会や専門家と称する方々の発信。中には、単に学術的に推論を提示しているだけの場合も見受けられるが、メディアによってその単語を切り取り、金科玉条の如く専門家の意見と発信し、テレビ出演の専門家と称する人達は、非論理的な煽りを繰り返す。冷静に時系列で発言をつなぎ合わせると、如何に論理矛盾の発言をその場しのぎで繰り返しているのか理解できるはずだ。

4の国際常識は各国の感染状況との比較、長所短所の分析が冷静に出来ない。他国から見た時に死者数の少なさで日本の状況は穏やかに見えているにも関わらず、何故か大騒ぎ。五輪に関しても、国際公約という観点を持てず、身勝手な中止論を振りかざす無責任さ。他国視点では、日本で良かった、日本でなかったら出来なかったとの称賛は止まないが、未だに悪夢を生み出すと国際感覚とズレた認識を発信し続ける。

5に関しては、常に短期的視点でその場の揚げ足取りの連続。ワクチンに関して、ワクチン慎重論を展開し、副反応のリスクを殊更拡大評価していたにも関わらず、接種が順調に進むと、ワクチンの確保、接種が遅れていると攻撃。1日100万回を目標に掲げると、そんな無理は自治体が対応できないと批判し、実際に100万回を超えると、ワクチンが来ない、停滞していると言う。テレビではワクチン供給は止まっていると批判するが、その時点でも100万回は平均で遥かに上回り、ピークでは200万回まで記録しているにも関わらずだ。

何と「五つの教訓」の全てに反する行為をメディアは見事に繰り返しているのだ。

<教訓に違反する事案例>

そして、その極みとも思える事件が発生した。テレ朝の大人数カラオケ泥酔深夜の転落事件である。

この事件はメディアがあり得ない行為と言い続けた「長時間」「大人数」「飲酒」「カラオケ」の全てにおける違反を行った事件であり、自社の行動を棚上げした身勝手さが問題である。そして、初犯ではなく過去にも同様の違反行為でクラスターまで発生させている。その際、再発防止のための検証をして真摯に取り組むとワイドショーでは発言していたが、その結果は説明されず、今回も同様の発言を繰り返している。昔の事を視聴者は忘れている前提で、その場しのぎの反省の振りして、やり過ごせばそれで良いと考えているとしか思えない。

そして、それ以外にも分かったのが、救急搬送は確実に行われたという事実。救急搬送が機能不全に陥っているとの報道があったが、東京都議員から東京都の救急搬送に報道される様な搬送出来ない事態は発生していないとの、現場確認した上での発信もある。何を根拠に救急搬送先が見つからないと報道しているのだろうか。

断っておくが、発覚した事件は氷山の一角に過ぎないはずだ。ハインリッヒの法則によると、発覚した何倍、何十倍もの事案が水面下に潜んでいるのだ。その全てを洗い出し、再発防止策の説明責任、組織としての引責が必要であり、それまでの間、同社グループ内の報道・ワイドショーは全て放送自粛すべきだろう。そもそも、自分達が他人に要求してきた事なのだから自分達がやってしまった時には、必要以上に厳粛にやるべきであろう。

是非、その場しのぎに騙されないで欲しい。

昔、経験したが、生徒や父兄に大変人気のある教師がいた。生徒の悩みに耳を傾け、何でも相談に乗ってくれるという評判だったが、ある日、優秀な生徒が出現した瞬間化けの皮が剥がれた。それは今まで何でも相談に乗る様に見えて、何も具体的に進める事はしない、単なるリップサービスだったのだ。優秀な生徒が、本当に悩み、前向きに改善する為に、具体的に実行プランを自分と教師に依頼する分含めて計画立案した瞬間、逃げたのだ。その生徒は、そのプラン通り計画を確実に実行したが教師は全く何もやらず、梯子を外した。リップサービスに騙されてはいけない実例だった。

<現状のリアリティ>

今再び、予測のシナリオが発信された。現状を実行再生産数1.7と想定し、3割削減では下げ切らず、5割減で僅かに減少出来るとの事だ。

当たり前だろう、1.7の3割減は1.19、5割減で0.85なのだから算数が出来れば言われなくても分かる。何より、3割減とか5割減と言う発想は、人流ありきの発想でしかない。人流があれば感染するのが基本だと言うが、他の諸条件の方が遥かに要因としては大きいから、人流との相関は今までの所示せていない。GoToとの関係も示そうと調査した論文も、結論は『相関関係があるとは言えない』である。いい加減に認めたらどうかと思うが、観念論と狭い世界の常識から脱する事が出来ていない。

リアルに発生事象と統計数字を見る限り、ワクチン接種がレジュームチェンジの鍵になるのは間違いない。しかし、PCR検査の陽性判定は減らない。何故なら、ワクチンはウイルスそのものを撲滅させないからだ。従って、ウイルス蔓延状態における、曝露は防げないと考えるべきだろう。

従って、個人に要求すべきは、曝露しても感染しない予防策、他人に感染させない対策が全てなのだ。人流減や行動規制ではなく、風邪をひかない、ひき始めに徹底ケア、そして他人にうつさない、即ち健康管理の徹底なのだ。

人流制限に求めるのは、医療資源の再配分、流行状況に合わせた柔軟な体制強化を図り、初期医療の充実と、重症者対応力強化を1年以上怠っている言い訳でしかない。

東京五輪無事閉幕、そしてメディアの暴走が再開

東京五輪が無事閉幕した。

多くの感動を生み出し、同時に多くの悔しさ、次につながるドラマが生まれた。五輪は、他の国際大会と比べても、難民も含めた多くの国家、民族の出場選手が参加し多様性が尊重されている。開催種目も、単一で企画として成立するメジャースポーツだけでなく、多くのマイナースポーツ、地域性にも考慮した種目により、種目の多様性と、その普及に大きな効果がある。これらは横のつながりとして成立する。ノーサイドの精神はラクビー特有のものではなく、全スポーツに共通する事が各種目戦い終わった選手たちの姿や閉会式でのアスリートを見ても分かる。明らかに大きな効果を生み出した。

そして、縦のつながりも同時に生み出せた。本来直接観戦できれば良かったのだが、それでもリモート観戦を通じて、多くの子供達に感動の実感を与えられただろう。また、ミュンヘン五輪から長年の課題でもあった不幸な現実、不運な選手達への気持ちを伝える等、歴史の流れの中での課題に向き合い逃げずに立ち向かい乗り越える、そういった精神も次につなげた。何より、東京で途絶えさせなかった事に安堵させられた。

その結果、世論調査では開催前は反対が大多数だった状況から、大勢の開催して良かったという声に変える事が出来た。

これらは、多くの縁の下の力持ち、大会関係者の方々の献身的で前向きな働きによるものであり、素直に感謝を申し上げたい。本当にありがとう。

私自身、学生時代はアスリートとして戦ってきて、指導者としても多くの子供達と競技に向あってきた経験から言わせてもらうが、大会を開催する為に、多くの人の力が必要なのだ。国際大会であれば尚更だ。

しかも今回は、何か悪い事でもしている様な謂れなきバッシングを受けながらの事だ。辛かっただろうし、厳しかっただろう。こぼれ聞く話では、状況変化や追加施策など、毎日の様に要求が変わり、その為の対応は相当な激務、ブラック状態であったのも事実の様だ。

その様な状況でも全力で支えるという気持ち、アスリートや競技に対する想いが強くなければ完遂出来なかっただろう。

確かに反省点や改善点なども多かっただろうが、それは何をしても、否、大仕事であればある程多いのは間違いないが、それは次の課題への前進なのである。何より、成し遂げた成果は計り知れない。

反対するのも個人の自由であり、思想信条はそれぞれに尊重されるべきだが、この大きな成果を挙げ、絶やさず次へつなげた業績を、無きモノにする事は出来ない。ましてや「瓦礫の山」と貶す論等は、決して受け入れることが出来ない。

嫌いであれば嫌えばいい、嫌なら嫌で、反対でも良い。しかし、純粋に成し遂げた業績に一定のリスペクトを持てないのなら、単なる難癖でしかない。これは、自らを絶対正義として、見下す姿勢が産み出す所作でしかなく、決して許せない。

メディアは開催前、総じて反対の論陣を張った。これでもかというぐらいの攻撃であった。命と五輪の何方を取るのだという、無茶苦茶な無理筋論も、声を揃えて同様に発信する事で無理を通してきた。

開幕後、掌返しの五輪報道で埋め尽くされた。結局、視聴率が取れれば何でも良いというメディアの節操の無さであった。五輪反対の影響で、スポンサー離れまで発生したのだが、それでも目先の視聴率稼ぎを正当とする、反省心の無さを露呈している。即ち、五輪後は再度の掌返しで煽り一辺倒に戻るのだろう。

「司法」「立法」「行政」に次ぐ、第四の権力としての力を歴然と持つ「情報」であり、その担い手である「メディア」だが、一部の左派勢力からは、権力監視という役割を持つのがメディアであり、五輪報道をポジティブに実施した事を政府批判の姿勢を忘れたと批判する論も出ている。しかし、それはメディアに絶対正義としての独裁を要求している様にしか感じない。

第四の権力である時点で、相互監視の対象であり、他の三権を監視するのなら、他の三権から権力行使の監視と牽制を受けなければならない。それを絶対正義で何でも叩けるとした時点で、他を上回る絶対権力となってしまう。そんな簡単な論理も分からない様だ。

健全な相互監視であれば、是々非々でなければならない。ダメな場合は糾弾する必要があるだろうが、良い場合に後押しをする事も重要な相互監視なのだ。何が何でも批判、是とする事は見て見ぬふりの報道しない自由では責任ある権力行使ではなく、「ラクダと老夫婦」の例えそのままのクレーマーでしかない。

「情報」事態が、第四の権力として力を持っている事は誰も疑わないだろう。しかし、その権力を執行する「メディア」にその責任感があるとは到底思えない。視聴率は重要だろう、スポンサー契約もなければ経営が成り立たない。しかし、それだけでは権力行使者ではなく、単なる娯楽企画推進企業、興行関係社でしかない。

第四の権力「情報」の健全な姿への変革の為には、放送法の改正と厳格化、電波権益改革などが必要不可欠だろう。

だが、その健全な方向に向かわせるエネルギーは、逆説的に言うと、そういった踊らされた視聴率を生み出さない、是々非々の健全な議論要求する国民が少しでも多くならなければならない。感覚的、感情的に踊らされ、妄信する空気によって世論を形成させない国民である必要がある。

その為には、教育は重要である。それも論理形成力の直結する理数系の力を育成する教育が。周りを見回しても、数学や科学などを不得手とする人が極めて多く、本人自覚していないだろうが、論理性を保てないのだ。

本当は、国語や社会等の文系科目も論理性が重要なのだが、学校教育では論理よりも記憶科目となっていて、本来の姿である、読解し、誤謬性なく表現したり、歴史の流れを読み解く等は、極めて論理的なのだが、記憶科目化する事で失われているとしか思えない。

第四の権力「情報」は、自国で制度整備をしないと、他国からの影響を受けやすい。それは、意図して他国から世論形成が出来、社会不安に陥れる事も可能という事になる。即ち、国防上の脆弱性にも繋がるのだから、それを防ぐ教育改革と情報制度改革はこの先の重要な国家課題なのだ。

リスク管理視点で考えるコロナ感染出口戦略

危機管理とリスク管理の違いを理解しない、間違った認識が拡散されている事に大きな危機感を感じていると以前より申し上げて来た。繰り返し言うが、危機管理とリスク管理は根本的に違うのだ。

リスク管理とは、将来発生しうる危機状態を予め予測し対策を講じてリスクを受容レベルに低減する事を言う。発生しうる危機状態はリスクを何らかの数値化をする事で評価されるが、一般的には、危機が発生しうる確率と発生してしまった場合のダメージ度合いの積で表される。そして、リスク評価値が取り決めた閾値を上回る状態が確認された場合に、リスク低減対策を実施し、閾値以内に抑える状態を維持するのだ。

従って、対策は発生確率を低下させる策と発生した際のダメージを軽減する策と二通りあり、目的を明確にする必要がある。

そして重要なのが発生しうる危機状態としてどこまでを想定するのかという観点である。考えられる最大限というのは根本的にあり得ない。最大限というのは際限がないからだ。記憶に新しいのは東日本大震災時の津波が想定外だったという言質に対しての様々な批判だ。この件も正確に検討経緯を確認すると、決して想定外ではなく、科学的に検討した結果、発生確率や対策内容等の条件より想定しないという判断をしている。つまりリスクとしては受容したというのが正確だろう。極論言えば、巨大隕石の衝突を想定する訳も無く、リスクとしては受容せざるを得ないのと同じだ。

一方で、危機管理とは、今現在発生している危機事態に対して対応する事である。

即ち発生してもいない危機に、かもしれないと可能性で対策を打つ事は危機管理ではあり得ない。

危機事態と認識、判断された時点で、最初に行うのはその危機の波及範囲、実態の確認である。事実何が起こっているのか、どこまで。そして次に、その危機を危機状態でなくすための具体策を実行する。危機を回避する事が最優先される為、危機状態である事の宣言が必要不可欠になる。

例えばの事例で説明しよう。

大切なお客様とのゴルフの約束が明日。日常よりかなり早起きが必要だが、連日の激務やプライベートのトラブルもあって疲労困ぱい、寝坊の可能性もある。寝坊すれば、大切なお客様を怒らせてしまうので、リスク管理策を実行する。強力な目覚ましを用意、出来うる限り早く寝る等は発生確率を低下させる策。万が一の場合に備え、緊急時にお客様に連絡が出来る様に携帯番号を確認しておくのは発生時のダメージ軽減策。そして、不幸にも寝過ごしてしまった時点で、危機事態発生となる。時間を確認し、スタートに間に合うか否か状況を整理し、予め準備した連絡手段で状況を連絡し、あらゆる手段を使って現地に向かい、謝罪から入り、先方に対して最大限の誠意を示す。そうやってお客様の怒りを鎮めるのだ。

参考までに、よく言われる事業継続計画(BCP)とは、事業が継続困難になる危機事態をリスクとして想定し平時より対策を実施、危機事態発生時に事業として何を優先して継続し、何をやめるか、予め方策含めて計画しておく事である。

実は、東日本大震災後、事業継続計画の取り組みの遅れを認識し、経営課題として多くの企業が取り組み始めている。政府も同様の戦略を持ち、特に医療介護業界に対しては、大きなリスクになり得るとして取り組み強化を業界に訴えかけていたが、業界として殆ど対応してこなかったのが現実である。医療逼迫や医療崩壊はこの事業継続困難事態に当たるので、取り組んでいれば、今の事態は未然に防げていたと残念でならないのだ。

<リスク状況が変化すれば対策も変化する>

さて、リスク管理の視点から、政府の発信した対策変更、自宅療養へのシフトに関して考察してみる。

医療崩壊という危機事態を発生させない為に、直接の管理指標値としては病床使用率がある。正直に申し上げて、現時点で50%前後であれば決して危機事態とは言えず、リスク管理策の実効性を高める時期である。

本来資源として50%も余らせるのは、経営視点からも疑問ではあるが、それは置いておくとして、この数値を低減する施策を検討する。真っ先に考える必要があるのが、分母の数字を増やす事、即ち医療資源を増強する事なのだが、この1年以上国家予算を潤沢に用意して要請しても大きな成果は得られていない。原因は追究必要だが、事ここに及んで分母拡大が期待できない前提に立つと、分子の数値を減少させる以外に方法が無い。

つまり入院患者数を減少させる方法になる。これまでは、陽性者数を減少させる方策に拘っていたが、本来のリスクである死者数や重症者数の減少にも繋がる事もあり、今まではそれでも良しと出来たかもしれない。しかし、重症化数、死者数激減により、リスクの構造が大きく変わってきている。つまり、陽性者が多くても、本質的なリスクは高まらない状況になってきた。

新型コロナの直接的リスクは大幅に低下したのが現実なのである。ワクチン効果や変異による症状軽減などの要因が考えられる。

しかし、残存リスクもある。陽性者が急増する状況で、陽性者が原則入院となると病床使用率の分子を拡大させ、病床の逼迫が生じ、医療の負荷を高め、間接的に医療崩壊に向かうというシナリオである。従って、大半を占める無症状者、軽症患者で病床を埋めるのは得策ではないという判断は適切であろう。

但し、であるならば本来は、2類相当から5類に変更するべきなのだ。現実的には1歩前進の策ではあるが、政治的折衷案としての妥協であり、本質的には誤魔化しの感は否めない。

野党や過激な専門家は猛批判、暴言まがいの発言を繰り返しているが、では対案はどうしようというのだろう、論理的で具体的な説明もない。特に確保病床など医療資源の拡充を図るのは、医療業界の役割なのだがその策を棚上げにしての批判はあり得ない。また、中等症の解釈など、騒動のきっかけとなった毎日新聞が誤報と認め訂正しているにもかかわらず、いつまでも揚げ足を取っているのは、あまりにも酷く嘆かわしい。

危機事態ではないので壊滅状態に至っていないが、もし危機事態であれば大変な事に成り兼ねない。もしかすると、今の日本の国家としての最大のリスクかもしれない。