ウクライナ情勢における日本の為すべきこと

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まった。G7を中心とする国際社会は批難表明し経済制裁を発動しているが、国連安保理は当事国が常任理事国であるため機能はしない。

ウクライナ自身は現時点でNATOには加盟しておらず集団的安全保障体制が弱く、ソ連時代に配備されていた核武装も放棄している状態であり、現実的な抑止力に乏しく、米軍なども軍事的な対抗手段が取り難い状態である。

この侵攻は日本にとって決して対岸の火事ではない。しかも周辺国の意思が見え隠れする様々な情報が飛び交っており、日本として何を為すべきか、どう考えるべきか、口先だけではなく本当の意味で“しっかり”考えた具体的行動が求められている。

<中国の動向>

周辺各国の情報としてまず、中国を見てみる。中国は、一見ロシア擁護の発信と勘違いしている向もあるが、実際は、米露含めた自制を呼びかけている。侵攻とは呼ばないと擁護しつつ、決して肯定はしていないからだ。つまりどちらかを擁護する訳では無く、正面からの回答を避け、自制を求める発言に現時点では終始している。

この理由を深読みすると、中国の抱える国際問題、新疆ウイグル地区や台湾などへの波及を避けたいのではないだろうかと読めてくる。

ロシアはウクライナ東部の分離派地域の独立を承認し「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」と称した。そしてウクライナが西側に植民地化されているとして、人民の安全の為、平和維持を目的に軍事侵攻を始めた。

中国の立場でこの理屈を表裏両面から冷静に見てみたい。例えば台湾に自分達が軍事侵攻する理屈と出来る考えも聞こえてくるが、台湾なり新疆ウイグルなりに侵攻するのにその様な論理武装は余り必要ではなく、従来の主張である自国であるとの論理で粛々と進めることに躊躇は無いだろう。この理屈を使うとしたら、沖縄に侵攻する言い訳だろうか。しかし、沖縄侵攻はリスクとして考える必要はあっても、ウクライナとの決定的な違いは米軍基地の存在である。全面抗争前提は相当困難であり、だからこそ基地反対活動に精力的なのだから。

それよりも逆に考えてみよう。もし西側諸国が、ロシアと同じ論理で台湾の独立を承認し、国連加盟を承認、軍事同盟を結んだとして平和維持の為に米軍を駐留させると宣言したらどうなるか。ロシアの論理を容認するなら、寧ろ、この台湾独立の論理の方が実現性は高くないだろうか。中国の煮え切らない、双方自制を求める姿勢は、このリスクを恐れての事ではないだろうか。

インドは今までのロシア寄りの姿勢を一変させ、ロシアに対する批判を強めている。まだ既存の関係式を壊す様な制裁には後ろ向きの姿勢だが、太平洋の安全保障連携国として、インドを明確に西側に引き込む絶好のチャンスではないだろうか。

一方で、韓国はロシア寄りの姿勢を保ち続けていたが、ようやく経済制裁に賛同と発表した。これは相当な米国からの圧力で追い込まれた結果だろうが、それでも賛同までであり、自国の具体的な対応に関しては明確でない。つまり、圧力をかけないと、いつ裏切るかもしれない、状況に応じてどう出るか分からない、信用に値しない国家との認識を強めるべきだろう。

<日本の採るべき道>

国際社会は決してユートピアやお花畑ではない。各国、自国の利益を最大化する為に、あの手この手、諜報活動も、サイレントインベージョンと呼ばれる施策も当然のごとく実行されている。自国を守る為、自国の利益を最大化する為に。綺麗ごとでは語れない。

日本がロシアと対峙しているのは、北方領土だけではない。ロシアではアイヌ民族はロシア人だと吹聴もしている様だ。つまり、北海道への侵攻も視野に、そうすることで北方領土、千島列島、樺太などの実効支配を確固たるものにしている。

韓国は全く理屈の通らない強弁で竹島を実効支配し譲らない。瀬取りの発覚を恐れたと一部で言われるレーダー照射問題や反日歴史認識による国際法無視など目に余り、理屈で語れないなら力で語る以外に建設的な打開策はないとすら思える状態だ。

この様な国際環境において、日本が国民の命と財産、国土を守る為に、為すべきことは沢山ある。

まずは、軍事的抑止力の強化。敵基地攻撃能力の議論に言葉遊びで無駄な時間を使っている暇はない。ウクライナに侵攻しても米軍含めた軍事的反撃が無いと見做され、ロシアの侵攻が始まっている。侵攻までにロシアはジャブを打って、観測気球を上げ、大丈夫と確信しての侵攻だろう。逆に言うと、侵攻すれば反撃を受けると思わせれば、一定の抑止効果になる。

抑止力は、その実効能力と行使する意思を持っている事が必要不可欠である。

実効能力としては、軍事費拡大は当然だが、原子力潜水艦配備など具体的に動く必要がある。意思としては、国会で敵基地攻撃能力に反対する勢力が存在する事自体他国から見たら大きなマイナスだろうし、憲法改正や緊急事態法制、スパイ防止法など当たり前のことを当たり前に進める国である事を内外に示すことが肝要だろう。

有事になってから有事対応を議論するのはポピュリズムを生む危険が指摘されるが、日本の場合、今の有事でない限り、真面な議論すらできない、軍事忌避マインドがポピュリズムとなっていて、縛られ続けて来たのではないだろうか。今こそ、対岸の火事ではなく、自国の事として、現実から目を逸らさず、正面から議論するべきだろう。

そして、意思を示す方法として、やはり軍事演習を行う事だろう。台湾海峡、沖縄、尖閣、竹島、千島列島、樺太などを具体的な対象として。

更にエネルギー政策も実は安全保障の最重要課題として舵を切るべきだろう。まずは、米国のシェールガス採掘拡大を促し、ロシアのエネルギー政策に打撃を与える事は重要な制裁にもなるし、西側諸国のエネルギー安全保障の下支えになる。そして、日本としては、原子力発電所の再稼働に大きく舵を切り、石炭などの石化燃料活用の拡大も目指すべきだろう。環境問題に関しても、世界に誇る省エネ・脱炭素技術は他国と比して環境にも優しい。化石と馬鹿にするのは技術の進歩を理解していない非科学的活動家か、意図的な利益誘導でしかないので、惑わされてはならない。

経済制裁は大した効果は無いだろう。経済制裁が致命的な影響力を持つのなら、北朝鮮はとうの昔に核やミサイル開発は断念しているだろう。そうならないのは、経済は取り戻せても、国土や国体を取り戻すのは簡単では無いからだ。

しかし、それでも経済制裁は必要不可欠であり、西側諸国の足並みを揃える意味合いもある。バイデン大統領は通貨取引規制にドル、ユーロ、ポンドに加えて円も入れた。しかし、日本の制裁内容に円取引の停止が含まれていない。これでは、韓国と同じ扱いにされてしまい、ブーメランが自国の喉に突き刺さりかねない。こういうところでも意思を即刻、明確に示す必要があるだろう。

お気楽に経済協力を言う外相は即刻更迭し、北方領土での経済協力も見直したいと宣言した髭の佐藤正久自民党外交部会長を前面に押し出す時かもしれない。

北京五輪が諸問題を露呈して終焉、されど五輪の価値はいまだ高い

ジェノサイド五輪と呼ばれ、ナチスドイツと並び称され批判され続けた(日本国内ではなぜか東京五輪程大きな批判は無かったが)五輪が閉幕した。

問題視された事項を簡潔に列記するだけでも数多くの問題が露見している。ジェノサイドが指摘されるウイグル問題、開会式では聖火最終ランナーとなりながらその後の取材が行えていない様だ。テニスの彭帥(ほうすい)選手に纏わる疑惑も有耶無耶のまま。

選手や関係者の情報の安全問題も永遠に闇の中だろう。セキュリティ問題とは、表面化しないからこそ問題が深刻化する。

持続可能性を社会命題とするのは、最早世界共通であるが、北京五輪、開催国に対して指摘されたのが、まさに持続可能性に関わる問題であり、政治的ボイコットなどあったが、その温度差もあり、決して一枚岩で向き合えた状況ではなく、解決にも向かっていない。

いざ競技が始まると、スケートショートトラックに関わる疑惑の判定、スキージャンプ混合団体時のスーツ規定測定方法の事前通知も無い変更による大量5選手の失格を生み出した問題。女子フィギアスケートにおけるロシア選手のドーピング問題は、未だドーピングが減少しないロシアの競技環境の犠牲に見える選手の人権問題、公平な競技環境を構築出来ていない事象だが、出場年齢制限の検討など本質からずれた案まで飛び出す混乱となった。

歴史的評価は後年為されるだろうが、大きな問題を抱えながら開催された北京五輪であったことは間違いないだろう。

<選手は自身の活動の場を自己都合で選択は出来ない>

しかし、決して間違えてはならないのは、選手には何ら罪はなく(ドーピング違反者は別)、純粋に自らの活動の場が北京であっただけなのだ。もちろん、ボイコットや中止などの決定があればそれに従うのも基本だが、競技自体は普通に開催され、参加するという大多数の決定に従うのが選手個々の立場では筋であるからだ。

五輪への反対意見は根強くある。人権派と呼ばれる人達を中心に喧伝され、一部メディアが陰謀論も含めて煽り、意味も深い理由も理解しない大衆が迎合する構造は、東京五輪の際に顕在化した。

五輪精神が崩壊している、金まみれで一部の既得権益者により私物化、個別競技の世界大会が開催されている現在に五輪の意義は無くなった等だろう。しかし、どれもこれも、本来の主人公である選手、競技者目線はなく、人権派と言いながら、個々の選手の人権など無視するだけでなく、貶める行為である欺瞞に溢れる活動であり、それこそ、自分達の思想信条の押し付け、自己利益誘導のエゴとしか思えない意見が多い。

確かに、現在の五輪に様々な課題がある事は疑い様がない事実であろう。しかし冷静に考えて欲しい、その理由でアスリートの活躍の場、夢の舞台を奪って良い訳では無い事ぐらい理解を示すべきであろう。建設的な対案のある反対論なら良いが、今の反対派にその様な姿勢は感じられず、単に既得権益者、権力者に対する攻撃、活動でしかなく、その被害を一番受けるのがアスリート達である構造を無視している。

<スポーツビジネスの経済性>

スポーツは普及することで底辺の競技人口が増大し、結果として全体の競技レベルが上がり、トップアスリートが育成される。トップアスリートは、自らの競技を通じて多くの人に感動と夢を与え、更に普及が深耕して、引退後の雇用も想像する経済効果が生まれる。

スポーツがコンテンツとしての価値を高め、経済的にも自立しビジネス化していく構造が成立する歴史はそれ程古くない。ほんの少し前ならば、ジュニア世代の選手達は、一部の競技とその更に一部の選手以外は、大人になって競技を離れていた。競技を継続しても趣味の範囲でしかなかった。

ところが最近は、社会人になってからも企業の支援を受け、企業に所属する形なども含めた競技継続者が増加し、プロ化などの道が存在する事もあって、学生時代のスポーツ推薦なども枠が昔に比べれば大きく増え、競技専従者に対する教育環境の選択肢も増えてきている。つまり、職業としてのスポーツという枠が増大しているのだ。

それでも、その世界で夢を適え、花開くのはほんの一部でしかない。その大多数を支える雇用環境の為には、マイナー競技も含めた正の経済発展がなければ成立しようがない。つまり、コンテンツとして、ビジネスとして育てる必要があるのだ。

スポーツ嫌いな人も存在するだろう。でも、芸術や芸能、音楽等にも好き嫌いがある。自分が嫌いでも、否定する理由にはならない。数ある企画、興行の一つであり、その幅を広げる事に異を唱えられる人はいないだろう。

その象徴的なシンボルとして五輪が存在する。この構造を否定できる人はいない。五輪に反対するならそれに代わる対案が必要だが、個別競技の世界選手権ではそれは賄えない。従って、未だ五輪は問題を抱えながらも価値は現存するのであり、事実を認める事から入らないと、身勝手な破壊論にしかならない。

<日本のスポーツビジネス環境の先行き>

日本のスポーツビジネスは今現在、実は曲がり角に差し掛かっている。

余り知られていないかもしれないが、ワールドカップサッカーの最終予選、日本のアウェー戦は地上波での放送が出来ていない。それどころか、カタール本大会すら放送権の獲得が危なかった。米大リーグの「毎日大谷さーん」のBSでの放送も危なっかしい。

コンテンツの放映権が高額化していっているのだ。しかし、単なる高額化ではなく、ワールドワイド市場の経済成長に対して、日本のデフレ環境における経済成長レスによる格差が、日本から見たコンテンツ高騰化に見える構造なのだ。

五輪を金まみれと言うが、世界的にスポーツコンテンツは価値が高まり、高騰化しているのだ。それは、不当な値上げと言う訳では無く、経済論理に沿った価格上昇であり、経済成長できない日本が立ち遅れている構造でしかなく、このままでは再びスポーツ劣等国家への道まっしぐらと言っても過言ではない。

今、抱える課題は、更なる普及によるコンテンツの魅力化、日本国内の企画価値向上を目指したビジネス拡大無ければ、衰退する以外に無いのだ。豊かな精神、健全な肉体を養い、経済的にも成立するビジネス構造を育成して、初めて日本国民も夢と感動を享受できる事を忘れてはならない。

高梨沙羅選手失格に揺れたスキージャンプ混合団体の疑惑

北京五輪、スキージャンプ種目に男女混合での団体種目が生まれ、日本勢にメダルの期待が高まっていた。

しかし、1本目高梨沙羅選手の大ジャンプ103.0m、124.5点がスーツ規定違反となりDSQ(disqualified)失格、得点が無効となった。1本目の10チーム中上位8チームが2本目に進めるルールの為、2本目進出が危ぶまれたが、残り3選手の頑張りと、他チームでも同様の失格者が発生したので、ギリギリの8位で2本目に進んだ。

2本目はその様な状況で、重大なプレッシャーを背負った高梨沙羅選手も涙ながらの大ジャンプ、佐藤幸椰選手、伊藤有希選手、小林陵侑選手もチームとして支える大ジャンプを揃え、メダルまであと一歩の4位に食い込んだ。

このチームとしての競技継続力、奮起を支えたメンタリティーは、なかなか一般には理解され難いかもしれないが、トップアスリートならではのものだろう。人間だから少なからず、『なんでやねん』というマイナスのメンタリティーも発生するだろうが、アスリート気質と言うものは、自分のできる事は徹底的に自分が責任を背負って最後まで執着するが、自分の力の及ばない範疇に関しては、存外無頓着と言っても良い程、仕方が無いと受け入れるのである。

野球のイチロー選手が打席に入るまでに出来る事は徹底するが、結果は気にしない、気にしても仕方がないと発言したのもこれに通じるのだ。

そして、このチームは佐藤幸椰選手が「怪我が無くて良かった」と声をかけ、伊藤有希選手や小林陵侑選手がハグをした様に責任を感じている高梨沙羅選手を支える姿は感動も呼んだ。

何より、誰よりも一番傷ついているのは、失格された当人である高梨選手であり、彼女の責任ではなく、その状態でも最後まで戦った彼女を称えるべきであろう。

<再発防止のために>

この事態に対して一部で「ルールだから仕方がない」「他の競技でも厳しいルールの下、行われているから仕方がない」という主旨の発言も多数見受けられるが、確かに正論なのだが、しかし問いたいのは、ルールは公平であって始めて意味があるという事だ。

この規定は女子の場合、身体の各部位から2~4cm以内の余裕しか許されていないのだが、事前確認と事後の抜打ち確認があるとされている。実際、ゆとりがある方が浮力を生み有利なため、各チームルールギリギリで対応しており、この規定違反自体は高梨選手自身、昨年も経験している様で、さほど珍しくないとも言われるが、同一日の同種目、女子だけから20名中5名も発生しているのが異常なのである。

しかも、この五輪のジャンプ競技に限ってもこの様な高確率での違反は他種目で発生しておらず、異常としか形容のしようがない。

事後検査の必要性を指摘する向もある。競技後に失格ではなく、競技前に確認して是正させて公平な環境を作り出して競技をするという主旨だ。アスリートの対場からいうとこれが正論である。

但し、反論もある様だ。検査合格後に伸縮性のある素材を伸ばして余裕を生ませる不正があるから事後でないと意味が無いというのだ。

この反論を聞いて違和感を感じたのは、伸縮する素材を前提にするならば、身体との余裕をどうやって測定するのかまで定義しないとルールとしては不備だという事である。測り方に恣意性が入る余地があれば、到底公平と言えないだろう。

通常この様な国際大会では、レギュレーションチェックを受けた後の選手は隔離環境にあり道具を使った不正は困難で、出来るとしても自力で密かに引き延ばす程度だろうか。到底、均等に引き延ばすなどは出来ないだろうから、万が一あったとしても事前事後のシルエットチェック程度で済む話だろう。あくまで、検査後の不正を検出する目的ならば。

選手に公平な環境で競技をしてもらう前提ならば、事前の検査を予め定めた測定方法に従い測定し確認する。事後は、あくまで事後の不正検出で良いだろう。

更にもうひとつの問題は、抜き取り検査の頻度などのルールである。これも恣意性が働くと公平性を欠く。

今回の失格者続出を異常事態として、失格を受けた各国は連盟に提訴してでも、今回のジャンプ競技全体と比較して「検査方法」「抜き取り頻度」がどうだったのか実態を明らかにし、他のジャンプ種目と大きく異なる違反者数が発生した原因を論理的に説明する事で、再発防止に向かう必要があるだろう。

公平なルールの下の競技である大原則のために。

数字が示すコロナ死の実態

新型コロナの死亡者数のカウントが死因コロナだけではなく、死者からウイルスが検出されたらカウントするという曖昧な基準で、実態より多い数字になっているという事は、当初より問題提起されていた。ただ、公表されている数字だけでは、それがどの程度の割合なのか計る手段がなく、筆者自身も10%~20%程度であろうかと想定していた。

しかし、弱毒化した変異株であるオミクロン株が数字でこの誤謬性を示してくれた。一部報道にあった山梨県の重症者がいないのに死者が6名も発生したという事実である。

ところが、この事実が公表されてもメディアは殆どスルー。死者数のカウントに誤謬性がある事自体も、一部ネットで広まるだけで、未だ初耳だという人はまだまし、殆どの人は事実すら知らないのが現実だ。

筆者はこの事態を憂い、山梨県以外の実態も確認してみた。同様に重症者がゼロで死者が発生している都道府県が存在するのかだが、複数あったのだ。

1月末時点での重症者数がゼロで1月中の死者数がカウントされているケースだが

・北海道 陽性者数30591、重症者数0、死者数27

・青森県 陽性者数4074、重症者数0、死者数3

・徳島県 陽性者数1542、重症者数0、死者数1

・佐賀県 陽性者数5473、重症者数0、死者数3

・大分県 陽性者数5258、重症者数0、死者数1

・宮崎県 陽性者数5182、重症者数0、死者数2

・鹿児島県 陽性者数6790、重症者数0、死者数5

それ以外にも、明らかに重症者数と死者数が異常と筆者が感じるのが

・栃木県 陽性者数8372、重症者数1、死者数10

・千葉県 陽性者数46753、重症者数3、死者数23

であり、これに前述の山梨県までの数字を合算すると

・異常値の都道府県 重症者数4、死者数81

となり、全国の死者数が399人であるから、なんとこれだけで20%を占める。もちろん、他の都道府県でも同様のケースは内在するはずであり実態の占有率は更に増えるだろう。

一方で、日本における総死者数は年間で140万人近くである。便宜的にこれを12で割り、各都道府県の人口分布率で乗じたら、各都道府県の月間死亡者の平均的な想定値とできるだろう。つまり、コロナ関係なく、通常統計的に示される確率での死者数を上記の異常値を示す都道府県全体で算出すると 109人なのである。

コロナ死としてカウントされる実数81と、統計的推測全死者数109 を比較してどうお感じになるだろうか。数値に差があるのは、統計的バラツキであり意味のある差ではないと思われる。但し、超過死亡が倍増する様な状況であれば統計的にはあり得るのだが、到底その様な状況には思えず、大多数がコロナ死因では無いとの仮説もそれ程荒唐無稽ではない様にすら感じる。

<重篤化は統計上現れていない>

少し前にECMOネットのデータも示されたが、現時点のECMOネットのデータを確認したい。

ECMOとは、肺炎の重篤な患者に装着する重症者に特化した治療装置である。そしてこのデータは実際に世の中のECMOが使用されている状況を示している。これを見る限り、ECMOの使用は、12月中にほぼゼロ化し、1月中はゼロ近似、2月1日時点では完全に0なのである。

日本ECMOnet(sCOVID-19重症者におけるECMO装着数の推移)

この事が示すのは、オミクロン株は肺炎にはほぼならず、なったとしても重篤でECMOのお世話になる程悪化する症例はほぼ無いと言って良いだろう。

<まん延防止や緊急事態に該当し得るのか>

新型インフルエンザ等対策特別措置法の第一章、総則(目的)第一条は

「この法律は、国民の大部分が現在その免疫を獲得していないこと等から、新型インフルエンザ等が全国的かつ急速にまん延し、かつ、これにかかった場合の病状の程度が重篤となるおそれがあり、また、国民生活及び国民経済に重大な影響を及ぼすおそれがあることに鑑み、・・・」

とある。

よく見ると「国民の大部分が……免疫を獲得していない」とあり、国民の大部分がワクチン2回接種を済ませている状態では該当しないと判断できる。ブースター接種云々を言い始めると、永遠に免疫獲得を語れず、この前提が入っている事を無視してはならないだろう。

加えて、「これにかかった場合の症状が重篤となるおそれがあり」ともあるが、前述の確認で重篤する例は統計的にゼロ化と言っても良い状態なのだ。

更に「国民生活および国民経済に重大な影響を及ぼすおそれ」は、感染症によるものではなく、必要以上の規制によるものであり、どう考えても、この法律を前提とするまん延防止や緊急事態宣言は不当であると言うべきではないのだろうか。

<正しく恐れて、正しく対処する>

いまや、オミクロン株に変異してコロナは身近な疾病になった。実際、筆者の身近でも感染者が発生した。症状は軽く、1日程度38度以下の発熱だったが直ぐに平熱に下がり、他の症状も軽い喉の症状だけで自宅待機で普通にリモート業務をしながら回復した。医師の診断、検査を受け、処方されたのは通常の風邪薬のみ、解熱剤も無かった。因みに、ワクチンは未接種である。症状だけ見れば余程インフルエンザの方が重く、本当に単なる風邪であった。

同居家族も、家内での極端な隔離はせず、濃厚接触の自宅自粛を一緒に続けながら、気を付けたのは手洗いうがい等の基本的対策、健康管理的自己防衛策をいつも以上に徹底する事だけだった様だが、一切症状は現れず、無事自粛期間を終了した様だ。

この1例を示して大丈夫と言う気はない。しかし、マスメディアの報じる1例で危機と不安に感じるのも愚かだと言わざるを得ない。正しく恐れて、正しく対処する。そう、風邪であろうとも、万病の元であり、既往症があれば重篤化し得るのだから、軽視せず、健康管理の自己防衛、それ以上でも以下でもないのではないだろうか。