北京五輪が諸問題を露呈して終焉、されど五輪の価値はいまだ高い

ジェノサイド五輪と呼ばれ、ナチスドイツと並び称され批判され続けた(日本国内ではなぜか東京五輪程大きな批判は無かったが)五輪が閉幕した。

問題視された事項を簡潔に列記するだけでも数多くの問題が露見している。ジェノサイドが指摘されるウイグル問題、開会式では聖火最終ランナーとなりながらその後の取材が行えていない様だ。テニスの彭帥(ほうすい)選手に纏わる疑惑も有耶無耶のまま。

選手や関係者の情報の安全問題も永遠に闇の中だろう。セキュリティ問題とは、表面化しないからこそ問題が深刻化する。

持続可能性を社会命題とするのは、最早世界共通であるが、北京五輪、開催国に対して指摘されたのが、まさに持続可能性に関わる問題であり、政治的ボイコットなどあったが、その温度差もあり、決して一枚岩で向き合えた状況ではなく、解決にも向かっていない。

いざ競技が始まると、スケートショートトラックに関わる疑惑の判定、スキージャンプ混合団体時のスーツ規定測定方法の事前通知も無い変更による大量5選手の失格を生み出した問題。女子フィギアスケートにおけるロシア選手のドーピング問題は、未だドーピングが減少しないロシアの競技環境の犠牲に見える選手の人権問題、公平な競技環境を構築出来ていない事象だが、出場年齢制限の検討など本質からずれた案まで飛び出す混乱となった。

歴史的評価は後年為されるだろうが、大きな問題を抱えながら開催された北京五輪であったことは間違いないだろう。

<選手は自身の活動の場を自己都合で選択は出来ない>

しかし、決して間違えてはならないのは、選手には何ら罪はなく(ドーピング違反者は別)、純粋に自らの活動の場が北京であっただけなのだ。もちろん、ボイコットや中止などの決定があればそれに従うのも基本だが、競技自体は普通に開催され、参加するという大多数の決定に従うのが選手個々の立場では筋であるからだ。

五輪への反対意見は根強くある。人権派と呼ばれる人達を中心に喧伝され、一部メディアが陰謀論も含めて煽り、意味も深い理由も理解しない大衆が迎合する構造は、東京五輪の際に顕在化した。

五輪精神が崩壊している、金まみれで一部の既得権益者により私物化、個別競技の世界大会が開催されている現在に五輪の意義は無くなった等だろう。しかし、どれもこれも、本来の主人公である選手、競技者目線はなく、人権派と言いながら、個々の選手の人権など無視するだけでなく、貶める行為である欺瞞に溢れる活動であり、それこそ、自分達の思想信条の押し付け、自己利益誘導のエゴとしか思えない意見が多い。

確かに、現在の五輪に様々な課題がある事は疑い様がない事実であろう。しかし冷静に考えて欲しい、その理由でアスリートの活躍の場、夢の舞台を奪って良い訳では無い事ぐらい理解を示すべきであろう。建設的な対案のある反対論なら良いが、今の反対派にその様な姿勢は感じられず、単に既得権益者、権力者に対する攻撃、活動でしかなく、その被害を一番受けるのがアスリート達である構造を無視している。

<スポーツビジネスの経済性>

スポーツは普及することで底辺の競技人口が増大し、結果として全体の競技レベルが上がり、トップアスリートが育成される。トップアスリートは、自らの競技を通じて多くの人に感動と夢を与え、更に普及が深耕して、引退後の雇用も想像する経済効果が生まれる。

スポーツがコンテンツとしての価値を高め、経済的にも自立しビジネス化していく構造が成立する歴史はそれ程古くない。ほんの少し前ならば、ジュニア世代の選手達は、一部の競技とその更に一部の選手以外は、大人になって競技を離れていた。競技を継続しても趣味の範囲でしかなかった。

ところが最近は、社会人になってからも企業の支援を受け、企業に所属する形なども含めた競技継続者が増加し、プロ化などの道が存在する事もあって、学生時代のスポーツ推薦なども枠が昔に比べれば大きく増え、競技専従者に対する教育環境の選択肢も増えてきている。つまり、職業としてのスポーツという枠が増大しているのだ。

それでも、その世界で夢を適え、花開くのはほんの一部でしかない。その大多数を支える雇用環境の為には、マイナー競技も含めた正の経済発展がなければ成立しようがない。つまり、コンテンツとして、ビジネスとして育てる必要があるのだ。

スポーツ嫌いな人も存在するだろう。でも、芸術や芸能、音楽等にも好き嫌いがある。自分が嫌いでも、否定する理由にはならない。数ある企画、興行の一つであり、その幅を広げる事に異を唱えられる人はいないだろう。

その象徴的なシンボルとして五輪が存在する。この構造を否定できる人はいない。五輪に反対するならそれに代わる対案が必要だが、個別競技の世界選手権ではそれは賄えない。従って、未だ五輪は問題を抱えながらも価値は現存するのであり、事実を認める事から入らないと、身勝手な破壊論にしかならない。

<日本のスポーツビジネス環境の先行き>

日本のスポーツビジネスは今現在、実は曲がり角に差し掛かっている。

余り知られていないかもしれないが、ワールドカップサッカーの最終予選、日本のアウェー戦は地上波での放送が出来ていない。それどころか、カタール本大会すら放送権の獲得が危なかった。米大リーグの「毎日大谷さーん」のBSでの放送も危なっかしい。

コンテンツの放映権が高額化していっているのだ。しかし、単なる高額化ではなく、ワールドワイド市場の経済成長に対して、日本のデフレ環境における経済成長レスによる格差が、日本から見たコンテンツ高騰化に見える構造なのだ。

五輪を金まみれと言うが、世界的にスポーツコンテンツは価値が高まり、高騰化しているのだ。それは、不当な値上げと言う訳では無く、経済論理に沿った価格上昇であり、経済成長できない日本が立ち遅れている構造でしかなく、このままでは再びスポーツ劣等国家への道まっしぐらと言っても過言ではない。

今、抱える課題は、更なる普及によるコンテンツの魅力化、日本国内の企画価値向上を目指したビジネス拡大無ければ、衰退する以外に無いのだ。豊かな精神、健全な肉体を養い、経済的にも成立するビジネス構造を育成して、初めて日本国民も夢と感動を享受できる事を忘れてはならない。

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