2度目の民主主義の危機的緊急事態宣言発出直前

 世論調査という数字で、緊急事態宣言発出するべきという意見が60%を上回った様だ。民主主義体制における政権では、発出する以外に手が無くなってきた。例えどんなに意味が無く、効果が薄く、その癖、副作用による打撃は確実に国民が被るのに、正しい判断が出来ない感情論の数値が過半数を上回ってしまった。日本が好戦的な国内世論に圧され、軍部が台頭してきた歴史の繰り返しの様に、民主主義は時に論理性を欠いた、冷静とはとても思えない感情論に支配され、誤った道を選んで、自ら墓穴を掘る。どれだけ政府が懸命に抵抗しようとも、何を発信しても上から被せる様なメディアの情報という連続射撃で消され、発信力が無いと非難される。この場合の『発信力が無い』というのは、自分達と同じ意見の発信が無いことを云い、他の情報発信は全て間違いで血迷っていると否定され発信と見做さない事によって生じる現象。メディアという情報権力による有無を言わさぬ暴力的な政策誘導でしかない。

 自分達と異なる意見の発信には、馬鹿にしてスルーする。問われた質問にも答えず、一方的に断定して捲し立てる。そして、未だにそんな事を云う奴がいると上から目線で見下して一方的に話を断定的に進める。こうすると、確固たる自信を持っていない、自己判断を論理的に独自思考できない大多数は、この意見に従わなければ、周囲から冷たい目で見られると言う強迫観念を抱いて同調させられてしまう。

 結論から言うと、新型コロナは怖い病気である事は事実だが、即死亡とか、根治不可能の難病、いつ急変して死に至るか分からないといった類の病気ではない。だからこそ、正しく恐れなくてはならないのだ。そして、ゼロ化は出来ない事も理解する必要がある。

 どれだけ強制力のある抑止政策を実施して一旦ゼロにしても、再び感染は拡大する事は世界で実証されている。日本は、その事をいち早く理解し、Withコロナ施策に舵を切っており、正しく感染予防行動を行い、バランスの取れた現実的な政策実行を目指していた。それなのに、諸外国で失敗している、ゼロ化政策を絶対神の様に語り続けるのは、余りにも酷すぎる。

 ゼロ化絶対、PCR絶対信者は、欧米で無症状者に対しても無暗に検査を実施した結果、日本より桁違いに多い感染者数をマークしている現実を無視してはいけないし、全員検査を主張するなら、その原因を説明する責任がある。同じ様に検査を無症状者に拡大して同じ轍を踏むことを日本は避けなければならない。欧米の場合は、避けては通れない宗教的行動基盤のため、白黒はっきりさせないと前に進めない為に分かっていても悲劇を招いているとの仮説の説得力が高いのだ。

<医療崩壊は起こり得ない、本当に怖いのは2極化現象である>

 医療崩壊も日本では起こり得ない。何故なら、日本の新型コロナに割いている医療資源は、たかだか全体の3%に過ぎないからだ。ドキュメンタリー調で、ミクロな現場を放映すれば、その現場の厳しさは視聴者には伝わる。厳しいのは当然だ、医療現場なのだから。それは、他の病気治療現場でも同様の厳しさがある事を忘れてはいけない。

 この3%は、たった1ポイント医療資源を割り振るだけで、4%になる。この時点で占有率80%という数字は、60%に減るのは簡単な算数の問題だ。ましてや、昨年比較で、インフルエンザ激減、上気道感染系の肺炎は半減以下、他の肺炎も減少、という状況で、昨年比では余裕があるはずで、それを回すだけで、平気で6%までは可能なはずだ。そうすれば占有率は40%なのだ。そこまで資源再配分は不要だろう、地域ごとに最適な配分を断行すれば良いだけなのだ。それを許さないのが現在の医療業界の既得権益構造であるならば、有事の危機管理対応として法制化すれば良いだけだ。

 それよりも医療業界の構造を問題視するべきだろう。メディアの電波に出て、医療崩壊を訴えるのは、綺麗ごとではなく、医師会長ポストなどの勢力争いの売名行為や、自身の勢力範囲、例えば開業医の領域を守るためであったり、政治的には政治家の票固めであったり、様々な裏側の視点も考慮する事が必要だ。上記の医療崩壊の謎に、正面から答えないで、これまで感染症の経験が無かったことを理由にした体制整備の問題にすり替えているのは、論理すり替え、矛盾と見極める必要がある。

 だからと言って、繰り返しになるが、新型コロナは怖い病気である事は間違いなく軽視できない。しかし、世の中に出回るデマの多さに、騙されるか、あまりの酷さに聞く耳を持たずに軽視するかの2極化現象が最も恐れる危機なのだ。

 感染力は間違いなく強い、そして、肺炎や血栓症などに繋がり一定の重症化リスクも伴う。それに従って致死率も現状でも1%前後の数字を示している。無症状の、感染非確認者が一定数存在する事も想定できるが、実際の感染者が10倍までだろうと想定すると、致死率も0.1%までしか下がらない。風邪と同等には出来ない理由がここにある。

 しかし、風邪と同様の対応方法で抑止は確実にできる。これを正しく伝えられない原因は電波系メディアによって生じている2極化現象なのだ。どれだけ、正しいメッセージを伝えても、言う事を聞かない一定の率は絶対に存在する。それは民主主義国家では、少数意見という云われ方もするし、犯罪がゼロ化出来ない理由かもしれない。それはある程度は、社会悪として受け入れる必要があるが、デマでかき回された結果、多数を占めると危険なのである。

<正しく恐れて、正しい抑止行動が重要>

 自分が感染者のつもりで、人に移さない様に行動を心がける。うつさないと言うのは、まずは、飛沫を飛散させない事。通常時はマスク着用だろうが、勿論、話さない、クシャミや咳をしなければ飛沫は飛ばないのでマスクは不要。逆に、食事中の会話は飛沫飛散に繋がる最大のリスク、という事を理解した行動を徹底すればよい。そして、何よりも、風邪気味の時に、通常以上に気を付ける事。当たり前だろう、飛沫にウイルスが含まれる確率が増えるのだから。

 この点を忘れがちなのだ。無症状者全員に検査をして隔離するなんて非現実的な事よりも、ウイルスの拡散リスクの高い人の行動抑制、無症状者含めた全員に自分がウイルスを保有しているつもりでの行動抑制以上の感染抑止は存在しない。無症状者全員に検査をする意味などないのである。ましてや、検査結果の陽性の内、30%~40%が偽陰性であれば、安心してはいけない人に安心させてしまい、寧ろ、リスクが高まるのである。

 そして、何よりも、ウイルスの真っただ中にいても感染を防ぐ行動を心がける事が重要なのだ。マスクは無いよりも有るに越したことはないが、予防効果は万能ではない。それよりも、小まめな手洗いうがい、手指消毒の方が有効だ。それよりも大切なのは体調管理だ。受験勉強中、試験直前のケアは相当のレベルで実行しているはずだ。同様以上のケアをすれば良い。まず、初期免疫を高めるためのビタミン摂取、水分摂取で喉や鼻を常に潤す、マスクはこの保湿効果に有効だ。僅かな変調に敏感になることも大切。早めのケアで自分を守る。

 それでもゼロはあり得ない。不幸にも感染してしまうこともあるだろう、発症する事も100%は防げない。その場合は、発熱外来、保健所やかかりつけ医に相談をして対応を決めるのは義務である。自分の勝手な判断で、医療と関係ない検査を受けても義務は果たせない。素人判断ではなく、医師の判断を仰ぎ、指示に従う以外にないのだ。

旅行もOK、会食もOK、但し、前述の注意事項を守ることが前提で。

 ここまでのことを考慮すると、特措法で定める強制力のある措置として必要なのは、第一に医療資源の再配分に関する強制力。第二は、医療以外の検査で誤った認識を持たせない様に制限する検査の統制管理。第三は、情報の統制である。休業要請の強制力と補償など4番目以降で充分。

 よく考えて欲しい、マスコミの無い時代に、新型コロナが流行したら果たして、パンデミックになっただろうか。感染力が高いと言っても、身の回りでの患者数はどれほどだろう。無症状や軽症状が殆どであれば、普通の風邪と見極めることは出来ないのではないか。毎日、感染者数最高と言われ続けるから、必要以上に恐れているだけではないだろうか。実際に患者が発生していると言っても、新型コロナは実は2019年に既に上陸していたとの説もあるぐらい見極めがつかないのだから。全く、マスコミが感染状況を伝えなければ、同じ様に緊急事態宣言を出すべきに60%もの人が賛同するだろうか。

 今の感染状況が収束するとは、どういう状態を指すのだろう。誰も、恐れず、騒がなくなると、メディアは視聴率が取れないので必要以上に危機を煽るのをやめるだろう。メディアが報じなくなると皆は忘れていくだろう。鶏が先か、卵が先か。そのトリガーになるのがワクチンであり、治療薬であった。ワクチンや治療薬に効果は必要なかった、その存在で安心をして必要以上に騒がなくなる効果の方が高い。インフルエンザに対する意識がその事を示している。現状の新型コロナ以上の感染者数、死者数を毎年出していても、ワクチンと治療薬の存在で何故か精神的安定を得ている。よく考えて欲しい、ワクチンと治療薬が揃っていて、新型コロナよりも死者数が多いのだ。何故、安心できる?何故、新型コロナは必要以上に恐れる。

 つまり、ワクチン開発で新型コロナの精神的安心を得て、必要以上に騒がなくなり、結果メディアも報じなくなっていき、収束に向かう。例え、同様の感染者数、重症者数、死者数が発生したとしてもだ。

 しかし、緊急事態宣言やむなしの状況では、それまでに払う代償はとてつもなく大きい。懸命に、情報を見極め、冷静に論理考察できれば、払う必要のない代償なのだから、残念でならない。

今年は勝負の年だ、誓いの2021元旦

 一昨年の『凶』、昨年の『吉』から、今年は『大吉』と大躍進、大きな運気サイクルとも一致し今年は花咲き、その後の基盤となる基礎固めが確実に出来る年となると確信しております。ここ暫くの低迷状態から確実に脱し、大きな飛躍を目指します。

 今年の初詣は、コロナ禍の影響を受け、緊急事態宣言でも発出されそうな状態で、人出は例年よりも大きく減少。車での道のり、駐車場もがらがら、出店も例年の半分以下だろうか、寂しい限りだが、これなら密にはなり得ない環境での初詣であった。

 多くの人に、『今年は大変だ』『この感染状況はどうすれば』、と言われ、その都度確認したが、何を持って大変と言っているのか、全く説明不明、意味不明の、感情的、感覚的訴えが全てであった。私としては、それこそが大変な事だと、心配になって仕方がない。

 多くの人が死んでいる、新型コロナに感染している、重症者が増えている、急変で突然死までしていて不安だ、医療崩壊で通常診療が出来なくなる、などなど。しかし、これらは絶対評価できるものではなく、比較による相対評価しなければ本来何も分からない事ばかりなのに、毎日テレビで危機感を煽られ続けて感覚がおかしくなっている。

 交通事故は多数発生しているが、その多くは怪我もなく車の破損も軽症。時々発生する悲惨な事故を連日報道し、防ぎようのない逆行での正面衝突や暴走して歩道に乗り上げ多くの死傷者を発声させてしまう事故の危機を煽り、事故を防ぎ、身を守るためには不要不急の車両使用を自粛、歩道を歩くのも危険なので外出自粛、緊急事態宣言とは決してならない。比較して何が違うのだろう。

 いやいや、交通事故とは違うよ。という人は、今シーズンの気管系疾患、感染症の感染や死傷者と比較してどうなのか知っているのだろうか。

 東京都の1日1300人は過去最高を大きく上回る危機状態だと言う人は、1日10万人になったらどういうのだろうか。他国の危機的状況と比較すれば、これぐらいの数字の差があるのに、何故危機と言うのだろうか。

 テレビで政府を批判する際に使われる、危機管理の常道として最悪の事態を想定した対応が必要だと。そのこと自体は、大きな誤謬性を含んでいるが、そのことは置いておくとして、最悪の事態を想定するのなら、新規感染者数は、1日10万人規模の想定が必要不可欠だろう。その想定からすると、遥かに低い数字なので慌てる必要は無いはずだ。

 危機管理状態を示す数値的指標を明確にする必要性を訴えているが、その際に、1日10万位規模になればステージ4だと設定して納得が得られるだろうか。現状の数字から、少し上積みした数字を設定して納得を得ている状態だが、それでは本当の意味での危機対応ではないのは、冷静に考えれば分かるはずだ。

 医療崩壊の重症者病床数も同様だ。用意していた病床数の70%、80%というが、1日10万人規模の新規感染者の場合に必要となる重症病床数ではない母数に近づいたとしても、母数を増やせば良いだけなのだ。

 今の感染者程度で医療崩壊する訳は無い。もし、この状態で医療崩壊するのであれば、医療業界の構造改革、経営の刷新、統制管理が必要不可欠であり、その為の法改正、現業界のトップ層は総退陣が必要不可欠だろう。

 はっきり言って、新型コロナの感染力は高いだろうが、毒性は高くなく、死ぬ病気ではない。確かに不幸の死を遂げる事例の報告はあるが、インフルエンザでも同様に休止の例は多数存在する。その比較による説明もなく、一方的な話で危機を煽るのは、それ自体が既におかしい。風邪は万病の元とはよく言ったものだ。

 新型コロナ感染症は、病気だから怖くないと言うと嘘になる。感染力も高いので、基本的に市中にウイルスが常在している前提で行動しなければならない。でも、ウイルス常在状態でも必ず感染する訳ではない事は、風邪でも周知のはずだ。不摂生で初期免疫力が低下して初めて風邪をひくのだ。であれば、新型コロナも同様、風邪を絶対にひかない様に、養生すれば自身の感染は相当レベルで抑えられる。同時に、自分がウイルスを保有している全体で、他人にうつさない様に行動する。それで全てであり、それ以上でも以下でもない。

 利権があるのか既得権益構造なのかは明確ではないが、少なくとも言えるのは、人の気持ちというのは、危機を煽ることで簡単に導けるという社会実験となってしまっていることだ。それこそ社会的脆弱性が露呈しているのである。

 少し、立ち止まって、冷静に思考回路を働かせる事さえ出来れば、この様な事態には決してならない。私は、それは情報リテラシーを高める必要があると考えており、その為に必要な要素は、モチベーション力であり、胆力であろう。しっかりと、人の話に耳を傾け、自分の思い込みに固執し異なる意見を聞かずに批判、或いは面倒臭がって無視、何ら思考回路を働かせない悪癖を断つ。その為に、活字をしっかりと読み、反対意見に対しても自身の意見をまとまって語り、議論が出来るようになる。これは、新型コロナに限った話ではなく、全てに通じる事象であり、DXや環境問題など社会問題への適合が要求される激動の社会環境で必要不可欠な人財力なのである。

 その様な問題意識を持ち、社会貢献が少しでも出来るように、ジュニア層や日本の産業の中核を担う中小企業の支援を想定し、昨年活動し始めた。その活動の本格的基盤作り、土壌を構築し、軌道に乗せる、勝負の年としたい。

人財育成の入り口、現代の課題

 最近よく感じるが、活字を読む習慣が現代人に不足している。世の中が大衆迎合にシフトし、分かり易いワンセンテンスで語る傾向が強まると、しっかりと文脈を読む、分析力が衰えていく、鶏が先か卵が先か、は不明だが、その傾向の強さは間違いなくある。朝のワイドショーでは、時のニュースをそこが知りたいと、もっと分かり易いメッセージが政府に欲しい、国民に声が届かないとか言い続けて視聴率が高まっている様だが、私なんかは、知りたければ自分で調べれば良いだろう、政府は説明しているけど聞いていないの?ちゃんと聞いてから反論すれば?と感じるのだ。結局放送内で知りたいことは論理的に解説していないで不安だけ煽っているのだ。

 情報とは、それ程簡単に表現できるものではなく、丁寧に記述し、筋に沿った説明を要するものだ。数字も同じで、読み取る力があれば様々な情報を検知できる。聞き手側に読み取る力が必要になるのだ。発信側は、正確な情報を伝達しようとすれば、ワンセンテンスでは不足し、文脈での伝達が必要になる。出来るだけ分かり易く図やグラフで表現しようとも、文章での伝達は避けられない。従って、情報を受け取り、自分の情報力とする為には、読解力が必要不可欠なのだ。

 しかし、残念ながら多くの人は文章を読まなくなっている。読まないから読解力も衰えていき、論理思考力は尚更なのだ。そして、都合の悪い話には耳を塞ぎ、自分勝手なストーリーを自分の世界だけで作り上げる、悪循環なのだ。文章を読むには一定の胆力が必要だが、その胆力が衰えているのが文章を読めない主要因と考えている。電波やインターネットの動画で受動的に入ってくる情報、それがワンセンテンスに偏っていればいる程、分かり易いので、能動的な情報取得思考、胆力が衰えている。

 小さな子供には最初はこの胆力が備わっていない。集中力と言い換えてもいいが、10分と同じことに集中できないのが、成長と共に徐々に集中力が備わっていく。多くの子供が経験する受験勉強は、その胆力育成の重要なトレーニングとなる。従って、素頭の良い悪いではなく、受験勉強という嫌なことでも頑張ってやり続ける行為で個々人の差が表れる。良い学校に合格したかどうかではなく、自分の学力を伸ばせたかどうか、やるべき時にやるべき事をやることが出来たかで差が出る。

 この胆力、集中力はどうやって育成することが出来るのか。そもそも、精神面だけではなく、体力も必要不可欠なのだ。頑張ろうとしたときに、身体がいうことを聞かなければ話にならないからだ。無理が効く心身、いざという時に、やり通す力だからだ。

 小学生に陸上競技の指導をしている時に感じるのが、彼らは楽しくなければ我慢できない。辛い練習は、心身ともついていけないのが実情だ。その状況で基礎的な運動能力と陸上競技としての競技力、続ける精神力を育成する為の、最高の練習方法が『おにごっこ』だった。

 1日の練習メニューを組み立てる時に、前半に子供たちの嫌いな技術練習を組み込む。通常だと、身が入らず、上の空で、身につかない傾向が強いのだが、練習終了後に『おにごっこ』の時間を設けると、その遊びの為に少しは我慢してくれるのだ。そして、実は前半の練習で体力の限界近くまで来ているのに、『おにごっこ』が始まった瞬間、目の色を変えて走り回ってくれる。これが実は、トレーニング効果としては有効であった。たったそれだけで、今や日本を代表するような選手と同じ舞台で戦うことが出来たのだ。決して、素質にあふれた子供達でなくとも戦えたのである。

 楽しみ、興味があればモチベーションは維持し、基礎的な練習も自分で前向きに取り組むので、成果が出るのは当たり前なのだ。要は、どうやってモチベーションを高めさせるかが全てのポイントになる。そして、スポーツでもモチベーションを高め、厳しいながらも前向きになれる力を養った人財は、他の世界でも同様に頑張れるのだ。

 子供の時代に、このモチベーション向上力を養ってこなかった人材は、大人になってからでは頑張ることがなかなかできない。でも、諦めてはいけない。確かに、子供時代よりハードルは高いかもしれないが、一時我慢して、嫌な話にも耳を傾け、自分の目で見て、考えることを心がければ、必ずモチベーション向上力は身に付き、情報リテラシーが確実に高まる。

 私の周りでも、文章を読まない人間が多い。その癖、知ったかぶりをする。知ったかぶりが出来るワンセンテンスの言葉は耳に受動的に飛び込んでくるからだ。しかし、少し議論をしようとすれば直ぐに化けの皮が剥がれる。直ぐに感情的になり、非論理的に意固地になり、そして無視してソッポを向く。ほんの少しの議論さえ出来ない、薄っぺらになってしまう。そうすると、ワイドショーの視聴率稼ぎや似非政治家による洗脳の餌食となって、それが知りたい、政府は何もやってくれない、と言い始める。

 世の中は、それでもハインリッヒの法則で回るものなのだ。つまり、ほんの一握りの人が全ての方向性を決めて周りを従える。それでも良いと言う人は仕方がないが、ならば民主主義や自由なんて語るべきではない。一人でも多くの人が、情報リテラシーを高め、モチベーションを高く維持し、反対意見があっても議論を交わし、自身の方向性を決めつつ、周りに影響力を発揮していく。そういう人財育成が本当に必要不可欠な時代環境になっていることを理解する必要があるだろう。そして、なんでもいい、活字を読む習慣を身に着けて欲しいし、自身の意見を語れるように心がけて欲しい。小さな前進が、長い時間で大きな成果となることは保証する。

怒りの緊急提言、人の死を何と思っているのだ!

 羽田議員の死は本当に痛ましい事故であり、この様なことは二度と起こって欲しくない。年内、コロナ関連はもう書くつもりはなかったが、今朝のワイドショーで余りの言いっぷりに怒りすら覚え、書かざるを得ない状況となった。

 まず、この件、情報が錯綜しており、何が真実か正直言って不明の部分も多かった。アエラの記事では、PCR検査をこの混乱時期に自分が使うことで逼迫度合いが高まるとの理由で本人が断ったとの事だったが、ワイドショーでは、無症状時には検査対象とはならないと言われ、発熱後、受診を受けず民間のPCR検査を予約したが2日後だったとのことで全く異なっていた。何が真実なのだろうか?

 ただ、共通しているのは、24日の深夜に発熱後、発熱外来など医師の判断を仰ぐ行動がなかったのは事実の様だ。

 私が怒りを覚えたのが、あるジャーナリストがこのことを判断ミスと言いのけたことだ。流石に驚いたが、瞬間、菅野女史が諫めてくれたのが僅かに救いだった。

 確かに想像の範囲では、深夜の発熱の際に電話で相談していれば、少なくとも翌朝、発熱外来にかかっていれば、朝熱が下がったとしても夜には再び発熱しており、最悪でもその時点で医師の判断を仰いでおれば、と言うのを判断ミスと言いのけたのだろう。

 百歩譲って、本当に想像の通りの判断ミスだったとしたのなら、その原因を作ったのは貴方達だとの反省をするべきではないか。検査を医師の判断ではなく、素人判断で受けたい時に受けるべきと喧伝し続け、医師の判断関係なく素人が判断する様に仕向けたのは、貴方達、医療と関係ないPCR検査推進派ではないのか。

 通常は検査というものは、医師の判断で受けるものだ。医師は、診察とCT等の他の検査に合わせてPCR検査をして、確定診断を行う。極論を言えば、PCRで陰性と出ようと、新型コロナと同様の医療処置を実施することだってあるだろうし、その為に繰り返し検査をすることもあるだろう。陰か陽かが全てではなく、総合的に診断するのだ。

 普通に考えて欲しい。自分でレントゲン写真を撮って、自分で判断することなどあり得ないだろう。民間の検査で陰陽の結果で勝手な判断をするのは、これと同じことなのであり、あり得ないのだ。

 確かに春先、医師の判断があっても検査が行えない不幸もあったが、今や検査能力は格段に上がっていて、その様なことは無い。その時と混同してはならない。検査は、あくまで医師の判断なので、症状が無い場合は濃厚接触でもない限り検査の判断が下らない。当たり前だ、必要ないからだ。素人判断の検査は、誤った判断、誤った行動を引き起こすので本来危険なのだ。実際に、民間検査での偽陰性クラスターの報告も上がっている。誰でもいつでも検査を実施している国で、感染を抑止出来ているのは、非人道的な人権無視の行動制限隔離を実施できた国以外に存在しない。

 その様な状況で、誰でも検査を無責任にも訴え続けることで、空気感を醸成し、市場まで生み出した結果、実際に民間検査が今や相当な規模に増えている。医師の判断ではなく、勝手に検査を受けるという風潮が判断を誤らせたと言って過言ではない。そんな検査が無ければ、常識的には体調不良時には医師の判断を仰ぐのだから。

 なのに、コメンテイターは、民間のPCR検査が未だ少ないことが原因とし、もっと増強しなければならないと訳の分からない主張を繰り返していた。まずは、自分たちの作り出した空気、環境の及ぼしている危険性を直視し、反省するべきなのにだ。

 先日発信した提言である、医療の緊急事態宣言に続き、検査環境の緊急事態宣言を緊急提言する。

  1. 民間のPCR検査は全て各保健所の管轄として、医師の判断、空港検疫、濃厚接触者以外に実施することを禁止する
  2. 民間のPCR検査は、保健所の検査と同水準(試薬、検査精度など)で行う。
  3. 海外とのビジネス等でPCR陰性証明書が求められる場合は、特別に申請を受け付けて検査実施出来るようにするが、陽性検出の場合、医師の指示に従う事と、陰性の場合でも、非感染を証明するものではないので感染抑止行動は引き続き実行することを誓約させ、違反した場合の罰則を設ける。

 結局、日本における新型コロナ感染症対策で最大効果があるのは、先日の医療資源の再配分、全体最適化を目的とする強化策であり、その次が、PCR検査の統制だろう。無暗な検査は、偽陰性リスクだけでなく、医師の診療を受けずに勝手な判断をする方向に誘導するというリスクすらあるのだから。

東京都の感染拡大が他地区と異なる動きを示す理由の分析

 一旦『K値』そして『T値』(詳細は『ファクターXの正体』をご覧ください)で感染収束が検知された後、しばらくはピークアウトの傾向を示していたが、再び感染拡大に向かい始めている。それも、他地区と大きく異なる変化を東京が示している。森羅万象、世の中の出来事には必ず因果関係が存在する。東京だけ異なる傾向を示すのも、何らかの理由があるはずであるので、丁寧に検討していきたい。

 相変わらず、危機を煽り、政府を非難するだけのメディアも多く、危機管理のなんたるかを尤もらしく語っているが、正直言って、メディアで語られている危機管理は多くの部分で大きな勘違い、思い込みの激しい決めつけで、机上の空論が多すぎる。実践を通じて危機管理に対処してきた立場から言うと、もっとも危機管理対応時にやってはいけないことを多くのメディアは言い続けているのだ。

 考えうる最大のリスクに最初から対応するのが危機管理の基本だと言う間違った説が実しやかに語られている。大きな間違いだ。東日本大震災時の福島原発を襲った津波を想定外と言わしめた反省の様だが、一体どこまでの想定をすれば最大と言えるのか、が問題なのだ。

 例えば、地球崩壊のリスクを想定して巨大隕石の衝突を想定して、対応能力を備える必要があるのか。太陽の巨大クレア発生に備える必要があるのか。笑い事ではない、そんな可能性は無いと馬鹿にしても想定以上の津波は自然現象で発生するのであり、どこまでを馬鹿にできるのか、誰にも答えられない。もっと、身近な例で言うなら、飛行機には乗れなくなる。墜落事故の可能性を考えて命の危険を冒すリスクを取るのか、という事である。墜落事故は、確率は低くとも発生しうるリスクであり、最大のリスクでもあるのだから。更に言うと、車の運転、いや、道を歩くことすら出来なくなる。

 危機管理とは、実際に発生している危機状態を冷静に状況判断し、適切に対応しなければならない。それが基本だ。それ以上でも以下でもダメなのだ。だから、状況変化に柔軟にかつ迅速に適応する必要があり、極めて難しい判断の連続と舵取りを要求される。場当たり的に見えるのは、他人事で無責任が故でしかない。大きく、強力な措置、何もさせない、を実行する程簡単なことはないが、それは危機管理としては極めて無責任、責任回避の良い訳行動でしかないのだ。

もし、本当に日本が危機的状況に陥ると想定された場合は、まず情報統制を真っ先に実施しなければならないだろう。そうしなければ、危機管理対応としての実施策が全て無効化されてしまうからだ。そういう意味では、まだまだ日本は危機管理状態とは程遠い、平常状態なのである。

話を、感染再拡大の原因究明に戻そう。

まず、真っ先に想像できるのが、変位種の感染である。振り返ってみれば、本年3月に武漢種の感染が収束を見せた直後、入れ替わる様に欧米種が感染拡大を見せた。その欧米種は直前の渡航飛来したものと思われている。今回の感染傾向もその当時に酷似しているのだ。変位種はまだ数例だけが確認されているに過ぎないが、実はもっと早く、多く上陸していることも否定はできないはずだ。

少しだけ、疑問なのは、大阪など多くの海外からの入国者が東京と同様に多い筈の地域は、収束に向かい始めているのである。この違いは何だろうか?例によって、メディアは、若者を悪者にして行動の自粛を呼びかけるが、はっきり申し上げよう、大阪と東京で若者の行動レベルに差があると言うのは何の根拠もない。体感的に言うと、大阪の方が寧ろ対策面で緩やかである。その証左の一部として、店舗の正月開店状況を比較すれば分かる。大阪では、正月に普通に福袋が販売される予定が多い。東京ではほとんどが年末からの売り出し、しかも予約制だ。

私がよく用いる地域文化の差を表す、『エスカレータ理論』(詳細は拙著『ファクターXの正体』をご覧頂きたい)、ルールが目的化してしまい目的を見失い行動が東京に多いということも考えられるが、その件は別で議論しよう。

二つ目の仮説だが、民間の検査、誰でもいつでも受けることが出来るPCR検査の影響である。東京ではかなりのレベルで普及してきている。そして、不要不急の外出自粛要請、帰省を控える様なメッセージが発され、医療の世話にならない程度の体調不調時、或いは何もなくても、安心したいと言う理由での検査が爆発的に増えている。この中に感染者が存在した場合、その30%が偽陰性と判定され、誤った安心を得て、少々の症状があっても感染抑止策が不充分な行動に繋がる。これが感染爆発の大きなリスクなのである。このカテゴリに属する人は、安心させず感染抑止行動を徹底させるべきなのだ。

PCR検査は、医師の判断で行う、確定診断の助けになるものであり、勝手な安心を得るものではない。この点の勘違いが多すぎて困る。メディアが煽る、誰でもいつでも何回でも検査を実施している国で感染が抑えられている国があれば数字で語って欲しい。中国は、検査で抑えたのではない、強制的な集団隔離の効果があったのであり、検査は関係ないのだ。

無症状者による感染拡大を殊更大げさに言うが、無症状者はウイルスを保有していたとしても、咳をする有症状者と比較して、ウイルス拡散量は少ないのである。マスクをした状態で、飛沫を防げば、かなりのレベルでウイルス拡散を防止できる。従って、誰もが感染しているつもりでの抑止行動で感染抑止は可能なのである。

合わせて、周囲にウイルスが存在する、常在する前提での、感染抑止行動が重要なのである。つまり、ウイルスをもらっても粘膜に近づけない、洗い流す。そして、自然免疫力を高める様に努める事だ。それで全てではないだろうか。

 更にウイルスの変異であるが、メディアで恐怖の様に語られ続けているが、大きな間違いである。確かに強毒化する変異もあり得るが、今回の変異は、感染力が高まったとしか言っていない。ウイルスの基本的な性質上、感染力が高まると言うのは、毒性は弱まる方向にいくのだ。なぜなら、ウイルスも生存競争を戦っているからだ。毒性が強まった変位種は、感染機会が減少してしまうので自然淘汰されるのだ。もし、毒性と感染力を同時に高めることができれば、強力なウイルス兵器になるが、実はまだ成功事例は聞こえてきていない。つまり、今回の変異は、より通常の風邪の原因ウイルスに近づいたと考えるべきで、歓迎すべき変異に思える。Withコロナとはその様な変異でも近づくことができるのだ。

 最後に確認しておく。東京の状況を危機的と喧伝されるが、それでも欧米先進諸国と比較して、桁違いに感染規模が小さい。ニューヨークでは1日何十万回、いつでも検査が出来るのに、日本は何もしないと言われ続ける。同じ規模の感染に拡大して良いのなら、その選択肢もあるが、私は嫌である。

アメリカ、イギリスではワクチン接種が始まった。副反応のリスクを遥かの凌駕する効果を期待してのことだ。日本では、ワクチン接種に慎重論が専門家筋でもまだ多い。そのことが日本の感染状況が危機的状況ではない証拠でもあるのだ。

正しく恐れ、正しく対処する。必要以上の対応は100害あって1利無し。正しい行動を心がければ、マクロ視点では大きな危機に繋がらず、日本の医療も崩壊しない。

コロナ禍での我が家のゴルフ成果

コロナ禍で緊急事態宣言まで発出された1年であったが、巣ごもりの我が家の暇つぶし、ゴルフ一家として春に購入した練習用マットが、およそ9か月でこの様なズタボロ状態までなった。わずか、9か月である。

それ程、素振りに明け暮れた1年であった。それはそうだろう、打ちっぱなし練習場すら休業する状況なのだから。我が家の家族にとって身体動かさないのは、コロナに感染するよりも重症に陥ってしまうのだ。常に動いていないと死んでしまう回遊魚的な性質を持つ一家なのだ。

そして、怪我の功名とも言えるのだろうか、家族全員がパーソナルベストを更新、大幅レベルアップが果たせたのだ。

妻は、昨年まで年3回~程度のラウンドで、100を切れないゴルファーだった。しかし、今年は目標の100切を達成、どころかベスト91まで達成できた。ゴルフになってきた、面白くなってきた。来年は90切達成は確実るだろう。

光里は、陸上を引退し、ファンランも激減し、ゴルフに邁進した1年で、初心者の域から、100切をウームゴルフのなみきちゃんに先んじて達成、ベスト93、ハーフベスト43をマークした。陸上で鍛えた体幹と地面をとらえ反力を伝えるスウィングを習得、飛躍的な上達を成し遂げた。来年、同様に90切は当然、この先父さんと本気の勝負が出来るまで頑張って欲しい。

有美香は、大学最終年度、就職活動や卒業研究などでラウンド数は限られたが、それでもベスト102と100切に肉薄。そして何よりも、豪快なスウィング、ヘッドスピードで40に迫るパワーを持って、220ヤードドライブを実現。この力は、何よりも貴重でこの先の伸びしろはトンデモナイ、期待の星だ。

最後に私自身も、本年パープレイ、72を達成。生涯目標のエージシュートを本気で目指せる年齢まであと12年余り、それまでに更なるレベルアップと体力維持が課題。本年、クラブ競技の中止が前半特に相次いだためか、月例等では不調だったが、来年は確実に狙いに行く。

コロナ禍での基礎トレーニング、素振り。この大切さを実感し、来年は2代目素振りマットの登場となる。我が家の躍進は止まらない。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。

医療崩壊の数値的検証とその対策提言

 諸外国に比べて圧倒的に少ない感染者数、重症者数にも関わらず、医療崩壊の瀬戸際に立たされる日本。愕然とさせられる事象だが、本当であれば国家的に医療体制の脆弱性を真剣に改善しなければ、枕を高くして眠れないだろう。その実態を検証してみなければ、対策の方向性も検討できないので、オープンデータから検証をしてみる。
 
 まず、グラフをご覧いただきたい。このグラフは、感染者総数から死者数と療養解除者数を引いた推移である。つまりマクロな観点では、指定感染症であれば全て入院必要な患者となる。

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 ご覧いただければ分かるのがピークを2回経ながら3回目のピークへと向かって行く傾向の中で3万人というラインに近づいているのが分かるだろう。この3万人という数字が重要である。

 なかなか、減少しない傾向があるのは、一旦療養に入ると他の感染症と比較して療養解除まで長期間必要になる。即ち、他の感染症より病床占有率が高くなるのである。そして、3万人に迫ろうとしている。

 日本の病床数は、概ね100万床と言われているが、新型コロナに備えて準備可能とされたのが、その3%にあたる3万床である。即ち、マクロ的には逼迫している事を数値は示しているのである。

 いやいや、無症状者などホテル隔離、自宅療養も増えているという意見もあるだろうが、現実問題として3万床とはMAXであり通常の回転率、全国に散らばっている総数だと考えると、実質は約80%の2万4千床あたりで、そこいらじゅうでベッドがないと言う調整が必要になり、所謂逼迫状態になる。その分をホテルや自宅でカバーしていると考えれば、3万人に近接してきたという数字は、逼迫と言っていいだろう。

 一方で、今インフルエンザの患者は激減している。例年なら週当たり10万人前後の感染者だったのに対して、今年は数百人に収まっている。この中から入院患者はどれだけいたのだろうか?仮に1割と想定すると、1万人規模となるのであり、その分は病床に余裕があるはずだ。

 また、危機管理の基本中の基本だが、危機に備えて準備した資源(この場合病床であり、対応人数である)3万床で不足する事態が発生する場合、残りの97%から適宜資源の再配分を行うのである。3万から4万、5万というと相当なリスクを孕む規模に感じるかもしれないが、97%を96%,95%に調整すると考えるとそれ程困難には感じないのではないだろうか。現実、企業における危機管理対応時には、普通に当たり前に実行する資源の再配分なのだ。

 私自身、東日本大震災時の企業における危機管理対策本部や、その他のインシデント発生時の組織運営管理者として幾多の危機管理体制に対応した経験から言うと、資源の再配分は権限さえ備わればそれ程難しくないし、通常業務に影響を及ぼさずに対応可能なのである。危機管理体制やプロジェクトに必要不可欠なのは資源の確保に対する権限なのだから。しかし、厄介なのが、権限が付与されていないことを想定する場合なのだ。それでも、その体制をの責任者がまず実行すべきことは、資源の確保なのである。

 そもそも危機管理体制に資源確保の権限が付与されていない時点でお終いなのだ。資源を再配分しようと、全体最適を考えて采配を振るおうとしても、既存組織は既存のミッションを保有し、自組織防衛の為の防御反応が出るので、権限が無ければ、部分最適に引っ張られ、全体最適が犠牲になってしまうのである。

 今の医療界が発信している、既存の医療に影響が出ると言う言い方は、この部分最適の防御反応の象徴なのである。構造的に、医療業界全体を統制管理し全体最適を指揮できる権限機能が存在しないことが、危機管理体制として脆弱である所以なのだ。

 正直言って、冬の感染ピークは想定された現象であり、その時点で3万床の医療資源で間に合うかは極めて心もとなかったと言わざるを得ない。そもそも、諸外国の感染状況を鑑みた場合、当初3万であったとしても、柔軟に増床する資源再配分を想定しておくのが当たり前だ。3万が限界だから、3万以内に感染を抑えるべきだと言うのは、その通りだろうが、収まらなかった時点の策を用意していないのは、余りにも稚拙、怠慢の誹りを免れないだろう。

 特措法で有事の強制力が議論されるが、命を守る医療に対しての国家としての強制力は何よりも最優先するべき事項のはずだ。少なくとも、医療業界の善意による危機管理能力は限界があることが今回露呈しているのだから。

この件も含めて、政府の採るべき対策、法的な対処をまとめると

① 感染症指定時に予め想定できる感染状況を定め、それに対応する、医療体制確保、医療資源配分の要請を医療業界(医師会?)に要請できること
② 予め想定した感染状況を超える事態と感知した際には、医療緊急事態宣言を発出し、医療資源の再配分の指示を強制力を持って出来ること
③ 医療資源再配分とは、病床数、ICU数のみならず、それを運用する医師、看護師も含むものである
④ 当該指示における設備運用費、人的資源費用の通常以上にかかるコストは政府が負担するものとする
⑤ この際必要な、ホテル療養や自宅療養に必要な介護師の人的資源確保とサービス維持を指示し、コストは前期同様政府負担とする

 以上のような内容を、法律としてブラッシュアップして特措法に組み込めば、飲食店などの休業要請よりも、もっと現実的な政府対策になる事は間違いないし、この部分が不足していては、本当の意味で命を守る体制にはなり得ない。

 繰り返しになるかもしれないが、日本の医療資源は世界に堂々と胸を張れる水準であることは疑いようがない。そして、医療のレベルもトップレベルである。皆保険制度に支えられている医療サービス体制も万全だ。日本の医療がこの程度の感染拡大で崩壊することがあろうはずがない。あるとすれば、資源の配分が硬直的で偏っていることに原因がある。であるならば、少なくとも緊急時には、医療業界に不足しているだろうノウハウ、経営のノウハウを注入しなければならない。即ち全体最適を見据えた資源の有効活用のノウハウを注入しさえすれば、今発生している様な動脈硬化現象は必ず解消できる。確かに医療業界は不可侵かもしれないが、崩壊し、国民の命が危機に晒される事態であるならば、背に腹は代えられないはずだ。

 何故、分科会や専門家会議に経済の専門家が入っていながら、この種の提言が出ないのか不思議でならない。経済の専門家という学者は、結局実践力が伴わず、机上論で経営のプロではないとするならば、学者でない本当の経営のプロ、或いは現場指揮を経験した、企業には存在するバリバリの再建人材を入れて議論すべきだろう。

モチベーション特性

 モチベーションを高めるには、承認欲求・自己実現欲求が満たせる状態になれる、目指せると思えなければならない。しかし、どうなれば欲求が満たせるのか、このことは個々人よって異なるものであり、一様に語れるものではない。一般的に個々人の性格や志向は異なり、いくつかのタイプに分かれるのだ。以下に、4タイプに分けて簡単に説明する。

・A(attacking).結果追求タイプ;
 人に頼らず自分の力で結果を出すことにこだわるタイプ。
 一国一城の主として、勝ち負けにこだわり、自己責任の元、成功を目指す。人との競争において、秀でることを目指し、結果を出すことに執着する。実行に対して、自分自身に責任・裁量権が与えられないと、物足りなさを感じ、モチベーション低下につながる。また、目標は自ら高く設定する傾向が強く、目標が低いとモチベーションは高まらない。
 このタイプは、大幅に権限移譲をすると期待以上の成果が期待できる。

・T(thinking).分析論理タイプ;
 自身の知識を広げ、探求することにこだわるタイプ。
 物事を論理的に探究し、誰もが到達できない解を導き出すことにこだわるタイプ。特定の分野を深堀、探求したりすることで、問題解決にあたる傾向が強い。因果関係を明確にして突き進めることにモチベーションを感じる。逆に、計画のない行き当たりばったりの環境では、全くモチベーションが高まらない。示される方向性の論拠も明確で論理性が無ければ、モチベーション低下につながる。
 このタイプは、困難な課題に直面すると期待以上の成果が期待できる。

・F(feeling).発想感覚タイプ;
 自分らしさを追求しオリジナルの発想を重要視するタイプ。
 自分らしさ、自分の発想、感覚の趣向が強く、オリジナル性を志向し、新しい価値の創出にこだわる傾向が強い。自身の置かれている環境に自由度がなく発想や活動を阻害する様だと、大きくモチベーションが下がる。また、対応する役割に独自の工夫や相違が必要ない、定型的な行動を強いられるとモチベーションは下がる。
 このタイプは、誰もが未着手の新分野に直面すると、期待以上の成果が期待できる。

・E(empathy).貢献中立タイプ;
 誰かに感謝される、ありがとうと言われたいタイプ。
 人との協調性を重視し、対立を好まず、中立を保とうとする。その上で、人の役に立つことに喜びを感じるタイプ。個人ではなく、チームの成績にこだわり、リーダーではなく、縁の下の力持ちとして支えるタイプ。結果よりもプロセスを重視する。目標ノルマなど結果を厳しく追及されたりするとモチベーションは低下する。成果よりも感謝を受けることにモチベーションを感じる。逆に、無関心に置かれると、たちまちモチベーションは下がる。
 このタイプは。協力的な対人環境に置かれると、期待以上の成果が期待できる。

 以上の様に、タイプを見極めず、良かれと思って実施した施策が、逆効果でモチベーションを下げてしまう結果となり得ることを理解して欲しい。
 試しに身の回りの人物を見てもらいたい。面白いぐらい、上記4タイプで分類できることがお分かりになるのではないだろうか。勿論、筆者の様に、強烈なAタイプと若干のTタイプを持ち合わせる分かり易いパターンから、それ程極端ではなく、バランスよく2パターンを持ち合わせるなど人それぞれである。
 組織構成要因としても、このタイプのバランスが必要であり、Aタイプばかりの集団では、衝突ばかりで結果の前に破綻が見えてきて、モチベーションが生まれなくなってしまう。この特性を見極めた組織、人員配置が必要なのだが、日本の企業は、この考えとは程遠い組織人事が行われるのが、日本型企業の特徴である。どのタイプでも同様の役割、同様のチャンスが与えられる、終身雇用の平等性により、むしろモチベーション低下を招き、生産性の最大化が困難であるのが実態である。
 逆に言うと、この点を改善するだけで、飛躍的進歩の可能性も秘めているのである。

『じんざい』の4象限

『じんざい』という言葉に想いを込めた当て字を、図に示す。

 横軸をモチベーションの高さ、縦軸を能力の高さで、4象限で表している。右上のカテゴリ、モチベーションも能力も高い人、この象限には『人財』という字を当てる。言うまでもなく、社会にとって、組織にとって、財産となるべき、活躍が期待される人財なのである。
 その下の象限、モチベーションは高いが、能力が伴っていない人、この象限には、『人材』という字を当てる。モチベーションの高さを活かして、教育訓練して、知識も詰め込み、経験を積めば、必ずそれを活かす活躍が期待される原石であり、この時点では『材』の字を当てるが、右上の象限を目指せる、期待すべき層である。
 左の上の象限、モチベーションは低いが、実は能力が高い人、この象限は『人在』という字を当てる。人それぞれの個性であり、価値観なので、全面否定は出来ないが、一般的には勿体無い人達なのである。何か、価値観を変えるような出来事や、きっかけを与えれば大きく化ける。至極当然だが、元来能力を持っているのだから、やる気になりさえすれば力を発揮するのである。マッチする環境の提供、環境変化が必要な層なのである。
 実は、世の中の多くの人は、この象限に属すると言っても過言ではないだろう。2:8の法則(パレートの法則)と同様、右側の象限に属する全体の2割が、世の中を動かしている。しかし、動かしている層がマイノリティであるのも事実であり、左側の層から右側に僅かでもシフトすることで、世の中、組織は劇的に良くなる。従って、モチベーションを向上させる環境構築、施策は人が育ち、活躍する上で、最大の要素となるのである。
 左の下の象限、モチベーションも能力も低い人、この象限は『人罪』という字を当てる。非常に厳しい当て字だが、しかし、モチベーション向上策で変わりうるのである。モチベーションと能力のどちらを先に変えるべきかは明らかで、モチベーションなのである。モチベーションさえ向上すれば、それは『人材』領域であり、能力開発は見えてくる。モチベーションのない状態で能力開発と言っても、成果に限りがあるのは当然ではないだろうか。

 では、モチベーションを上げる為にはどうすればいいのか。そもそも、人によってモチベーションを上げる要素は異なるのであり、個々の特性を見極めた対応策が必要なのである。

 ここで、少し視点を変えて、人が欲する欲求のレベルを確認してみる。マズローの欲求モデルを見て見る。人が自己実現に向けての欲求を5階層に分類している。低い層の階層の要求が満たされるとより高い層の欲求を欲する様になるモデルである。

 最下層は『生理的欲求』。人間が生活する上での基本的な欲求で、食欲、性欲、睡眠欲などである。その次が『安全の欲求』で、危機的状況ではないか、健康面の心配はないか、経済面の心配はないか。
 その次の層が『社会的欲求』である。人間としての基本欲に問題なく、身を守る安全も確保できていると次に、社会の一員でありたいという欲求が働く。人間は孤独に耐えられないのであり、村八分や仲間外れは、この欲求を損なう厳しい対応になるだ。
 そして、ここまでの基本的な欲求が満たされると、次に『承認欲求』が働く。社会に認められたい、活躍したい、より高い地位を求めたい、金持ちになりたいなどである。
 そして、最上位の欲求が『自己実現欲求』である。自分の能力を最大限に発揮したいという、かなりレベルの高い欲求になる。

 基本的にモチベーションの要素としては、4段階目の『承認欲求』を得るための意欲、或いは、最高レベルの『自己実現欲求』にどう達するかという意欲となる。ここで、よく考えて欲しい、3段階目までの欲求が満たされない状態で、4段階、5段階の欲求は論外なのである。即ち、環境として、3段階目までの欲求が基本的には満たされている必要があることに注意して欲しい。これが意外と整っていない場合が多いのである。

 学校内で、友達が出来ず、先生にも理解されず、常に怒られてばかりで居場所がない。何をしても認めてもらえるどころか、聞く耳を持ってもらえず、同じ空間を共有できない別モノ扱いされてしまう。
 会社内でも、組織の中で浮いて、誰にもまともに話を聞いてもらえない。仕事も任されず、雑用ばかり。仕事をしていても、上司にも自分の仕事を見てもらえず、丸投げ、まかせっきりで、問題を抱えても誰にも相談できない。
 家庭内でも、会話もなく、話はまともに聞いてもらえず、一方的に言われるだけで、コミュニケーションが成立しない。などなど、様々な例はあるだろうが、その状態でモチベーションが高く保てるのは、特異的な反骨精神の持ち主だけであり、通常の人間はモチベーションを高めるどころの話ではなくなる。
 従って、まずは、この次元の欲求、特に社会的欲求を満たす環境を注意して確認することが入口になる。

 学校教育であろうと、会社組織の人材育成であろうと、ジュニアアスリートの指導であろうとも何も変わらない。指導者、教育者、指導担当、先輩、上司、どう呼ばれようとも、最も重要視しなければならないのは、人が育つ環境を提供出来ているかであり、そこの改善は怠ってはならない。

 そして、モチベーション向上に関してだが、基本的に、承認欲求、自己実現欲求が対象になるが、それ以下の欲求と異なり、事はそう単純ではない。個々人によって、何をもって、承認欲求が満たされるのか、自己実現に近づけるのか、が異なるのである。タイプが異なると言えば分かり易いだろうか。このモチベーションのタイプは別レポートで報告したい。