人財育成の入り口、現代の課題

 最近よく感じるが、活字を読む習慣が現代人に不足している。世の中が大衆迎合にシフトし、分かり易いワンセンテンスで語る傾向が強まると、しっかりと文脈を読む、分析力が衰えていく、鶏が先か卵が先か、は不明だが、その傾向の強さは間違いなくある。朝のワイドショーでは、時のニュースをそこが知りたいと、もっと分かり易いメッセージが政府に欲しい、国民に声が届かないとか言い続けて視聴率が高まっている様だが、私なんかは、知りたければ自分で調べれば良いだろう、政府は説明しているけど聞いていないの?ちゃんと聞いてから反論すれば?と感じるのだ。結局放送内で知りたいことは論理的に解説していないで不安だけ煽っているのだ。

 情報とは、それ程簡単に表現できるものではなく、丁寧に記述し、筋に沿った説明を要するものだ。数字も同じで、読み取る力があれば様々な情報を検知できる。聞き手側に読み取る力が必要になるのだ。発信側は、正確な情報を伝達しようとすれば、ワンセンテンスでは不足し、文脈での伝達が必要になる。出来るだけ分かり易く図やグラフで表現しようとも、文章での伝達は避けられない。従って、情報を受け取り、自分の情報力とする為には、読解力が必要不可欠なのだ。

 しかし、残念ながら多くの人は文章を読まなくなっている。読まないから読解力も衰えていき、論理思考力は尚更なのだ。そして、都合の悪い話には耳を塞ぎ、自分勝手なストーリーを自分の世界だけで作り上げる、悪循環なのだ。文章を読むには一定の胆力が必要だが、その胆力が衰えているのが文章を読めない主要因と考えている。電波やインターネットの動画で受動的に入ってくる情報、それがワンセンテンスに偏っていればいる程、分かり易いので、能動的な情報取得思考、胆力が衰えている。

 小さな子供には最初はこの胆力が備わっていない。集中力と言い換えてもいいが、10分と同じことに集中できないのが、成長と共に徐々に集中力が備わっていく。多くの子供が経験する受験勉強は、その胆力育成の重要なトレーニングとなる。従って、素頭の良い悪いではなく、受験勉強という嫌なことでも頑張ってやり続ける行為で個々人の差が表れる。良い学校に合格したかどうかではなく、自分の学力を伸ばせたかどうか、やるべき時にやるべき事をやることが出来たかで差が出る。

 この胆力、集中力はどうやって育成することが出来るのか。そもそも、精神面だけではなく、体力も必要不可欠なのだ。頑張ろうとしたときに、身体がいうことを聞かなければ話にならないからだ。無理が効く心身、いざという時に、やり通す力だからだ。

 小学生に陸上競技の指導をしている時に感じるのが、彼らは楽しくなければ我慢できない。辛い練習は、心身ともついていけないのが実情だ。その状況で基礎的な運動能力と陸上競技としての競技力、続ける精神力を育成する為の、最高の練習方法が『おにごっこ』だった。

 1日の練習メニューを組み立てる時に、前半に子供たちの嫌いな技術練習を組み込む。通常だと、身が入らず、上の空で、身につかない傾向が強いのだが、練習終了後に『おにごっこ』の時間を設けると、その遊びの為に少しは我慢してくれるのだ。そして、実は前半の練習で体力の限界近くまで来ているのに、『おにごっこ』が始まった瞬間、目の色を変えて走り回ってくれる。これが実は、トレーニング効果としては有効であった。たったそれだけで、今や日本を代表するような選手と同じ舞台で戦うことが出来たのだ。決して、素質にあふれた子供達でなくとも戦えたのである。

 楽しみ、興味があればモチベーションは維持し、基礎的な練習も自分で前向きに取り組むので、成果が出るのは当たり前なのだ。要は、どうやってモチベーションを高めさせるかが全てのポイントになる。そして、スポーツでもモチベーションを高め、厳しいながらも前向きになれる力を養った人財は、他の世界でも同様に頑張れるのだ。

 子供の時代に、このモチベーション向上力を養ってこなかった人材は、大人になってからでは頑張ることがなかなかできない。でも、諦めてはいけない。確かに、子供時代よりハードルは高いかもしれないが、一時我慢して、嫌な話にも耳を傾け、自分の目で見て、考えることを心がければ、必ずモチベーション向上力は身に付き、情報リテラシーが確実に高まる。

 私の周りでも、文章を読まない人間が多い。その癖、知ったかぶりをする。知ったかぶりが出来るワンセンテンスの言葉は耳に受動的に飛び込んでくるからだ。しかし、少し議論をしようとすれば直ぐに化けの皮が剥がれる。直ぐに感情的になり、非論理的に意固地になり、そして無視してソッポを向く。ほんの少しの議論さえ出来ない、薄っぺらになってしまう。そうすると、ワイドショーの視聴率稼ぎや似非政治家による洗脳の餌食となって、それが知りたい、政府は何もやってくれない、と言い始める。

 世の中は、それでもハインリッヒの法則で回るものなのだ。つまり、ほんの一握りの人が全ての方向性を決めて周りを従える。それでも良いと言う人は仕方がないが、ならば民主主義や自由なんて語るべきではない。一人でも多くの人が、情報リテラシーを高め、モチベーションを高く維持し、反対意見があっても議論を交わし、自身の方向性を決めつつ、周りに影響力を発揮していく。そういう人財育成が本当に必要不可欠な時代環境になっていることを理解する必要があるだろう。そして、なんでもいい、活字を読む習慣を身に着けて欲しいし、自身の意見を語れるように心がけて欲しい。小さな前進が、長い時間で大きな成果となることは保証する。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。

モチベーション特性

 モチベーションを高めるには、承認欲求・自己実現欲求が満たせる状態になれる、目指せると思えなければならない。しかし、どうなれば欲求が満たせるのか、このことは個々人よって異なるものであり、一様に語れるものではない。一般的に個々人の性格や志向は異なり、いくつかのタイプに分かれるのだ。以下に、4タイプに分けて簡単に説明する。

・A(attacking).結果追求タイプ;
 人に頼らず自分の力で結果を出すことにこだわるタイプ。
 一国一城の主として、勝ち負けにこだわり、自己責任の元、成功を目指す。人との競争において、秀でることを目指し、結果を出すことに執着する。実行に対して、自分自身に責任・裁量権が与えられないと、物足りなさを感じ、モチベーション低下につながる。また、目標は自ら高く設定する傾向が強く、目標が低いとモチベーションは高まらない。
 このタイプは、大幅に権限移譲をすると期待以上の成果が期待できる。

・T(thinking).分析論理タイプ;
 自身の知識を広げ、探求することにこだわるタイプ。
 物事を論理的に探究し、誰もが到達できない解を導き出すことにこだわるタイプ。特定の分野を深堀、探求したりすることで、問題解決にあたる傾向が強い。因果関係を明確にして突き進めることにモチベーションを感じる。逆に、計画のない行き当たりばったりの環境では、全くモチベーションが高まらない。示される方向性の論拠も明確で論理性が無ければ、モチベーション低下につながる。
 このタイプは、困難な課題に直面すると期待以上の成果が期待できる。

・F(feeling).発想感覚タイプ;
 自分らしさを追求しオリジナルの発想を重要視するタイプ。
 自分らしさ、自分の発想、感覚の趣向が強く、オリジナル性を志向し、新しい価値の創出にこだわる傾向が強い。自身の置かれている環境に自由度がなく発想や活動を阻害する様だと、大きくモチベーションが下がる。また、対応する役割に独自の工夫や相違が必要ない、定型的な行動を強いられるとモチベーションは下がる。
 このタイプは、誰もが未着手の新分野に直面すると、期待以上の成果が期待できる。

・E(empathy).貢献中立タイプ;
 誰かに感謝される、ありがとうと言われたいタイプ。
 人との協調性を重視し、対立を好まず、中立を保とうとする。その上で、人の役に立つことに喜びを感じるタイプ。個人ではなく、チームの成績にこだわり、リーダーではなく、縁の下の力持ちとして支えるタイプ。結果よりもプロセスを重視する。目標ノルマなど結果を厳しく追及されたりするとモチベーションは低下する。成果よりも感謝を受けることにモチベーションを感じる。逆に、無関心に置かれると、たちまちモチベーションは下がる。
 このタイプは。協力的な対人環境に置かれると、期待以上の成果が期待できる。

 以上の様に、タイプを見極めず、良かれと思って実施した施策が、逆効果でモチベーションを下げてしまう結果となり得ることを理解して欲しい。
 試しに身の回りの人物を見てもらいたい。面白いぐらい、上記4タイプで分類できることがお分かりになるのではないだろうか。勿論、筆者の様に、強烈なAタイプと若干のTタイプを持ち合わせる分かり易いパターンから、それ程極端ではなく、バランスよく2パターンを持ち合わせるなど人それぞれである。
 組織構成要因としても、このタイプのバランスが必要であり、Aタイプばかりの集団では、衝突ばかりで結果の前に破綻が見えてきて、モチベーションが生まれなくなってしまう。この特性を見極めた組織、人員配置が必要なのだが、日本の企業は、この考えとは程遠い組織人事が行われるのが、日本型企業の特徴である。どのタイプでも同様の役割、同様のチャンスが与えられる、終身雇用の平等性により、むしろモチベーション低下を招き、生産性の最大化が困難であるのが実態である。
 逆に言うと、この点を改善するだけで、飛躍的進歩の可能性も秘めているのである。

理系と文系の特性相違点

 私自身は理科系学問(理学部物理学科にて)を学び卒業し、就職後も技術開発などの業務を中心に従事し、企画販促や管理系、経営にも携わってきた。理系の中では幅広い分野に従事したが、その根底にある軸足、判断基準は理系脳による論理思考であったと思っている。

 ビジネスの世界で、理系と文系でどちらが優位なのか、判定は出来ないだろうし、答えはないかもしれないが、私の持論として、理系的論理思考力を持ちつつ、文系的幅広い視野での柔軟な思考展開が出来ることが理想的であり、そのバランスが勝負のキーポイントであると考えている。
 昔、データベース・マーケティング論をビジネスで語りあった時の1例を上げる。データの分析やその仕組みであるシステム思考など、構造的かつシステマチックに理解していなければ、マーケティング分析やCRM提案は出来ない。基礎となるシステムや技術面のバックボーンなく語るのは、いい加減な絵に描いた餅、机上の空論でしかないと論破していた。ちなみに、世の中のこの手の企画提案には、実にきれいに表現した夢の世界の絵に描いた餅の詐欺紛いのものが多いのも実態である。
 一方で、仕組みや論理、技術面に終始すると、その先の可能性や運用面の人の感性などが抜け落ちてしまい、面白くもなんともない、単に難しいだけの企画提案になってしまいがちである。これでは、正しいかもしれないが、実際の利活用には程遠く、夢もない状態に陥ってしまいビジネスでは通用しなくなる。
 実世界、実運用上は、理系、文系のバランスが取れる必要があるのだ。

 では、バランスと言ってもどちらを優位にするべきなのか。論争として、理系センスを持った文系と文系センスを持った理系とどちらが最終的に勝つのか。この論争に答えはない。しかし、実社会では双方のバランスが必要だということに異論はないだろう。しかし、現実社会は、どちらかというと文系脳に偏っている方が優位になる様に感じざるを得ないのは私だけだろうか。もう一つ、現実社会では、理系、文系の分類とは別に、軸としては直交する全く異なる軸として、体育系と芸術系が存在するが、複雑になる為今回はこの軸は除外して考える前提で、どうしても理系だけ偏った印象があるのは事実ではないだろうか。

 理科系学問の性格として、白黒はっきりしている事が上げられる。数学の計算結果に曖昧さはない。物理の法則も真しかなく、化学も再現性が要求される。もちろん、人類が知り得るのは、砂漠の一粒の砂に過ぎないのが自然科学の世界の真ではあるが、その一粒の真理を究明するものだ。解のない場合は、現時点で解がないとはっきりさせ、解を求めていく。万人に共通する解を。
 文科系学問の性格として、人それぞれの思想や考え方によって解は異なってくる。それぞれの見解として。法が絶対的なものと言いつつ、法律で明文化していながら、解釈が人によって異なってくる。歴史も学説として主流派はあっても、異説も異論も多々あるし、それぞれに正誤関係はない。新説に対して反証を繰り返し洗練されていく。しかし、どこまで行っても絶対真理には行きつかない。
 政治や経営の分野は、不確実な未来に対して、確実な答えを持たずに、今の手を打っていく。一長一短ある様々な方法論の中で、総合的に判断して決断するのだ。そこには政治、経営のポリシーが必要だろう。人間である限り、判断に迷う事もあるだろうが、その場合も基準となる根本的な基盤思想を持って判断される。しかし、判断のためにインプットされる情報が偏っていて全体像が俯瞰できなかったり、客観的な状況が見えていないと判断を誤ることもしばしばある。
 だからこそ、政治や経営の責任者は、多くの情報を多面的かつ総合的にインプットしたいと考えるのである。政治で言えば、専門家会議や話題の学術会議、経営であれば事業戦略部門やコンサル、シンクタンクだろう。
 では、この求める情報を提供してもらうためには、理系が良いか文系が良いかを考えて見よう。文系の性格上、答えには個人の思想信条、考えの偏りが必ず発生する。従って、決して客観的とは言えない。つまり、政治や経営に活かす情報としては、一人、一系統の文系系情報のインプットでは偏ってしまう事になり、判断を誤る原因になるのだ。確かに、政治家や経営者自身の思想信条、自分の考えに近しい系統から情報を得ると、自身の考えと一致しやすく、ある意味の心地よさが得られるだろうが、この様な場合の多くは裸の王様化してしまう危険性が高い。従って、文系的な情報をインプットとして活用する為には、真っ向対立する異論含めて多くの情報を多系統から求めなければ、総合的に判断することが出来ない。それが出来ないで偏ってしまうぐらいなら、初めから自身の思想信条、考えに則って他の情報を持たない方がむしろ良い。
 一方で、理系的情報を得るとどうなるのか。理系的性格上、正か誤か、その度合いを数値で表現するなど、情報としては明確になってくる。否定しようのない情報であふれるはずだ。しかしながら、現実に打つべき手が、その事に全面的に沿う必要があるかというと決してそうではない。何故なら、求めた情報の方向性においては真実であろうが、現実世界は多極面が存在する複雑化した社会である。実際に打つ手も、1か0かではなく、バランスが求められる。そのバランス感覚は政治家、経営者の手腕に委ねられるのだ。但し、絶対的事実の情報があれば、バランスが取れた判断に役立てられるのである。

 こうやって考えると、政治や経営で政策判断、経営判断の助けになる情報を取得する方法としては、基本的には理科系面の情報取得が必要不可欠だろう。やはり、客観的情報としては理系的な情報が望ましいと言わざるを得ない。少し、幅を広げても数学、統計的解析の経済まで広げても良いが、何が正か判然としない個々の思想が前面に出る法律系、政治系は情報としては偏ることを織り込む必要がある。人文科学的な情報は、アウトプットされる提言ではなく、その経緯の議事録、議論内容がなければ情報となりえないと言っても良い。一方向に考えをまとめ上げる事を求めているのではなく、両論を公平に聞きたいのであり、一方を封殺する様では採択できる訳がないのだ。
 例えば、原子力エネルギーの政策を検討する上での情報を取得する場合、理系的側面では、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーの夫々のエネルギー効率や温暖化ガス排出など多角的な影響面の科学的考察と開発のロードマップ、技術の可能性、安全面や想定リスクなどが情報として得られる。しかし、このことに関して文系的な情報を得ようとすると、イデオロギーを問う様な答えが、正解とは言い切れないにもかかわらず正解の振りをしてアウトプットされてしまう。こんな情報は百害あって一利なしなのだ。いや、言い過ぎたとすれば、住民感情や理解度、説明責任のレベル感などを推し量ることは出来るかもしれないが、事の是非を判断する情報では決してあり得ない。もちろん、最終的には民主主義的手段で決定していくのだろうが、その場合も政治家、経営者の信念で説得する以外になく、おもねる必要はないのだ。ダメだったら、政治家も経営者も進退を伺うだけなのだから。

 さてさて、そうこう考えると、今問題の学術会議はどうだろう。学術会議は政府の諮問機関であるのは誰も疑わないはずだ。しかし、3分の1が自然科学工学系、3分の1が医学薬学系、3分の1が社会科学法学政治学系であり、多くの発言は社会科学系、つまり文系の発信である。この3系統で言えば、母数となる研究者総数に対する比率で言えば、社会科学系は他の2桁下の数でありながら、会議体としては3分の1を占め、発信としては更に全体を牛耳っている印象が強い。これでは正当な判断の為の情報を得ることは出来ないと考えるのが通常だろう。それゆえ、政府は長い期間諮問をしていないのだ。
 この3分野を独立させ、数的にも適正数に配分し、もっと理系的な発信が前面に出る様な会議体にならなければ、政府諮問機関としては機能しないのだ。
 更に加えて言うと、政治家はプロである。そして行政の実行部隊である官僚もプロである。私には、人文科学系の学者がプロとして誇れるのは、自然科学系で言えば理学の分野であり、その実践に当たる工学の分野は、政治家や官僚の領域ではないのだろうか。であれば、人文科学系の学者に敢えて諮問する必要性は無く、あっても情報連携で充分。但し、政治家に絶対的比率で理系が少ないのが実態に見える状況では、自然科学、医学薬学系の学者、専門家への諮問は必要不可欠だろう。

 私は、理科系の人間なので特に強調したいのだが、もう少し理科系の人間を重用し、活躍の場が与えられる社会にならなければ、バランスの取れた判断による、本当の意味での発展にはつながりにくいと考えている。

デジタル化の波

 デジタル化推進に政府が大きく舵を切った。
 積年の課題であるが、コロナ禍による影響で、少しは世間に必要性が訴求され追い風が吹いている今こそ唯一無二、絶好のチャンスであろう。

 この課題は、何十年も前から目指すべき電子政府という目標があったにもかかわらず、抵抗勢力の影響だろうか、遅々として進まなかった。ナショナルIDも複数回チャレンジしてきたが、政府が悪の化身であるかの様な言い方で、政権政府に情報を握られることで、悪用されるリスクを誇張し続け、一般人の不安を煽り続け、実現を遠ざけてきた。
 マイナンバーは、何度目のチャレンジであろうか、恐らく今回のチャレンジで浸透ができなければ、先進国で唯一ナショナルIDが運用されていない劣後国のレッテルが貼られるだろう。

 デジタル化の課題は、難しそうでありながら、実はグランドデザインとしては、至極簡単なのである。縦割り行政が問題視されているが、正直言って縦割り状態でのデジタル化は可能なのである。ただ一つ、横串を貫く、データ連携設計を基に、基本設計基盤に各所から接続するインタフェースの形さえ作り上げれば良い。無理に縦割りを連結して、個々のシステムの自由度を奪うのでは、様々な逆の弊害も出てくるのである。
 従って、デジタル庁のあるべき姿としては、機能としてはクラウド・データセンター機能に特化する形が理想的であると考えられる。そうであれば、各省庁などの個別特有な業務に適したアプリケーションの対応が可能になる。縦割りの良さを活かしながら、横串が刺さった一気通貫の仕組みが出来上がるのである。

 それでも、いまだ抵抗勢力は根強く存在する。

 抵抗勢力は、今後も無意味で非論理的かつヒステリックに不安を煽り続けるだろう。その最近の例で言うならば、ドコモ口座などの不正出金被害にかかわる報道だろう。伝え方として、便利を追求すると、セキュリティリスクが高くなると言い切っているが、これは根本的に間違っている。便利さと、セキュリティは両立を目指せるのであり、その障壁となるのはコストなのである。

 不正出金の件の問題は、やるべきセキュリティ対策を怠ったことが主要因であり、基本的な2要素認証や2段階認証による接続と本人確認を行えば、問題なかった。更に、その先には、マイナンバーカードの電子証明書を本人認証として利用する様になってくれば、更にセキュリティ性は向上する。つまり、利便性を保ったまま安全な運用が可能になるのである。

 技術の進歩を享受するには、その技術の使い方が重要なのである。使い方を誤れば技術は宝の持ち腐れになるが、使い方を間違わなければ、宝となり、宝が次の宝を生み出す効果も期待できる。しかし、使い方を間違わないためには、初期コストの投資が必要になる。不正出金の問題は、この初期投資を目先の利益のため、嫌がった結果に他ならないだろう。
 この初期コスト、投資は、新しい技術による便利さの享受と言う大きなリターンがあり、経済的にも確実に投資回収が出来るのである。

 もう一つ、大きな抵抗勢力の反論は個人情報漏洩のリスクであろう。しかし、危機感を煽る言い方に、個人情報が何たるものかと言う基本的な知識の欠落すら感じるのである。
 結論から言おう、デジタル化を推進し、マイナンバーカードの利活用を拡大することで、個人情報漏洩のリスクも間違いなく低減できるのである。

 マイナンバーカードを落としても顔写真や基本情報の漏洩はあっても、それ以上の機微情報などの漏洩のリスクは極めてゼロに近い。マイナンバーカードには必要以上の情報が入っていないし、使用も出来ないのだから当然だろう。しかし、マイナンバーカードの電子証明書利活用が拡大しなければ、アクセス先である各省庁に存在するデータの脆弱性は高まり、漏洩リスクが高くなるのである。などなど、実はデジタル化を推進すれば、必要なセキュリティ対策さえ実施してあれば、安全性が高まるのである。確かに、必要なセキュリティ対策の実施有無による、リスクの差はデジタルの場合大きくなるのは疑い様は無いが、適切なセキュリティ対策を運用すれば全て解決するのだ。

 縦割り組織の最大の良さは、情報が分散することで、漏洩リスクを最小化出来ること。縦割り組織の短所である、情報連携、効率的な横連携は、デジタル化基盤の構築で解決できる。そして、安倍政権時代に野党から攻撃を受ける最大のポイントであった文書管理の問題も、デジタル化でアーカイブすることで解消できるのである。

 コロナ禍がもたらした、千載一遇のチャンスを活かして、遅ればせながら先進国並み、いや一気に最先端のデジタル・トランスフォーメーションを反対勢力に臆することなく、全力で進めるべきである。

セキュリティを守る『組織風土』

 組織の構成員がモチベーションを高く保てない状態では、その組織は良い結果が出せないだろうし、一時的に無理して出していくと、その歪は大きな危機的現象を生みかねない。
 最も軽い現象は、組織員の脱退、会社なら退職。何らかの事由で、それも困難な場合、組織内犯罪、内部犯行、ハラスメントと組織の腐敗に向かって一直線に進んで行くだろう。

 セキュリティ・マネジメントの世界で、昨今強く言われるのが、組織内犯行を防止、組織員を疑う、いわゆる『性悪説』による対策の推進がある。しかし、はっきり申し上げるが、『性悪説』を究極に追及する体制において、実はセキュリティは守れないという矛盾が発生する。セキュリティの世界、いたちごっこであり、攻撃と守りは常に進歩しており、終着点は無い。
 組織内において、『性悪説』を基に、何もできない様に雁字搦めの状態では、仕事は出来ず、それが不必要で無意味に厳しい場合、モチベーションの低下とともに、つい出来心を起こさせてしまう環境となる。バランスが必要なのだ。
 簡単に言えば、『性悪説』の究極の対応は、人に何もさせないこと、なのだ。何もさせなければ、何も悪いことはできない、間違いも起きようがない、しかし、何も価値も生み出せないだけである。

 だからといって、セキュリティ度外視、ゆるゆるの状態では、これからの時代、サイバーセキュリティや情報セキュリティは他人事ではなく、明らかに攻撃の手段は高度化している。また、社会的風潮も、セキュリティ面での不正が発生した場合の社会的制裁は厳しく、機密情報漏洩や個人情報漏洩などが発生した場合、経営は危機管理状態に陥ることは間違いない。
 危機管理対応として最も重要視されるのが説明責任だが、発生した事象が何が原因でどうなったのか、その問題点は何で、どう再発防止策を採るのか、明確にかつスピーディーに説明する必要がある。
 この説明責任を確実に果たせれば、逆に信頼を勝ち取ることにもつながるが、説明できないと最悪の事態に突入だろう。ゼロリスクは、あり得ないので、インシデントを100%防ぐことは出来ない。如何にマネジメントできるかが重要であり、説明することで、そこまで対策していたのなら致し方ない、と思ってもらえる要点が『性悪説』を前提にした対策なのである。

 では、セキュリティインシデントを防ぐには、どうすれば良いか。『性悪説』対策でダメなら、何があるのか。

それは、断言しよう、『組織風土』なのだ。

 組織の内部犯行事例をその真因を追求し、考察を続けて行き当たる、答えが『組織風土』である。テレビドラマの様に、悪意を持って犯行に及ぶケースというのは、実はレアケースである。その犯行に対して失うものと、得るものを天秤にかけると到底釣り合いが取れないからだ。もちろん、米国ペンタゴンなど国家機密を取り扱う場合は、一発勝負、天秤は釣り合うかもしれない。しかし、それは一般のレベルではない。
 では、なぜ内部犯行が起きるか。それは、その組織内で、立場や居場所がなくなり、追い込まれ、已むに已まれず、つい犯行に及ぶ。それは、『組織風土』が病むことで、中にいる組織構成員が悪意を持った結果ではなく、負けてしまった結果なのである。人は弱いもの、これを『性弱説』と言う。

 つまり、これからのセキュリティ・マネジメントに求められるのは、発生しうるリスクに対して、説明責任を果たせる対策を実行し、真の意味で事故を発生させない、鉄壁の『組織風土』を構築することに他ならない。

 この『組織風土』を健全に保つために、構成人員のモチベーションの総和を高く維持する必要がある。この場合のモチベーションを測る方法として、モチベーションタイプやマズローの欲求モデルよりも、ハーズバーグの動機付け・衛生理論分析が適切だ。

 ハーズバーグの動機付け・衛生理論は、モチベーションの要素をプラス要因の動機付け要因と、マイナス要因の衛生要因に別けて考える。動機付け要因としては、『達成』『承認』『仕事そのもの』『責任』『昇進』『成長』に分類、衛生要因は、『会社の方針と管理』『監督』『監督者との関係』『労働条件』『給与』『同僚との関係』『個人生活』に分類する。
 各構成員に、アンケートするなどして、この分類ごとのスコアリングを行い、『組織風土』面の問題を洗い出し、対策を打つべき課題をあぶり出す。
 簡単なアンケートで、かなりのレベルのスコアリングがはじき出せるので、対策前と後の変化を見ることでKPIともなり得るのだ。

最後に繰り返しになるが、組織の弱さの順は
① 悪いことをやれてしまい、ついやってしまう組織
② 悪いことをやりたくても、やれない組織
③ 悪いことはやれてしまうが、やらない組織
④ 悪いことはやれないし、やらない組織
なのである。