異論排除の原理主義は害、両論の論理的な公開討論が社会の健全化に

選挙直前のネット空間で繰り返されている現象がある。それは、保守系と言っていいだろうか、政治系の情報発信にBANと呼ばれるコンテンツ排除、広告剥がしが頻繁化している。

YouTubeなどレギュレーションが厳密に規定されているとはいえ、各情報発信コンテンツは、かなり表現を意識してコンテンツ制作されているのが実態であり、それを逸脱しているとは思えず、踏み込んだ内容は限定公開などの方法が使われているが、それでも多くのコンテンツ規制事例を耳にする。

AIによる文言監視などとの説明も聞こえてくるが、ビフォーアフターで実験的に確認しているコンテンツの報告もあり、その様な単純な話では論理的な説明ができないのが実態である。

YouTubeなど民間プラットフォームで意図的な偏向行為、レギュレーションの操作が行われるとは思えない。勿論、反ワクチンなどの情報統制の要請に応える事はあるだろうが、自社で意思を持った統制を行う事は基本的にない。

総合的に考察すると、『報告』という形を取った、反対意見潰しとの疑惑が浮上するのだ。

<ヤフコメ問題の実態>

ヤフコメがネトウヨに占拠されていると一部で報じられて、社会的意義が無くなったという極論まで電波メディアで発信されている。

筆者自身もヤフコメは少々閲覧していた時期もある。その際の印象は、『あべがー』『ガースー』等、民主的に選ばれた人物に対する最低限のリスペクトもなく、呼び捨てで誹謗中傷する様な空間であった。その批判の中身も、事実に基づかない、感情的で非論理的な決めつけの内容が殆どで、しかも記事が上がった瞬間に、その種のコメントで埋め尽くされる印象が強く、冷静で健全な言論空間とは程遠い状態に感じていた。同時に、何故こうも素早く、しかも大量に発信できるのか、不思議で仕方が無かった。

余りの状態に、筆者も、事実のデータを示し、冷静な議論を呼びかけた事もあったが、議論どころか、意味不明の誹謗中傷の攻撃も経験している。決してまともな議論ができる空間ではなく、余りにも偏向し過ぎで、最近は閲覧もしていなかった。

そこに、『ネトウヨが占拠』との情報が耳に入り、極めて違和感があったが、確認して見ると、確かに昔とは少々違っている様に見えた。『ネトウヨ』の定義は不明だが、単なる感情的な誹謗中傷よりも、論理的なコメントもそれなりの数が見受けられる変化があった。この状態を『ネトウヨが占拠』と言うのならば、誹謗中傷のストレス発散の場に、少々冷静な意見発信が増える事を良い事と思わない、つまり感情論の持ち主は多様な意見に不寛容で、異論に対して攻撃的性向を持つ現れとしか思えないのだ。

それでも建設的な議論というよりは、両論のコメ主が並立している空間という印象だ。

<反論・異論の公開討論が健全な社会を創成する>

エコーチェンバーという閉鎖的な集団内での意見が増長していく現象をネット空間の特徴の様に巷では言われるが、電波系メディアの方がその傾向が強いのが実態ではないだろうか。両論併記を遵守するメディアはほぼ皆無だろう。放送時間等尺の問題もあるかもしれない、反論で収拾がつかない状態を嫌うのかもしれない。電波メディアでエコーチェンバー状態をもたらす重要な役割を、専門家やタレントコメンテイターが果たしている。画一されたコメントで埋め尽くされ、深く考えず、自身で1次資料も見ず、様々な意見に耳を傾けず、単なる感想を、番組の主張に沿って発言する存在が、あたかも世の中の主意見であるかのような印象操作で錯覚を視聴者にもたらす。

その中で、自民党総裁選が様々な意見を討論する重要さを思い出させてくれた。その後国会が開かれたが、やはり国会は誹謗中傷に溢れ、本質的な論争にはなっていない。

そういう意味で、ネットの言論空間が唯一、両論が存在し、討論できる場ではないだろうか。間違いなく両論は存在する。だが、現状残念ながら、お互いが交わり討論される様な事はそれ程多くない。本来、ヤフコメやSNSはその機能を担う筈なのだが異論をすぐにブロックして自己満足してしまう状態だ。

そういう意味で注目すべき事案が発生している。それは、ロンブー田村淳氏と作家竹田恒泰氏の選択的夫婦別姓における公開討論が行われる事である。

事の始まりは、田村淳氏が自身が賛成する「選択的夫婦別姓」に対してアンケートを取った所、自身の意見と異なる反対意見が多数を占めてしまい、あたかも反対意見を諭すように、反対して何の不利益があるのですかとアンケートを再度取った事に始まる。

個人がどの様な思想信条を持とうと、それを発信しようとそれは自由である。だから、最初のアンケートまでは何の問題も無く、その事実を受け入れれば良かった。ところが、自身の意見が通らない事に、異論を認めず、自身の影響力を行使して自意見に誘導する様なアンケートを実行した事で、多くの非難を受けた。

そして純粋に何が反対理由なのか、何が弊害なのか、それを知りたいだけ、公開討論を誰か受けてくれないかとの訴えに対して、竹田恒泰氏が名乗りを上げた形になって近々実現する様だ。

この『選択的夫婦別姓』は、イメージ先行でその中身があまり語られていないので広く周知されていないのが実態だろう。表向きは、結婚時の改姓によって多くの女性が不利益を被るという事由であるが、その実様々な弊害が伴う事が余り語られていない。最大の問題は戸籍制度の崩壊だろうし、子供の姓を決める為の係争が生じ得るのもリスクだろう。

勿論、戸籍制度には影響ない筈だとの意見も田村淳氏はお持ちの様だし、日本維新の会の様に戸籍制度を維持する選択的夫婦別姓を主張する意見もある。顕在化しない事象も含めてリスクがある事も主張しつつ、通称使用を拡大する事で本来の目的は達成できるとする自民党案(高市政調会長の総裁選時主張)が現実的であり、それでも不利益が生じる事例があれば対処していく事の方が現実的な落とし所とするのが竹田恒泰氏の立場だろうか。

『選択的夫婦別姓』に対して、「なんで自由に姓を選択できない」「男女差別だ」というイメージ先行の感情論は根本的に本質からずれているが、残念ながら現時点で巷の認知度はその程度である。田村淳氏にしても、そのレベルから推進派の意見だけを聞いて反応している様に書き込み内容を見る限り窺い知れる。是非、反対意見にも耳を傾け、視野を広げる機会にして欲しいし、影響力のある者同士の討論が公開される事で多くの人にも同様の周知が為されることを期待する。 あれだけテレビでゼロコロナ路線の主張を繰り返していた立川志らく師匠が、木村盛代氏と対談をした後、別人の様にゼロコロナはあり得ない様に180度変わられた様に、多くの人が異論に耳を傾け討論し、論理的な思考を取り戻すことが望まれるし、それが出来るのはネット空間だろうと確信している。

財務省の闇に対抗し政治は成長戦略に舵を切れるか

財務省の矢野康治次官の「文芸春秋」への寄稿が話題となっている。簡単に要約すると、国家の借金が増えており、プライマリーバランスが破綻して、今にも日本は破綻するという論。その様な状況での赤字国債発行、経済対策などは自殺行為であり、緊縮財政、増税路線を是と匂わせる内容である。

この論は、実は今に始まったものではなく、10年以上前から一部で囁かれていた。今直ぐ対策を打たないと破綻すると、しかし、何故かまだ破綻していないし、国際的格付け、信用も保たれている。とてもデフォルト、破綻が起こる国家として扱われていないのが現実である。

この矢野財務次官だが、この件以外にも様々な話題を振りまいてくれている。スーパーでの『ポリ袋ハンター事件』とでも言おうか、生もの等を個別に入れる無料のポリ袋を必要以上と思われる量を持ち去っている。

レジ袋有料化になった目的を考えると、このポリ袋も必要最小限に抑える事が必要だと、子供でも分かる事だ。スーパー側もこの種の行為が増加する事を問題視しているのも事実である。しかし、当人は、「商品は買っているから問題ない」と言わんばかりの発言までしている。官僚トップの立場として、あり得ない感覚の持ち主である事が窺い知れる。

またまた、噂レベルだが、この人物、目的達成の責任感の強さからか、目的の為には手段を択ばない様な噂もある。本来、官僚は法に則り、政治の決めた政策の方向性に沿った行政を執り行う。民主主義において、法や政策の方向性は政治家によって決定される。そして、政治側も現場の問題を熟知している筈の官僚の意見も吸い上げ、政策の方向性を定める。

ところが、この方、自分の考えを通すために、マスコミへ情報リークして世論を誘導するような行為が囁かれている。勿論、多くの官僚とマスメディアの持ちつ持たれずのズブズブの関係で行われている氷山の一角かも知れないが、テレ朝の玉川徹氏により匂わされた時点で、少なくとも説明責任が生じていると考えるべきだろう。そして、今回の月刊誌への寄稿である。責任を問われるべきではないだろうか。

<借金で破綻するは間違い>

借金というと一般人からは聞こえが悪い。イコール悪と扱われがちだが、浪費ではなく投資に向かう借金であれば、資産が残り、投資効果も期待できるという事が一般人にあまり理解されていない。

失われた30年と言われる時期に、緊縮財政に舵を切り、投資が減退する事で何が起きたかを考えれば明確なのだが。

企業経営の視点で言わせて頂く。古い機械設備を更新せず、騙し騙し稼働させれば、償却も終わった設備が稼働した分だけ目先の利益が増える。資材調達に関しても、非論理的なコスト削減要求を繰り返す事で目先の利益を生み出す。しかし、その結果何が起こるか。設備は老朽化し設備効率は落ち、品質も生産性も、時には安全性も低下する。サプライチェーン全体のデフレマインドを誘発し成長も阻害される。

本来であれば、設備は投資効果を前提に更新する事で、償却負担で目先の利益は圧迫しても設備効率を高め、長い目での成長を促進する。サプライチェーンも新たな開発投資で品質も含めた総合効果を目指す事で、生産性向上、利益拡大に繋がるのだ。

投資を減退させることは、資本主義社会において衰退に向かう以外に無いのが現実であり、それは国家でも同じである。

実際に自民党の高市早苗政調会長が10月10日の番組で真っ向からこの財務次官の論を批判した。

https://news.yahoo.co.jp/articles/093064d3e0d1c469c9af60f293b40cedb6562c01

その中で名目成長率が名目金利を上回る状況で財政は改善すると正論を述べた。

また、元財務官僚、嘉悦大学教授、数量政策学者である高橋洋一氏も真っ向から批判した。(緊急配信の為音声音量に不備があるが、聞こえる範囲でも充分に内容は把握できる)

簡単に言うと、BS(バランスシート)で国家財政状況を示し、財務次官がP/L(損益計算書)だけで説明しようとする欺瞞を非難している。

経営状態を評価する為に、BSとP/Lで確認する事は、企業人であれば、最低でも管理職になるまでに数字が読み取れるように教育を受ける。当然経理部門や、事業戦略系の部門ではこの数字が無くては、経営者が経営判断する際の判断材料提示が出来ない。

ましてや、日本は通貨発行権を有し、その円は国際通貨となっている数少ない国家である。

失われた30年は、成長投資を積極的に行わなかった事により、生産性が低下し、その間、成長投資し続けた諸外国との差が発生しているのが実態である。無論、何の意味も無くバラマキ、効果の無い浪費が良い訳では無い。しかし、投資の無い所に成長は無い。この原理原則を誤ってはならない。

今現在、実行するべきは、増税による財政再建ではなく、積極成長投資による成長促進であると確信している。この財務省からの攻勢に政治が大所高所に立った英断が必要になってきているし、国際社会は注視している。岸田政権が乗り越えるべき最初の難題であろう。

埼玉県でエスカレーター条例施行、目的は達成できるのだろうか

日本人は人に決めてもらわないと、自信を持てない傾向が強い。自分の頭で論理性を保った思考による判断が苦手で、無意味なルールが定められても疑わず受け入れがちだ。特に、安心だとか平等だとか平和という誰も反対できないキャッチフレーズをベースにしたルールには異議を唱える事を憚る。埼玉県の『エスカレーター条例』も同様と断じざるを得ない。

日本エレベーター協会報告では、2018~19年のエスカレーター事故が全国で1550件となっている。更に、その内訳は、手すりを持っていなかったり、歩行中につまずいたりして転倒する「乗り方不良」が805件(51.9%)となっている。

この1550件、或いは805件という数字をどう考えるか。勿論、安全第一の観点で対策を打つことに問題性がある筈がない。しかし、優先順位はどうなのだろう、また、歩行禁止による弊害が総合的に検討されているのだろうか。

ちなみに、交通事故は現在、過去最高の4分の1まで死亡事故を減少させるまでに至っているが、それでも死亡事故で4000人規模だ。その状態でも車を動かすな、自電車で走るな、とは決して言わない。

階段の事故も相当レベルで多い。統計データとしては様々な観点があるが、不慮の事故として死因のトップ10に入る程多いのだ。企業の安全対策、労災防止観点でも、階段の転落は絶対に見逃せない項目である。だから、下り優先、手すり設置などの対策が実施されるが、それでも階段を歩くなとは、絶対に言わない。

それでもエスカレーターを歩行禁止としたのだ。果たして歩行禁止でどれだけ安全性が高まるのか、その効果数値も発信されずにだ。その状態で、禁止行為に対して罰則の必要性に関して議論が為されている。何でも直ぐに禁止、直ぐに罰則、これが正常と言えるのだろうか。

エスカレーターの安全性を体感的にヒヤリハットで考えると、『降り口で立ち止まられての衝突』『隙間に挟まれてしまう』『ベビーカー、手押し車の取り扱い不備』『カバンなど幅広く保持され右側通行者が衝突、或いは避けての転倒』『左側乗降者の急な右側への移動での接触』『乱暴な通行者との接触』『スマホ見ながらの注意不足通行による接触』等が挙げられる。他にもあるかもしれないが、歩行禁止でこのどれだけが防げるのだろうか、他にもっと簡単で有効な方法があるのではないかと疑問である。歩くことが問題ではなく、乱暴に歩く事が危険であり、それはエスカレーターに限った話ではない。また、降り口での立ち止まりなどは、歩行禁止で寧ろ増える可能性は無いのだろうか。

元々、エスカレーターの右側を空けるのは、『急いでいる人の為』という達成すべき目標があった。現実に急いでいる人が存在する事は否定できないのに、公共の場では急ぐな、急ぐことが悪だ、罰する、と言って社会的に受け入れられるのだろうか。歩くことを禁止したとして、急ぐ気持ちを禁止する事など出来様が無く、余計にイライラ、ストレスは溜まるのではないだろうか。

車は、追い越し車線を急いでいる車が追い越しの為に使う。追い越し車線を無くせばいい、追い越しを禁止にすればいいでは社会環境は保てない。禁止すべきは『煽り運転』であろう。エスカレーターも同様では無いのだろうか。そして、禁止行為を明確にして、過失であろうとも注意対象とするレベルの話ではないかと考えられる。安全対策として打つべき手は、歩行禁止ではないだろう。

どうしても、歩行禁止にして、急ぐ人の廃絶を目指すならば、両側に立てば良いだけだ。何故か、多くの人は急いでいる人がいなくても、左側にしか立たない。どんなに混雑していても右に立たず空けている。こんな無駄をして、ラッシュ時の乗り口付近の混雑という危険な状態を生み出している。同時にその混雑は、急ぎたい人の通行を阻むパラドックスに陥っている。全員が左右バランス良く立てば、輸送能力が倍加し、混雑も少しは解消する。まずは、そちらを是正するべきでは無いのだろうか。

世の中には、目的を忘れてしまい、守る事そのものが目的化してしまっている様なルールが多数存在する。それらは、本来の目的達成が覚束ないだけではなく、弊害としてのリスクを生み出す。それどころか、そういうルールが乱立する事で、本当に守る必要のあるルールの優先順位、重要度が相対的に低下してしまう。

何の為にルールを守る必要があるのか、その事を一人一人が論理的に思考し理解する事で、現実には様々なイレギュラー事象が発生する社会活動においても、ルールの目的が達成できる。思考停止する事は、リスクを増大させる最大の要因なのだ。

リスクを取らない事が最大のリスクだ

話題のCM『UQUEEN』のワンフレーズ『リスクを取らない事が最大のリスクだ』は、マーク・ザッカーバーグの名言を捩ったものであり、リスク管理の視点では究極の課題でもある。

実は、巷で吹聴される『ゼロリスク』志向の問題は、このリスクを取らない事によるリスクなのである。リスクというと後ろ向きのイメージを持ちがちだが、チャンスを掴むためにはリスクは必ず付随し、リスクゼロは、即ちチャンスゼロを意味する。また、リスクは一通りでなく、複数のリスクが共存し、そのバランスで全体最適を図る必要がある。一つのゼロリスクで語るのは愚の骨頂なのだ。

国家運営や企業、組織経営において、リスクは決して単一ではない。複雑に絡み合った環境で複数のリスクが相互関係も持ちながら存在するのである。従って、単一のリスクをゼロ化した所で、その結果生じる他のリスク増要因も現実に存在するのだ。本来であれば全体最適思考で全リスクを総合評価し、バランスが取れたリスク対応計画が必要になるのだ。

<ゼロリスクの弊害実例>

現在の新型コロナ対策を前に進ませない最大の負の要因が『ゼロコロナ』思考と言われている。政府分科会は、感染リスクばかり殊更喧伝し、行動制限、私権制限、自粛の必要性ばかり吹聴するが、一方で発生する経済リスクに関して一切論じない。言葉を選ばず言うと、『自粛させても金さえ渡しておけば良い』とでも言わんばかりに聞こえる。

実際、政府分科会は経済リスクなども総合的に分析する為に、経済の専門家も途中から加わっている。筆者は、この経済専門家が巷に発信するのが感染抑止策ばかりで、経済影響等の発信が無い事を批判してきた。しかし、最近になってこの経済専門家より、分科会で経済リスクに関して発言すると、「それは他でやって欲しい、ここは感染リスクを話し合う場だ」と言われ相手にされなかったと漏らしている。つまり、経済専門家は加わっていても意見の言えない状態で検討のバランスを欠いていたのだ。

経営の立場で考えて欲しい。自らの経営判断を行う為の、情報分析、整理する部門が偏った志向でバランスを欠く状態であれば、信頼できる情報とならず経営判断を誤るだろう。偏っている事を問題視し、バランスを図る為の人材を投入する人事を発動しても、抵抗勢力に囲われ期待の働きが出来ない状態であれば次に何をするべきか。

この抵抗勢力への対峙の仕方は、それだけで何冊も本が書ける内容でもあり、簡単に語れる訳では無いが、どちらにしても対峙して解消するのが最大の経営課題となる。

そして、休業した場合のリスクは決して金銭だけで賄えるものではない事ぐらい素人でも分かるはずだ。固定客の離反や取引先との信頼関係、設備の保全や老朽化防止、事業しているからこそ見える課題も埋もれてしまう等、事業を回しているからこそリスク対応ができる事項も多いのである。

政府分科会に話を戻すと、『コロナ感染リスク』だけを検討するだけでなく、『経済リスク、経済死』等もバランス良く評価する機能が必要になる。今の分科会がその機能を果たせないなら、権限者の行うべきは、人事刷新か組織改革でしかない。ましてや現組織構成員の様々な不正疑惑と説明責任を果たさない不誠実な姿勢が露呈しており、私であればスクラップアンドビルドして、判断できる分析情報が上がる状態に舵を切るだろう。

<日本型マネジメントPDCAがリスク管理でも必要>

リスク管理とは、考えられるリスクを評価する所から始まる。重要なのは、発生確率と発生時の被害であり、出来うる限り数値で夫々算定し、その積をリスクスコアとする。リスクスコアが一定数値を上回った時点で自動的にリスク対応計画を求め、リスク低減策が実行される。このリスク低減策には、当然ながら発生確率を下げる策と、発生時の被害を縮小する策と二通り存在する。低減策が実行された結果として、実際にリスクがどの様に変化したか再評価し、残ったリスクを残留リスクとして更なる低減策が必要か判断する。これがリスク管理のマネジメントサイクルでありPDCAなのだ。

勿論、これはマネジメントであるので、要所要所での経営判断、経営レビューが必要となり、時には経営の意思として、リスクスコアが低く評価されていてもリスク対応計画を求める事もある。これは経営の方針であるので、その様な判断がある事が寧ろ健全なのである。

この観点で新型コロナ対策を考えると、最大の間違いは、リスク評価を誤っている事だろう。特に問題なのは、発生確率を一切評価していない事だ。『かもしれない』ばかりで、可能性があるだけで、あたかも発生確率が高い様に訴え続けている事。これではリスク評価を間違いなく誤る。

同時に、リスク低減策を実行した場合の新たな発生リスク(経済リスク等)を同じテーブルで評価していない。そして極めつけは、PDCAのC、チェックを一切実行できていない事だろう。

実は、このPDCAサイクルとは日本的マネジメント手法である。それは、終わりなく、常に改善しながら回り続ける、季節感で言う春夏秋冬、死生観で言う輪廻転生なのだから、文化的にも日本文化が馴染みやすい筈である。大局的にある、終末思想、マルクスなど究極の理想郷を追求する思考とは根本的に異なるのである。

巷では、エドワーズ・デミングが提唱したとされているが、実態は、日本科学技術連盟が確立し、品質保証などの分野で日本型経営として定着させ、トヨタ生産方式、カイゼンを普及させ、『JAPANasNO1』で激賞されるなど世界の先頭を走ってきた。

その後、ISO認証取得の運用形骸化という問題もあったが、マネジメント運用に問題がある訳ではなく、マネジメントサイクルを回す事自体は見直されてきている。

資本主義社会として、成長を続けるために、経営の意思を込めたPDCAを回し続ける事こそ、新たなイノベーションも生み出し、継続成長を促し、同時にリスク対応も確実に行える基礎となるだろう。

デジタル庁発進、前途は多難か?

2021年9月1日、デジタル庁が発足した。電子政府が話題に上がったのは、もう昔の事、日本は諸外国に比べ政府のデジタル化周回遅れ状態に陥っている。国民の個人認証の基盤となり得るナショナルIDも過去幾度となくトライし暗礁に乗り上げた事だろう。今や、先進国の中でナショナルIDすら導入されていないのは日本だけという状況で、ラストトライと言われたマイナンバーも数々の批判を受け、未だ充分に普及しているとは言えない状況だ。

コロナ禍は、デジタル化の遅れを現実の問題として国民の前に突き付けた。給付金の支給遅れ、自治体或いは首長のリテラシー格差によるサービスレベルの格差、判断すべき統計データがリアルタイム集計・発信できない実態、バーコード読み取りすら出来ないでシステム忌避しながら自己正当化し政府批判に転ずる事を受け入れる社会環境、等。

市民生活はインターネットを基軸とし、Wi-Fiによる接続環境が充実、デバイスとしてのスマートフォン、タブレット、PCの一人複数台接続、家電も含めたIoT(Internet of Things)どころかIoE(Internet of Everything)へと進展している。

AI(artificial intelligence)人工知能は、ほんの数年前は夢物語の技術で極めて概念的な領域に留まっていたが、計算機能力の飛躍的向上により日常の中で普通に使われる技術になってきた。そして、間もなく量子コンピュータが更に飛躍的、否、爆発的な進化をもたらす。

量子コンピュータでは、従来のコンピュータが2進法で成り立っているのが、3進法に進化する。従来、16bitでは、65,536通り、32bitで43億通り弱なのが、量子コンピュータでは、32bitで1853兆通りとなり、たった32bitの世界で43万倍の処理能力を持つ事になる。64bitだと1861億倍と可能性はとんでもなくなるのだ。

この効果を享受するのは、デジタル化の浸透が前提である。そして、決して2番ではなく、1番を目指さないとこの成果を享受するのに大きな障害構造を生み出してしまう事も自明なのだ。

なのに、未だお役所は、FAXで情報交換しているらしい。バーコードすら読めないと恥ずかしげもなくシステムに責任転嫁する自治体も存在する。果たして、デジタル庁は、この問題状況を突破できるのだろうか?

<デジタル庁発進時の姿から見えてくるもの>

まず、デジタル庁平井大臣のメッセージを見てみたい。筆者が引っかかる言葉が「誰一人取り残さない、人に優しいデジタル化」だ。極めて聞こえはよく、政治家的発信ではあるが、筆者には大問題発言に感じるのだ。

前述のデジタル化が進展できなかった問題は、ひとえに個々のリテラシーの差に帰結すると考えている。技術進展の著しい分野で、全ての年齢層、様々な個人の適応能力を考慮すると、同様の浸透を図る事は不可能なのである。もし、本当に全ての人を対象とした場合、最大公約数にレベルを合わせる必要があり、技術の進展に取り残される事になる。それこそが今までデジタル化が公的に進展してこなかった最大の原因ではないだろうか。

左派系反対勢力は、表向きは人権と平等を盾にして、進歩を批判し、殊更リスクを喧伝するだろうが、技術の進展が著しい場合は、着いて行けない人達へのケアは別途しながら、先端を走らなければ国際競争力を毀損する事に成り、回り回って全ての人のメリットが大きく目減りする事態に陥る。

そういう意味で、デジタル庁は、先端を独走する『トップランナー』になる必要がある。それが、「誰一人取り残さない」といった瞬間、出来る事はたかが知れてくるのだ。

本当に期待しているからこそ、厳しい言葉とならざるを得ない。

百歩譲って、最終的なケアも含めての「誰一人取り残さない」であったとしても、先端を走るメッセージが決定的に欠落している事は否定できない。

他にも様々な疑問がある。

その一番は、全省庁、自治体等のデジタル化統制を図るなら、実開発、実運用はどうやって責任を持たせるのだろうか。デジタル庁が単なるガバナンスを担うだけならば、政策投信とその実行監視、監査は可能だろうが、実務面での機能は今まで通りになり、強制力なければ大した変化は生み出せない可能性が高い。

実務面までデジタル庁が担うならば、一般企業で言う、情報システム部門の開発や運用機能、最低でもPM(プロジェクトマネジメント)やPMO(プロジェクトマネジメントオフィス)機能を持たねば何も責任持って動かせず、調達も出来ない。それは、丸投げでしかなくなるからだ。

この辺りは、まだ実態不明なので、期待値を高く持って、見守る以外に無いだろう。

そして、早急に取り組むべきはWebページの改編だろう。デジタル化を推進する部門があのコンテンツでは少々寂しい。華々しくトップを走って、各省庁着いて来いと、言えるコンテンツ開発は名実共に重要なのだから。

システムは道具に過ぎない、デジタル化も方法論でしかない。問題はその中身であり、何の為にやるかが重要。技術が発展する中で、その技術を最大限活用し、より良い社会に成長させていく為に、道具を変え、方法を磨く必要がある。原始時代に回帰しないで発展し続けるために、先端を走る牽引力、現場レベルに落とし込む実行力とそれを支えるビジョンが最重なのだ。

経済安全保障、日本は本気になれるのだろうか?

『経済安全保障』という言葉を最近よく耳にする。その現れだろうか、日本企業に対しての影響が出始めている。

ソフトバンクは、ファーウェイとの関係で国際的5Gへの参入障壁をなかなかクリアできなかった。楽天は、テンセントとの資本提携で米国防省含めた監視対象、日本からも外為法違反等で日米両国からの監視対象となってしまった。ユニクロは、新疆(しんきょう)ウイグル自治区の強制労働をめぐるアメリカ政府から輸入禁止を受け、直近ではフランス政府から捜査を受けている。勿論、日本企業だけではないが、この様な事例が現実化している事から目を背ける事は出来ない。

ところが、日本の政治は訳の分からない迷走を繰り返している。

対中国非難決議が見送られたドタバタ劇は記憶に新しい。与党である公明党が慎重であったが、立憲民主党までが賛成に回り、慌てた自民党親中派の動きでドタバタ劇が演じられ決議されなかった。これだけでも国際社会の中で、日本はどうするのだろうかと疑問に思った矢先に更に上回る事案が発生した。

それは、中国共産党100周年記念に対して祝意を、筆者の知る限りでは、立憲民主党の枝野幸男代表・小沢一郎衆議院議員、自民党の二階俊博幹事長、河野洋平元衆院議長から寄せられたのだ。これは確実に政治利用されるだろうし、G7等国際社会に対してどの様に説明できるのだろうか、甚だ疑問だ。

政治がこの状況で、経済界が本気で経済安全保障と言う名の、サプライチェーンの再構築、市場再構築が出来るのだろうか。

<CSR調達とは>

CSR調達と言う言葉はご存じだろうか。

CSR(Corporative Social Responsibility)は企業の社会的責任という意味であり、CSR調達とは、調達先の選定や条件の設定において、コンプライアンスや環境・人権への配慮を行い、調達先を選定すると同時に、調達先にも同様の社会的責任を果たす様に求める活動であり、多くの企業でかなり前から経営課題とし活動が既に定着している。

つまり、自社がコンプライアンス問題や環境破壊、人権問題に繋がる事業活動を行わないだけでなく、調達先企業にも同様の活動を求める。即ちその調達先企業もその先の調達先企業に求めると言う連鎖を生み出し、サプライチェーンとしてCSRを実現する事になる。

しかし、本当に定着しているのならば、前述の企業摘発の様な問題が発生する訳がない。企業は収益拡大の目的で、安い賃金を求めて生産体制や部材調達を低コストで実現し、価格競争力を構築する経済活動を企業は行っている中で、先の先まで厳格に調査し条件とする厳しさを持っていれば起きないし、誤った場合も必ず正常復帰のマネジメントが働くはずだ。この経済活動自体、企業の競争力の為に否定されるべきではないが、先の先までに至る厳格さに問題があり、甘かったと言う以外に表現は無いだろう。

言葉を選ばず極論を言えば、調達先企業が『大丈夫だよ』と言えば、性善説ではないだろうが、鵜呑みにする方が波風もたたないし、敢えて厳しく追及する事無く、アリバイ造りの形式的なCSR調達が完成している可能性がある。

現実に目を向けると、実はそれほど簡単でもない事も分かるのだ。

トランプ政権時代に中国IT企業からの調達を規制する大統領令により、日本政府もファーウェイ社やZTE社等から新規の政府調達は行わない決定を下しており、各企業も政府系関連事業などの受注条件も踏まえ、調達状況を一斉に確認に動いている。しかし、現実は既に切っても切れないぐらい、入り込んでいる事が判明している。新規調達は制限できるかもしれないが、保守なども含めて関係を断つことは簡単ではないのだ。

企業として、この簡単ではない事を推し進めれば経済的な損失が大きくなる。その対価を払っても推し進めるには、国家としての明確な指針が必要であり、守らなかった時のリスクの高さを自覚した上で、経営上の覚悟が必要なのだ。

<グローバルマーケットビジネスは国家間のWinWinが条件>

10年以上前だろうか、筆者は同僚と海外ビジネスに関して議論を戦わすシーンがあった事を記憶している。社会的には、安い労働力を求める海外展開に先行き限界が見えてきて、グローバルビジネスは本来、地産地消が成立しなければ意味が無いと言われ始めていた頃だ。

その中で、同僚は中国マーケット進出を更に強化する事を主張していたが、筆者はカントリーリスク面も含め、目先の利益にはなるし連結上の効果はあるが、最終的にその成果がどこに行くのか疑問を投げかけていたが、回答は成果を現地で出せれば持ち帰れなくともよいという趣旨の説明を同僚から受けたのであった。その同僚は、その後中国マーケットのビジネス拡大に携わり、一定の成果を上げる結果を出した。

恐らく多くの企業が同様の成果を上げているのだが、その結果が今の中国でもあると言う見方もある。間違いなく中国は大きな経済発展を遂げ、覇権国家を伺う状況にまで成長しているのだから。

企業が現地で成果を出すという事は、間違いなくその国家は繁栄するのである。つまり、グローバルで見る限り、WinWinの関係式が国家間に成立している事が、必要条件になるのではないだろうか。

<日本は本気になれるのだろうか>

対中国非難決議が議論される状況、中国国内でも反外国制裁法のリスクなどを考慮すると、企業としても覚悟を決める時代になってきたのかもしれない。しかし、この経営判断は皆で揃って同じ方向に向かえれば良いが、抜け駆けして上手く立ち回れば独り勝ちも可能で、その場合の目先の利益は大きくなる。その利益を取らずにいばらの道を選ぶには、国家としての明確な方向性、指針が欲しいのだ。それこそ、抜け駆けを許さない、抜け駆けをする方がリスクが大きいと経営者に思わせるだけのものが必要なのだ。

ところが、媚中派、親中派が厳然と存在し、政治的には一定の力を持っている事が見えている。この構造がある限り、経済界から見た時にうまく渡り合うバランス対応が可能ではないかと疑うのも道理なのだ。それこそ、莫大なコストを払って、経済安全保障対応を確立しても、梯子を外されるリスクすら感じる政治状況に見えるのだ。まるで、お隣の国の米中日和見対応に似て見えるのだから。

政治的にアジアの大国との関係を絶つ事はありえないが、是々非々の厳しい対応が必要な局面である事も間違いない。政治的にそれが示されるべきだろうし、その方向に民主的な選択で政治家を選択できるぐらいでないと、いつ梯子を外されるか分からないリスクを考慮せざるを得ないだろう。即ち政治と国民の覚悟無くして、経済界が本気で経済安全保障に向かえないのだが、如何なものだろう。

情弱が産み出す国民感情に政治は寄り添えるのか

リスク評価に対応する科学的対応策だけでなく、国民感情に寄り添い勘案するべきだとの主張をする有識者もいるが、では、国民感情とは何なのか?そこから考えなければならないだろう。

<感情とは>

感情とは個人がコントロールする事が難しい。アンガーマネジメントの方法論など書籍が多数発刊されているという事は、悩む人が多いから需要がある現れなのである。では、特に怒りの感情のコントロールが難しい原因を確認していきたい。

まず、完璧主義である事。物事が自分の理想的な思いの通りに進まない事にはストレスを受けるのだが、完璧主義であるが故、世の中の出来事の殆ど全ては思い通りに行くはずもなく、ストレスが極大化する傾向にある。

更に、ネガティブ思考は過去も含めていつまでも失敗や後悔、他の人への恨みなどを引きずってしまうので、同様にストレスを増大させる。

これらのマイナス要素でストレスを増大させることで、怒りの感情はコントロールできなくなり爆発してしまう。爆発してしまった感情に寄り添う事など事実上あり得ないので、爆発しない様に、コントロールできる範囲に収める事が必要不可欠になる。

では、コントロール可能な範囲に収める為にはどうすれば良いかを次に考える。

完璧主義に対しては、人の考えや意見などは多種多様であり、専門家といえども異論反論は普通に存在するという現実を知らしめることだろう。その結果としての個人の見解や主義主張を持つ事は問題ないが、それが唯一絶対の真理、絶対正義でない事を認識する必要があるだろう。

ネガティブ思考に関しては、言うまでもなくポジティブ思考に少しでも転換する事。ネガティブにより全否定される状況から、あの手この手、どうにかしてこの状況を好転させる為には何ができるか、確実に一つ一つ実行に移す事でストレスは解消されていく。ポジティブまでは難しい、とするのなら少なくともデータやFACTに目を向け、感情的にならず論理的に思考する事で、少なからず不要な不安に陥る様なストレスは回避できるだろう。

以上の事から、感情に寄り添うには、多様性を認めた議論、意見交換が活発に行われる事、ポジティブに、事実に基づいて思考する静かな環境が必要になる。

逆に言うと、この必要な環境を壊せば、感情はコントロールできない状態に導くことが可能なのだ。実は、この環境破壊を日常的に行っているのが地上波メディアによるニュース、ワイドショーなのである。

<情報弱者とは>

情弱とはウィキペディアによると、『情報環境が良くない場所に住んでいる』『情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でない』これらの原因により『放送やインターネット等から必要な情報を享受できない人』を元の意味として、『各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人に対する蔑称』と表現している。

今の地上波メディアは、多様な意見を封殺し、ある恣意的な一方的な意見だけで埋め尽くし、異論を許さず、異論を言う人間をあり得ないとあからさまに非難し続けて、情報環境が良くない場所を作り出している。

この悪環境は元来、平日日中に地上波テレビにお世話になる人達のみが晒されていたが、コロナ渦でホームステイ率が拡大し対象が増えている。つまり状態は悪化しているのだ。

この状態悪化は人々の能力を劣化させる。普段から、両論による議論に触れて、思考訓練されなければ能力は当然ながら劣化する。こうなると悪循環となり、多様性のある玉石混交状態のインターネットの情報に触れても、自身の触れてこなかった異質な情報を受け入れ、かみ砕き、考察する事が出来なくなり、見ても完全スルーで中身まで見る事が無くなり、都合の良い偏った情報だけに触れる偏りが強くなるのだ。この状態は、ネットでも多様な情報に触れていると勘違いし、かつ自身の意見が大多数であり正義であるとの誤った認識を持った情弱者が生まれる。

この事は、例えばヤフーニュースのコメント等を見ていると絶望したくなる状態になっている。

典型的な事例として、先日の五輪での酒類提供禁止の決定に関して昼のあるワイドショーでの一幕を挙げる。内容的には酒類提供の検討をして禁止と決定した事に対して、番組内コメンテイターは口を揃えて検討すらあり得ないと言い切っていた。たった一人、良識あるコメンテイターが検討は良いのでは、と言った瞬間、総攻撃で他の全員が全否定してのけたのだ。

この件を記事にしたヤフーニュースのコメントの大多数が、酒あり得ない、という感情論で番組趣旨に同調する内容であった。普通に考えれば、何か物事を決定しようとすれば、両論戦わせ、プラス面とマイナス面を考慮し、検討しなければならない。この手順を欠くと所謂独裁、独断でしかないのは自明なので、番組は民主主義を否定、自分達の意見は絶対正義で議論は必要なく従えと言っているに等しく、非難されるべき、少なくとも放送法第4条違反とされるべきなのだが。しかし多くのコメントは民主主義否定に賛同を示したのだ。

少し調べれば嘘と分かる事すら調べず、切り取られ偏向した断片を妄信し、少しまともに聞いていれば以前言っていた事と矛盾していると気付ける事もまともな思考回路を働かせる事が出来ない人達、情報弱者が大量生産されているのだ。

<国民感情に寄り添う為には>

まず、国民と冠が付いているが、決して全ての国民が同じ感情を抱いている訳ではないし、統一されている訳がない。従って、拡大解釈した、国民○○という言い方は、本来都合よく使うべきではない。よく、国民の総意だとか、政府を攻める時に使われるフレーズでもあり、ほんの一部の意見である場合のカモフラージュである事が多い。国民感情も同様である。従って、国民感情と称する場合は大抵の場合、一部の反対意見を持つ感情にどう対峙するかと解釈するべきであろう。

この反対感情に強行的に対峙し続けるだけでは、昔なら一揆に繋がる、現代でも社会情勢不安定に繋がり兼ねないので得策ではなく、寄り添うべきなのだろう。しかし、寄り添うと言っても、良い事と悪い事は区分けし、是々非々の対応が必要になる。100%反対感情に寄り添っていては、政治は全体最適を失い、他の多くの国民に悪影響を及ぼしてしまうからだ。

即ち、バランスでありバランスを欠いた時に支持を失うのが民主主義政治だろう。

反対感情に寄り添いながら、バランスを取り、出来うる限り全体最適を目指す為には、反対感情を生み出す元を改善する事の方が、より全体最適に迎える事は疑い様がない。

感情を爆発させず、コントロール可能で健全な範囲に止める為には、多種多様な意見、確かな事実とデータに基づく情報発信が行える環境を構築する必要がある。

そういう意味で今の地上波系のニュースやワイドショーの類はターニングポイントである。反省して、放送法第4条に恥ずかしくない形に改革するか、反省せず存在意義を失い、自滅していくか。どちらにしても、ネット空間の情報の充実とテレビに関しては、専用チャンネル等多種多様な情報発信に触れる事が出来る番組制作とNHK改革で両論戦わす討論系の番組を増やす等、明確な手を打っていく必要があるだろう。

一見正義に思える考えも、深く議論して見れば、様々な考え方や、越えなければならない課題なども見えてくる。時には、その課題を越える事で発生する弊害に気付き、寧ろデメリットの方が大きく、考えを変える事もあるだろう。そういった深い議論、深い思考が重ねられる環境こそが、国民感情に寄り添える環境になると確信している。

大規模接種センター予約システムの脆弱性について

大規模接種センターの予約システムに朝日新聞出版と毎日新聞の記者が架空の接種券番号などで虚偽の予約をしたとして、防衛相が抗議した。

これに対して立憲民主党の枝野氏、福山氏などは、各メディア記者の行為を擁護し、防衛相を「システムの欠陥を指摘したメディアに『早い段階で気付かせてくれてありがとう』というのが本来の姿だ。意味不明な対応をしている」等と批判した。

筆者はセキュリティ管理の専門家として、この件に対して複数の観点から指摘させて頂く。

<サイバー攻撃は許されない行為>

まず、両社記者の行為だが、端的に申し上げて『サイバー攻撃』であり、違法行為である。誤って申し込めてしまった、とかではなく意図的にシステムの脆弱性を突こうとした行為である事。脆弱性を検出した結果を、システム運営当事者に通達せずに、記事にして公表した事も、所謂ハッカーがダークサイトに脆弱性を公表するのと同等の行為である。

そうやって考えると、防衛相の抗議は、実は甘く、訴えても少しもおかしくない事案なのである。国民に知らしめ、知る権利を守る為、政府の監視という正義の大義名分があれば何でも許されると考えるのは異常である。

そして、サイバー攻撃を是として容認し、防衛相の抗議を批判する国会議員が世の中に存在する事自体筆者には信じがたい事実である。政府を攻撃する事が絶対正義で、その為の手段は全て容認される事を貫く思考回路は、法治国家として決して許されない。

<システムの脆弱性はどこにある>

次に、この脆弱性の発生原因と対応策の方向性に関して考察したい。但し、筆者はシステム設計の全容を把握している訳ではないので、想像の部分が多分に含まれる事はご容赦願いたいが、大きな間違いは無いだろうと考えている。

まず、『早い段階で気付かせてくれて・・』というのは根本的な認識違いだろう。この脆弱性に関してシステム設計者は把握していただろうし、設計レビューで承認を受けている筈だ。このリスクに気付かないシステム設計者は世の中に存在しないと言っても過言ではない内容なのだ。

本リスクを受容した判断理由は、各方面からも既に発出されており、早期システム立ち上げ、防衛相への個人情報、個人データの提供を最小限に抑え様とした結果であり、地方自治体の分散システムに接続するには、スケジュール感もコスト感も現実的でなかったのだろう。それでも本脆弱性を看過するのではなく、何らかのリスク低減策は検討すべきだっただろう。

更に問題の主要因は、接種券番号の設計思想だと考えられる。クーポンの画像がネットに上がっているが、予想通り、見事にバラバラなのである。せめて、番号体系は国側の全体設計が必要なはずだが、その点の実態は不明であり、セキュリティ面の機密事項であろう。システム連携による照合が無く、誤入力や正統性・正確性を確認する為には、不充分であったと言わざるを得ない。

通常例えばクレジットカード番号の様に、不正入力や誤入力防止にはチェックでジットを番号に組み込む方法がある。また、ランダムに入力する不正に対応するには、飲料メーカーのべた付けキャンペーンで缶などに貼ってあるシールを剥がした際の番号の様に、確率的に不正入力を抑止する技術も存在する。その他にも多種多様の番号設計は存在し、それ程高度でもないのだが、残念ながら、省庁の壁を超え、トータルで考える全体最適設計思想と技術的工夫が不足していると言わざるを得ないだろう。

日本らしさというのだろうか、不正やいたずらの無い様に、良心に委ねる形でのアナウンスが為されている。実際の接種まで含めたリスク対応策は講じられているとはいえ、システムとして脆弱だとの誹りは免れないだろう。

<脆弱性対策の方向性>

では、対策の方向性はどう考えるべきか。デジタル担当大臣はデジタル庁設置による対策推進を語っているが、まさにその通りであろう。

まず、マイナンバーをキーとした接種情報管理を言う人が多いが、これは特定個人情報の取り扱いを知らない人の空論であろう。あくまでマイナンバーカードによるシステムへのログイン認証に留め、接種情報自体は個人番号と紐づけ可能な状態で発番した接種券番号で管理するべきだろう。そうしないと、影響が大きく、管理運用体制も不必要に莫大になってしまう。この点が、マイナンバーを必要以上にセキュリティ面の問題を語りたがり、システム実装上の現実に知見が無さすぎる証拠だろう。個人情報管理と特定個人情報管理を分けて考えるべきだからだ。

では何が対策の入り口かというと、省庁や自治体など含めて壁を越えた全体最適設計を可能とする機能であろう。正に、デジタル庁の真価が問われる部分だ。その上で、今回の脆弱性は古典的な番号設計に起因する部分も多分に含まれるが、もしその機能が無いなら補完する必要がある。

筆者の疑念事項が杞憂であれば、このチェックロジックを付け加えるだけで一定レベルのセキュリティ性向上は見込めるのだが、そうでなければ、次期システムまで本質的な改善は困難なので心配だ。

今後に向けての抜本策として、セキュリティの基本である『機密性』『完全性』『可用性』で設計する必要があるだろう。認証は、手っ取り早くマイナンバーカードによる認証であろう。これで不正アクセスは防げる。

そして、接種券番号をキーとするDB構築は細心の注意を要するだろう。接種予定と接種日時、副反応履歴情報などが全国一元管理できる様にしなければならないからだ。あくまで接種番号を主キーとして、個人を特定する属性情報は最小限にする、政府が閲覧できるのは匿名加工化した切り離された情報に限定するなど、様々な対応策の検討が必要だろう。そしてブロックチェーン等の技術利活用は必須である。

セキュリティの要点は『機密性』『完全性』『可用性』で語られるものであり、リスクとのバランスで検討しなければならない。

リスクとはゼロリスクで語った瞬間、全ての検討が無となってしまう。リスク対策とは、考えられるリスクを評価し、受容できないリスクに対して低減策を検討するものであるが、それでも低減でありゼロ化ではない。

殊更、感情的にゼロリスクを唱える風潮が未だ支配的だが、その事で寧ろリスクに向き合い対応策を講じる事を阻害してしまい、結果としてリスクが増大してしまうのだ。

心配だ、心配だと言い続けても、心配は解消されず、寧ろリスクが高まってしまう。その人間心理を政治利用して足を引っ張る行為は、国益を損なう結果に繋がる事を理解し、その様な行為に対して異議を唱え、合理的な範囲のリスクは納得する事も重要なのだ。

『安全第一』から『安全安心』への社会変化に適応する要点

安全は全てにおいて最優先するべき事項である。安全が担保されなければ、あらゆる活動に支障を来たすからだ。工場・プラント・建設現場などに、大きく『安全第一』と掲げられているのを一度は見たことがあるだろう。そこで働く人の『安全』が担保されなければ、結果としての事業や製品の品質にも差し障り、事業継続が困難になるのだから、最優先されるのだ。国家でも同じだ。安全でなければ、国民の生命・生活に支障を来たすのだから、安全確保が国家の最大の責務なのだ。

では、最近よく耳にする『安全安心』とは何か、『安全第一』と何が異なるのか。その理解をせずに都合よく乱用されているケースが多いのは憂うべき事なのだ。

<安全と安心の定義>

まず、安全と安心の定義、何が異なるのかを確認したい。

安全とは、危険ではない状態、許容できないリスクがないことであり、客観性と科学的事実にに基づく検証と評価が必要であり、主観的であってはならない。

一方で、安心は、主観的に評価してリスクの少ない状態のことであり、安全を心で感じるものなのだ。従って、極めて主観的であり心理的な評価になる。

この安全と安心の状態を4象限で表すと下図の様になる

右上と左下の象限、つまり安全と安心が同等の評価を受けている状態は、ある意味正常な状態である。

右上の安全・安心が両立している状態は、言うまでもなくベストの状態であり、この状態は、科学的データの公開、説明責任の履行で継続できるだろう。

左下の不安全で不安な状態は、不安全である事を認識できており、その科学的対策を客観的に実施する事で、この状態を脱する事が可能である。民間の事業であれば、安全策の実施が確認できるまでサービスを利用しなければ良い。国家事業であっても、厳しい追及を継続すれば良い。不安全が見える状態なだけ、健全ではある。

問題は、右下と左上だ。左上は、言わずもがなだが、科学的に不安全状態を不安に思わず、安心している状態なので、どの様なリスクが顕在化してもおかしくなく、危険と隣り合わせが放置されているのだ。

この状態が発生する原因は、不安全な状態の説明が充分に為されておらず、周知が甘い、或いは、意識的に隠ぺいされている場合。そして、逆説的には、どれだけ説明しても聞く耳を持っていない状態だろう。

次に右下だ。これは、科学的に安全な状態にもかかわらず、不安を抱いてしまう社会不安状態で極めて危険なのだ。安全性の説明が不十分な状態もあり得るだろうが、往々にして、どれだけ説明しても聞く耳を持たない、感情的、情緒的な脊髄反応が主原因の場合が多いので質が悪い。本人は、僅かに存在するリスクを極大評価していることに気付かず、至極真っ当な論理と思い込み、非科学的に妄信してしまう。100の安全性データがあっても、1のリスクで安全性はゼロと断じてしまう、勝手論理なのだ。

この状態に陥ると、何も前に進めることが出来なくなる。回避行動として、タブー視し語る事を憚り、隠蔽などの悪循環に至る可能性がある。これは悪循環であり、左上の状態を他に多数発生させる危険性がある。また、この状態は、論理的には手が打てず、社会不安状態となり、人心を扇動する独裁者が現れやすい社会環境でもある。

<不安状態を回避するには>

民間企業の事業、サービスの場合、基本的に右上の状態でないと成立しない。安心を勝ち取らないと、需要が無くなるからだ。例え、左上の様な不安全で安心となっても、いずれ発覚し、その時の信用の毀損はとてつもなく大きく、余程の悪徳企業でもない限り、この象限には向かわない。右下の状態の場合、安全性を強く訴えるだろうが、理解されない場合、市場が受け入れなかったとして事業撤退の選択となるので、ここも継続的に存在しえないのだ。

しかし、国家事業や行政となるとそうはいかない。事業撤退など出来ないからだ。だから、何が何でも説明し、安全である事を納得してもらう必要がある。逆に言うと、政局的にも攻め所であり、政治利用は激しくなりがち。同様に、政府を監視する使命を自負するメディアも、ここぞとばかりに不安を煽り、視聴率を稼ぐ。結果は最悪の社会不安状態でしかなくても関係ない。

この危機的な不安状態に陥る事を防ぐ方法はあるのだろうか。煽るなと言っても、止めるはずもなく、法的な縛りを設けようとしても、煽りのネタが増えるだけで、激しさを増すだろう。与党を追い込む絶好のチャンスとして、結果の責任も持たないで、野党の攻撃が増すだろう。本来危機的な不安状態では、与野党関係なく、メディアも含めて、緊急事態という名に相応しい協力体制で国難に向かうべきだが、現実はそうはならない。

本質的には、民主主義で選択された政権を信じ、委ねるべきである。しかし、これだけ政権とは別に不安を煽る構造が充実していれば、弱い人間は次の選挙まで待つという余裕もなくなり、不安が爆発してしまう。人間は、精神的に弱い動物だ。本能的、動物的な危機察知よりも、精神的な脅し、脅迫に弱い。命の危険、財産の危険などで不安を煽れば、論理的には理解出来ていても、意味不明の不安を抱きやすい。継続的に不安が高まれば、いつの間にか、論理も拭き取んでしまう。

そうすると、最後の砦は、国民一人一人であろう。個々人が責任を持った思考回路を働かせ、論理的に、是々非々で判断する責任が重大となる。本来、民主主義とは、例え間接民主主義であろうとも、一人一人が有権者として政権運営に責任を持つ。その為の選択の手段として選挙がある。

世の中、ゼロリスクにはならない。リスクがある限り、少なからず不安も生じる。確率が低かろうとも、当事者になった場合は、それは自身にとって100%の事実なのだから、不安を持つのは仕方がない。

結局、不安な事は、安全性の論理的、科学的、そして客観的考察によって和らげることしかない。それでも、不安全であれば、少しでも自身が安全に向けて出来る事を考えて実行するしかない。出来ない事を、あれこれ悩んでも、不安が増すだけで、何も良くならない。あくまで出来る事を一つ一つ着実に実行するのだ。そのプロセスが、前向きなモチベーションにもつながり、不安も解消していくという正のスパイラル効果も期待できるのだ。

国を動かす、32県知事の要望

3月17日にGoToトラベル事業の段階的な再開に関わる国への緊急要望が32県知事より提出された。これに対して、赤羽国土交通大臣は、『再開は簡単ではない』として、当面再開は出来ないとしたが、32知事の訴えは、一定のメッセージとして届いたのではないだろうか。その要望の要旨を抜粋すると、

・感染状況が落ち着いている地域では、独自に宿泊割引等の観光需要の喚起を行っているところであるが、これまでにクラスターが発生したとの報告はない。

 ⇒宿泊等の観光事業喚起と感染拡大には相関関係が無い事実を語る

・地域の観光需要喚起に有効な「GoToトラベル事業」の早急な再開

 ⇒地方の観光需要喚起(GoToトラベル再開)を要望

・まずは感染状況が落ち着いている県単位で早急に「GoToトラベル事業」を再開

 ⇒方法論として、具体的にリスクの低い所から徐々に再開を提案

・観光関連事業者の経営は極めて深刻な状況にあり、回復には相当の期間を要する。

 ⇒地方経済の根幹を支える事業の困窮を説明

・また、段階的に対象エリアを広げた場合、地域間に不公平が生じるおそれがある

・6月末とされている「GoToトラベル事業」の実施期間を大幅に延長する

 ⇒徐々に再開した場合のリスクを提示し、解消策まで提案

前向きな提案実施で、要望そのものは却下されたものの、観光事業者への支援策の検討を急ぐという約束を勝ち取った。

ビジネスの世界でも参考に出来る、上手いやり方だろう。あくまで前向きな提案、そして、想定リスクに対しても具体的に打つ手の可能性まで用意しているのが、相手を説得し、動かせた成功要因だろう。

ところで、32知事という事は、全知事ではないのだが、どういうメンバー構成なのだろうか調べてみると、頷く点と、驚く点の両面があった。

頷く点は、外れた都道府県だ。当然だろうが、現時点で緊急事態宣言中の1都3県含め、解除されたとはいえ緊急事態宣言の対象となっていた、東京・神奈川・埼玉・千葉・栃木・愛知・岐阜・大阪・兵庫・京都・福岡の11都府県。まだその時期ではないだろうという判断は理解できる。加えて、北海道・沖縄も現時点の感染状況、今までの感染拡大経験を踏まえて慎重になるのも分かる。

驚いたのは、宮城県だ。GoToイート再開の影響だろうか、感染拡大状況にあり、独自の緊急事態宣言を出さざるを得ない状況だが、32県に名を連ねているのだ。確かに、GoToトラベルは感染拡大との因果関係は無く、GoToイートは確証までは無くとも因果関係はありそうな状況で、GoToイートは止めて、GoToトラベルを再開と言う、極めて合理的な判断とも言えるが、県民感情的に大丈夫なのだろうか、と心配になる。

そして最後に意味不明が、名を連ねなかった、島根・徳島の2県。両県とも、感染状況は落ち着いていて、地域経済も疲弊しているだろう。島根県は、聖火リレーボイコット、五輪反対まで持ち出して、地域経済支援を要望していたはずだ。地域選出の国会議員に窘められても政府に反旗を翻した形になっているが、それでは結果を引き出すのは難しいだろう。徳島はなぜなのだろうか、聞こえてきていない。

32知事が勝ち取った支援は全地域に対して差の無いものにはなるだろう。しかし、人が動かす組織である限り、何らかの心情面が目に見えない形で差となる事もあり得る事を認識しているのだろうか。それをカバーする別の動きはあるのだろうか。