自称「権力を監視する役割」を語る偏向メディアの欺瞞

メディアは時に「権力を監視する役割」を大上段に振りかざす。そして少し批判されれば直ぐに「言論の自由」を返してくる。

冷静に考えてみよう。「権力を監視する役割」を機能させるためには、権力を倒す力、揺るがす力をも持つ事となり、その時点でその機能自体が『権力』に他ならない。ならばその自ら持つ『権力』をも監視する役割も必要となるが、自らの行為を自ら監視する構造は独裁でしかない。まさにBPOは自らの内輪の監査に過ぎず、機能していない事は誰の目にも明らか、メディア同士もなんら監視、牽制しているとは思えない。少なくとも制度的に権力としての牽制機能は存在しない。そのようなメディアが権力を有するのは民主主義ではない。

従って、「権力を監視する役割」というのは自称に過ぎず、その様な権限は制度として何ら形にはなっていない。但し、「言論の自由」という範疇で権力を批判する事も容認されている。それだけに過ぎない。

もし本当に「権力を監視する役割」を大上段に掲げるならば、自らの権力に謙虚でなければならず、そこに「言論の自由」を持ち込むべきではなく、自らの活動も批判の対象にならねばならない。このパラドックスを理解せずに自己都合の身勝手は許される訳がない。

その様な権限はないので、一定の「言論の自由」は保証されるが、それでも情報を配信する機能を有するという事は、それだけで扇動する力を持ち、しかも国家の公共財産である電波を格安で利用する権限を与えられているために、放送法によって公平性を保つことが前提として規定されているのだ。

さて、ではこの放送法に規定する公平性は保たれているだろうか。保たれている、守られているという屁理屈の一つに、解釈としての「一つの番組ではなく放送事業者の番組全体を見て判断する」というものである。

百歩譲って、この解釈を正当だと仮定したとしても、一部の番組で偏った政府批判が行われている事を事実上認めているのだろう。一方、全体で公平性が保たれているためには、真逆の番組が存在する必要がある。まさに、政府批判の言葉尻をとらえた揚げ足取り、単なる難癖を徹底的に批判する番組が必要だが、どこにその様な番組があるのだろうか。その時点で全体としても公平性は保たれていないのは自明である。

常識的に考えて、一部の番組でも酷く偏ったものであれば、全体でバランスをとる事は困難である。つまり全体でバランスを取るといっても、個々にある程度の公平性は保たれなければならないのは当然なのである。それが選挙期間など偏向報道による扇動の影響が大きい時期には平常時以上に公平性が必要不可欠になる。ただそれだけのことに過ぎない。

しかし、今また騒動が起きた。またメディアによる一方的で非論理的な誹謗中傷がこれでもかと繰り返されるかと思うと憂鬱になる。加えて、それに便乗して、日本語読解も出来ず、文書管理の基本も知らずに、鬼の首を取ったかのように騒ぎまくるボーカルマイノリティにも辟易する。

はっきり申し上げる。権力の監視は有権者である国民が行うものである。その結果は選挙で民意を意思として表すのが民主主義である。メディアにその権限はない。奢るのもいい加減にして欲しい。加えて、全ての国民に「言論の自由」はある。しかし自由が保証される前提には、一定の責任と義務が伴うのは当然である。その責任を認識できないで自由だけ叫ぶのはガキの我儘に過ぎない。

メディア放送・報道の役割は、あくまで真実を伝える事である。その上で若干の解説を加えるまでは良いだろうが、一部の番組の様に偏った思想の解説者を揃え、徹頭徹尾誹謗中傷を続ける行為は決して許されるべきではないし、それが権力の監視ではない。自らの主義主張を叫ぶなら、堂々と公共の電波を返上し、自らの力で発信するべきである。国家の財産である電波を使った単なる自らのプロパガンダは、本気で糾弾すべき時代になったのだろう。

全く話は変わるが、今回の小西議員が取り上げた総務相の文書だが、正直言って、こんな文書としての基本も守られていないものを見て騒ぎ立てるとは、嘆かわしい限りである。

公式文書であるとの批判が聞こえてきそうだが、真っ当な文書形式の部分に関しては、内容に問題性を感じないし、政府もその様に答えている。文書の体裁を為していない個人メモとして何ら裏付けも、確認のされていないものも混在している。それを分けて議論すべきである。

個人のメモは好き勝手に書ける、それは虚実含まれていても成立する。文書として真実の記録となり得るには、5W1Hがあり、関係者による確認・承認を経る必要がある。単純にそれだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。文書管理のイロハも分からずに何を騒いでいるのか、なぜこれで政府を批判できるのか正気とは思えない。バカ騒ぎする時間がもったいないとしか思わない。

国論を分断した原因は国葬儀ではない

国論が二分された事を問題視し、国葬儀賛成派の一部からも、プロセスに問題があり、静かに弔意を示せる環境構築が必要だったという声も聞こえてくる。その為に国会決議が必要だったなどと言う意見まである。

しかし、物事の因果関係を考察し、真因を分析すれば、前述の考え方では対策になりえないだろう。

例えば、詳細の国葬儀規定が法文に長々と記載されていたところで、何とでも言えるだろうからだ。それ程今回の決定プロセスは法的に問題なく、司法判断まで下されている事は以前のコラムで述べた。それでも『憲法違反』とまで批判されているのだ、どんな法案を作ろうとも結果は同じだろう。そこが問題では無いのだ。

国論を二分させる程の状態に陥った真の原因を検証していくと『メディアの政府批判目的化』にあると結論できると考えている。その理由を説明しよう。

ノイジーマイノリティと称される先鋭的な活動家は、独自の思想信条を持ち、恐らくその考えを変えることはなく、活動はされるだろうし、民主主義社会においてこの活動を反社会的にならず、暴力的要素など違法行為がない限り、妨げることは出来ない。現状、このマイノリティの声が必要以上に拡大、再生され拡散されている。

しかし、この勢力の声だけで国論を二分にする力など無いのも現実である。

もし、それ程の力があるのなら、それこそ革命は現実性を帯びているだろうし、選挙の様相が根本的に変わるだろう。そうなっていないのは、現時点ではそこまでなのだ。

国葬儀当日、反対デモを喧伝し動員もしたのだろう、その結果が警察発表で500人、野鳥の会調べでは更に少ない。それが現実である。一方で誰に強制されるでもなく(旧統一教会の動員だという根も葉もない話はデマとして)黙って献花を自費で調達し数時間も列に並んだ人数の方が遥かに多いのが現実である。

これはメディアがこれらのマイノリティの声をマジョリティの様に取り扱い、あたかも一般市民の声であり、世論であるかのように誘導し、不都合な事実は報道せず、攻撃材料になる内容であれば裏取りなしに報じる偏向報道により扇動した結果、多数の反対派が実際に形成されたのが現実と考えられる。

マジョリティの思考傾向は、情報環境次第で大きく移り変わるのが現実であり、メディアがこれ程までに偏った情報発信を継続すると、それに大なり小なり誘導されるのは人間社会として致し方ないだろう。

勿論、ネット情報環境の拡大に伴い、自ら情報取得し、自ら思考し、メディアの情報をOne of Them として冷静に対処できる層は増えている。マクロ的にその現象が見てとれるのは、ネット社会と親和的な若者ほど政府批判の声が低く、高齢者ほど批判が精鋭化している傾向だろう。『今どきの若者は』という時代は過去のもので、今は『今どきの年寄りは』という状況なのだ。

では、なぜメディアはこれ程までにノイジーマイノリティの声を殊更取り上げ、あたかも一般国民の声であるかの様な印象操作を繰り返すのだろうか。

その答えは『政府を監視し批判をする事がメディアの使命』という誤った信念ではないだろうか。

一方で国葬儀の対象として議論となる政治家は、間違いなく力を持ったリーダーである。当たり前だろう、誰が見ても愚かな宰相を国葬に相応しいとは感じないだろう。それは細かな基準や規則ではなく、自然発生的に生まれるものだからだ。

確かに強いリーダーであればある程、反対派も先鋭化するだろう。それらの攻撃を受けても、やるべき事を確実に前に進めるのは力のあるリーダーの証拠であり、選挙という民意は答えを出すのだ。これを独裁と揶揄するのは間違っている。1回や2回ではなく複数回の選挙という洗礼をクリアしているのは国民が望む強いリーダーだからだ。実際に、毎年首相が交代する状況に対して強いリーダーが嘱望されていたのがその証拠である。

こうなると強いリーダーの存在は、政府を監視・批判する使命を持ったメディアにとっては不倶戴天の敵となり、手段を択ばず攻撃を繰り返し『アベガー』を産み出した。その流れで先鋭化したマイノリティを担ぎ出す選択をするのは自然だろう。

その結果、メディアの情報を真とする思考を持つ人間が、その情報が極左的な主張である背景も理解できず、盲目的に同調し、分断を生み出す。これはメディアによる扇動に他ならないのだ。

それだけの力を現時点ではメディアは持っている。ジャーナリズム精神がまだ生きていれば、真実を追求し、物事には是々非々で検証し、多様な意見を提示するのがメディアの使命の筈であり、それなら分断は生まれ難いだろう。

そもそも現在の政界の構造を冷静に見ると、与党である自民党の政策は、保守的な政策から極めてリベラル的な政策までウイングが広範囲に渡っている。それを、今までの感覚で政府攻撃を目的化させてしまうと、自然と極左化するのだろう。是々非々で語れず、反対の対抗軸を作るのは、極左化でないと形成できないからだ。そして坊主難けりゃ袈裟まで憎い状態で、『アベガー』と称される、『安部が安倍である限り許さない、たたっ切ってやる』という理不尽な感情論に支配されてしまうのだろう。

だからこそ、本来は個々に論理的に是々非々で向かい合う必要がある。そのことに気付かないメディアは役割が失われるだろう。歴史的分岐点にメディアは立っているのだ。

その様に歴史が動く時代環境において、個々人の責任は自ずと高くなるだろう。自分の力で情報を取得し、分析検証し、自分の考えとして軸足をはっきりとさせる責任があるのだ。

かつては民主主義が浸透する条件として教育の浸透などの必要性が求められてきたが、これからの時代は、最低限の教育だけでなく、個々人が情報力を高め、責任を持った意思決定と意思表明が出来る力を養う必要がある。そうなっていけば、流石にメディアもバカでは無いだろう、政府批判に明け暮れ左傾化するのではなく、自然と是々非々に対応できる様に近付くだろう。なれなければ消滅するだけだから。

その結果、個々の思想信条は多様であるのは当然として、批判や誹謗中傷ではない健全な議論がたたかわされる環境に近付けるべきなのだ。

故安倍元総理国葬儀が無事執り行われた

様々な反対活動でメディアも同調し、相当数の扇動された情報弱者含めて世論として反対意見が過半数を占めたが、無事執り行われ胸をなでおろしている。

私自身、四谷まで伸びる長蛇の列におよそ2時間半並び、感謝の意を込めて献花させて頂いた。途中余りの列の長さに脱落する方、駆け付けたが時間に間に合わなかった方など大勢いらっしゃり、自民党本部にも急遽献花台が用意される程の状況だった。

当日の献花者の実数は、手荷物検査近くでカウントしており約26000人と発表された。献花の意思を持ち、当地まで訪れた実数は更に多くなるだろう。

一方で反対デモの人数は主催者発表で15000人だが、いつもの如くの大本営発表で大幅水増しでの数字の様だ。実際、警察発表は全然違っているなど、人数的には反対は圧倒的少数になってしまうのだが、これが現実ではないだろうか。

献花の列と反対派のデモの接触は、一部反対派のビラ配りが為されている程度で、ほぼなく、静かに並ぶことが出来た。もちろん帰りの際に目撃した、九段下近辺の騒動は相当に酷く、暴力的で近づき難い様相ではあった。

日付が変わった翌日、メディアは『反対多数の中での強行』『将来に禍根を残す』など批判を止めていない。

過去に強行と言われた事案を振り返ると、例えば『日米安保闘争』は反対派の学生運動が先鋭的になり、死者まで出す事態に至った。しかし日米安保の改正は、日本が不利な片務性の一部改正であり、これによって日米安保体制が盤石になり経済成長に結びついた。あの時もし反対派意見が勝っていたら、歴史にIFは無いが、日本は共産主義国家になっていたかもしれない。北朝鮮を地上の楽園としていたのだから。そうでなくとも国防上の大問題を抱え経済成長などは夢だったのではないだろうか。

安倍政権時の平和安全法制は、反対派が『軍靴の音が聞こえる』『徴兵制が始まる』『戦争反対』と声高に叫んでいたが、事実どうなっているだろうか。インド太平洋構想などはこの時の平和安全法制がなければあり得ず、国際社会の信頼を失っていたのではないだろうか。

とは言え、今回の騒動で、「安倍氏の業績は素晴らしいが、国葬するプロセスが問題」「最低でも国会で決議して欲しかった」「今の状況で税金をこれだけ使うのは如何なものか」という意見も多数耳にする。筆者にしてみれば、それらは情報不足故の意見であり、ワイドショーを中心とするメディアの偏向報道、日本赤軍を称賛する様な過激な意見による偏向報道に少なからず影響を受けた結果だろうと考えている。なぜなら都合の悪い事実を伏せられ、反対意見ばかり、時にはデマを交えて聞かされれば、良識的な情報不足者は判断を誤ってしまうだろうからだ。

<国葬儀反対派の実態は>

では、今回の『国葬反対』活動を少し論理的に掘り下げてみよう。

まず反対デモのメッセージをよく見ると、国葬儀とは関係ない『憲法改正反対』『戦争反対』などが並ぶ。これはどう考えても、国葬儀は単なる口実であって、過激的左派勢力の活動の要素が多分に含まれている。プラカードの多くには日本の文字とは思えない漢字が使われ、通常であれば間違い様がない誤字も多数ある。これは外国勢力も相当数入っている証拠である。

中核派で杉並区区議会議員の洞口朋子氏はユーチューブの番組で、「国葬を行うと日本による中国への侵略戦争が起きる」「岸田政権の政策に核配備計画がある」などと発言し物議を醸し、多くの人が根も葉も無い妄想だと感じたのだ。

ここまで現実離れしたら妄想と喝破できるのだろうが、同じ様に妄想であっても、もしかしたらあるかもしれないという微妙なポイントをついてきた場合、果たして根も葉もない妄想と喝破できるだろうか。

否である。多くの人は知らず知らずに信じ込むか、少なからず影響を受けるだろう。

実は、国葬反対派の主張には多分にこの要素が含まれ、メディアが偏向報道で裏付けすることで洗脳が完成している。その結果での反対多数だというのが実態だろう。

勿論、革新的な反対派も存在する。彼らは活動目的でもあり彼らの思想信条を否定は出来ないし、その気も無い。ただ、革新的反対派は極少数派に過ぎず、大多数は前述の様に情報を誤って認識しているので、それらの方を対象に具体的に情報の何がおかしいかの検証が必要だろう。

<国葬儀反対理由の欺瞞を暴く>

突拍子もなく関係性の薄い意見を省き、本質的な反対理由を整理すると

  1. 国葬儀実施のプロセスに問題があり、国会決議が必要
  2. コロナ禍で経済困窮状況での多額の税金使用に違和感
  3. コロナ禍で一般人が葬儀もできない状況でなぜ国葬が出来る

に集約できるのではないだろうか。上述は立憲民主辻本議員の発言を元にしながら整理している。

では”1”である。実は多くの人がこの疑問を抱くのは情報不足なのだ。

政府は内閣府設置法に基づくと説明しているが、その内閣府設置法の条文に定められる国の儀式に今回の国葬儀が該当する規定がないと反発するのが反対派。

しかし法律というのはその成立要件や解釈などが重要で、この成立過程において故吉田元首相の国葬時に法的根拠が無いとの問題指摘を解決する為に、明確に憲法7条10号に規定する儀式(即位の礼など)以外に、国の儀式と位置付けられる儀式として例に前述の吉田元首相の国葬を挙げており、コンメンタール(逐条解説)に明記されている。

法律とは解釈が分かれる部分も多分にあるので、この様に解説を加え、法の趣旨と適用を明確化するのだが、それを無視したら法律の身勝手な解釈が横行し、法治主義が崩壊してしまう。

行政機関である内閣は、国会で制定された法律に則って、判断し執行するのであり、内閣府設置法という国会で成立した法律に基づいて判断した事に何の問題もない。国会審議が必要と言う人は、立法と行政を理解していないのであり、その様な考えが民主主義崩壊につながる事を理解して欲しい。

そして行政の権能に関しては、判例で司法判断も出ており、所謂『侵害留保説』に基づくのが一般的だ。『侵害留保説』を聞きなれない方もいるだろうが、法律で定められるのは森羅万象網羅する訳では無く、行政執行時に判断する基準は、国民の権利や自由、財産を権力的に制限、侵害するような行政活動に限り、法律の根拠を必要とすることが通常である。これに反する考えを『全部留保説』といい、あらゆる事に法律に明記されている事が前提であり、それ以外の行政執行は認めないという考えだが、こんな説を採れば、国家行政は一気に機能不全に陥るのは自明であり、現実的でないとされている。

反対派の意見は法律の成立要件解釈を無視し、『全部留保説』を採る法治国家としてはあり得ない感情的煽りに過ぎないことを理解するべきであろう。騙されないで欲しい。

その証拠に、各地での国葬予算執行停止などの提訴は、現時点で全て棄却されている。これは既に司法判断が下されている証拠である。また、政府批判声明を出し続ける日弁連ですら、今回は声明を出していない。恐らく法曹界にいる以上、ここまでの法治主義の否定は出来ないと想像するのである。

唯一、筆者が問題だと感じるのは、当の政府からは、この種の明確な説明が為されていない事だろう。揚げ足取りの批判を恐れ、大衆に迎合して弱気で信念を貫けないと感じる。

法治主義を無視して感情論のデマ拡散を続ける野党が問題なのは当然だが、それに対峙できない与党も情けない限りである。

<国葬儀反対理由の欺瞞2>

さて次に”2”の税金の使途に関して。

極当たり前の判断として、投資は回収されれば成功である。投資の過多の問題でなく、どれだけの効果を生み出すのか、投資対効果が判断基準のはずだ。

そして国家の行事にかかる費用を一般家庭の家計簿感覚で考えてはならない。規模が異なるのだから当然だ。

費用を見てみると、総額で概算16億6000万円とされている。内訳は、実際の費用が2億5000万円、警備費用8億円、要人接遇6億円、車両借り上げなど1000万円程度とされている。

この内予算引き当てされたのが予備費からの2億5000万円のみで他は当初予算範囲内である。

海外からは218の国や地域、国際機関合わせて700人が参列している。当然だが来日は身辺警護や秘書官など取り巻きも多数いてこの何倍にもなる。その人達が単純に日本に落としていく金額はどれ程なのだろう。日本政府要人の海外の数日間の外遊は普通に数億円かかっていると考えると、このインバウンドだけでも経済効果は絶大なのではないだろうか。しかも円安環境が更に効果を上乗せするのだ。

それに加え、弔問外交という無形の効果は間違いなく大きい。外交とは、決めるだけでなく、外堀を埋める活動、人間関係構築などが重要なのは、企業人でもそれなりの立場を経験すれば分かる筈だ。

野党の反対派はこの絶好の機会をみすみす失っている。誰が反対活動を扇動する勢力を、国家の未来の政治指導者として接するだろうか。それこそ、専制主義国家など日本の革命による政権転覆を期待する勢力以外にないだろう。極左野党勢力を国際的に日本を背負う責任政党とは認識しないだろう。残念で仕方がない。

最後に”3”を検証する。

コロナ禍で一般の葬儀が行えない、というのは事実だろうか。確かにコロナ禍当初はその様な問題指摘が報道された。しかしその直後、厚生労働省者は葬儀を遺族の意思に基づき実施する様に通達が為されている。それはそうだろう死体から飛沫は飛散しないのだから。

実際にコロナ禍において筆者も複数の葬儀に参列している。確かに、これまでの葬儀や通夜の様に、その後の故人を偲んでの会食は激減しているが、それは別問題である。

従って、この主張は明らかに事実と反するデマなのである。

繰り返しになるが、安倍批判の通称アベガー、政府批判を目的とする方々の思想信条は自由であり、覆そうとは思わない。しかし、事実を知らず、知らされず、限られた扇動情報によって間違った判断をする人達は、一時の感情論に動かされず、冷静に事実を見据えてもらいたいと切に希望する。それが日本が健全であり続ける条件だろうからだ。

安部元首相暗殺事件は安全保障の観点で語るべき

安部元首相暗殺事件に関して安全保障の観点で語るメディアがほとんど皆無だ。なぜだろう。

日本の周辺環境は言わずと知れた一触触発の状況である。中露の日本周辺海域での軍事行動は激増している。北朝鮮のミサイル実験も今年に入り増加しており、ロシアの代理実験も含まれるとの憶測もある。とても平和ボケしていられる状況ではない。

その様な状況下で、国際社会に大きな影響力を未だ持ち続ける安部元総理が暗殺されたのだ。その客観的事実をつなげた調査分析は必須であろう。

もちろん、現段階で特定する様な情報はないかもしれないが、決して陰謀論ではなく、現実の安全保障観点で考えれば、最大のリスクとして想定し、徹底的に調査・情報分析し、その可能性がなければそれはそれで良しとするべき事態である。それがインテリジェンスであろう。

もちろん、特定の国家に限らず、国際社会におけるあらゆる過激組織、国内における反体制組織団体関与の可能性を否定せず捜査する必要があるのだ。

恐らく国家としてはその様な視点での捜査は実行しているのだろうと期待している。当然関連国、例えば米国なども全力で調べているはずだ。当然だろう、自国の安全保障に影響を及ぼしかねない事態なのだから。

その構造を考えれば、奈良県警が捜査を担っているのはほんの一部でしかなく、犯人からの聴取が全てでは決してないのだ。その一部がリークされメディアで実しやかに動機や真相と伝えられているが、全く現実の全体像とはかけ離れている様にしか感じられないのが現実だ。国際的影響力のある政治家の暗殺を個人的な怨恨による殺人事件の様に矮小化して報道するのは、私には奇怪にしか感じない。

<メディア報道のどこがかけ離れているか?>

まず動機だが、メディアの伝える動機は、母親が統一教会に入信し破産し、自身の生活も崩壊し恨みを持っていることである。しかし、それは20年も前の話でありその後の時間経過の中で恨みが増長し犯行に至るまでのつながりが薄すぎる。そしてなぜか恨みの対象が宗教団体の人間ではなく、安倍元総理に向いたのかの説明もビデオメッセージだけでは根拠薄弱過ぎる。しかも衝動的な犯行ならまだしも、計画的犯行なのだから、それを支える強い動機が必要と考えるのが自然だろう。

冷静に考えて欲しい、この種の恨みを動機とするならば、日本中に他にどれだけの犯人予備軍が存在するか計り知れないだろう。それでも大多数は犯行には及んでいないのだ。

筆者自身も複数事例、身近で見て来た。学生時代の先輩が統一教会に洗脳後拉致されたのだ。親御さん及び周辺の関係者の方々が奪還作成を実行し、救出後逆洗脳した事件を目の当たりにしている。また別の事例では、統一教会ではないが、クラブの後輩がある宗教に入信し、クラブ活動が信仰上の事由で困難になる事態に陥った。その時、宗教団体の本部に乗り込んだが、「神の思し召し」とか繰り返されるだけ、暖簾に腕押し状態で、彼のクラブ活動復帰には至らなかった。

この様に、世の中には、少なからず、宗教による生活への悪影響の側面、被害者が存在する事実は理解しているつもりだ。

繰り返すがこれが動機なら、他に有象無象の犯人予備軍が存在する。しかし、恨みを持つことと、犯行に及ぶことには大きな隔たりがある。犯行に及ぶには、何か協力に背中を押す何かがなければ人はなかなか犯行には及ばないのだ。計画的犯行となれば尚更だ。その背中を押す何かが、真の犯行の動機のはずだ。

今のメディアが伝える宗教による被害を殊更喧伝する事は、犯行の真因を紛らわし、安部元首相が宗教法人に関わった事が悪の様に印象操作をし、被害者のはずの要人を貶める様にも見えてくる。『アベガー』『アベシネ』『安部は人間でない』『安部が安部である限り許さない』など、生前繰り返された事実無根の誹謗中傷、暴力的なヘイトの延長線上にあるとさえ思える。

国際社会の反応が、改めて安部元首相の偉大さ、為してきた偉業、国際社会での影響力を物語っているのだが、なぜか日本のメディアや一部過激な人達は決して認めたくないらしい。

百歩譲って、その様な方々も思想信条は自由なので(暴力的なヘイト、根拠の無い誹謗中傷は許されないが)仕方がないが、私の周辺にも、根拠もなく『安倍さん嫌い』という人は一定数存在する。根拠もなく、印象だけであり、説明しても聞く耳持たず感情的に『そんなの知らない』と言う。少なくともこの種の人は目を開いて、自分の頭で考えて欲しいのだが。

さて話を戻そう。今回の暗殺事件だが、東スポが関連団体の存在をスクープした。正直、事の是非は現時点で不明であり、情報源も分からない。それでも、この種の可能性を一つ一つつぶし、シロならシロとする作業が絶対必要不可欠だろう。

大勢存在する実行犯予備軍を上手く取り込み、時には洗脳し、背中を押す事で自らの手を汚さずに犯行が成し遂げられたのならば、これは反体制勢力としては方法論として見逃さないだろうし、日本も国家としての大きな脆弱性になる。敵対国家も見逃さないだろう。だからこそ、そのスキームを解明し対処する事が必要なのだ。

<その他も同様の問題構造にある>

安部元首相の演説に暴力的妨害が常態化していることはよく知られている。しかし、それに対処したら言論弾圧として警備側が敗訴する様な判例も生まれてしまっている。この様な暴力的妨害に異を唱える一般人が撮影していたスマホを破壊するような暴力事案も聞こえてくる。この様な状況では要人の警護は覚束ないだろう。

何より最優先するべき、安全保障の観点で事に当たらないと、本当に国家の脆弱性が高まるばかりだろう。

確かに要人警護の観点で言えば今回の暗殺を防げなかったのは大失態である。抜本的な対策のみならず、責任追及は必要だろう。しかし、本当に実効力のある要人警護を実施するために反省しなければいけないのは警護体制だけではなく、暴挙を許す土壌にもメスを入れる必要があるだろう。

『アベシネ』『安部は人間でない』『安部が安部である限り許さない』などの暴力的言動を例え権力者に対してでも容認してしまう社会環境は決して建設的にはなれないだろう。

そういう意味で、日本にもインテリジェンスの機能強化は必要不可欠だろうし、スパイ防止やテロを計画段階で本気で防ぐための法整備、体制構築は待ったなしなのだ。

大阪市咲州メガソーラー入札に関しての考察2

日本国のインフラである発電事業に中国資本が参入し、一帯一路として公表されている事態になっている事は疑いようのない事実だ。この件に関して、地上波メディアは殆ど取り扱っていないが、ネット界隈では問題視する声が高まってきている。

そして、ここにきて情勢が変わってきたと思えるのが、維新の国会議員が橋下氏を民間人であり党との関わりを否定しつつ、擁護の声を上げ、違法性の無い事と、安全保障上の問題であれば法制度の問題であり、国家の問題であって、地方自治体に責任は無いとの論調を繰り広げている。同時に、この様な外資参入によるリスクに関しては、予てより同党としては、国会で提案を繰り返し、実現していないのは与党の責任だと言い始めた。

この論調には2重3重の論理破綻が存在し、この様な橋下氏の論調に合わせた上から目線の発信をするメリットがどこにあるのか勘ぐってしまうのは私だけだろうか?

<維新国会議員主張の欺瞞性>

ネット界隈での批判には当然幅があり、各論あるが、真っ当な視点で整理すると、今回の事案に対する違法性を問う批判は少ない。寧ろ、法の抜け道を行く脱法行為的な手法に対する批判が主であろう。そして同時に橋下氏の強弁の数々は前論考でも書いたが、入札云々やWTOの国際調達ルールなど本筋とは異なるその場の言論を支配する行為に終始し、次の瞬間、外為法など言い方を変えてきている事に批判が集中している。仮に当初の主張に誤りがあり、訂正し異なる主張をするのなら、明確に訂正してからにするのが一般的常識であり、それすら逸脱する行為が余りにも頻繁で批判されているのだ。

維新の国会議員は、この様な橋下氏の姿勢に対しても一切批判せず擁護している。

維新という組織にとって、橋下氏の姿勢に一般からの批判が集中し、関係性を疑われる状況でもあれば、自らにも火の粉が降りかかる危機状態である。橋下氏が全く関係ない人物なのであれば、本来の危機管理、危機コミュニケーションの観点で考えれば、寧ろ、この様な振る舞いに対して、批判して、自組織と関係なく、考えも全く異なる事を表明するべきだろう。

しかし関係性は否定しても、当人を擁護すれば、その一連の振る舞いすら批判の対象でなく、正当性のある行為であり容認するべきと宣言しているに等しく、同様の行為をする組織と認識されかねない。現に筆者には論調が同様に聞こえてくる。これでは、自らに降りかかる火の粉が燃え上がり、炎上に繋がるリスクが高まるのではないのか。

次に、維新自身は、安全保障上の脅威となりうる外国企業の参入については、実行力のある法規制を国会で提案してきたとの事なのだが、それが政党としての主張であれば、咲州メガソーラー事案において、入札当初と異なる事業体制に変更される時点で、前述の観点で確認するのが筋では無いのか。

全てを確認など出来ない、という説明も、一帯一路として高々と宣伝される程の一大プロジェクトであれば確認するべきと考える方が妥当ではないのだろうか。

例え、WTOルールや外為法などが妨げとなって、自身の政策方針上の対応措置が、法的に困難だとしても、その時点で広く大阪市民、いや国民に状況を公開し、立法措置の必要性を訴える絶好のチャンスでは無いのか。

当時、発表されたり、問題視された事実は確認できていない。

『違法性が無いから問題ない』と『自分達は法規制を提案してきた』を同時に説明する事で論理破綻しているのだ。法規制の必要性を提案しているなら、現行法規制に問題がある認識の筈で、違法性が無いから問題ないという言い訳は決して出て来ないのではないだろうか。行政の不作為か、問題認識が無いかのどちらかでしかないと考えるべきだろう。

<今後期待すべき本質的な対応>

この問題に対して、筆者は明確に問題を二つに分けて論じるべきだと思っている。

最優先すべきは、今現実の発生している事態を正確に把握し、安全保障上のリスクを低減する為に為すべき事を議論し、法制度化を目指す事。これは、橋下氏がどうとか、維新がどうとか、関係ない。

現に発生している危機事態に対して、政治が向き合わなければ話にならないのだ。参議院選挙の明確な争点の一つになり得るだろう。

次に、再発防止の観点で、こうなってしまった経緯を調査し、明らかにする事だろう。これも橋下氏や維新がどうという事ではなく、全国各地で発生している事案を一つ一つ、明らかにしていく事ではないだろうか。

本当は、維新の立場で、この視点で動く絶好のチャンスであったのだが、全く逆の反応、問題はないとして収束させる方向に向かってきたので、もう期待はするべきではないだろう。

本当は、まず大阪市議会で明らかにしていくべきなのだろうが、維新自体が『違法性が無いから問題ない』という主張をしている限り残念ながらあまり期待できないかもしれない。

そうなると、違法性も見えてこない状況でもあり、ジャーナリストの皆さんの腕の見せ所ではないだろうか。前述の様に地上波系メディアや新聞等のオールドメディアは期待できないかもしれないが、一部では取材は進みつつあるとも聞くので期待したいところだ。

この追及では、維新だけではなく、与党にも多くの親中派が関与している可能性も視野に入れるべきであり、港湾パートナーシップなども含めた深堀がどこまで出来るか、注目するべきであろう。

しかし若干心配なのが、公党である維新と一部メディアが包括連携協定を結んだということ。報道機関と公党の包括連携協定で、報道に偏りが発生しないのか、正直不思議でならない。一般的に考えると、手心が加わると考えるのが自然であろう。

様々なハードルは現実に存在するが、国として安全保障上の課題であることは間違いなく、国益視点での追求と対策の議論、実行を避けては通れないだろう。

大阪市咲州メガソーラー入札に関しての考察

時の人橋下徹氏が自身のYouTube番組newsBAR橋下2022/05/07にて、北村弁護士をゲストに、咲州メガソーラー開発事業に上海電力が入札で参入し、WTOルールで事業者の排除は出来ないと強弁を振るった。

これは、中国の国営企業と言っても過言でない同社が、この大阪での事業参入を皮切りに日本各地での同様の事業に参入し、エネルギー安全保障上の問題を指摘される状態に陥っている現実に対して、それを誘導したと疑惑が当時大阪市長である橋下徹氏に向けられ、説明責任を果たすべきだと北村弁護士が指摘したことに対するものだ。

説明は簡単に言うと、入札だから排除できない。WTOルールを知っているのかと無知を論う内容だった。

しかし、上海電力は入札によって事業参画した訳では無いのが事実なのだ。

<咲州メガソーラー関連入札とは>

本事案の入札で確認できるのは、咲州メガソーラーの発電用地の不動産賃借契約であり、その条件付き一般競争入札だけなのだ。それには伸和工業と日光エナジー開発の日本企業2社が落札している。550,001円/月で落札し、その10日後に伸和工業が合同会社咲洲メガソーラー大阪ひかりの泉プロジェクトを設立、この合同会社に出資の形で上海電力が実質的事業者になったのだ。

落札後、僅か10日間で会社設立、出資というのは事前準備が無ければ不可能だろう。つまり、実態を隠しての入札参加スキームの出来上がりなのだ。

入札されたのは不動産賃借契約だけであり、その地での開発事業、電力事業に関しては入札でも何でもないのが事実である。つまり、上海電力を参入させるスキーム自体は入札案件ではなく、橋下氏が主張するWTOルールなど全く関係ない。いやむしろ行政が関与しない野放しでの決定なのか、或いは、予め指定していた事業者を隠して誘致した疑いが生じているのだ。

上海電力のホームぺージに記載されている『この事業は大阪市により招致いただいた』というくだりを疑う向きもあるが、想像するにこれは翻訳ミスで、正確に意訳すると『この事業は大阪市の入札により参入した』としていいだろう。

従って、『招致』を行政が指名した様に解釈するのは間違いだろうが、発電事業は『入札』も実施されておらず、この説明は虚偽と言っても過言ではないのは間違いないだろう。

<山口敬之氏による公開質問>

ジャーナリストの山口敬之氏はこの疑いに対して、当時の大阪市長である橋下徹氏に公開質問をYouTubeにて実施した。以下がその質問内容である。

1.上海電力の参入が入札というなら、入札日時とその内容を明確にせよ

2.上海電力を発電事業に招致したのは大阪市の誰で、どのように招致したか

3.2013/9~2014/3の間、上海電力関係者に何回面会したか、その場で咲州電力開発事業の話をしたか

1.に関しては、入札であり事業者として拒絶できないとする橋下氏の論理が正当ならば、入札実施の事実関係を明らかにせよという事であり、事実入札していないだろうから、橋下氏の虚偽説明が明らかになるだろう。

2.『招致』という言葉が額面通りであればその実態を明確にできれば一大疑獄に発展するだろうし、もし『入札』が正しいと解釈するならば、①の質問と重なり、表立った入札には姿を見せない『ステルス入札(山口氏造語)』が疑われる。

3.実際に上海電力関係者とのつながりがあれば便宜を図り、全国展開のきっかけを作りスキームを完成させた一大疑獄になるだろう。

しかし注意しなければならないのは、違法性があるのかだろう。例え便宜を図ったとしても、金の流れがなければ疑獄には発展できない。入札案件でなく、事業者排除の論理も働かせられないと言う強弁も通るかもしれない。

これは当人の説明などは期待できないだろう。なぜなら表向き違法性が無いと言う強弁が通るだろうからだ。捜査で立件でもしない限りだ。

但し、北村弁護士とのやり取りでの、入札だから問題無いと言うのは現時点で虚偽説明であり、WTOルールを持ち出して煙に巻く方法も批判されて然るべきだろう。そして違法性が無くとも同義的に問うこともあるだろうが、その場合は当人と言うよりも、同氏を出演させる放送局、スポンサーが考えるべきだろうし、視聴者として局へ意見発信するべきだろう。

<もう一つの視点、エネルギー安全保障の観点>

橋下氏の言い逃れの強弁はどこまで行ってもその場の強弁に終始し、過去とのつながりのない矛盾だらけで実りの無い議論にもならない喧嘩にしかならないだろう。

しかし日本の国家として、エネルギー安全保障の観点で現在発生している状態をどの様に考え、どう対策を講じるかは、建設的な別議論が必要だ。それこそ当時の責任論は検察の捜査にでも任すとして、今目の前にある事実は目を背けられないからだ。

エネルギー自給自足の問題、有事の際に、敵国に我が国のエネルギーの喉元を抑えられた状態をどう考えるかだ。

特に維新は、参議院選挙に向けて、この点を明確に有権者に政策として示すべきではないだろうか。行政の不作為であろうと、陰ながらスキーム構築し実質的に誘致したのであろうとも、きっかけを作った大阪の責任政党として、このままメガソーラー事業を野放しして良いのか、野放し出来ないなら、どの様な法案、制度改正でこのリスクと向き合うのか、国政レベルの公約にするべきだろう。

筆者としては、国益観点で見れば、例え賠償金が発生するとしても、それは損切りしてでも契約破棄し、国内事業者に移管するべきではないだろうかと考える。

こういう事を一つ一つ、鉈を振るって行かない限り、経済安全保障、エネルギー安全保障等遠い夢の話に終わるだろう。

戦争有事における情報戦、ロシア擁護派の欺瞞

ウクライナに侵攻したロシア軍の戦争犯罪と思われる惨状が、連日メディアだけでなくネット含めて報告されている。一方でロシアは全面否定、軍事施設への攻撃しか行っていないとの主張を続ける。これはある意味、戦時下における情報戦でもあり、お互いに自身が不利になる情報発信は決して行わない構造により発生する事象である。

その様な状況でロシア批判の意見が圧倒的に多くなるのは、客観的に見て当然と思えるのは筆者だけではないだろう。一方で、根強くロシア擁護論を展開する層も存在しており、いくつかのタイプに分かれている。

その中で質の悪いのは、「アゾフ」「ネオナチ」というワードに縛られる視野狭窄、客観性を欠いた論であろう。国際社会がどの様に調査し、その結果としてどの様に判断しているか等、客観的情報を全て陰謀論で片づけてしまう。そして陰謀論を信じ、国際社会の判断を覆しうる根拠は何も示しもしないのだ。

民族的ナショナリズムを前面に活動する組織が存在するのは事実である。しかし存在するから全ての悪行がその組織の責任である事にはならないし、それだけの活動力があれば、国際社会の目を欺くのは今の時代困難だろう。

また、周辺状況や過去の歴史を認識するだけで客観的に物事を把握する事は可能である。冷静に考えれば、「ナチズム」は現存しないが、民族的ナショナリズムは現存する。しかし、「ナチズム」程の過激な活動は確認できていない、何故なら国際社会の調査研究が物語っている。一方で「スターリニズム」は現存する事を否定できないし、ウクライナ都市の現況やその他のロシアの侵攻を見る限り戦争犯罪の疑いは晴れない。

この種のロシア擁護派は、これらの状況証拠を覆し、擁護する根拠に至る情報提示、感情的陰謀論でない論理的な説明が必要なのだが、今の所、聞こえてこないのが実態であろう。本来、それらの情報なく信じるに至る事自体が筆者には理解できない。

間違えてならないのは、日本のメディアが報じる情報は極めて偏っている事だ。例えば世界中の紛争が決して均等には伝わっていない。また、歴史認識も思考停止を継続している。

また情報がどの様にねじ曲がっていくかを我々日本人は目の前で見ている筈なのだが、その認識が甘い。「南京大虐殺」と称される事案は、当時の人口やその後の人口推移など客観的事実を見れば説明できないし、東京裁判で裁かれた内容を見ても大虐殺など無かったと考えるべきだが、それでも情報戦では異なる指摘を受ける。「真珠湾攻撃」も未だに象徴的レッテル貼りのワードとして使われ、慰安婦や旧朝鮮半島出身労働者も同様。デマを元に日本のマスメディアが誤報を繰り返し国際問題化した。

少し冷静に、事実関係を調べれば明確であり、論理的にも説明が出来る内容でも、プロパガンダにより国際問題化出来るのだ。ならば、例え悪意をもったプロパガンダ情報であろうとも、冷静かつ客観的に調べ、論理思考さえすれば、大きな間違いは避けられるはずであり、情報を受ける側一人一人の責任が実は大きいのだ。

<劣化し両極化するジャーナリズム>

最近のジャーナリズムはその精神を忘れ、裏取りもせずに誤報を垂れ流す事が多い。しかし、今回のウクライナ戦争において、その逆張りの自分の目で見ないものは信用しないと言う極論も一部で確認した。

それはロシア侵攻の跡地での惨状を伝えるウクライナ側の情報を現場・現実・その瞬間を見た訳ではないので、誰が、何の為にやったか判断できず、一方的にロシア軍の仕業と言うことは出来ないと言うのだ。

確かに一理はある。ジャーナリズムと言いながら、「アベガー」「スガガー」や「森掛桜」など判明した事実は報じず、裏取りしない疑惑を実しやかに報じる様な劣化現象が激しいのが現状であり、その反省に立てば、事実関係の裏取りが報道の前提であることは当然だからだ。

しかし、それも行き過ぎは良くなく、逆張りの疑いすら感じざるを得ない。

そもそも今回の様な戦争有事において、全て取材をして裏取りをする事は不可能だろうし、事実関係が判明するには相当な時間を要する。その間、全てにおいて分からない、判断できないでは報道にならないだろう。

状況証拠を並べ、各種の発信を時系列で論理的に分析し、その上で前提付きで判断すべきなのだ。そして前提を覆す情報が新たに出てくれば、訂正し、再発信すれば良いのだ。

<情報論理分析とは>

世の中に流通する情報には発信する側の意図が必ず介在する。情報とは、FACTを示すデータ(文字・画像・動画・数値)を分析し、解釈を加えて情報となるのであり、意図が介在するのは当然である。しかし、それは少しだけ注意して情報と向き合えば、比較的簡単に意図は透けて見え、フェイクは見抜ける。

従って、一つの情報を妄信する安易な行為が危険である認識さえ持てば、情弱に陥る事は簡単に防げる。実際は、それ程簡単でなく、人間は弱い存在なので、冷静さを失い、簡単に騙され妄信してしまい、情弱に陥る。その結果、社会不安定にまで発展させる危機を生み出す。

今回のウクライナにおける惨状において、確かに首をひねる様なものも多い。何故、その瞬間の動画が撮影できるのだろうか、この画像はいつのどこの画像だろうか、等である。しかし、SNSも含めた多様な情報を総合的に見ればある程度の実態は推定可能だろう。筆者が最大注目すべきと考えるのは、ロシア政府、外交筋から発信される情報を時系列で並べた時の論理矛盾があり説明出来ない事実である。ウクライナ発信は一方で誇張表現はあっても論理的矛盾は感じない。

情報論理分析とは、多くの情報を取得する努力を前提として、その時点における取得可能な情報の範囲で論理的に考察して判断する事であり、新事実・新情報が出てくれば当然ながら判断は覆る事もあるのだ。その反省があれば朝令暮改があっても良いだろう。むしろ、全ての情報を取得できると考えるのは傲慢でしかなく、その様な神の領域を求めるものではない。そして、最も重要なのが論理性の担保なのである。

侵略戦争が招く悲惨な現実を見て思考停止してはならない

ウクライナに侵攻したロシア軍が首都キーウ周辺から撤退し、近郊ブチャでの惨状が明らかになり世界が悲しみに包まれた。その事を伝えつつ、2022年4/6放送のワイドショーにて、何のため?と疑問を投げかけるシーンがあった。常識的に考えれば、こうなる事は容易に予想できた事なのにだ。

もちろん、現時点では悲惨な殺戮の結果としての映像が流布している状態であり、その深層部分に関しては今後の慎重な調査が必用であり、軽々しく語れるものではないのも事実だが、可能性として論じることは避けるべきではないだろう。

それは、可能性を論じることで、実態を解明する道筋にも成り得るからだ。受け身の姿勢で、調査結果を待ち、それまで思考停止と言うのでは問題への対処が遅れるだけでなく、例え調査結果が出たとしても自身の思考なく丸呑みするだけになる危険がある。あくまで一人一人が問題意識を持ち、論理的に思考することで、その考えが集約され対処が為されるべきと考える。

<悲惨な殺戮が行われた実態は>

都市制圧を実行する事を普通に想像してみれば分かるだろう。当初言われていた様な、ロシア軍を解放軍と崇めて迎え入れるのなら別だろうが、その場所は敵に溢れている。侵略なのだから当たり前なのだが、その事すら思考停止しているように思える。

侵略される側の立場でも考えてみる。一般市民と言っても、今回の様な短期間で逃げ場所、逃げる手段が確保できる筈も無く、侵略者が入ってくるならば、まずは自分達の命を守ろうとするのは当然だ。投降して命が助かるとは思えないだろうし、隠れられれば隠れるが、隙があれば反撃も試みるだろう。あくまで自分達の命を繋ぐために。

侵略者側は、この様ないつ反撃されるか、どこから攻撃されるか、分からない究極の状態で都市制圧する為には、慎重に見極めながら適切に踏み込んで行って制圧するのに、国際法上の戦争犯罪を犯さない様に実行する為には、相当な時間と労力、危険が伴うので、無差別攻撃で制圧する方法が簡単で攻撃側のリスクも低くなるのだ。しかも、侵略側のロシア軍の編成自体、潤沢な体制とは言えず、過酷な任務を強いられていたのも現実であろう。

20世紀型の戦争の姿だが、余りにも犠牲が大きく、悲惨な為に、第二次世界大戦後に戦争犯罪として、侵略戦争や国際法に違反する戦争の計画・開始・遂行の責任に関する罪(平和に対する罪)、一般民衆に対する大量殺人・迫害など人道に反する行為の罪(人道に対する罪)が加えられたが、ルールがあれば守られると考えるのは浅はかと言えよう。

つまり、このルールを守る限り、そもそもの侵略も禁止事項であり、更に都市制圧は実現が相当困難なのだ。だから侵略するなという、それ自体抑止になるのは間違いないが、逆に言うとルールを破った侵略が決断された時点で、他のルールも守られないと考えるべきである。その方が味方軍の損耗を最小限に作戦実行できるからだ。

かくして、前時代的虐殺が実行されたと考えられる。

そして、この現実はデジャビュ―の様に、過去のソ連からロシアにかけて行われてきた歴史の事実が思い出される。当事国は否定している様だが、その否定する論旨も少々矛盾を感じる内容が多い。最終的な結論は、調査を待つ必要はあるだろうが、現時点でも、ある一定の結論が導かれても仕方がない状況だろう。

<命を懸けて戦う戦闘員への報酬>

実はそれだけではない。20世紀、第二次世界大戦以前どころか、中世の戦争の様相が見えるのだ。

戦闘員は命を懸けて戦う。大義を感じ、主君への忠義で命を捧げる様な綺麗ごとではない。命令とは言え、命を懸けるに相応しい戦果が無ければ戦闘員の統率などとれるはずがない。

戦国時代なら首級を上げる事で、立身出世や土地などの報奨が得られる。というのは表の歴史で、実態としては、攻め落した地域の一般人からの略奪、拉致しての人身売買を認める事で、戦闘員の働きに報いるという痛ましい現実が存在した。もちろん、これは中世の負の歴史なのだが、今回のロシア軍の行状を見る限り、同様の状況が暗黙の了解であったかもしれないと考えられないだろうか。

国際社会には、第二次世界大戦後の秩序どころか、中世そのままの戦争観を維持し実行する国家も残存している事は疑い様のない事実であり、目を背けてはならないだろう。

<平和ボケから目覚めなければならない>

第二次世界大戦後、冷戦構造による戦力バランス拮抗で一定の秩序は保てていた様に見えるだろうが、それでも中東やアフリカなどでの紛争は絶えなかった。我々が、自分事に感じなかっただけであり、ウクライナ侵略は平和ボケに浸る日本人に現実を突き付けた。ここで目を覚まし、我々が侵略を受けない為には、どうすれば良いか、真剣に考える必要がある。いや、既に不当な侵略を許し、不当占領されている固有の領土も複数存在する。

攻めて来られたら、逃げの一手だと相手に思われれば、相手の侵略を容易にし、招き寄せる結果に陥るだろう。容易に攻めていけない、攻めればとんでもないしっぺ返しを食らうと本気で相手に警戒させる事が抑止力である。そのため、使わない力であろうとも、いつでも使える力があると知らしめ、実際に起きた場合に遅滞なく対応できる様に普段から訓練を積んで準備を怠らない事が、悲惨な侵略を防ぐ唯一の方法であろう。

繰り返すが、戦後秩序を守る国際ルールがあっても、侵略する国は守らない。話し合いで防げるなら苦労はしない。話し合いするにも、双方の譲歩とWinWinを達成させる為には侵略した方が早いと思わせない事が必用であり、それなしの妥結など夢物語だろう。

専守防衛とは、侵略が現実に行われると確認出来るまで戦わない事であり、その時点で本土は少なからず被害を受ける。侵略は起きてから逃げられるものではなく、悲惨な結果が待っている。だからこそ、侵略されない、侵略させない、侵略しようとも思わせない国家になる必要があるのだ。

平和ボケはあらゆる分野に悪影響、エネルギー問題も

令和4年3月22日、東京電力と東北電力管内で「電力需給逼迫警報」が発令された。

実際、100%を超える需要に対して供給のバランスを綱渡り的にかろうじて保つために、揚水発電が使われた状況で、しかも余力は無かった様だ。あるワイドショーでは「その様な状況だとは知らなかった」「もっと早く知らせてくれないものか」など、余りにも無責任な発言のMCやタレントコメンテイターに不快感を抱かざるを得なかった。

事実関係を簡単に整理しよう。

民主党政権時に超法規的政府要請により原発は稼働停止し、脱炭素・脱化石燃料の流れで火力発電設備は更新が滞り、休眠設備まで稼働させて急場を凌ぐ状況だった。その後供給側の状況は大きく変化していない。

一方で需要側は大きく変化している。省エネ効率を向上させる技術開発、製品化は大きく前進し、デマンド監視システム導入によるピークカットなど、企業においても様々な省エネ対策の設備投資を活発化し、エネルギー削減施策を行ってきた。

その結果、需要は拡大しているものの、省エネ・節電・効率化で絶対量としては最小限に抑え、かろうじて綱渡りが出来ていたのだ。しかし、この状態は、通常考えられるリスクの顕在化により、危機は起こり得ることを予てより警鐘が鳴らされてきた。実際に2018年9月に北海道でもブラックアウトの危機は訪れた。

その様な状況下で、元首相5人組等の一部の非論理的、非科学的な「再生可能エネルギーで対応可能」「原発は無くて大丈夫」という論が、大義名分である「環境」「安心」を盾にして、実しやかに叫び、現実から国民の目を晒し続けたのではないのか?マスコミは、両論併記せずに、これらの論を拡散し、或いは都合の悪い、原発稼働の必要性の論には目を背け報道しなかったのではないのか?

それを「知らなかった?伝えてくれなかった?」ふざけるにも程がある、マスコミが知らせなかった、伝えなかっただけだろう。

<エネルギー問題は今に始まった訳では無い>

まず前提として抑えておきたいのが、エネルギー需要はこの先大きく増大するということだ。デジタル化していく環境、セキュリティ安全保障上の問題でデータセンタの国内化が必要不可欠な状況で、現状とは桁違いのエネルギー需要が生じる。

つまり、現時点で綱渡りしている様では国家としてたちまち危機に陥るリスクが高い。コロナ禍で喧伝された様な「何もしなければ42万人死ぬ」と同様のロジックで語れば、最悪のシナリオは、凍死、熱中症死、入院加療時の治療不備、貧困による餓死、国防脆弱化による侵略を受け大量虐殺など、桁違いの被害も想定できる。もちろん、コロナ禍と同様「何もしなければ」というのは、あり得ない前提なので、その場での対処は実行され被害は抑えられるだろう。しかし、それが後手後手の泥縄方式であれば被害は無視できなくなるので、リスクに正面から向き合った根本的なリスク低減策が必要不可欠なのだ。

エネルギーを調達資源と考えるならば、偏ればあらゆるリスクが生じる。1極集中せず2重化、いや多重化することが安定調達の基本である。加えて、需要の量に相応する規模の調達が求められ、需給の変動に対応できる蓄積、需要地への適時運搬、デリバリも大きな課題なのだ。

多重化に関しては、例え再生可能エネルギーでも一極集中するのは危険だという事だ。エネルギーである限り限界はある。太陽光であっても、風も地熱も、無限ではない。既に存在するエネルギーは自然が吸収し環境を形成しているのだから、一部を別の形に変換すれば当然ながら、自然への供給量は減少する。僅かなら影響は無視できても、増えれば必ず自然環境変化を起こす。これを一般的に自然破壊と呼ぶ。環境に影響を与える限界は未知だから、多重化で一つのエネルギー源への依存度を少なくするのが安全なのだ。

従って、再生可能エネルギーを過信せず、原子力、火力(石炭石油ガス)、水力など可能な限りバランスを保つべきなのだ。

そして現実的には、現時点の技術レベルと需要供給量の実態を元に考えるべきである。

現時点の再生可能エネルギーで需要の大半を賄うのは難しい。将来、開発され、効率化され、絶対量が安定確保できる可能性を否定はしないが、現時点では無理である。しかし、原子力発電、火力発電ならば可能なのだ。その現実から目を背けるべきでない。

そうやって考えると、ブラックアウトするリスクに備える優先順位は

  • 原子力発電の再稼働
  • 火力発電所の設備更新、高効率発電設備の置き換え、増設
  • 再生可能エネルギーや小型モジュール等の新技術研究開発強化

の順に本気でエネルギー政策を再検討するべきであろう。

安全保障面から見た、絶対量の安定的確保と自給率向上も検討に必要な観点だろう。

<日本の技術力がカギを握る>

原子力発電に関しては、様々な感情的な反対論ではなく、冷静かつ論理的に現実論を展開するべきである。まず、現状ある設備は、安全基準をクリアした所から早急に稼働させるべきだ。テロ対策なども必要に応じて後からでも防御設備、運用改革をすれば良い。リスクがあるから出来ない、ではなく、リスクを低減しながら安全に運用するのがリスクマネジメントなのだ。

そして、将来を見据えて、日本が誇る最先端の技術力を失うべきでもない。軍事研究忌避、原発忌避の感情が蔓延れば、優秀な技術者は国内では育たず、海外に流出するだろう。学生も専攻しなくなる。それ程危険な事は無いのだ。技術力を失えば、現在の原子炉の廃炉や破棄物処理も対応力が無くなる事を忘れてはならない。技術力が継承されれば、最新の技術を開発し、更なる安全性と経済性も追求できるのだ。

そして優秀な技術者が育つ環境になれば、小型モジュールなど未来型の開発も安全に推進出来るのである。

再生可能エネルギーの最大の課題は蓄積と運搬だろう。エネルギー生成、変換自体は安定しないのは当たり前だろうが、効率的な蓄積、運搬性が高まれば可能性は高まる。筆者の本音を言えば小規模地産地消の形が全体のバランスを埋める有効な手段と考える。

逆に言うとその課題が解決されるまでは補助エネルギーでしかないのが実態だ。大きく期待すべきではない。

蓄積とは、蓄電池だけでなく、水素やアンモニアを生成し蓄積するのも有用、運搬も可能なのだ。そうなれば、内燃機関への応用も展開できるだろう。

火力発電を脱炭素で忌避する傾向も冷静に考える必要がある。再生可能エネルギーと比較して現実的にエネルギー効率や脱炭素など対抗しうる技術力はある。廃棄物処理の比較も同様だろう。

日本の技術力による高効率石炭火力発電は世界に誇るレベルである。少なくとも切って捨てるべきではないだろう。同じ理由で内燃機関の技術も日本が世界に誇るレベルであり、電気自動車と比較しても総合的には負けない環境性を有するエンジンも存在し、更に発展できるのだ。

日本の技術力を封じる戦略に振り回されるだけでなく、本来の課題を解決する日本の技術力を世界に示すべき時代なのだ。

情報論理分析の要諦、分かり易い情報とは?

企業内の業務遂行時に、自身の業務成果を資料として残す。また、自身の業務遂行において過去の他人の実績を参考にするために過去の資料を紐解き、分析して自身の業務に役立てる。当然の業務遂行上の規範である。

ある日耳に入ってきたのが、過去の資料が分かり難く、読み解くのに当時の担当者に何度もヒアリングするなど苦労したので、他人が見て分かり易い資料の作成を心がけよう、との事だった。しかし、言わんとすることは正論でも、それでは精神論でしかなく、結局何も改善しないと言わざるを得ないのだ。

分かり易い資料とは、具体的にどんな資料なのだろうか?

<資料が分かり難い原因は情報の中身?>

一言で分かり易い資料といっても、具体的にはどの様なものを指すのだろう。巷のハウツー本では、箇条書きにして、図表など一目見て感覚的に認識できる様にだとか、テクニックは語られている。しかし、それだけでは情報自体の品質は保証できない。情報を伝えるべき資料であれば最優先するべきなのにだ。

情報と言う観点で言うなら、あらゆる情報が満載された情報に不足ない資料は、読み手に取って極めて分かり難いだろう。プロセスを割愛したグラフィックや図表を使えば視覚的に理解し易いが、そのプロセスの誤謬性には気付き難くなる。

一方で、全ての必要情報が分かり易く論理的に整理されてあっても、読み手側の読解能力不足で誤った解釈をしたり、自明である推論すら、明確に記述されておらず曖昧と資料の責任に転嫁する場合もあるだろう。

そもそも人間が作成した資料であり情報なのだから、記載されている内容に間違いもある、或いは誤った解釈されている場合は当然あり得るだろう。従って、読み手側にも一定の解釈が必要なのだ。

<世の中にまん延する情報の誤謬性>

企業の業務報告や記録の例で語っているが、世の中に広まるメディア発信の情報も同様の誤謬性、読解力不足の誤解など、全く同じ構造が存在する。まずは、この情報について反面教師として考察してみたい。

マスメディアの発信する情報とは、2次情報、或いは3次情報である。従って、常々鵜呑みにせず、1次情報に当たり確かめる事を推奨している。1次情報からどの様なプロセスと論理考察で生成された2次情報なのか紐解くのである。ニュースソースは明かされず1次情報に辿り着けないとの批判もあるかもしれないが、殆どの場合、外堀を埋める情報は存在し、少なくとも推論は立てられる。

そうすると、余りにも可笑しい論理飛躍、結論ありきの無理筋が如何に多いか気付くのである。仮設としてその結論に辿り着く1次情報は何が考えられるか、推論すれば、その周囲の情報との矛盾が隠せず、帰納的にも論理破綻が示せる場合が多い。その様な作業を心がけておれば、自然と2次情報を見ただけで、その誤謬性の存在、胡散臭さに気付けるような能力も養われる。

マスメディアの発信する情報が偏向するという事実は、歴史的に見ても明らかである。大本営発表と悪の権化の様に政府情報統制を語られるが、事実は民間の新聞社の発信する情報だったのだ。

現在の、電波系メディア、新聞系メディアもある思想信条、意図を持った方向性に偏向しており、現実的に放送法4条は守られていない。結論ありきの無理筋、過去発言との整合性ない論理矛盾。意向に沿わない情報を発信しない報道の自由。これを鵜呑みにすることは危険極まりないのだが、未だ影響力は絶大で、多くの人は知らず知らずに信じ込まされている。

しかし現在はネット空間に発信される情報が存在する。もちろん、その情報の一つ一つ、個々に見ると夫々に偏向していると言っていいだろう。しかし、規制がかからない、いや色々な規制がかかっても全員参加の双方向性メディアとして、オールドメディアに比べて大きく情報発信の自由度が高く、種々雑多な情報が埋もれている。

実は、オールドメディア側から見るとこれは大きな脅威なのだ。自分達の情報の信頼度が低下する事態を招きかねないからだ。従って、ネットの情報は胡散臭く、オールドメディアが正しいというプロパガンダが蔓延り、規制に必死なのだ。場合によっては、報告などで広告剥しやアカウント停止を目論んだ抑制が厳しいのが実態である。

しかし、よく考えて欲しい。情報とは、発信側は自身が伝えたい意図に沿ったものなので偏向は当然だろうが、受け手側はあらゆる情報を受け取る権利がある。そして、多くの情報の中で自身が必要とする情報、活かせる情報を取捨選択するのが当たり前ではないか。

ならば、オールドメディアの様にどこを見ても金太郎あめの様な一律の情報(しかも偏った)ではなく、ネットを中心とする有象無象の情報から受け手側が是々非々で取捨選択する方が正しい姿ではないのだろうか。実は、今迄はこの役割を書籍が果たしてくれていた。これからも書籍の役割は継続するだろう。しかし、ネット情報の活性化により、情報革命が起こり、素人でも昔の諜報部員並みのオープンデータ取得した情報分析が可能な時代になったのだ。逆に大なり小なり、情報力を高めなければ、社会に適合できなくなるリスクすらあるだろう。

だから、常々、情報の論理分析力を高める活動を推奨し、1次情報に当たり、自身の頭で考察する癖を身に着けるべきだと言い続けている。

<企業における情報伝達、ノウハウ継承>

前述した情報論理分析力は、これからの社会において必要不可欠であり、企業人としても是非、普段から心がけてもらいたいと思っている。

その上で、そうは言っても資料の1次情報に毎回当たっていては業務効率が悪すぎるのも事実だろう。

そのために必要となるのが必要な情報の構造化ブレークダウンだろう。

前述の例で考えて見よう。過去実績の担当による資料が分かり難いのは、何故か考察するのだ。情報が不足していたのか、必要のない情報が満載で必要な情報が検出し難いのか、情報に誤りがあったのか等。

この考察の結果、情報不足であれば、どの様な情報があれば良いのか、具体的に項目出しをしなければならない。当然それは、継続的にフィードバックがかかるようなプロセスで、不足情報の項目出しを加えていく仕組みが必要になる。何故なら、一度の考察、検討で、必要な情報の全てを網羅するのは不可能だからだ。やりながら、レベルアップしていくのだ。そして必要項目記載をルールとし、ミスロス削減の為にもテンプレート化しておくべきだろう。

不要な情報が満載でと言うのなら、少し考える必要がある。何故取捨選択が出来ないのか。

情報が整理されておらず判然としないのなら、定型の情報は固定表記される様にテンプレート化して整理すれば良いだけだ。むしろ情報が満載なのは良い事で、受け手側とは一人ではなく多面的なので、それに対応するのは情報自体が最小公倍数を実現する必要がある。

必要な情報が整理され表記されていて、尚且つ分かり難いと言う事例を多く確認する事がある。つまりこの現象の原因は、受け手側の情報読解能力の問題なのだ。

その次の情報に誤りがある場合も難解だ。基本的には資料として記録を残す際にミスロスを防ぐ策が大前提である。前述の項目整理やテンプレート化は有効な策となろう。それでも人間のする事に完全はなく、一定のミスは発生する。

これは本質的には一定のリスクを受容する必要はあるが、最小化する為に資料作成時の対策は不可欠だが、加えて受け手側が利用する際に一定程度の感性を持って見抜ける能力の養成が必要不可欠なのだ。

ひとつの方法は、時々抜き取りでも、1次情報に戻る作業で能力を高める。普段から周辺で起きている時事問題、経済界の課題などに関心を持ち、書籍やネット情報を確認し、時々その背景にある1次情報、オープンデータや論文も確認し、自身の思考を磨く作業を行っておく事が重要だろう。

実は、この能力の基礎は、義務教育で誰もが教育されている、国語の読解力、長文を読んで筆者の気持ちは?この主人公の言葉の意図は?とい問いであり、演繹法や帰納法を駆使した論理証明などである。そんなに難しい事では無いはずなのだ。