日本を衰退に向かわせる人権派の正体、扇動されないためには

静岡県の川勝知事は様々な問題発言で物議を醸しているが、またもや問題発言が発覚した。6月の知事選の期間中に富士市で開かれた集会で、女子学生を念頭に置いて「顔のきれいな子はあまり賢いことを言わないと、きれいになる」との発言だ。

耳を疑う、正気の沙汰とは思えない意図不明の発言だが「傷つかれた人がいたとすれば、申し訳ない」と取材に答えている。この認識も論点がずれた言い訳に過ぎないと思うのは、そもそもの認識の誤りを認めて、謝罪し、修正するという姿勢が全く見えないことだ。

そして筆者が異常に感じるのは、このことを伝えるのがネットが主流であって、マスメディアは殆ど報じず、人権派を名乗る知識人たちは一切声を挙げていないことだ。お仲間には優しいといえばそれまでだが、それでは信義が疑われる。

森元会長の発言には、金太郎飴の様にどこでも同様の糾弾をメディアは繰り返していた。内容的には、全文読めば大した内容でもなく、女性蔑視でもない。むしろ女性が優秀だと言っているのは分かるが、長いくせに、まとまりの無い話で、切り取られて女性蔑視のレッテル貼りされたのだ。そして東京五輪反対キャンペーンへとつなげられたのだ。

あの森元会長の発言でここまで糾弾するなら、なぜ川勝知事の発言には静かなのか、不思議でならない。国民世論と言うが、メディアの恣意的誘導であることは比較して見れば明らかなのだ。ということは、踊らされて、信じ込み、五輪反対、中止と声高に叫んでいた一般国民は冷静に目を覚ます必要があるだろうし、情弱性を反省しなければならないだろう。

<彭帥選手事案に対する反応も同様の構造>

中国テニスの彭帥選手の告発発言に対しても、同様の構造が見えてくる。

共産党最高指導部のメンバーだった張高麗前副首相から性的関係を迫られたことをネットに投稿、その後行方が分からなくなり、一定期間後あたかも中国政権の監視下に置かれている様に感じる不自然な発信やバッハ会長とのオンラインでのやり取りが行われている。

そして、女子テニス協会(WTA)は香港を含む中国でのすべての大会を中止すると発表するまでに至った。

しかし、日本のメディア、左派系の論陣は、東京五輪の時の様な執拗な五輪反対活動を行わない。それどころか、本件の人権に関わる非難すら殆ど発信されていない。

身の安全が保障されたのだから良しとの意見は根本的に間違っている。そもそもの告発は優越的な地位を利用した、生命の危険すら感じさせる状況下での性的凌辱ではないか。このことを糾弾しない人権派なんて、単なる政治活動のための政権政府を攻撃する目的の詭弁でしかなくなる。

メディアも同様である。公平性や良識など一切存在しないと言わざるを得ない。

<五輪に対する純粋な想い>

筆者は、自身が元アスリートでもあり、ジュニアの指導経験もある根っからの体育会系人間である。それ故、全てのアスリートの夢、頂点に位置する五輪に関しては、政治的な背景や、商業価値的背景も含めて一定程度受け入れ、全面的に開催を維持し推進することに賛成する立場である。

世の中綺麗ごとだけでは成立しない、五輪という夢を維持し拡大する為には、泥水を飲んでも目的を達成し、夢を実現することを否定しない。もちろん、そこには一定の良識と秩序は必要であり、法的に問題があったり、道義に反することがあってはならないのは前提である。

その五輪を日本の世論は、メディアや左派系のプロパガンダに扇動された結果とはいえ、大多数が反対との発信をし、推進派である筆者に対しても数々の非論理的な言いがかり、正気の沙汰とは思えぬ非難が寄せられた。

しかし、今、北京五輪に関しては、全くと言っていい程、反対という声が聞こえてこない。

筆者は前述の通り、アスリートの立場に立つ。北京五輪に関しても、人生を掛けた目標として活動している多くの選手、夢かなわなかったが夢の舞台として憧れる多くの選手、夢の舞台に自分の姿を投影する純粋な多くのジュニア選手の気持ちになれば、開催して欲しいと切望していたし、今でも気持ちは変わらない。

しかし、だからといって、前述の中国政府の振る舞いや、ウイグルや香港などの人権問題を糾弾しないのもあり得ないと思っている。あくまで、是々非々で批判するべきは批判し、推進すべきは推進するべきと考えている。

従って、WTAの判断は尊重されるべきであり、同時にアスリートに不利益にならない様な代替策を検討する必要があるだろう。

北京五輪も同様ではないだろうか。もちろん、このまま大会は開催し、政治的ボイコットで済ませる方法もあるだろう。ピーキングなどの調整が必要なアスリートにとっては最善の策である。しかし、日本ではその議論すら上がってこない。

また、オミクロン株で脅威を煽り続けているにも関わらず、北京五輪開催に地獄絵図になると誰も言わないのも不思議である。東京五輪を正気の沙汰では無いとまで言っていた専門家達も一切言及しない。日本選手を送り込むのにだ。つまり、本当に脅威だと思っていた訳ではなく、単に政府を攻撃する材料だったに過ぎないことも明らかなのだ。

総合的に判断して、延期、代替地開催などの議論もあって不思議ではない状況なのだが、その様な議論、糾弾は皆無といっていいだろう。

情弱性は活動家の恣意的な扇動に利用され、正常な判断が出来ない同調圧力に支配され、結果として国家を衰退に向かわせて、自分自身の首を絞めるのだ。

しかし、いつまでも恣意的な扇動を生み出す構造を恨んでも仕方がなく、現実として受け入れた上での対処が必要な時代になったのだろう。

出来るだけ多くの人が、情報をマスメディアに頼らず、自分の努力で様々な情報に触れ、自分の頭で論理思考を繰り返すことが、騙されず、利用されないで、豊かな生活を送るための条件になってきたのだろう。

オミクロン株で岸田首相は全面的な鎖国政策断行だが

オミクロン株(変異株「B.1.1.529」)が世界で拡大し、WHOは懸念される変異株(VOC)に指定したと発表した。VOCは最も危険視される変異株の分類である。現在世界の主流株となっているデルタ株や、デルタ株に感染力で劣るアルファ株やベータ株、ガンマ株が指定されている。

そして、この事態を受けて岸田首相は、外国人の入国について、11月30日午前0時より全世界を対象に禁止した。

この件に関して賛否両論が飛び交うだろうと思っていたら、支持し、賛同する声一色に日本中が染まっている様に見える。少なくともテレビ報道に例外は無いだろう。ワクチン接種率80%を誇る、国民の一体性、同調性を象徴するかの様な現象に、天邪鬼の筆者は首を傾げている。

この件に関して異を唱えた瞬間、感情論のコロナ脳による総攻撃を受けかねない危険性すら感じ、筆者にはこの様な状況に危機感を感じる。それでも、昨年の春頃より、はるかに理解を受けられる可能性も高いとも考えている。

今回の全面鎖国は、危機管理の要諦として最大の危機に備えた対策として称賛を受けているが、本対策による悪影響面が同時に語られていないことに問題がある。どこにもその様な被害に関して語らず、知らず知らずの内に享受させられるのだから。

鎖国のマイナス面は言わずと知れた経済影響である。折角、海外との行き来を再開し、正常化に踏み切ろうとした矢先なのでダメージは計り知れないが、そのダメージを評価せず、無条件で受け入れた形になってしまった。このただでさえ、増税を匂わせる状況下で、経済ダメージを更に強める動きだ。

それでも、オミクロン株による脅威、リスクが高いと判断されれば致し方が無い判断かもしれない。しかし筆者の把握している範囲でその様な脅威の元になる情報は確認できない。この2年間、恐怖を煽られ続けた国民は、新たな脅威に、未知の恐怖を抱いたのかもしれないが。

「ワクチンが効かないかもしれない」、「感染力が高まっているかもしれない」、「空気感染するかもしれない」などが報じられているが、どれも「かもしれない」であり、科学的な確定情報ではない。今までも同じことを言い続けて来た同じ文言ばかりに過ぎない。いや、それどころか、南アフリカでは一人も入院する症状に至っていないとの話もあり、他でも重症化例は聞こえてこない。症状も従来の味覚異常などもなく、倦怠感など風邪やインフルエンザと同等の症状が報告されている。

確かに、まだ母数として少ないが故に全体像を語ることが出来ないと言うのは正論である。しかし、逆説的に言うと母数が少ないということはそれ程拡大していないということでもある。

一旦入れてしまった後では遅いというのも一理ある。しかし、2年もの経験値から「かもしれない」が実現したことはなく、確率で語るべきである。

リスク対策の観点で、オミクロン株の流入を許してしまった場合の被害を想定、確率を元にしてリスク値として評価し、鎖国政策で受ける被害のリスク評価と比較して提示するのが当然なのである。しかも、全面鎖国と言いつつ、完全に流入を防ぐことは事実上不可能なことも忘れてはいけない。

<コロナ対策で鎖国やロックダウンは一時しのぎに過ぎない>

鎖国政策やロックダウンなどの対策は、新型コロナに対しては、効果は一時しのぎに過ぎず、いずれ流入を許した時に総被害としては同等レベルが避けられないことも国際的な経験値から分かっている。

即ち、本来、鎖国政策は時間稼ぎであり、その間に別の策を打たない限り、総合的に見ると何の意味も無いのである。では、日本の現状で時間稼ぎをして何をするのだろうか。

時間稼ぎをしている間に打てる策として有力なのは、高齢者へのブースター接種だろうか。それ以外には、医療資源の最適再配分が柔軟に行える様にする、5類相当にして初期医療体制を強化する等は必要だろうが、今まで手つかずなのに、1か月で対応が可能だろうか。分科会含めて、筆者にはその様な方向性には全く感じないのだが、どうだろう。また、幽霊病床を抱え、患者受け入れ拒否して、医療崩壊だと騒ぐだけでは無いのか。

なぜこの様な状況で総合的に状況を俯瞰することもなく、鎖国が全面的な称賛となるのか不思議で仕方がない。

岸田政権の立ち上げから、親中路線や、財務省どっぷりの増税路線で、保守支持層の批判を受けていた中で、鎖国政策は今まで後手後手だった状況から脱却した唯一評価出来るとされているが、単に世論を気にした大衆迎合に過ぎないだろう。

これでは、世論に阿る姿勢での判断に見え、コロナ対策一本足打法の政策でもあり、再度の緊急事態宣言発出もあり得ると危惧される。

一般的にウイルスはDNAコピーエラーは避けられず、生き残ったのが変異株となる。生き残る条件は、感染力が強くて、毒性が弱いこと。毒性が強まると宿巣も途絶え、感染できないからだ。今回、オミクロン株の毒性が弱まっていると現時点で断言はできない、あくまで「かもしれない」だ。しかし、脅威を感じる「かもしれない」と比較して、当然のごとく確率は高い、自然現象だからだ。

必要以上に恐れて、他への悪影響を拡大させるべきではない。精神的不健康は、身体的不健康にも繋がるリスクが高い。

もちろん、全く恐れるなとも言わない。病気なのだから、あくまで正しく恐れ、正しく対処するべきである。そして、日本における真っ当なリスク評価を行えば、経済損失を拡大し、増税まで背負って対策するべきではないというのが通常の感覚のはず。

その上で、健康管理は個人が心がけるべきである。風邪だって拗らせれば万病の元だから、各人が出来る事を行うべきなのだ。その上で患った患者は医師が、医師法に則って職務を全うすべきだ。その事が、2年の経験で理解出来ないことが全くもって意味不明だ。

外国人の地方住民投票券は国防問題である

武蔵野市の松下玲子市長が発表した外国人に投票権を与える住民投票条例案に対する賛否が戦わされている。これは軽く考える問題ではなく、国防に関わる重要な問題である。

松下市長は、外国人参政権に通じる問題との指摘に対して「論理の飛躍だ。同姓でも離婚する人がこれだけいる中、夫婦別姓制度を実現すると『家族が壊れる』と言っている人に似ている」と発言し否定している。

この否定の仕方事態が論理になっていない。『同姓でも離婚する人がいる』は決して『同姓だから離婚する人がいる』のではない。つまり同姓、別姓に関係なく、結婚は人と人の繋がりなので離れる事もありえるということでしかない。『夫婦別姓制度を実現する』と危険因子が増加し『家族が壊れる』可能性が高まる、不要な争いが起きうることを『同姓でも離婚する人がいる』という事象で否定できない。これこそが論理の飛躍に他ならない。

この様な論理破綻の言い訳を堂々と発言できること自体、自己正当化の詭弁である誹りは免れないというのが筆者の見解ではあるが、そのことはさておき、この問題についてリスク面から考えていきたい。

<外国人への投票権を与えるリスク>

制度のリスクは性善説のみで語ってはならない。悪意をもって実行した場合に、どこまでのことが可能で、どれだけの影響があるか、そしてその行為は事前にどれだけ把握できて、影響最小化のリスク対策がどれだけ可能か、客観的にかつ冷静に検証する必要がある。

悪用の仕方は簡単だ。大人数の工作員を所定の市町村に住所変更させた後に重要な案件(市町村合併、原子力発電誘致、基地建設など)の住民投票を行い、多数の民意を形成して首長が強権を振るうことだろう。これは合法的、民主的な手段による独裁と言っても良い。

これは誇大妄想でも何でもない。歴史的にも、中世に宣教師がキリスト教を布教し、地域に根ざし、植民地支配に移行していく手段は同様であろう。新疆ウイグルやチベットなどへの侵攻も同様。もっと言えば、アメリカ大陸もオーストラリアも結局現地人よりも多数派の移民による、実力行使力獲得によるものといっても良い。

別の例を挙げると、現地の施政権は取れなくても、情報覇権を占有する方法。現代戦において、情報発信のチャネルを寡占し、規制する事は、世論操作や扇動が容易であり、制空権を握るに等しく占領を容易にする効果がある。そして更に効果的なのは、現地の教育現場を占有することだろう。

つまり地方自治体の攻略は、武器を使った攻撃の様な自軍被害のリスクもなく、平和裏に民主的に侵攻を可能にする手段なのである。

実は、日本国内で外国人に投票権を認める自治体は既に43存在し、在留期間を要件に付けない条例は、神奈川県逗子市、大阪府豊中市の2例存在し、武蔵野市は3例目で東京都内では初の事例になる。これほど多くの事例が既に存在することに驚きである。住民は本当に意味を理解しているのだろうか、筆者は疑問に感じざるを得ない。

<国益の全体最適思考が個人の利益にも通じる>

リスクがあるから、それが全て顕在化するとは限らない。しかし、今現在顕在化していないからといって、リスクがある事を否定はできないし、軽く見積もってもいけない。サイレント・インベージョンは現実の脅威と考えるべきであろう。

本来、国防や外交に関わる要件は国政マターの筈である。

全国に43もの侵略リスクの高い拠点が存在することを認識し、その危険性が無いか適宜状況確認を継続する必要がある。本来であれば、住民がその役割を果たすべきだが、恐らく正しく周知されていないのだろうから、正しく周知させる事から始めるべき。

その内リスクの高い2カ所には具体的な対応策が必要だろう。そして今後これ以上増えない様に、武蔵野市における議論を広く周知し、本当の意味でのリスクを周知する努力は必要不可欠だろう。

決して外国人を差別しようと言っている訳では無い。住民サービスや社会保障は外人であろうと、住民であれば享受できる権利があるものも多い。公平に受ける権利が行使できるようにするべきだろう。

しかし、リスクの高い重要事項に関する決定に関与する権利は基本的に住民である前に、日本国民である必要がある参政権に属するものではないだろうか。それは、そのリスクは地域で留まるものではないからだ。

よく言われる例えに、税金を払っているのだから権利も与えるべきだと言うのは詭弁に過ぎない。商品を購入するユーザーは、商品やサービスに関して物申す事は出来ても、株主として投資しない限り経営に口は出せない。それだけなのだ。

市民活動は、何故か、国家の利益を毀損する活動が多い。国家の利益よりも個人の利益を優先するのがリベラルの根本思想と聞いたことがあるが、個人の利益を追求し過ぎて、全体の国家として利益が失われるのなら、結局、個人の利益失墜にもつながることが理解できないのだろうか。これでは、単なる目先の利益、部分最適思考、利己的な利益追求でしかない。

個人と国家の利益やリスクは、あくまでバランスであり、全体最適思考で検討すべきであろう。

政府分科会の辞書には「反省」の文字が無いのか

新型コロナの政府分科会が新指標に合意したと報じられた。政府分科会尾身会長は、新指標について「感染状況を医療が逼迫(ひっぱく)しない水準に抑え、社会経済、日常生活を取り戻すことが目的だ」と説明。「新規感染者数は注視するが、医療逼迫の状況をより重視する」とのことだ。

凡その考え方を下図に示す。

出典:テレビ朝日系(ANN)11/8(月)

どうだろう、問題の本質を分かっていない、反省という事が出来ない集団なのだろうかと改めて痛感するのは筆者だけなのだろうか。

<新型コロナ対策の本質的な問題>

日本の感染状況は、最初から現在に至るまで、常に海外比較で『さざ波』状態で、穏やかであった。色々批判を受け、アジアとの比較や、成功している国との比較と揶揄もされていたが、現在に至って総合的に世界最優秀と言っても過言ではない。問題は、その状態で医療崩壊が発生してしまうという事が日本特有の脆弱性だったのであり、普通の感覚であれば真っ先に反省するべき事項のはずだ。

このレベル2に示す「感染者増加傾向も病床増で対応可」という状態は、病床を状況に応じて増減できれば、このレベルを超える事は本来あり得ない論理だ。逆説的に言うと、病床数を増やせなければ、感染がどれだけ穏やかでも、直ぐにレベルが上がるという事だ。つまり、生殺与奪の権を、一部の医療従事者、いや医療界への影響力を考慮すれば分科会や医師会が握る事になるのではないだろうか。

レベル3の「一般医療を相当制限」はもっと酷い。相当制限とはどの程度の事か全く不明で、恣意的に何とでも言える。それだけでなく、一般医療の定義が不明で、既得権益を守ろうとする排他的な定義としか思えない。村組織の中で縦割りを超えさせない自衛意識の象徴ではないか。

そもそも一般医療とコロナ対応医療を別のものとしている時点で、医療資源の適切な配分など出来様がない。見え隠れするのが、救急医療へのしわ寄せをして自分達のリスクを回避しようとしている様にしか見えないのだ。あくまで、コロナ対応も含めて一般医療として、その配分を現場状況に応じて臨機応変に対応していく事が、当たり前の世界だからだ。百歩譲っても、呼吸器内科系の一括りで治療体制は語るべきでは無いのか。

本来のあるべき姿で考えれば、確保病床数を分母に入院必要数を分子にする指標は、分母さえ増やせば閾値を超える事はあり得ない。また、この指標が50%程度で云々する事も、一般の資源リソース評価としてもあり得ない。

通常のリソース管理は、上限の閾値を80%程度にして、超えそうな70%あたりでアラートを鳴らして資源増強を図るトリガーとする。逆に50%を下回る様な状態であれば、資源リソースの過剰投資として資源の他への転換を図るトリガーとする。これが通常のリソース管理である。結果として、この指標は50%を下回ることが無いのが、正常な資源管理だ。

他の資源再配分と医療は異なる、そんな簡単では無いとの言い訳は聞き飽きる程聞いてきたが、この点こそ国際比較して欲しい。諸外国は見事に柔軟に対応している。いや、せざるを得ない状態に追い込まれ対応しているのだ。比べて、日本の医療体制は幽霊病床で補助金を獲得する等、余りにも悠長ではないのだろうか。第5波になってようやく野戦病院等の施設を唱え始めたが、昨年大阪の専門病床に対しては非協力的で結局、自衛隊出動した。ワクチン接種も歯科医や自衛隊出動するまで非協力的だったのだ。追い込まれたらできる事でも、非協力的であった事は紛れもない事実なのである。

これは、飲食業や観光業、昔はパチンコ屋、夜の街などの弱者、政治的影響力の弱い集団の活動を制限し、一般国民を恐怖で縛り、我慢を強いる事で、医療業界全体としての対応を回避したと言えるだろう。

勿論、その中で実際のコロナ対応医療関係当事者は、本当に患者に向き合い、治療に従事していて、真剣にコロナ対応をして頂いている事は疑い様がない。要は、その人数、資源を増やさない事、増やせない事が日本の医療の構造上の問題なのだ。

筆者は、この構造に対して昨年より指摘し、批判を続けたが、当時は全くと言っていいほど理解を頂けず、逆に心無い攻撃すら受ける状況であった。しかし、今となってはネットを中心に同様の言論があふれ始めている。状況は変わったのだ。

今こそ、この問題点に真摯に向き合い、コロナだけでなく、今後の医療のレジリエンス体制を確保する為に、事実を総括し、反省するべきで、分科会も解体し責任を取るべきだろう。

にもかかわらず、まだ新指標とは、開いた口が塞がらない。

エレルギー問題の対応はバランスが重要

エネルギー問題は国家の安全保障にも通じる重要課題であり、本来国家として一枚岩になって取り組むべきなのだが、政局利用や活動家の具となり、本質的な問題をタブー視する傾向が強くなって久しい。更に、環境問題がここに重なってきて部分最適が進み、混迷が深まっている。

はっきり申し上げる、バラ色のエネルギーなど世の中には存在しない。それは物理学のエネルギー保存の法則に従えば自明なのだ。世の中の様々な事象は、このエネルギーの微妙なバランスによって現在の環境が成立しているのであり、そのエネルギーを他の形に変換して利用する場合、元のエネルギーバランスを崩す事に他ならず、偏れば必ず何らかの歪が生じる。従って、エネルギー利用には歪を最小限にするバランスが必要不可欠なのだ。漫画「ドラゴンボール」の「元気玉」の様に、少しずつ分けてもらって大きなエネルギーに変換する、そういった検討が重要なのだ。

この様に考えると、再生可能エネルギーが環境に優しい究極のエネルギーだという論調も基本の部分で間違っている。

例えば、太陽光エネルギー。パネルの設置による自然破壊、土砂被害の可能性も指摘されるが、それだけではない。そもそも自然の恵みで降り注ぐ太陽光があって地球環境が成立している。光合成により栄養源が生成され、太陽光熱は様々な自然現象を呼び起こす。仮に地球の何割かの表面を太陽光パネルで覆ったら、自然環境は劇的に変化するだろう。

水力発電も当初は水の位置エネルギーを電気に変換する、究極の再生可能エネルギーの様に期待されていたが、その実、自然災害のリスク以外にも、河川環境や下流地域の生態系等にも重大な影響を及ぼす事が分かっている。

変化が微小な僅かな利活用であれば問題が顕在化しなくても、量的に無視できなくなると予想できない何らかの影響が顕在化するのは疑い様が無い。しかも、人類の電力消費量は年々増加、日本もIT化を進めようとする中で電力消費量はこの先莫大に増加する事が報告されている。

更に、CO2削減、実質排出ゼロを目指すとなると、石化エネルギーの燃焼という手段は限定的にならざるを得ない。

以上の様な現実に直面している状況下では、あらゆるエネルギーをバランスよく利活用するべきなのだ。従って、根拠もなく、或いは根拠ある様に見せての原子力発電ゼロ化推進は無責任との誹りを免れないというのが筆者の基本姿勢である。

<リスク管理視点で見た原子力発電>

但し、リスク管理視点で見た場合、原子力発電の事故発生時の被害をどう考えるべきかは、大きな課題である。一度、被害発生した場合その規模は絶大で、発生確率が少々低くても、リスクスコアとしての「被害×確率」は高くなるのが必定であり、この点を考慮する必要性がある。どこまで安全対策を充実させてもゼロにはなり得ないので、リスクスコアは決してゼロにはならないのだ。

但し、福島原発事故以前ならば被害想定が困難で、ともすれば人類存続不能ともされる言質もあったが、各所での大小の事故を経験した今なら定量化する情報が存在するはずだ。是非今一度リスク管理の側面で客観的に評価するべきだろう。他のエネルギーのリスク評価と比較して実はそれ程大きくないという結果になるのではないかと想定しているが、極めて専門的な計算が必要であり、冷静な議論が必要だろう。

そして、何より危惧しているのが、技術力の低下だ。筆者が大学入試を受ける頃は、原子力工学は花型で、優秀な学生が集まっていた。今はどうだろう、その種の学部があまり見当たらない。これは、原子力忌避思想に縛られ、非難を受け続ける市中環境では、志望する学生が減少する状況に追い込まれざるを得なかった結果ではないだろうか。かつては、日本の原子力技術は世界に誇るべき水準であったが、今はどうだろう。

ましてや、原子力ゼロ、自然消滅と言っても、今ある原子力発電所廃炉や廃棄物処理には、長い時間が必要である。その為に、何世代の技術者が関わる必要があるのか、まだまだ優秀な技術力の育成は必要不可欠なはずだ。この様に考えれば、後ろ指さされる技術にしてしまっては先行きが危ない。それこそ、技術者不足、技術力低下は、リスク発生確率も、発生時の被害も高めるのは間違いない。

だからこそ、原子力技術を花形の学問にもう一度復活させる必要がある。幸いなことに、小型モジュール化など新技術が期待されている。この技術の実現性に疑問を投げかける前に、渡りに船だと、国家上げての強化、支援を高める事で総合的な技術力向上も期待できるのだ。実情を考えると、戦略的投資をしない手はないのだ。

<期待される水素エネルギー>

筆者はエネルギー問題の解決策の一つとして以前から水素エネルギーに注目していた。燃焼時に無駄な廃棄物も生じないクリーンエネルギーとして。

但し、水素はご存じの方も多いだろうが、取り扱いが難しい。危険で、保存にも膨大なエネルギーが必要だからだ。

エネルギーは、必要な時に必要な場所で必要なだけ供給できる必要がある。その為には、保存・蓄積、運搬も必要になる。水素は液化して運搬も可能だが、その取扱いには注意が必要になる。それらの問題を解決するのが、水素キャリアとしてのアンモニア利用なのである。

筆者は7年ほど前、このアンモニア利用に注目し、各種研究論文を読み漁った時期があった。その時、受験生であった長女も物見遊山で同様の文献に目を通し、自身の第一志望校にこの研究をする研究室を発見し、興味を深め、このテーマで小論文を書いたほど、その時期注目していた。そして現在、アンモニア運搬船が開発されるまでに至っている。

世の中には、否定論者も多く存在する。アンモニアは、燃焼時にNOxという有害物質が生成される危険性がある。そして、生成法として現状の主となるのが「ハーバー・ボッシュ法」であり、これには膨大な熱と圧のエネルギーが必要なので、その時点でエネルギー効率の悪さやCO2発生問題が伴うからだ。

しかし、日本の燃焼技術は世界トップクラスであり、安全な燃焼はそう難しくない。低エネルギー生成法の開発さえ実用化出来れば問題なくなるのだ。そして、アンモニアの生成が工業的に容易になれば、現在の主用途である肥料用途にも利活用が広がり、食糧問題の解決にも繋がる一挙両得なのだ。科学技術は、諦めず、目的に向かえば、不可能を可能にする。期待したい。

若者の政治離れとはどういう現象で何が問題

若者の政治離れが問題とされている。しかし、私が若者だった頃も同じことが言われていた様に記憶している。つまり、日本において、いつの時代でも、若者は政治に関心が無いと言っているのに等しい。これは本当だろうか、そしてどの様な問題になるのだろうか。

選挙を盛り上げるために、カンニング竹山氏はテレビでガンガン放映すべきで公平性など気にしなくて良いと自論を展開(衆院選なぜ盛り上がらない「テレビは選挙を公平に報じなくていい!」カンニング竹山〈dot.〉)した。選挙へ行こうという著名人の呼びかけ、動画も各種配信されている。

しかし、それで解決するのだろうか。本質的な問題や、弊害を忘れていないだろうか。

<政治に関心の無い人が投じる1票>

政治に関心のない人が投じる1票と、普段から様々な問題意識を持ち、論理的思考による検討を繰り返している人の1票を同じ1票として良いのか。いわゆる大衆迎合、ポピュリズムに陥り、政治家の活動戦術が人気取りに注力、ワンフレーズのアピールが主となり、本質的な政策アピールが希薄になる。逆に票を集まるのは大衆扇動する事が最有力となる。

こう書くと差別主義者の様に攻撃を受けかねないが、1票の重みを感じない方が問題ではないか。

選挙権を行使して1票を投じる事は、先人達が勝ち取った民主主義を成立させる為の重大な権利である。権利にはそれを支える責任も当然発生する。当然だろう、投じた1票の結果が自分だけでなく国民全体に影響を及ぼす事に責任を持つ必要があるし、決まった結果には、自分の意見が異なろうとも従うのが民主主義だからである。

そうやって考えると、選挙が始まってから選挙に行こうでは遅いのである。「誰に投票して良いか分からない」と言う人に、マッチングアプリ等で「貴方の考え方に近いのはこの党です」とするのは明らかに誤誘導であり間違っている。考える為の情報として「政策」や「活動実績」などは提供しても、結論を押し付ける様に示すのは、投票所内で誰々に投票しろと指示するのに等しい行為である。

日本人に欠けているのは、『民主主義』や『自由』『平和』に対する意識である。これらは空気の様に何もしなくても普通にあるものではなく、勝ち取ったものであり、G7など価値観を共有する先進諸国の中で一定のポジションにいる、そのありがたさを感じる感覚ではないだろうか。

その原因は教育にあると断言しても良い。日本の教育で、政治に関する各論や持論形成のために必要な論理思考力のトレーニングは殆ど行われていない。諸外国との違いはこの点にある。

若者が政治に関心が無いという逆説は、年齢を重ねれば政治に関心が生まれるという事になる。社会に出て、荒波にもまれ、現実を目の当たりにし、社会の一員として自分事として問題意識を具体的に感じ始めて、政治に目が行く。社会経験の浅い若者にとって、実体験での問題意識もなく、聞きかじりで偏った意見に流されやすいのは当然だろう。

学生運動が先鋭化しやすいのは当然なのだ。グレタさん等は大人に利用された被害者であると筆者は認識している。彼女の子供時代を奪ったのは先鋭的な活動家に他ならない。

<政治の無関心を助長するインフルエンサーの不勉強発言>

政治への関心の無さが偏った意見に流される典型実例として「選択的夫婦別姓」問題を挙げてみる。

「自民党だけが反対だ」とメディアの印象操作が激しいが、全く中身の問題点を伝えていない。そして、中身も知らずに、影響力のあるインフルエンサーがなぜ反対するのだと発信する。

最高裁判決内容など読めば少しは理解できるだろうし、様々なサイトで比較評価されているので、調べる気になれば簡単に確認できる。

「夫婦同姓」を違憲とする根拠は、人権問題として個人の尊厳に関わると言うのが簡潔な説明であろう。つまり姓、氏を選択できないのは不平等、個々の価値観は自由であるべきとのこと。合憲とする根拠は、現行法でも男女どちらの姓も選択でき男女平等であり、別姓とする事で家族の一体感を失い、無用な争いの種が生じるということだ。そして最高裁で合憲となっている。

また、内閣府発表の平成29年度世論調査でも選択的夫婦別姓の「法制化容認」の意見は42.5%、「現在の法律を改める必要ない」と「旧姓の通称利用の法制化容認」を合わせると53.7%もある。国論を2分するとはいえ、半数以上が「選択的夫婦別姓」法制化に慎重なのである。

余り知られていないが、旧姓の通称利用を最も拡大し、女性が結婚した際の活動上の不利益を受ける問題に具体的に対処したのは、自民党の高市元総務大臣時代の業績なのだ。そして、今の自民党案は、この通称拡大を更に一般的に広める事を軸としており、最も、婚姻後の女性の不利益解消に具体的に活動しているのだが、なぜか反対の急先鋒扱い、女性の敵的な印象操作が行われている。

これらの中身を知った上で、各論にも触れ、その上での個人の意見であればそれは尊重されるべきだが、読みもしない、知ろうともしないで、軽く「選択できるのに、なぜ反対するの、自由で良いだろう」と影響力のある立場で発信するのは、誤誘導による大衆迎合、人気投票により気付いたら道を誤った事に成り兼ねない無責任発言なのだ。簡単に賛成、反対で決する内容ではないからだ。

そもそも個人の価値観の自由とすれば、婚姻時だけでない選択の自由に拡大され、戸籍は他と何ら繋がりや連帯もなく個人のものになるが、それならば究極は姓や戸籍など不要で、マイナンバーだけでよくなるが、この層はマイナンバーにも反対意見が多い筈だ。まさか、国家として国民を本人と特定する情報管理は一切必要ないとでも言いたいのだろうか。それでは無政府状態だろう。

ここからも分かる通り、意見を述べるには、それなりの努力と責任を持って自分で考える必要がある。選挙における投票行動はこの意見を述べる行動の一つであり、一定の努力と責任は必要だろう。

<若者は本当に政治に無関心なのか>

しかし、最近の言論空間、特にネット環境を客観的に見ると、筆者の個人的感覚だが、若者は決して政治に無関心ではないと感じている。

電波系メディアを見なくなっている若者達は、ネット空間、SNSで自分の考えを発信している。勿論、玉石混交であり、日本語にもなっていない意味不明発信、誹謗中傷もある。しかし、事実に基づいた思考、論理的な発信も増えているのは間違いない。

その事を一部の活動家達がマスで誘導できなくなっている危機感を持ち、それを防ごうとする『報告』攻撃が増えていると考えれば辻褄が合うし、皮肉にも事実証明にもなっていると感じる。論理的な意見が増えているから、妨害も増えているのだ。

では、なぜ若者の投票率が上がらないのだろうか。ひとえに多忙が故ではないだろうか。

自身の若い頃を考えれば、土日もなく昼日中は仕事で走り回り、僅かな休暇は遊びに走り回り、暇などなかった。働き方改革されているとはいえ、活動的なエネルギーは、選挙よりは自身の活動に時間が割かれるのは自明ではないだろうか。逆に年寄りは暇だから投票率が上がる。

従って、やはり期日前投票もそうだが、ネット投票に舵を切るべきなのだろう。

そして、これらの事を前提とすれば、政治活動は根本的に変わってくるはずだ。ネットの活用とネットに蔓延る不正行動の法的抑止。今や、マスメディアの信頼性が地に落ち、若者は確実に離れている。言論封殺を目的とした「報告」などの行為の公正性の担保、誹謗中傷などの不適切行動に対する公的監視に本気で対処すれば、ネットでの広報戦略の重要性が高まり、健全な両論戦わす場に活性化できるだろうし、しなければならない。そうなれば自ずと教育の必要性は高まり、現実化していくだろう。

そして、セキュリティ性を担保したネット投票が実現すれば本当の意味での健全な民意が反映される民主主義に近付けるだろう。

戦略的投資があって始めて経済成長が実現する

平均年収30年横ばいを打開するには、どうすれば良いか。

インフレターゲット2%目標が実際に実現出来れば、間違いなく経済成長が現実化しており、平均年収も上がってくるだろう。しかし、未だインフレターゲットに懐疑的で、反対勢力の攻撃もあり、財布のひもを引き締める緊縮財政論によるブレーキを踏む傾向が強い。結果として、先進諸国と比較して低成長のデフレ状態を打開できないでいる。

事業視点で考えると明確だが、投資無き所に成長は無い。投資を控え、緊縮財政を継続させると利益率の維持、改善は出来ても事業拡大、成長路線は遠のき中長期的にジリ貧に陥る。実際は、衰退事業に対する投資は控え、撤退戦略で生まれた余力を、新たな事業への資源投入に回す事で、継続的な成長を生み出すのが持続可能な経営だ。

国家運営においても同様、成長分野への投資を増強する事が必要不可欠であり最優先のはずだ。その為には規制緩和が重要になる。それらの投資は、資産となり、成長という果実を生み出す。

規制緩和は実は既得権益勢力の抵抗を受ける。衰退事業であろうとも、しがみつく既得権益勢力が、屁理屈で部分最適思考を隠して自己正当化し、規制緩和を妨害し新規事業を妨げる抵抗勢力となる。

加計問題の本質は、この既得権益と規制緩和の戦いであった。安倍元総理や政府、官邸の不正でもなく、それ自体が既得権益を守る為の屁理屈に、政府攻撃の政治利用が乗っかっただけと理解するべきで、未だに疑惑と言っているのは余りに浅はかだ。獣医学部が新設されず、獣医師が増加しない事で生じる弊害は計り知れなかった。決して動物に対する医療分野だけではなく、生物工学や感染症などの分野にも大きく影響する。この岩盤であった既得権益構造打破にどれだけのエネルギーが必要だったか窺い知れるが、筆者はその次に見えるのが医学部だろうと考えている。

今の医学部は富裕層でないとなかなか進学できない。学費が膨大な金額だからだ。だから開業医の子息が進学し家業を継ぐという医師の固定化が進み、増加させ過ぎない事で権益が保全される。その結果がコロナ禍での医師会や専門家の体たらく、上から目線の国民の緩みへの責任転嫁という非科学的な言動を許すことに繋がっている。更に、厚生労働省医系技官という形で異論を許さない構造を作り上げ既得権益構造が盤石になっている。

規制緩和し、優秀で志の高い学生が、障害なく医学を目指せる様に、門戸を開く事で、医療体制を抜本的に強化する事が出来るだろう。コロナ禍がその必要性を世に問うたというのが真っ当な考え方ではないだろうか。

<財務省の公式見解は日本はデフォルトしないである>

同様の視点で考えるべきが、財務省矢野事務次官の財政破綻の危機論だろう。会計論、金融工学視点から論理的に考えたら、余りにも稚拙な論であるにも関わらず、国家の行政トップの立場において堂々と主張が出来る事が信じられない。既に15年以上も主張を続け、マスコミも公には批判しない。それどころか、政治批判の具として財政危機を煽るのだから始末が悪い。

もし本当に財政危機であるならば、政府保有の資産を一部処分すれば良いだけだ。それは、自らの天下り先などであったりするので決して言及しないだろうが、それこそが既得権益構造なので、なんだかんだ言って焦点はずらすだろう。

何と言っても、財務省の外国格付け会社宛ての意見書として公式見解が発信されている。(https://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm)日本は財政破綻しない、自国通貨建て国債はデフォルトしないと明言しているのだから、財務省見解と矢野事務次官論は矛盾するのだ。これは国際的格付けに対する説明なので嘘偽りなどあり得ないし、万が一嘘であれば、国際的に非難を受けているはずだが、そうはなっていない。

つまり一般に考える様な借金でもなく、将来の子供に付けを回す訳でも無いのだ。

もうインフレターゲット2%どころか、4%など目標を引き上げて、達成まではプライマリバランスは一旦置いておき、財政出動をしてでも戦略的投資をするべきでなのだ。

<成長あっての分配>

アベノミクスにより株価が上がったのは、一部では株を保有する富裕層のみが得をした様に論じられている。しかし、これは大きな間違いだ。株価が上がるという事は、将来に明るい見通しが見えてきたという投資家の評価であり、今でなく先行きの明るさを示す指標だ。そして、株価が上がる事で利益を得るのは、株保有の投資家だけでなく、年金も含めた資金運用が好循環する事で多くの人に見えない形で循環してくるものだ。金融所得課税で富裕層から徴税するつもりが、寧ろ大衆課税となってしまう実態が報告されている事からも分かる様に株価上昇のご利益は大衆が受けているのだ。

つまり、アベノミクスは将来の明るい見通しである株価までは効果を発揮したが、その見通しに沿った成長投資が不足、消費増税もあって足踏みしたと評価するのが妥当である。であれば、自民党総裁選で高市候補が公約に掲げたサナエノミクスによる成長投資が実現すれば成長軌道を描けるはずだ。

成長あっての分配。至極当たり前の話であるが、分配が先とする社会主義的発想で語る政策まで語る党が現れた。成長の無い分配は、パイの奪い合いでしかなく、分配から決して成長は生まれない。一定の富を分配する事で社会は停滞し、貧困に陥ることは壮大なる社会実験が実証している。成長が無い分配は効果を生まないのは既に常識である。バラマキの分配が消費を喚起し景気を刺激すると言うのも、将来に向けての成長が無ければ、消費ではなく死蔵に回る。

ましてや、日本の格差は諸外国と比較して大したことはないという報告もある。上位1%の富裕層が持つ資産はたかだか全体の21%程度で、アメリカや中国などと比較しても3分の1以下との報告もある。分配して潤うほどの富など初めから無いのだ。

従って、経済成長を成し遂げることで全てが好循環する。その為に規制緩和での成長投資。自由と民主主義を標榜する限り、現時点ではそれ以外に選択肢は無いのであり、本質的には争点となり得ようがないのだが。

異論排除の原理主義は害、両論の論理的な公開討論が社会の健全化に

選挙直前のネット空間で繰り返されている現象がある。それは、保守系と言っていいだろうか、政治系の情報発信にBANと呼ばれるコンテンツ排除、広告剥がしが頻繁化している。

YouTubeなどレギュレーションが厳密に規定されているとはいえ、各情報発信コンテンツは、かなり表現を意識してコンテンツ制作されているのが実態であり、それを逸脱しているとは思えず、踏み込んだ内容は限定公開などの方法が使われているが、それでも多くのコンテンツ規制事例を耳にする。

AIによる文言監視などとの説明も聞こえてくるが、ビフォーアフターで実験的に確認しているコンテンツの報告もあり、その様な単純な話では論理的な説明ができないのが実態である。

YouTubeなど民間プラットフォームで意図的な偏向行為、レギュレーションの操作が行われるとは思えない。勿論、反ワクチンなどの情報統制の要請に応える事はあるだろうが、自社で意思を持った統制を行う事は基本的にない。

総合的に考察すると、『報告』という形を取った、反対意見潰しとの疑惑が浮上するのだ。

<ヤフコメ問題の実態>

ヤフコメがネトウヨに占拠されていると一部で報じられて、社会的意義が無くなったという極論まで電波メディアで発信されている。

筆者自身もヤフコメは少々閲覧していた時期もある。その際の印象は、『あべがー』『ガースー』等、民主的に選ばれた人物に対する最低限のリスペクトもなく、呼び捨てで誹謗中傷する様な空間であった。その批判の中身も、事実に基づかない、感情的で非論理的な決めつけの内容が殆どで、しかも記事が上がった瞬間に、その種のコメントで埋め尽くされる印象が強く、冷静で健全な言論空間とは程遠い状態に感じていた。同時に、何故こうも素早く、しかも大量に発信できるのか、不思議で仕方が無かった。

余りの状態に、筆者も、事実のデータを示し、冷静な議論を呼びかけた事もあったが、議論どころか、意味不明の誹謗中傷の攻撃も経験している。決してまともな議論ができる空間ではなく、余りにも偏向し過ぎで、最近は閲覧もしていなかった。

そこに、『ネトウヨが占拠』との情報が耳に入り、極めて違和感があったが、確認して見ると、確かに昔とは少々違っている様に見えた。『ネトウヨ』の定義は不明だが、単なる感情的な誹謗中傷よりも、論理的なコメントもそれなりの数が見受けられる変化があった。この状態を『ネトウヨが占拠』と言うのならば、誹謗中傷のストレス発散の場に、少々冷静な意見発信が増える事を良い事と思わない、つまり感情論の持ち主は多様な意見に不寛容で、異論に対して攻撃的性向を持つ現れとしか思えないのだ。

それでも建設的な議論というよりは、両論のコメ主が並立している空間という印象だ。

<反論・異論の公開討論が健全な社会を創成する>

エコーチェンバーという閉鎖的な集団内での意見が増長していく現象をネット空間の特徴の様に巷では言われるが、電波系メディアの方がその傾向が強いのが実態ではないだろうか。両論併記を遵守するメディアはほぼ皆無だろう。放送時間等尺の問題もあるかもしれない、反論で収拾がつかない状態を嫌うのかもしれない。電波メディアでエコーチェンバー状態をもたらす重要な役割を、専門家やタレントコメンテイターが果たしている。画一されたコメントで埋め尽くされ、深く考えず、自身で1次資料も見ず、様々な意見に耳を傾けず、単なる感想を、番組の主張に沿って発言する存在が、あたかも世の中の主意見であるかのような印象操作で錯覚を視聴者にもたらす。

その中で、自民党総裁選が様々な意見を討論する重要さを思い出させてくれた。その後国会が開かれたが、やはり国会は誹謗中傷に溢れ、本質的な論争にはなっていない。

そういう意味で、ネットの言論空間が唯一、両論が存在し、討論できる場ではないだろうか。間違いなく両論は存在する。だが、現状残念ながら、お互いが交わり討論される様な事はそれ程多くない。本来、ヤフコメやSNSはその機能を担う筈なのだが異論をすぐにブロックして自己満足してしまう状態だ。

そういう意味で注目すべき事案が発生している。それは、ロンブー田村淳氏と作家竹田恒泰氏の選択的夫婦別姓における公開討論が行われる事である。

事の始まりは、田村淳氏が自身が賛成する「選択的夫婦別姓」に対してアンケートを取った所、自身の意見と異なる反対意見が多数を占めてしまい、あたかも反対意見を諭すように、反対して何の不利益があるのですかとアンケートを再度取った事に始まる。

個人がどの様な思想信条を持とうと、それを発信しようとそれは自由である。だから、最初のアンケートまでは何の問題も無く、その事実を受け入れれば良かった。ところが、自身の意見が通らない事に、異論を認めず、自身の影響力を行使して自意見に誘導する様なアンケートを実行した事で、多くの非難を受けた。

そして純粋に何が反対理由なのか、何が弊害なのか、それを知りたいだけ、公開討論を誰か受けてくれないかとの訴えに対して、竹田恒泰氏が名乗りを上げた形になって近々実現する様だ。

この『選択的夫婦別姓』は、イメージ先行でその中身があまり語られていないので広く周知されていないのが実態だろう。表向きは、結婚時の改姓によって多くの女性が不利益を被るという事由であるが、その実様々な弊害が伴う事が余り語られていない。最大の問題は戸籍制度の崩壊だろうし、子供の姓を決める為の係争が生じ得るのもリスクだろう。

勿論、戸籍制度には影響ない筈だとの意見も田村淳氏はお持ちの様だし、日本維新の会の様に戸籍制度を維持する選択的夫婦別姓を主張する意見もある。顕在化しない事象も含めてリスクがある事も主張しつつ、通称使用を拡大する事で本来の目的は達成できるとする自民党案(高市政調会長の総裁選時主張)が現実的であり、それでも不利益が生じる事例があれば対処していく事の方が現実的な落とし所とするのが竹田恒泰氏の立場だろうか。

『選択的夫婦別姓』に対して、「なんで自由に姓を選択できない」「男女差別だ」というイメージ先行の感情論は根本的に本質からずれているが、残念ながら現時点で巷の認知度はその程度である。田村淳氏にしても、そのレベルから推進派の意見だけを聞いて反応している様に書き込み内容を見る限り窺い知れる。是非、反対意見にも耳を傾け、視野を広げる機会にして欲しいし、影響力のある者同士の討論が公開される事で多くの人にも同様の周知が為されることを期待する。 あれだけテレビでゼロコロナ路線の主張を繰り返していた立川志らく師匠が、木村盛代氏と対談をした後、別人の様にゼロコロナはあり得ない様に180度変わられた様に、多くの人が異論に耳を傾け討論し、論理的な思考を取り戻すことが望まれるし、それが出来るのはネット空間だろうと確信している。

財務省の闇に対抗し政治は成長戦略に舵を切れるか

財務省の矢野康治次官の「文芸春秋」への寄稿が話題となっている。簡単に要約すると、国家の借金が増えており、プライマリーバランスが破綻して、今にも日本は破綻するという論。その様な状況での赤字国債発行、経済対策などは自殺行為であり、緊縮財政、増税路線を是と匂わせる内容である。

この論は、実は今に始まったものではなく、10年以上前から一部で囁かれていた。今直ぐ対策を打たないと破綻すると、しかし、何故かまだ破綻していないし、国際的格付け、信用も保たれている。とてもデフォルト、破綻が起こる国家として扱われていないのが現実である。

この矢野財務次官だが、この件以外にも様々な話題を振りまいてくれている。スーパーでの『ポリ袋ハンター事件』とでも言おうか、生もの等を個別に入れる無料のポリ袋を必要以上と思われる量を持ち去っている。

レジ袋有料化になった目的を考えると、このポリ袋も必要最小限に抑える事が必要だと、子供でも分かる事だ。スーパー側もこの種の行為が増加する事を問題視しているのも事実である。しかし、当人は、「商品は買っているから問題ない」と言わんばかりの発言までしている。官僚トップの立場として、あり得ない感覚の持ち主である事が窺い知れる。

またまた、噂レベルだが、この人物、目的達成の責任感の強さからか、目的の為には手段を択ばない様な噂もある。本来、官僚は法に則り、政治の決めた政策の方向性に沿った行政を執り行う。民主主義において、法や政策の方向性は政治家によって決定される。そして、政治側も現場の問題を熟知している筈の官僚の意見も吸い上げ、政策の方向性を定める。

ところが、この方、自分の考えを通すために、マスコミへ情報リークして世論を誘導するような行為が囁かれている。勿論、多くの官僚とマスメディアの持ちつ持たれずのズブズブの関係で行われている氷山の一角かも知れないが、テレ朝の玉川徹氏により匂わされた時点で、少なくとも説明責任が生じていると考えるべきだろう。そして、今回の月刊誌への寄稿である。責任を問われるべきではないだろうか。

<借金で破綻するは間違い>

借金というと一般人からは聞こえが悪い。イコール悪と扱われがちだが、浪費ではなく投資に向かう借金であれば、資産が残り、投資効果も期待できるという事が一般人にあまり理解されていない。

失われた30年と言われる時期に、緊縮財政に舵を切り、投資が減退する事で何が起きたかを考えれば明確なのだが。

企業経営の視点で言わせて頂く。古い機械設備を更新せず、騙し騙し稼働させれば、償却も終わった設備が稼働した分だけ目先の利益が増える。資材調達に関しても、非論理的なコスト削減要求を繰り返す事で目先の利益を生み出す。しかし、その結果何が起こるか。設備は老朽化し設備効率は落ち、品質も生産性も、時には安全性も低下する。サプライチェーン全体のデフレマインドを誘発し成長も阻害される。

本来であれば、設備は投資効果を前提に更新する事で、償却負担で目先の利益は圧迫しても設備効率を高め、長い目での成長を促進する。サプライチェーンも新たな開発投資で品質も含めた総合効果を目指す事で、生産性向上、利益拡大に繋がるのだ。

投資を減退させることは、資本主義社会において衰退に向かう以外に無いのが現実であり、それは国家でも同じである。

実際に自民党の高市早苗政調会長が10月10日の番組で真っ向からこの財務次官の論を批判した。

https://news.yahoo.co.jp/articles/093064d3e0d1c469c9af60f293b40cedb6562c01

その中で名目成長率が名目金利を上回る状況で財政は改善すると正論を述べた。

また、元財務官僚、嘉悦大学教授、数量政策学者である高橋洋一氏も真っ向から批判した。(緊急配信の為音声音量に不備があるが、聞こえる範囲でも充分に内容は把握できる)

簡単に言うと、BS(バランスシート)で国家財政状況を示し、財務次官がP/L(損益計算書)だけで説明しようとする欺瞞を非難している。

経営状態を評価する為に、BSとP/Lで確認する事は、企業人であれば、最低でも管理職になるまでに数字が読み取れるように教育を受ける。当然経理部門や、事業戦略系の部門ではこの数字が無くては、経営者が経営判断する際の判断材料提示が出来ない。

ましてや、日本は通貨発行権を有し、その円は国際通貨となっている数少ない国家である。

失われた30年は、成長投資を積極的に行わなかった事により、生産性が低下し、その間、成長投資し続けた諸外国との差が発生しているのが実態である。無論、何の意味も無くバラマキ、効果の無い浪費が良い訳では無い。しかし、投資の無い所に成長は無い。この原理原則を誤ってはならない。

今現在、実行するべきは、増税による財政再建ではなく、積極成長投資による成長促進であると確信している。この財務省からの攻勢に政治が大所高所に立った英断が必要になってきているし、国際社会は注視している。岸田政権が乗り越えるべき最初の難題であろう。

埼玉県でエスカレーター条例施行、目的は達成できるのだろうか

日本人は人に決めてもらわないと、自信を持てない傾向が強い。自分の頭で論理性を保った思考による判断が苦手で、無意味なルールが定められても疑わず受け入れがちだ。特に、安心だとか平等だとか平和という誰も反対できないキャッチフレーズをベースにしたルールには異議を唱える事を憚る。埼玉県の『エスカレーター条例』も同様と断じざるを得ない。

日本エレベーター協会報告では、2018~19年のエスカレーター事故が全国で1550件となっている。更に、その内訳は、手すりを持っていなかったり、歩行中につまずいたりして転倒する「乗り方不良」が805件(51.9%)となっている。

この1550件、或いは805件という数字をどう考えるか。勿論、安全第一の観点で対策を打つことに問題性がある筈がない。しかし、優先順位はどうなのだろう、また、歩行禁止による弊害が総合的に検討されているのだろうか。

ちなみに、交通事故は現在、過去最高の4分の1まで死亡事故を減少させるまでに至っているが、それでも死亡事故で4000人規模だ。その状態でも車を動かすな、自電車で走るな、とは決して言わない。

階段の事故も相当レベルで多い。統計データとしては様々な観点があるが、不慮の事故として死因のトップ10に入る程多いのだ。企業の安全対策、労災防止観点でも、階段の転落は絶対に見逃せない項目である。だから、下り優先、手すり設置などの対策が実施されるが、それでも階段を歩くなとは、絶対に言わない。

それでもエスカレーターを歩行禁止としたのだ。果たして歩行禁止でどれだけ安全性が高まるのか、その効果数値も発信されずにだ。その状態で、禁止行為に対して罰則の必要性に関して議論が為されている。何でも直ぐに禁止、直ぐに罰則、これが正常と言えるのだろうか。

エスカレーターの安全性を体感的にヒヤリハットで考えると、『降り口で立ち止まられての衝突』『隙間に挟まれてしまう』『ベビーカー、手押し車の取り扱い不備』『カバンなど幅広く保持され右側通行者が衝突、或いは避けての転倒』『左側乗降者の急な右側への移動での接触』『乱暴な通行者との接触』『スマホ見ながらの注意不足通行による接触』等が挙げられる。他にもあるかもしれないが、歩行禁止でこのどれだけが防げるのだろうか、他にもっと簡単で有効な方法があるのではないかと疑問である。歩くことが問題ではなく、乱暴に歩く事が危険であり、それはエスカレーターに限った話ではない。また、降り口での立ち止まりなどは、歩行禁止で寧ろ増える可能性は無いのだろうか。

元々、エスカレーターの右側を空けるのは、『急いでいる人の為』という達成すべき目標があった。現実に急いでいる人が存在する事は否定できないのに、公共の場では急ぐな、急ぐことが悪だ、罰する、と言って社会的に受け入れられるのだろうか。歩くことを禁止したとして、急ぐ気持ちを禁止する事など出来様が無く、余計にイライラ、ストレスは溜まるのではないだろうか。

車は、追い越し車線を急いでいる車が追い越しの為に使う。追い越し車線を無くせばいい、追い越しを禁止にすればいいでは社会環境は保てない。禁止すべきは『煽り運転』であろう。エスカレーターも同様では無いのだろうか。そして、禁止行為を明確にして、過失であろうとも注意対象とするレベルの話ではないかと考えられる。安全対策として打つべき手は、歩行禁止ではないだろう。

どうしても、歩行禁止にして、急ぐ人の廃絶を目指すならば、両側に立てば良いだけだ。何故か、多くの人は急いでいる人がいなくても、左側にしか立たない。どんなに混雑していても右に立たず空けている。こんな無駄をして、ラッシュ時の乗り口付近の混雑という危険な状態を生み出している。同時にその混雑は、急ぎたい人の通行を阻むパラドックスに陥っている。全員が左右バランス良く立てば、輸送能力が倍加し、混雑も少しは解消する。まずは、そちらを是正するべきでは無いのだろうか。

世の中には、目的を忘れてしまい、守る事そのものが目的化してしまっている様なルールが多数存在する。それらは、本来の目的達成が覚束ないだけではなく、弊害としてのリスクを生み出す。それどころか、そういうルールが乱立する事で、本当に守る必要のあるルールの優先順位、重要度が相対的に低下してしまう。

何の為にルールを守る必要があるのか、その事を一人一人が論理的に思考し理解する事で、現実には様々なイレギュラー事象が発生する社会活動においても、ルールの目的が達成できる。思考停止する事は、リスクを増大させる最大の要因なのだ。