情弱な社会環境に対峙する決意

新年あけましておめでとうございます

今年は、私自身還暦という人生の節目を迎えます。昔は、還暦というと爺さんのイメージでしたが、いざ自分がその立場になると、まだ人生の折り返し点、やり残したことがあると感じている。これまでの経験、ノウハウを、今後は、何らかの形で社会にお返しをすることに費やす時間と認識を新たにしております。

昨年、一昨年の約2年間、世界はコロナ禍という、インフォデミックを経験し、未だ抜けきれないでおります。

PCR検査には偽陰性と偽陽性が存在する、それは感度と特異度という精度が100%でないからだ。小学生でもできる計算を行えば、検査で決して安心が得られる訳では無いのだが、いつの間にか人は安心を求め、検査に走り出している。

そして発熱しているにもかかわらず、検査で陰性と判定された後に安心して社会活動を始めるという例がまだ散見される様だ。あれだけ社会事例で、発熱後の検査で陰性とされた後に感染させる、クラスターを発生させた例が報告されているにも関わらず、いざ自分の事になると、検査で安心してしまう。

その個人は、悪気がある訳ではない。日本語が理解できない訳でも無く、知能が低い訳でも無い。しかし、人は安心を求め、誤った行動をとってしまう、弱い生き物なのだ。私は、それを『性弱説』で説明されると考えている。

許せないのは、人の弱みに付け込み、危機を煽り、時には自身のビジネス上の利益の為に人に不安感を抱かせる行為を公共の電波を使って垂れ流すことだ。あたかも、正義を気どり、多様性と言いながら、異論を許さない。人権問題を主張しながら、人権を侵害する行為を拡大する。最近の報道姿勢は目に余る状況であり、何か勘違いしているとしか思えない。

この様な社会環境で、弱い人間を支えるのは、自己防衛でしかない。そのためには、それを支える正しい情報が必要であり、情報を読み解く論理的分析力を鍛える必要があると確信している。企業においてはリスク管理であったり、危機管理、セキュリティ管理の領域を充実し、従業員の健全活動が活動を支える環境の構築が重要になるだろう。

私の残りの人生、微力ながら、所謂『情弱』な状態に陥らない為の個を育成し、企業環境構築に貢献できれば幸いと考えているので、引き続きご支援の程よろしくお願いいたします。

地方自治から進むサイレント・インベーションをリスクとして直視する

武蔵野市の住民投票条例案が否決され、ひと段落と胸をなでおろしたが、実態はそうでもなく、まだまだ続く序章に過ぎない様である。

本件は、1地方自治の話ではなく、国家の国防をも揺るがす問題として、国会議員も積極的に反対活動に乗り出すなど、日本全体を揺るがす事態となった。結果として否決されたが、その理由は、反対派が挙げる、外国人の参政権に繋がりサイレント・インベージョンのリスクが高いという主張が主であろう。それ以外にもプロセスの問題として、今年の10月に行われた市長選挙で公約に挙げずに、突如として条例案を提出してきたことで、議論が充分でなく、重要議案にもかかわらず住民が内容を知らないままに決議しようとしているという批判である。至極真っ当である。それ以外にも、衆院法制局は、住民投票は選挙権に匹敵し、違憲の疑いが濃厚な外国人参政権の代替制度になりかねないとの見解を発表している。つまり、日頃、護憲を主張するリベラル派が違憲の疑いがある条例を強行採決に持ち込んだ皮肉な構造である。

しかし否決されても終わらなかった。松下市長は「市議会では市民への周知が足りなかったとの意見があった」と語りつつ、再提案を示唆した。それは、議会での説明や市民へのパブリックコメント、市民への無作為抽出アンケートなどを行ったとの主張と共に、反対派の排外主義的な街宣活動をヘイトスピーチとまで言い放ち、憤りを示した。

このヘイトスピーチに関しては、一部の極右勢力から発せられたのは事実かも知れないが、長島昭久衆議院議員や和田政宗参議院議員に対する妨害行動を見る限り極左勢力も同様以上の暴力的な活動が確認されており、一方だけの批判は公平性を欠く。この分断を生み出したのが松下市長自身であり、自身が極左勢力と連携している疑惑も取り沙汰されている。従って、一方を批判し、レッテル貼りする言動は決して看過できない。

そして、朝日新聞やTBSの夜のニュースなどでも、この偏向的な一方を批判する論評が報道されている様だ。これでは、マスメディアが極左に加担していると言われても仕方がなく、両論併記、公平を保つ姿勢は完全に失われている。

また、市民への無作為抽出アンケートの実態だが、是非その内容を確認頂きたい。アンケートとしての公平性が保たれていないという表現が生易しいほど、酷い偏向誘導、場合によっては反対すれば人権侵害とのレッテル貼りまで想起される内容と感じるのは筆者だけではあるまい。

この結果をもって複数の識者達が70%以上の賛成を得た条例案の否決を民意に対する冒涜だと声を荒げている。こういう主張をする勢力がアンケートでなく住民投票を利用し始めたらと考えると背筋が凍る思いだ。

筆者の予想だが、次は『ヘイトスピーチ防止条例案』が提案され、大義として反対は出来ず、その次に『住民投票条例案』を再提出し、反対活動をヘイトと揶揄して抑えるシナリオが想定される。本来否決され、再提案を政治家として主張するならば、一旦市長を辞職し、民意を問う市長選挙を行うぐらいの姿勢が必要なのだろうが。

<左傾化が生む分断>

リベラルと保守の本質的な相違点をリベラル派の識者が、個を優先するのがリベラルで、国家を優先するのが保守との説明をされていたのを聞いたことがある。

国家は、個である国民を守る為に存在するが、全体最適、トータルの利益を考える為に一部の個の我慢も要請する必要がある。実社会で完全に結果の平等は実現できないのだから一定の社会秩序であり仕方がない。一方で国家の存在すら否定し、ボーダレスで完全に個の平等の社会を目指す理想のパラダイス。しかし平等社会を維持する仕組みが必要であり、そのことが共産主義が専制独裁体制に繋がってしまう弊害であることを歴史が証明している。

即ち、両極端は実現性に乏しいだけでなく、決して自由でもなく、個も幸福でもない。バランスが重要だと考えるのが一般的だろう。

では日本政府はどの状態なのか。冷静に考えて、決して保守に偏ってはいない。寧ろ社会主義と自由主義を共存定着させた唯一の国家との評価もある。そして誤解を正しておくと、安倍元総理、菅前総理時は、民主主義の負託を得ない官僚主導を是正し、民主主義の負託を得た議員による政治主導に変革、規制改革に取り組んでいて、今現在岸田総理に交代してから官僚主導、とりわけ財務省主導色が強まった政治空洞化、民主主義が劣化していると見るべきである。そしてこの非民主傾倒が、外見が良く見え、何故かメディア含めたリベラル層に受けが良いだけなのだ。

筆者は社会全体の左傾化を以前より懸念しているが、実態は想像以上に進んでいる様だ。

次に示すのが地方自治体の首長と議員の所属政党の令和2年12月31日時点の総務相調べのデータである。

国政の勢力図と大きく異なることが見て取れる。最大勢力が公明党であり、続くのがほぼ横並びで共産党、3番目にようやく自民党が位置している。社民ですら無視できる勢力ではない。

公明党が国政政権与党の中でリベラル寄りの位置付けと考えるならば、相当のレベルで左傾化状態なのだ。これはサイレント・インベージョンが地方から進んで行っている状態と考えられないのだろうか。

これは日本の左派系政党の活動、市民活動も含めて、根強く、継続的かつ戦略的に活動を繰り広げている結果に思える。かたや保守系の政党は、呑気に地道な地域活動を怠ってきた結果でもあるだろう。でも、これが正常な状態なのだろうか。両論あって、民主的な国家の選択であればそれは民主主義としては仕方がないが、一方の活動で偏向した状態で陥った状態ではないだろうか。

この状態を直視すれば、まずは地方分権の方向に進めるのは極めて危険に感じる。地方の方が生活の実態を把握し、地方独自の適切な判断ができるのはその通りだろうが、それで国家的リスクに繋がることは決して容認できない。

武蔵野市の件でも、衆院法制局の見解があるならば、国政として違憲とならない様に法整備するべきだろう。

また、自民党にしても、いつまでの公明党との共闘ではなく、地方に関しても本気でテコ入れするべきではないのか。維新もそうだ。大阪で地方発信の勢力が為せることを示した。次は、国政もそうだろうが、他の地方でも同様の成功事例水平展開を実行すべきでは無いのだろうか。マクロ経済・国防・外交などに関与せずに勢力として形にした実績は大阪に留めるべきではない。

公平に両論併記で議論を戦わせる。その環境が必要であり、それを阻害する勢力、特に暴力的、非論理的に攻撃する勢力とは、はっきりと対峙し、粘り強く現実を明らかにしていく気概が健全な国家を築く必要条件であろう。

政治と金の問題、金が問題になるのはなぜ?

政治と金の問題、本質的には不正な使用、収賄などで私腹を肥やす事を規制することが目的のはずだ。本来の政治目的以外の行為を禁ずることだろう。ならば、政治だけの問題ではなく、広く一般の社会活動において同様の問題であり、政治特有の問題では決してない。

しかし、最近の政治と金に対する報道のされよう、一般国民の認識がズレてきて、お金を使う事自体を批判する風潮が高まってきている。あたかも、一般家計の支出と比較して無駄使いの様な印象操作を元に庶民感覚で理解されないと批判が展開されている。

文書交通費の問題が典型的だろう。1日の稼働で100万円支給されたことに、日本維新の会小野議員が声を上げたことから始まった。印象として「1日であぶく銭が100万円のぼろもうけ」となり、「日割り支給」「返還」「領収書添付」などの議論が展開され、以前の投稿で違和感を表明させてもらった。

「経費の不透明な無駄使い」を政治家が殊更追及されるのは、その経費は税金で成り立っているからという論理であろう。しかし、企業における経費の無駄使いも、損金として処理され、納税額が減少する構造なので、同様に税金に関わる事を理解していれば政治家特有の問題ではない。

「我々の税金を無駄使い」というのと、「我々が支払った代金(商品、サービスの対価)が不当に高い(企業の無駄使い、暴利)」と同義であり、「無駄使い」の判定は、金額の大小ではなく、それによって得られるメリットが対価に見合うかどうかなのである。

そういう意味で、小野議員が声を上げたことに、東京都知事選挙当時から応援していた立場からも残念としか言いようが無いのである。「100万円という想像以上の経費予算に、それ以上の成果を挙げる責任を痛感し、改めて身が引き締まる思いです。見合う成果をお約束するために活動を強化します」と言って欲しかったのである。

企業の経費に立ち返ってみよう。一部上場企業の管理職クラスで、月額100万円程度の経費予算を持っている人は多数存在するだろう。部下の人数にもよるが、出張費・交通費・通信費・文書費・資料費・会議費・交際費・試作費・外注費など合わせて決して望外な金額ではない。通常は、年度計画の中で組織運営に必要な経費を申請し、一方で売上や利益額という成果の計画をコミットして成立するのである。あくまで成果を出すために経費を使う事が前提である。

これを政治家に当てはめてみよう。コミットする計画とは、選挙における公約に他ならない。この観点に立脚すれば、予想外の経費予算が計画されている事実に初めて気づいたのであれば、政権公約以上の政策実現を立案し増強計画として世に問うべきであろう。それは規模でも良いだろうし、実現スピードでも良いだろう。有権者は、その成果をもって次回選挙で判定すれば良いのだ。

月額100万円の経費を家計費に置き換えれば、かなり裕福な富裕層であろうし、贅沢だと庶民感覚では批判されるだろうが、それは適切な批判ではない。100兆円規模の計画予算を持つ組織の経営責任者が使う経費としては、余りにも少ないと考えるのが、投資対効果、経営感覚だからだ。

<日本に未だに巣くう貴穀賤金思想>

貴穀賤金思想は、江戸時代に徳川家康がすべての武士に徹底させた朱子学の教えによるものである。主君への忠誠を誓わせて国家運営の安定を図ったとされるが、その弊害として根付いた思想とされる。江戸時代において経済はすべて米を基準として、金銭の取り扱いを卑しいとし、質素倹約が尊いとされた。

しかしよく考えれば分かる事だが、米は農産物であり豊作時には供給過多で米の価値は下がり、凶作時は米の価値が上がる。そして農業生産力を高める施策により生産量が増える事で、頑張った結果、供給過多のデフレ経済停滞に陥る構造であった。

かつての歴史教育においては江戸時代の3大改革として享保・寛政・天保の改革を称賛していたが、基本的に質素倹約を主にするものでしかなく、マクロ経済面で考えて最近は、愚策であったと評価される向きも多い。

この様な時代でも問題意識を持った傑物は存在した。しかし前述の時代の空気、価値観が正当な評価をせず多くは不名誉な扱い、排斥されている。荻原重秀は新井白石に、徳川宗春は徳川吉宗に、田沼意次は松平定信に追い落とされ不名誉な烙印を押された。歴史家も資料絶対主義の為、当時の批判的な資料の数々を元に不名誉な烙印を是としていた。当時の空気感が残した資料において、批判されているからといって、それが正しい評価とは言えないにもかかわらずだ。

この構造は、昨今の社会においてマスコミが「政治と金の問題」、「税金の無駄使い」と煽り立て、財政支出に対して「財政赤字拡大」「将来世代へのツケ」というレッテル貼りで緊縮財政を美徳とし、政治家の質素倹約を求め、果ては増税を仕方がないという印象操作につなげている構造に酷似している。

経済は投資が活発になり、通貨の流通が増える事で好景気になっていく。家計簿感覚で、爪に火を点すやりくりでマクロ経済を語れば、緊縮経済でデフレ、不景気になるのは自明。結果、失業問題で社会が混迷化するのだ。

政治家の評価は、使う金の倹約度合いではなく、結果として何を生み出したのか、どの様な規制改革を実現し社会に貢献したのか、どの様な社会問題を解決したのか、日本の世界の中での位置付けをどれだけ高められたか等の成果で評価すべきなのだ。

もちろん、不正はダメだ。それは法治主義として法に反する行為が許されないからだ。しかし、法で許されている範囲であれば、何が問題なのか。昔に比べれば、政治資金規正など雁字搦めで現在摘発されている不正はある意味、規模的に小さくなっている。これ以上雁字搦めで何も出来なくして良いのだろうか。

「政治には金がかかる」と言われているが、本音で認めていないから批判しか生じないのだろう。政治は、もっとダイナミックにイノベーションを起こし、国家を支える壮大なビジョンを支えるものであり、志を持った人間が目指す夢の職業であるべきでは無いのか。

官僚も本来であれば、同様の夢ある職業であり、志を持った集団でなければならないが、過重労働で、ミスが一切許されない、攻められるだけの立場となって、不人気就職先に成り下がっている。

政治家なんて信用できない。というのは、間接民主制の否定でしかない。選挙という手段で選んだのは有権者なのだから、選んだ政治家を信用できないなら、自分の信じる独裁者による専制政治を望むのだろうか。意義があれば、自身が出馬して、変革を生み出せば良い。自分は斜めを向いて何もせずに、社会が悪いとグレる反抗期は民主主義の有権者としては無責任でしかない。

日本は、これでいいのか。

日本を衰退に向かわせる人権派の正体、扇動されないためには

静岡県の川勝知事は様々な問題発言で物議を醸しているが、またもや問題発言が発覚した。6月の知事選の期間中に富士市で開かれた集会で、女子学生を念頭に置いて「顔のきれいな子はあまり賢いことを言わないと、きれいになる」との発言だ。

耳を疑う、正気の沙汰とは思えない意図不明の発言だが「傷つかれた人がいたとすれば、申し訳ない」と取材に答えている。この認識も論点がずれた言い訳に過ぎないと思うのは、そもそもの認識の誤りを認めて、謝罪し、修正するという姿勢が全く見えないことだ。

そして筆者が異常に感じるのは、このことを伝えるのがネットが主流であって、マスメディアは殆ど報じず、人権派を名乗る知識人たちは一切声を挙げていないことだ。お仲間には優しいといえばそれまでだが、それでは信義が疑われる。

森元会長の発言には、金太郎飴の様にどこでも同様の糾弾をメディアは繰り返していた。内容的には、全文読めば大した内容でもなく、女性蔑視でもない。むしろ女性が優秀だと言っているのは分かるが、長いくせに、まとまりの無い話で、切り取られて女性蔑視のレッテル貼りされたのだ。そして東京五輪反対キャンペーンへとつなげられたのだ。

あの森元会長の発言でここまで糾弾するなら、なぜ川勝知事の発言には静かなのか、不思議でならない。国民世論と言うが、メディアの恣意的誘導であることは比較して見れば明らかなのだ。ということは、踊らされて、信じ込み、五輪反対、中止と声高に叫んでいた一般国民は冷静に目を覚ます必要があるだろうし、情弱性を反省しなければならないだろう。

<彭帥選手事案に対する反応も同様の構造>

中国テニスの彭帥選手の告発発言に対しても、同様の構造が見えてくる。

共産党最高指導部のメンバーだった張高麗前副首相から性的関係を迫られたことをネットに投稿、その後行方が分からなくなり、一定期間後あたかも中国政権の監視下に置かれている様に感じる不自然な発信やバッハ会長とのオンラインでのやり取りが行われている。

そして、女子テニス協会(WTA)は香港を含む中国でのすべての大会を中止すると発表するまでに至った。

しかし、日本のメディア、左派系の論陣は、東京五輪の時の様な執拗な五輪反対活動を行わない。それどころか、本件の人権に関わる非難すら殆ど発信されていない。

身の安全が保障されたのだから良しとの意見は根本的に間違っている。そもそもの告発は優越的な地位を利用した、生命の危険すら感じさせる状況下での性的凌辱ではないか。このことを糾弾しない人権派なんて、単なる政治活動のための政権政府を攻撃する目的の詭弁でしかなくなる。

メディアも同様である。公平性や良識など一切存在しないと言わざるを得ない。

<五輪に対する純粋な想い>

筆者は、自身が元アスリートでもあり、ジュニアの指導経験もある根っからの体育会系人間である。それ故、全てのアスリートの夢、頂点に位置する五輪に関しては、政治的な背景や、商業価値的背景も含めて一定程度受け入れ、全面的に開催を維持し推進することに賛成する立場である。

世の中綺麗ごとだけでは成立しない、五輪という夢を維持し拡大する為には、泥水を飲んでも目的を達成し、夢を実現することを否定しない。もちろん、そこには一定の良識と秩序は必要であり、法的に問題があったり、道義に反することがあってはならないのは前提である。

その五輪を日本の世論は、メディアや左派系のプロパガンダに扇動された結果とはいえ、大多数が反対との発信をし、推進派である筆者に対しても数々の非論理的な言いがかり、正気の沙汰とは思えぬ非難が寄せられた。

しかし、今、北京五輪に関しては、全くと言っていい程、反対という声が聞こえてこない。

筆者は前述の通り、アスリートの立場に立つ。北京五輪に関しても、人生を掛けた目標として活動している多くの選手、夢かなわなかったが夢の舞台として憧れる多くの選手、夢の舞台に自分の姿を投影する純粋な多くのジュニア選手の気持ちになれば、開催して欲しいと切望していたし、今でも気持ちは変わらない。

しかし、だからといって、前述の中国政府の振る舞いや、ウイグルや香港などの人権問題を糾弾しないのもあり得ないと思っている。あくまで、是々非々で批判するべきは批判し、推進すべきは推進するべきと考えている。

従って、WTAの判断は尊重されるべきであり、同時にアスリートに不利益にならない様な代替策を検討する必要があるだろう。

北京五輪も同様ではないだろうか。もちろん、このまま大会は開催し、政治的ボイコットで済ませる方法もあるだろう。ピーキングなどの調整が必要なアスリートにとっては最善の策である。しかし、日本ではその議論すら上がってこない。

また、オミクロン株で脅威を煽り続けているにも関わらず、北京五輪開催に地獄絵図になると誰も言わないのも不思議である。東京五輪を正気の沙汰では無いとまで言っていた専門家達も一切言及しない。日本選手を送り込むのにだ。つまり、本当に脅威だと思っていた訳ではなく、単に政府を攻撃する材料だったに過ぎないことも明らかなのだ。

総合的に判断して、延期、代替地開催などの議論もあって不思議ではない状況なのだが、その様な議論、糾弾は皆無といっていいだろう。

情弱性は活動家の恣意的な扇動に利用され、正常な判断が出来ない同調圧力に支配され、結果として国家を衰退に向かわせて、自分自身の首を絞めるのだ。

しかし、いつまでも恣意的な扇動を生み出す構造を恨んでも仕方がなく、現実として受け入れた上での対処が必要な時代になったのだろう。

出来るだけ多くの人が、情報をマスメディアに頼らず、自分の努力で様々な情報に触れ、自分の頭で論理思考を繰り返すことが、騙されず、利用されないで、豊かな生活を送るための条件になってきたのだろう。

オミクロン株で岸田首相は全面的な鎖国政策断行だが

オミクロン株(変異株「B.1.1.529」)が世界で拡大し、WHOは懸念される変異株(VOC)に指定したと発表した。VOCは最も危険視される変異株の分類である。現在世界の主流株となっているデルタ株や、デルタ株に感染力で劣るアルファ株やベータ株、ガンマ株が指定されている。

そして、この事態を受けて岸田首相は、外国人の入国について、11月30日午前0時より全世界を対象に禁止した。

この件に関して賛否両論が飛び交うだろうと思っていたら、支持し、賛同する声一色に日本中が染まっている様に見える。少なくともテレビ報道に例外は無いだろう。ワクチン接種率80%を誇る、国民の一体性、同調性を象徴するかの様な現象に、天邪鬼の筆者は首を傾げている。

この件に関して異を唱えた瞬間、感情論のコロナ脳による総攻撃を受けかねない危険性すら感じ、筆者にはこの様な状況に危機感を感じる。それでも、昨年の春頃より、はるかに理解を受けられる可能性も高いとも考えている。

今回の全面鎖国は、危機管理の要諦として最大の危機に備えた対策として称賛を受けているが、本対策による悪影響面が同時に語られていないことに問題がある。どこにもその様な被害に関して語らず、知らず知らずの内に享受させられるのだから。

鎖国のマイナス面は言わずと知れた経済影響である。折角、海外との行き来を再開し、正常化に踏み切ろうとした矢先なのでダメージは計り知れないが、そのダメージを評価せず、無条件で受け入れた形になってしまった。このただでさえ、増税を匂わせる状況下で、経済ダメージを更に強める動きだ。

それでも、オミクロン株による脅威、リスクが高いと判断されれば致し方が無い判断かもしれない。しかし筆者の把握している範囲でその様な脅威の元になる情報は確認できない。この2年間、恐怖を煽られ続けた国民は、新たな脅威に、未知の恐怖を抱いたのかもしれないが。

「ワクチンが効かないかもしれない」、「感染力が高まっているかもしれない」、「空気感染するかもしれない」などが報じられているが、どれも「かもしれない」であり、科学的な確定情報ではない。今までも同じことを言い続けて来た同じ文言ばかりに過ぎない。いや、それどころか、南アフリカでは一人も入院する症状に至っていないとの話もあり、他でも重症化例は聞こえてこない。症状も従来の味覚異常などもなく、倦怠感など風邪やインフルエンザと同等の症状が報告されている。

確かに、まだ母数として少ないが故に全体像を語ることが出来ないと言うのは正論である。しかし、逆説的に言うと母数が少ないということはそれ程拡大していないということでもある。

一旦入れてしまった後では遅いというのも一理ある。しかし、2年もの経験値から「かもしれない」が実現したことはなく、確率で語るべきである。

リスク対策の観点で、オミクロン株の流入を許してしまった場合の被害を想定、確率を元にしてリスク値として評価し、鎖国政策で受ける被害のリスク評価と比較して提示するのが当然なのである。しかも、全面鎖国と言いつつ、完全に流入を防ぐことは事実上不可能なことも忘れてはいけない。

<コロナ対策で鎖国やロックダウンは一時しのぎに過ぎない>

鎖国政策やロックダウンなどの対策は、新型コロナに対しては、効果は一時しのぎに過ぎず、いずれ流入を許した時に総被害としては同等レベルが避けられないことも国際的な経験値から分かっている。

即ち、本来、鎖国政策は時間稼ぎであり、その間に別の策を打たない限り、総合的に見ると何の意味も無いのである。では、日本の現状で時間稼ぎをして何をするのだろうか。

時間稼ぎをしている間に打てる策として有力なのは、高齢者へのブースター接種だろうか。それ以外には、医療資源の最適再配分が柔軟に行える様にする、5類相当にして初期医療体制を強化する等は必要だろうが、今まで手つかずなのに、1か月で対応が可能だろうか。分科会含めて、筆者にはその様な方向性には全く感じないのだが、どうだろう。また、幽霊病床を抱え、患者受け入れ拒否して、医療崩壊だと騒ぐだけでは無いのか。

なぜこの様な状況で総合的に状況を俯瞰することもなく、鎖国が全面的な称賛となるのか不思議で仕方がない。

岸田政権の立ち上げから、親中路線や、財務省どっぷりの増税路線で、保守支持層の批判を受けていた中で、鎖国政策は今まで後手後手だった状況から脱却した唯一評価出来るとされているが、単に世論を気にした大衆迎合に過ぎないだろう。

これでは、世論に阿る姿勢での判断に見え、コロナ対策一本足打法の政策でもあり、再度の緊急事態宣言発出もあり得ると危惧される。

一般的にウイルスはDNAコピーエラーは避けられず、生き残ったのが変異株となる。生き残る条件は、感染力が強くて、毒性が弱いこと。毒性が強まると宿巣も途絶え、感染できないからだ。今回、オミクロン株の毒性が弱まっていると現時点で断言はできない、あくまで「かもしれない」だ。しかし、脅威を感じる「かもしれない」と比較して、当然のごとく確率は高い、自然現象だからだ。

必要以上に恐れて、他への悪影響を拡大させるべきではない。精神的不健康は、身体的不健康にも繋がるリスクが高い。

もちろん、全く恐れるなとも言わない。病気なのだから、あくまで正しく恐れ、正しく対処するべきである。そして、日本における真っ当なリスク評価を行えば、経済損失を拡大し、増税まで背負って対策するべきではないというのが通常の感覚のはず。

その上で、健康管理は個人が心がけるべきである。風邪だって拗らせれば万病の元だから、各人が出来る事を行うべきなのだ。その上で患った患者は医師が、医師法に則って職務を全うすべきだ。その事が、2年の経験で理解出来ないことが全くもって意味不明だ。

外国人の地方住民投票券は国防問題である

武蔵野市の松下玲子市長が発表した外国人に投票権を与える住民投票条例案に対する賛否が戦わされている。これは軽く考える問題ではなく、国防に関わる重要な問題である。

松下市長は、外国人参政権に通じる問題との指摘に対して「論理の飛躍だ。同姓でも離婚する人がこれだけいる中、夫婦別姓制度を実現すると『家族が壊れる』と言っている人に似ている」と発言し否定している。

この否定の仕方事態が論理になっていない。『同姓でも離婚する人がいる』は決して『同姓だから離婚する人がいる』のではない。つまり同姓、別姓に関係なく、結婚は人と人の繋がりなので離れる事もありえるということでしかない。『夫婦別姓制度を実現する』と危険因子が増加し『家族が壊れる』可能性が高まる、不要な争いが起きうることを『同姓でも離婚する人がいる』という事象で否定できない。これこそが論理の飛躍に他ならない。

この様な論理破綻の言い訳を堂々と発言できること自体、自己正当化の詭弁である誹りは免れないというのが筆者の見解ではあるが、そのことはさておき、この問題についてリスク面から考えていきたい。

<外国人への投票権を与えるリスク>

制度のリスクは性善説のみで語ってはならない。悪意をもって実行した場合に、どこまでのことが可能で、どれだけの影響があるか、そしてその行為は事前にどれだけ把握できて、影響最小化のリスク対策がどれだけ可能か、客観的にかつ冷静に検証する必要がある。

悪用の仕方は簡単だ。大人数の工作員を所定の市町村に住所変更させた後に重要な案件(市町村合併、原子力発電誘致、基地建設など)の住民投票を行い、多数の民意を形成して首長が強権を振るうことだろう。これは合法的、民主的な手段による独裁と言っても良い。

これは誇大妄想でも何でもない。歴史的にも、中世に宣教師がキリスト教を布教し、地域に根ざし、植民地支配に移行していく手段は同様であろう。新疆ウイグルやチベットなどへの侵攻も同様。もっと言えば、アメリカ大陸もオーストラリアも結局現地人よりも多数派の移民による、実力行使力獲得によるものといっても良い。

別の例を挙げると、現地の施政権は取れなくても、情報覇権を占有する方法。現代戦において、情報発信のチャネルを寡占し、規制する事は、世論操作や扇動が容易であり、制空権を握るに等しく占領を容易にする効果がある。そして更に効果的なのは、現地の教育現場を占有することだろう。

つまり地方自治体の攻略は、武器を使った攻撃の様な自軍被害のリスクもなく、平和裏に民主的に侵攻を可能にする手段なのである。

実は、日本国内で外国人に投票権を認める自治体は既に43存在し、在留期間を要件に付けない条例は、神奈川県逗子市、大阪府豊中市の2例存在し、武蔵野市は3例目で東京都内では初の事例になる。これほど多くの事例が既に存在することに驚きである。住民は本当に意味を理解しているのだろうか、筆者は疑問に感じざるを得ない。

<国益の全体最適思考が個人の利益にも通じる>

リスクがあるから、それが全て顕在化するとは限らない。しかし、今現在顕在化していないからといって、リスクがある事を否定はできないし、軽く見積もってもいけない。サイレント・インベージョンは現実の脅威と考えるべきであろう。

本来、国防や外交に関わる要件は国政マターの筈である。

全国に43もの侵略リスクの高い拠点が存在することを認識し、その危険性が無いか適宜状況確認を継続する必要がある。本来であれば、住民がその役割を果たすべきだが、恐らく正しく周知されていないのだろうから、正しく周知させる事から始めるべき。

その内リスクの高い2カ所には具体的な対応策が必要だろう。そして今後これ以上増えない様に、武蔵野市における議論を広く周知し、本当の意味でのリスクを周知する努力は必要不可欠だろう。

決して外国人を差別しようと言っている訳では無い。住民サービスや社会保障は外人であろうと、住民であれば享受できる権利があるものも多い。公平に受ける権利が行使できるようにするべきだろう。

しかし、リスクの高い重要事項に関する決定に関与する権利は基本的に住民である前に、日本国民である必要がある参政権に属するものではないだろうか。それは、そのリスクは地域で留まるものではないからだ。

よく言われる例えに、税金を払っているのだから権利も与えるべきだと言うのは詭弁に過ぎない。商品を購入するユーザーは、商品やサービスに関して物申す事は出来ても、株主として投資しない限り経営に口は出せない。それだけなのだ。

市民活動は、何故か、国家の利益を毀損する活動が多い。国家の利益よりも個人の利益を優先するのがリベラルの根本思想と聞いたことがあるが、個人の利益を追求し過ぎて、全体の国家として利益が失われるのなら、結局、個人の利益失墜にもつながることが理解できないのだろうか。これでは、単なる目先の利益、部分最適思考、利己的な利益追求でしかない。

個人と国家の利益やリスクは、あくまでバランスであり、全体最適思考で検討すべきであろう。

政府分科会の辞書には「反省」の文字が無いのか

新型コロナの政府分科会が新指標に合意したと報じられた。政府分科会尾身会長は、新指標について「感染状況を医療が逼迫(ひっぱく)しない水準に抑え、社会経済、日常生活を取り戻すことが目的だ」と説明。「新規感染者数は注視するが、医療逼迫の状況をより重視する」とのことだ。

凡その考え方を下図に示す。

出典:テレビ朝日系(ANN)11/8(月)

どうだろう、問題の本質を分かっていない、反省という事が出来ない集団なのだろうかと改めて痛感するのは筆者だけなのだろうか。

<新型コロナ対策の本質的な問題>

日本の感染状況は、最初から現在に至るまで、常に海外比較で『さざ波』状態で、穏やかであった。色々批判を受け、アジアとの比較や、成功している国との比較と揶揄もされていたが、現在に至って総合的に世界最優秀と言っても過言ではない。問題は、その状態で医療崩壊が発生してしまうという事が日本特有の脆弱性だったのであり、普通の感覚であれば真っ先に反省するべき事項のはずだ。

このレベル2に示す「感染者増加傾向も病床増で対応可」という状態は、病床を状況に応じて増減できれば、このレベルを超える事は本来あり得ない論理だ。逆説的に言うと、病床数を増やせなければ、感染がどれだけ穏やかでも、直ぐにレベルが上がるという事だ。つまり、生殺与奪の権を、一部の医療従事者、いや医療界への影響力を考慮すれば分科会や医師会が握る事になるのではないだろうか。

レベル3の「一般医療を相当制限」はもっと酷い。相当制限とはどの程度の事か全く不明で、恣意的に何とでも言える。それだけでなく、一般医療の定義が不明で、既得権益を守ろうとする排他的な定義としか思えない。村組織の中で縦割りを超えさせない自衛意識の象徴ではないか。

そもそも一般医療とコロナ対応医療を別のものとしている時点で、医療資源の適切な配分など出来様がない。見え隠れするのが、救急医療へのしわ寄せをして自分達のリスクを回避しようとしている様にしか見えないのだ。あくまで、コロナ対応も含めて一般医療として、その配分を現場状況に応じて臨機応変に対応していく事が、当たり前の世界だからだ。百歩譲っても、呼吸器内科系の一括りで治療体制は語るべきでは無いのか。

本来のあるべき姿で考えれば、確保病床数を分母に入院必要数を分子にする指標は、分母さえ増やせば閾値を超える事はあり得ない。また、この指標が50%程度で云々する事も、一般の資源リソース評価としてもあり得ない。

通常のリソース管理は、上限の閾値を80%程度にして、超えそうな70%あたりでアラートを鳴らして資源増強を図るトリガーとする。逆に50%を下回る様な状態であれば、資源リソースの過剰投資として資源の他への転換を図るトリガーとする。これが通常のリソース管理である。結果として、この指標は50%を下回ることが無いのが、正常な資源管理だ。

他の資源再配分と医療は異なる、そんな簡単では無いとの言い訳は聞き飽きる程聞いてきたが、この点こそ国際比較して欲しい。諸外国は見事に柔軟に対応している。いや、せざるを得ない状態に追い込まれ対応しているのだ。比べて、日本の医療体制は幽霊病床で補助金を獲得する等、余りにも悠長ではないのだろうか。第5波になってようやく野戦病院等の施設を唱え始めたが、昨年大阪の専門病床に対しては非協力的で結局、自衛隊出動した。ワクチン接種も歯科医や自衛隊出動するまで非協力的だったのだ。追い込まれたらできる事でも、非協力的であった事は紛れもない事実なのである。

これは、飲食業や観光業、昔はパチンコ屋、夜の街などの弱者、政治的影響力の弱い集団の活動を制限し、一般国民を恐怖で縛り、我慢を強いる事で、医療業界全体としての対応を回避したと言えるだろう。

勿論、その中で実際のコロナ対応医療関係当事者は、本当に患者に向き合い、治療に従事していて、真剣にコロナ対応をして頂いている事は疑い様がない。要は、その人数、資源を増やさない事、増やせない事が日本の医療の構造上の問題なのだ。

筆者は、この構造に対して昨年より指摘し、批判を続けたが、当時は全くと言っていいほど理解を頂けず、逆に心無い攻撃すら受ける状況であった。しかし、今となってはネットを中心に同様の言論があふれ始めている。状況は変わったのだ。

今こそ、この問題点に真摯に向き合い、コロナだけでなく、今後の医療のレジリエンス体制を確保する為に、事実を総括し、反省するべきで、分科会も解体し責任を取るべきだろう。

にもかかわらず、まだ新指標とは、開いた口が塞がらない。

エレルギー問題の対応はバランスが重要

エネルギー問題は国家の安全保障にも通じる重要課題であり、本来国家として一枚岩になって取り組むべきなのだが、政局利用や活動家の具となり、本質的な問題をタブー視する傾向が強くなって久しい。更に、環境問題がここに重なってきて部分最適が進み、混迷が深まっている。

はっきり申し上げる、バラ色のエネルギーなど世の中には存在しない。それは物理学のエネルギー保存の法則に従えば自明なのだ。世の中の様々な事象は、このエネルギーの微妙なバランスによって現在の環境が成立しているのであり、そのエネルギーを他の形に変換して利用する場合、元のエネルギーバランスを崩す事に他ならず、偏れば必ず何らかの歪が生じる。従って、エネルギー利用には歪を最小限にするバランスが必要不可欠なのだ。漫画「ドラゴンボール」の「元気玉」の様に、少しずつ分けてもらって大きなエネルギーに変換する、そういった検討が重要なのだ。

この様に考えると、再生可能エネルギーが環境に優しい究極のエネルギーだという論調も基本の部分で間違っている。

例えば、太陽光エネルギー。パネルの設置による自然破壊、土砂被害の可能性も指摘されるが、それだけではない。そもそも自然の恵みで降り注ぐ太陽光があって地球環境が成立している。光合成により栄養源が生成され、太陽光熱は様々な自然現象を呼び起こす。仮に地球の何割かの表面を太陽光パネルで覆ったら、自然環境は劇的に変化するだろう。

水力発電も当初は水の位置エネルギーを電気に変換する、究極の再生可能エネルギーの様に期待されていたが、その実、自然災害のリスク以外にも、河川環境や下流地域の生態系等にも重大な影響を及ぼす事が分かっている。

変化が微小な僅かな利活用であれば問題が顕在化しなくても、量的に無視できなくなると予想できない何らかの影響が顕在化するのは疑い様が無い。しかも、人類の電力消費量は年々増加、日本もIT化を進めようとする中で電力消費量はこの先莫大に増加する事が報告されている。

更に、CO2削減、実質排出ゼロを目指すとなると、石化エネルギーの燃焼という手段は限定的にならざるを得ない。

以上の様な現実に直面している状況下では、あらゆるエネルギーをバランスよく利活用するべきなのだ。従って、根拠もなく、或いは根拠ある様に見せての原子力発電ゼロ化推進は無責任との誹りを免れないというのが筆者の基本姿勢である。

<リスク管理視点で見た原子力発電>

但し、リスク管理視点で見た場合、原子力発電の事故発生時の被害をどう考えるべきかは、大きな課題である。一度、被害発生した場合その規模は絶大で、発生確率が少々低くても、リスクスコアとしての「被害×確率」は高くなるのが必定であり、この点を考慮する必要性がある。どこまで安全対策を充実させてもゼロにはなり得ないので、リスクスコアは決してゼロにはならないのだ。

但し、福島原発事故以前ならば被害想定が困難で、ともすれば人類存続不能ともされる言質もあったが、各所での大小の事故を経験した今なら定量化する情報が存在するはずだ。是非今一度リスク管理の側面で客観的に評価するべきだろう。他のエネルギーのリスク評価と比較して実はそれ程大きくないという結果になるのではないかと想定しているが、極めて専門的な計算が必要であり、冷静な議論が必要だろう。

そして、何より危惧しているのが、技術力の低下だ。筆者が大学入試を受ける頃は、原子力工学は花型で、優秀な学生が集まっていた。今はどうだろう、その種の学部があまり見当たらない。これは、原子力忌避思想に縛られ、非難を受け続ける市中環境では、志望する学生が減少する状況に追い込まれざるを得なかった結果ではないだろうか。かつては、日本の原子力技術は世界に誇るべき水準であったが、今はどうだろう。

ましてや、原子力ゼロ、自然消滅と言っても、今ある原子力発電所廃炉や廃棄物処理には、長い時間が必要である。その為に、何世代の技術者が関わる必要があるのか、まだまだ優秀な技術力の育成は必要不可欠なはずだ。この様に考えれば、後ろ指さされる技術にしてしまっては先行きが危ない。それこそ、技術者不足、技術力低下は、リスク発生確率も、発生時の被害も高めるのは間違いない。

だからこそ、原子力技術を花形の学問にもう一度復活させる必要がある。幸いなことに、小型モジュール化など新技術が期待されている。この技術の実現性に疑問を投げかける前に、渡りに船だと、国家上げての強化、支援を高める事で総合的な技術力向上も期待できるのだ。実情を考えると、戦略的投資をしない手はないのだ。

<期待される水素エネルギー>

筆者はエネルギー問題の解決策の一つとして以前から水素エネルギーに注目していた。燃焼時に無駄な廃棄物も生じないクリーンエネルギーとして。

但し、水素はご存じの方も多いだろうが、取り扱いが難しい。危険で、保存にも膨大なエネルギーが必要だからだ。

エネルギーは、必要な時に必要な場所で必要なだけ供給できる必要がある。その為には、保存・蓄積、運搬も必要になる。水素は液化して運搬も可能だが、その取扱いには注意が必要になる。それらの問題を解決するのが、水素キャリアとしてのアンモニア利用なのである。

筆者は7年ほど前、このアンモニア利用に注目し、各種研究論文を読み漁った時期があった。その時、受験生であった長女も物見遊山で同様の文献に目を通し、自身の第一志望校にこの研究をする研究室を発見し、興味を深め、このテーマで小論文を書いたほど、その時期注目していた。そして現在、アンモニア運搬船が開発されるまでに至っている。

世の中には、否定論者も多く存在する。アンモニアは、燃焼時にNOxという有害物質が生成される危険性がある。そして、生成法として現状の主となるのが「ハーバー・ボッシュ法」であり、これには膨大な熱と圧のエネルギーが必要なので、その時点でエネルギー効率の悪さやCO2発生問題が伴うからだ。

しかし、日本の燃焼技術は世界トップクラスであり、安全な燃焼はそう難しくない。低エネルギー生成法の開発さえ実用化出来れば問題なくなるのだ。そして、アンモニアの生成が工業的に容易になれば、現在の主用途である肥料用途にも利活用が広がり、食糧問題の解決にも繋がる一挙両得なのだ。科学技術は、諦めず、目的に向かえば、不可能を可能にする。期待したい。

若者の政治離れとはどういう現象で何が問題

若者の政治離れが問題とされている。しかし、私が若者だった頃も同じことが言われていた様に記憶している。つまり、日本において、いつの時代でも、若者は政治に関心が無いと言っているのに等しい。これは本当だろうか、そしてどの様な問題になるのだろうか。

選挙を盛り上げるために、カンニング竹山氏はテレビでガンガン放映すべきで公平性など気にしなくて良いと自論を展開(衆院選なぜ盛り上がらない「テレビは選挙を公平に報じなくていい!」カンニング竹山〈dot.〉)した。選挙へ行こうという著名人の呼びかけ、動画も各種配信されている。

しかし、それで解決するのだろうか。本質的な問題や、弊害を忘れていないだろうか。

<政治に関心の無い人が投じる1票>

政治に関心のない人が投じる1票と、普段から様々な問題意識を持ち、論理的思考による検討を繰り返している人の1票を同じ1票として良いのか。いわゆる大衆迎合、ポピュリズムに陥り、政治家の活動戦術が人気取りに注力、ワンフレーズのアピールが主となり、本質的な政策アピールが希薄になる。逆に票を集まるのは大衆扇動する事が最有力となる。

こう書くと差別主義者の様に攻撃を受けかねないが、1票の重みを感じない方が問題ではないか。

選挙権を行使して1票を投じる事は、先人達が勝ち取った民主主義を成立させる為の重大な権利である。権利にはそれを支える責任も当然発生する。当然だろう、投じた1票の結果が自分だけでなく国民全体に影響を及ぼす事に責任を持つ必要があるし、決まった結果には、自分の意見が異なろうとも従うのが民主主義だからである。

そうやって考えると、選挙が始まってから選挙に行こうでは遅いのである。「誰に投票して良いか分からない」と言う人に、マッチングアプリ等で「貴方の考え方に近いのはこの党です」とするのは明らかに誤誘導であり間違っている。考える為の情報として「政策」や「活動実績」などは提供しても、結論を押し付ける様に示すのは、投票所内で誰々に投票しろと指示するのに等しい行為である。

日本人に欠けているのは、『民主主義』や『自由』『平和』に対する意識である。これらは空気の様に何もしなくても普通にあるものではなく、勝ち取ったものであり、G7など価値観を共有する先進諸国の中で一定のポジションにいる、そのありがたさを感じる感覚ではないだろうか。

その原因は教育にあると断言しても良い。日本の教育で、政治に関する各論や持論形成のために必要な論理思考力のトレーニングは殆ど行われていない。諸外国との違いはこの点にある。

若者が政治に関心が無いという逆説は、年齢を重ねれば政治に関心が生まれるという事になる。社会に出て、荒波にもまれ、現実を目の当たりにし、社会の一員として自分事として問題意識を具体的に感じ始めて、政治に目が行く。社会経験の浅い若者にとって、実体験での問題意識もなく、聞きかじりで偏った意見に流されやすいのは当然だろう。

学生運動が先鋭化しやすいのは当然なのだ。グレタさん等は大人に利用された被害者であると筆者は認識している。彼女の子供時代を奪ったのは先鋭的な活動家に他ならない。

<政治の無関心を助長するインフルエンサーの不勉強発言>

政治への関心の無さが偏った意見に流される典型実例として「選択的夫婦別姓」問題を挙げてみる。

「自民党だけが反対だ」とメディアの印象操作が激しいが、全く中身の問題点を伝えていない。そして、中身も知らずに、影響力のあるインフルエンサーがなぜ反対するのだと発信する。

最高裁判決内容など読めば少しは理解できるだろうし、様々なサイトで比較評価されているので、調べる気になれば簡単に確認できる。

「夫婦同姓」を違憲とする根拠は、人権問題として個人の尊厳に関わると言うのが簡潔な説明であろう。つまり姓、氏を選択できないのは不平等、個々の価値観は自由であるべきとのこと。合憲とする根拠は、現行法でも男女どちらの姓も選択でき男女平等であり、別姓とする事で家族の一体感を失い、無用な争いの種が生じるということだ。そして最高裁で合憲となっている。

また、内閣府発表の平成29年度世論調査でも選択的夫婦別姓の「法制化容認」の意見は42.5%、「現在の法律を改める必要ない」と「旧姓の通称利用の法制化容認」を合わせると53.7%もある。国論を2分するとはいえ、半数以上が「選択的夫婦別姓」法制化に慎重なのである。

余り知られていないが、旧姓の通称利用を最も拡大し、女性が結婚した際の活動上の不利益を受ける問題に具体的に対処したのは、自民党の高市元総務大臣時代の業績なのだ。そして、今の自民党案は、この通称拡大を更に一般的に広める事を軸としており、最も、婚姻後の女性の不利益解消に具体的に活動しているのだが、なぜか反対の急先鋒扱い、女性の敵的な印象操作が行われている。

これらの中身を知った上で、各論にも触れ、その上での個人の意見であればそれは尊重されるべきだが、読みもしない、知ろうともしないで、軽く「選択できるのに、なぜ反対するの、自由で良いだろう」と影響力のある立場で発信するのは、誤誘導による大衆迎合、人気投票により気付いたら道を誤った事に成り兼ねない無責任発言なのだ。簡単に賛成、反対で決する内容ではないからだ。

そもそも個人の価値観の自由とすれば、婚姻時だけでない選択の自由に拡大され、戸籍は他と何ら繋がりや連帯もなく個人のものになるが、それならば究極は姓や戸籍など不要で、マイナンバーだけでよくなるが、この層はマイナンバーにも反対意見が多い筈だ。まさか、国家として国民を本人と特定する情報管理は一切必要ないとでも言いたいのだろうか。それでは無政府状態だろう。

ここからも分かる通り、意見を述べるには、それなりの努力と責任を持って自分で考える必要がある。選挙における投票行動はこの意見を述べる行動の一つであり、一定の努力と責任は必要だろう。

<若者は本当に政治に無関心なのか>

しかし、最近の言論空間、特にネット環境を客観的に見ると、筆者の個人的感覚だが、若者は決して政治に無関心ではないと感じている。

電波系メディアを見なくなっている若者達は、ネット空間、SNSで自分の考えを発信している。勿論、玉石混交であり、日本語にもなっていない意味不明発信、誹謗中傷もある。しかし、事実に基づいた思考、論理的な発信も増えているのは間違いない。

その事を一部の活動家達がマスで誘導できなくなっている危機感を持ち、それを防ごうとする『報告』攻撃が増えていると考えれば辻褄が合うし、皮肉にも事実証明にもなっていると感じる。論理的な意見が増えているから、妨害も増えているのだ。

では、なぜ若者の投票率が上がらないのだろうか。ひとえに多忙が故ではないだろうか。

自身の若い頃を考えれば、土日もなく昼日中は仕事で走り回り、僅かな休暇は遊びに走り回り、暇などなかった。働き方改革されているとはいえ、活動的なエネルギーは、選挙よりは自身の活動に時間が割かれるのは自明ではないだろうか。逆に年寄りは暇だから投票率が上がる。

従って、やはり期日前投票もそうだが、ネット投票に舵を切るべきなのだろう。

そして、これらの事を前提とすれば、政治活動は根本的に変わってくるはずだ。ネットの活用とネットに蔓延る不正行動の法的抑止。今や、マスメディアの信頼性が地に落ち、若者は確実に離れている。言論封殺を目的とした「報告」などの行為の公正性の担保、誹謗中傷などの不適切行動に対する公的監視に本気で対処すれば、ネットでの広報戦略の重要性が高まり、健全な両論戦わす場に活性化できるだろうし、しなければならない。そうなれば自ずと教育の必要性は高まり、現実化していくだろう。

そして、セキュリティ性を担保したネット投票が実現すれば本当の意味での健全な民意が反映される民主主義に近付けるだろう。

戦略的投資があって始めて経済成長が実現する

平均年収30年横ばいを打開するには、どうすれば良いか。

インフレターゲット2%目標が実際に実現出来れば、間違いなく経済成長が現実化しており、平均年収も上がってくるだろう。しかし、未だインフレターゲットに懐疑的で、反対勢力の攻撃もあり、財布のひもを引き締める緊縮財政論によるブレーキを踏む傾向が強い。結果として、先進諸国と比較して低成長のデフレ状態を打開できないでいる。

事業視点で考えると明確だが、投資無き所に成長は無い。投資を控え、緊縮財政を継続させると利益率の維持、改善は出来ても事業拡大、成長路線は遠のき中長期的にジリ貧に陥る。実際は、衰退事業に対する投資は控え、撤退戦略で生まれた余力を、新たな事業への資源投入に回す事で、継続的な成長を生み出すのが持続可能な経営だ。

国家運営においても同様、成長分野への投資を増強する事が必要不可欠であり最優先のはずだ。その為には規制緩和が重要になる。それらの投資は、資産となり、成長という果実を生み出す。

規制緩和は実は既得権益勢力の抵抗を受ける。衰退事業であろうとも、しがみつく既得権益勢力が、屁理屈で部分最適思考を隠して自己正当化し、規制緩和を妨害し新規事業を妨げる抵抗勢力となる。

加計問題の本質は、この既得権益と規制緩和の戦いであった。安倍元総理や政府、官邸の不正でもなく、それ自体が既得権益を守る為の屁理屈に、政府攻撃の政治利用が乗っかっただけと理解するべきで、未だに疑惑と言っているのは余りに浅はかだ。獣医学部が新設されず、獣医師が増加しない事で生じる弊害は計り知れなかった。決して動物に対する医療分野だけではなく、生物工学や感染症などの分野にも大きく影響する。この岩盤であった既得権益構造打破にどれだけのエネルギーが必要だったか窺い知れるが、筆者はその次に見えるのが医学部だろうと考えている。

今の医学部は富裕層でないとなかなか進学できない。学費が膨大な金額だからだ。だから開業医の子息が進学し家業を継ぐという医師の固定化が進み、増加させ過ぎない事で権益が保全される。その結果がコロナ禍での医師会や専門家の体たらく、上から目線の国民の緩みへの責任転嫁という非科学的な言動を許すことに繋がっている。更に、厚生労働省医系技官という形で異論を許さない構造を作り上げ既得権益構造が盤石になっている。

規制緩和し、優秀で志の高い学生が、障害なく医学を目指せる様に、門戸を開く事で、医療体制を抜本的に強化する事が出来るだろう。コロナ禍がその必要性を世に問うたというのが真っ当な考え方ではないだろうか。

<財務省の公式見解は日本はデフォルトしないである>

同様の視点で考えるべきが、財務省矢野事務次官の財政破綻の危機論だろう。会計論、金融工学視点から論理的に考えたら、余りにも稚拙な論であるにも関わらず、国家の行政トップの立場において堂々と主張が出来る事が信じられない。既に15年以上も主張を続け、マスコミも公には批判しない。それどころか、政治批判の具として財政危機を煽るのだから始末が悪い。

もし本当に財政危機であるならば、政府保有の資産を一部処分すれば良いだけだ。それは、自らの天下り先などであったりするので決して言及しないだろうが、それこそが既得権益構造なので、なんだかんだ言って焦点はずらすだろう。

何と言っても、財務省の外国格付け会社宛ての意見書として公式見解が発信されている。(https://www.mof.go.jp/about_mof/other/other/rating/p140430.htm)日本は財政破綻しない、自国通貨建て国債はデフォルトしないと明言しているのだから、財務省見解と矢野事務次官論は矛盾するのだ。これは国際的格付けに対する説明なので嘘偽りなどあり得ないし、万が一嘘であれば、国際的に非難を受けているはずだが、そうはなっていない。

つまり一般に考える様な借金でもなく、将来の子供に付けを回す訳でも無いのだ。

もうインフレターゲット2%どころか、4%など目標を引き上げて、達成まではプライマリバランスは一旦置いておき、財政出動をしてでも戦略的投資をするべきでなのだ。

<成長あっての分配>

アベノミクスにより株価が上がったのは、一部では株を保有する富裕層のみが得をした様に論じられている。しかし、これは大きな間違いだ。株価が上がるという事は、将来に明るい見通しが見えてきたという投資家の評価であり、今でなく先行きの明るさを示す指標だ。そして、株価が上がる事で利益を得るのは、株保有の投資家だけでなく、年金も含めた資金運用が好循環する事で多くの人に見えない形で循環してくるものだ。金融所得課税で富裕層から徴税するつもりが、寧ろ大衆課税となってしまう実態が報告されている事からも分かる様に株価上昇のご利益は大衆が受けているのだ。

つまり、アベノミクスは将来の明るい見通しである株価までは効果を発揮したが、その見通しに沿った成長投資が不足、消費増税もあって足踏みしたと評価するのが妥当である。であれば、自民党総裁選で高市候補が公約に掲げたサナエノミクスによる成長投資が実現すれば成長軌道を描けるはずだ。

成長あっての分配。至極当たり前の話であるが、分配が先とする社会主義的発想で語る政策まで語る党が現れた。成長の無い分配は、パイの奪い合いでしかなく、分配から決して成長は生まれない。一定の富を分配する事で社会は停滞し、貧困に陥ることは壮大なる社会実験が実証している。成長が無い分配は効果を生まないのは既に常識である。バラマキの分配が消費を喚起し景気を刺激すると言うのも、将来に向けての成長が無ければ、消費ではなく死蔵に回る。

ましてや、日本の格差は諸外国と比較して大したことはないという報告もある。上位1%の富裕層が持つ資産はたかだか全体の21%程度で、アメリカや中国などと比較しても3分の1以下との報告もある。分配して潤うほどの富など初めから無いのだ。

従って、経済成長を成し遂げることで全てが好循環する。その為に規制緩和での成長投資。自由と民主主義を標榜する限り、現時点ではそれ以外に選択肢は無いのであり、本質的には争点となり得ようがないのだが。