トランプ大統領事実上の勝利宣言

 アメリカ大統領選挙の投票が行われ、早々にトランプ大統領による事実上の勝利宣言が為された。まだ確定できていない激戦州で郵便投票の開票がまだなので逆転もあり得ると多くのマスコミは未だに言い続けており、多くの識者もこの時点での敗北宣言の無い事実上の勝利宣言を発したトランプ大統領にフライングだとの批判を集中している。しかし、バイデン候補もほぼ同様の勝利宣言まがいの発信を先にしているのだが、そちらの批判は聞こえてこない。

 当初予想では当日開票で少しのリードをしたトランプ大統領が、郵便投票で逆転される接戦状態で、なりふり構わず郵便投票の開票停止を求める訴訟を起こすなどの対応が予測されていたが、実際は大きく異なり郵便投票完全開票を残した状態ではあるが、ほぼ逆転不可能なレベルの大差を付けているのが実態だろう。
 多くのマスコミは、大差の事実を受け入れることが出来ず、勝利宣言をしたトランプ大統領に対する批判に終始している。このこと自体が問題を露呈していることに一体どれだけの人が気付いているだろうか。私の知る限り、木村太郎さんぐらいだろうか。冷静にこの状況を予測し、現時点でのトランプ勝利を確信していたのも同氏である。(実は私も同様の予測であった)

 今回のアメリカ大統領選挙は、『トランプvs反トランプ』の構造であった。決して『トランプvsバイデン』ではなかったのである。民主党の代表がバイデンになった瞬間、私は、民主党は勝つ気がないのか、と疑った。そして、選挙戦を戦う内に、その構造が『トランプ+反バイデンvs反トランプ』に変異してきた。最後まで、バイデン推しはなかった。その証拠がレディー・ガガの最後の応援演説にも現れており、反トランプしか言っていない。この時点で、接戦だろうが、トランプ大統領優勢に動いていたのが現実だろう。
 そして、バイデンの目指す国家像、ビジョン、夢が押し出されない状態で政策論争もなく大統領になったらアメリカ国民は不幸だろうし、流石にその点は見透かされ、反バイデンが発生したのだろう。その時点で、勝負あった、トランプ大統領の勝利が決まったようなものだ。

 4年前のトランプ大統領勝利の際も、今回も、マスコミの多くは『隠れトランプ支持』を理由にしていたが、私は事実と反すると考えている。トランプ大統領が良く使う『フェイクニュース』が全てと考えている。支持率調査や、世論調査など、調査する分母を恣意的に選択し、アンケートの聞き方を工夫するだけで、簡単に事実と異なるデータに見せかけることが可能だ。アメリカの主要マスコミ(FOXを除く)の多くはリベラル系に偏向しており、報道内容を鵜呑みにできないのが実態であり、それを『フェイクニュース』と非難していたのである。速すぎる勝利宣言でも、バイデンは批判されず、トランプ大統領だけが批判されるのもその表れである。
 断言しよう、隠れトランプによる逆転などではなく、トランプvs反トランプの構造でトランプ支持が上回り、そこに反バイデンが加わって想定外の大差が付いたと見るべきだ。

 日本のマスコミも多くはリベラル系に偏向しており、この事実は絶対に認めないだろう。だからこそ、木村太郎さんの発言が貴重なのだ。しかし、トランプ大統領が露わにしたフェイクニュースの構造を認めない限り国民の目線は騙せなくなっていることも認識しなければこの先存在価値が無くなってくるだろう。

 マスコミの使命として『政権の監視』との時代錯誤の認識を持つ限り、保守ではなくリベラルに傾向するのだろう。しかし、民主主義を確立させ定着させていく過程ではそうかもしれないが、既に成熟した民主主義の時代において、マスコミの最大の役割は『事実を事実のまま客観的に伝える』であるはずだ。その先の判断は国民の判断なのである。もちろん、事実を伝えた上で、マスコミ各社の独自の見解として伝えることは良いが、事実の歪曲や操作は、例え政権監視の大義名分あっても許されるべきではない。

 そして、その批判構造に乗って、独自のビジョンなく、批判に終始する政治勢力は淘汰される。マスコミが偏向しようとも、判断が出来る国民に成熟しつつある状況下での批判勢力への裁定を下すだろう。今回の大統領選挙がそうであり、日本でも国民民主が袂を分けて一旦勢力を落としても、次回以降の選挙で維新と共に勢力を拡大し、健全な選択肢を国民に提供してくれる勢力に成長するだろう。その縮図が示された歴史的な1日であった。

学術会議問題に関しての検証3

 学術会議問題の本質的な議論が為されず、いや一般に公開されずに、行政改革で幕を閉じる方向に行く可能性が高い。本来的には、政府が公共の場に問題事項を曝け出し、存在自体を叩き潰すシナリオも想定されたが、菅総理は一般の考えをはるかに上回る、したたかさと、ある意味でのやさしさと妥協点を示して、あるべき姿に少しは近づけようとしつつ、負の部分も許容する方向性に見える。
 一般国民は、冷静に事の終止を見極める必要があるだろう。そうすれば、マスコミ、特に電波系の報道が如何に偏っているかと言うことも再認識できるだろう。

 では、この問題の本質論に迫るために、学術会議たるものの歴史的経緯を振り返ってみよう。

 設立は1949年、日本がまだGHQの占領統治下にあった時代である。従って、学術会議の制度設計には占領軍が深くかかわっていた。憲法で日本を武装解除し、軍需産業は解体、軍事技術を持てない様に監視する考え方が深く入り込んでいる。学術会議は総理府の機関として内閣に直属させ、会員は公選制としたが、武装解除という占領統治下の考え方、呪縛からは解放されなかった。戦後と言う特殊な時代環境下において、総理府の菅活力は弱く、共産党の支配体制が完成したのだ。公選制であったため、修士以上の研究者は誰でも投票でき、全国組織運動が盛んな共産党支持者を動員して多数の会員を確保し続けたのである。

 この様な状態で学術会議は、1950年に「戦争を目的とする科学研究には絶対に従わない決意の表明」の声明を出すなど、極左的な活動に終始し、政府の諮問機関として機能しなくなった。つまり、設立当初から諮問機関としての客観性のある機能は発揮できていないのである。

 この状態を是正するために、1984年に学術会議法が改正されたのだ。それが話題にあがる中曽根康弘首相時代である。その主要改正内容は、会員の選出方法が学会推薦に変わったことだろう。この公選制から推薦制に変えることは大きな改正であるが、同時にある意味ある種の取引として、推薦者を全員任命するという発言があったのだろう。しかし、それでも本質的な問題は解決しなかった。その後も共産党系の会員は前任者が後任者を推薦する仕組みの中で、一定の割合を確保し続けるとともに、各学会のボスが研究費の配分を行う場になってしまったのだ。
 その結果、2001年の省庁再編で科学技術会議が内閣府の総合科学技術会議になって、政府諮問機関としての役割を果たすようになった。学術会議は、業務重複の問題を抱え、総合科学技術会議の中に学術会議改革委員会が設けられた。
 2003年にアカデミーとして政府から独立した組織にするべきとの改革案が出されたが、学術会議は拒否した。その際に、会員の選出を学会推薦から会員の推薦に変更されている。その後も独立性を高める提案に対して、学術会議は拒否を続け、政府は2007年以降、諮問をしなくなり、名実ともに政府の諮問機関として機能しなくなったのだ。

 2017年に「軍事的安全保障研究に関する声明」を発出し、全国の大学・研究機関に呼びかけ、京大などの多くが軍事研究を禁止した事は広く知られている。実は、この声明自体は、僅か12名が出席する場で決定され、総会には報告のみされるだけで、日本学術会議としての正式文書となったのだ。この12名の中には、安全保障問題に関する専門家は存在せず、政治思想を専門とする政治学者が1名いただけであった。つまり、科学者の創意といえる声明では決してなく、優れた研究又は業績がある科学者による自身の担当する分野における意見でもなく、門外漢の非科学的、政治思想の偏ったものと言っても差し支えの無いものだったのだ。
 前述の声明の詳細文書作成は、「安全保障と学術に関する検討委員会」が対応したが、このメンバーは、先の声明で唯一の政治学者が委員長を務め、参加した社会学者3名中2名は共産党系の組織「科学者協会法律部会」の元理事である。
 この声明発出後、「軍事的安全保障研究声明に関するフォローアップ分科会」が設立され、先の組織から連続して就任した共産党系組織の元理事の2名が、継続的にフォローを実施。一部報道で伝えられている、自粛警察の様な活動で軍事的安全保障研究に含まれうる研究への参画を禁じてきたのである。

 ここまで見ても日本学術会議なる組織が、客観的公平性を保持した活動をしているとは思えず、政府の諮問機関としての機能は一切果たしていないことが理解できるだろう。
 学術会議が改革を拒否して一貫して守ってきたのは人事の独立性ではなく、内閣直属機関としての権威であり権益であろう。学術会議の年間予算は10億円と言われているが、その額の問題ではなく、科学研究費補助金の審査委員を選ぶ権限や科学技術予算配分の権限などを有するのであり、今年度予算規模でいうなら、科学研究費補助金は2300億円、科学技術関連予算は4兆3000億円と巨額の権益なのだ。
 先の軍事研究禁止の声明も、学術会議の政府機関としての位置付けによる権益がなければ、何の強制力も持てず、話題にすらならなかったのではないだろうか。

 会員の選出に関しても、「優れた研究又は業績」が必要条件となっているのであり、各科学者の選出条件となった研究や業績の分野における活動に制限されるべきだろうが、実態はその科学的研究・業績の領域ではなく、政治信条・思想面が前面に出して、他の領域へ干渉する活動に終始しているのであり、とても正当な活動とは言えない状態なのだ。例えれば、プロ野球の一流選手が、将棋界の運営に口を出すことを平気で行っている様なことではないだろうか。確かに、プロ野球の一流選手は、その道では一流だろうが、門外漢の分野に対しては、他の素人と何ら変わらず、ましてやそこに政治的思想を入れ込んでくる様では健全であろうはずがない。

 今回の騒動は、共産党機関紙である赤旗から抗議が始まった。そこに、政府攻撃の具として飛びついた立憲民主など野党が声高に「学問の自由に関する政府の不正侵害」「政府の違法行為、違憲行為」と攻撃を始めた。マスコミも同様、電波系を中心に政府攻撃ネタとして伝え続けた。途中から雲行きが怪しくなったと感じたマスコミは、説明責任を攻撃のネタに変更しているが、多くの左派知名人は未だ「学問の自由」「違法違憲」を叫んでいる。野党は国会でどんな無理筋の論理を展開するのだろう。

 しかしながら、ここまで見てきた学術会議の活動を見る限り、科学者による学問、研究の場ではなく、極めて政治的な活動をする組織になっている。その会員が科学者であるというだけで、その実は政治活動である。
 しかし、構成会員の多く、いや日本における科学者は決して全て左派思想者ではない。それどころか、多くは純粋に科学技術を追求する学者なのである。実は、多くの科学者は、現在の学術会議の運営状態に問題意識を持っており、自らの研究を進めるために仕方なく事を荒立てていないだけの被害者も多いのである。即ち、健全な活動に改善するポテンシャルは十二分にあるのだ。

 コロナ禍における専門会議でも話題になったが、専門家会議の役割はあくまで専門的知見、知恵の結集であり、それによって未来に起こり得る事態の予測や対応策を提言としてまとめることであり、それを受けて政策判断をして実行するのは、あくまで政治の役割である。

 科学技術に関する国家予算配分は、あくまで政治の役割である。国家としてどの研究に力を入れるのか判断するのは国家戦略なのだから。同時に、政府諮問機関としての機能を維持するためには、政治主導の任命権が無ければ成立しえない。学問を民間が、一般的に行うのは自由で独立すればよい、産学共同などスポンサーを募っての活動は自由だ。だが、あくまで政府の政策を検討する上での諮問を受ける組織としては、政治介入が必要不可欠である。そして、その正当性は民主主義によって保たれなければならないのだ。

 科学技術が人類の発展に寄与することは人類の歴史が証明している。しかし、使い方を誤ると人類を不幸に陥れることもある。正と負の遺産、双方を冷静に考えて、凡その結論は、科学技術の発展を停止させるのではなく、更に発展させ、使い方を誤らない工夫をするというのが基本的な考え方ではないだろうか。つまり、科学技術を発展させる分野の選別ではなく、分野自体は幅広く研究を推進する。これこそが学問の自由である、そして成果の活用に関して方向性を吟味する仕組みを検討する。従って、軍事研究であろうとも積極的に推進すべきであり、それを戦争抑止の平和目的にしか使えない様にする政治政策、いわゆるシビリアンコントロールが必要になるのだ。その政策は、ある特殊なイデオロギーにのみ委ねられるものではなく、民主主義的手段によって判断されなければならない。

 以上の様に考えると一つの提案が生まれてくる。まず、学術会議なる組織は、3つに分割、別組織化するべきであろう。一つが、自然科学・工業技術系、一つが医学薬学系、最後に社会人文科学系。それぞれ3系統は、独立し、相互に干渉しない。あくまで、専門分野における、政策提言、政府の諮問機関として機能する。組織の会員は、会議側からの推薦を幅広く実施し、推薦理由や実績も含めて公開し、その中から政府により分野や期待するべき分野のバランスなどを加味して選定し任命する。その任命理由も公開する。当然ながら、諮問内容や政策提言内容などは公開する。民主主義的なシビリアンコントロールを発揮して、科学技術の発展を政策に利活用する、最大にして最適な方法論と思えるのだが、いかがだろう。

 菅総理と梶田現会長との会談が行われた。恐らく、内々には収束していくだろうが、一部の抵抗勢力は抵抗を続けるだろう、場外乱闘として。梶田会長ご自身は、自然科学の分野に属する物理学の教授であり、常識的な理屈は通じるどころか論理思考に長けているはずなので、共通の落としどころに向かえるだろう。それでも続ける抵抗、抵抗勢力の背景を見れば更に、この問題構造が見えてくるだろう。科学技術、学問ではなく、イデオロギーを優先する一定の層と政争の具として攻撃ネタにしか考えていない野党、政権監視という大義名分を振りかざした単なる批判拡散のマスコミに限られてくる。今後、国会や報道でも揚げ足取りの追及が繰り返されるだろうが、その中身は冷静に見極めるのが国民の役割だろう。

学術会議問題に関しての検証2

 本件に関して、私は勝負あったと断じたのだが、いまだに反対の政府攻撃は収まらない。ネットでの誹謗中傷論は、ひと時も休むことなく多くの学者や専門家などから続けられていたが、電波による攻撃は一時静かになった。しかし、総理の105人のリストを見ていないと言う発言を境に、電波でも再燃した様に感じる。これは、あたかも沈静化しそうだったのを、再燃させるべく一石を投じたと見るのは私だけだろうか。

 リストを見なかった発言で、左派系野党議員は声を荒げて、違法行為とまで言っているが、本当に違法だと思っているのなら法廷に持ち込めばいい。本音では、違法行為ではない、少なくとも法廷で違法との判決を得られるとは思っていない証拠であり、政争の具としてあら探しをしているだけにしか一般的には見えない。例え告訴しても、勝訴を目的としている訳ではなく、世間に対する印象操作でしかない。

 リスト全体を見ていなくても違法でもなく、無責任でもないことは、仕事の仕組みが理解できていれば分かることだ。推薦に対して、責任部門が指示や方針に基づいて、全体リストを精査し、結果を説明して承認を得る。至極当然のワークフローである。何の問題もない。

 わざわざ、菅総理がこのことを情報として流したことに意図があると考える方が素直だろう。元々、任命理由に関して必要以上の説明を避けている、これも意図的だと感じる。

 分かっている人間が考えると、推薦理由が疑わしいリストに対して世間が納得できる推薦理由を学術会議側が説明出来ていない。『優れた研究又は実績』という理由を尤もらしく語っているが、その説明に当てはまる科学者は日本国中で105人以外に相当数存在するはずだ。従って、105人の推薦理由を『優れた研究又は実績』で説明すること自体間違っている。それはあくまで法的に定めた基準であり、理由ではない。
 『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』も確かに曖昧で、99人の任命理由として弱いのは事実だろう。だが、人事のことは詳細にできないという理由も尤もであり、何より、推薦理由と並べて同じレベルで語っているのである。そこがポイントであり、ある意味罠だろう。

 推薦者リスト自体が偏っている、と言うよりは学術会議の存在そのものが偏っている。従って、ここに手を付けたいが、抵抗勢力は強力で、一般国民の信任も簡単には得られない。学問の自由、言論の自由と言う大義名分で攻めてこられると、理性的・論理的な議論にはならず、感情的な陰謀論に終始してしまう。

 そこで、任命を99人に絞り一石を投じ、学術会議からの攻撃を敢えて受けているのではないだろうか。想像ではあるが、総理からの指示で定員以上のリストが出てこなければ、一定数の除外者を出せと。その除外する考え方として『総合的・俯瞰的』を指示したと考えられないだろうか。その目的は、はっきり言って、6人を拒否したというよりも任命権が内閣側にあることを意思表明することであり、一部のマスコミが言う様な反政府思想者の除外ではない。それは、99人の中にも相当数反政府思想者が含まれているのだから成立しないのである。

 そして、論理的に、法的に誹りを受けない最低限の発出に抑え、敢えて攻撃をさせている。それにより、馬脚を現わさせる。実際に、学術会議に参加している学者からの攻撃は目に余る酷さがある。一般の人が聞いてどう感じるだろうか。正直私が感じるのは、『上から目線の常識知らず』『自分の思い通りにならないことは他人の責任』『自分の学問の自由、自分の許さない学問に対する制限』『何様のつもり』など、世間常識を逸脱する、ある意味一国の政府に対する誹謗中傷の暴力的な暴言は聞き苦しいほどだ。学者先生の身勝手であれば、まだ百歩譲って笑って許せても、国家反逆とも取られかねない件も多く耳にするのは如何なものだろう。

 この様な実態を世間に詳らかにして、世論に問題提起をしようとしているのではないだろうか。

 確かに、6人を拒否した理由の説明を求める声は大きいだろう。それに詳細を応えないことは、国民の理解を得られないリスクも高い。しかし、それ以上に、この組織の実態を晒して、そうせざるを得ない現実を理解してもらう方が、構造改革には近道だろう。身を切らせて骨を断つだ。

 本当の意味での学術会議に求められる社会的責任は重い。学問の自由などではなく、国家として行く末を誤らないための、多方面からの検討、検証の機関として、聖域なく追及してもらう必要がある。その機能が、この様な偏った反政府組織になっていては国家としてのリスクである。
 学術会議から遠い学者たちも加えた、本当の意味での組織体とする為には、大なたが必要だろうし、次の総選挙の争点でもあるだろう。

日本学術会議問題の論理検証

 学術会議問題に関しての検証

 内閣総理大臣による任命拒否に関して問題視をする報道が圧倒的に多いが、聞く側の国民は、感情的にならず冷静に事実関係を正確に検証する必要がある。

 まず、任命拒否の法的裏付けに関して。日本学術会議法によると、『日本学術会議が内閣府令で定めるところにより内閣総理大臣に推薦し、その推薦に基づいて内閣総理大臣が任命する。』とある。つまり、推薦に基づかない任命は出来ないが、推薦者を全て任命しなければいけないとは書いていない。大昔の中曽根総理の答弁が任命は形式的だと述べているかもしれないが、大昔であり時代は変遷しており、学術会議の活動自体も様変わりし、関連法も変遷している。何より。直近で推薦に基づいて全て任命する義務までは無い、という法制局の解釈文書も提示されている。従って、任命拒否に関して、なんら法的に問題は無い。
 逆に、ここまで明確な状態で、違法と言う人達は、法治主義を根底から覆す、自分の都合のいいことは合法で、政府を責める際は何でも違法と言う、あまりの稚拙さを露呈してしまう。

 次に、独立性の問題に関して。これも同様の日本学術会議法によると、『日本学術会議は、独立して〇〇の職務を行う。』とある。つまり、会議組織の独立性を担保するのではなく、職務の遂行に関して独立性が担保されていることになる。そして、会議自体に関しては、それよりも上位条項に『日本学術会議は、内閣総理大臣の所轄とする。』と明確に記されている。つまり、内閣総理大臣が所轄する組織の定められた任命権を行使することに、何の問題性も感じられない。

 ここまでの法的な位置付けに関して、実はよく練られた絶妙の民主主義的統制が効いていると感じるのは私だけだろうか。日本学術会議法に目的として記述されている『科学の向上発展を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする』を考えると、会議を組織する会員は、一定の民主的統制が必要だが、一般人の選挙では選定は困難なので内閣総理大臣の任命としつつ、行政府の恣意的な暴走を抑止するために、あくまで推薦を会議側から実施して、その中から任命する。つまり、内閣総理大臣には拒否権はあっても、人を指名することは出来ないのだ。

 学問の自由を侵害するという論は、あまりに論理が飛躍し過ぎていて説明の必要は無いだろう。間接的に忖度が起こって、学問の選択の幅が狭まるという遠い論理もあるが、学術会議会員に何らかの既得権益でもない限り、会員になることを目的とした忖度行動などあり得ないのではないだろうか。ここを、あまり強く言うと、裏においしい既得権益があると勘ぐってしまう。国庫負担の10億円を運営経費が6割締め、個々人の会員に特典がある訳ではないと強調されていたが、そんなことは問題でなく、経費であろうと国費を使っており、独立したいのなら本当に独立して民営化すればよい。その場合運営経費も勿論賄う必要がある。そういう表向きの経費ではなく、裏の既得権益構造がもしもあれば、それこそが問題視されるべきで、正当で客観的な職務遂行に妨げがあり得るのだ。

 さて、そうやって考えると任命拒否に関して唯一残る問題性は、『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点から判断した。』とする総理の判断基準の説明責任だろうか。しかし、これまでの考察を経た上で言わせて頂くと、任命拒否の説明責任の前に、推薦理由の説明責任の方が先だろう。推薦は、『優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補を選定し、内閣府の定めるところにより推薦する』とあるのだから、大勢候補者を選定した後に、推薦者を絞っているのであり、その絞り方に『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』が存在するかが焦点である。
 学術会議側は、女性活用などのバランスを強く言っているが、本当にバランスがいいのか。念のため名簿を確認してみた。
 今回任命されなかった6名は、法律学者、思想学者と人文系である。では他に、同じカテゴリの人文科学者がどういう構成で存在するのか。継続会員で同じカテゴリが8名に対して、新規会員が7人。もし、6人もそのまま任命していると、13人と多くなり、バランスが崩れ半数に絞ったと考えると辻褄は合わないだろうか。少なくともバランスが崩れているのは事実だ。
 そして、カテゴリ分類して分かったが、情報系の学者が、継続会員は10人規模で存在するのに、今回の新規会員には3人しか存在しない。デジタル推進を改革の目玉に掲げている状況であれば、通常の感覚であれば情報系の学者が今までよりも増員しても良いぐらいだが、現実は大幅減なのだ。
 これは、バランスを欠いた推薦と判断されても仕方がない。本来であれば趣旨に合わせた、情報系の会員の推薦を託したいところだが、そこまでは踏み込めないぎりぎりの任命拒否ではないだろうかとの仮説が成立する。そこまで議論を始めると、会議のあり様から見直す必要がありそうだ。

デジタル化の波

 デジタル化推進に政府が大きく舵を切った。
 積年の課題であるが、コロナ禍による影響で、少しは世間に必要性が訴求され追い風が吹いている今こそ唯一無二、絶好のチャンスであろう。

 この課題は、何十年も前から目指すべき電子政府という目標があったにもかかわらず、抵抗勢力の影響だろうか、遅々として進まなかった。ナショナルIDも複数回チャレンジしてきたが、政府が悪の化身であるかの様な言い方で、政権政府に情報を握られることで、悪用されるリスクを誇張し続け、一般人の不安を煽り続け、実現を遠ざけてきた。
 マイナンバーは、何度目のチャレンジであろうか、恐らく今回のチャレンジで浸透ができなければ、先進国で唯一ナショナルIDが運用されていない劣後国のレッテルが貼られるだろう。

 デジタル化の課題は、難しそうでありながら、実はグランドデザインとしては、至極簡単なのである。縦割り行政が問題視されているが、正直言って縦割り状態でのデジタル化は可能なのである。ただ一つ、横串を貫く、データ連携設計を基に、基本設計基盤に各所から接続するインタフェースの形さえ作り上げれば良い。無理に縦割りを連結して、個々のシステムの自由度を奪うのでは、様々な逆の弊害も出てくるのである。
 従って、デジタル庁のあるべき姿としては、機能としてはクラウド・データセンター機能に特化する形が理想的であると考えられる。そうであれば、各省庁などの個別特有な業務に適したアプリケーションの対応が可能になる。縦割りの良さを活かしながら、横串が刺さった一気通貫の仕組みが出来上がるのである。

 それでも、いまだ抵抗勢力は根強く存在する。

 抵抗勢力は、今後も無意味で非論理的かつヒステリックに不安を煽り続けるだろう。その最近の例で言うならば、ドコモ口座などの不正出金被害にかかわる報道だろう。伝え方として、便利を追求すると、セキュリティリスクが高くなると言い切っているが、これは根本的に間違っている。便利さと、セキュリティは両立を目指せるのであり、その障壁となるのはコストなのである。

 不正出金の件の問題は、やるべきセキュリティ対策を怠ったことが主要因であり、基本的な2要素認証や2段階認証による接続と本人確認を行えば、問題なかった。更に、その先には、マイナンバーカードの電子証明書を本人認証として利用する様になってくれば、更にセキュリティ性は向上する。つまり、利便性を保ったまま安全な運用が可能になるのである。

 技術の進歩を享受するには、その技術の使い方が重要なのである。使い方を誤れば技術は宝の持ち腐れになるが、使い方を間違わなければ、宝となり、宝が次の宝を生み出す効果も期待できる。しかし、使い方を間違わないためには、初期コストの投資が必要になる。不正出金の問題は、この初期投資を目先の利益のため、嫌がった結果に他ならないだろう。
 この初期コスト、投資は、新しい技術による便利さの享受と言う大きなリターンがあり、経済的にも確実に投資回収が出来るのである。

 もう一つ、大きな抵抗勢力の反論は個人情報漏洩のリスクであろう。しかし、危機感を煽る言い方に、個人情報が何たるものかと言う基本的な知識の欠落すら感じるのである。
 結論から言おう、デジタル化を推進し、マイナンバーカードの利活用を拡大することで、個人情報漏洩のリスクも間違いなく低減できるのである。

 マイナンバーカードを落としても顔写真や基本情報の漏洩はあっても、それ以上の機微情報などの漏洩のリスクは極めてゼロに近い。マイナンバーカードには必要以上の情報が入っていないし、使用も出来ないのだから当然だろう。しかし、マイナンバーカードの電子証明書利活用が拡大しなければ、アクセス先である各省庁に存在するデータの脆弱性は高まり、漏洩リスクが高くなるのである。などなど、実はデジタル化を推進すれば、必要なセキュリティ対策さえ実施してあれば、安全性が高まるのである。確かに、必要なセキュリティ対策の実施有無による、リスクの差はデジタルの場合大きくなるのは疑い様は無いが、適切なセキュリティ対策を運用すれば全て解決するのだ。

 縦割り組織の最大の良さは、情報が分散することで、漏洩リスクを最小化出来ること。縦割り組織の短所である、情報連携、効率的な横連携は、デジタル化基盤の構築で解決できる。そして、安倍政権時代に野党から攻撃を受ける最大のポイントであった文書管理の問題も、デジタル化でアーカイブすることで解消できるのである。

 コロナ禍がもたらした、千載一遇のチャンスを活かして、遅ればせながら先進国並み、いや一気に最先端のデジタル・トランスフォーメーションを反対勢力に臆することなく、全力で進めるべきである。