人権派の攻撃は対象の人権を蹂躙する

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。発言は撤回され謝罪をして、IOCも一旦、問題は終わったと幕引きを図ったが、人権派の攻撃は過激化し、世界的世論も背景に同調圧力も加わり、公開処刑、私刑にも似た状況になっている。

森会長の発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、この様な騒ぎに発展しうるリスクを軽視し、自身の責任ある立場による影響力も軽んじたと非難されても仕方が無く、本意でなかったとしても、決して許されるものとは思えない。だからこそ、撤回し謝罪したのだろう。

日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と国際社会に評価されてしまうマイナスは大きい。ジェンダー・ギャップ指数が121位と低迷しているが、その中でも政治分野が144位と最悪なのだ。しかし、この順位が実態を本当に反映しているのだろうか、真の問題が見えなくなっているのではないだろうか、疑問に思っている。

実際、性差別は今でもゼロではないだろう。そして、差別は性差別だけでなく他にも様々ある。人は等しく平等で、人権は守られるべきだが、何故か差別は発生する。それは自己を優等種、或いは正義とするが故にそれ以外を劣等種、悪とする、自己正当化の原理主義、排他的なエゴなのだ。

そうやって考えると、性差別自体は社会悪である事は間違いないが、同時に森会長をバッシングする事象も同様の排他的な社会現象ではないのだろうか。好き嫌いあろうとも一定のリスペクトは必要であり、今の現象は不快感を通り越して忌むべきと感じるのは私だけだろうか。謝罪会見でも、逆切れも悪いが、質問の仕方が余りに下劣なのも問題と感じる。

百歩譲って、絶対悪だとしても、弁護人もなく私刑の集中攻撃に処して良いのか。釈明の余地を与え、つまみ食いでなく全容を正確に把握し、敵対するのではなく一定の寛容性も持ち、発言に至った背景の問題性を冷静に提起し、解決策を前向きに議論すべきではないだろうか。

森会長より発言があった際に、異論を挟めない空気感も問題とされているが、逆に、今森会長擁護発言を発信出来ない空気感、同調圧力が世間で出来上がっている。発言した瞬間、女性の敵、人類の敵扱いで攻撃を受けるだろう。その空気感で、遺憾の意を表する発信も増えている。これでは、集団リンチといっても過言ではない。

野党は政府に会長に辞任を要請する様に国会で答弁している。しかし、政府に人事権は無い。人事権を有する学術会議の人事に対して攻撃しながら、人事権の無い組織への政府の人事介入を言う神経が理解できない。

何より、女性アスリートと今回の発言に何の繋がりもない。オリンピックの主役は言うまでもなくアスリートだ。アスリートファーストで考えるならば、大会直前に何かにつけて反対活動の大騒ぎをするのではなく、本当に前向きに開催に向け、応援するメンタリティが必要だ。裁くべきがあれば、後に裁けばよい。今は純粋にアスリートファーストであるべきではないか。今回の事象の被害者はアスリートである。加害者は、森会長含め日本社会だと糾弾したいのだろうが、糾弾する側もアスリートを無視した加害者になってしまっているのが残念でならない。

逆境であればあるほど、アスリートの為に、騒がず、前向きに立ち上がるべきなのだ。

<ジェンダー・ギャップの現実と課題>

少し話題を戻し、オリンピックではなくジェンダー・ギャップの問題について考えたい。

日本が最も劣っているという政治の世界を見る為、2019年に行われた参議院選挙、直近の国政選挙の数字を見てみる。全体では、当選者124人中、女性は28人、22.6%である。立候補者総数370人中、女性は104人で28.1%。その差は、5.5pであるが、これをどう評価するか。

<総務省選挙関連資料令和元年7月21日執行参議院議員通常選挙速報結果より集計>

この中で特筆すべきは、与党の女性候補者の当選確率が85%を上回っている事だ。与党から出馬すれば、ほぼ当選しているという事だ。逆に野党は20%を下回っているのだ。

この数字から結果としての男女平等に近づける為には、与党の女性候補を増やすことが有効だと分かる。しかし残念ながら、与党からの立候補者の女性比率が13%前後と低いことが課題だろう。野党は50%に近い候補を擁立していても、当選率が低く、ある意味泡沫候補で数を揃えても意味が無い事が示されている。

従って、本当に実力があり、モチベーションも高い女性候補者を少しでも多く育成していくことが最短にして最大の対策になるだろう。

大学までの教育環境で、それ程大きな性差別は数字としては無い。というより学部学科による志向の違いで発生する差はあるが、合格に対して基本的に男女差は無いはずだ。では、社会に出る際はどうだろう。基本的に雇用機会均等は進み、最近の定期採用者の女性数は激増しているはずだ。しかし、管理職候補生は、まだまだ圧倒的に男性の方が多いのが現実だろう。選考に当たってはインセンティブという名の逆差別が堂々と行われているが、それでも簡単に差は埋まっていない。ここに課題がある。

それは社会構造の課題もあるだろうが、女性自身の意識、モチベーション向上なども不可欠なのだ。そんなに簡単ではないだろうが。

臭いモノを力で封じ、正義を押し付ける、グローバル的感覚では問題は本質的に解決しない。分断を生み出し、亀裂を深めて、見えなくしているだけである。排他的な原理主義で形や数だけ合わせるのではなく、遠回りかもしれないが、本質的な意識改革が必要であり、それが可能なのは、寧ろ日本社会の方だろう。

巨大情報企業の情報規制が及ぼす問題性

世界的巨大企業であるGAFAが、世界中の情報に一定の統制力がある事は誰も疑わない。トランプ前大統領のアカウントが停止されたことも記憶に新しい。建前としては、民間企業として自社のポリシーに則った規制は何も問題ない。しかし、世界中の情報を統制管理する力を持ったメディアとして、社会的責任もあると考えるべきだろう。

今、新型コロナに関する情報発信には規制がかかっている。建前は、世界的危機事態なのでデマゴギー等の情報拡散による混乱を防止する為であり、Expertise(専門性)、Authoritativeness(権威性)、Trustworthiness(信頼性)を盾に検閲まがいの事も行われている。

確かに、特にネット上には疑わしい情報も多く、玉石混交の状態である事は間違いない。しかし、前述の検閲で適切な評価が行われているとは思えず、内容の判別すら恣意的ではないかと疑わしいのが実態である。

実際にあった話をしよう。

昨年8月末にKindle電子出版で拙著『ファクターXの正体』~新型コロナに関する書籍を発刊した際の話である。最初は取り扱いできないとの断りの回答が来た。その理由を問い合わせつつ再申請したが、公式の情報以外は取り扱えないとのことで2度目も却下だった。間違いなく、内容を読まずに審査していると感じたので、1次情報として政府発信の情報を利用、札幌医科大学にも連携したデータを活用し、統計的・科学的・論理的考察を行っていることを主張し、再々申請を行ったところ、ようやく承認されたのだ。

つまり、情報の内容ではなく、筆者が無名であり、医療関係者でもないが故にデマゴギー扱いされたのである。確かに他の専門家とは異なる説だろうが、一定の論理性はあると自負していたのだが。読んで頂き、疑いは晴れたのだが、異議申し立てしなければ封殺されていたのだ。そして、Googleアドセンス審査は未だにOKになっていないのだ。

<従来の専門性・権威性・信頼性の概念は通用しなくなっている>

情報の価値に、発信者が有名か否かは本質的に関係ない。専門家であろうとも考え方は十人十色であり異説があるのは当然、寧ろ専門家故の専門常識バイアスも散見されるのも現実だ。テレビで発信している専門家の危機的な憶測が何一つ実現していない事からも、専門家でも絶対正しい訳ではなく、発信情報は同様に玉石混交なのだ。ましてや、他の分野で有名なだけで規制の対象にはならない、情緒的で非科学的な情報発信も多いが、有名であるが故に影響力があるので、むしろ大問題なのだ。

今や、インターネットを探れば、貴重なオープンデータは誰でも取得できる。専門的な論文も、詳しくは読破出来なくても、サマリ程度なら素人でも読み込める。それに対する様々な反対意見も調べれば確認できる。まさに情報発信、議論の俎上に上がるハードルは圧倒的に下がっているのだ。それ故、素人でも本質を突いた情報発信もあるし、専門家でも権威性を前面に押し出しているだけの、非論理的な発信もあるのだ。専門家も人間であり、個人の思想信条をベースにした発信もあるのだから当然なのだ。

即ち、情報の玉石混交状態では、従来の専門性、権威性、信頼性は適切な評価基準ではなくなってきている。従来の基準に則った、情報の選別は、良識ある情報の封殺にも繋がり、悪質なデマゴギーをのさばらせる原因にもなってしまうので、改めるべきなのだ。

<多様化する玉石混交情報社会での日本の位置付け>

GAFAなどは、自分たちの基準をグローバルスタンダードであり正義と称するだろう。これは、実は自分達の価値基準内では寛容だが、それ以外を悪とする極めて排他的なものなのだ。これは、宗教的思考基盤によるので、一朝一夕には改められないのだ。

一般的には殆ど語られていないが、グローバルとは、文化的侵略の一面がある。グローバルの発信源は、聖書を軸とする契約ありき、唯一絶対神を持ち、白黒、明確に判別する文化背景にある。一方で、日本は多神教国家として正義と悪の区分すらアナログ的で、生前は悪でも死去後に善の神になる大転換すらある。日本の文化的背景、宗教的背景の違いは、実は日本人自身が認識しているよりも遥かに大きいのだ。

GAFAは言うまでもなく、グローバル企業であり、それらの判断基準はグローバル基準である。グローバルは、多様性に寛容であるべきと言いつつ、異論には極めて排他的なのだ。しかし、日本の文化、良さは、多くの神を受け入れる寛容性を持つほど、実は多様性に関しては、国際的に先頭を行くべき存在なのだ。遅れていると評価されるのは、グローバル基準からの評価であり、日本人の奥ゆかしさから反論をしないで受け入れてしまっている結果に過ぎない。

この情報侵略ともいえる状況に抗う為に、日本が大きな役割を担う必要がある。グローバル基準も柔軟に受け入れつつ、他のマイノリティも尊重し、融合していくのは、本来的に日本の得意技だからだ。

その為にも、日本人一人一人の情報リテラシーを高め、アンテナを高め、自身の思考による意見表明と、反対意見にも耳を傾け、丁寧な議論が出来る様になる事が重要である。方法論として、教育から見直す必要もあるかもしれないし、電波メディアのワンセンテンス発信に流されず、しっかりと活字を読む力も養成する必要がある。本当の意味で、『広く会議を興し万機公論に決すべし』、『和を以って貴しと爲し』、が必要になってきたのだ。

女性蔑視発言に対する世間の反応から見えてくる本質的な問題

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。謝罪はしたが、辞任する考えもなく、会見では更に火に油を注ぐ様な印象を与えたのではないだろうか。全力で五輪開催に向けて、後ろ向き意見を乗り越え、どうやったら出来るのか、前向きな知恵を結集し、ある意味イノベーションを起こす必要がある状況だと考えているが、誠に残念である。

この発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、決して許されるものとは思えない。日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と思われる大きなマイナスなのだから。

五輪問題は一旦置いておいて、本質的な問題である、ジェンダー・多様性に関する事を考えたい。

昼の番組での信州大学特任准教授の山口真由氏の意見が秀逸であった。それは、男女平等を訴えるばかりに、本音では反対意見を持ちながら、言い出せない雰囲気で封殺し、解決に必要な反対意見が聞こえてこない事が問題であると指摘。そして、海外などの状況も表面上は女性の社会進出が進んでいる様に見えるが、反対意識も根強く存在し、臭いものに蓋をしているだけなので、この様な本音の意見は実は貴重で排除すべきではないとの趣旨だった。

男性陣の発言は、時代の変化を認識するべきだとか、思っていても言うべきでないとかの意見が主だったのが対照的だ。それは、実は本音では男女平等に対して反論はあっても、時代が変わったので仕方がない、言わない、言えないと聞こえて来た。その様な状況で、女性からの本質的な問題提起は貴重である。表面上ではなく、本質的な問題に目を向けないと、本来的な解決は出来ないからだ。

実際に、ポストへの登用数はガイドライン等で数値目標が定められる傾向が強いが、本当は、男女区別せずに、適任者を登用するべきはずだ。適任者の男女比率が実際には等しくない事が本質的な問題であり、その状態で無理に女性から選任する事も同様に不平等であることは疑い様がない。結果の平等と機会の平等のどちらを選択するかなのである。

理想的には、機会の平等を担保し、現実に男女ほぼ同数の人材が育っていて、結果としても平等になることだろうが、現実はそんなに甘くない。

機会の平等を優先すれば、結果としては同数にならない可能性が高く、今現在であれば間違いなくそうなるだろう。それは、女性の社会参画に対するハードルもあるだろうが、それ以外にも個々人の意思、モチベーション、それに伴う経験値や能力の差は現実にあるだろう。

女性側にも厳しい競争環境を戦い抜き、自分を磨き、成長する強い意志と実行力が必要になるのだ。ある意味、女性には厳しい条件かもしれないが、これが本当の平等である。

結果の平等を優先すれば、新たな差別が生じるし、そのことを言及する意見を封殺する環境が出来上がっていく。だから、失言に対して問題の本質を正すのではなく、排他的で、ある意味差別的な攻撃が始まってしまう。

森会長の発言された組織運営幹部からすれば、ガイドラインに合わせ様とすると、現実は無理が生じ、能力のある男性人材が逆差別を受ける事になるという事だろう。そうならない為には、女性人材も、ほぼ同数揃う環境が必要なのだが、現実にはそうなっていないのに、結果だけ合わそうとすると無理が生じるのだ。環境が整っていない事を問題視するべきなのだ。

繰り返しになるが、森会長の発言、会見での発言は批判に値し、女性蔑視と取られても言い訳のしようが無く、決して許されるものではない。しかし、排他的な原理主義による結果平等を絶対正義と称して、本質的な問題を見ず、反対意見を吊し上げ、封殺する行為も決して許されるとは思えない。

この問題意識は、男女平等だけでなく人種差別なども同様であり、日本は、余程、機会平等が進んでいるが、結果平等までには至っていないジレンマを抱えている。逆に、欧米は結果平等を形の上で作り上げる事で分断が深刻化しているとも感じる。

本当の意味での多様性に寛容になる必要があるのだ。人は人の数だけ考えがあり、身体的にも得手不得手があり、個々に尊重されなければならない。個々の意見に問題性があるなら、目を逸らさず、膝を突き合わせて、理性的な議論が必要だ。そこには、必ず真の問題が隠れているからだ。

巷に広まる情報、世論調査などの違和感

国民の大多数が緊急事態宣言の発出が遅すぎ、もっと強力な対策が必要と考えているらしい。少なくとも世論調査ではそうなっている。一方で、緊急事態宣言が発出されても、人出はそれ程減ってないとメディアやテレビで発言して専門家は危機感を煽る。この現象が奇怪だと感じる人がどれだけ存在するだろうか。

緊急事態宣言が遅すぎ、対策が緩いと考えているのならば、発出された後は、もっと外出は減るのではないだろうか。行動変容しないという事は、必要性を感じていない証拠でもあり、矛盾するのである。

よく聞く話が、若者に届いていない、という事だが、若者に対する侮辱であり、本質的には筋が通らないのだ。世論調査は、若者も含んだ数字である。十把一絡げで若者を悪者にする事では説明が出来ないのだ。では、この矛盾を説明する理由は何だろう、仮説を下記に挙げてみる。

図は、縦軸に緊急事態宣言に関する考え方を示し、横軸に行動自制の必要性に関する考え方を示す。本来の矛盾ない姿は、左下から右上へ伸びる相関関係のあるゾーンにあるはずだ。しかし、現実は左上のゾーンに当たり、矛盾がある事を示している。これは、左下のゾーンにありながら、世論調査の回答を同調圧力で偽り、外向き発言を行っているか、右上のゾーンから自分だけは良いというエゴなのか、どちらかしかない。

■本音は緊急事態対応の必要はないと考えているが、同調圧力で外向き発言を行っている。

■自分は自由に行動して問題ないが、他人が抑制して感染を抑えて欲しいと考えている

後者の様な、エゴの塊とも思える心理は、日本では多数派とは考えたくない。もし、多数派であれば、罰則付きの強制力が必要不可欠になる論理の正当性が生じる。

やはり、普通に考えて、前者の可能性が高いのではないだろうか。であるならば、この同調圧力を生み出す元凶、メディアの政府攻撃、偏向煽り報道が諸悪の根源として、実態を隠しているのだ。

医療業界は風上に立っている場合ではない

首相が国会で検査が必要な時に対応出来ず自宅療養の際に不幸に至ってしまったとして陳謝した。責任者としては潔いし、反省を次の対策にフィードバックする姿勢が評価できる。しかし、医師会や医療従事者は、政府を攻撃し、国民に自制を促すだけで反省と改善の弁が聞こえてこない。当事者なのに、おかしいのではないのか。

新型コロナの症状の急変は、急な悪化ではなく、自覚症状のないステルス性の悪化現象である事は、昨年春には明らかになっている。その対策として、パルスオキシメーターによるトレーサビリティや、尿検査でも血中酸素濃度の変化を早期検出する方法論が研究されていた。しかも、冬には感染拡大し、自宅療養が増えることも想定出来ていたはず。地域密着の医療体制を誇る日本の強みが活かせる場面なのだ。かかりつけ医、地域の民間病院、クリニックがメッシュの細かい地域一体化したサービスを供給する準備を夏秋に進めていなかったのは業界の問題ではないのか。保健所の責任も否定はしないが、民間も含めた地域医療を支える業界、地域医療を統括する立場の医師会の責任も大きいのは自明である。少なくとも、風上に立って、政府を批判する立場にはない筈だ。

実際に大阪では、専用病院を立ち上げたが、人材不足で自衛隊の出動まで依頼していた。政府や自治体が手を打とうとも、医療業界が非協力的だった現れである。

医者を聖職と言うべきか、言わないべきか。先生と呼ばれる立場は、兎角勘違いし易く、世間との意識乖離が起き易い。私は、医療は重要な仕事であり、社会に不可欠なエッセンシャルワークの一つである事は間違いないと思っている。しかし、他のエッセンシャルワークと何も違わないとも思っている。職業であり、特権階級でもなく、医師も人間であり、医院も経営上の課題を抱える立場に何ら変わらないと考えている。市場変化や、市場の要求、ステークホルダーへの対応と説明責任など、他の業界と何も変わらないはずだと思っている。

そして、日本の医療は世界に誇れるハイレベルのサービス提供体制を確立しているとも思っている。ならば、諸外国と比較して桁違いに少ない感染状況、例年のインフルエンザと同等レベルの感染拡大で、医療壊滅は起き様が無いと確信している。もし、本当に医療壊滅であるならば、その事態を招いた業界の脆弱性を反省し、サービス需要者である国民に謝罪する立場ではないのか。それが他の一般的な業界の行動パターンのはずだ。

医療従事者が不足しているというが、絶対数では決して諸外国に引けを取らない。リスクがある、経営が行き詰まるなどの理由も、飲食店には危機的状況の時短や休業を要請しておきながら、医院は経営の為に対応を拒否するのか。

諸外国と比較して不足しているのは、有事のボランティアの参加や柔軟な対応強化の為の権益打破としての介護師などの入院患者への対応などだろうが、いくらでも方法はある。経営の問題であれば、政府の財政出動を促せばよいだけだ。その代わり、自らの既得権益は剥奪され、聖域扱いは撤廃、ある意味国や自治体の指揮命令下に入るべきだ。

危機事態には既得権益による自己防衛は邪魔になり、撤去する事がスムーズに行かなければ、強制力も必要かもしれない。

また、地域の病院では、コロナ感染を警戒して、受診者が減少している事で経営難に陥っていると報じられている。しかし、それで来院しない患者は、不要不急の患者ではないのか。笑い話で、病院の待合室での井戸端会議に常連さんが来ていない事で、病気にでもなったのではないかと心配する話がある。であれば、今の不要不急を控えた来院数が経営の基本として、スリム化が求められるのではないのだろうか。

実際に、コロナ感染拡大後の超過死亡数など日本での死者数は減少している。つまり、不要不急の受診を控える事で、国民の健康に寄与しているとも考えられるのだ。

聖職でないとの仮定で話を続ければ、顧客である患者の変化、新型コロナの感情増と一般患者の受診控えは市場変化であり、その市場変化に対応した経営改革を断行する事が業界としての使命になる。

もしも、聖職だとの仮定に立脚するのなら、上から目線で国民に自粛を促すのではなく、聖職者たるものとして、有事において政府を批判せず一心同体の協力体制の元、結果としての医療サービス維持を目指すべきではないのか。命を守る崇高な使命の為に。

不織布マスク警察は科学を冒涜している

春はマスク警察、年が変わり今は不織布マスク警察。困ったものだ。

メディアが伝えるスーパーコンピュータ富岳のシミュレーションは、マスクの素材によるフィルター性能を強調している。しかし、フィルター性能と感染抑止の効果とは別の話である。その理由は複数存在するが、その事を理解する為に、感染のメカニズム、感染者からの飛沫を介して発生するという事を確認する必要がある。

飛沫が無ければ感染は起こらない

感染は、感染者から出されるウイルスが混じった飛沫が吐き出されることから始まる。排泄物からの発散を例外とすれば、呼吸器系から吐き出される飛沫が無ければ感染は起きない。飛沫を直接浴びる『飛沫感染』、飛沫が付着した物体を触る事で起きる『接触感染』、飛沫が微粒子化し空気中を漂うことで起こる『エアロゾル感染』。全ての元凶が飛沫なのである。

ということは、飛沫量の多少が感染リスクに直接影響する。飛沫量は常識レベルで考えると、最も飛沫量が多く、飛散距離も長いのが『咳、くしゃみ』であり、その次が『大声』、次に『普通の会話』、最少が『呼吸』ではないだろうか。分かり易く経験則から数値化すると、『呼吸』を1とすると、『普通の会話』が2、『大声』が5、『咳、くしゃみ』が10として良いだろう。

マスクは、この口から発する飛沫を物理的に遮ることで、飛沫飛散量を抑える効果がある。例えば、マスクを透過する飛沫量を50%抑制するフィルター性能があったとすると、咳・クシャミの10が5に減少し、70%抑制なら飛沫は3に減少する事を示す。これが直接、感染リスク低減に繋がる。

但し、飛沫は透過して発散されるもの以外に、漏れ出す飛沫も存在する。従って、感染リスクを伴う飛沫は、マスクを透過するものと隙間から漏れ出すものの総和であるはずだ。ここで考えて欲しい、フィルター性能が高いと、透過しようとするエネルギーは、はじき返され、隙間に漏れ出す方に向かう。つまり、フィルター性能が高い方が漏れ出す量が増えるのが物理の原則である。結果、飛沫飛散量の実際は、布でもウレタンでも不織布でも大差ないというのが現実なのだ。

マスクの着用状態で飛沫の漏れは大きく違ってくる

不織布マスクを、隙間なく着用すれば良いという意見もあるかもしれない。しかし、それは現実的ではないのだ。今、ほぼ1日中のマスク着用が必要になっているが、さて漏れ出さない着用状態でどれだけの時間継続が可能だろうか。メガネの曇りを考えれば明確だろう。飛沫は漏れているのである。

それでも概ね50%近くの飛沫を抑えることで感染リスクを低減するのがマスクである。マスクには、ワクチンと同等程度の効果があると言っている専門家がいたが、それはこのことによるのだ。しかも、どれだけウイルスが変異しようとも効果は同等なのである。

それでも、不織布以外はダメだと頑なな人には、是非N95マスクをお勧めする。我が家では東日本大震災以来、常備しているが、はっきり言って長時間装用は不可能だ。その事がはっきりわかるので使ってみれば良い。そうすれば、フィルター性能が高く、漏れない装着をしたら、息が出来ない事が理解してもらえるだろうし、長時間、息が出来るという事は、漏れている証明だと分かるはずだ。

マスクの被感染リスク低減への効果は限定的

マスク着用で、飛沫を抑え、他人に感染させるリスクは間違いなく減少できる。しかし、自分が感染しない防御には効果が薄いのだ。

飛沫を浴びても、マスクが物理的障壁にはなる。その時点では感染抑止になる。だが、一旦飛沫感染は抑止しても、その場合マスクにウイルスが付着しており、その後の接触感染のリスクが高まり、更に時間をかけてフィルター越しに息を吸うことで、付着しているウイルスも吸い込むリスクがある。

1日中、マスクを着用するニューノーマルの生活において、マスク表面を触らない事は、事実上困難と言っても過言ではない。それよりも、小まめな手洗い、うがい、洗顔の方が余程効果が高いだろう。出来ないルールは、寧ろ効果を落とす結果を招くのである。

本当に危険な非科学的思い込み

さて、ここまでの事を整理すると、マスク着用はワクチン並みの感染拡大防止の効果がある事は間違いない。しかし、現実的でないルールや非科学的な押し付けは、寧ろ効果を低下させてしまうリスクがある。

そして賢明な方はお気付きだろう。感染リスクのある飛沫飛散量を抑える、最大の方法は、咳・クシャミをする人が出歩かないことだ。無症状者も感染させるリスクがあるのは、新型コロナ感染症の特性だろうが、咳・くしゃみをする有症状者の方がハイリスクなのは当たり前なのである。

検査で偽陰性判定を受け、誤った安心をして、症状があるのに、市中に出歩く事も、非科学的思考、論理思考の欠落で発生する思い込みで起こり得る。この現象が、最も危険なのである。

アメリカ大統領選挙の結果は、世界の民主主義に大きな変容をもたらす

バイデン大統領が正式に就任し、融和を取り戻し、結束に向かうかの様に言われることも多いが、事はそんな生易しいものではない。分断は、トランプ大統領が産み出したものではなく、分断があったから誕生した大統領であり、この4年間は分断を見える様にしただけなのだ。即ち、大統領が交代したからといって融和は起きない、分断したままだ。もし、見た目に融和した様に見えるのなら、それは反対勢力を制覇し抑え込んだに過ぎないので、寧ろ分断したままの方が健全なのである

今回、交代劇が混迷したのは、コロナ禍の大統領選挙で郵便投票が大幅に採用され、不正が疑われたからだ。確かに、セキュリティ管理の立場から言わせて頂くと、今回の郵便投票は制度としては穴だらけで、不正は簡単に行えるだろうし、日本ではこの様式で公正な選挙は決して行えない。それでも、例え不正が発覚しなかっただけかもしれないが、制度として選択し、実行した結果なので、結果は覆らないのは当然の事だ。

しかし、郵便投票の結果が世界の民主主義に与える影響は、不正云々関係なく、圧倒的な投票率アップの手法が示されたという事だ。それは、埋もれている票を掘り起こせば簡単に結果を覆せるという現実を示したのであり、選挙の戦略に少なからぬ影響をもたらした。この事は、民主主義の根底すらを覆しかねないのだ。

全員参加選挙の時代の序章

世の中は、サイレントマジョリティという物言わぬ大多数で大部分が構成されている。しかしサイレントなので、世論調査などではカウントされるが、能動的意思表明が必要な選挙ではこれまで大きな票とはならなかった。あくまで、意思を持ったボーカルマイノリティ、少数の意見が選挙の結果に大きな影響を有していた。勿論、浮動層の取り込みも重要ではあったが、大勢は固定票で勝負がついていた。

構造的には、ボーカルマイノリティが、サイレンとマジョリティも含めた世論などの意見を汲み取って、見かけの多数派を形成して決定していく。それはそれで、賢明な思考による民主的思考なので機能はしていた。しかし、サイレントマジョリティの票が直接1票として同等に選挙に活きる様になれば状況は一変する。それこそ、全員参加の選挙に限りなく近づいていくのだ。それが郵便投票、或いはWeb投票という形でもたらされることを世界中に知らしめた。

このことは、表向きは決して悪いことではない。しかし、世の中そんなに簡単ではない。深い思考なく、思いつきや感情的な判断による1票が増えてしまうのも事実で、民主主義が故に好ましからぬ選択をせざるを得ない事態に陥るリスクが増える。そして何より、この層を掌握し、票として固める事が、政治の優先事項となり、最強の策になってしまう。これは民主主義どころか独裁への道なのである。

世界は大きく選挙制度改革に動く

今回の郵便投票は、コロナ禍という事情により実施されたが、投票率を大幅に押し上げた効果を前面に、アフターコロナでも採用される可能性が高い。そして、その延長線上には、Web投票があり、限りなく全員投票に近づく票が動き始める。

そうなれば、私の観測では、リベラル層が圧倒的に優位になるのではないだろうか。保守層は、それが見えていて選挙制度改革に後ろ向きになるかもしれないが、どこまで抗えるのだろうか、疑問だ。

保守であろうともリベラルであろうとも、それが多数の意見となれば、民主主義のルールとして従うのが当然だ。それが賢明な思考による選択であれば良いが、そうでなければ、不幸な選択となってしまう。そうならない様に、後悔しない様に、する為には、民主主義国家の国民が今まで以上に大きな責任を負う覚悟が必要になる。

封建社会から近代国家を目指す明治維新において、福沢諭吉先生は、『学問のススメ』で、近代的民主国家に成長する為に、国民に学問を勧め、一人一人が考える力を身に着ける事を促した。

今、時代は大きく変動し、全員参加型の民主主義に限りなく近づいていくだろう。その環境下で、国民が民主主義における本当の意味での責任を果たし、後悔しない為には、刹那的・感情的な思考を控え、科学的・論理的思考を1人でも多くの国民が心がける必要がある。現代版の『学問のススメ』が求められるのだ。

事業継続計画(BCP)の対応を怠っていた医療福祉業界の実態

東日本大震災などの大規模自然災害を受け事業継続計画(BCP)の必要性が再認識された。特に日本は欧米先進国と比較して、このBCP、更にはマネジメントにまで発展させたBCMの取り組みが東日本大震災当時は遅れていて、対応が後手後手となりサプライチェーンなど様々な脆弱性が露呈した。

多くの方は記憶にあるだろうが、震災直後、製紙工場の被災により新聞のページ数が減少し、石油化学コンビナートの被災により、カラー刷りが無くなった。私自身、何の因果か、その時は調達部門の責任者だったため、全国の工場に対して生産材料の欠乏無き様、統制管理を実施、東奔西走の毎日で事業継続の必要性を肌で感じている。また、その直後タイの洪水により、ハイテク部材の日本への供給が逼迫する状況が発生した時も同様だった。

これらの事案は、日本企業の経営課題として事業継続の重要性を突き付け、2重調達や従業員が通勤できない状態の対応策等、各社相応の企業努力を実行している。その想定事案として、基本は大規模震災であったが、パンデミックも想定すべきとの議論も盛んに行われていた。今回、急な在宅勤務によるリモート対応などの対応がスムーズにできた企業は、これらの対策が出来ていたからだ。

企業の経営課題は即ち日本としての国家課題でもあり、政府としても国土強靭化を目的として、平成28年にガイドラインを制定し、『レジリエンス認証』という認証制度を創設している。次に示す表は、内閣官房国土強靭化推進室が公表している、認証取得の業界別の団体数である。

この認証制度は2年更新であり、年3回の更新機会を設けているので、過去6回分の審査における新規と更新の団体数が全認証団体数となり、現在207団体認定取得している。その全体の半分以上が製造業と建設業で占めているのが表から分かる。確かに、サプライチェーンという課題に対して直接向き合う必要性から頷ける数字だが、それとは別に、目を疑うのが医療福祉分野の認定取得がたったの7団体、認証全体の3.4%に留まっていることだ。

本来、医療福祉業の事業継続は国民の生命・健康に関わる為、優先順位は高い筈なのだ。実際に、内閣官房国土強靭化推進室として、事業継続シンポジウムと銘打って、全国キャラバン方式で『医療・福祉分野の事業継続』を開催し拡大強化を目指している。そこまでやっても、賛同し認証取得に至っている医療福祉の団体が、たったの7団体なのだ。

認証取得が全てではない。認証取得してもISOの様に、形だけで運用が形骸化してしまう問題点も指摘されている。認証取得しなくても、運用さえ確実に行えば問題ない。しかし、今回のパンデミックに対する医療業界の対応を見ている限り、そもそも事業継続に関心すらなかった、自分事としては考えていなかった、内閣官房から言われても馬耳東風だった、と言わざるを得ないのだ。何故なら、ガイドラインを少しでも認識していたら対応は変わっていたと思えるのである。では、簡単にガイドラインを確認しておきたい。

まず目的に記載されている文言からいくつか抜粋する。

『大規模自然災害等への備えを最悪の事態を念頭に置きつつ、平時から様々な政策分野での取組を通じ、いわば「国家百年の国づくり」として行う』

『いかなる事態が発生しても機能不全に陥らない経済社会システムを確保しておく』

国や地方公共団体のみならず、経済社会活動の担い手である民間事業者の普段からの取組・活動が極めて重要となる』

『民間事業者の行う国土強靱化のための努力には、自己の事業継続に関するものと社会貢献としてのものとが考えられる』

次に具体的な基準だが、大きく2項目あり、『事業継続関係』と『社会貢献関係』から成立しており、前者は自助、後者は共助として定義されている。

『事業継続関係』には、簡単に言うと、方針の策定、分析・検討、対策の検討・決定、計画の策定、見直し改善の仕組み、事前対策の実施、定期的教育訓練、経験者・知見者の担当、法令順守と詳細項目が定義されている。

『社会貢献関係』には、社会貢献の定義、社会貢献実績、従業員の社会貢献支援と実績、他の社会貢献実施と定義されている。

どうだろう、医療業界がこの活動に積極的に関わっていれば、現在の医療崩壊はあり得なかったのではないだろうか。その様な活動を政府は目指していたのである。そして欧米先進諸国は、日本よりはるかに事業継続計画に関しては民間にも浸透していることが、あれだけ感染拡大してパニック状態でも医療崩壊にはなっていない一因でもあるのだ。

日本は政府の指導力が弱いとメディアは言いそうだが、それは筋が違う。あくまで、自らの意識向上による優先順位の高い経営課題と認識し、自助・共助を明確に意識した地に足の着いた活動を平時から行う必要があり、業界団体として横連携も含めた強化活動が不可欠なのだ。

中井学、飛ぶ鳥跡を濁してのUUUM退所に物申す

UUUMゴルフは私も楽しく視聴させて頂いているYouTubeメディアである。看板娘のなみきちゃんの100切挑戦、としみんの白ティーから70台挑戦、こころちゃんのミッドアマ挑戦、進藤大典プロキャディとなみきちゃんペアによるスクランブル競技挑戦、プロバド、各種レッスンなどなど、豊富な企画がウリだ。

そのUUUMゴルフと立ち上げ時期から3年間契約していた中井学プロが、昨年末契約を継続せず、独自のチャンネルを立ち上げた。円満退所、ではなく、3年間の不満を曝露した動画を投稿したのだ。その内容に対して、UUUMゴルフ側は事実と反するとして、法的措置も検討すると発表した。

新たな中井学チャンネルには驚異的な登録者(13日時点で15万人超)が集まっているとのことだ。しかし、ゴルフを愛する立場から、そして、危機管理経営の観点から言わせてもらうと、中井学プロは、早急にUUUMゴルフに対して謝罪し、謝罪動画を投稿して円満に和解するべきだ。争って得られるものは感情面以外に何もなく、失うリスクは計り知れない。

逆に、UUUMゴルフの立場から言うと、この言われ様には黙っている訳にはいかないだろう。明らかな損害が生じるだろうからだ。実際、既に何万という登録減が発生している様だ。

では、正しい認識の為にも、中井学プロの言い分を動画からの情報で客観的に検証してみよう。

<退所を決断した理由>

  • 本当に苦しい3年間だった、苦しみの方が勝ってしまった
  • やりたい仕事が出来ない、やりたいレッスンが出来ない
  • ゴルフの楽しさを伝えて、ゴルフに恩返しがしたいが、理想から離れていく

ゼロからの立ち上げに賛同して、協力した立場としての苦悩が推し量れる。創業から軌道に乗っていく過程でありがちなビジョンや方向性の乖離なのだろう。この内容だけなら、新たなステージに向けて双方とも理解し合って、リスペクトした状態での独立はあり得る。

<3年間の契約内容>

  • 契約は専属マネジメント契約であった
  • 対価の条件は固定給でインセンティブはなし

事実関係は、これだけだ。従って、チャンネル立ち上げのリスクを中井学は被らないが、逆にどれだけ成果が上がろうとも、その成果はUUUM側にあるという、ありがちな契約であり、文句の付け様は無い。途中、契約内容変更の話し合いはあった様だが、結論としてこの契約を更新している限り、固定給以外にインセンティブが無いのは当然である。

<契約変更の協議とその心情的背景>

  • 2年弱で赤字は解消したが、中井学はその事実を知らされなかった
  1. リスクのない固定給契約相手に知らせる義務は無いので問題は無い
  2. 累積損失解消しこれから収益拡大基盤に乗せる時期に、黒字化したから即インセンティブをよこせと言うのは虫が良すぎる
  • 頑張った事を認めてもらえなかった、ありがとうの感謝もない
  • お金の面は我慢していた、言い出せない空気感があった
  1. 極めて感情的で、真偽の程は定かではなく、立証も困難?
  • イベントなどの仕事の依頼は3年間で数件のみ
  1. このことで何が言いたいかは不明だが、動画制作の仕事は多数ある
  • マネージャーは付いていなかった
  1. 専属マネジメント契約だからと言って、必ずマネージャーが付いている必要性は無いはず
  2. 赤字立上げ、固定給で了解し契約していることからも了解の上に思える
  • 個人のスポンサー契約の一部もUUUMに共有を要求された
  • アドセンス、案件動画の収入は受け取らない条件で折り合う
  1. 専属マネジメント契約とは、事務所に所属した芸人の芸能活動を支援する一方、権利等の帰属を事務所側が持つ事が多いので、個人のスポンサー契約と言い切れるかどうかは協議が必要
  2. 対価は個々の交渉事項であり、固定給のみの契約もあり得る。
  3. どちらにしても、契約締結時点で双方了解している事項のはず
  • 3年間収入減、UUUMを敵対視するメディアが多く他の仕事が減少
  1. 事実としても、UUUM側に責がある事項ではない

まとめ

総論として、契約事項に関して、様々な協議はあったかもしれないが、少なくとも3年間に関しては、双方合意の契約として締結されているので、契約不履行などの問題性は感じられない。

勿論、今後の契約条件で合意できず、契約できない事はあり得るが、それは過去の契約に遡らない。従って、契約が合意に至らず、円満退所、というのは通常の話なのだ。

中井学プロは、UUUMとの契約前から知名なレッスンプロである。しかし、少なからずこの3年間、UUUMの中井学プロというブランドは確立されている。合意に至らずとも、静かに独立すれば、良かっただけなのに、周囲には賢明なアドバイスをする人間がいなかったのだろうか?残念である。

よくある専属マネジメント契約でのトラブルは、契約破棄後の権利の帰属に関する事が多い。契約時のブランドである芸名の使用禁止などである。しかし、今回その様な訴えはUUUM側から聞こえてきていない。中井学プロさえ、あんな告発をしなければ、少なくとも表面上は円満であり、双方に損害は生じなかったはずだ。

しかし、実際にUUUMは登録数が減少し、損害を被ってしまった。偽計業務妨害として訴える事も可能に思える。係争になって、どちらが勝つかまでは不明だが、争えば、間違いなく双方に悪印象、ダメージが残ることになる。そう、裁判の勝敗に関わらず、中井学ブランドもUUUMブランドも毀損する、いや、既にあの動画で一定の毀損はしているのだ。

ここに至っては、まずは、中井学プロからの謝罪が望ましいだろ。その上で、スポット契約でなみきちゃんの100切企画を継続し最後までやり遂げれば、双方のブランド力も回復するのではないだろうか。1ファンとしてなみきちゃんの100切は見てみたく、期待して止まない。

緊急事態宣言から1週間、反政府一辺倒では危機は乗り越えられない

新型コロナ感染拡大の危機事態に医療、メディアは反政府活動を強めている様にしか見えない。これでは、危機は乗り越えられない。

危機管理の基本は、発生している危機事態を正確に把握し、刻一刻と変化している状態に対して、適切な対応策を次々とタイムリーに打っていくことだ。誰が言い始めたか巷で言われる、最初に最大の策を実行するというのは愚策であり大きな勘違いなのだ。極論を言えば、巨大隕石の地球衝突に備えないし、ガミラス船団の襲来に備えて宇宙戦艦ヤマト建造もしない。あくまで、実際に発生している危機事態に対して対応するのが危機管理だ。

一方で、リスク管理は、平時から発生しうるリスクを大小、確率の高い低い、様々に想定し、どこまでそのリスクに対応するか事前に低減策を講じ、発生した場合の対策を計画する。リスクは一般的に、発生確率と発生時のダメージの大きさの積で評価されるので、ガミラス船団襲来の確率は限りなくゼロに近いので、平時に莫大な費用を伴うリスク対応策は実行しない。それは即ち、万が一発生した場合は、絶滅や征服など最悪のシナリオも受容するという判断なのだ。

政府の新型コロナに対するリスク管理は、外部から想定する範囲では、欧米諸国の水準は想定外として、例年のインフルエンザ関連死をMAXとする想定で描かれている様に思える。意識しているかは別にして、ステージ4の数値設定自体がこの水準を前提にしている。感染者数自体はインフルエンザより低く設定し、最悪の死者数を年間1万人以下に抑える計画であれば、感染者数抑制も重要だが、病床占有率は更に重要なのだ。

モノづくり品質保証の基本は『発生源対策』と『流出防止対策』である。前者は、品質を安定させコスト効果も高いが、後者が伴わなければ市場品質を保証できない。感染症でも同様に後者の医療対策が最重要なのだ。つまり、病床占有率の分母の病床確保数を増やす事が絶対必要なのだが、春からこの対策で聞こえてきたのは、大阪コロナ重症センターぐらいではないだろうか。そのセンターですら、人的資源が集まらず苦労しているのである。これは、政府の責任なのだろうか。

世界に胸を張れる医療体制を誇る日本だが、平時のポリシーは皆保険制度と地域医療に根差したきめ細かなサービスの拡充だ。その為に、中小の開業医やクリニックを充実させ、人材資源が集中している。しかし、感染症有事には中小開業医・クリニックに資源が集中していることが仇になっている。本当は、緊急事態において、この中小クリニックの人的資源を大胆に再配置すれば医療崩壊など発生しない。少なくとも、自宅療養者に対するケアを、この豊富な資源で対応するべきだが全く進む気配すら見えない。

飲食店の時短、休業要請に強制力を持たすのなら、開業医やクリニックの半分を休業や時短して、それで浮かした人的資源を活用すれば良い。街を見渡して欲しい、数多くの医院・クリニックが存在するのだから、一時的なかかりつけ医体制のカバーは可能だろう。この策は、医師会がリーダーシップを発揮すれば出来るはずだ。医師会の構成会員は、大病院よりも、中小開業医・クリニックの会員で多数を占めるのだから。

しかし医師会は、医療資源の再配置に消極的だ。日本医師会長は昨年の選挙で政府に物申すと公約して、政府寄りの前任を破って当選した。東京都医師会長の支持を受けた結果だが、次期会長ポスト禅譲の密約が噂される程なので、同様に政府に協力的とは思えない。

誤解されない様に言うが、新型コロナに対応している医療の現場は本当に厳しい状態で、日夜奮闘して頂いている。だからこそ、その現場に必要な資源を投下するのが、リーダーの務めなのだ。ところが、電波に乗って発信されるのは、人材資源の再配置は不可能、医療崩壊から医療壊滅と、命のトリアージが必要になってくると。ある意味、国民の命を出しに強迫めいて聞こえるのは私だけだろうか。

弁護士の八代英輝さんが、日弁連会長の例を挙げて、組織のトップの発言が、その組織の総意を示さない事が多いと語っていた。同様の事を、北村晴男弁護士も以前語っていた。最近の医師会長、TVで発言する医療専門家も医療従事者の総意を語っているとは限らない。

政治家の会食など非難しなくても良い。実際、私は、平時に一晩5人と会食しているのなら、今は10人以上と会食して、情報をより豊富に得て、政策決断に活かして欲しいとすら思う。会議で得られる情報とは種類の異なる本音の情報は絶対必要なのだ。何より、その様な非難の前に、使命を果たす事に全力を尽くすべきではないのか。

危機事態において、政府のメッセージ力が足りないと云うのであれば、それはメディアが補うべきだ。どんなに強く正しいメッセージも、朝から晩まで否定され続ければ、メディアの露出の方が圧倒的に多く、メッセージ性は弱まるのは当たり前だ。有事には、緊急事態に沿った、一致協力の情報発信が国家のためなのだ。政権の監視、政府への提言が使命というのなら、収束後に総括し糾弾すれば良い。今は、危機事態なのだから、考え直すべきだろう。

政府と医療、メディアが反目する状態。危機事態では絶対にあってはいけない状態なのだ。これは、日本が危機事態に対応する国力が無いと海外に露呈してしまう。即ち、国益に反するのだ。いや、この反目した状態が継続できるという事が、本当の危機事態ではない証左なのかもしれない。海外からは、その様に見えても不思議ではないだろう。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。