勘違いするな日大、教育現場は治外法権ではない

日大アメフト部の大麻疑惑に関して、日大側は個人の犯行との結論に至ったとの報道があった後に、他の部員の関与の疑いとして2度目の家宅捜査が行われた。

危機管理を学問として教える日大が危機管理の基本中の基本を逸脱する失態である。

危機管理とは発生した危機に対して、その波及範囲を最大限カバーして対処する事がまずは求められる。今回の事案でいうならば、大麻・覚せい剤に関わる違法行為の疑惑があり、しかも当初から個人の犯行でなく日大寮内の複数名が関与しているとの疑いはあった。つまり、波及範囲としては関与した全ての個人が特定されなければならない。

この範囲を出来るだけ狭く特定したいのは人情であり、関与していない無実の人への濡れ衣を晴らすべきなのだが、この特定は口で言うほど簡単では無く、絞り込みは容易でない。その場合は、最低限でも寮内全部、いや最悪の場合学内全部を対象として危機対応するのが危機管理の定石である。一旦特定した波及範囲が後に拡大してしまうのは最悪なのだから。

コロナ渦の対応で世のメディアが、危機管理とリスク管理の違いも理解できずに、リスク管理事項に前述の危機管理の定石を当てはめて喧伝するという誤りを後押ししたのは実は日大の危機管理専門家だと筆者は認識しているが、当の日大が実際の危機管理事態に対して、基本を無視したと言わざるを得ないのだ。

繰り返すが、日大は危機事態を一人の犯行と最小範囲に特定したが、実はまだ複数名の関与が疑われる状態であり、特定範囲が広がってしまっているのであり、この状態は日大として今後、何を発言しても信頼できない隠蔽体質と断ずるに足る事態なのだ。信頼を取り戻すには相当な努力と反省を元にした改革が必要だろうが、現時点でその様な様子は感じられない。少なくとも危険タックル事件の反省は無く対策は出来ていないという評価が一般的な感覚ではないだろうか。

<教育現場の治外法権意識の顕在化>

学校組織環境には危機管理の基本よりも上位の概念があるがゆえ、こうなってしまったと考えるべきではないだろうか。その真因を推察し考察したい。

まずは先日の記者会見で抱いた違和感を述べたい。この違和感は教育界全般に横たわるものだと、筆者自身の過去の経験からも感じるものなのである。

違和感の正体は、必ず出てくる「教育的見地から」「教育現場であるがゆえ」というニュアンスで教育業界側から語られることにある。

筆者には、危機管理の要諦どころか、あたかも法的概念よりも上位に教育的概念が位置するかのような物言いに感じ、教育現場が治外法権にあるかのように勘違いしているのではないかと疑うのである。

結論から言うと、違法行為に関して、教育現場であろうと、他の社会であろうとも考え方に違いはない。教育現場だから、教育的視点を入れて、学生の将来を考慮して、学業を優先した対応をするなどというのは許されず、法的に粛々と、そして厳しく対処するべきと考えるべきものなのだ。

自首を促すのは良いとしても、犯人隠匿・証拠隠滅と疑われるような行動はそれ自体に違法性の疑いが生じるため、厳に慎むべきであり、警察捜査に委ねるのが国民としての責務である。ところが、なぜか教育現場であり生徒が対象となった瞬間に、教育者は法の概念を上回る偽善の皮をかぶった独裁者と化したかのような勘違いをして、違法行為や犯人隠匿、隠蔽を正当化しようとする。

今回の件も、個人の犯行で他に関与者がいないと決めるのは、学校側、教育者ではなく、警察であり検察なのだ。そして罰するべきかどうかは司法の役割である。犯行が行われたのが教育現場であるならば学校側は警察捜査に協力するのが当たり前で、知り得たことはつつみ隠さず速やかに報告するのが当然であり、これを放置するのは警察権力にあらがっていると言われても仕方がないだろう。

教育現場は、過去の経験からも、警察を入れることを極端に嫌う傾向がある。犯罪が疑われているにも関わらず、警察を入れず、教育現場だけで内々に処理してしまうことが、あたかも教育現場の正義と勘違いしていると思えてならない。実際に教育現場は特別だとの発言を聞いたのは一度や二度ではない。

これでは法治主義を軽視する、自己都合での組織ぐるみの隠ぺいが完全犯罪として正義になると教える反社会組織となんらかわらない精神構造に思えてならない。

繰り返す、教育現場であろうと、それが教育の対象である生徒であろうと、違法行為であればそれは厳しく法に則って対処するべきあり、それが法治国家としての基本原則でもある。それができない教育は健全な教育ではないと断言させてもらいたい。

戦争有事における情報戦、ロシア擁護派の欺瞞

ウクライナに侵攻したロシア軍の戦争犯罪と思われる惨状が、連日メディアだけでなくネット含めて報告されている。一方でロシアは全面否定、軍事施設への攻撃しか行っていないとの主張を続ける。これはある意味、戦時下における情報戦でもあり、お互いに自身が不利になる情報発信は決して行わない構造により発生する事象である。

その様な状況でロシア批判の意見が圧倒的に多くなるのは、客観的に見て当然と思えるのは筆者だけではないだろう。一方で、根強くロシア擁護論を展開する層も存在しており、いくつかのタイプに分かれている。

その中で質の悪いのは、「アゾフ」「ネオナチ」というワードに縛られる視野狭窄、客観性を欠いた論であろう。国際社会がどの様に調査し、その結果としてどの様に判断しているか等、客観的情報を全て陰謀論で片づけてしまう。そして陰謀論を信じ、国際社会の判断を覆しうる根拠は何も示しもしないのだ。

民族的ナショナリズムを前面に活動する組織が存在するのは事実である。しかし存在するから全ての悪行がその組織の責任である事にはならないし、それだけの活動力があれば、国際社会の目を欺くのは今の時代困難だろう。

また、周辺状況や過去の歴史を認識するだけで客観的に物事を把握する事は可能である。冷静に考えれば、「ナチズム」は現存しないが、民族的ナショナリズムは現存する。しかし、「ナチズム」程の過激な活動は確認できていない、何故なら国際社会の調査研究が物語っている。一方で「スターリニズム」は現存する事を否定できないし、ウクライナ都市の現況やその他のロシアの侵攻を見る限り戦争犯罪の疑いは晴れない。

この種のロシア擁護派は、これらの状況証拠を覆し、擁護する根拠に至る情報提示、感情的陰謀論でない論理的な説明が必要なのだが、今の所、聞こえてこないのが実態であろう。本来、それらの情報なく信じるに至る事自体が筆者には理解できない。

間違えてならないのは、日本のメディアが報じる情報は極めて偏っている事だ。例えば世界中の紛争が決して均等には伝わっていない。また、歴史認識も思考停止を継続している。

また情報がどの様にねじ曲がっていくかを我々日本人は目の前で見ている筈なのだが、その認識が甘い。「南京大虐殺」と称される事案は、当時の人口やその後の人口推移など客観的事実を見れば説明できないし、東京裁判で裁かれた内容を見ても大虐殺など無かったと考えるべきだが、それでも情報戦では異なる指摘を受ける。「真珠湾攻撃」も未だに象徴的レッテル貼りのワードとして使われ、慰安婦や旧朝鮮半島出身労働者も同様。デマを元に日本のマスメディアが誤報を繰り返し国際問題化した。

少し冷静に、事実関係を調べれば明確であり、論理的にも説明が出来る内容でも、プロパガンダにより国際問題化出来るのだ。ならば、例え悪意をもったプロパガンダ情報であろうとも、冷静かつ客観的に調べ、論理思考さえすれば、大きな間違いは避けられるはずであり、情報を受ける側一人一人の責任が実は大きいのだ。

<劣化し両極化するジャーナリズム>

最近のジャーナリズムはその精神を忘れ、裏取りもせずに誤報を垂れ流す事が多い。しかし、今回のウクライナ戦争において、その逆張りの自分の目で見ないものは信用しないと言う極論も一部で確認した。

それはロシア侵攻の跡地での惨状を伝えるウクライナ側の情報を現場・現実・その瞬間を見た訳ではないので、誰が、何の為にやったか判断できず、一方的にロシア軍の仕業と言うことは出来ないと言うのだ。

確かに一理はある。ジャーナリズムと言いながら、「アベガー」「スガガー」や「森掛桜」など判明した事実は報じず、裏取りしない疑惑を実しやかに報じる様な劣化現象が激しいのが現状であり、その反省に立てば、事実関係の裏取りが報道の前提であることは当然だからだ。

しかし、それも行き過ぎは良くなく、逆張りの疑いすら感じざるを得ない。

そもそも今回の様な戦争有事において、全て取材をして裏取りをする事は不可能だろうし、事実関係が判明するには相当な時間を要する。その間、全てにおいて分からない、判断できないでは報道にならないだろう。

状況証拠を並べ、各種の発信を時系列で論理的に分析し、その上で前提付きで判断すべきなのだ。そして前提を覆す情報が新たに出てくれば、訂正し、再発信すれば良いのだ。

<情報論理分析とは>

世の中に流通する情報には発信する側の意図が必ず介在する。情報とは、FACTを示すデータ(文字・画像・動画・数値)を分析し、解釈を加えて情報となるのであり、意図が介在するのは当然である。しかし、それは少しだけ注意して情報と向き合えば、比較的簡単に意図は透けて見え、フェイクは見抜ける。

従って、一つの情報を妄信する安易な行為が危険である認識さえ持てば、情弱に陥る事は簡単に防げる。実際は、それ程簡単でなく、人間は弱い存在なので、冷静さを失い、簡単に騙され妄信してしまい、情弱に陥る。その結果、社会不安定にまで発展させる危機を生み出す。

今回のウクライナにおける惨状において、確かに首をひねる様なものも多い。何故、その瞬間の動画が撮影できるのだろうか、この画像はいつのどこの画像だろうか、等である。しかし、SNSも含めた多様な情報を総合的に見ればある程度の実態は推定可能だろう。筆者が最大注目すべきと考えるのは、ロシア政府、外交筋から発信される情報を時系列で並べた時の論理矛盾があり説明出来ない事実である。ウクライナ発信は一方で誇張表現はあっても論理的矛盾は感じない。

情報論理分析とは、多くの情報を取得する努力を前提として、その時点における取得可能な情報の範囲で論理的に考察して判断する事であり、新事実・新情報が出てくれば当然ながら判断は覆る事もあるのだ。その反省があれば朝令暮改があっても良いだろう。むしろ、全ての情報を取得できると考えるのは傲慢でしかなく、その様な神の領域を求めるものではない。そして、最も重要なのが論理性の担保なのである。

平和ボケはあらゆる分野に悪影響、エネルギー問題も

令和4年3月22日、東京電力と東北電力管内で「電力需給逼迫警報」が発令された。

実際、100%を超える需要に対して供給のバランスを綱渡り的にかろうじて保つために、揚水発電が使われた状況で、しかも余力は無かった様だ。あるワイドショーでは「その様な状況だとは知らなかった」「もっと早く知らせてくれないものか」など、余りにも無責任な発言のMCやタレントコメンテイターに不快感を抱かざるを得なかった。

事実関係を簡単に整理しよう。

民主党政権時に超法規的政府要請により原発は稼働停止し、脱炭素・脱化石燃料の流れで火力発電設備は更新が滞り、休眠設備まで稼働させて急場を凌ぐ状況だった。その後供給側の状況は大きく変化していない。

一方で需要側は大きく変化している。省エネ効率を向上させる技術開発、製品化は大きく前進し、デマンド監視システム導入によるピークカットなど、企業においても様々な省エネ対策の設備投資を活発化し、エネルギー削減施策を行ってきた。

その結果、需要は拡大しているものの、省エネ・節電・効率化で絶対量としては最小限に抑え、かろうじて綱渡りが出来ていたのだ。しかし、この状態は、通常考えられるリスクの顕在化により、危機は起こり得ることを予てより警鐘が鳴らされてきた。実際に2018年9月に北海道でもブラックアウトの危機は訪れた。

その様な状況下で、元首相5人組等の一部の非論理的、非科学的な「再生可能エネルギーで対応可能」「原発は無くて大丈夫」という論が、大義名分である「環境」「安心」を盾にして、実しやかに叫び、現実から国民の目を晒し続けたのではないのか?マスコミは、両論併記せずに、これらの論を拡散し、或いは都合の悪い、原発稼働の必要性の論には目を背け報道しなかったのではないのか?

それを「知らなかった?伝えてくれなかった?」ふざけるにも程がある、マスコミが知らせなかった、伝えなかっただけだろう。

<エネルギー問題は今に始まった訳では無い>

まず前提として抑えておきたいのが、エネルギー需要はこの先大きく増大するということだ。デジタル化していく環境、セキュリティ安全保障上の問題でデータセンタの国内化が必要不可欠な状況で、現状とは桁違いのエネルギー需要が生じる。

つまり、現時点で綱渡りしている様では国家としてたちまち危機に陥るリスクが高い。コロナ禍で喧伝された様な「何もしなければ42万人死ぬ」と同様のロジックで語れば、最悪のシナリオは、凍死、熱中症死、入院加療時の治療不備、貧困による餓死、国防脆弱化による侵略を受け大量虐殺など、桁違いの被害も想定できる。もちろん、コロナ禍と同様「何もしなければ」というのは、あり得ない前提なので、その場での対処は実行され被害は抑えられるだろう。しかし、それが後手後手の泥縄方式であれば被害は無視できなくなるので、リスクに正面から向き合った根本的なリスク低減策が必要不可欠なのだ。

エネルギーを調達資源と考えるならば、偏ればあらゆるリスクが生じる。1極集中せず2重化、いや多重化することが安定調達の基本である。加えて、需要の量に相応する規模の調達が求められ、需給の変動に対応できる蓄積、需要地への適時運搬、デリバリも大きな課題なのだ。

多重化に関しては、例え再生可能エネルギーでも一極集中するのは危険だという事だ。エネルギーである限り限界はある。太陽光であっても、風も地熱も、無限ではない。既に存在するエネルギーは自然が吸収し環境を形成しているのだから、一部を別の形に変換すれば当然ながら、自然への供給量は減少する。僅かなら影響は無視できても、増えれば必ず自然環境変化を起こす。これを一般的に自然破壊と呼ぶ。環境に影響を与える限界は未知だから、多重化で一つのエネルギー源への依存度を少なくするのが安全なのだ。

従って、再生可能エネルギーを過信せず、原子力、火力(石炭石油ガス)、水力など可能な限りバランスを保つべきなのだ。

そして現実的には、現時点の技術レベルと需要供給量の実態を元に考えるべきである。

現時点の再生可能エネルギーで需要の大半を賄うのは難しい。将来、開発され、効率化され、絶対量が安定確保できる可能性を否定はしないが、現時点では無理である。しかし、原子力発電、火力発電ならば可能なのだ。その現実から目を背けるべきでない。

そうやって考えると、ブラックアウトするリスクに備える優先順位は

  • 原子力発電の再稼働
  • 火力発電所の設備更新、高効率発電設備の置き換え、増設
  • 再生可能エネルギーや小型モジュール等の新技術研究開発強化

の順に本気でエネルギー政策を再検討するべきであろう。

安全保障面から見た、絶対量の安定的確保と自給率向上も検討に必要な観点だろう。

<日本の技術力がカギを握る>

原子力発電に関しては、様々な感情的な反対論ではなく、冷静かつ論理的に現実論を展開するべきである。まず、現状ある設備は、安全基準をクリアした所から早急に稼働させるべきだ。テロ対策なども必要に応じて後からでも防御設備、運用改革をすれば良い。リスクがあるから出来ない、ではなく、リスクを低減しながら安全に運用するのがリスクマネジメントなのだ。

そして、将来を見据えて、日本が誇る最先端の技術力を失うべきでもない。軍事研究忌避、原発忌避の感情が蔓延れば、優秀な技術者は国内では育たず、海外に流出するだろう。学生も専攻しなくなる。それ程危険な事は無いのだ。技術力を失えば、現在の原子炉の廃炉や破棄物処理も対応力が無くなる事を忘れてはならない。技術力が継承されれば、最新の技術を開発し、更なる安全性と経済性も追求できるのだ。

そして優秀な技術者が育つ環境になれば、小型モジュールなど未来型の開発も安全に推進出来るのである。

再生可能エネルギーの最大の課題は蓄積と運搬だろう。エネルギー生成、変換自体は安定しないのは当たり前だろうが、効率的な蓄積、運搬性が高まれば可能性は高まる。筆者の本音を言えば小規模地産地消の形が全体のバランスを埋める有効な手段と考える。

逆に言うとその課題が解決されるまでは補助エネルギーでしかないのが実態だ。大きく期待すべきではない。

蓄積とは、蓄電池だけでなく、水素やアンモニアを生成し蓄積するのも有用、運搬も可能なのだ。そうなれば、内燃機関への応用も展開できるだろう。

火力発電を脱炭素で忌避する傾向も冷静に考える必要がある。再生可能エネルギーと比較して現実的にエネルギー効率や脱炭素など対抗しうる技術力はある。廃棄物処理の比較も同様だろう。

日本の技術力による高効率石炭火力発電は世界に誇るレベルである。少なくとも切って捨てるべきではないだろう。同じ理由で内燃機関の技術も日本が世界に誇るレベルであり、電気自動車と比較しても総合的には負けない環境性を有するエンジンも存在し、更に発展できるのだ。

日本の技術力を封じる戦略に振り回されるだけでなく、本来の課題を解決する日本の技術力を世界に示すべき時代なのだ。

情報論理分析の要諦、分かり易い情報とは?

企業内の業務遂行時に、自身の業務成果を資料として残す。また、自身の業務遂行において過去の他人の実績を参考にするために過去の資料を紐解き、分析して自身の業務に役立てる。当然の業務遂行上の規範である。

ある日耳に入ってきたのが、過去の資料が分かり難く、読み解くのに当時の担当者に何度もヒアリングするなど苦労したので、他人が見て分かり易い資料の作成を心がけよう、との事だった。しかし、言わんとすることは正論でも、それでは精神論でしかなく、結局何も改善しないと言わざるを得ないのだ。

分かり易い資料とは、具体的にどんな資料なのだろうか?

<資料が分かり難い原因は情報の中身?>

一言で分かり易い資料といっても、具体的にはどの様なものを指すのだろう。巷のハウツー本では、箇条書きにして、図表など一目見て感覚的に認識できる様にだとか、テクニックは語られている。しかし、それだけでは情報自体の品質は保証できない。情報を伝えるべき資料であれば最優先するべきなのにだ。

情報と言う観点で言うなら、あらゆる情報が満載された情報に不足ない資料は、読み手に取って極めて分かり難いだろう。プロセスを割愛したグラフィックや図表を使えば視覚的に理解し易いが、そのプロセスの誤謬性には気付き難くなる。

一方で、全ての必要情報が分かり易く論理的に整理されてあっても、読み手側の読解能力不足で誤った解釈をしたり、自明である推論すら、明確に記述されておらず曖昧と資料の責任に転嫁する場合もあるだろう。

そもそも人間が作成した資料であり情報なのだから、記載されている内容に間違いもある、或いは誤った解釈されている場合は当然あり得るだろう。従って、読み手側にも一定の解釈が必要なのだ。

<世の中にまん延する情報の誤謬性>

企業の業務報告や記録の例で語っているが、世の中に広まるメディア発信の情報も同様の誤謬性、読解力不足の誤解など、全く同じ構造が存在する。まずは、この情報について反面教師として考察してみたい。

マスメディアの発信する情報とは、2次情報、或いは3次情報である。従って、常々鵜呑みにせず、1次情報に当たり確かめる事を推奨している。1次情報からどの様なプロセスと論理考察で生成された2次情報なのか紐解くのである。ニュースソースは明かされず1次情報に辿り着けないとの批判もあるかもしれないが、殆どの場合、外堀を埋める情報は存在し、少なくとも推論は立てられる。

そうすると、余りにも可笑しい論理飛躍、結論ありきの無理筋が如何に多いか気付くのである。仮設としてその結論に辿り着く1次情報は何が考えられるか、推論すれば、その周囲の情報との矛盾が隠せず、帰納的にも論理破綻が示せる場合が多い。その様な作業を心がけておれば、自然と2次情報を見ただけで、その誤謬性の存在、胡散臭さに気付けるような能力も養われる。

マスメディアの発信する情報が偏向するという事実は、歴史的に見ても明らかである。大本営発表と悪の権化の様に政府情報統制を語られるが、事実は民間の新聞社の発信する情報だったのだ。

現在の、電波系メディア、新聞系メディアもある思想信条、意図を持った方向性に偏向しており、現実的に放送法4条は守られていない。結論ありきの無理筋、過去発言との整合性ない論理矛盾。意向に沿わない情報を発信しない報道の自由。これを鵜呑みにすることは危険極まりないのだが、未だ影響力は絶大で、多くの人は知らず知らずに信じ込まされている。

しかし現在はネット空間に発信される情報が存在する。もちろん、その情報の一つ一つ、個々に見ると夫々に偏向していると言っていいだろう。しかし、規制がかからない、いや色々な規制がかかっても全員参加の双方向性メディアとして、オールドメディアに比べて大きく情報発信の自由度が高く、種々雑多な情報が埋もれている。

実は、オールドメディア側から見るとこれは大きな脅威なのだ。自分達の情報の信頼度が低下する事態を招きかねないからだ。従って、ネットの情報は胡散臭く、オールドメディアが正しいというプロパガンダが蔓延り、規制に必死なのだ。場合によっては、報告などで広告剥しやアカウント停止を目論んだ抑制が厳しいのが実態である。

しかし、よく考えて欲しい。情報とは、発信側は自身が伝えたい意図に沿ったものなので偏向は当然だろうが、受け手側はあらゆる情報を受け取る権利がある。そして、多くの情報の中で自身が必要とする情報、活かせる情報を取捨選択するのが当たり前ではないか。

ならば、オールドメディアの様にどこを見ても金太郎あめの様な一律の情報(しかも偏った)ではなく、ネットを中心とする有象無象の情報から受け手側が是々非々で取捨選択する方が正しい姿ではないのだろうか。実は、今迄はこの役割を書籍が果たしてくれていた。これからも書籍の役割は継続するだろう。しかし、ネット情報の活性化により、情報革命が起こり、素人でも昔の諜報部員並みのオープンデータ取得した情報分析が可能な時代になったのだ。逆に大なり小なり、情報力を高めなければ、社会に適合できなくなるリスクすらあるだろう。

だから、常々、情報の論理分析力を高める活動を推奨し、1次情報に当たり、自身の頭で考察する癖を身に着けるべきだと言い続けている。

<企業における情報伝達、ノウハウ継承>

前述した情報論理分析力は、これからの社会において必要不可欠であり、企業人としても是非、普段から心がけてもらいたいと思っている。

その上で、そうは言っても資料の1次情報に毎回当たっていては業務効率が悪すぎるのも事実だろう。

そのために必要となるのが必要な情報の構造化ブレークダウンだろう。

前述の例で考えて見よう。過去実績の担当による資料が分かり難いのは、何故か考察するのだ。情報が不足していたのか、必要のない情報が満載で必要な情報が検出し難いのか、情報に誤りがあったのか等。

この考察の結果、情報不足であれば、どの様な情報があれば良いのか、具体的に項目出しをしなければならない。当然それは、継続的にフィードバックがかかるようなプロセスで、不足情報の項目出しを加えていく仕組みが必要になる。何故なら、一度の考察、検討で、必要な情報の全てを網羅するのは不可能だからだ。やりながら、レベルアップしていくのだ。そして必要項目記載をルールとし、ミスロス削減の為にもテンプレート化しておくべきだろう。

不要な情報が満載でと言うのなら、少し考える必要がある。何故取捨選択が出来ないのか。

情報が整理されておらず判然としないのなら、定型の情報は固定表記される様にテンプレート化して整理すれば良いだけだ。むしろ情報が満載なのは良い事で、受け手側とは一人ではなく多面的なので、それに対応するのは情報自体が最小公倍数を実現する必要がある。

必要な情報が整理され表記されていて、尚且つ分かり難いと言う事例を多く確認する事がある。つまりこの現象の原因は、受け手側の情報読解能力の問題なのだ。

その次の情報に誤りがある場合も難解だ。基本的には資料として記録を残す際にミスロスを防ぐ策が大前提である。前述の項目整理やテンプレート化は有効な策となろう。それでも人間のする事に完全はなく、一定のミスは発生する。

これは本質的には一定のリスクを受容する必要はあるが、最小化する為に資料作成時の対策は不可欠だが、加えて受け手側が利用する際に一定程度の感性を持って見抜ける能力の養成が必要不可欠なのだ。

ひとつの方法は、時々抜き取りでも、1次情報に戻る作業で能力を高める。普段から周辺で起きている時事問題、経済界の課題などに関心を持ち、書籍やネット情報を確認し、時々その背景にある1次情報、オープンデータや論文も確認し、自身の思考を磨く作業を行っておく事が重要だろう。

実は、この能力の基礎は、義務教育で誰もが教育されている、国語の読解力、長文を読んで筆者の気持ちは?この主人公の言葉の意図は?とい問いであり、演繹法や帰納法を駆使した論理証明などである。そんなに難しい事では無いはずなのだ。

北京五輪が諸問題を露呈して終焉、されど五輪の価値はいまだ高い

ジェノサイド五輪と呼ばれ、ナチスドイツと並び称され批判され続けた(日本国内ではなぜか東京五輪程大きな批判は無かったが)五輪が閉幕した。

問題視された事項を簡潔に列記するだけでも数多くの問題が露見している。ジェノサイドが指摘されるウイグル問題、開会式では聖火最終ランナーとなりながらその後の取材が行えていない様だ。テニスの彭帥(ほうすい)選手に纏わる疑惑も有耶無耶のまま。

選手や関係者の情報の安全問題も永遠に闇の中だろう。セキュリティ問題とは、表面化しないからこそ問題が深刻化する。

持続可能性を社会命題とするのは、最早世界共通であるが、北京五輪、開催国に対して指摘されたのが、まさに持続可能性に関わる問題であり、政治的ボイコットなどあったが、その温度差もあり、決して一枚岩で向き合えた状況ではなく、解決にも向かっていない。

いざ競技が始まると、スケートショートトラックに関わる疑惑の判定、スキージャンプ混合団体時のスーツ規定測定方法の事前通知も無い変更による大量5選手の失格を生み出した問題。女子フィギアスケートにおけるロシア選手のドーピング問題は、未だドーピングが減少しないロシアの競技環境の犠牲に見える選手の人権問題、公平な競技環境を構築出来ていない事象だが、出場年齢制限の検討など本質からずれた案まで飛び出す混乱となった。

歴史的評価は後年為されるだろうが、大きな問題を抱えながら開催された北京五輪であったことは間違いないだろう。

<選手は自身の活動の場を自己都合で選択は出来ない>

しかし、決して間違えてはならないのは、選手には何ら罪はなく(ドーピング違反者は別)、純粋に自らの活動の場が北京であっただけなのだ。もちろん、ボイコットや中止などの決定があればそれに従うのも基本だが、競技自体は普通に開催され、参加するという大多数の決定に従うのが選手個々の立場では筋であるからだ。

五輪への反対意見は根強くある。人権派と呼ばれる人達を中心に喧伝され、一部メディアが陰謀論も含めて煽り、意味も深い理由も理解しない大衆が迎合する構造は、東京五輪の際に顕在化した。

五輪精神が崩壊している、金まみれで一部の既得権益者により私物化、個別競技の世界大会が開催されている現在に五輪の意義は無くなった等だろう。しかし、どれもこれも、本来の主人公である選手、競技者目線はなく、人権派と言いながら、個々の選手の人権など無視するだけでなく、貶める行為である欺瞞に溢れる活動であり、それこそ、自分達の思想信条の押し付け、自己利益誘導のエゴとしか思えない意見が多い。

確かに、現在の五輪に様々な課題がある事は疑い様がない事実であろう。しかし冷静に考えて欲しい、その理由でアスリートの活躍の場、夢の舞台を奪って良い訳では無い事ぐらい理解を示すべきであろう。建設的な対案のある反対論なら良いが、今の反対派にその様な姿勢は感じられず、単に既得権益者、権力者に対する攻撃、活動でしかなく、その被害を一番受けるのがアスリート達である構造を無視している。

<スポーツビジネスの経済性>

スポーツは普及することで底辺の競技人口が増大し、結果として全体の競技レベルが上がり、トップアスリートが育成される。トップアスリートは、自らの競技を通じて多くの人に感動と夢を与え、更に普及が深耕して、引退後の雇用も想像する経済効果が生まれる。

スポーツがコンテンツとしての価値を高め、経済的にも自立しビジネス化していく構造が成立する歴史はそれ程古くない。ほんの少し前ならば、ジュニア世代の選手達は、一部の競技とその更に一部の選手以外は、大人になって競技を離れていた。競技を継続しても趣味の範囲でしかなかった。

ところが最近は、社会人になってからも企業の支援を受け、企業に所属する形なども含めた競技継続者が増加し、プロ化などの道が存在する事もあって、学生時代のスポーツ推薦なども枠が昔に比べれば大きく増え、競技専従者に対する教育環境の選択肢も増えてきている。つまり、職業としてのスポーツという枠が増大しているのだ。

それでも、その世界で夢を適え、花開くのはほんの一部でしかない。その大多数を支える雇用環境の為には、マイナー競技も含めた正の経済発展がなければ成立しようがない。つまり、コンテンツとして、ビジネスとして育てる必要があるのだ。

スポーツ嫌いな人も存在するだろう。でも、芸術や芸能、音楽等にも好き嫌いがある。自分が嫌いでも、否定する理由にはならない。数ある企画、興行の一つであり、その幅を広げる事に異を唱えられる人はいないだろう。

その象徴的なシンボルとして五輪が存在する。この構造を否定できる人はいない。五輪に反対するならそれに代わる対案が必要だが、個別競技の世界選手権ではそれは賄えない。従って、未だ五輪は問題を抱えながらも価値は現存するのであり、事実を認める事から入らないと、身勝手な破壊論にしかならない。

<日本のスポーツビジネス環境の先行き>

日本のスポーツビジネスは今現在、実は曲がり角に差し掛かっている。

余り知られていないかもしれないが、ワールドカップサッカーの最終予選、日本のアウェー戦は地上波での放送が出来ていない。それどころか、カタール本大会すら放送権の獲得が危なかった。米大リーグの「毎日大谷さーん」のBSでの放送も危なっかしい。

コンテンツの放映権が高額化していっているのだ。しかし、単なる高額化ではなく、ワールドワイド市場の経済成長に対して、日本のデフレ環境における経済成長レスによる格差が、日本から見たコンテンツ高騰化に見える構造なのだ。

五輪を金まみれと言うが、世界的にスポーツコンテンツは価値が高まり、高騰化しているのだ。それは、不当な値上げと言う訳では無く、経済論理に沿った価格上昇であり、経済成長できない日本が立ち遅れている構造でしかなく、このままでは再びスポーツ劣等国家への道まっしぐらと言っても過言ではない。

今、抱える課題は、更なる普及によるコンテンツの魅力化、日本国内の企画価値向上を目指したビジネス拡大無ければ、衰退する以外に無いのだ。豊かな精神、健全な肉体を養い、経済的にも成立するビジネス構造を育成して、初めて日本国民も夢と感動を享受できる事を忘れてはならない。

ジョコビッチに対する批判集中だが果たしてその中身は

テニスのレジェンド、ジョコビッチ選手がオーストラリア入国を拒否され、全豪オープン第1シードの選手が棄権という事態に陥った。事は今年の全豪に止まらず、今後3年の全豪や他の大会出場も危ぶまれる状況である。一連の動向に、ジョコビッチ選手に対する批判も集中し、同じレジェンドのナダル選手は「ワクチン接種すればいいだけのこと」と言い放った様だ。

しかし、冷静に考えて、これらの批判は正当なものだろうか。ワクチン接種は義務化されるべきものではなく、個々人の事情を勘案する必要があり、個人の判断のはずである。全容を見ずの感情的な批判も多いのではないだろうか。

一方で、確かに批判に相当する部分も見えてくるが、それは正しく事実を見極めた上でなければならない。単なる誹謗中傷、良いがかりに近い論調が跋扈する風潮は健全ではなく、まずは事実関係を整理してみたい。

<ジョコビッチ選手がワクチン接種をしない背景>

ジョコビッチ選手は幼いころからいくつかのアレルギーを抱えていたとの事だ。プロになってからも試合で呼吸困難に陥るなど途中でリタイアする状況が続き、その後、グルテンアレルギーである事が判明している。

グルテンアレルギー対策として食生活を見直し、徐々に改善に向かった。2015年に執筆した本に、グルテンフリーの食生活を取り上げ、グランドスラムタイトルを獲得できた秘訣として食生活の改善だとしている。そして、その後のツアーでも、グルテンフリーの食事とトレーニング用具を準備していたという。

この様な原体験を持ち、アレルギー体質でもあれば、ワクチン接種を躊躇するのはある意味当然では無いのだろうか。

ここでジョコビッチ選手のワクチン接種に関する発言をいくつか取り上げてみる。

全米オープンにて

「ワクチンに関しては常に、それぞれ自分が打ちたいかどうかという判断が重視されるべきだと考えている。そこだけは崩さないでほしい」

ATPファイナルにて

「ワクチンのことだけじゃない。生きることの全てで、個人には選択の自由がある。それが豊かで幸せな人生に必要不可欠なものだと思うから」

フェイスブックのライブチャットでは

「僕はワクチンの接種自体を否定しているのではない。ただ、誰かが僕の体内に無理やり何かを入れるのは嫌だ。受け入れられない」

これらの発言を聞いて、「ワクチン接種すればいいだけのこと」と簡単に片づけられないと感じるのは筆者だけだろうか。

<入国拒否された問題事項>

オーストラリア・テニス協会は、大会参加、それにかかわるビザ発行はワクチン接種を前提としている。但し、過去6か月以内に感染歴があれば免除ともされており、今回のジョコビッチ選手の申請はこの過去感染歴を前提にしていた。

その感染日は2021年12月16日であった。しかし、そこから綻びが発生する。その感染経緯を確認してみる。

12月14日バスケットボール試合を観戦。これがクラスターとなる。

12月16日簡易抗原検査実施で陰性判定。同時に念のためのPCR検査実施

12月17日テニスのジュニアイベントに参加

12月17日イベント後にPCR検査陽性判定通知

12月18日雑誌インタビュー実施

17日のイベント参加は陽性判定前との言い訳はあっても、クラスターの所謂濃厚接触者であり、PCR検査も実施していた訳なので本来であれば結果が出るまで自粛すべきであったとセルビアの首相も非難している。そして、18日のインタビューに関しては弁解の余地は無い。

更にまずいのが、オーストラリア入国書類の過去14日間にどこにも旅行をしていない事を問われる質問に、していないと虚偽申請をしていた事が明らかになっている。

実際は、セルビアからスペイン(ジョコビッチ選手保有宅に3日滞在)を経由してのオーストラリアであった。スペインもワクチン接種証明書が入国に必要だが、どの様に入国許可が下りたのかは不明であり確認中の様だ。

ジョコビッチ選手は同書類をチームスタッフの人為的ミスであり意図的ではないと述べているが、果たして入国書類の不備がミスで済まされるものではないだろう。

ましてや、2021年6月にも自身開催のトーナメントで本人含むクラスターを発生させて批判を浴びており、今回の件も含めて信用が失墜しているのも現実であり、12月16日の感染17日の陽性判定も入国する為の虚偽ではないかとの疑惑まで発生している。

<ジョコビッチ選手に望む>

以上の様な事実関係から、最悪の場合テニス協会から何らかの処分の可能性すらある。テニスの1ファンとして、レジェンドをその様な事で失う事は何が何でも避けて欲しい。

その為には、ジョコビッチ選手には明確な説明責任を果たしてもらいたいと考える。

6月にクラスター発生させた事や12月の濃厚接触後の行動に関して軽率であった事、入国申請書類にミスとはいえ虚偽記載をした事実を含めて、自身の行動が軽率で考えが甘かった事を反省し謝罪会見を開き、テニス協会からの如何なる処分も受けると表明する事を期待したい。

その上で、ワクチン接種を躊躇する原体験を語り、同様の苦しみを持つ人達の存在も訴えるべきであろう。そうして自身の判断に対する理解を求めれば同様の選手達にも手を差し伸べる事になるだろう。これは危機管理、危機コミュニケーションの観点から望む事だ。

ワクチン接種免除は定められているとはいえ、現実には認められる例は僅かとの事だ。この現実に風穴を開けるのはジョコビッチ選手以外にないだろう。

体操のレジェンド内村選手が、世界体操時のPCR陽性判定に異議を唱え、再検査による陰性により偽陽性判定であった事を示し、無事世界体操開催に繋がった。これは、レジェンドでなければ、陽性検出、濃厚接触者判定で多くの棄権者を発生させ、大会が無事では無かっただろう。前例を突破し、改善する為には、その道の先駆者が支持される心情面も背景に勇気を持った行動を超す事で突破口が開ける。

テニス界の為、世の為に、適切な行動を期待する。

情報と金の問題2:メディアの再構築素案

『情報』を制する事が、民主的に優位に運ぶ最善策である事は疑い様が無い。『情報』は時には世論を動かし、国家権力である3権(立法・行政・司法)をも動かす力を持つ、即ち国家権力と並ぶ、時には上位になるポテンシャルがある。ならば、『情報』を扱う担い手であるメディアには、権力としての監視・牽制がなければ民主主義は独裁へと向かう危険性がある。

これは『言論の自由』を制限するという話では決してない。むしろメディアを監視・牽制する構造は、『言論の自由』を適切に保護する事にも通じるのだ。

現在のマスに属するメディアの偏向度合いは目に余るものがある。その実態はネット空間との論の幅を比較すれば明らかである。そこにはある一定の力、意思すら感じざるを得ない。

マスメディアの偏向疑惑が懸念される状況下でCLP問題や意味不明の報告と思われるコンテンツ攻撃など、一部の政治勢力・活動家などの勢力の動きが疑われている。『情報』の扱いに金の流れが伴った工作の懸念である。

歴史的には外交的妥協を模索する政府を、弱腰と非難し煽り続けたのがメディアであり、それに国民が扇動され好戦的な世論が形成され、クーデターも含めた実力行使もあり軍部が政府を動かし開戦に向かった。

歴史に学び、現状の偏向実態を鑑み、今こそ『情報』の担い手『メディア』を監視・牽制する法制度に舵を切り、新時代の民主主義の権力構造を模索するべきだろう。

<ネットメディアの処方箋>

ネットの特性上、『情報』の担い手としては、実は最も公平で両論併記、各論議論が可能な言論空間なのである。誰でも参加ができるハードルの低さ、尺の制限の緩やかさ、双方向性である事などが要因だろう。逆に弊害として、玉石混交である事、情報量の巨大さ故エコーチェンバーなどの受け手側の意図せぬ偏向による勘違いを生むリスクは高く、単独メディアの中で公共性を担保する事は困難である。

従って、公共性は政府発信のオープンデータなど裏付けが確かなものに限られるだろう。一方で公党や政治組織の情報発信は、より深い情報を対案との対比で示す事が可能なメディアとして有効である。

それ故、CLPが理念として掲げていた、公共性を民間のネットメディアに求めるのは困難である事を前提とするべきだろう。フェイクニュースという定義も立場によって都合よくレッテル貼りする傾向も強く、対峙すると言ってもその事で公平性を示している訳では無い。

そしてどの様な色が着いているか受け手が確認できる必要があり、その資金構成と編集方針を透明化し、資金やニュースソース、解説の方向性を明らかにする必要がある。ネットメディアであろうとも相応のお金はかかり、お金には大なり小なり色が付くのだから、金の流れ、構成を明らかにすることは透明性担保に重要な要素なのである。

つまり、資金の背景を明確にし、編集方針に加えて、編集者の思想信条も分かる様なコラム掲載などを義務付けし、どの分野でどちらの方向にどれだけ傾いているのか、透明化した上で、視聴者側が選択すれば良い。公平でなくて良い、偏向は当然、情報受信側がその事実を把握しておれば良いのである。そして、公開情報に偽りや、隠ぺいがあった場合に厳しい罰則が伴う法規制が必要だろう。スポンサーもその構造で集まる視聴者である前提で考え、企業イメージに色が付く事を理解して広告出稿するべきだろう。

ネットメディアはマクロで見ると実は最も健全化に向かうエネルギーを持っている。それもかなりのスピード感で。実は、ほんの数年前ネットの言論空間はかなりのレベルで左傾化していた。少し真っ当な発言をすると袋叩きにされる程酷い状態であった。それが現在はかなり改善されて両論、ウイング広い言論空間になっている。

これらの特徴を生かし、主要メディアに成長させるべく、制度改革を進めるべきだ。

<地上波メディアの報道に関する処方箋>

ワイドショーなども報道と位置付けた上で、ネットと同様に情報の傾き度合いの透明性が必要だろう。残念ながら、現在の地上波メディアは公平な情報、両論併記などの放送法の大原則を守っているとは言えない状況だろう。それなのに、公共性や公平性を掲げられているのは寡占状態が故であろう。

政府を監視し糾弾する事がメディアの役割との思想、筆者に言わせれば前時代的な思想の元、批判を目的とする批判に終始し、都合の悪い情報は尺の制限で省かれる。結果として、極めて偏向した情報になり、視聴者の正しく、客観的な情報を、様々な視点での議論を通じて、即時性と簡易性を伴って取得する環境を破壊している。そして問題が顕在化しても、寡占状態が故責任を取ることはなく、改善も為されない。

視聴率至上主義も、危機を煽り、政府を悪とする陰謀論を匂わせるエンターテイメントで部分的に稼げるだろうが、その事自体が若者のテレビ離れを促進させる事になっていると考えるべきだろう。

しかし、即時性と簡易性という長所は捨て難く、その事を活かしつつ、国家としての公共性や公平性を一定程度実現する再構築が必要だろう。

その為に、限られた国家資源である電波を使用する前提として、資本構成は外資を制限する必要があるだろう。情報を国家の権力の一つと位置付け、より世論形成力が強い即時性、簡易性を持つメディア、ある意味サブリミナル的な効果すら持てるメディアとして当然ではないだろうか。現行法制度にも存在するのだが、より厳格に、違反や虚偽、隠ぺいに対して厳罰化は必須だろう。

その上で、政府発信のコンテンツ、公党発信のコンテンツを明確に一定枠設ければ良い。それに関わる費用は一定程度税金で構成しても良いだろう。

<ぺーパーメディアは生き残れるか>

筆者の持論は、ペーパーメディアを決してなくしてはならないという事だ。もちろん、今の形態が良いという訳では無い。

ペーパーメディアの受け手側としての最大の利点は、全体感のイメージ把握、物事の重要性の大小把握、概要から詳細への検索などを極めて効率良くできる事だ。この同様の機能を他のメディアに求めるのは実は困難なのだ。

一方で日本の国益を損ねる国際問題を自ら火の無い所に煙を立てたのもこのメディアであり、日本の場合、電波系メディアの資本構成に漏れなく加わっている事も一旦偏向すると歯止めがかからない構造である事も大きな問題であろう。

更に、地方によっては地方紙の独占状態にあり、一定の方向性以外の『情報』が得にくい状態が発生している。これは『情報』を選択する自由の侵害に他ならない。

これらの問題を解決するには、まずは資本の独立性を担保する事だろう。同時に整理統合を進め、様々な資本の参入により情報のバラエティ性を高めて寡占状態を解消する。

そして個々の情報取得の選択性を高めるために、1紙だけでなく、複数紙のクリッピングをサービス化する事。個人の意思、思考で自動的に各紙から情報をセレクトし、パーソナライズされた紙面をオンデマンド配信する。技術的には各紙紙面をスキャニングOCR処理し選択した上で自動組版する。オンデマンドプリントが必要な場合は、郵便局インフラを利用しサービス化すればよい。著作権問題もクリア出来ない訳が無い。

更に隠し味として、偏った設定を個人がしても、ある一定レベルの公平性を保ったセレクトをシステム側で自動設定すれば、嗜好性を保ちつつ、両論併記、公平性のある対案も提供出来、地方インフラの問題での情報格差も解消される。

結論としてペーパーメディアはその利点を存続させる為に生き残らねばならない。その為に、デジタル化、サービス統合、資本再編は不可欠だろう。

情報と金の問題、メディアのスクラップ&ビルドが必要不可欠

Choose Life Project(CLP)というインターネットメディアに立憲民主党から約1500万円の資金提供があった件で、ネット空間は特大ブーメランと騒いでいるが、地上波メディアでは報道されない。その後の調査の結果、9億円以上の金銭がメディア関連や市民活動に流れている疑惑も浮上しており、全容は不明、というより第三者の調査でもない限り明らかにはならないだろうし、闇に葬ろうとしている様にも見えてくる。

地上波メディアは、Dappiの件では自民党の疑惑と騒ぎ立て、虎ノ門ニュースの動画を流用する等して、同ニュースより公開質問状が出される事態にまで至ったが、未だ無回答と聞く。そして、CLPに関しても沈黙。自己批判にも繋がりかねない故の沈黙と言われても仕方がない程のダブルスタンダードである。

メディアに公党から金銭が支払われる事自体は問題ではない。その費目は、宣伝広告のコンテンツ制作やコンテンツ発信、そしてスポンサーとしての支援等だろう。前者の場合は、党の名前が前面に露出されるし、後者でも名前が前面に出なければステルスマーケティング(ステマ)の疑惑が生じるので日本では違法ではないが(アメリカなど多くの先進国では違法)、基本的には避けるべきだろう。今回の場合、金の流れを代理店経由など迂回させており、隠蔽の疑いさえあるのだから、更に悪質との疑いがある。

そして、福山氏の発信を素直に読むと、「理念に共感しての支援」であり、当時メディア側発信によると「理念すらない」状態での立上げとあるので、CLP立上げ者の出身母体であるTBS報道特集の流れを汲んだメディアへの経営支援との疑惑が生じる。少なくとも資金援助により忖度は働くであろうし、番組内容に影響を及ぼすことはないという言い訳は通用せず、立憲民主得意の論調を借りれば、「忖度の無かった事の説明責任」いわゆる『悪魔の証明』が求められるはずだ。

そこは自省し、自身の行為を振り返るのならば、それは健全化の方向性として受け入れるべきだろうが、その兆候が見えてこないのは残念でならない。少なくとも説明責任を果たす事が最低条件ではないだろうか。

<メディアと金の問題>

情報に関わる不正な金の流れ、金を使って恣意的に情報を操作し、大衆を誘導しようとする疑いの行為は、それ以外にも数々指摘されている。

市民活動家への活動資金援助であったり、デモ活動を金で雇った動員で行ったり、テレビの街角インタビューで答える人が他局でも同一人物が繰り返しインタビューに答えているなど、やらせが疑われる事象であったりだ。

数々の疑惑があるが、全て金の流れを明確にして透明化すればあぶり出せる。

また、昨今のネット空間において横行する、異論の発信に対する『報告』攻撃での広告剥がし、最悪の場合BANというコンテンツ削除を目的とする行為。これが組織的な活動である疑い。もし、これらが組織的活動であれば必ず裏には金が流れている。

この場合は金の流れだけでなく、実際の『報告』という行為を公開条件にするか、少なくとも指摘する事由を明確にし、合理的な事由であることを前提としつつ、合理的と認められない場合、例えばユーチューブで人による審査で問題ないと判定された場合は公開されるなどの罰則を伴わなければ、再発を防げないし、公平性を欠く状態である事は間違いない。

政治と金の問題が未だに問題視され、多少なりとも違法性のある事案は発生している。本質的な問題は、金で政策の方向性を歪める行為が横行し、民主主義がエラーを起こす事だろう。その観点で冷静に考えると、メディアと金の流れの方が今現在問題性としては大きいのが現実ではないだろうか。それなのに、扱われ方は遥かに小さい。それは既得権益構造に対する抵抗勢力化しているからではないだろうか。

メディアとは、言わずもがなだが『情報』の担い手であり、『情報』事態が世論を形成させる大きな力を持ち、『情報』が民主主義の根幹を支える要素である。筆者はこの構造に対して『情報』を4つ目の権力と明確に位置付け、他の3権(立法・司法・行政)に加えて牽制する4権分立の法制化が必要と考えている。その入り口が金の流れを抑える事ではないだろうか。

その為には、「ネットメディア」「地上波メディア」「ペーパーメディア」毎にスクラップ&ビルドを前提とする大改革が必要だろう。

情弱な社会環境に対峙する決意

新年あけましておめでとうございます

今年は、私自身還暦という人生の節目を迎えます。昔は、還暦というと爺さんのイメージでしたが、いざ自分がその立場になると、まだ人生の折り返し点、やり残したことがあると感じている。これまでの経験、ノウハウを、今後は、何らかの形で社会にお返しをすることに費やす時間と認識を新たにしております。

昨年、一昨年の約2年間、世界はコロナ禍という、インフォデミックを経験し、未だ抜けきれないでおります。

PCR検査には偽陰性と偽陽性が存在する、それは感度と特異度という精度が100%でないからだ。小学生でもできる計算を行えば、検査で決して安心が得られる訳では無いのだが、いつの間にか人は安心を求め、検査に走り出している。

そして発熱しているにもかかわらず、検査で陰性と判定された後に安心して社会活動を始めるという例がまだ散見される様だ。あれだけ社会事例で、発熱後の検査で陰性とされた後に感染させる、クラスターを発生させた例が報告されているにも関わらず、いざ自分の事になると、検査で安心してしまう。

その個人は、悪気がある訳ではない。日本語が理解できない訳でも無く、知能が低い訳でも無い。しかし、人は安心を求め、誤った行動をとってしまう、弱い生き物なのだ。私は、それを『性弱説』で説明されると考えている。

許せないのは、人の弱みに付け込み、危機を煽り、時には自身のビジネス上の利益の為に人に不安感を抱かせる行為を公共の電波を使って垂れ流すことだ。あたかも、正義を気どり、多様性と言いながら、異論を許さない。人権問題を主張しながら、人権を侵害する行為を拡大する。最近の報道姿勢は目に余る状況であり、何か勘違いしているとしか思えない。

この様な社会環境で、弱い人間を支えるのは、自己防衛でしかない。そのためには、それを支える正しい情報が必要であり、情報を読み解く論理的分析力を鍛える必要があると確信している。企業においてはリスク管理であったり、危機管理、セキュリティ管理の領域を充実し、従業員の健全活動が活動を支える環境の構築が重要になるだろう。

私の残りの人生、微力ながら、所謂『情弱』な状態に陥らない為の個を育成し、企業環境構築に貢献できれば幸いと考えているので、引き続きご支援の程よろしくお願いいたします。

エレルギー問題の対応はバランスが重要

エネルギー問題は国家の安全保障にも通じる重要課題であり、本来国家として一枚岩になって取り組むべきなのだが、政局利用や活動家の具となり、本質的な問題をタブー視する傾向が強くなって久しい。更に、環境問題がここに重なってきて部分最適が進み、混迷が深まっている。

はっきり申し上げる、バラ色のエネルギーなど世の中には存在しない。それは物理学のエネルギー保存の法則に従えば自明なのだ。世の中の様々な事象は、このエネルギーの微妙なバランスによって現在の環境が成立しているのであり、そのエネルギーを他の形に変換して利用する場合、元のエネルギーバランスを崩す事に他ならず、偏れば必ず何らかの歪が生じる。従って、エネルギー利用には歪を最小限にするバランスが必要不可欠なのだ。漫画「ドラゴンボール」の「元気玉」の様に、少しずつ分けてもらって大きなエネルギーに変換する、そういった検討が重要なのだ。

この様に考えると、再生可能エネルギーが環境に優しい究極のエネルギーだという論調も基本の部分で間違っている。

例えば、太陽光エネルギー。パネルの設置による自然破壊、土砂被害の可能性も指摘されるが、それだけではない。そもそも自然の恵みで降り注ぐ太陽光があって地球環境が成立している。光合成により栄養源が生成され、太陽光熱は様々な自然現象を呼び起こす。仮に地球の何割かの表面を太陽光パネルで覆ったら、自然環境は劇的に変化するだろう。

水力発電も当初は水の位置エネルギーを電気に変換する、究極の再生可能エネルギーの様に期待されていたが、その実、自然災害のリスク以外にも、河川環境や下流地域の生態系等にも重大な影響を及ぼす事が分かっている。

変化が微小な僅かな利活用であれば問題が顕在化しなくても、量的に無視できなくなると予想できない何らかの影響が顕在化するのは疑い様が無い。しかも、人類の電力消費量は年々増加、日本もIT化を進めようとする中で電力消費量はこの先莫大に増加する事が報告されている。

更に、CO2削減、実質排出ゼロを目指すとなると、石化エネルギーの燃焼という手段は限定的にならざるを得ない。

以上の様な現実に直面している状況下では、あらゆるエネルギーをバランスよく利活用するべきなのだ。従って、根拠もなく、或いは根拠ある様に見せての原子力発電ゼロ化推進は無責任との誹りを免れないというのが筆者の基本姿勢である。

<リスク管理視点で見た原子力発電>

但し、リスク管理視点で見た場合、原子力発電の事故発生時の被害をどう考えるべきかは、大きな課題である。一度、被害発生した場合その規模は絶大で、発生確率が少々低くても、リスクスコアとしての「被害×確率」は高くなるのが必定であり、この点を考慮する必要性がある。どこまで安全対策を充実させてもゼロにはなり得ないので、リスクスコアは決してゼロにはならないのだ。

但し、福島原発事故以前ならば被害想定が困難で、ともすれば人類存続不能ともされる言質もあったが、各所での大小の事故を経験した今なら定量化する情報が存在するはずだ。是非今一度リスク管理の側面で客観的に評価するべきだろう。他のエネルギーのリスク評価と比較して実はそれ程大きくないという結果になるのではないかと想定しているが、極めて専門的な計算が必要であり、冷静な議論が必要だろう。

そして、何より危惧しているのが、技術力の低下だ。筆者が大学入試を受ける頃は、原子力工学は花型で、優秀な学生が集まっていた。今はどうだろう、その種の学部があまり見当たらない。これは、原子力忌避思想に縛られ、非難を受け続ける市中環境では、志望する学生が減少する状況に追い込まれざるを得なかった結果ではないだろうか。かつては、日本の原子力技術は世界に誇るべき水準であったが、今はどうだろう。

ましてや、原子力ゼロ、自然消滅と言っても、今ある原子力発電所廃炉や廃棄物処理には、長い時間が必要である。その為に、何世代の技術者が関わる必要があるのか、まだまだ優秀な技術力の育成は必要不可欠なはずだ。この様に考えれば、後ろ指さされる技術にしてしまっては先行きが危ない。それこそ、技術者不足、技術力低下は、リスク発生確率も、発生時の被害も高めるのは間違いない。

だからこそ、原子力技術を花形の学問にもう一度復活させる必要がある。幸いなことに、小型モジュール化など新技術が期待されている。この技術の実現性に疑問を投げかける前に、渡りに船だと、国家上げての強化、支援を高める事で総合的な技術力向上も期待できるのだ。実情を考えると、戦略的投資をしない手はないのだ。

<期待される水素エネルギー>

筆者はエネルギー問題の解決策の一つとして以前から水素エネルギーに注目していた。燃焼時に無駄な廃棄物も生じないクリーンエネルギーとして。

但し、水素はご存じの方も多いだろうが、取り扱いが難しい。危険で、保存にも膨大なエネルギーが必要だからだ。

エネルギーは、必要な時に必要な場所で必要なだけ供給できる必要がある。その為には、保存・蓄積、運搬も必要になる。水素は液化して運搬も可能だが、その取扱いには注意が必要になる。それらの問題を解決するのが、水素キャリアとしてのアンモニア利用なのである。

筆者は7年ほど前、このアンモニア利用に注目し、各種研究論文を読み漁った時期があった。その時、受験生であった長女も物見遊山で同様の文献に目を通し、自身の第一志望校にこの研究をする研究室を発見し、興味を深め、このテーマで小論文を書いたほど、その時期注目していた。そして現在、アンモニア運搬船が開発されるまでに至っている。

世の中には、否定論者も多く存在する。アンモニアは、燃焼時にNOxという有害物質が生成される危険性がある。そして、生成法として現状の主となるのが「ハーバー・ボッシュ法」であり、これには膨大な熱と圧のエネルギーが必要なので、その時点でエネルギー効率の悪さやCO2発生問題が伴うからだ。

しかし、日本の燃焼技術は世界トップクラスであり、安全な燃焼はそう難しくない。低エネルギー生成法の開発さえ実用化出来れば問題なくなるのだ。そして、アンモニアの生成が工業的に容易になれば、現在の主用途である肥料用途にも利活用が広がり、食糧問題の解決にも繋がる一挙両得なのだ。科学技術は、諦めず、目的に向かえば、不可能を可能にする。期待したい。