勘違いするな日大、教育現場は治外法権ではない

日大アメフト部の大麻疑惑に関して、日大側は個人の犯行との結論に至ったとの報道があった後に、他の部員の関与の疑いとして2度目の家宅捜査が行われた。

危機管理を学問として教える日大が危機管理の基本中の基本を逸脱する失態である。

危機管理とは発生した危機に対して、その波及範囲を最大限カバーして対処する事がまずは求められる。今回の事案でいうならば、大麻・覚せい剤に関わる違法行為の疑惑があり、しかも当初から個人の犯行でなく日大寮内の複数名が関与しているとの疑いはあった。つまり、波及範囲としては関与した全ての個人が特定されなければならない。

この範囲を出来るだけ狭く特定したいのは人情であり、関与していない無実の人への濡れ衣を晴らすべきなのだが、この特定は口で言うほど簡単では無く、絞り込みは容易でない。その場合は、最低限でも寮内全部、いや最悪の場合学内全部を対象として危機対応するのが危機管理の定石である。一旦特定した波及範囲が後に拡大してしまうのは最悪なのだから。

コロナ渦の対応で世のメディアが、危機管理とリスク管理の違いも理解できずに、リスク管理事項に前述の危機管理の定石を当てはめて喧伝するという誤りを後押ししたのは実は日大の危機管理専門家だと筆者は認識しているが、当の日大が実際の危機管理事態に対して、基本を無視したと言わざるを得ないのだ。

繰り返すが、日大は危機事態を一人の犯行と最小範囲に特定したが、実はまだ複数名の関与が疑われる状態であり、特定範囲が広がってしまっているのであり、この状態は日大として今後、何を発言しても信頼できない隠蔽体質と断ずるに足る事態なのだ。信頼を取り戻すには相当な努力と反省を元にした改革が必要だろうが、現時点でその様な様子は感じられない。少なくとも危険タックル事件の反省は無く対策は出来ていないという評価が一般的な感覚ではないだろうか。

<教育現場の治外法権意識の顕在化>

学校組織環境には危機管理の基本よりも上位の概念があるがゆえ、こうなってしまったと考えるべきではないだろうか。その真因を推察し考察したい。

まずは先日の記者会見で抱いた違和感を述べたい。この違和感は教育界全般に横たわるものだと、筆者自身の過去の経験からも感じるものなのである。

違和感の正体は、必ず出てくる「教育的見地から」「教育現場であるがゆえ」というニュアンスで教育業界側から語られることにある。

筆者には、危機管理の要諦どころか、あたかも法的概念よりも上位に教育的概念が位置するかのような物言いに感じ、教育現場が治外法権にあるかのように勘違いしているのではないかと疑うのである。

結論から言うと、違法行為に関して、教育現場であろうと、他の社会であろうとも考え方に違いはない。教育現場だから、教育的視点を入れて、学生の将来を考慮して、学業を優先した対応をするなどというのは許されず、法的に粛々と、そして厳しく対処するべきと考えるべきものなのだ。

自首を促すのは良いとしても、犯人隠匿・証拠隠滅と疑われるような行動はそれ自体に違法性の疑いが生じるため、厳に慎むべきであり、警察捜査に委ねるのが国民としての責務である。ところが、なぜか教育現場であり生徒が対象となった瞬間に、教育者は法の概念を上回る偽善の皮をかぶった独裁者と化したかのような勘違いをして、違法行為や犯人隠匿、隠蔽を正当化しようとする。

今回の件も、個人の犯行で他に関与者がいないと決めるのは、学校側、教育者ではなく、警察であり検察なのだ。そして罰するべきかどうかは司法の役割である。犯行が行われたのが教育現場であるならば学校側は警察捜査に協力するのが当たり前で、知り得たことはつつみ隠さず速やかに報告するのが当然であり、これを放置するのは警察権力にあらがっていると言われても仕方がないだろう。

教育現場は、過去の経験からも、警察を入れることを極端に嫌う傾向がある。犯罪が疑われているにも関わらず、警察を入れず、教育現場だけで内々に処理してしまうことが、あたかも教育現場の正義と勘違いしていると思えてならない。実際に教育現場は特別だとの発言を聞いたのは一度や二度ではない。

これでは法治主義を軽視する、自己都合での組織ぐるみの隠ぺいが完全犯罪として正義になると教える反社会組織となんらかわらない精神構造に思えてならない。

繰り返す、教育現場であろうと、それが教育の対象である生徒であろうと、違法行為であればそれは厳しく法に則って対処するべきあり、それが法治国家としての基本原則でもある。それができない教育は健全な教育ではないと断言させてもらいたい。

情報論理分析の要諦、分かり易い情報とは?

企業内の業務遂行時に、自身の業務成果を資料として残す。また、自身の業務遂行において過去の他人の実績を参考にするために過去の資料を紐解き、分析して自身の業務に役立てる。当然の業務遂行上の規範である。

ある日耳に入ってきたのが、過去の資料が分かり難く、読み解くのに当時の担当者に何度もヒアリングするなど苦労したので、他人が見て分かり易い資料の作成を心がけよう、との事だった。しかし、言わんとすることは正論でも、それでは精神論でしかなく、結局何も改善しないと言わざるを得ないのだ。

分かり易い資料とは、具体的にどんな資料なのだろうか?

<資料が分かり難い原因は情報の中身?>

一言で分かり易い資料といっても、具体的にはどの様なものを指すのだろう。巷のハウツー本では、箇条書きにして、図表など一目見て感覚的に認識できる様にだとか、テクニックは語られている。しかし、それだけでは情報自体の品質は保証できない。情報を伝えるべき資料であれば最優先するべきなのにだ。

情報と言う観点で言うなら、あらゆる情報が満載された情報に不足ない資料は、読み手に取って極めて分かり難いだろう。プロセスを割愛したグラフィックや図表を使えば視覚的に理解し易いが、そのプロセスの誤謬性には気付き難くなる。

一方で、全ての必要情報が分かり易く論理的に整理されてあっても、読み手側の読解能力不足で誤った解釈をしたり、自明である推論すら、明確に記述されておらず曖昧と資料の責任に転嫁する場合もあるだろう。

そもそも人間が作成した資料であり情報なのだから、記載されている内容に間違いもある、或いは誤った解釈されている場合は当然あり得るだろう。従って、読み手側にも一定の解釈が必要なのだ。

<世の中にまん延する情報の誤謬性>

企業の業務報告や記録の例で語っているが、世の中に広まるメディア発信の情報も同様の誤謬性、読解力不足の誤解など、全く同じ構造が存在する。まずは、この情報について反面教師として考察してみたい。

マスメディアの発信する情報とは、2次情報、或いは3次情報である。従って、常々鵜呑みにせず、1次情報に当たり確かめる事を推奨している。1次情報からどの様なプロセスと論理考察で生成された2次情報なのか紐解くのである。ニュースソースは明かされず1次情報に辿り着けないとの批判もあるかもしれないが、殆どの場合、外堀を埋める情報は存在し、少なくとも推論は立てられる。

そうすると、余りにも可笑しい論理飛躍、結論ありきの無理筋が如何に多いか気付くのである。仮設としてその結論に辿り着く1次情報は何が考えられるか、推論すれば、その周囲の情報との矛盾が隠せず、帰納的にも論理破綻が示せる場合が多い。その様な作業を心がけておれば、自然と2次情報を見ただけで、その誤謬性の存在、胡散臭さに気付けるような能力も養われる。

マスメディアの発信する情報が偏向するという事実は、歴史的に見ても明らかである。大本営発表と悪の権化の様に政府情報統制を語られるが、事実は民間の新聞社の発信する情報だったのだ。

現在の、電波系メディア、新聞系メディアもある思想信条、意図を持った方向性に偏向しており、現実的に放送法4条は守られていない。結論ありきの無理筋、過去発言との整合性ない論理矛盾。意向に沿わない情報を発信しない報道の自由。これを鵜呑みにすることは危険極まりないのだが、未だ影響力は絶大で、多くの人は知らず知らずに信じ込まされている。

しかし現在はネット空間に発信される情報が存在する。もちろん、その情報の一つ一つ、個々に見ると夫々に偏向していると言っていいだろう。しかし、規制がかからない、いや色々な規制がかかっても全員参加の双方向性メディアとして、オールドメディアに比べて大きく情報発信の自由度が高く、種々雑多な情報が埋もれている。

実は、オールドメディア側から見るとこれは大きな脅威なのだ。自分達の情報の信頼度が低下する事態を招きかねないからだ。従って、ネットの情報は胡散臭く、オールドメディアが正しいというプロパガンダが蔓延り、規制に必死なのだ。場合によっては、報告などで広告剥しやアカウント停止を目論んだ抑制が厳しいのが実態である。

しかし、よく考えて欲しい。情報とは、発信側は自身が伝えたい意図に沿ったものなので偏向は当然だろうが、受け手側はあらゆる情報を受け取る権利がある。そして、多くの情報の中で自身が必要とする情報、活かせる情報を取捨選択するのが当たり前ではないか。

ならば、オールドメディアの様にどこを見ても金太郎あめの様な一律の情報(しかも偏った)ではなく、ネットを中心とする有象無象の情報から受け手側が是々非々で取捨選択する方が正しい姿ではないのだろうか。実は、今迄はこの役割を書籍が果たしてくれていた。これからも書籍の役割は継続するだろう。しかし、ネット情報の活性化により、情報革命が起こり、素人でも昔の諜報部員並みのオープンデータ取得した情報分析が可能な時代になったのだ。逆に大なり小なり、情報力を高めなければ、社会に適合できなくなるリスクすらあるだろう。

だから、常々、情報の論理分析力を高める活動を推奨し、1次情報に当たり、自身の頭で考察する癖を身に着けるべきだと言い続けている。

<企業における情報伝達、ノウハウ継承>

前述した情報論理分析力は、これからの社会において必要不可欠であり、企業人としても是非、普段から心がけてもらいたいと思っている。

その上で、そうは言っても資料の1次情報に毎回当たっていては業務効率が悪すぎるのも事実だろう。

そのために必要となるのが必要な情報の構造化ブレークダウンだろう。

前述の例で考えて見よう。過去実績の担当による資料が分かり難いのは、何故か考察するのだ。情報が不足していたのか、必要のない情報が満載で必要な情報が検出し難いのか、情報に誤りがあったのか等。

この考察の結果、情報不足であれば、どの様な情報があれば良いのか、具体的に項目出しをしなければならない。当然それは、継続的にフィードバックがかかるようなプロセスで、不足情報の項目出しを加えていく仕組みが必要になる。何故なら、一度の考察、検討で、必要な情報の全てを網羅するのは不可能だからだ。やりながら、レベルアップしていくのだ。そして必要項目記載をルールとし、ミスロス削減の為にもテンプレート化しておくべきだろう。

不要な情報が満載でと言うのなら、少し考える必要がある。何故取捨選択が出来ないのか。

情報が整理されておらず判然としないのなら、定型の情報は固定表記される様にテンプレート化して整理すれば良いだけだ。むしろ情報が満載なのは良い事で、受け手側とは一人ではなく多面的なので、それに対応するのは情報自体が最小公倍数を実現する必要がある。

必要な情報が整理され表記されていて、尚且つ分かり難いと言う事例を多く確認する事がある。つまりこの現象の原因は、受け手側の情報読解能力の問題なのだ。

その次の情報に誤りがある場合も難解だ。基本的には資料として記録を残す際にミスロスを防ぐ策が大前提である。前述の項目整理やテンプレート化は有効な策となろう。それでも人間のする事に完全はなく、一定のミスは発生する。

これは本質的には一定のリスクを受容する必要はあるが、最小化する為に資料作成時の対策は不可欠だが、加えて受け手側が利用する際に一定程度の感性を持って見抜ける能力の養成が必要不可欠なのだ。

ひとつの方法は、時々抜き取りでも、1次情報に戻る作業で能力を高める。普段から周辺で起きている時事問題、経済界の課題などに関心を持ち、書籍やネット情報を確認し、時々その背景にある1次情報、オープンデータや論文も確認し、自身の思考を磨く作業を行っておく事が重要だろう。

実は、この能力の基礎は、義務教育で誰もが教育されている、国語の読解力、長文を読んで筆者の気持ちは?この主人公の言葉の意図は?とい問いであり、演繹法や帰納法を駆使した論理証明などである。そんなに難しい事では無いはずなのだ。

情弱な社会環境に対峙する決意

新年あけましておめでとうございます

今年は、私自身還暦という人生の節目を迎えます。昔は、還暦というと爺さんのイメージでしたが、いざ自分がその立場になると、まだ人生の折り返し点、やり残したことがあると感じている。これまでの経験、ノウハウを、今後は、何らかの形で社会にお返しをすることに費やす時間と認識を新たにしております。

昨年、一昨年の約2年間、世界はコロナ禍という、インフォデミックを経験し、未だ抜けきれないでおります。

PCR検査には偽陰性と偽陽性が存在する、それは感度と特異度という精度が100%でないからだ。小学生でもできる計算を行えば、検査で決して安心が得られる訳では無いのだが、いつの間にか人は安心を求め、検査に走り出している。

そして発熱しているにもかかわらず、検査で陰性と判定された後に安心して社会活動を始めるという例がまだ散見される様だ。あれだけ社会事例で、発熱後の検査で陰性とされた後に感染させる、クラスターを発生させた例が報告されているにも関わらず、いざ自分の事になると、検査で安心してしまう。

その個人は、悪気がある訳ではない。日本語が理解できない訳でも無く、知能が低い訳でも無い。しかし、人は安心を求め、誤った行動をとってしまう、弱い生き物なのだ。私は、それを『性弱説』で説明されると考えている。

許せないのは、人の弱みに付け込み、危機を煽り、時には自身のビジネス上の利益の為に人に不安感を抱かせる行為を公共の電波を使って垂れ流すことだ。あたかも、正義を気どり、多様性と言いながら、異論を許さない。人権問題を主張しながら、人権を侵害する行為を拡大する。最近の報道姿勢は目に余る状況であり、何か勘違いしているとしか思えない。

この様な社会環境で、弱い人間を支えるのは、自己防衛でしかない。そのためには、それを支える正しい情報が必要であり、情報を読み解く論理的分析力を鍛える必要があると確信している。企業においてはリスク管理であったり、危機管理、セキュリティ管理の領域を充実し、従業員の健全活動が活動を支える環境の構築が重要になるだろう。

私の残りの人生、微力ながら、所謂『情弱』な状態に陥らない為の個を育成し、企業環境構築に貢献できれば幸いと考えているので、引き続きご支援の程よろしくお願いいたします。

自民党総裁選挙が示す日本の課題

自民党総裁選が公示され、連日論戦が戦わされている。本当に幅広い政策議論が新鮮で、それが故に数々の問題意識が呼び起こされている。

年金問題としながら、高負担高福祉路線の提案をする河野候補。過去に議論され、大幅増税の必要性から現実的でなく、現状の年金改革になっていると訴える他の候補。

エネルギー基本政策に現実的なバランスを考慮した原発の必要性を訴える岸田候補、更に新たな技術への開発投資に言及する高市候補、あくまで再可能エネルギーを主流とする脱原発路線を訴える河野候補。

国防問題で、敵基地無力化の必要性を訴える高市候補、岸田候補、『昭和の概念』と揶揄する河野候補。更に経済安全保障面含めた医療、サイバー、量子技術、半導体等積極投資まで踏み込む高市候補。

多様性、弱者差別問題解消を訴える野田候補、弱者に寄り添い問題視しつつ野党等提案の法案に潜む問題、選択的夫婦別姓法案における子供の人権、LGBT法案に対する性自任と差別禁止に潜む性犯罪増加リスクを訴え、慎重な議論が必要とする高市候補。

などなど、多くの国民の理解を呼びかけ、問題提起しながら、国民一人一人の思考を促している。気付かされるのは、議論の幅の広さだろう。

河野候補の極めてリベラル色の強い政策思考、人権や差別問題を重視するリベラル色の強さは野田候補。保守と思われていた岸田候補も国民の声に寄り添う姿勢を重視し、中道左派とでも言うべきだろうか。右翼だ、タカ派だと一時揶揄された高市候補の政策理念の幅の広さは右というよりは保守中道からリベラル的政策提言まで幅広いポジションだろう。

<総裁選の議論は本来国会で戦わされるべき>

本来であれば、この論争、議論は通常の国会で行うべきものだが、今の国会は、粗探しの足の引っ張り合い、レッテル貼りによる誹謗中傷、スキャンダルの追及に終始し、まともな政策論争が為されていない。野党勢力は否定するだろうし、批判するだけでなく対案も出していると主張するだろうが、国民に伝わっていないのは事実だ。最近の野党の発信は更に極めつけで、ダブルスタンダード、批判の為の批判、支離滅裂な非論理の繰り返しで、この人達が国会に居座り続ける限り、真面な議論が国会では出来ないと諦めざるを得ない気持ちにならされる。

しかし、自民党総裁選挙は一般国民に参政権は無い。広く政策を示し、国民の声を聞いた党員が間接的に候補者を選択し投票する事で決せられると同時に、今回の論争で既に発生しているが、お互いの候補の政策のいいところ取り等で方向性を修正していく手順で担保されているが、それでも直接民意を反映とはならない。

この構造、実は55年体制の自民党政権下で中選挙区制度に近い。民意により、政権交代は起きないが、路線修正を求める国民の声を示す方法があった。しかし、小選挙区制になって、投票行動で現実に政権交代が起き得る状態になっている。そうなると、方向性の修正を求めるが、政権交代ではなく政策シフトを求める国民の意思の反映方法が失われている。

自民党のリベラル色が強まっているのは、この小選挙区制において国民が望まない政権交代が一時のブームで発生するリスクを回避する為に、受け皿として幅が広まったのだろう。要は、現野党が真面な議論も出来ない、他を批判し、自身を絶対正義とする傲慢が故、政権を任すのは危険すぎるという層が多数であり、ここの是正が本質的には日本の政治の課題なのだろう。

事態脱却の唯一の光は、日本維新の会が地方政党色を脱却し、全国的なパワーを持つ事。或いは、国民民主がふらふらせずに、健全野党としての道を究めてパワーを付けていく事だろうか。その場合、本来的には現自民党の河野候補の様なリベラル色の強い議員は、外に出て戦う事なのかもしれない。

ただ、本音を言えば、同じことを繰り返しそうな想像しか生まれない。であるならば、中選挙区制に戻すのが、日本にとって民主主義を守る最大にして最高の方法かもしれない。

<偏向報道で情報弱者大量生産>

次に指摘する課題はマスコミ報道の姿勢である。

告示前、誰が立候補するか等の情報が、マスメディアとネット空間の両方で発信されていたが、内容が全く異なっていた。結論から言うと、正しい情報はネット空間側で、マスメディアの情報はガセと言ってもいい程だった。その後のマスメディアの報道姿勢も意図的と言っていいほどの偏向を極めている。

典型的は、日本記者クラブの候補者討論会だが、質問時間に偏りがあり、『4候補に聞いても良いか』という確認が小声で為された事からも意図的に時間配分を操作していた事が発覚している。当然認めないだろうが、結果の時間が全てである。支持率の調査も余りにも数字が違い過ぎて、どれだけ意図的な誘導が行われた結果の数字か窺い知れるのだ。

情報に普段から貪欲で、自分自身であらゆる手段を尽くして情報取得している人間であれば、より正しい情報入手は可能だろうが、現状では多くの人がマスメディアの情報以外に触れていないだろう。逆に言うと、マスメディアは多くの人に公平な情報を伝える責任があり、地上波メディア等は放送法で規定されているが、全く守られていないのが実態である。

偏向情報、所謂フェイクニュースは、ネットではなくマスメディアの方が悪質なのだ。

巷では、ネットの情報をフェイクと言い、騙されるなと注意する。これ自体フェイクニュースだ。ネットの情報は玉石混淆である事は間違いない、つまり嘘も入り混じる。だが、受け取る側の情報力で見極めれば良質の幅広い情報が入手できる。というより今や正しい情報はネットから取得する以外に方法はなく、しかも便利だ。

マスメディアの報道手法として、関係者へのヒアリングで特ダネを入手しリーク報道をする事がある。予ては、例え特ダネを入手しても、裏取りして正しいか確認するのだが、最近殆ど行っていないのではないだろうか。特ダネが、自分達が報じたい方向に適合していれば、無条件で発信する事でフェイクニュースが生まれる。

更に、誤報であった反省もしないで、繰り返していると常態化してしまい、無い話も少々盛りながら伝える事も横行し、遂には自分達の考えの方向に沿いそうでない情報は見て見ぬ振り、不都合な話を発信しそうな人には聞かない、という状態が現在ではないだろうか。

高市候補がNHKの改革を表明したが、総務大臣経験者でもあり電波法制にも手を付ける、或いは法律の厳格な運用を推進する事が必要な世の中になってしまっている。

恐らく、既得権益者の抵抗が厳しくなり、偏向報道が激しく批判に向くだろうが、この種の煽り批判が実現した事が無い事実を思い起こすべきだ。安保法制で戦争法案と揶揄、若者が徴兵、等は実現しただろうか。寧ろ、あれではまだ生易しく、アフガンの現地法人救出が失敗したのが現実だ。諜報活動も先進諸国と足並みが揃えられず、未だ不充分なのも一因だろうが、これも秘密保護法制の誤解で踏み込みが甘い妥協が故だ。

マスメディアからの情報しか入手できていない人は要注意だ。鵜呑みにせず、出来るだけネットなどの情報にも幅広く触れる様に心がけるべきだろう。

従来からネット情報を取得できている人は、更に幅広く、自身の思想信条に反する情報にも触れるべきだ。更に活字情報に触れると、切り取りでない深い情報が得られる。危険なのは、エコーチェンバー状態なのであくまで多様な情報に触れて、自身の頭で思考する事が重要になる。

首相公選制などの直接選挙を訴える人も多いが、現状では危険だろう。総裁選決選投票の党員党友票を1対1にするという案もこれに近しく、誤った道を選択する危険が増すだろう。国家の宰相は人気でなく、指し示す政策の方向性とそれを実行する個人の執行能力とリーダーシップによる組織牽引力のバランスで選ぶべきだ。一人でできる事は限られるが、リーダーシップがあれば組織で難題もクリアでき、政策も柔軟に実情に適合出来るからだ。

感情に論理が負ける日常が社会不安定を招く

スーパーコンピューター富岳による東京五輪で国立競技場に観客1万人入れても感染リスクは僅かだという、シミュレーションが報告されたが、あるテレビ番組で医療の専門家が、観客を入れたらリスクがある事は間違いない、と全否定した。正確に言うと、この専門家の発言は論理的には何も間違ってはおらず、富岳はリスクは僅かと結論しているがゼロだと言っている訳ではなく、リスクがある事は間違いないと言うのであり、何も矛盾しない。

しかし、ゼロリスクを前提とした論理を専門家の発言力によって発信する事は、誤誘導を発生さ、多くの人は安全ではないと頭では違うと理解していても、感情的に妄信してしまう。人の心理として危機を煽る方がインパクトが大きく、冷静にリスク論を論理的に、数字を使って語っても、心には届き難くなるからだ。つまり、社会不安を醸成する問題行為なのだ。

ゼロリスクとは、リスクが僅かでもあれば安心が得られないと強弁する事であり、医療の専門家はどうしても安心側から話をするという自己弁護を繰り返すが、これは自己矛盾を起こしている。スタジオでマスクもせずに強弁する行為、各地から放映の為にテレビ局に移動する行為に感染リスクがゼロとは言えないからだ。

その他にも数々のダブルスタンダード、言行不一致を繰り返す状況では、発言の正当性が失われている事に気付く必要がある。何故、その場のコメンテイターはこう追求しないのか『では、感染対策を実施したパーティーや寿司会食とどちらの方の感染リスクが高いのですか?』この質問の意図は、科学で語らないのなら、感情論で語っても納得ある説明が出来ないでしょうと気付かせる事だ。

この非科学的論理破綻の感情論の担い手は、いくつかの層に分類される。

一つは、確信犯的層。それは、

  • ① ネット言論空間で跋扈する活動家
  • ② 政府批判を目的とする野党勢力
  • ③ 地上波メディアで危機煽り発言を繰り返す専門家
  • ④ 権力の監視・批判が役割で目的達成の為に手段は問わなくて良いと誤解するマスコミ

等であろう。しかし、数的には本来少数派の筈なのだ。①は数年前からSNS利用の反対意見つぶし等目に余る行為もあるが所詮マイノリティであり、②もだからこそマイノリティで野党なのだ。しかし、③④の力は絶大であり、①②と連動する事で影響力拡大、第四の権力としての実効力を持つに至っている。しかし、そのもの自体はそれでも少数である事は疑い様が無い。この①~④に影響を受け扇動される層、従来であればサイレントマジョリティであったはずの層が影響を受け、感情論のマジョリティを形成している現象であり、この層の特徴をいくつか挙げる

  • ① 文章を読まない、或いは読めない。全文読まず、単語の切取りで分かった気分になる。
  • ② 書いてもいない事を印象で決めつけレッテル貼りする。
  • ③ 事実やデータから目を背け、否定する。自分で調べる事もせず、論拠がない。
  • ④ 論破されても次から次へと論点を変えるだけで、論理的な反論が出来ない。
  • ⑤ 著名人を呼び捨てにする等相手に対する敬意を持てない。異論を認めない。

これは、情弱そのものであり、この様な状態でまともな議論が出来る訳がなく、意思決定が健全に行えるとは思えない。SNSの書き込みや記事へのコメントなど気分が悪くなるくらい酷い内容が多い。結果として、ネット空間での集団リンチ、言論弾圧が平気で行える不健全な環境を産み出すのである。これが世論形成に影響を及ぼす規模に発達すると社会は不安定化してしまう。

感情論の危険性は、法治国家を揺るがす私刑、同調圧力に発展させてしまう事は疑い様がなく、民主主義の意思決定にまで及べば民主主義が破綻する。これに対抗し健全性を取り戻す為には、論理的な議論を活発化させる、その為の言論空間を整備することだろう。

反対意見を排除する為の報告利用は論外であり、直接言論弾圧なので法的罰則も必要だろう。そして、同時に言論の自由は無制限ではなく、一定のルール・マナーも必要だろう。

  • ① 異論に耳を傾け、敬意を払い、正当に解釈する寛容性を持つ事。
  • ② 持論の展開は事実を前提とし、裏付けと、論理性を保つ事。
  • ③ 反論の場合は尚更、ポイントを整理した上で論理性を保つ事。
  • ④ 不必要に議論を拡散、散漫させず、一つ一つ是々非々で決する。

であり、これは即ち読み書き算盤の基本、社会人として最低限のマナーなのである。

文章を読み、読解力を身に付け、科学的な知識を前提に、事象の検証の為に裏付け確認を怠らず、数字の意味を読み解く力を育成する。難しく書いたが、義務教育において獲得するべき基礎能力である。

残念ながら、この基礎能力に問題があるか、或いは能力はあっても、基本事項を無視する層が存在する。この層は、昔なら民主主義の意思決定には、浮動層の一部としては機能してきたが、ネット普及により多数世論を形成出来るマジョリティになり得る様になり、結果として社会不安定性が高まっている。

世界史的に国家や組織の統治方法として、国民、組織構成員への教育を充実させず、上記基礎能力を持たない人間で多数派形成し、情報操作で都合の良い方向に扇動し都合の良い安定化を図るという考え方もあったが、現代では通用しない。それはネットによるオープンデータが事実を知らせる効果を持つからだ。

幸いな事に、日本は有史以来上記の方法を採用する様な考えを為政者が持たず、国民への教育は文化発展と共に充実させてきており、識字率など古くから世界トップクラスを誇っていた。それでも、明治維新で西欧列強に肩を並べる為には、国民の基礎学力の支え、強化が必要であり、『学問のススメ』が提唱されたりもした。

世界的に情弱による社会不安、民主主義の崩壊が進みかねない状態において、現代版『学問のススメ』の考え方は復刻するべき事項と思える。

大坂なおみ選手の全仏棄権問題に見るアスリートとメディアの関係式

テニスの4大大会、全仏オープンテニスの会見拒否から、心の健康を理由に棄権となった。各メディアやトップアスリートがそれぞれの立場でコメントを発しているが、ワイドショーという環境に守られた無責任コメンテイター達は相変らず、どこかポイントがズレている発言が多く感じる。

<心の健康は現代社会の問題>

この問題は、決してトップアスリートに限った問題事象ではないし、テニス特有の問題でもない。現代の社会問題なのである。

まず、棄権に関してだが、複雑に考える必要は無く、物事は単純化して整理するべきだし、そうでないと本当の問題は見えてこない。

大会の場は、大坂なおみ選手にとって職場であり、そこでの仕事は試合だけでなく、記者会見などのメディア対応、ファン対応なども含めて全て仕事である。その仕事を責任持って実行する事が出来ない健康上の事由が発生して、棄権(休暇)するという事だ。

心の病気も病気であるし、職場を離れざるを得ない立派な事由である。従って、しっかりと療養し治癒させ、復帰プログラムを経て復帰できることを心待ちにしたい。否、こういう期待も心の病の回復には障害に成り得るので静かに見守るべきだろう。メディアも朝から晩まで報道するのではなく、事ここに及んでは静かにするべきだろう。

確かに、会見拒否から、棄権声明のSNS発信など、正直叩かれてもおかしくない表現もいくつかあるが、そこは心の病が故の所作と考えて大目に見ても良いだろう。

これは、アスリートの世界特有の現象ではなく、一般の社会、企業でも多数発生している現象であり心の健康を取り戻すべく対応する以外にないだろう。

会見なしで、プレーだけ出来る様に周囲で配慮、時代遅れの規則を見直すべき等と無責任に言う向も多いが、それは根本的に違う。会見に耐えられない病状で、プレーのストレスに耐えられるとは到底思えない。プレーであっても、自身の思う通りに行かない厳しい場面に出会うだろう、そのプレッシャー、ストレスを乗り越えて、正常にプレーを続け様とする事も、病状を悪化させる要因になり得るのだ。

繰り返すが、プレーと会見等セットで仕事であり、その一部が耐えられない状態であれば、その原因に向き合い、まずは適応できる様に回復を目指すべきなのだ。

<アスリートとメディアの関係>

トップアスリート故のメディア対応の負担だとか、記者会見で浴びせられる心無いインタビューの数々、それらの問題性を殊更極大化して取り上げるのも、本質的ではない。

念のため断っておくが、筆者はメディアの姿勢に関しては、問題性を孕んでいると、憤りを隠せない。数々の上から目線で自身が絶対正義であるかの様な振る舞い、言葉狩、揚げ足取り、人格攻撃等も多く見受けられ、人間的にも、社会的にも決して許されるものではないと感じている。それでも、今回の件で記者会見の方法論や、ルール化等に安直に結びつけるのは、論点のすり替えであり、本質的な問題解決に向かわず、筋が違う論点と考えている。

メディアの問題姿勢に対しては、問題提起はしつつ、自分自身が変える事の出来ない社会悪として、その存在を認識し、自己防衛をする事で対処する必要があるのだ。事実、トップアスリートだけでなく、ジュニアアスリート時代から、メディア対応は教育訓練の対象になっている。

ジュニアアスリートによる、大人から見たら問題発言に思える、天狗の様な発言、振る舞いに対してメディアが総攻撃する事案が過去に幾例も発生していた。ある程度、年齢を重ね、社会に出れば、コミュニケーションの方法や不必要に事を荒げない振る舞いは自然と身に付いてくるが、ジュニアアスリートはその力を備える前にメディア等に晒されるリスクがある。

ジュニアアスリートに対しては、学校やチームの代表としての認識、責任感を持たせ、普段の振る舞いから、メディア対応等も教育している。筆者が代表としてコーチを務めていたクラブチームの選手達も同様に教育を受けていた。学生アスリートなどがテレビのインタビューで、『そうですね・・・』と、決まり言葉から入る事を意識された事はあるだろうか。突拍子もない質問が飛んでくる事も想定し、いきなり答えるのではなく、同意を示しながら、冷静に考える時間を稼ぐ手法、身を守る手法の一つなのである。

ジュニアが自己防衛せざるを得ないという問題は孕んでいるものの、今回の大坂なおみ選手の件とは別次元で検討する必要があるだろう。

<スポーツ普及における共存共栄関係>

スポーツの普及には、底辺の拡大とトップ選手の養成、その両輪が必要不可欠だ。底辺が拡大普及してこないと、トップ選手は出て来ない。トップ選手が活躍しないと底辺の拡大が図れない。そして、選手自ら、地域密着、ファンサービス、普及活動や広報活動にも前向きに取り組む事で競技自体の普及が図れ、それによってアスリート自身の活動の場が確保できるという繋がりがあるのだ。

アスリートだって、他の仕事と同様、全て自分の自由になる訳ではない。思い通りにいかない事も多いだろう。上に行けば行く程、周囲に対する責任も重くなる。それは至極自然の事ではないだろうか。

また、スポーツの普及の為にはメディアの力は必要不可欠だ。ネットの拡販力も相当高まってきてはいるが、まだまだ電波系メディアには敵わない。従って、アスリートとメディアは利害関係者であり、共存共栄が必須の関係なのだ。

そして、昨今の社会問題でメンタルヘルスの問題は更に拡大してきており、アスリートも例外でなくなっているのだろう。これは、別次元で対応するべき問題なのだ。例え、自分自身と思想信条や主義主張が異なろうとも、多様性も尊重し、リスペクトする事が重要。その上で、記者会見も含めた言論空間では、論理性を保つと言う最低限のルールの上、スポーツ競技に関しては競技ルールに則って、遠慮なく全力で戦うべきなのだ。

学校教育の歴史的分岐点に向き合う覚悟

学校教育に関する問題点が様々な視点で指摘されている。日本は、歴史的に見ると教育先進国であった。その証拠に所謂中世期から識字率が高かったり、国民のモラルの高さとして表れていたりする。しかし、その誇るべきはずだった国家としての教育レベルに対する問題の指摘が増大している。筆者自身は戦後教育の問題が大きいと感じてはいるが、そうは言っても過去は取り返せず、不要な摩擦を生み、建設的な議論とその先の改革には繋がらないので、一旦その事は置いておき、目の前の問題に前向きに向き合う姿勢で述べたい。

いくつか整理して現状話題になっている事象を挙げてみる

  1. 不登校ユーチューバーのゆたぽん氏による『中学校に行かない宣言』
  2. 教員による児童生徒へのわいせつ行為が後を絶たず、私的SNS禁止に
  3. 『#教師のバトン』プロジェクトに対する、ネガティブな炎上

他にまだまだあるだろうが、目の前で顕在化している事象だけでもこれだけある。筆者自身、以前学校現場と深くかかわった時期に垣間見たのも、極めて閉鎖的空間で、世間の一般常識と乖離した判断が堂々と行われていながら、内部の人達はその異常さすら感じていない状態だった。時には法律すら超越する聖域と化してしまう。同様の問題意識を持っても多くの保護者は口を塞ぎ、敢えて追求しないで闇に葬られることを容認する空気感が存在する。それは、問題化する事で結局、子供達に損害が生じるからであり、僅か数年の事なので我慢すれば過去として通り過ぎるという判断によるのだろう。

しかし、事ここに及んでは、国家としての一大事であり、自分事として語っていかなければならないのだ。

<個々の問題検証>

では、個々に検討を進めたい。まずは、1のゆたぽん氏の問題提起に関してだ。

学校の闇、閉鎖的な暴力やいじめに抗い、不登校になったが、その事を若干小学生時代からユーチューバーとして発信し続けてきた。ある意味、政治活動、言論活動なのであり、彼の言うことは正論である。非論理的な校則を問題視し、ホームエデュケーショを選択する権利を主張し実践している。ある意味成功例だろう。

しかし、これを一般化するのは少々無理がある様に感じる。ゆたぽん氏の子供離れした思考回路、コミュニケーション能力とそれを支えるご両親、家庭環境があって始めて成立するホームエデュケーション事案であり、他の子供達が真似をして権利を主張しても、多くの未習熟児童が大量発生するだけだろう事は容易に想像できる。

学校に行かなくても学べる環境を構築するまでには、まだ道のりは遠く、集合教育も必要不可欠だろうし、効果的な教育の浸透の為にはこの先も集合教育が主要となるべきだろう。しかし、中には別の方法の選択を容認しても良いケースも今後増加するだろうから、テストケースとして細かくトレースしながら、容認する条件や確認方法など検討を進めれば良いだろう。

次に、2の教員の資質に関する問題だ。

集合教育が必要不可欠だと言っても、それを支える教員がこの体たらくでは足元から崩れてしまう。そして、対応方針として耳を疑うのが、SNSなどでのやり取りの禁止だ。今の世の中、SNSぐらい使って、コミュニケーションを取る事は必須であり、わいせつ行為の要因と安易に判断するべきではない。あおり運転を撲滅する為に、車を全廃しようとは言わないだろう。わいせつ行為、性犯罪に及ぶのは再犯性の高い犯罪でありある意味病気とも言える。子供に教える資質の欠落は、SNSを禁止しても問題は解決しない。

3の『#教師のバトン』プロジェクトは別途投稿(『#教師のバトン』プロジェクトに見る教育界の改革策)しているが、教員の環境がネガティブ一色に染まっており、子供達ステークホルダー視点の要素に乏しく、とても前向きな改革に向かう空気感は生まれないだろう。

まとめると、資質の無い教員が多く、ネガティブな感情に支配された状態で、自分の頭で考えないロボットを再生産するだけの場所になってしまっている事になる。かなり厳しめの表現だが、学力は学校の授業時間は休憩して時間外に塾で身に着ける。スポーツなどの技能は、クラブチームなどで指導を受ける。コミュニケーション力や集団行動連携力などは、時代遅れの校則で縛らないと統制できない環境で育成出来様はずがないのだ。

<前向きな改革の方向性>

八方塞がりだが、前向きな改革なしに国としての発展はあり得ない。前向きな改革方法案をいくつかのカテゴリに別けて提案したい。

基本の5教科に関しては、徹底的にコンテンツのDX化を進めるべきだ。教師個人の教え方ノウハウで差が出るようではダメで、均質化する必要がある。また、児童生徒の能力や習熟状況に応じて徹底的にカスタマイズされた指導、個別課題の提示、習熟度確認が必要だ。その実現方法がDX化に他ならない。教師は、コンテンツクリエイターとなり、個々のカスタマイズのノウハウを積み上げる要員として機能してもらえば良いのだ。

上記以外に、問題に向き合い解決策を模索し実行する能力の育成も教育には不可欠な要素であり、その為に必要なのは、訓練である。グループディスカッションや議題のまとめ実践、時にはディベートやプレゼンテーションなども論理形成力を養う上で効果があるだろう。問題は、実施をどの様にするか、単純なカリキュラムで下して出来るものではない。これらは、民間の人材を活用する必要があるだろう。企業の定年が伸びるとはいえ、シニア世代に次の活躍の場、社会に貢献できる場を求める層は多い筈であり、この層をフルに活用すればよい。

部活動、芸術やスポーツなど特殊技能系の分野も同様に、民間の人材、クラブチームや地域社会との連携にて構造的に体制を確立するべきだろう。

これらの対策は、個々学校単位で行えるものではない。しかし、学校が抵抗勢力になっても改革は進まない。一般の業界で起こってきた、統廃合と同様、ある程度の規模感と統制力を持った体制に構造の再構築が必要だろう。

未来の日本を支えるのは、間違いなく、子供達である。今、子供達を主人公とした教育の抜本的改革を本気で目指す必要があり、その為には内部の力だけでは困難で、外圧でのスクラップ&ビルドがなければならないだろう。即ち、教育の歴史的分岐点に向き合う覚悟を全国民が持つ必要があるのだ。

『#教師のバトン』プロジェクトに見る教育界の改革策

教育が国家繁栄に必須の事業であることは誰も疑わないだろう。方法論として、学歴至上主義から、ゆとり、脱ゆとりなど、これまでの過程は迷走している様にも見えるが、目指す方向性は、国際社会で活躍できる人材の育成である事は間違いないだろう。即ち、成果につながる方法論が未だ確立できていないというのが現実なのだ。

ところが教育界は,かつてのあこがれの先生像から、成り手が集まらない不人気職業になってしまっている。残業が多いブラック業務、雑音が多く本来の業務に集中できない、本来業務と異なる対応に忙殺されると多くの教育関係者はうったえている。その現れとして、文科省の『#教師のバトン』プロジェクトが炎上してしまった。前向きな問題解決への1歩だったはずが、ネガティブな炎上に終始してしまうのが実態なのだ。

問題事象は、本質的な病巣とその要因に言及しない限り、改善はあり得ないのだが、巷の論は、殆ど現象に対して表面上の対策が多い様に感じる。業界のど真ん中にいる人達だけでは、本質に目が行かないのだろうかと疑ってしまうのだ。

産業界で永年様々な課題に向き合って前向きに乗り越え解決してきた経験と、縁あって部活動やジュニア指導を通じて、垣間見えた問題事象も踏まえて考察してみる。ある意味、教師の方々には耳が痛く、聞きたくないと言う反応、時にはネガティブな攻撃反応も予想されるが、攻撃的であればあるほど、病巣が深く、客観的に自分達の足元が見えていないと断ずる他ないと思っている。

<教育業界の病巣の考察>

まず、マネジメントや経営のプロの視点が教育業界には乏しく、ガバナンスが一方通行で機能していないと感じざるを得ないのだ。その証拠に『#教師のバトン』で集約された意見は、以下の内容だ。

・長時間労働の改善

・部活動の負担、顧問制度の廃止

・給特法の改正

・教職員定数の改善

・免許更新制度の廃止

ほぼ教員の待遇改善に終始しており、本来の主役である生徒に目線が行っていない。教師の成り手を増やす為に待遇改善は必要だろうが十分条件ではなく、その前に教員になる志を前面に出すべきであり、時代環境に適応した教育を充実させる観点が必要不可欠なのだが。

世の中の変化に適応し、ステークホルダである生徒や保護者の利害を考え、その上で社会の要求、矛盾する課題をマネジメントし最適解に導いていかねば改善はない。現場目線だけでは、どうしても被害者意識と自己正当化で偏ってしまいがちだ。気付かずに現場が抵抗勢力化していると言っても言い過ぎではないだろう。

この状況は、いつの時点から発生したのだろうか。筆者は、モンスターペアレント対応で他の業界と真逆に向かってしまったと分析している。

20世紀末から21世紀初頭、品質第一を掲げて顧客満足というキーワードと共に、クレーム対応を重要戦略と捉え、ステークホルダを意識したアカウンタビリティ(説明責任)が求められてきた。どんなヘビークレームもチャンスと考え、新たな経営課題にも前向きに真正面から対処してきた。そうする事が、企業が生き残る唯一の方策であったからだ。

同じ時期、教育業界では何が起こったか。モンスターペアレントを問題視し、本質的でない単なる言いがかりと遠ざける動きが強まった。テレビドラマなどでも、殊更その問題性を誇張して自己弁護に励み、その結果、建設的な意見も遠ざけ、改善していくチャンスを逸してしまった。ステークホルダである、生徒や保護者の意見が無視され、教育現場の聖域化が進んだのだ。

現場にいる人間にとっては、極自然で当然の正当性ある対応と感じても、世間の常識と乖離していったのである。確かに、ヘビークレームや現場を知らない無理難題等、相手にしていても仕方がないと言うのも正論だが、それに向き合い、本質的な視点で改革してきた業界と比較すれば明らかな差が生じてしまったのだ。

<問題の解決に向けての検討>

こうなってしまった原因は、教育現場を支える教師は専門職であり、マネジメントや経営を学び経験を積む機会がないことが大きいだろう。管理職になればという反論もあるかもしれないが、それでも一般企業でいうCSR的な機能、外向きの視点が極めて弱い。

その機能を外部の教育委員会や文科省に委ねるのはあり得ない。一般の業界で経産省やお役所に経営を委ねる事はあり得ないのと同じで、あくまで個々の事業責任で、経営改革、マネジメントは担う必要がある。しかし、学校単体でその機能を担う人材は到底用意できないだろう。であれば、一般の業界で起きている、統合再編の動きが必要なのだ。公立であろうと、私立であろうと、グループ化など経営統合、マネジメント統合などの構造改革による経営効率化、そして情報公開、説明責任能力向上が必要不可欠ではないだろうか。

その上で現場の改革としては、専門技能の向上と均質化を目指す必要がある。現状は、個々の教師の個人ノウハウに頼りすぎているがために、肝心の生徒へのサービスとしては均質ではなく、不公平なのだ。あの先生の授業は分かり易い、では困るのである。

専門職としての教師は、あくまで専門職としての技能を磨くことに専念してもらい、そのノウハウのDX化を進めるべきなのだ。個々の習熟度に応じて教えるポイント、躓きをクリアする要点等をDXで均質サービス化を目指す。教師のノウハウによる個々の状況に対応したインプットとDXによるアウトプットが積み上がっていく事で、サービス品質向上、均質化、きめ細やかなパーソナライズ化と同時に教師の省力化も実現できるだろう。まとめると以下の2点だ。

1.学校の経営統廃合による、経営マネジメント・ガバナンス機能の強化

2.基本教科のDX化でサービス品質向上(均質化、パーソナル化)、業務の省力化

現実に、上記を進めるためには、他業界からの人材を積極的に登用する必要があるだろう。それは、一般企業のOB、経営や管理職経験者を活用すれば比較的簡単だ。

また、学校教育は、基本教科を教えるだけではなく、未来の社会で活躍する人材を育成する必要がある。

知識は基礎知識さえ入っていれば、社会人になってから、いくらでも勉強できる。勉強するモチベーションさえあればだ。それよりも、問題に直面した時に、自ら思考し、解決策を導き出し、実行する力とモチベーションを維持向上させる力、そして何よりも人間力の方が重要なのだ。

その力を養うのは、勉強と言うよりも訓練なのだ。学生時代にその様な訓練を積めば最強だ。課題遂行型の調査・実習・実験やプレゼン・ディベートなどによる論理形成力・計画実行力訓練が必要だろう。組織で共通の目標に協力して向かう訓練は部活動が有効だ。これらは、カリキュラム整理で対応できるものではない。何故なら、訓練に寄り添うコーチング経験が重要で、ここも企業OB人材が必要だろう。つまり、以下に集約される。

3.他業界交流、異業種人材交流による必要人材資源の獲得

<未来人材育成を目指す学校教育像>

確かに教育現場は改革が進んでいない。その事には同意する。しかし、それは誰の責任だろうか。国の責任、自治体の責任、文科省の責任、と言いたいのだろうが、当事者である現場教師の責任は棚の上なのだろうか。

一般企業の事業との比較で言わせて頂く。働き方改革の問題は、どの業界でも共通だ。労基が入り、超過労働の指導を受けると事業継続が困難に陥るので、何が何でも労働時間抑制が至上命題になる。同時に残業隠し、サービス残業も絶対禁止は当然なのだ。だからと言って、仕事の手を抜いて良いとは誰も言わない。サービス品質を下げず、むしろ競争品質を確保する事も至上命題として、相矛盾する事項に向き合い、創意工夫、効率改善して、生き残れるのだ。

どんな改革プランでも、現場が後ろを向いて抵抗勢力になれば前に進まない。前述の様な策をいくら検討しても、例え実行しても、前に向かなければ前に進まない。前に進まないことを、他責にしても何も事態は変わらない。現場の教師がネガティブ一色では抵抗勢力になってしまうのだ。

今の教育現場は、極めて閉鎖的だ。もっと広く透明化し、異業種交流や他の業界との人材交換などで実施して、前向きな意識改革が必要だろう。

筆者の教え子達、ジュニアチームの卒業生からも複数名が教師になっているし、後に続く志望者も複数名いる。彼ら彼女らは、志を抱き、問題に対しても前向きに向き合うメンタリティを持っていると確信している。彼ら彼女達が存分に活躍できる、ポジティブな現場になることが、まずは第一歩ではないだろうか。

今年のJLPGAプロテストが注目だ

日本の女子ゴルフ界が活況に沸く。トップは、世界で通用する事を証明した畑岡奈紗、渋野日向子。そして同じ黄金世代の小祝さくら、原英莉花、河本結、勝みなみ、新垣比菜、吉本ひかる、山路昌、臼井麗香、浅井咲希など。ミレニアム世代の古江彩佳、西村優菜、安田祐香、吉田優利、山口すず夏。その他にも同年代に、稲見萌寧、成人後は日本国籍を予定しているという笹生優花、ベテラン層も上田桃子、鈴木愛、渡邊彩香、菊地絵理香、原江里菜、有村智恵、柏原明日架、藤田光里などまだまだ健在、挙げだしたらキリがなく、群雄割拠で大変楽しみな状況なのだ。

もともと、アマチュアゴルファーにとって、男子プロの異次元の世界のゴルフも楽しみではあるが、自身の距離感と近く、コースの攻め方、持つ番手など参考にもなり、それでいながら好スコアを出してくるプレーは、見ていても親近感を覚え、楽しめるので人気があった所に世界での活躍が後を押したのだ。

そして、昨年中止されたプロテストの延期扱いのプロテストが今年行われているが、大変注目を集めつつ、筆者は1アマチュアゴルファーとしても、大問題も抱えていると感じているのだ。

注目させてくれている要因は、コロナ禍におけるYouTubeによるゴルフ動画の拡散拡大と考えている。その中でも、プロの卵(この表現は正確には間違いである事を後述する)自身が発信する動画や、応援する企画等が目白押しなのだ。『白金台女子ゴルフ部』や『3284TV』、BSまで入れると『ゴルフサバイバル』『激芯ゴルフ~93期生への道~ 』などがその例であろうし、地上波でも珍しく不人気番組であった『日曜ゴルフっしょ』に代わる『ゴルフのキズナ』などにも企画として波及し始めた。それらの番組では、ツアープロと対等に戦える力を持ち、素晴らしいプレーを見せてくれながら、プロテスト合格を目指す姿が映し出されている。キャラも前面に出しつつ、直向きに目標に向かう姿は、自然と応援したくさせてくれるのだ。

しかし、別の視点で考えると、ここまでの注目を集め、企画として成立する背景を考えると、問題性を感じざるを得ないし、改善を期待したいのだ。その問題の根本は余りにも狭き門である事なのだ。

先に『プロの卵』と表現したが、実は彼女たちは既に夫々にプロフェッショナルなのだ。実は、プロのトーナメント(下部ツアーなど)を優勝する力も持ち、上位成績を収めている選手は多い。ステップアップツアーの優勝コメントで次の目標を『プロテスト合格』と話したのを聞いたこともある。QTをクリアしてレギュラーツアーでの活躍も見たことがある。つまり、賞金を稼ぐツアープロ選手であり、その実力があるのだ。

プロテストに合格しても、シード権を取得できず、QTランキングでも上位になれず、試合に出場できない選手は沢山いて、その選手たちとの違いは、プロテストに合格しているか、いないかだけなのだ。

確かに、ある一定の技量をプロの条件とするのは当然の事だろうが、1年に20人の枠は少な過ぎるだろう。昔と異なり、底辺は拡大しており、これだけの群雄割拠状態であれば、それに応じて枠も拡大させて、更なる普及による底辺拡大を目指す事が、世界と戦い勝負する為のレベルアップにも通じる必要条件なのだ。

そもそも、今の時代、プロテストに意味があるのか疑問である。ツアーで戦う技量の担保は、QTやステップアップツアーが担っており、ツアーのレベルは保っているのではないだろうか。プロテストを狭き門にする必要が無いのだ。プロになっても稼げず、稼ぐためには、ツアーに出る権利を獲得しなければならないからだ。

今までは、プロテスト未合格者もツアーに出る戦いをクリアし戦っていたのだが、プロテスト合格者でないとQTにすら出場できない様にルールが改正された。これで、多くのプロテスト難民が発生したのだ。

よく考えて欲しい、アメリカツーにはプロ資格制度は無い。誰でも、出場権を獲得すれば、試合に出場できる。門戸を開きながら、政界最高峰のレベルが担保できている。

現在の女子ゴルフ界の活況は、宮里藍選手に憧れた年代の底辺拡大より繋がっている。黄金世代、プレミアム世代と繋がり、次世代に更に底辺拡大し、ゴルフ界を盛り上げ、世界で戦うレベルアップを果たすためには、今、枠を広めないと、逆行させてしまい、シュリンクする方向に向かうのではないだろうか。

ゴルフ界の繁栄の為にも、今年のプロテストへの注目を更に高め、普及へのギアチャンジを協会に託すべく、拡散できれば幸いである。少なくとも、今年の合格枠は延期であるならば、倍の40名に今からでも増枠を検討するのが筋ではないのだろうか。

最後に筆者の応援する期待の選手を全く私感ではあるが、挙げておく。

『白金台女子ゴルフ部』から、先日の1次予選を通過した、井上莉花、荒川侑奈、稲葉七海、佐久間夏美、楠本綾乃、岡田唯花、八巻聖良、江口紗代、同じく昨年最終予選進出条件で臨む、篠崎愛、植手桃子、山下美樹。その他三嘴門下、幡野夏生、瀬戸瑞希、瀬賀百花、今綾奈。その他にも、DSPEプロジェクトからは、柴田香奈、小林瑞希、田邊美莉、平塚新夢、五月女栞雛、西山沙也香、立浦琴奈、鈴木絢賀、新真菜弥、諸西諭里、四村彩也香、須江唯加・・・・軽く20人を超えてしまう。本当に頑張って欲しい。

アイヌ差別発言問題で考える日本における差別問題考

3月12日の日テレ『スッキリ』の番組中で発生したアイヌ民族への差別発言が問題になっている。

発言自体は、なぞかけの言葉遊びの世界であり、当の本人に悪気は無かっただろう事は容易に想像できるが、人を犬呼ばわりする表現は、歴史的事実が無くとも、侮辱されたと受け取られても言い逃れできないだろう。ましてや、歴史的に、和人による支配構造で飼い犬と表現されていた事例などを知っていれば、冗談で済ませられない事は理解できただろう。

言葉遊びのレベルでは、筆者も、『お前のその服はタダ(多田と無料をかけて)か?』と子供の頃よくからかわれた経験があるが、私自身全く気にしなかったので大丈夫だったが、この手の冗談でも受け手によっては、傷つくこともある。許されるかどうかは、相手次第だろう。逆に言うと、公共の電波に乗せた発言としては、多数相手への発信であり、相応しくないとならざるを得ないかもしれない。

しかし、この種の禁句は、無数に存在し、その一つ一つを規制する事は困難だろうし、現実的ではない。従って、ある程度の発生リスクは存在するが、発生した都度、相手を傷つけてしまった事実に対して、丁寧に謝罪する事で対応する以外にないだろう。

一方で、歴史的背景がある等、根が深い問題で控えるべき表現は、本来放送禁止用語などで明確に定義されるべきである。放送禁止用語として明確に定義されている差別表現には、厳しいチェックが出来る。そのチェックにかからず、発信してしまった場合は、前述の言葉遊び以上の責任追及と再発防止策が要求されるだろう。

その様に考えると、今回の事案は、どちらに該当するのだろうか。

発言した当人は、反省の意を示し、謝罪し、今後勉強して償う行動、出来る事があれば対応する趣旨の発信もしている。他意もないことから、個人的には、謝意を受け入れ、雨降って地固まる、で前者の対応で良いのではないだろうか、と感じる。歴史的背景を熟知していれば、教育されていれば、との言質も多いが、それらは、感覚論、感情論に感じる。原理原則の差別問題教育は必須としても、個々の事例、事案の教育は言い出したら際限がなく、その全てに臨場感を以って網羅する事は現実的には不可能だろう。

しかし、日テレは放送事業者として、後者の観点の対策も必要ではないだろうか。確かに、今回の表現は、明確に定義できてはいないし、定義できる種類でもないだろうが、それが責任を逃れる理由にはならない。そこは、一般的な品質保証で必要不可欠な、発生原因と流出原因の観点が必要であり、この場合、流出原因対策が必要なのである。放送事業のプロとして、録画チェックなど、防げなかった原因と再発防止策の説明責任を果たす必要があると考えるべきだろう。

<日本における根深い差別問題の元凶>

差別問題は日本でも現実に存在する。しかし、諸外国のそれと比較すると、異質でレベル感が異なるのも事実である。

私自身の少年期を過ごした住環境は、近くに同和問題の地区もあり、在日韓国・朝鮮人問題の地区もあったので、日常生活、友人関係の中で差別問題が身近に臨場感を以って実感できた。そして、学校の同和教育だけでは、自分事としての臨場感は持てないだろうとも確信している。その証拠に、その後関東地区に転勤で引っ越した際には、周囲にその様な臨場感が感じられなかったし、同年代の人との会話でも、ピンと来ていない様子だったのが印象的であった。知識はあっても、現実感を持っていないのだ。

現在の教育では現実の臨場感、問題意識を醸成する事は困難なのだろう。諸外国では、今もなお、現実に目の前で臨場感を以って差別が行われているのと比較して、ある意味、過去の知識に風化している傾向がある。それ故、知識不足を問題として、教育を対策とするのは必要条件かもしれないが十分条件にはならず、本質的な解決にならないだろう。

アイヌ問題にしても、自身の生活で直面する事は少ないだろう。同和問題も教科書で知識はあっても、実生活での実感を持っていない人が多いのではないだろうか。良い意味で同化し、差別が解消され、風化しているのであれば良いが、臭いモノに蓋をしている事が問題なのではないだろうか。それが諸外国の様に差別が分断も生み、暴力的な社会問題化して、蓋など出来様がない状態とは、違う環境であり、対処は異なる必要がある。臭いモノに蓋の問題は、寧ろ被差別者側からすると、暴力的ではなくても、根が深い問題かもしれないのだ。

即ち日本的な、問題意識を口になかなか出さない、タブー視して発言を憚る事自体が、問題を根深くし、解決から遠ざけていると言うべきだと思う。

<日本人のメンタリティに潜む課題>

欧米社会において人種差別は今でも根深く存在している。日本人も黄色人種として差別の対象であった。『イエローモンキー』『ジャップ』などと侮蔑されて来ていた。しかし、日本国内でその様な差別に対して大きな問題として提起している訳でもなく、赦しの心情、寛容な感情で乗り越えているのが実態だろう。それ故、ユダヤ人に対するホロコーストは国際問題視されるが、日本に対する東京大空襲や2度の原爆投下は、差別問題としては語られておらず、事実検証上疑わしい、南京大虐殺や慰安婦問題、戦時労働者問題等は糾弾され、自虐的反応すら続けている。ある意味日本人は、差別を受ける際も、差別をする際も、鈍感で、いい加減で、お人好しなのかもしれない。

実は、今回の問題を提起する記事をいくつか読んでいて感じたのだが、アイヌ人に対する差別を語りながら、平気で『倭人』と表記しているものも複数存在していた事に違和感を感じざるを得なかった。

諸説あるかもしれないが、『倭』とは中華思想による差別表現であると言っていいだろう。歴史資料として残っている表記であれば(例えば『魏志倭人伝』等)、その通りに記述するべきだが、一般的には差別待遇を乗り越え、独立して勝ち取った『和』という表記が適切ではないだろうか。皆、寛容なので問題視しないが、『アイヌ人』との対象で『倭人』というのは極めて不適切な表現なのである。

筆者自身、前述の被差別地区の方々とも普通に交流もあり、友人関係もあった。その様な関係で、差別の問題もタブーではなかったし、逆差別の問題も話していた。その方が臭いモノに蓋をして臨場感を失うよりも、よっぽど差別問題は解消に向かうと確信している。

即ち、知識の共有は必要だが、それ以上に重要なのは、タブー視して腫物に触る対応を続ける事を止めて、喧々諤々と議論を戦わす事ではないだろうか。時には、度を越えてしまい、誤って相手を傷つけてしまうことがあっても、言うべきことを言って、誤解に対しても誠意を以って認め謝罪しつつ、最終的に分かり合える環境が必要であり、本質的解決に近づくことは間違いないだろう。

また、アイヌの文化の様に、文字を持たず、それ故記録も乏しいが、口伝伝承し継続してきた文化背景、メンタリティを研究する事は、実は日本の根深い問題を検証する為に有効かもしれない。