オミクロン株感染拡大は自然現象、そして自然に収束する

オミクロン株による感染拡大が日本でも始まった。筆者の第6波発生予測時期からおよそ半月遅れているが、やはり自然現象はその名の通り自然に発生した。

この半月のズレは、岸田政権による鎖国強化の影響だろうか。しかしながら自然現象である限り、総和としての結果に違いはないと考えるのが妥当であろう。半月ずらしたことで、その間に何か有効な準備が為されているなら別だが、今の所その様な様子は見えてこない。

そして、自然現象であるもう一つの要素、弱毒化も確実に進んでいる様だ。

WHOの発表が正しいとは言い切れない事は、これまでにも数々の実例が示しているが、とはいえ明確にオミクロン株の弱毒化を発信している事は注目すべきだ。デルタ株と比較して上気道に留まり肺炎などの重症化が発生し難く、入院率も低下するとの報告だ。

少し、疑問に感じるのが、デルタ株も昨夏の各国の報告では、おもな症状は「鼻風邪」レベルと言っていたのだが、更に弱毒化が進んだと認識するべきだろう。

米国首席医療顧問のファウチ博士もオミクロン株の重症化リスクの低さを公表しており、1日100万人の新規感染者を発生させている同国ではロックダウンなどの措置は不要と判断、多くの国がほぼ同様の方向性である。

しかし、米国と比較して3桁規模が小さい感染状況で、地上波メディアは挙って危機を煽り始めた。確かに、少しトーンダウンしているのかもしれないが、「不安」を連発しているのは間違いない。

一方で元医系技官の木村盛代先生は「感染を無理に止めるな」とミヤネ屋で主張した。

他にも同様の過剰対応を批判する専門家は多数存在する。しかし、メディアから聞こえてくる専門家意見の大多数は、過剰に恐怖を煽る方向に偏向している。その論に過去の反省や、実績データのフィードバック分析などの要素は一切なく、感情論が主流である。

むしろ、素人コメンテイターの方が違和感を発することがあるが、それらは完全スルーが基本である。

両論併記の原則、多様な意見による議論は今のメディアには不要らしい。異論は異教徒のもので、廃絶の対象なのだろう。

しかし、その状態に自らの自由を従順に差し出し、反論もせず、むしろ熱狂的な信者の様に感情論を展開する層が多い事が不思議でならない。

<変異が怖い>

変異はこの種のウイルスでは自然現象で日常的に発生しているコピーエラーである。その中から環境適合するエラーのタイプが存続する。強毒化してしまえば宿巣である人間の活動を抑制するので感染拡大は起き難い。従って環境適合の大きな要因に弱毒化がある。活動量の多い軽症者増で感染も拡大、ウイルスも生存できる。

この様に考えると変異は人間にとっても歓迎すべきなのだ。

間違えてはならないのは、所謂突然変異という部類の現象。これは、新型と言われる正にメジャー変異の部類であり、動物を宿巣とするウイルスが人間に感染する様に変異するなどだろう。

しかし、この種の変異を可能性で恐れるならば、現在の新型コロナに限らず、旧型コロナ、所謂風邪やインフルエンザでも恐れる必要がある。

新型と旧型では違うとの感情論も聞こえてきそうだが、そこに論理性はない。東京五輪を反対し、感染地獄とまで言い、他の国際競技と五輪は違うと感情的に強弁し、何ら数字や論理性が示せない人達を思い出す。

究極の可能性でリスクを語るのであれば、他の究極の可能性も同列でリスクとするべきである。そして、科学的な確率の数値、論理的な説明が必要だが、この2年間聞いたことが無く、未知が故の可能性の一点張りだ。これは非科学的ダブルスタンダードでしかない。

<ワクチンは安全だ>

ワクチン接種の重症化リスク低下の効果は間違いなく高い。感染後のウイルス増殖を抑制する獲得免役力として科学的に証明されている。

一方で、副反応やリスクに対しての評価は意見が分かれる。多くの接種推進派は接種リスクが僅かでベネフィットが上回ると論じている。しかし、ここに科学的数値、確率で示している例は極めて少ない。

そもそも感染によるリスクは、年齢や基礎疾患、肥満や喫煙など個人毎に大きく異なる。これに個々人の健康管理意識や環境条件を重ねると更に格差は拡大し、桁違いと言っていいだろう。

またワクチン接種の効果も永遠に継続する訳では無く、複数回継続接種が求められるというのが一般的だ。であれば、ワクチン接種のベネフィットは期間限定であり、リスクは接種回数に相関するのだ。

更に注意すべきは、リスクを評価するべき死亡率の中身である。現在示されている数字は感染者の死亡事例であって死因コロナだけではない。つまりリスク観点では、報告数字よりも低い評価が必要になる。

冷静に、ベネフィットとリスクを比較評価するべきであるが、それは個々人によって設定要素が異なり、評価結果は雲泥の差になる。だから、強制ではなく個人の判断とするべきである。他人にとやかく言われる類のものではない個人の健康観、リスク判断なのだから。

だからこそ、仏マクロン大統領の「未接種者うんざりさせたい」 の様な発言は決して許されるものではない。

<特効薬が無い>

新型コロナは未だ特効薬が無いから収束できないという声も聞こえる。

しかし、風邪の特効薬は存在せず、開発出来ればノーベル賞級と言われてきた。つまり、現在の風邪薬は対症療法であり根治薬ではない。新型コロナも同様であり、根治薬開発は困難だろう。いや、根治薬がもし開発されれば、それはウイルスと人類の共存関係を破壊する自然破壊の影響の方が筆者は恐れる。

ワクチンにより社会リスクは大幅に低下した、経口薬も開発され、今後も増えるだろう。重症化リスクも低下し、なぜ更に特効薬を求めるのだろうか。

<医療崩壊はなぜ起きる>

1日100万人の新規感染者が発生する米国でも医療崩壊は起きていない。なぜ、日本はこれだけ医療崩壊と騒がれるのか。

メディア出演の専門家、政府分科会、東京都モニタリング会議などの言い方は「医療崩壊を起こさせない様に感染を抑えるべき」「そのために行動制限」という方向性である。これでは、医療機関を守る為に私権制限しろと聞こえても不思議ではない。

医療機関は個人の健康を守り、命を助けるために存在する。それが逆転構造になってしまっているのではないだろうか。この構造を生み出す、制度的な問題点は、2類相当の感染症としている事であろう。

感染者全員を入院させる国家は日本以外にあるのだろうか。入院が必要ない人を入院させるから、入院が必要な人が入院できない現象が発生する。当たり前だ。

自宅療養を、自宅放置と揶揄し、急激な悪化リスクを殊更問題視するが、入院の必要のない症状の人が自宅療養するのは至極当然のことではないのか。そうすればムダに医療資源を浪費せず、入院が必要な重症者に対応する余力が生じるはずだ。

そして日本の医療の長所である町医者によるきめ細かな医療サービス体制を最大限生かし、軽症者に早期診療を実施。検査も無駄に無症状者に拡大せずに、有症状者に必要に応じた実施に留めれば感染拡大も抑制できる。結果として、重症化リスクを低減させ、入院必要な患者も減少させるだろう。

即ち、2類相当の扱いで、初期医療を制限し重症化リスクを高め、ただでさえ後ろ向きな医療資源の再配分を硬直させていた。その様な状況で、検査や補助金を権益化する悪循環が蔓延り、医療崩壊が起きた。

打開策は簡単である。5類相当の普通の対応に戻し、町医者による初期医療と大学病院などによる重症化対応とする。そして、医療法を遵守し、中長期的に日本医療の弱点である救急医療を強化する。患者は無暗な検査をやめ、症状があれば診療を受ける。それだけで既に収束し医療崩壊も起き様がないはずだ。

政府分科会の辞書には「反省」の文字が無いのか

新型コロナの政府分科会が新指標に合意したと報じられた。政府分科会尾身会長は、新指標について「感染状況を医療が逼迫(ひっぱく)しない水準に抑え、社会経済、日常生活を取り戻すことが目的だ」と説明。「新規感染者数は注視するが、医療逼迫の状況をより重視する」とのことだ。

凡その考え方を下図に示す。

出典:テレビ朝日系(ANN)11/8(月)

どうだろう、問題の本質を分かっていない、反省という事が出来ない集団なのだろうかと改めて痛感するのは筆者だけなのだろうか。

<新型コロナ対策の本質的な問題>

日本の感染状況は、最初から現在に至るまで、常に海外比較で『さざ波』状態で、穏やかであった。色々批判を受け、アジアとの比較や、成功している国との比較と揶揄もされていたが、現在に至って総合的に世界最優秀と言っても過言ではない。問題は、その状態で医療崩壊が発生してしまうという事が日本特有の脆弱性だったのであり、普通の感覚であれば真っ先に反省するべき事項のはずだ。

このレベル2に示す「感染者増加傾向も病床増で対応可」という状態は、病床を状況に応じて増減できれば、このレベルを超える事は本来あり得ない論理だ。逆説的に言うと、病床数を増やせなければ、感染がどれだけ穏やかでも、直ぐにレベルが上がるという事だ。つまり、生殺与奪の権を、一部の医療従事者、いや医療界への影響力を考慮すれば分科会や医師会が握る事になるのではないだろうか。

レベル3の「一般医療を相当制限」はもっと酷い。相当制限とはどの程度の事か全く不明で、恣意的に何とでも言える。それだけでなく、一般医療の定義が不明で、既得権益を守ろうとする排他的な定義としか思えない。村組織の中で縦割りを超えさせない自衛意識の象徴ではないか。

そもそも一般医療とコロナ対応医療を別のものとしている時点で、医療資源の適切な配分など出来様がない。見え隠れするのが、救急医療へのしわ寄せをして自分達のリスクを回避しようとしている様にしか見えないのだ。あくまで、コロナ対応も含めて一般医療として、その配分を現場状況に応じて臨機応変に対応していく事が、当たり前の世界だからだ。百歩譲っても、呼吸器内科系の一括りで治療体制は語るべきでは無いのか。

本来のあるべき姿で考えれば、確保病床数を分母に入院必要数を分子にする指標は、分母さえ増やせば閾値を超える事はあり得ない。また、この指標が50%程度で云々する事も、一般の資源リソース評価としてもあり得ない。

通常のリソース管理は、上限の閾値を80%程度にして、超えそうな70%あたりでアラートを鳴らして資源増強を図るトリガーとする。逆に50%を下回る様な状態であれば、資源リソースの過剰投資として資源の他への転換を図るトリガーとする。これが通常のリソース管理である。結果として、この指標は50%を下回ることが無いのが、正常な資源管理だ。

他の資源再配分と医療は異なる、そんな簡単では無いとの言い訳は聞き飽きる程聞いてきたが、この点こそ国際比較して欲しい。諸外国は見事に柔軟に対応している。いや、せざるを得ない状態に追い込まれ対応しているのだ。比べて、日本の医療体制は幽霊病床で補助金を獲得する等、余りにも悠長ではないのだろうか。第5波になってようやく野戦病院等の施設を唱え始めたが、昨年大阪の専門病床に対しては非協力的で結局、自衛隊出動した。ワクチン接種も歯科医や自衛隊出動するまで非協力的だったのだ。追い込まれたらできる事でも、非協力的であった事は紛れもない事実なのである。

これは、飲食業や観光業、昔はパチンコ屋、夜の街などの弱者、政治的影響力の弱い集団の活動を制限し、一般国民を恐怖で縛り、我慢を強いる事で、医療業界全体としての対応を回避したと言えるだろう。

勿論、その中で実際のコロナ対応医療関係当事者は、本当に患者に向き合い、治療に従事していて、真剣にコロナ対応をして頂いている事は疑い様がない。要は、その人数、資源を増やさない事、増やせない事が日本の医療の構造上の問題なのだ。

筆者は、この構造に対して昨年より指摘し、批判を続けたが、当時は全くと言っていいほど理解を頂けず、逆に心無い攻撃すら受ける状況であった。しかし、今となってはネットを中心に同様の言論があふれ始めている。状況は変わったのだ。

今こそ、この問題点に真摯に向き合い、コロナだけでなく、今後の医療のレジリエンス体制を確保する為に、事実を総括し、反省するべきで、分科会も解体し責任を取るべきだろう。

にもかかわらず、まだ新指標とは、開いた口が塞がらない。

ゼロリスク原理主義の浸透は社会壊滅を招く

日本人と欧米人の心理的比較分析として昔からよく言われていたのが、コップ半分の水をどの様に考えるかだった。欧米人は、『まだ半分もある』と未来に向けて積極的な姿勢で、半分の水を使いながらも増やしていこうとポジティブに考える。一方、日本人は、『もう半分しかない』と将来の不安を極大化させて、なんとかこの半分の水を守り抜こうと考え、ネガティブな思考に陥る。

この違いは本来的には一長一短あるのだ。『まだ半分もある』という思考回路は、当然の事ながら、大きなベネフィットを得る可能性もあるが、リスクも伴う。アメリカンドリームの世界でもあり、社会は大きく発展するだろうが、格差も拡大するかもしれない。『もう半分しかない』の場合は、大きな失敗はないだろうが、大きな成功も期待できない。

しかし、バランスが取れた状態であれば一長一短で片づけられるが、極端な場合は大きな弊害を生む。例えば、『もうコップの水が1%減ってしまって先が不安だ』となると、これでは身動きできず、社会停滞に繋がる。ゼロリスク原理主義により弊害なのだ。

<確認した1事案は木、統計データによる確率は森>

このゼロリスク原理主義とでも言うべき論理と、前向きな現実策との典型的な衝突が『ABEMA-NEWS 2021/06/17』で繰り広げられていた。

この番組の中で、木村盛世女子は、新型コロナの感染データを元に、若者と高齢者の重症化リスクに大きな違いがある事を示し、重症化リスクの低い若者の行動制限、自粛を殊更強化する事に異を唱えていた。つまり、リスクの高い層に対して対策を集中する事で、重症化や不幸に至る事案を最小化出来るとの主張だ。

これに対して、宇佐美典也氏は、若者でも重症化リスクはゼロではなく、自身の周辺でも実際に若者が苦しむ姿を見ていると言い、確率論で語るのは間違いだと言う。

これは、典型的なゼロリスク原理主義とでも言うべき、騙しのテクニックなのだ。つまり、確率で例えば100万人に1人の確率であろうとも、その1人、当事者にとってみれば、100%なのである。人は、他人事であれば確率が高くても、それ程恐れないが、自身が当事者になれば、その時点で100%であり、事実として突き付けられる恐怖は100%なのだ。それが家族であっても当事者であろうし、身近な恐怖となる。有名人がその対象になったら、赤の他人が対象になるよりも当事者意識の度合いは高まる。昨年の志村けんさんの不幸は多くの国民に新型コロナの恐怖心を植え付けた。赤の他人だったら、あれほどの恐怖は無かったのだ。

この様に、確率に関係なく、当事者度合い、当事者との距離感で恐怖の度合いは変化する。この法則に則り、若者でも重症化する、重症化した若者を実際に見た、だから貴方も重症化する可能性があると脅せば恐怖は実際の確率以上に高まるのだ。

しかし、実際の政策を打つために必要なのは、この100%の当事者目線ではなく、マクロの確率論でリスクを評価し、政策の強弱、方向性を検討する事なのだ。

この様な単純で当たり前の事は言われなくとも分かっていると言うかもしれないが、メディアの報道は殆ど、この論調に終始し、宇佐美氏も何の疑いもなく強弁されているのだ。恐ろしい世の中だ。

井戸端会議で、『・・・とみんなが言っている』という話法が用いられるが、この場合のみんなは、多くの場合単数形だったりする。1人から聞いた事をみんなから聞いたと言い放てるのだ。身の周りの誰々が、若くても重症化したからといって、みんなにリスクがあると言うのは、この論調と同様に言い過ぎなのだ。あくまでデータで示された確率論が前提になる事を忘れてはならない。

弱者を切り捨てるのか、と言う反論も筋違いだ。一人も犠牲者を出さない、というのは聞こえがいいが、その結果多数の被害者を生むのである。犠牲者も被害者も最小限に抑えるために打つ策は、確率とバランスで語らねばならない。

<反対勢力の行動パターン>

経営に携わり、組織の問題に対峙し乗り越えた経験のある方であれば納得して頂けるだろうが、組織の問題の大部分は部分最適思考が元凶となる。全体最適思考による最適策は誰の目から見ても明確であっても、個々の部分最適ではなく、個々に苦労も強いられ、不利益になる事も少なくないので抵抗勢力と化すのだ。その場合の抵抗勢力は、決して自己の利益追求と表向きは言わず、大体の場合は、『できない』『現実的でない』ともっともらしく否定するのだ。

日本がさざ波の新型コロナ感染状況で医療逼迫が発生し、一向に医療体制強化、医療資源適正配分が進まない原因がここにある。

分かり易い討論が上記と同様の番組で繰り広げられていた。木村盛世女子は、前向きに医療逼迫を起こさない為に、患者の広域間搬送を提案していた。日本の重症病床数は4200床あり、その内1200しか使われていないので、オールジャパンの対応を提案したのだ。方法として示されたのは、ICU搭載の自衛隊ヘリによる搬送だ。

それに対して、宇佐美典也氏は、受け入れ側の病院に強制できない。机上の空論であり、出来ない事だと言っていた。しかし、その論法こそが部分最適の抵抗勢力のものに他ならない。その結果として、飲食店含め多くの国民に強制力のない自粛と言う名の要請を繰り返しているのであり、病院にだけ同様の要請が出来ない論理にならない。

百歩譲って、何らかの本当に出来ない理由があるのなら、その事を国民に、医療側が強化対応できない事を頭を下げて論理的に説明し、納得を得る努力が最低限必要では無いだろうか。ところが、日本医師会長や東京都医師会長など、記者会見では上から目線で国民の緩みを攻める様な論調を繰り返してきているではないか。しかも自分達はパーティを開催しながらなので、本当に出来ない理由があるとは誰にも思えない。

では、実際はどうなのかというと、実は一部の首長から、他県の患者受け入れに対しても前向きな姿勢が示された事もある。本気で、政府が号令をかけて、自衛隊の出動も辞さない姿勢を見せれば、少なからず対応する病院も出てくるのではないだろうか。それぐらい医師会が旗振っても罰が当たらないだろう。

ワクチンの場合も、菅首相が1日100万回と言った時、メディアは挙って出来もしない、出来る訳が無いと批判した。更に医師会の抵抗を受けても、自衛隊を出動させ、超法規的措置で歯科医などに展開し、職域接種まで拡大の手を次から次へと打って出た。いつまでも抵抗を続けていたら、存在価値を失うだけだろう。

<医療崩壊抑止の具体策整理>

1年以上、この状態を経験し、医療崩壊を防ぐ方法論はほぼ見えてきている。出来ない事ではなく、やる気になれば出来る方法として見えてきているのだ。簡単に整理すると

  • 町医者の体制で患者の早期ケアを強化する

尼崎の長尾医師の成功事例を水平展開すれば良く、制度面の後押しとしては、リモート診療を導入し効率化を図れば良い。

  • 重症化した患者は、オールジャパン病床の受け入れ態勢で広域搬送も辞さない

患者を受け入れた際の手当の充実は必要だろうが、既に相当レベルの法的措置は為されているはずだ。後は、号令次第だが、本来的には政府が号令をかける前に、医師会が音頭を取るべきだろうし、その方が将来の軋轢は少なくて済む。

  • 専用治療センター建設、強制的に医療スタッフを柔軟に配置

前項と競合する部分もあるが、所謂あの手、この手である。大阪府で同様のセンター設立の際、人材に関して結局自衛隊の支援を得たが、本来なら医師会が音頭を取るべきだろう。

実は、こんな簡単な事も出来ずに、既得権益を死守する意識で内乱状態になってしまっては、外から見ると、国家としての脆弱性を露呈している事になる。それはそうだろう、この国を攻めるのに武力は不要で、メディアに対しての情報操作に極めて弱く、多くの既得権益組織、特に学術団体系を攻め落とせば、易々と混乱状態に陥れる事が出来ると示しているのだ。

これに対抗する唯一の方法は、全体最適思考での政策が適切に打てる姿、岩盤既得権益構造を一つ一つ打破していく事だろう。まずは、医療体制の事業継続計画を確立する事が急務なのだ。

有事対応の地方自治と中央集権のバランスの問題が決着

河野大臣がワクチン接種予約の初期混乱に対して、BS報道番組で混乱を発生させた原因を、自分自身の指示が甘い、ミスだったと謝罪した。

ワクチン接種の順番は様々な議論が存在した。一番公平なのは、先着順。しかし、この場合のデメリットは初期の混乱であった。何らかの順位をつけると、混乱を防ぐ効果はあるが、デメリットとして公平性の担保が難しい。

その状況で、全国一律に決める事は困難で、地域毎の事情に合わせて、バランスを取る様に政府からは指示が発せられたが、これが地域任せで充分な機能が果たせず、もっと中央から細かな指示を出すべきだったとの反省の弁なのだ。

つまり、地方自治における判断能力、執行能力に問題があり、国が権限行使し統制する形にしないとダメだと判断した事になる。百歩譲っても、有事においては中央政府が責任と権限を握って采配を振るう必要があると、問題提起しているのである。

この1年、国と地方の対立が数々指摘され、結局地方では有事対応は無理だと、一定の結論が出された事になる。この考え自体が、次期総理候補から発せられた事も重要であろう。

橋下元知事や片山元知事などは、地方の事情を熟知した知事に、もっと権限を委譲するべき趣旨の発言が多かったが、知事経験者からは確かに実権(法的根拠のある)を持たないと何もできないと言うのは分かるが、この1年間、全国を見ても執行能力の差などが顕著な状況が露呈し、無理がある事は明らかだろう。

日本のコロナ禍における最大の問題は医療崩壊である事は疑い様が無いだろう。さざ波状態の感染者数で、医療資源は世界に誇れる程豊富であるにもかかわらず、コロナ対応に割ける資源が枯渇すると言う状態である。様々な言い訳は聞こえてくるが、所詮言い訳に過ぎず、やるべき事は明確なのに、やっていない、やれない事は誰も否定できないはずだ。

医療体制の強化に関して、政府が何もしていないとメディアは騒ぐが、実行責任は地方自治側にある。都道府県、市町村と地域医療との協力体制において必要な資源配分を決める必要があるのだが、これが全く機能していない。法的強制力が無い、地域医師会が非協力的、無理強いすると次回選挙で組織票が逃げる等の問題があろうとも、有事対応はそんな平時の感覚で対応していては破綻するのは至極当然の事なのだ。

法的整備とは、各地方での具体策が検討された上で必要な整備を行うものである。実運用上の必要性を訴えて初めて俎上に上がるのだ。つまり、受け身ではダメで、現場の具体策なくして法整備など進む訳がない。

唯一、大阪府吉村知事は、集中治療センターを開設して対応強化を図ったが、結局人的資源の獲得、医療業界の協力が得られず、自衛隊の投入まで要請された事は記憶に新しい。

ワクチン接種も同様。政府の調達が成功しても、打ち手がいないと後ろ向きな姿勢が全般を締めていた。結局、政府が集中接種センターを開設し自衛隊まで投入する決断を下し、更には、超法規的措置、明らかな法律違反である歯科医にも接種をさせる方向まで覚悟を決めて打ち出し、医療業界に突き付けた形だ。

この相次ぐ措置は強力だ。抵抗勢力であった、医師会に対し、表向き全面協力を要請しながら、『非協力的であれば貴方達を充てにしなくてもやって見せるけど、どうするの?』という姿勢なのだ。そして、医師会長のパーティー事件に対しても、政治からは特段の追及は野党も含めてなく、政治資金と既得権益は維持する方向である。この状況でも非協力的、抵抗を続けている様では、自らの既得権益を根本的に失う事態も招きかねない状態にまで追い込んでいる。これで、協力しなければ身を滅ぼすだけだろう。

ここまで国がやって、地方行政は何もできない。様々な知事がパフォーマンスはご立派でも、本質的な医療体制にメスを入れる行動は出来ず、住民へのしわ寄せに終始するだけでは、地方自治は、夢のまた夢としか言い様がない。最小から国が強権発動していたら、それはそれで反発も大きかっただろうし、潰されていたかもしれないと考えると、民主主義とはかくも面倒なものだと改めて痛感する昨今である。

五輪の医療体制も、コロナ対応とは全く別の90%以上の資源で協力体制が確立しつつある。国民の命を犠牲にする医療資源を割く必要は全くなく、バブルという一種の隔離対策で、感染の抑止を行えば、五輪開催反対の理由は、元々の反対、五輪の政治利用以外に存在しなくなる。

唯一、観客をどこまで入れるかという問題はあるが、最悪無観客まで覚悟すれば、何も問題ない。医師会も左翼政治活動系団体以外は反対できないだろう。寧ろ、反対せずに、リスクを最小化する為に全面協力すると宣言すれば、立場の挽回も可能だろう。

夢の祭典を純粋に応援する。スポーツが与える感動は、文化と同様、不要不急ではなく、心を豊かにし活力をもたらす、現代社会にとって欠くことが出来ない要素である事を、もう一度、コロナ禍だからこそ、全世界に訴える、その様な意義のある大会に出来るだろう。

緊急事態宣言解除の出口戦略、バランスの取れた政治判断に必要な情報とは

緊急事態宣言が発出された。遅すぎた、もっと強硬策を採るべきだと政府を非難する意見と宣言は本質的な対策にはならず、医療崩壊に対しての本質的な対策が先だとの意見と両極端に分かれている。私自身は後者に与するが、その理由は明確で、前者の意見に論理性、蓋然性が感じられず、極めてバランスに欠いていると感じているからだ。両論併記での比較議論とバランス感覚が危機を乗り越えると信じているが、現実は偏った情報によるバランスの欠いた判断と言わざるを得ず危機感を抱いている。

再び8割おじさんによる最悪シナリオ発信が為された。春の最悪シナリオは実現せず、その反省もなかったので、非難も多く、しばらく鳴りを潜めていたが、ここにきての再発信だ。一定の数学的論理性はあるが、実行再生産数1.1継続と飲食時間制限の効果を10%と低く見ていることが現実と乖離、反省が活きておらず、首を傾げざるを得ない内容だ。

メディアが政府の対応を、経済優先と揶揄するのは、自身の説が感染抑止優先、いや感染抑止絶対、有無を言わさぬゼロ化絶対論だからである。一方、政府の基本姿勢は、経済と感染抑止をバランス良く政治判断しようとする、いわゆるWithコロナ策である。国家運営上どちらが最適かは言うまでもないが、政府の判断根拠とする情報にも唯一大きな問題がある。それは、経済影響の最悪シナリオが発信されていないことだ。

政府の分科会は、経済と感染をそれぞれの観点から分析、提言し、政府がバランスの取れた最適解、最善策を政治判断できる様にするために存在する。春の反省を活かして、経済の専門家も入ったはずだ。しかし、経済面の最悪のシナリオとその限界や防止策に対する提言は聞こえてこない。それどころか、感染抑止の素人意見まで発信する状態で、何の為に加わったのか意味不明だ。

これでは、バランスの取れた政策判断は出来様がない。これは人選が悪かったのか、構造的に組織体を別運用にすべきなのか、様々な原因は考えられるが、早急に改善しなければならないだろう。

分科会長尾身さんは極めてバランス感覚のある、良識的で論理的、科学的な発信をされているのだが、同様に、経済面の危機的状況を発信し、経済面で、このまま何もしない場合、経済停滞策を講じた場合、経済復興策を断行した場合のシナリオを提示する専門家が必要なのだ。そこまで尾身さんに負わせるのは無理がある。

<緊急事態宣言解除に向けた目標数値、出口戦略は>

とはいえ緊急事態宣言発出に伴って経済停滞策が各種強化される状況になった。そうすると、出口戦略を早急に組み立て、先手で発信する必要がある。

解除の目標値は、現時点では、ステージ4の脱却とかなりハードルが高い。この点は、建前上維持せざるを得ないだろうが、実質どこまで医療が持ち堪えられるか、医療資源再配分によるキャパ拡大はどこまで出来るか、真剣に進めて欲しい。これは、政府の責任ではなく、医療業界の提案として出すべきであり、最悪でも自治体の統制管理で実行管理するべきだ。今が限界で、既に崩壊していると云うのは説得力を失っている。緊急事態としての統制、事業継続計画(BCP)の発動こそが危機管理の基本なのである。

政府の検討すべきは、民間のPCR検査を全て厚労省の統制下に置き、医師の必要と判断する行政検査に切り替えてキャパを上げ、安心したいだけの検査を禁止する事と、死者数の数字を直接死因のみのカウントに切り替えることだろう。公平にインフルエンザなどと真っ当な比較をして、疑いの余地が無い判断の為に。昨年当初は、得体のしれない感染症だったので仕方がなかったのだろうが、現時点では可能なはずだ。

そして、なによりも経済のマイナス影響、最悪シナリオ検討を分科会に緊急要請し、自殺者数等も公にするべきだ。経済のマイナスは、国家、国民にとって長期的に命も含めた問題となる。何より歴史的には、戦争の主要因は経済低迷なのだから、本気で考慮すべきなのだ。

感染状況、医療体制強化状況、経済影響を公平に土台に挙げなければ、バランスの取れた政治判断は出来様がないのだ。

極論ではあるが、経済の指標で限界を超えた場合、例え今よりも感染者数が多くなっていても、国家としてのバランスを考慮に入れた最適解として緊急事態宣言を解除することがあっても然るべきはずなのだ。

絶対ゼロ化の主張者は、強力な感染抑止策は、短期間で終えることが出来て、経済面でも有利だと主張するが、感染がゼロ化出来る前提であり、諸外国の再拡大の現実を無視している。だからこそ、Withコロナ策を日本は当初より目指し、一定のリスクは受容しつつ、人権制限も最小限に留め、ブルームバーグでも世界2位の評価を得たのである。

何はともあれ、国民としてこの事態に前向きに対応すべきは、行動制限や飲食制限という方法論に縛られるのではなく、自身がウイルスキャリアである前提で、他人に感染させない、飛沫飛散をさせない事、徹底的に減らす事を目的とするべきなのだ。その為である、マスク着用や時短など個々の方法論は、自分の頭で考える事であり、その為のガイドラインとして要請が出ていると受け止めて考えるべきだ。間違っても思考停止は絶対にNGなのだ。

そして、単なる風邪もひかない様に体調管理を心がける事。医療の負担軽減という観点もあるが、何よりそこまで徹底した健康管理が新型コロナの感染も抑止できるのであり、健康第一だからだ。

2度目の民主主義の危機的緊急事態宣言発出直前

 世論調査という数字で、緊急事態宣言発出するべきという意見が60%を上回った様だ。民主主義体制における政権では、発出する以外に手が無くなってきた。例えどんなに意味が無く、効果が薄く、その癖、副作用による打撃は確実に国民が被るのに、正しい判断が出来ない感情論の数値が過半数を上回ってしまった。日本が好戦的な国内世論に圧され、軍部が台頭してきた歴史の繰り返しの様に、民主主義は時に論理性を欠いた、冷静とはとても思えない感情論に支配され、誤った道を選んで、自ら墓穴を掘る。どれだけ政府が懸命に抵抗しようとも、何を発信しても上から被せる様なメディアの情報という連続射撃で消され、発信力が無いと非難される。この場合の『発信力が無い』というのは、自分達と同じ意見の発信が無いことを云い、他の情報発信は全て間違いで血迷っていると否定され発信と見做さない事によって生じる現象。メディアという情報権力による有無を言わさぬ暴力的な政策誘導でしかない。

 自分達と異なる意見の発信には、馬鹿にしてスルーする。問われた質問にも答えず、一方的に断定して捲し立てる。そして、未だにそんな事を云う奴がいると上から目線で見下して一方的に話を断定的に進める。こうすると、確固たる自信を持っていない、自己判断を論理的に独自思考できない大多数は、この意見に従わなければ、周囲から冷たい目で見られると言う強迫観念を抱いて同調させられてしまう。

 結論から言うと、新型コロナは怖い病気である事は事実だが、即死亡とか、根治不可能の難病、いつ急変して死に至るか分からないといった類の病気ではない。だからこそ、正しく恐れなくてはならないのだ。そして、ゼロ化は出来ない事も理解する必要がある。

 どれだけ強制力のある抑止政策を実施して一旦ゼロにしても、再び感染は拡大する事は世界で実証されている。日本は、その事をいち早く理解し、Withコロナ施策に舵を切っており、正しく感染予防行動を行い、バランスの取れた現実的な政策実行を目指していた。それなのに、諸外国で失敗している、ゼロ化政策を絶対神の様に語り続けるのは、余りにも酷すぎる。

 ゼロ化絶対、PCR絶対信者は、欧米で無症状者に対しても無暗に検査を実施した結果、日本より桁違いに多い感染者数をマークしている現実を無視してはいけないし、全員検査を主張するなら、その原因を説明する責任がある。同じ様に検査を無症状者に拡大して同じ轍を踏むことを日本は避けなければならない。欧米の場合は、避けては通れない宗教的行動基盤のため、白黒はっきりさせないと前に進めない為に分かっていても悲劇を招いているとの仮説の説得力が高いのだ。

<医療崩壊は起こり得ない、本当に怖いのは2極化現象である>

 医療崩壊も日本では起こり得ない。何故なら、日本の新型コロナに割いている医療資源は、たかだか全体の3%に過ぎないからだ。ドキュメンタリー調で、ミクロな現場を放映すれば、その現場の厳しさは視聴者には伝わる。厳しいのは当然だ、医療現場なのだから。それは、他の病気治療現場でも同様の厳しさがある事を忘れてはいけない。

 この3%は、たった1ポイント医療資源を割り振るだけで、4%になる。この時点で占有率80%という数字は、60%に減るのは簡単な算数の問題だ。ましてや、昨年比較で、インフルエンザ激減、上気道感染系の肺炎は半減以下、他の肺炎も減少、という状況で、昨年比では余裕があるはずで、それを回すだけで、平気で6%までは可能なはずだ。そうすれば占有率は40%なのだ。そこまで資源再配分は不要だろう、地域ごとに最適な配分を断行すれば良いだけなのだ。それを許さないのが現在の医療業界の既得権益構造であるならば、有事の危機管理対応として法制化すれば良いだけだ。

 それよりも医療業界の構造を問題視するべきだろう。メディアの電波に出て、医療崩壊を訴えるのは、綺麗ごとではなく、医師会長ポストなどの勢力争いの売名行為や、自身の勢力範囲、例えば開業医の領域を守るためであったり、政治的には政治家の票固めであったり、様々な裏側の視点も考慮する事が必要だ。上記の医療崩壊の謎に、正面から答えないで、これまで感染症の経験が無かったことを理由にした体制整備の問題にすり替えているのは、論理すり替え、矛盾と見極める必要がある。

 だからと言って、繰り返しになるが、新型コロナは怖い病気である事は間違いなく軽視できない。しかし、世の中に出回るデマの多さに、騙されるか、あまりの酷さに聞く耳を持たずに軽視するかの2極化現象が最も恐れる危機なのだ。

 感染力は間違いなく強い、そして、肺炎や血栓症などに繋がり一定の重症化リスクも伴う。それに従って致死率も現状でも1%前後の数字を示している。無症状の、感染非確認者が一定数存在する事も想定できるが、実際の感染者が10倍までだろうと想定すると、致死率も0.1%までしか下がらない。風邪と同等には出来ない理由がここにある。

 しかし、風邪と同様の対応方法で抑止は確実にできる。これを正しく伝えられない原因は電波系メディアによって生じている2極化現象なのだ。どれだけ、正しいメッセージを伝えても、言う事を聞かない一定の率は絶対に存在する。それは民主主義国家では、少数意見という云われ方もするし、犯罪がゼロ化出来ない理由かもしれない。それはある程度は、社会悪として受け入れる必要があるが、デマでかき回された結果、多数を占めると危険なのである。

<正しく恐れて、正しい抑止行動が重要>

 自分が感染者のつもりで、人に移さない様に行動を心がける。うつさないと言うのは、まずは、飛沫を飛散させない事。通常時はマスク着用だろうが、勿論、話さない、クシャミや咳をしなければ飛沫は飛ばないのでマスクは不要。逆に、食事中の会話は飛沫飛散に繋がる最大のリスク、という事を理解した行動を徹底すればよい。そして、何よりも、風邪気味の時に、通常以上に気を付ける事。当たり前だろう、飛沫にウイルスが含まれる確率が増えるのだから。

 この点を忘れがちなのだ。無症状者全員に検査をして隔離するなんて非現実的な事よりも、ウイルスの拡散リスクの高い人の行動抑制、無症状者含めた全員に自分がウイルスを保有しているつもりでの行動抑制以上の感染抑止は存在しない。無症状者全員に検査をする意味などないのである。ましてや、検査結果の陽性の内、30%~40%が偽陰性であれば、安心してはいけない人に安心させてしまい、寧ろ、リスクが高まるのである。

 そして、何よりも、ウイルスの真っただ中にいても感染を防ぐ行動を心がける事が重要なのだ。マスクは無いよりも有るに越したことはないが、予防効果は万能ではない。それよりも、小まめな手洗いうがい、手指消毒の方が有効だ。それよりも大切なのは体調管理だ。受験勉強中、試験直前のケアは相当のレベルで実行しているはずだ。同様以上のケアをすれば良い。まず、初期免疫を高めるためのビタミン摂取、水分摂取で喉や鼻を常に潤す、マスクはこの保湿効果に有効だ。僅かな変調に敏感になることも大切。早めのケアで自分を守る。

 それでもゼロはあり得ない。不幸にも感染してしまうこともあるだろう、発症する事も100%は防げない。その場合は、発熱外来、保健所やかかりつけ医に相談をして対応を決めるのは義務である。自分の勝手な判断で、医療と関係ない検査を受けても義務は果たせない。素人判断ではなく、医師の判断を仰ぎ、指示に従う以外にないのだ。

旅行もOK、会食もOK、但し、前述の注意事項を守ることが前提で。

 ここまでのことを考慮すると、特措法で定める強制力のある措置として必要なのは、第一に医療資源の再配分に関する強制力。第二は、医療以外の検査で誤った認識を持たせない様に制限する検査の統制管理。第三は、情報の統制である。休業要請の強制力と補償など4番目以降で充分。

 よく考えて欲しい、マスコミの無い時代に、新型コロナが流行したら果たして、パンデミックになっただろうか。感染力が高いと言っても、身の回りでの患者数はどれほどだろう。無症状や軽症状が殆どであれば、普通の風邪と見極めることは出来ないのではないか。毎日、感染者数最高と言われ続けるから、必要以上に恐れているだけではないだろうか。実際に患者が発生していると言っても、新型コロナは実は2019年に既に上陸していたとの説もあるぐらい見極めがつかないのだから。全く、マスコミが感染状況を伝えなければ、同じ様に緊急事態宣言を出すべきに60%もの人が賛同するだろうか。

 今の感染状況が収束するとは、どういう状態を指すのだろう。誰も、恐れず、騒がなくなると、メディアは視聴率が取れないので必要以上に危機を煽るのをやめるだろう。メディアが報じなくなると皆は忘れていくだろう。鶏が先か、卵が先か。そのトリガーになるのがワクチンであり、治療薬であった。ワクチンや治療薬に効果は必要なかった、その存在で安心をして必要以上に騒がなくなる効果の方が高い。インフルエンザに対する意識がその事を示している。現状の新型コロナ以上の感染者数、死者数を毎年出していても、ワクチンと治療薬の存在で何故か精神的安定を得ている。よく考えて欲しい、ワクチンと治療薬が揃っていて、新型コロナよりも死者数が多いのだ。何故、安心できる?何故、新型コロナは必要以上に恐れる。

 つまり、ワクチン開発で新型コロナの精神的安心を得て、必要以上に騒がなくなり、結果メディアも報じなくなっていき、収束に向かう。例え、同様の感染者数、重症者数、死者数が発生したとしてもだ。

 しかし、緊急事態宣言やむなしの状況では、それまでに払う代償はとてつもなく大きい。懸命に、情報を見極め、冷静に論理考察できれば、払う必要のない代償なのだから、残念でならない。

東京都の感染拡大が他地区と異なる動きを示す理由の分析

 一旦『K値』そして『T値』(詳細は『ファクターXの正体』をご覧ください)で感染収束が検知された後、しばらくはピークアウトの傾向を示していたが、再び感染拡大に向かい始めている。それも、他地区と大きく異なる変化を東京が示している。森羅万象、世の中の出来事には必ず因果関係が存在する。東京だけ異なる傾向を示すのも、何らかの理由があるはずであるので、丁寧に検討していきたい。

 相変わらず、危機を煽り、政府を非難するだけのメディアも多く、危機管理のなんたるかを尤もらしく語っているが、正直言って、メディアで語られている危機管理は多くの部分で大きな勘違い、思い込みの激しい決めつけで、机上の空論が多すぎる。実践を通じて危機管理に対処してきた立場から言うと、もっとも危機管理対応時にやってはいけないことを多くのメディアは言い続けているのだ。

 考えうる最大のリスクに最初から対応するのが危機管理の基本だと言う間違った説が実しやかに語られている。大きな間違いだ。東日本大震災時の福島原発を襲った津波を想定外と言わしめた反省の様だが、一体どこまでの想定をすれば最大と言えるのか、が問題なのだ。

 例えば、地球崩壊のリスクを想定して巨大隕石の衝突を想定して、対応能力を備える必要があるのか。太陽の巨大クレア発生に備える必要があるのか。笑い事ではない、そんな可能性は無いと馬鹿にしても想定以上の津波は自然現象で発生するのであり、どこまでを馬鹿にできるのか、誰にも答えられない。もっと、身近な例で言うなら、飛行機には乗れなくなる。墜落事故の可能性を考えて命の危険を冒すリスクを取るのか、という事である。墜落事故は、確率は低くとも発生しうるリスクであり、最大のリスクでもあるのだから。更に言うと、車の運転、いや、道を歩くことすら出来なくなる。

 危機管理とは、実際に発生している危機状態を冷静に状況判断し、適切に対応しなければならない。それが基本だ。それ以上でも以下でもダメなのだ。だから、状況変化に柔軟にかつ迅速に適応する必要があり、極めて難しい判断の連続と舵取りを要求される。場当たり的に見えるのは、他人事で無責任が故でしかない。大きく、強力な措置、何もさせない、を実行する程簡単なことはないが、それは危機管理としては極めて無責任、責任回避の良い訳行動でしかないのだ。

もし、本当に日本が危機的状況に陥ると想定された場合は、まず情報統制を真っ先に実施しなければならないだろう。そうしなければ、危機管理対応としての実施策が全て無効化されてしまうからだ。そういう意味では、まだまだ日本は危機管理状態とは程遠い、平常状態なのである。

話を、感染再拡大の原因究明に戻そう。

まず、真っ先に想像できるのが、変位種の感染である。振り返ってみれば、本年3月に武漢種の感染が収束を見せた直後、入れ替わる様に欧米種が感染拡大を見せた。その欧米種は直前の渡航飛来したものと思われている。今回の感染傾向もその当時に酷似しているのだ。変位種はまだ数例だけが確認されているに過ぎないが、実はもっと早く、多く上陸していることも否定はできないはずだ。

少しだけ、疑問なのは、大阪など多くの海外からの入国者が東京と同様に多い筈の地域は、収束に向かい始めているのである。この違いは何だろうか?例によって、メディアは、若者を悪者にして行動の自粛を呼びかけるが、はっきり申し上げよう、大阪と東京で若者の行動レベルに差があると言うのは何の根拠もない。体感的に言うと、大阪の方が寧ろ対策面で緩やかである。その証左の一部として、店舗の正月開店状況を比較すれば分かる。大阪では、正月に普通に福袋が販売される予定が多い。東京ではほとんどが年末からの売り出し、しかも予約制だ。

私がよく用いる地域文化の差を表す、『エスカレータ理論』(詳細は拙著『ファクターXの正体』をご覧頂きたい)、ルールが目的化してしまい目的を見失い行動が東京に多いということも考えられるが、その件は別で議論しよう。

二つ目の仮説だが、民間の検査、誰でもいつでも受けることが出来るPCR検査の影響である。東京ではかなりのレベルで普及してきている。そして、不要不急の外出自粛要請、帰省を控える様なメッセージが発され、医療の世話にならない程度の体調不調時、或いは何もなくても、安心したいと言う理由での検査が爆発的に増えている。この中に感染者が存在した場合、その30%が偽陰性と判定され、誤った安心を得て、少々の症状があっても感染抑止策が不充分な行動に繋がる。これが感染爆発の大きなリスクなのである。このカテゴリに属する人は、安心させず感染抑止行動を徹底させるべきなのだ。

PCR検査は、医師の判断で行う、確定診断の助けになるものであり、勝手な安心を得るものではない。この点の勘違いが多すぎて困る。メディアが煽る、誰でもいつでも何回でも検査を実施している国で感染が抑えられている国があれば数字で語って欲しい。中国は、検査で抑えたのではない、強制的な集団隔離の効果があったのであり、検査は関係ないのだ。

無症状者による感染拡大を殊更大げさに言うが、無症状者はウイルスを保有していたとしても、咳をする有症状者と比較して、ウイルス拡散量は少ないのである。マスクをした状態で、飛沫を防げば、かなりのレベルでウイルス拡散を防止できる。従って、誰もが感染しているつもりでの抑止行動で感染抑止は可能なのである。

合わせて、周囲にウイルスが存在する、常在する前提での、感染抑止行動が重要なのである。つまり、ウイルスをもらっても粘膜に近づけない、洗い流す。そして、自然免疫力を高める様に努める事だ。それで全てではないだろうか。

 更にウイルスの変異であるが、メディアで恐怖の様に語られ続けているが、大きな間違いである。確かに強毒化する変異もあり得るが、今回の変異は、感染力が高まったとしか言っていない。ウイルスの基本的な性質上、感染力が高まると言うのは、毒性は弱まる方向にいくのだ。なぜなら、ウイルスも生存競争を戦っているからだ。毒性が強まった変位種は、感染機会が減少してしまうので自然淘汰されるのだ。もし、毒性と感染力を同時に高めることができれば、強力なウイルス兵器になるが、実はまだ成功事例は聞こえてきていない。つまり、今回の変異は、より通常の風邪の原因ウイルスに近づいたと考えるべきで、歓迎すべき変異に思える。Withコロナとはその様な変異でも近づくことができるのだ。

 最後に確認しておく。東京の状況を危機的と喧伝されるが、それでも欧米先進諸国と比較して、桁違いに感染規模が小さい。ニューヨークでは1日何十万回、いつでも検査が出来るのに、日本は何もしないと言われ続ける。同じ規模の感染に拡大して良いのなら、その選択肢もあるが、私は嫌である。

アメリカ、イギリスではワクチン接種が始まった。副反応のリスクを遥かの凌駕する効果を期待してのことだ。日本では、ワクチン接種に慎重論が専門家筋でもまだ多い。そのことが日本の感染状況が危機的状況ではない証拠でもあるのだ。

正しく恐れ、正しく対処する。必要以上の対応は100害あって1利無し。正しい行動を心がければ、マクロ視点では大きな危機に繋がらず、日本の医療も崩壊しない。

医療崩壊の数値的検証とその対策提言

 諸外国に比べて圧倒的に少ない感染者数、重症者数にも関わらず、医療崩壊の瀬戸際に立たされる日本。愕然とさせられる事象だが、本当であれば国家的に医療体制の脆弱性を真剣に改善しなければ、枕を高くして眠れないだろう。その実態を検証してみなければ、対策の方向性も検討できないので、オープンデータから検証をしてみる。
 
 まず、グラフをご覧いただきたい。このグラフは、感染者総数から死者数と療養解除者数を引いた推移である。つまりマクロな観点では、指定感染症であれば全て入院必要な患者となる。

画像1

 ご覧いただければ分かるのがピークを2回経ながら3回目のピークへと向かって行く傾向の中で3万人というラインに近づいているのが分かるだろう。この3万人という数字が重要である。

 なかなか、減少しない傾向があるのは、一旦療養に入ると他の感染症と比較して療養解除まで長期間必要になる。即ち、他の感染症より病床占有率が高くなるのである。そして、3万人に迫ろうとしている。

 日本の病床数は、概ね100万床と言われているが、新型コロナに備えて準備可能とされたのが、その3%にあたる3万床である。即ち、マクロ的には逼迫している事を数値は示しているのである。

 いやいや、無症状者などホテル隔離、自宅療養も増えているという意見もあるだろうが、現実問題として3万床とはMAXであり通常の回転率、全国に散らばっている総数だと考えると、実質は約80%の2万4千床あたりで、そこいらじゅうでベッドがないと言う調整が必要になり、所謂逼迫状態になる。その分をホテルや自宅でカバーしていると考えれば、3万人に近接してきたという数字は、逼迫と言っていいだろう。

 一方で、今インフルエンザの患者は激減している。例年なら週当たり10万人前後の感染者だったのに対して、今年は数百人に収まっている。この中から入院患者はどれだけいたのだろうか?仮に1割と想定すると、1万人規模となるのであり、その分は病床に余裕があるはずだ。

 また、危機管理の基本中の基本だが、危機に備えて準備した資源(この場合病床であり、対応人数である)3万床で不足する事態が発生する場合、残りの97%から適宜資源の再配分を行うのである。3万から4万、5万というと相当なリスクを孕む規模に感じるかもしれないが、97%を96%,95%に調整すると考えるとそれ程困難には感じないのではないだろうか。現実、企業における危機管理対応時には、普通に当たり前に実行する資源の再配分なのだ。

 私自身、東日本大震災時の企業における危機管理対策本部や、その他のインシデント発生時の組織運営管理者として幾多の危機管理体制に対応した経験から言うと、資源の再配分は権限さえ備わればそれ程難しくないし、通常業務に影響を及ぼさずに対応可能なのである。危機管理体制やプロジェクトに必要不可欠なのは資源の確保に対する権限なのだから。しかし、厄介なのが、権限が付与されていないことを想定する場合なのだ。それでも、その体制をの責任者がまず実行すべきことは、資源の確保なのである。

 そもそも危機管理体制に資源確保の権限が付与されていない時点でお終いなのだ。資源を再配分しようと、全体最適を考えて采配を振るおうとしても、既存組織は既存のミッションを保有し、自組織防衛の為の防御反応が出るので、権限が無ければ、部分最適に引っ張られ、全体最適が犠牲になってしまうのである。

 今の医療界が発信している、既存の医療に影響が出ると言う言い方は、この部分最適の防御反応の象徴なのである。構造的に、医療業界全体を統制管理し全体最適を指揮できる権限機能が存在しないことが、危機管理体制として脆弱である所以なのだ。

 正直言って、冬の感染ピークは想定された現象であり、その時点で3万床の医療資源で間に合うかは極めて心もとなかったと言わざるを得ない。そもそも、諸外国の感染状況を鑑みた場合、当初3万であったとしても、柔軟に増床する資源再配分を想定しておくのが当たり前だ。3万が限界だから、3万以内に感染を抑えるべきだと言うのは、その通りだろうが、収まらなかった時点の策を用意していないのは、余りにも稚拙、怠慢の誹りを免れないだろう。

 特措法で有事の強制力が議論されるが、命を守る医療に対しての国家としての強制力は何よりも最優先するべき事項のはずだ。少なくとも、医療業界の善意による危機管理能力は限界があることが今回露呈しているのだから。

この件も含めて、政府の採るべき対策、法的な対処をまとめると

① 感染症指定時に予め想定できる感染状況を定め、それに対応する、医療体制確保、医療資源配分の要請を医療業界(医師会?)に要請できること
② 予め想定した感染状況を超える事態と感知した際には、医療緊急事態宣言を発出し、医療資源の再配分の指示を強制力を持って出来ること
③ 医療資源再配分とは、病床数、ICU数のみならず、それを運用する医師、看護師も含むものである
④ 当該指示における設備運用費、人的資源費用の通常以上にかかるコストは政府が負担するものとする
⑤ この際必要な、ホテル療養や自宅療養に必要な介護師の人的資源確保とサービス維持を指示し、コストは前期同様政府負担とする

 以上のような内容を、法律としてブラッシュアップして特措法に組み込めば、飲食店などの休業要請よりも、もっと現実的な政府対策になる事は間違いないし、この部分が不足していては、本当の意味で命を守る体制にはなり得ない。

 繰り返しになるかもしれないが、日本の医療資源は世界に堂々と胸を張れる水準であることは疑いようがない。そして、医療のレベルもトップレベルである。皆保険制度に支えられている医療サービス体制も万全だ。日本の医療がこの程度の感染拡大で崩壊することがあろうはずがない。あるとすれば、資源の配分が硬直的で偏っていることに原因がある。であるならば、少なくとも緊急時には、医療業界に不足しているだろうノウハウ、経営のノウハウを注入しなければならない。即ち全体最適を見据えた資源の有効活用のノウハウを注入しさえすれば、今発生している様な動脈硬化現象は必ず解消できる。確かに医療業界は不可侵かもしれないが、崩壊し、国民の命が危機に晒される事態であるならば、背に腹は代えられないはずだ。

 何故、分科会や専門家会議に経済の専門家が入っていながら、この種の提言が出ないのか不思議でならない。経済の専門家という学者は、結局実践力が伴わず、机上論で経営のプロではないとするならば、学者でない本当の経営のプロ、或いは現場指揮を経験した、企業には存在するバリバリの再建人材を入れて議論すべきだろう。

ざわつく世間、危機煽りの限界露呈 冷静になれば為すべきことは明確だ

 東京都の新規感染者数が800人を超えて、この世の終わりの様な報道、感染拡大を政府の責任する無責任な専門家発言が相次ぐ。どうしたらいいか、政府のメッセージが欲しい、強力な対策が必要だ、と言い続けるメディアだが、同時に若者にはメッセージが届かないと責任を転嫁する。パニック状態の収拾がつかないデマが世の中を覆う危機的状態。ここは、冷静に原点に返るべきだ。原点とは、感染症対策の学術的原点ではなく、日本が当初より示した対応方針の原点である。

 感染症対策の学術的常識は、感染ゼロ化、完全封じ込めを目指すのが前提である。それは、致死率が高い、最悪の感染症を前提にするから当然と言えば当然だ。しかし、新型コロナ感染症は、感染力は高くとも、致死率は低いという事実は既に周知であるし、実は日本は当初より、その実態を見抜き、完全封じ込めでなく、管理抑制方針、つまりWithコロナを目指している。

 この管理抑制方針と完全封じ込め方針は根本的に異なるが、メディアの殆どは完全封じ込めから抜けられず、メディアで発信する専門家の多くも同様の発信に明け暮れている。国民目線から見て、分かり難いのは当たり前だ。この二つの違いで平行線となり、実際に取るべき策と、メディアから流れる情報が異り、交わるところが無いからだ。訳が分からない、どうしたらいいか分からないと、危機感を感じるのは当然と言えば当然なのだ。この二つの違いは、学閥、派閥の違いが強く影響を及ぼしているとの説もあり興味深いが、それは後日考察するとして、今現在、各個人はどういう行動を心がけるべきかを簡単に示したい。極めて簡単、次の二つを心がけるだけで良いのだ。

① 自分自身が感染者である前提で他人に感染させない予防策を実行する
② 市中どこにでもウィルスが存在する前提で、自身が感染・発症しない様に予防策を実行する

 この二つに尽きるのだ。上記2点を前提にすれば、会食はどの様に対応すれば良いか、普段の行動はどうするべきか、どういう店を選べばいいか、各個人が責任感を持った行動を心がければ良い。何をすればいいか分からない、というのは無責任と認識し責任ある行動を取る事。こんなこと既にやっている、というのであれば、今まで以上に継続すれば良い。

 この感染症は、感染力が高いと言っても、それ程無尽蔵に感染するものではないことも分かってきている。勿論、上記の行動を完全に実施しても、不幸にも感染してしまう可能性がゼロではない。世の中でゼロリスクはあり得ないのだから仕方がない。しかし、限りなくゼロに近くリスク低減する努力は出来る。それが上記2通りの行動指針だ。

 それでも、世の中は法律すら守らない事件も発生する。国民全てが良識ある行動を取る訳が無い。それ故、一定の不正行為のリスクは存在し、それ故の感染は発生するだろう。それは社会リスクとして一定受容しなければならないだろう。人権制限に及ぶ程の強制的な行使を実行しない限り防げないのだから。

 ワクチン接種がアメリカや欧州で始まった。まだ、安全性確認が不十分な状態でも、背に腹は代えられない状況で一定のリスクを受容することを国民も了解して始まっている。日本では、このリスクは取れないだろう。何故なら、ワクチン接種のリスクを受容する程、感染拡大のリスクが高まっていないからだ。この事実からも、日本の現時点の感染拡大状況は大騒ぎする状況ではないことを冷静に理解しなければならない。もし、本当に危機だというのなら、ワクチンを特別認可して年内にでも接種開始する様に各方面から迫るべきだろう。その気がないのなら、煽るべきではない。

 では、東京都の800という数字はどう考えるべきか。実は、忘れているかもしれないが、小池都知事は1か月前に1日1000人の新規感染を想定した医療体制整備を語っていた。肉薄してはいるが、そこからはまだ8割である。実は私の予測でも、東京都で1日1000、全国で5000というピークを想定していた。しかし、現実は拡大の中途で一旦収束に向かう兆候を確実に示した。そこから再拡大を示し、少しだけピークシフトした状態で現時点の東京都800という数値になった。このことは事実だ。

 私は不思議で仕方がなかった。一旦収束を示しながら、再拡大を示し始めた要因が必ずあるはずだと。それがあったのだ。そして、そのことを事実と受け止めた瞬間、愕然とした。私が『ファクターXの正体』でテーマとした事象が発生しているのだ。ここのところ民間の検査機関がビジネスとしてPCR検査をかなりの規模で始めている。そして、私はある場所で、GoToを利用した宿泊所でどんちゃん騒ぎをする団体と遭遇した。話を聞いてみると、全員PCR検査で陰性だから大丈夫だと言っていた。これなんだ、最大のリスクは、と確信した。

 症状の無い人は、本来検査など必要なく、自身が感染している前提で行動をすれば問題ない筈だが、陰性という大義名分を与えると、人とは弱い動物であり、大なり小なり緩みが発生する。その中に偽陰性者が存在する限り感染リスクが増大するのは当たり前なのだ。陰性という大義名分があれば、症状があろうとも大丈夫と思い、無理をする。だから、無暗なPCR検査は今すぐやめるべきなのだ。海外とのビジネス等、必要に迫られる場合に限り必要悪として認めるとしても、少なくとも陰性という結果は全員偽陰性と思え、ぐらいの注意喚起が必要だろう。だから、全員感染している前提の行動が必要なのだ。

 数字に話を戻そう。800という数字に恐怖を感じる。しかし数字とは怖いもので、何が危機となる基準なのか、曖昧で感情に影響されてしまう、その原因は、目標としての設定数値、基準としての数値が設定できていないからだ。いやいや、ステージを分ける数値設定はしていると言われるかもしれない。しかし、その数字をよく見て欲しい。危機的状態を想定して設定したものではなく、その時点の数値を基準に、少し増やしたところの数字設定をしているに過ぎない。経営を少しでもかじった人ならお分かりだろうが、客観的理由のある目標数値設定ではなく、現状からの見えている範囲で積み上げた数値を目標にしてはならないのである。

 では、本来ステージ4などの危機的状態の数値をどう定めるべきか。現状ありきではダメで、諸外国の危機的状態から導いた数値設定にするべきなのだ。勿論、そこまでは行きたくない方針の元、諸外国の状況の半分や3割減などに設定すればよい。現状からすれば、遥かに余裕のある数値となるが、危機との差はそれだけ余裕があると言う現実を理解するために必要な数値なのだ。それでは、その前に医療体制が崩壊するというのなら、崩壊しないぎりぎりはどういう数値になるのか、を基準にしても良い。病床数、医師数は諸外国と比較して最優良なポジションを示す医療先進国である日本が、本当にどういう数値で医療崩壊が起きるのか、そこを数値設定すればよいのだ。

 医療崩壊、逼迫していると危機感を煽る。事実、医療の現場は大変だろう。箱モノを整えても、対応できる人間の数が少ないと専門家は言う。だから、現時点で既に医療崩壊なのだと。

 100歩譲って、今の状態で医療崩壊ということを認めてみよう。それは諸外国と比較して医療後進国、脆弱な体制である証になるだけなのだ。その事実に、真摯に向き合って、強化対策を計画するのは政府ではなく、医療業界の務めではないのだろうか。これは強力な皮肉だが。

 今、医療崩壊を防ぐ方法は簡単だ。大阪の様に、専門病院を作る事。そして、そこの医師や看護師を調達する強制力を政治が持つことだろう。任意で希望者を集めようと言う通常時の考え方では無理なのは当たり前で、危機管理状態であれば、危機対応に相応しい強制力が必要なだけだ。絶対数は不足していないのだから全体としては賄えるはずだ。現状ある病院の病床を少しずつ、コロナに割り当てて確保するのでは簡単に崩壊するのは当たり前だ。

 もう一つの方策は、高齢の入院患者、要介護状態の患者の介護を担当する介護師も雇用することだ。医療の聖域として、看護師が介護まで担当する様では、看護師の負荷が膨大に増えるだけでなく、サービス面の不備にもつながる。これは実は重要なポイントでもある。

 医療崩壊だ、とメディアで吹聴するのではなく、この様な対応をすればここまでキャパを拡大できると提案する役割を担うのが専門家ではないのか。他責を追求する前に、自責の範囲を全うする、或いは更に前向きに提案することが経営視点では生き残りの条件なのだから。

悪魔の証明

 GoToキャンペーンが感染拡大の原因となるエビデンスは無い。このことは、多くの専門家もメディアも認めている。当たり前だろう、数字は嘘をつかない、GoToを始めても第2波という感染拡大は減少に向かったからだ。素直に、人の移動があっても、適切な感染防止行動、ニューノーマルの生活様式が備われば、感染拡大抑止には繋がらないと言っても良いだろう。

 しかし、良く聞こえてくるのが、『GoToが感染拡大の原因となっていないエビデンスも無い』という言い方だ。国会では野党が政府の新型コロナ対策の追及の場で、医療の専門家はあらゆる情報発信ルートを使って、メディアは無責任なコメンテイターやアナウンサーまで、同じ口調で、どちらともいえないと印象を植え付け続けている。
あまり意識されない方も多く、騙されがちだが、この言い方は『悪魔の証明』という禁じ手である。

 この世に悪魔は存在しないと主張するならば、それを証明して見せろというものだ。存在することを証明する為には、1人でも悪魔を発見すれば存在を証明は出来るが、存在しない証明は、その時点で発見されていなくても証明にはならないのだ。たまたま、発見できていないだけかもしれないからだ。従って、永遠に証明は出来ないのだ。別名、消極的事実の証明ともいう。

 従って、『GoToキャンペーンが感染拡大の原因となるエビデンスは無い』という時点で、統計的にも科学的にも因果関係は無いと言うべきなのである。もちろん、何らかの相関関係を示すデータが確認されれば、そのデータを検証して、結論が覆る可能性がゼロという訳ではない。しかし、エビデンスはない時点で科学者なら、『きかっけになったのは間違いない』『原因となっていないエビデンスも無い』とは絶対に言えないのだ。

 メディアも事実を伝える大原則が、もし、今でもあるのなら、この『悪魔の証明』は直ぐに訂正するべきだ。軽々しく発言している方々も、電波に乗せる責任を持って謝罪と訂正が必要だろう。

 国会の野党議員に関してだが、冷静に判断できる有権者を増やさないと、民主主義を崩壊させかねない。政権を攻撃するのが野党の役割だと、非論理的な言いがかりばかりで『悪魔の証明』を殊更求める傾向が強い様ではダメなのだ。論理性の無い攻撃は、野党だから結果に責任を持つ必要が無いと割り切っているから出来るのかもしれない。それでは、決して与党に押し上げようと思えなくなるだけであり、永遠の野党、永遠の無責任集団でしかなく、健全な民主主義には必要ない集団になってしまう。日本の為にも健全な議論を期待したいし、そうでないなら投票行動で示すべきだろう。

 悪魔なんて存在するはずが無いのは、常識だ。それと同じ論理で、人が動けばウィルスも動き、感染が拡大するのは常識だと言いたいのだろう。しかし、日本のニューノーマルの生活様式、感染抑止行動が伴えば、移動のリスクは充分低減され受容可能なレベルになるのだ。常識は、覆るものであり、ある条件を掛け合わせることで覆せるものなのだ。そして、このことは日本が諸外国に胸を張って誇るべき事象なのだ。

 では、なぜ今、感染拡大しているのだろうか。その問いには、なぜ昨年までのインフルエンザはこの時期に感染拡大が始まっているのだろうかと問いたい。また、風邪は何故冬に流行し、夏風邪も一定数発生するのかと問いたい。問いに対して、必ず1対1の解が存在するわけではないのが実社会。しかし、季節性の要因があることは間違いないのだ。つまり、気候を人為的に操作出来ない領域であり、冬季のリスクは、当初から認識するべきリスクなのだ。

 また、逆の言い方をすると、因果関係のないGoToを停止したところで、或いは営業時間短縮要請をしたところで、感染抑止効果は無いと言っても過言ではない。効果のない策を打つことで、被害を受ける観光業界、各種店舗は補償されたところで、必要のない被害を受ける事に違いは無いのだ。いくら補償があっても、事業継続とは全く次元が異なるのだ。これほどバランスの悪い策に対して、政府が消極的なのは当たり前で、経済か感染対策かという言い方や経済優先という解釈は本質的に間違っている。間違ったメッセージに踊らされる国民の声が民主主義社会では諸悪の根源となってしまうのであり、間違っていることは間違っていると是々非々の考察が必要不可欠だ。

 そうこうしているうちに、『GoToを推進することで国民の緩みに繋がるリスクがある』という言い方に専門家の一部は変わってきた。『悪魔の証明』に気付いて反省したのであろう。しかし、ならば打つ手は、GoTo停止ではなく、ニューノーマル、感染予防対策の徹底の訴えかけであり、法的措置が必要ならば、感染抑止対策の不備に対して行政指導、罰則規定を設けるなどが有効である。条件として、感染発生の有無に関わらず、あくまで対策の内容を評価するべきではあるが。
 そして、何と言っても医療体制の強化が一番重要な対策だろう。医療崩壊を防ぐ具体的な方法論、税金を使ってでも実効性のある対応策を提言するのが分科会、医療専門家の役割ではないのだろうか。ベッドが不足する、人が足りないとテレビで不安を煽って、政府が何もしてくれないと言っても何も前に向いて動かない。具体的に何をするべきか、論理的な発信を期待して止まない。