感染拡大と因果関係のない対策

 因果関係のない対策は対策ではない。当たり前だ、結果と関係ないことを実施しても結果を変えることは出来ないからだ。

 GoTo と感染拡大に明確な因果関係がない、証明するエビデンスはない、にも関わらず、多くの識者は、感染対策としてGoToの一時停止を呼びかけ、世論が形成され、民主国家としての政府は、一時停止せざるを得ない空気に動かされた。これは春の緊急事態宣言時の再来である。GoToを停止すべきと提言するのであれば、その成果もコミットするべきだが、出来るはずがない。

 エビデンスはないがきっかけになったのは間違いない。GoTo を実施している環境では、感染予防に対して緩む方向の空気を形成し、感染予防対策が疎かになっていると言う。だから、一時停止という空気感で引き締めようと言うのだ。冷静に考えて、国民をバカにした考えであり、国民としては怒って然るべきではないのだろうか。ある意味、直接効果は無いが見せしめとしてGoToがスケープゴートになった様なものだ。と思っていたら、素直で正直な日本人は、恐怖で煽られると頭で分かっていても、理解を示し、仕方がないと受け入れる空気を産み出しつつある。
 その根底にあるのが、感染症は人の移動で感染拡大すると言う、疫学上の常識であろう。エビデンスが無かろうとも、事実を無視してでも、常識なのだから移動制限は効果があるはずだと。

 では、その常識を論理的に検証していきたい。移動制限とは、ゾーニングによってホワイトゾーンを継続的に確保する目的で行われるものである。その前提で、下図を見て頂きたい。

ゾーニング

 上図の様に、着色部分がまばらで、区分できる状態であれば、境界線を設置してゾーニングを行えば白地の部分は確保できる。しかし、下図のように白地の中に全体的に着色部分が分布している状態で境界線を引いて移動制限しようとも、全面的に着色ゾーンになり白地は確保できない。春先と違って、今や蔓延状態なので、中途半端な行動制限に何の意味もないのだ。

 模式的に図示したが、ウィルスの蔓延状態は、今やどこを切っても白地は無く、まばらに濃淡はあれども、全面グレー状態である。それは境界の切り方や、ゾーンの大きい小さいは関係ない。マクロで見ても、ミクロに切っても同様のまばら着色状態なので、どこに行動制限を実施しても結果は同じである。小さなゾーン内に行動が制限されても、人の接触はそのゾーン内で発生するので何も変わらない。

 唯一可能性があるのは、個人単位で区切ること。つまり、全ての人の行動を制限すること、完全なロックダウン、ステイホームで人との接触をゼロ化すること。これは、一定時間でウィルスが死滅する効果があるかもしれない。しかし、それは日本ではできない。そして必要ない。また、一旦死滅しても、必ずどこかから流入する、阻止できない類のウィルスだからだ。

 陽性者をあぶり出して、行動制限すると言う考え方もある。その為に徹底検査が叫ばれ続けた。しかし、徹底検査を実施した諸外国も今は再感染拡大している。その理由は簡単、検査で白黒区分することが出来ないから、境界の意味がなくなるのである。日本でも、体操の内村選手偽陽性などの現象は記憶に新しいのではないだろうか。検査で白黒、デジタル区分は出来ないのである。

 確か、このウィルスの絶滅は現実的でなく、Withコロナ、共存を目指すと合意していたのではなかったのだろうか。少し感染が増えると、直ぐに情緒的に、ゼロ化、ゼロリスクを前提とする議論に発展してしまう。あり得ないゼロリスクを追求する結果、国民の人権を制限し、生活を犠牲にし、富を失する結果を招く責任を、ゼロリスク信者は責任を取ってくれるのだろうか。多分、他のリスクが顕在化した時点で手のひらを返して、失政だと追求し始めるに違いない。

 ウィルスは人類を絶滅させない。共存の道を選択する。従って、蔓延状態が続けば、ある一定期間で勢力は弱まる。もちろん、ウィルスに曝露されても、感染しないで健康を維持する可能性を高める対応は可能である。それが、個人の免疫力強化、体調管理、栄養補給、睡眠確保などなど。ウィルスが存在して健康も維持できている、これが人類にとってもウィルスにとっても最善であり、真の共存状態である。

 ブルームバーク通信で日本は、新型コロナ対策でニュージーランドに続く2位に評価された。3位台湾、4位韓国、と言うことで、実質的な感染数、死者数の少なさだけでなく、必要以上の人権制限を行わずに達成していることが評価のポイントだろう。日本国民はその内容に自信を持つべきなのだ。