2度目の民主主義の危機的緊急事態宣言発出直前

 世論調査という数字で、緊急事態宣言発出するべきという意見が60%を上回った様だ。民主主義体制における政権では、発出する以外に手が無くなってきた。例えどんなに意味が無く、効果が薄く、その癖、副作用による打撃は確実に国民が被るのに、正しい判断が出来ない感情論の数値が過半数を上回ってしまった。日本が好戦的な国内世論に圧され、軍部が台頭してきた歴史の繰り返しの様に、民主主義は時に論理性を欠いた、冷静とはとても思えない感情論に支配され、誤った道を選んで、自ら墓穴を掘る。どれだけ政府が懸命に抵抗しようとも、何を発信しても上から被せる様なメディアの情報という連続射撃で消され、発信力が無いと非難される。この場合の『発信力が無い』というのは、自分達と同じ意見の発信が無いことを云い、他の情報発信は全て間違いで血迷っていると否定され発信と見做さない事によって生じる現象。メディアという情報権力による有無を言わさぬ暴力的な政策誘導でしかない。

 自分達と異なる意見の発信には、馬鹿にしてスルーする。問われた質問にも答えず、一方的に断定して捲し立てる。そして、未だにそんな事を云う奴がいると上から目線で見下して一方的に話を断定的に進める。こうすると、確固たる自信を持っていない、自己判断を論理的に独自思考できない大多数は、この意見に従わなければ、周囲から冷たい目で見られると言う強迫観念を抱いて同調させられてしまう。

 結論から言うと、新型コロナは怖い病気である事は事実だが、即死亡とか、根治不可能の難病、いつ急変して死に至るか分からないといった類の病気ではない。だからこそ、正しく恐れなくてはならないのだ。そして、ゼロ化は出来ない事も理解する必要がある。

 どれだけ強制力のある抑止政策を実施して一旦ゼロにしても、再び感染は拡大する事は世界で実証されている。日本は、その事をいち早く理解し、Withコロナ施策に舵を切っており、正しく感染予防行動を行い、バランスの取れた現実的な政策実行を目指していた。それなのに、諸外国で失敗している、ゼロ化政策を絶対神の様に語り続けるのは、余りにも酷すぎる。

 ゼロ化絶対、PCR絶対信者は、欧米で無症状者に対しても無暗に検査を実施した結果、日本より桁違いに多い感染者数をマークしている現実を無視してはいけないし、全員検査を主張するなら、その原因を説明する責任がある。同じ様に検査を無症状者に拡大して同じ轍を踏むことを日本は避けなければならない。欧米の場合は、避けては通れない宗教的行動基盤のため、白黒はっきりさせないと前に進めない為に分かっていても悲劇を招いているとの仮説の説得力が高いのだ。

<医療崩壊は起こり得ない、本当に怖いのは2極化現象である>

 医療崩壊も日本では起こり得ない。何故なら、日本の新型コロナに割いている医療資源は、たかだか全体の3%に過ぎないからだ。ドキュメンタリー調で、ミクロな現場を放映すれば、その現場の厳しさは視聴者には伝わる。厳しいのは当然だ、医療現場なのだから。それは、他の病気治療現場でも同様の厳しさがある事を忘れてはいけない。

 この3%は、たった1ポイント医療資源を割り振るだけで、4%になる。この時点で占有率80%という数字は、60%に減るのは簡単な算数の問題だ。ましてや、昨年比較で、インフルエンザ激減、上気道感染系の肺炎は半減以下、他の肺炎も減少、という状況で、昨年比では余裕があるはずで、それを回すだけで、平気で6%までは可能なはずだ。そうすれば占有率は40%なのだ。そこまで資源再配分は不要だろう、地域ごとに最適な配分を断行すれば良いだけなのだ。それを許さないのが現在の医療業界の既得権益構造であるならば、有事の危機管理対応として法制化すれば良いだけだ。

 それよりも医療業界の構造を問題視するべきだろう。メディアの電波に出て、医療崩壊を訴えるのは、綺麗ごとではなく、医師会長ポストなどの勢力争いの売名行為や、自身の勢力範囲、例えば開業医の領域を守るためであったり、政治的には政治家の票固めであったり、様々な裏側の視点も考慮する事が必要だ。上記の医療崩壊の謎に、正面から答えないで、これまで感染症の経験が無かったことを理由にした体制整備の問題にすり替えているのは、論理すり替え、矛盾と見極める必要がある。

 だからと言って、繰り返しになるが、新型コロナは怖い病気である事は間違いなく軽視できない。しかし、世の中に出回るデマの多さに、騙されるか、あまりの酷さに聞く耳を持たずに軽視するかの2極化現象が最も恐れる危機なのだ。

 感染力は間違いなく強い、そして、肺炎や血栓症などに繋がり一定の重症化リスクも伴う。それに従って致死率も現状でも1%前後の数字を示している。無症状の、感染非確認者が一定数存在する事も想定できるが、実際の感染者が10倍までだろうと想定すると、致死率も0.1%までしか下がらない。風邪と同等には出来ない理由がここにある。

 しかし、風邪と同様の対応方法で抑止は確実にできる。これを正しく伝えられない原因は電波系メディアによって生じている2極化現象なのだ。どれだけ、正しいメッセージを伝えても、言う事を聞かない一定の率は絶対に存在する。それは民主主義国家では、少数意見という云われ方もするし、犯罪がゼロ化出来ない理由かもしれない。それはある程度は、社会悪として受け入れる必要があるが、デマでかき回された結果、多数を占めると危険なのである。

<正しく恐れて、正しい抑止行動が重要>

 自分が感染者のつもりで、人に移さない様に行動を心がける。うつさないと言うのは、まずは、飛沫を飛散させない事。通常時はマスク着用だろうが、勿論、話さない、クシャミや咳をしなければ飛沫は飛ばないのでマスクは不要。逆に、食事中の会話は飛沫飛散に繋がる最大のリスク、という事を理解した行動を徹底すればよい。そして、何よりも、風邪気味の時に、通常以上に気を付ける事。当たり前だろう、飛沫にウイルスが含まれる確率が増えるのだから。

 この点を忘れがちなのだ。無症状者全員に検査をして隔離するなんて非現実的な事よりも、ウイルスの拡散リスクの高い人の行動抑制、無症状者含めた全員に自分がウイルスを保有しているつもりでの行動抑制以上の感染抑止は存在しない。無症状者全員に検査をする意味などないのである。ましてや、検査結果の陽性の内、30%~40%が偽陰性であれば、安心してはいけない人に安心させてしまい、寧ろ、リスクが高まるのである。

 そして、何よりも、ウイルスの真っただ中にいても感染を防ぐ行動を心がける事が重要なのだ。マスクは無いよりも有るに越したことはないが、予防効果は万能ではない。それよりも、小まめな手洗いうがい、手指消毒の方が有効だ。それよりも大切なのは体調管理だ。受験勉強中、試験直前のケアは相当のレベルで実行しているはずだ。同様以上のケアをすれば良い。まず、初期免疫を高めるためのビタミン摂取、水分摂取で喉や鼻を常に潤す、マスクはこの保湿効果に有効だ。僅かな変調に敏感になることも大切。早めのケアで自分を守る。

 それでもゼロはあり得ない。不幸にも感染してしまうこともあるだろう、発症する事も100%は防げない。その場合は、発熱外来、保健所やかかりつけ医に相談をして対応を決めるのは義務である。自分の勝手な判断で、医療と関係ない検査を受けても義務は果たせない。素人判断ではなく、医師の判断を仰ぎ、指示に従う以外にないのだ。

旅行もOK、会食もOK、但し、前述の注意事項を守ることが前提で。

 ここまでのことを考慮すると、特措法で定める強制力のある措置として必要なのは、第一に医療資源の再配分に関する強制力。第二は、医療以外の検査で誤った認識を持たせない様に制限する検査の統制管理。第三は、情報の統制である。休業要請の強制力と補償など4番目以降で充分。

 よく考えて欲しい、マスコミの無い時代に、新型コロナが流行したら果たして、パンデミックになっただろうか。感染力が高いと言っても、身の回りでの患者数はどれほどだろう。無症状や軽症状が殆どであれば、普通の風邪と見極めることは出来ないのではないか。毎日、感染者数最高と言われ続けるから、必要以上に恐れているだけではないだろうか。実際に患者が発生していると言っても、新型コロナは実は2019年に既に上陸していたとの説もあるぐらい見極めがつかないのだから。全く、マスコミが感染状況を伝えなければ、同じ様に緊急事態宣言を出すべきに60%もの人が賛同するだろうか。

 今の感染状況が収束するとは、どういう状態を指すのだろう。誰も、恐れず、騒がなくなると、メディアは視聴率が取れないので必要以上に危機を煽るのをやめるだろう。メディアが報じなくなると皆は忘れていくだろう。鶏が先か、卵が先か。そのトリガーになるのがワクチンであり、治療薬であった。ワクチンや治療薬に効果は必要なかった、その存在で安心をして必要以上に騒がなくなる効果の方が高い。インフルエンザに対する意識がその事を示している。現状の新型コロナ以上の感染者数、死者数を毎年出していても、ワクチンと治療薬の存在で何故か精神的安定を得ている。よく考えて欲しい、ワクチンと治療薬が揃っていて、新型コロナよりも死者数が多いのだ。何故、安心できる?何故、新型コロナは必要以上に恐れる。

 つまり、ワクチン開発で新型コロナの精神的安心を得て、必要以上に騒がなくなり、結果メディアも報じなくなっていき、収束に向かう。例え、同様の感染者数、重症者数、死者数が発生したとしてもだ。

 しかし、緊急事態宣言やむなしの状況では、それまでに払う代償はとてつもなく大きい。懸命に、情報を見極め、冷静に論理考察できれば、払う必要のない代償なのだから、残念でならない。

怒りの緊急提言、人の死を何と思っているのだ!

 羽田議員の死は本当に痛ましい事故であり、この様なことは二度と起こって欲しくない。年内、コロナ関連はもう書くつもりはなかったが、今朝のワイドショーで余りの言いっぷりに怒りすら覚え、書かざるを得ない状況となった。

 まず、この件、情報が錯綜しており、何が真実か正直言って不明の部分も多かった。アエラの記事では、PCR検査をこの混乱時期に自分が使うことで逼迫度合いが高まるとの理由で本人が断ったとの事だったが、ワイドショーでは、無症状時には検査対象とはならないと言われ、発熱後、受診を受けず民間のPCR検査を予約したが2日後だったとのことで全く異なっていた。何が真実なのだろうか?

 ただ、共通しているのは、24日の深夜に発熱後、発熱外来など医師の判断を仰ぐ行動がなかったのは事実の様だ。

 私が怒りを覚えたのが、あるジャーナリストがこのことを判断ミスと言いのけたことだ。流石に驚いたが、瞬間、菅野女史が諫めてくれたのが僅かに救いだった。

 確かに想像の範囲では、深夜の発熱の際に電話で相談していれば、少なくとも翌朝、発熱外来にかかっていれば、朝熱が下がったとしても夜には再び発熱しており、最悪でもその時点で医師の判断を仰いでおれば、と言うのを判断ミスと言いのけたのだろう。

 百歩譲って、本当に想像の通りの判断ミスだったとしたのなら、その原因を作ったのは貴方達だとの反省をするべきではないか。検査を医師の判断ではなく、素人判断で受けたい時に受けるべきと喧伝し続け、医師の判断関係なく素人が判断する様に仕向けたのは、貴方達、医療と関係ないPCR検査推進派ではないのか。

 通常は検査というものは、医師の判断で受けるものだ。医師は、診察とCT等の他の検査に合わせてPCR検査をして、確定診断を行う。極論を言えば、PCRで陰性と出ようと、新型コロナと同様の医療処置を実施することだってあるだろうし、その為に繰り返し検査をすることもあるだろう。陰か陽かが全てではなく、総合的に診断するのだ。

 普通に考えて欲しい。自分でレントゲン写真を撮って、自分で判断することなどあり得ないだろう。民間の検査で陰陽の結果で勝手な判断をするのは、これと同じことなのであり、あり得ないのだ。

 確かに春先、医師の判断があっても検査が行えない不幸もあったが、今や検査能力は格段に上がっていて、その様なことは無い。その時と混同してはならない。検査は、あくまで医師の判断なので、症状が無い場合は濃厚接触でもない限り検査の判断が下らない。当たり前だ、必要ないからだ。素人判断の検査は、誤った判断、誤った行動を引き起こすので本来危険なのだ。実際に、民間検査での偽陰性クラスターの報告も上がっている。誰でもいつでも検査を実施している国で、感染を抑止出来ているのは、非人道的な人権無視の行動制限隔離を実施できた国以外に存在しない。

 その様な状況で、誰でも検査を無責任にも訴え続けることで、空気感を醸成し、市場まで生み出した結果、実際に民間検査が今や相当な規模に増えている。医師の判断ではなく、勝手に検査を受けるという風潮が判断を誤らせたと言って過言ではない。そんな検査が無ければ、常識的には体調不良時には医師の判断を仰ぐのだから。

 なのに、コメンテイターは、民間のPCR検査が未だ少ないことが原因とし、もっと増強しなければならないと訳の分からない主張を繰り返していた。まずは、自分たちの作り出した空気、環境の及ぼしている危険性を直視し、反省するべきなのにだ。

 先日発信した提言である、医療の緊急事態宣言に続き、検査環境の緊急事態宣言を緊急提言する。

  1. 民間のPCR検査は全て各保健所の管轄として、医師の判断、空港検疫、濃厚接触者以外に実施することを禁止する
  2. 民間のPCR検査は、保健所の検査と同水準(試薬、検査精度など)で行う。
  3. 海外とのビジネス等でPCR陰性証明書が求められる場合は、特別に申請を受け付けて検査実施出来るようにするが、陽性検出の場合、医師の指示に従う事と、陰性の場合でも、非感染を証明するものではないので感染抑止行動は引き続き実行することを誓約させ、違反した場合の罰則を設ける。

 結局、日本における新型コロナ感染症対策で最大効果があるのは、先日の医療資源の再配分、全体最適化を目的とする強化策であり、その次が、PCR検査の統制だろう。無暗な検査は、偽陰性リスクだけでなく、医師の診療を受けずに勝手な判断をする方向に誘導するというリスクすらあるのだから。

東京都の感染拡大が他地区と異なる動きを示す理由の分析

 一旦『K値』そして『T値』(詳細は『ファクターXの正体』をご覧ください)で感染収束が検知された後、しばらくはピークアウトの傾向を示していたが、再び感染拡大に向かい始めている。それも、他地区と大きく異なる変化を東京が示している。森羅万象、世の中の出来事には必ず因果関係が存在する。東京だけ異なる傾向を示すのも、何らかの理由があるはずであるので、丁寧に検討していきたい。

 相変わらず、危機を煽り、政府を非難するだけのメディアも多く、危機管理のなんたるかを尤もらしく語っているが、正直言って、メディアで語られている危機管理は多くの部分で大きな勘違い、思い込みの激しい決めつけで、机上の空論が多すぎる。実践を通じて危機管理に対処してきた立場から言うと、もっとも危機管理対応時にやってはいけないことを多くのメディアは言い続けているのだ。

 考えうる最大のリスクに最初から対応するのが危機管理の基本だと言う間違った説が実しやかに語られている。大きな間違いだ。東日本大震災時の福島原発を襲った津波を想定外と言わしめた反省の様だが、一体どこまでの想定をすれば最大と言えるのか、が問題なのだ。

 例えば、地球崩壊のリスクを想定して巨大隕石の衝突を想定して、対応能力を備える必要があるのか。太陽の巨大クレア発生に備える必要があるのか。笑い事ではない、そんな可能性は無いと馬鹿にしても想定以上の津波は自然現象で発生するのであり、どこまでを馬鹿にできるのか、誰にも答えられない。もっと、身近な例で言うなら、飛行機には乗れなくなる。墜落事故の可能性を考えて命の危険を冒すリスクを取るのか、という事である。墜落事故は、確率は低くとも発生しうるリスクであり、最大のリスクでもあるのだから。更に言うと、車の運転、いや、道を歩くことすら出来なくなる。

 危機管理とは、実際に発生している危機状態を冷静に状況判断し、適切に対応しなければならない。それが基本だ。それ以上でも以下でもダメなのだ。だから、状況変化に柔軟にかつ迅速に適応する必要があり、極めて難しい判断の連続と舵取りを要求される。場当たり的に見えるのは、他人事で無責任が故でしかない。大きく、強力な措置、何もさせない、を実行する程簡単なことはないが、それは危機管理としては極めて無責任、責任回避の良い訳行動でしかないのだ。

もし、本当に日本が危機的状況に陥ると想定された場合は、まず情報統制を真っ先に実施しなければならないだろう。そうしなければ、危機管理対応としての実施策が全て無効化されてしまうからだ。そういう意味では、まだまだ日本は危機管理状態とは程遠い、平常状態なのである。

話を、感染再拡大の原因究明に戻そう。

まず、真っ先に想像できるのが、変位種の感染である。振り返ってみれば、本年3月に武漢種の感染が収束を見せた直後、入れ替わる様に欧米種が感染拡大を見せた。その欧米種は直前の渡航飛来したものと思われている。今回の感染傾向もその当時に酷似しているのだ。変位種はまだ数例だけが確認されているに過ぎないが、実はもっと早く、多く上陸していることも否定はできないはずだ。

少しだけ、疑問なのは、大阪など多くの海外からの入国者が東京と同様に多い筈の地域は、収束に向かい始めているのである。この違いは何だろうか?例によって、メディアは、若者を悪者にして行動の自粛を呼びかけるが、はっきり申し上げよう、大阪と東京で若者の行動レベルに差があると言うのは何の根拠もない。体感的に言うと、大阪の方が寧ろ対策面で緩やかである。その証左の一部として、店舗の正月開店状況を比較すれば分かる。大阪では、正月に普通に福袋が販売される予定が多い。東京ではほとんどが年末からの売り出し、しかも予約制だ。

私がよく用いる地域文化の差を表す、『エスカレータ理論』(詳細は拙著『ファクターXの正体』をご覧頂きたい)、ルールが目的化してしまい目的を見失い行動が東京に多いということも考えられるが、その件は別で議論しよう。

二つ目の仮説だが、民間の検査、誰でもいつでも受けることが出来るPCR検査の影響である。東京ではかなりのレベルで普及してきている。そして、不要不急の外出自粛要請、帰省を控える様なメッセージが発され、医療の世話にならない程度の体調不調時、或いは何もなくても、安心したいと言う理由での検査が爆発的に増えている。この中に感染者が存在した場合、その30%が偽陰性と判定され、誤った安心を得て、少々の症状があっても感染抑止策が不充分な行動に繋がる。これが感染爆発の大きなリスクなのである。このカテゴリに属する人は、安心させず感染抑止行動を徹底させるべきなのだ。

PCR検査は、医師の判断で行う、確定診断の助けになるものであり、勝手な安心を得るものではない。この点の勘違いが多すぎて困る。メディアが煽る、誰でもいつでも何回でも検査を実施している国で感染が抑えられている国があれば数字で語って欲しい。中国は、検査で抑えたのではない、強制的な集団隔離の効果があったのであり、検査は関係ないのだ。

無症状者による感染拡大を殊更大げさに言うが、無症状者はウイルスを保有していたとしても、咳をする有症状者と比較して、ウイルス拡散量は少ないのである。マスクをした状態で、飛沫を防げば、かなりのレベルでウイルス拡散を防止できる。従って、誰もが感染しているつもりでの抑止行動で感染抑止は可能なのである。

合わせて、周囲にウイルスが存在する、常在する前提での、感染抑止行動が重要なのである。つまり、ウイルスをもらっても粘膜に近づけない、洗い流す。そして、自然免疫力を高める様に努める事だ。それで全てではないだろうか。

 更にウイルスの変異であるが、メディアで恐怖の様に語られ続けているが、大きな間違いである。確かに強毒化する変異もあり得るが、今回の変異は、感染力が高まったとしか言っていない。ウイルスの基本的な性質上、感染力が高まると言うのは、毒性は弱まる方向にいくのだ。なぜなら、ウイルスも生存競争を戦っているからだ。毒性が強まった変位種は、感染機会が減少してしまうので自然淘汰されるのだ。もし、毒性と感染力を同時に高めることができれば、強力なウイルス兵器になるが、実はまだ成功事例は聞こえてきていない。つまり、今回の変異は、より通常の風邪の原因ウイルスに近づいたと考えるべきで、歓迎すべき変異に思える。Withコロナとはその様な変異でも近づくことができるのだ。

 最後に確認しておく。東京の状況を危機的と喧伝されるが、それでも欧米先進諸国と比較して、桁違いに感染規模が小さい。ニューヨークでは1日何十万回、いつでも検査が出来るのに、日本は何もしないと言われ続ける。同じ規模の感染に拡大して良いのなら、その選択肢もあるが、私は嫌である。

アメリカ、イギリスではワクチン接種が始まった。副反応のリスクを遥かの凌駕する効果を期待してのことだ。日本では、ワクチン接種に慎重論が専門家筋でもまだ多い。そのことが日本の感染状況が危機的状況ではない証拠でもあるのだ。

正しく恐れ、正しく対処する。必要以上の対応は100害あって1利無し。正しい行動を心がければ、マクロ視点では大きな危機に繋がらず、日本の医療も崩壊しない。

医療崩壊の数値的検証とその対策提言

 諸外国に比べて圧倒的に少ない感染者数、重症者数にも関わらず、医療崩壊の瀬戸際に立たされる日本。愕然とさせられる事象だが、本当であれば国家的に医療体制の脆弱性を真剣に改善しなければ、枕を高くして眠れないだろう。その実態を検証してみなければ、対策の方向性も検討できないので、オープンデータから検証をしてみる。
 
 まず、グラフをご覧いただきたい。このグラフは、感染者総数から死者数と療養解除者数を引いた推移である。つまりマクロな観点では、指定感染症であれば全て入院必要な患者となる。

画像1

 ご覧いただければ分かるのがピークを2回経ながら3回目のピークへと向かって行く傾向の中で3万人というラインに近づいているのが分かるだろう。この3万人という数字が重要である。

 なかなか、減少しない傾向があるのは、一旦療養に入ると他の感染症と比較して療養解除まで長期間必要になる。即ち、他の感染症より病床占有率が高くなるのである。そして、3万人に迫ろうとしている。

 日本の病床数は、概ね100万床と言われているが、新型コロナに備えて準備可能とされたのが、その3%にあたる3万床である。即ち、マクロ的には逼迫している事を数値は示しているのである。

 いやいや、無症状者などホテル隔離、自宅療養も増えているという意見もあるだろうが、現実問題として3万床とはMAXであり通常の回転率、全国に散らばっている総数だと考えると、実質は約80%の2万4千床あたりで、そこいらじゅうでベッドがないと言う調整が必要になり、所謂逼迫状態になる。その分をホテルや自宅でカバーしていると考えれば、3万人に近接してきたという数字は、逼迫と言っていいだろう。

 一方で、今インフルエンザの患者は激減している。例年なら週当たり10万人前後の感染者だったのに対して、今年は数百人に収まっている。この中から入院患者はどれだけいたのだろうか?仮に1割と想定すると、1万人規模となるのであり、その分は病床に余裕があるはずだ。

 また、危機管理の基本中の基本だが、危機に備えて準備した資源(この場合病床であり、対応人数である)3万床で不足する事態が発生する場合、残りの97%から適宜資源の再配分を行うのである。3万から4万、5万というと相当なリスクを孕む規模に感じるかもしれないが、97%を96%,95%に調整すると考えるとそれ程困難には感じないのではないだろうか。現実、企業における危機管理対応時には、普通に当たり前に実行する資源の再配分なのだ。

 私自身、東日本大震災時の企業における危機管理対策本部や、その他のインシデント発生時の組織運営管理者として幾多の危機管理体制に対応した経験から言うと、資源の再配分は権限さえ備わればそれ程難しくないし、通常業務に影響を及ぼさずに対応可能なのである。危機管理体制やプロジェクトに必要不可欠なのは資源の確保に対する権限なのだから。しかし、厄介なのが、権限が付与されていないことを想定する場合なのだ。それでも、その体制をの責任者がまず実行すべきことは、資源の確保なのである。

 そもそも危機管理体制に資源確保の権限が付与されていない時点でお終いなのだ。資源を再配分しようと、全体最適を考えて采配を振るおうとしても、既存組織は既存のミッションを保有し、自組織防衛の為の防御反応が出るので、権限が無ければ、部分最適に引っ張られ、全体最適が犠牲になってしまうのである。

 今の医療界が発信している、既存の医療に影響が出ると言う言い方は、この部分最適の防御反応の象徴なのである。構造的に、医療業界全体を統制管理し全体最適を指揮できる権限機能が存在しないことが、危機管理体制として脆弱である所以なのだ。

 正直言って、冬の感染ピークは想定された現象であり、その時点で3万床の医療資源で間に合うかは極めて心もとなかったと言わざるを得ない。そもそも、諸外国の感染状況を鑑みた場合、当初3万であったとしても、柔軟に増床する資源再配分を想定しておくのが当たり前だ。3万が限界だから、3万以内に感染を抑えるべきだと言うのは、その通りだろうが、収まらなかった時点の策を用意していないのは、余りにも稚拙、怠慢の誹りを免れないだろう。

 特措法で有事の強制力が議論されるが、命を守る医療に対しての国家としての強制力は何よりも最優先するべき事項のはずだ。少なくとも、医療業界の善意による危機管理能力は限界があることが今回露呈しているのだから。

この件も含めて、政府の採るべき対策、法的な対処をまとめると

① 感染症指定時に予め想定できる感染状況を定め、それに対応する、医療体制確保、医療資源配分の要請を医療業界(医師会?)に要請できること
② 予め想定した感染状況を超える事態と感知した際には、医療緊急事態宣言を発出し、医療資源の再配分の指示を強制力を持って出来ること
③ 医療資源再配分とは、病床数、ICU数のみならず、それを運用する医師、看護師も含むものである
④ 当該指示における設備運用費、人的資源費用の通常以上にかかるコストは政府が負担するものとする
⑤ この際必要な、ホテル療養や自宅療養に必要な介護師の人的資源確保とサービス維持を指示し、コストは前期同様政府負担とする

 以上のような内容を、法律としてブラッシュアップして特措法に組み込めば、飲食店などの休業要請よりも、もっと現実的な政府対策になる事は間違いないし、この部分が不足していては、本当の意味で命を守る体制にはなり得ない。

 繰り返しになるかもしれないが、日本の医療資源は世界に堂々と胸を張れる水準であることは疑いようがない。そして、医療のレベルもトップレベルである。皆保険制度に支えられている医療サービス体制も万全だ。日本の医療がこの程度の感染拡大で崩壊することがあろうはずがない。あるとすれば、資源の配分が硬直的で偏っていることに原因がある。であるならば、少なくとも緊急時には、医療業界に不足しているだろうノウハウ、経営のノウハウを注入しなければならない。即ち全体最適を見据えた資源の有効活用のノウハウを注入しさえすれば、今発生している様な動脈硬化現象は必ず解消できる。確かに医療業界は不可侵かもしれないが、崩壊し、国民の命が危機に晒される事態であるならば、背に腹は代えられないはずだ。

 何故、分科会や専門家会議に経済の専門家が入っていながら、この種の提言が出ないのか不思議でならない。経済の専門家という学者は、結局実践力が伴わず、机上論で経営のプロではないとするならば、学者でない本当の経営のプロ、或いは現場指揮を経験した、企業には存在するバリバリの再建人材を入れて議論すべきだろう。

ざわつく世間、危機煽りの限界露呈 冷静になれば為すべきことは明確だ

 東京都の新規感染者数が800人を超えて、この世の終わりの様な報道、感染拡大を政府の責任する無責任な専門家発言が相次ぐ。どうしたらいいか、政府のメッセージが欲しい、強力な対策が必要だ、と言い続けるメディアだが、同時に若者にはメッセージが届かないと責任を転嫁する。パニック状態の収拾がつかないデマが世の中を覆う危機的状態。ここは、冷静に原点に返るべきだ。原点とは、感染症対策の学術的原点ではなく、日本が当初より示した対応方針の原点である。

 感染症対策の学術的常識は、感染ゼロ化、完全封じ込めを目指すのが前提である。それは、致死率が高い、最悪の感染症を前提にするから当然と言えば当然だ。しかし、新型コロナ感染症は、感染力は高くとも、致死率は低いという事実は既に周知であるし、実は日本は当初より、その実態を見抜き、完全封じ込めでなく、管理抑制方針、つまりWithコロナを目指している。

 この管理抑制方針と完全封じ込め方針は根本的に異なるが、メディアの殆どは完全封じ込めから抜けられず、メディアで発信する専門家の多くも同様の発信に明け暮れている。国民目線から見て、分かり難いのは当たり前だ。この二つの違いで平行線となり、実際に取るべき策と、メディアから流れる情報が異り、交わるところが無いからだ。訳が分からない、どうしたらいいか分からないと、危機感を感じるのは当然と言えば当然なのだ。この二つの違いは、学閥、派閥の違いが強く影響を及ぼしているとの説もあり興味深いが、それは後日考察するとして、今現在、各個人はどういう行動を心がけるべきかを簡単に示したい。極めて簡単、次の二つを心がけるだけで良いのだ。

① 自分自身が感染者である前提で他人に感染させない予防策を実行する
② 市中どこにでもウィルスが存在する前提で、自身が感染・発症しない様に予防策を実行する

 この二つに尽きるのだ。上記2点を前提にすれば、会食はどの様に対応すれば良いか、普段の行動はどうするべきか、どういう店を選べばいいか、各個人が責任感を持った行動を心がければ良い。何をすればいいか分からない、というのは無責任と認識し責任ある行動を取る事。こんなこと既にやっている、というのであれば、今まで以上に継続すれば良い。

 この感染症は、感染力が高いと言っても、それ程無尽蔵に感染するものではないことも分かってきている。勿論、上記の行動を完全に実施しても、不幸にも感染してしまう可能性がゼロではない。世の中でゼロリスクはあり得ないのだから仕方がない。しかし、限りなくゼロに近くリスク低減する努力は出来る。それが上記2通りの行動指針だ。

 それでも、世の中は法律すら守らない事件も発生する。国民全てが良識ある行動を取る訳が無い。それ故、一定の不正行為のリスクは存在し、それ故の感染は発生するだろう。それは社会リスクとして一定受容しなければならないだろう。人権制限に及ぶ程の強制的な行使を実行しない限り防げないのだから。

 ワクチン接種がアメリカや欧州で始まった。まだ、安全性確認が不十分な状態でも、背に腹は代えられない状況で一定のリスクを受容することを国民も了解して始まっている。日本では、このリスクは取れないだろう。何故なら、ワクチン接種のリスクを受容する程、感染拡大のリスクが高まっていないからだ。この事実からも、日本の現時点の感染拡大状況は大騒ぎする状況ではないことを冷静に理解しなければならない。もし、本当に危機だというのなら、ワクチンを特別認可して年内にでも接種開始する様に各方面から迫るべきだろう。その気がないのなら、煽るべきではない。

 では、東京都の800という数字はどう考えるべきか。実は、忘れているかもしれないが、小池都知事は1か月前に1日1000人の新規感染を想定した医療体制整備を語っていた。肉薄してはいるが、そこからはまだ8割である。実は私の予測でも、東京都で1日1000、全国で5000というピークを想定していた。しかし、現実は拡大の中途で一旦収束に向かう兆候を確実に示した。そこから再拡大を示し、少しだけピークシフトした状態で現時点の東京都800という数値になった。このことは事実だ。

 私は不思議で仕方がなかった。一旦収束を示しながら、再拡大を示し始めた要因が必ずあるはずだと。それがあったのだ。そして、そのことを事実と受け止めた瞬間、愕然とした。私が『ファクターXの正体』でテーマとした事象が発生しているのだ。ここのところ民間の検査機関がビジネスとしてPCR検査をかなりの規模で始めている。そして、私はある場所で、GoToを利用した宿泊所でどんちゃん騒ぎをする団体と遭遇した。話を聞いてみると、全員PCR検査で陰性だから大丈夫だと言っていた。これなんだ、最大のリスクは、と確信した。

 症状の無い人は、本来検査など必要なく、自身が感染している前提で行動をすれば問題ない筈だが、陰性という大義名分を与えると、人とは弱い動物であり、大なり小なり緩みが発生する。その中に偽陰性者が存在する限り感染リスクが増大するのは当たり前なのだ。陰性という大義名分があれば、症状があろうとも大丈夫と思い、無理をする。だから、無暗なPCR検査は今すぐやめるべきなのだ。海外とのビジネス等、必要に迫られる場合に限り必要悪として認めるとしても、少なくとも陰性という結果は全員偽陰性と思え、ぐらいの注意喚起が必要だろう。だから、全員感染している前提の行動が必要なのだ。

 数字に話を戻そう。800という数字に恐怖を感じる。しかし数字とは怖いもので、何が危機となる基準なのか、曖昧で感情に影響されてしまう、その原因は、目標としての設定数値、基準としての数値が設定できていないからだ。いやいや、ステージを分ける数値設定はしていると言われるかもしれない。しかし、その数字をよく見て欲しい。危機的状態を想定して設定したものではなく、その時点の数値を基準に、少し増やしたところの数字設定をしているに過ぎない。経営を少しでもかじった人ならお分かりだろうが、客観的理由のある目標数値設定ではなく、現状からの見えている範囲で積み上げた数値を目標にしてはならないのである。

 では、本来ステージ4などの危機的状態の数値をどう定めるべきか。現状ありきではダメで、諸外国の危機的状態から導いた数値設定にするべきなのだ。勿論、そこまでは行きたくない方針の元、諸外国の状況の半分や3割減などに設定すればよい。現状からすれば、遥かに余裕のある数値となるが、危機との差はそれだけ余裕があると言う現実を理解するために必要な数値なのだ。それでは、その前に医療体制が崩壊するというのなら、崩壊しないぎりぎりはどういう数値になるのか、を基準にしても良い。病床数、医師数は諸外国と比較して最優良なポジションを示す医療先進国である日本が、本当にどういう数値で医療崩壊が起きるのか、そこを数値設定すればよいのだ。

 医療崩壊、逼迫していると危機感を煽る。事実、医療の現場は大変だろう。箱モノを整えても、対応できる人間の数が少ないと専門家は言う。だから、現時点で既に医療崩壊なのだと。

 100歩譲って、今の状態で医療崩壊ということを認めてみよう。それは諸外国と比較して医療後進国、脆弱な体制である証になるだけなのだ。その事実に、真摯に向き合って、強化対策を計画するのは政府ではなく、医療業界の務めではないのだろうか。これは強力な皮肉だが。

 今、医療崩壊を防ぐ方法は簡単だ。大阪の様に、専門病院を作る事。そして、そこの医師や看護師を調達する強制力を政治が持つことだろう。任意で希望者を集めようと言う通常時の考え方では無理なのは当たり前で、危機管理状態であれば、危機対応に相応しい強制力が必要なだけだ。絶対数は不足していないのだから全体としては賄えるはずだ。現状ある病院の病床を少しずつ、コロナに割り当てて確保するのでは簡単に崩壊するのは当たり前だ。

 もう一つの方策は、高齢の入院患者、要介護状態の患者の介護を担当する介護師も雇用することだ。医療の聖域として、看護師が介護まで担当する様では、看護師の負荷が膨大に増えるだけでなく、サービス面の不備にもつながる。これは実は重要なポイントでもある。

 医療崩壊だ、とメディアで吹聴するのではなく、この様な対応をすればここまでキャパを拡大できると提案する役割を担うのが専門家ではないのか。他責を追求する前に、自責の範囲を全うする、或いは更に前向きに提案することが経営視点では生き残りの条件なのだから。

K値による感染ピークアウト宣言

 今日は、両極端な発表が為されている。

 吉村大阪府知事は事実上の緊急事態宣言を発出。しかし、地元大阪大学を中心とする『K値』推奨チームが、第三波の感染拡大は既にピークアウトしたと報告した。

 春の緊急事態宣言時、発出時点で既に感染はピークアウトしていた、従って、緊急事態宣言は何の意味もなかったと、『K値』での分析が示し、元大阪府知事橋下氏も問題提起していた。その総括、反省が必要と提言しながら、今回の吉村知事の宣言発出に橋下氏はどうコメントするのだろう。

 第三波の感染ピーク時期や収束などの予測を過去のデータから分析した結果を、11月23日に出稿した記事『新型コロナを正しく恐れよ』に示させて頂いた。そこでは、感染のピークは、12月初旬から中旬にピークと予測している。その想定の元、直近では丹念にK値ならぬT値を確認して、そろそろピーク、上げ止まり傾向が出てきていると読み取っていたが、K値推奨グループが先んじてピークアウトを宣言したのだ。

感染推移

 まずは、新規感染数の推移グラフを見て頂きたい。毎日、過去最高、曜日としては最高、等とメディアは危機を煽り続けているが、現実は上げ止まり状態にある。もちろん、減少している訳ではないが、明らかに上昇度合いは鈍っている。このことは数字を冷静に見れば疑い様がない。

K値

 次に、『K値』の推移をご覧頂きたい。確かに、曲線のトレンドが変わる変化点が発生している。この変化点を読み取れば、ピークアウトを迎えたと言えるのである。

T値

 次に、私の推奨するT値を示す。T値の詳細に関しては、拙著『ファクターXの正体』にて説明させて頂いているので、興味のある方はご覧いただければと思うが、同じく変化点の発生が確認できているが、本当の意味での下降トレンドに向かう臨界点である『1』よりはまだ若干上にあるので、様子を見ていたのが実態だった。

 確かに、この先別要因で再増加、という可能性がゼロとは言えないが、あくまで統計的にデータを読み取ればピークアウトを迎えトレンドが変化する状況にあることは、否定出来ないのである。

 私自身は、今週いっぱいから来週頭ぐらいの傾向を見て、と安全を見て、考えていたところ、K値グループがピークアウト宣言を先んじて発表した様だ。流石だ。今の状況で、なかなか勇気のある発表ではあるが、この発表の方が、多くの危機感を煽る根拠不明の情報よりも百倍信頼できる情報であり、科学的、統計的根拠があることを認識してもらいたい。

 そうすると、私の当初の予測は良い意味で若干外れた。それは、想定よりもピークアウトが若干早かったという事と、ピークの高さが想定よりかなり低く済んだという事だ。

 この先も、メディアや専門家は、まだいつ上がり始めるか分からない、増加していないとは言えない、など、数字を見ないで、根拠不明の話が今まで同様拡散されるだろうが、落ち着くべきだ。それらの声に動揺しなければ、マスコミはいずれ発言を控える様になる。国民の多数が冷静になれば視聴率の取れない扇動は出来なくなるからだ。

 そして、いい加減に気付いて欲しいのが、行動制限と感染の増減に何ら因果関係がないと言う事実に。専門家は、専門家故の常識に絡み取られ、どんなデータや事実が突き付けられても、とは言ってもと言って常識に縛られる。人の行動がウィルスを拡散させるのは常識かもしれないが、新型コロナは自然に広まり、自然に収束していく。まるで、旧型コロナウィルスが常在している様に、新型コロナも常在していて、自然条件や人の体調で感染周期を自然発生的に繰り返す。そんな傾向に見えて仕方がない。

 一部でGoToとの因果関係を示すエビデンスがないのは、データを取っていないからだという言いがかりも聞こえてくる。しかし、統計データとは、マクロなデータであり、マクロデータなら日々積み重ねたデータが存在する。だから第3波がピークアウトしたという分析も可能になるのだ。

 そうこうしているうちに、専門家の意地だろうか、自分たちの常識を裏付けるためのデータを出してきた。それは、若者の移動が多く、そして若者の移動が感染拡大に繋がっているというデータだ。しかし、少し冷静に見て欲しい。分母と分子を見て、年齢別の割合を正確に計算したわけではないが、有意差がある様には見えないのである。印象操作的に語って、統計的には語れていない様に見える。更に、あくまでミクロ視点のデータに過ぎず、ミクロ視点では数々の反証データも存在するので、一部のつまみ食いで語るべきではなく、マクロ的に移動と感染に相関関係が無い事実を覆せるものではない。

悪魔の証明

 GoToキャンペーンが感染拡大の原因となるエビデンスは無い。このことは、多くの専門家もメディアも認めている。当たり前だろう、数字は嘘をつかない、GoToを始めても第2波という感染拡大は減少に向かったからだ。素直に、人の移動があっても、適切な感染防止行動、ニューノーマルの生活様式が備われば、感染拡大抑止には繋がらないと言っても良いだろう。

 しかし、良く聞こえてくるのが、『GoToが感染拡大の原因となっていないエビデンスも無い』という言い方だ。国会では野党が政府の新型コロナ対策の追及の場で、医療の専門家はあらゆる情報発信ルートを使って、メディアは無責任なコメンテイターやアナウンサーまで、同じ口調で、どちらともいえないと印象を植え付け続けている。
あまり意識されない方も多く、騙されがちだが、この言い方は『悪魔の証明』という禁じ手である。

 この世に悪魔は存在しないと主張するならば、それを証明して見せろというものだ。存在することを証明する為には、1人でも悪魔を発見すれば存在を証明は出来るが、存在しない証明は、その時点で発見されていなくても証明にはならないのだ。たまたま、発見できていないだけかもしれないからだ。従って、永遠に証明は出来ないのだ。別名、消極的事実の証明ともいう。

 従って、『GoToキャンペーンが感染拡大の原因となるエビデンスは無い』という時点で、統計的にも科学的にも因果関係は無いと言うべきなのである。もちろん、何らかの相関関係を示すデータが確認されれば、そのデータを検証して、結論が覆る可能性がゼロという訳ではない。しかし、エビデンスはない時点で科学者なら、『きかっけになったのは間違いない』『原因となっていないエビデンスも無い』とは絶対に言えないのだ。

 メディアも事実を伝える大原則が、もし、今でもあるのなら、この『悪魔の証明』は直ぐに訂正するべきだ。軽々しく発言している方々も、電波に乗せる責任を持って謝罪と訂正が必要だろう。

 国会の野党議員に関してだが、冷静に判断できる有権者を増やさないと、民主主義を崩壊させかねない。政権を攻撃するのが野党の役割だと、非論理的な言いがかりばかりで『悪魔の証明』を殊更求める傾向が強い様ではダメなのだ。論理性の無い攻撃は、野党だから結果に責任を持つ必要が無いと割り切っているから出来るのかもしれない。それでは、決して与党に押し上げようと思えなくなるだけであり、永遠の野党、永遠の無責任集団でしかなく、健全な民主主義には必要ない集団になってしまう。日本の為にも健全な議論を期待したいし、そうでないなら投票行動で示すべきだろう。

 悪魔なんて存在するはずが無いのは、常識だ。それと同じ論理で、人が動けばウィルスも動き、感染が拡大するのは常識だと言いたいのだろう。しかし、日本のニューノーマルの生活様式、感染抑止行動が伴えば、移動のリスクは充分低減され受容可能なレベルになるのだ。常識は、覆るものであり、ある条件を掛け合わせることで覆せるものなのだ。そして、このことは日本が諸外国に胸を張って誇るべき事象なのだ。

 では、なぜ今、感染拡大しているのだろうか。その問いには、なぜ昨年までのインフルエンザはこの時期に感染拡大が始まっているのだろうかと問いたい。また、風邪は何故冬に流行し、夏風邪も一定数発生するのかと問いたい。問いに対して、必ず1対1の解が存在するわけではないのが実社会。しかし、季節性の要因があることは間違いないのだ。つまり、気候を人為的に操作出来ない領域であり、冬季のリスクは、当初から認識するべきリスクなのだ。

 また、逆の言い方をすると、因果関係のないGoToを停止したところで、或いは営業時間短縮要請をしたところで、感染抑止効果は無いと言っても過言ではない。効果のない策を打つことで、被害を受ける観光業界、各種店舗は補償されたところで、必要のない被害を受ける事に違いは無いのだ。いくら補償があっても、事業継続とは全く次元が異なるのだ。これほどバランスの悪い策に対して、政府が消極的なのは当たり前で、経済か感染対策かという言い方や経済優先という解釈は本質的に間違っている。間違ったメッセージに踊らされる国民の声が民主主義社会では諸悪の根源となってしまうのであり、間違っていることは間違っていると是々非々の考察が必要不可欠だ。

 そうこうしているうちに、『GoToを推進することで国民の緩みに繋がるリスクがある』という言い方に専門家の一部は変わってきた。『悪魔の証明』に気付いて反省したのであろう。しかし、ならば打つ手は、GoTo停止ではなく、ニューノーマル、感染予防対策の徹底の訴えかけであり、法的措置が必要ならば、感染抑止対策の不備に対して行政指導、罰則規定を設けるなどが有効である。条件として、感染発生の有無に関わらず、あくまで対策の内容を評価するべきではあるが。
 そして、何と言っても医療体制の強化が一番重要な対策だろう。医療崩壊を防ぐ具体的な方法論、税金を使ってでも実効性のある対応策を提言するのが分科会、医療専門家の役割ではないのだろうか。ベッドが不足する、人が足りないとテレビで不安を煽って、政府が何もしてくれないと言っても何も前に向いて動かない。具体的に何をするべきか、論理的な発信を期待して止まない。

新型コロナ感染症の医療体制整備

 新型コロナ分科会は、『個人努力だけに頼るステージは過ぎた』と状況分析し、経済停滞策を提言で要請した。しかし、ここに大きな疑問を私は感じている。個人努力だけに頼るステージでなくなり、ある程度の感染拡大リスクを受容せざるを得ない状況になっている現実は同意するのだが、だから即経済停滞策実行というのは論理が飛躍し過ぎている。経済停滞策は即ち経済死というリスクに直結するのであり、どちらのリスクによる被害が大きいか比較評価なく軽々しく言うべきではないのである。しかも、他に取るべきリスク低減策はあるはずなのだから。

 今、リスク低減策として取るべき最優先の策は、医療体制強化のはずである。そんなこと既にあの手この手で実施している、という声が聞こえてきそうだが、長年企業の組織再生やⅤ字回復、事業再生、再構築を実行してきた身から言わせて頂くと、根本策に着手出来ていないと感じざるを得ないのだ。少なくとも、あらゆる手を打ち尽くしたという、数字での説明を聞いたことが無い。

 企業再生や組織改革を断行する観点で言うと、まずはあるべき姿を描く。そして現状分析の結果とのギャップを明確に認識し、数値目標を設定してギャップを無くす策を実行していくのが基本中の基本である。そうやって考えると、新型コロナ対策として必要な医療体制は、欧米諸国の2桁上の感染状況とまでは言わなくとも、インフルエンザの例年の感染数ぐらいは想定必要ではないだろうか。昨シーズンを除けば、1000万人規模の感染者を出しているインフルエンザ、その規模の新型コロナに備えるにはどうすれば良いのか、何故考えていないのだろうか。それは、政府や政治の問題でなく、医療業界の問題のはずだ。

 年間1000万人規模の新型コロナ感染者が発生した場合の医療体制を整えるために、これこれが必要だから、予算規模〇兆円必要だと提言し、体制整備の具体化を推進するのが分科会の役割であり、これが達成できない場合は、これだけのリスクが顕在化する、と数字で発信するべき。それを受けて、経済打撃と天秤にかけて判断するのが政治の役割であり、民主主義を前提にすると、国民の判断である。
 この場合の提言の数値は、非科学的、非論理的な数値ではならないのは理解できるだろう。コロナ怖いと言い続けるための、死者何十万人という奇想天外な数字は逆効果でしかない。あくまで科学的根拠と論理性のある、現実的な数値で表現する必要がある。そんなの分からない、未知の部分が多いので仕方がないというのは無責任である。あらゆる仮説は想定であり、現実的な仮説、リスク想定をして、改革を立案するのが専門家であり、出来ないのなら発信する能力はありませんと宣言しているに等しいのだ。

 さて、何故ここまで医療に対して強硬な意見を発するのかと感じられる方も多いだろうが、その理由は複数ある。

 まず一つ目は、インフルエンザの毎年の感染状況に対して、抑制策は課題とされても、医療崩壊の危機とまで言われたことは聞いたことが無い。新型コロナの場合、指定感染症の法的な違いが問題だというのであれば、インフルエンザと同等の法的医療対応にした場合、どの様な事態が発生するのか、シミュレーションした結果を出すべきで、それが議論のベースになるはずだ。
 例年のインフルエンザの場合、発熱があって受診しないと検査を受けない。新型コロナの様なクラスター追跡や濃厚接触者として検査を受けることは無いので、実際は隠れ感染者が数倍から一桁上で存在するはずなのだ。新型コロナは、多くの無症状者や非感染者まで検出しているのであり、公平に数字を比較すればインフルエンザの感染規模よりも遥かに少ないのが現実である。死者数も超過死亡まで考えれば、新型コロナの現状は、まだまだ少ないのだ。何故、医療崩壊の危機なのか、意味が分からないのである。

 二つ目は、新型コロナに対して検査の体制不足が叫ばれ続けてきたが、政府発信では、この冬には1日20万件の検査体制に強化とのことであった。この数値は、インフルエンザと同等の数値である。即ち、インフルエンザと同等の感染拡大まで想定した検査体制としているはずである。にもかかわらず、病床数など医療体制はそこまでの想定をしていないのだろうか、不思議なのである。メディアで発信される専門家の主張では、設備やベッドを増やしても人の体制は、そんなに簡単に増やせないとのこと。それはその通りかもしれないが、では検査1日20万件の受け入れ態勢を問題視せずに検査だけ増やせと言っていたのか、もしそうなら、無責任過ぎるか、計画思考が無さすぎないだろうか。

 三つ目は、そうはいっても欧米諸国と比較して、未だ感染者数、重症者数、死者数は桁違いに少ない。そして、日本の医療体制は、諸外国と比較しても間違いなく優秀であると確信している。欧米諸国で医療体制崩壊しているとはいえ、今の日本のレベルで医療崩壊云々と言うのは余りにもおかしいのではないだろうか。日本が医療崩壊寸前であれば、諸外国はとてもじゃないが今の程度の医療崩壊に止まらず、国家破綻してもおかしくないだろう。しかし、そこまでは行っていない。日本の医療キャパ、能力が、諸外国と比較して劣後していれば仕方がないが、そんな筈はないと信じている。

 四つ目が、医療機関の多くが赤字経営に陥り、経営破綻しそうだとのこと。まず、既往症や他の病気の患者の来院数が激減、入院も減少し経営難との説明があるが、本音を言うと、来院を控える患者は、本来来院の必要が無かった患者ではないのだろうか。必要以上の診療を受け、投薬を受けることで寧ろ健康を害していた可能性も指摘されており、むしろ健康国家経営に近づいており、健康保険財政面でも健全化に近づいている方向なのだ。
 そして、医療機関の収益が悪化しているというが、一般国民の感覚としてほぼ同意いただけるのは、医師は高収入であるということ。収支構造を明確にした上で経営改革の断行が必要なのかもしれない。その上で、収益を維持する為には、経営効率化やムダ取り、ロス排除できる要素が山積している様にも感じる。少なくとも、一般事業では改革無ければ継続はあり得ないのだから。

 最後に、そうはいっても数々の医療体制強化策は打っているとも言えるだろう。しかし、あるべき姿と現状のギャップから導いた施策では無く、現状ありきの出来ることを積み上げる施策、経営の世界では積み上げ施策と揶揄される策に過ぎないと感じられるのだ。策を打っても、目標に到達しないのなら、何のための施策だろうかとなる。それこそ、行き当たりばったりの、泥縄と言われても仕方がない。企業が改革できない最大の原因がこの要素であり、出来ることしか考えないで目的意識を持たないと破綻するのは至極当然なのだ。

 医療体制強化の策は、専門的見地が必要であり、その為に分科会なるものが存在する。医療先進国としての誇りを持った、データ分析と提言で、前向きで実効的、目標意識の高い、強化策に必要な投資資源を政府から引き出す動きが必要なのだ。
 それでも諸外国と比べて医療体制が脆弱なので危機は防げないのだと、論理的数値を示していうのなら、その時点で初めて経済停滞策を土壌に挙げて天秤にかけるのだろう。

中等症からの死亡が多い原因

 第3波感染拡大が騒がれる状況で、重症者数、死者数も徐々に増加している。しかし、それでも本当の意味でのパンデミック、欧米諸国の危機的状況と比較すると桁違いの静かさであり、日本国内で考えてもインフルエンザの例年の流行状況と比較しても同等レベルかそれ以下であるのが統計数字上の事実である。第1波と比較しても医療処置の進歩が確実だと思われる。

 それだけを考えると、何を大騒ぎしているのだろうかと思えるのだが、死亡に至る経緯は、私自身も解せない数字が存在する。それが中等症からの死亡が多いことだ。普通は、重症を経て死亡に至る。しかし、新型コロナの場合、中等症や軽症からの死亡者が多いというのは、不思議な現象であり、信じられなかった。

 多くのメディアは、中等症や軽症からの急変だと言う。実は私も、それ以外の可能性は無いと感じていた。

 疑問だったのは、当初の急変メカニズムは、症状の悪化がステルス性で進行し自覚症状が無いまま悪化していくことにあったが、それ自体はパルスオキシメータによる血中酸素濃度をトレースすることで早期検出が可能になったはずだったのに、何故だろうかということだった。臨床経験により、その急変は対処可能になったはずだったのに、未だに中等症・軽症からの死亡が多いことは謎なのだ。何か、別のメカニズムによる急変現象があるのだろうか。

 しかし、そのカラクリが解けた。その理由は、看取りであった。

 私自身も母を昨年亡くした。看取りであったので良く事情は分かる。母の場合、大病の百貨店の様に数々の病を患った。持病としての喘息を持ちながら、最初の大病は平滑性筋肉腫。手術による切除から、抗がん剤治療、放射線治療を受け完治した。その後、心臓病を患い、弁置換とバイパス手術を同時に受けた。この時点で障碍者に認定され、生態弁の寿命もあって余命を宣告されたような状態であった。しかし、そこから元気に回復し日常生活は何の問題もなかった。その後、両目の白内障手術を経て、転倒時の外傷性による脳の硬膜外出血により緊急手術を2回受けた。その後も喘息の緊急入院を年1~2回のペースで繰り返したが、それでも元気に振る舞っていた。ある日、一人で外出中に倒れ、緊急入院した時は、体中に管が通る危篤状態だったが、何とか回復してリハビリ病院に転院した。しかし、その時点で嚥下障害もあり、胃ろう手術を施さざるをえなかった。リハビリを経て、一般の施設に移り回復して胃ろうも外せるまでになった。このことは、医師や介護師からは奇跡だとも言われた。それでも24時間ケアが必要で、施設を移ったが、健康状態でありながら、いつ何が起こっても仕方がない状態になっていた。家族として医師とも相談し、ここまで頑張ってきた母に既に高齢になっている状態で、これ以上無理させるのは忍びない状態でもあり、看取りをお願いするに至った。それでも、その状態から1年以上無事に過ごせたが、徐々に弱っていく様が見て取れ、ある日朝食は元気に取ったものの、昼過ぎに静かに永眠した。既に平均寿命を大きく上回った大往生であった。看取りとは、その時点でも延命処置をしていれば管に繋がれた状態でも少しは延命できるのだろうが、そんな選択肢は取れなかった。

 命の重さは言うまでもないが、看取りに関しての是非は家族以外には語れないし、語る資格は無いと思う。経験した身でなければ分からないかもしれないが、それ程重大な決断なのだ。

 看取りを決断して、その状態で新型コロナに感染した場合どうなるか、容易に想像がつく。通常の介護、医療処置で軽症や中等症までは対処可能だろうが、看取りを決断する状態であれば、かなりの確率で重症化するだろう。しかし、その時点でECMOに頼ろうとは決して思わないしそれが看取りだ。例え、ECMOを使おうとも、数日の延命が精々で、厳しい状態に変わりは無く、苦しむだけだという判断だ。しかし、一旦ECMOに繋がれれば、重症者からの死亡だが、その処置が為されないので、見た目には軽症や中等症からの死亡ということになる。

 この数字上のカラクリは、聞いてみると納得できる数字であり、決して急変でも何でもないのである。インフルエンザであろうが、風邪であろうとも同様の事象になるのである。

 看取りとは高齢者の寿命が最期を迎える直前の出来事である。スウェーデンの新型コロナ対策が集団免疫獲得を目指しロックダウンなどの行動自粛を行わず死者を多数出しながらも、その大多数が高齢者であり、実は平均寿命が変わらないという状況が起こった。それは、スウェーデンでは従来から看取りに近い最期を迎えるケースが多いという、命に対する考え方の国民性に裏付けられている。

 従って,新型コロナが正体不明の急変で軽症や中等症からいきなり死に至るというのは、間違った情報である。全て世の中の事象には原因があり結果に繋がる。謎があれば必ず答えもある。解明されていないこともあるかもしれないが、新型コロナに関しては、ほぼ解明されてきている。不必要な恐れ方はする必要が無いことを、もう一度認識するべきだろう。

感染経路不明とは

 感染経路不明が増えているという。どこで感染したか思い当たる節が無い、と言われており、そのことは、感染が拡大し危機的状況であると専門家の多くは言い続けている。
 しかし、この事には異論がある。日本語の表現として間違ってはいないが、誤解を生む表現である。感染経路不明とは、一部の例外を除いて、感染経路に思い当たる節が多すぎて、どれか判別できない、というのが正しいだろう。そして、危機的状況というのも一概には言えず、事実とは異なることも多いのだ。

 私自身も、感染予防は万全に行っているつもりだ。それでも、いつ感染してもおかしくないと思っている。いつウィルスに曝露されるかは分からないし、100%防ぐことは不可能、ウィルスに曝露している前提で、感染しない様にいつも以上に体調管理を行うこと、最悪感染してしまっても、発症しない様に体調管理を心がけることに徹底しているし、家族には同様のことを言い続けている。それこそが万全な対策であると確信しているし、拙著『ファクターXの正体』シリーズでもこの点は強調して、Withコロナの基本としてうったえているつもりだ。

 さて、では感染経路とは何を言うのかだが、ウィルスに暴露された場所であり環境を特定することに他ならない。クラスターであれば分かり易いが、今や市中のどこにでもウィルスは存在している。その状態で、例えば電車に乗れば、吊革を触り、エスカレータの手摺を触り、次に手を洗うまでの時間にウィルスはどう移動しているか計り知れない。近くで咳をした飛沫、会話時の飛沫を浴びていないとは断言できない。そこまで言い始めたら1歩も家を出られない。嫌、家にいたところで、あらゆる外部との接触を遮断することは事実上不可能だろう。つまり、現状の状態は、感染抑止行動を採っていても、ウィルス暴露は一定のリスクとして存在し、受容しなければならない状態なのだ。

 そんな大変な?と思われる方も大勢いらっしゃるかもしれないが、私は、全く逆だと言わせて頂きたい。だからこそ、少しは安心しても良いのだと。

 ウィルスは本来宿巣である人類を絶滅させるものではなく、共存するものなのだ。従って、強毒性のウィルスは蔓延する程、感染拡大しない。感染したらすぐに死に至り、感染させる暇がないからだ。逆に、潜伏期間が長く、感染リスク期間も相当に長いウィルスは概して毒性は弱い。今の状態は蔓延状態でもあるので、ウィルスの毒性は決して強くないことを証明している様なものなのである。

 生物化学兵器として、潜伏期間が長く、感染力が高い状態で、毒性が強いウィルスが開発できれば、無敵だ。もちろん、ワクチンとセットでないと兵器として使えないが、ウィルスが出来れば一定期間でワクチン開発は可能だ。しかし、この様な強力な化学兵器が開発されたとは聞こえてこないのが現実なのだ。

 インフルエンザと風邪(ウィルス性感冒)を比較して、どちらが感染経路を認識しやすいだろうか。明確ではないだろうか。風邪を感染性と思っている人は、多くないかもしれない。それ程、原因ウィルスは常在しており、共存している。だからと言って、病気である事に違いは無く、風邪は万病の元であることも忘れてはならない。

 年初は、新型コロナウィルスの挙動も毒性も、発症する症状も未知の部分が多かったが、人類の医療は捨てたものではなく確実に様々な対処を学んで来て、医療成績は格段の進歩を遂げている。

 新型コロナを恐れるな、とは言わない。病気である事は間違いないのだから、恐れるべきである。しかし、必要以上の恐怖心、非論理的で目的意識の無い行動自粛は不要になってきたのであり、適切に恐れ、適切な対応、行動をすれば良いのである。

 感染経路不明や家族感染の率が増えたということは、他の感染経路は対策して防止しており、クラスター発生抑止も出来ている、成果が出ていると自信を持って良いのだ。

 この状態で、感染抑止の最大の策は、個人の健康管理に他ならない。栄養を十分にし、ストレスもほどほど、睡眠含めた休息も取り、日光も浴び、ビタミンDなどの摂取も心がけ、体調を保ち免疫力を高める。

 そして、人体の中での感染経路も意識する。即ち、喉や鼻、目などの粘膜を常に綺麗に保つ為に、うがいや鼻洗浄を徹底する。そこにウィルスを運ぶ媒介となる手も洗う。人体侵入の感染経路を意識して最大限防ぐことだ。

 但し、世の中は良識的な人達だけで構成されている訳ではない。無防備、無対策で行動する人も一定数現実に存在し、その結果、一定の感染拡大に繋がっていることも事実だろう。どれだけ、社会的責任、社会的要求があろうとも、法的責任すら守らない行為も実社会では決してゼロにはならない。
 その事を容認しろとは言わないが、事実としてそういう人達も存在する前提で、自らの身を守る意識を持つことが大切なのだ。罪を憎んで人を憎まずの精神で、人の事をどうこう言うのではなく、その事に影響を受けず、自分の行うべき事を自信を持って行うべきなのだ。