プレーブックを国内メディアも実行すればいかが?

東京五輪のプレーブック第3版が発行された。

IFJ(国際ジャーナリスト連盟)がGPSでの行動管理などをプライバシー完全無視、報道の自由を制限すると非難声明を出した。日本国内メディアに行動制限が課されていない事に不公平感を示し、公平性を保つべきとの意見も含まれている。

一方で、日本のメディアは、未だ連日連夜、この程度のルールでは甘すぎる、リスクが高すぎると非難をやめない。

この構造を冷静かつ客観的に見れば、自分には甘く、人の行動には厳しく、本質的な協力よりも、利己主義で排他的な主張と感じざるを得ない。やはり、スポーツなどイベント開催時に限らず、感染拡大の最大リスクは、メディアの報道姿勢であり、当事者の行動、人流等はそれなりに対策実行が可能だと再認識させられた。

<感染抑止に取り組んできた証、プレーブック>

そもそも、プレーブックの初版は、今年の2月にリリースされ、4月の第2版を経ての今回が3版目である。内容は、選手やマスコミなど関係者の行動ルールを定め、安全安心な大会運営を目指すものであり、当然各所からの建設的な意見、改善要望などを受け入れ、レベルアップするべく改版を繰り返してきた。

ところが、日本のメディアは、どうやって感染抑止するのか分からない、説明が欲しいと、あたかもプレーブックの存在を無視する様に言い続け、多くの国民は何のルールの検討もなく強行しようとしていると勘違いさせられていた。多くのSNSや書き込みが、説明が無いと叫んでいるのが、その事を証明している。

説明して欲しい、と言い続けながら、知ろうともしない。各所で筆者も『プレーブックをお読みください』『その上で問題を感じれば具体的に提案しましょう』『多くの意見を取り入れてレベルアップを図りましょう』と言い続けてきたが、聞く耳を持つ人は殆どいなかった。メディアのプレーブック抹殺報道、報道しない自由の成果であろう。

<国語の読解力が民主主義を支える>

反対をするのは自由だ。個々人で考え方が異なるのは当然の事だからだ。しかし、反対するなら最低限真実の情報と向き合った上である必要がある。聞く耳を持たず、感情的に脊髄反射のヒステリック反応を繰り返すのでは、決して建設的な前進は望めない。自分自身が世の中の絶対正義で、異なる意見は絶対悪だと言うのは原理主義に他ならず、排他的破壊活動に向かうリスクが高い。まずは、相手の話に耳を傾ける事が最低限、その上で不都合な事実からも目を背けず、論理的に対話する事が議論の入り口である。全否定されたら議論出来なくなる、ましてや事実を否定されては、もう何もできない。

政治家が国会などで異論を全否定し、攻撃をやめない様に見えるのは、ある意味パフォーマンスの面もあり、現実的に政治を前に進めるためには、折り合えるところも探っているのが現実なのだ。その点は社会でビジネス交渉やネゴシエーションを日常的に行っている人間であれば当たり前だろうが、経験の無い人には理解できないのかもしれない。見えている部分だけで妄信し、他を全否定する事を一般人が真似し始めると、その行きつく先は全体主義であり、民主主義は崩壊する。

健全な議論ができる民主体制の為に、予てから推奨しているが、多くの人が文章を読む事だ。決して、単語や文節を切り取って曲解しない様に、しっかりと文章を読むことだ。SNS等での批判コメントの多くは、単語や文節切り取りでの誤解、悪くい言えば言いがかりである。

もっと酷いのは、あの人はこう言った!という言いがかり。本当にその人が言ったのか確認もせず、あの人がこう言ったとテレビで言っていた、だけなのに信じ切る。立ち返って、本当にそう言ったのか、前後の脈略はどうなっているのか、最低限確認するべきなのだ。筆者の経験では、かなりの確率で真逆の意味の事を言っている場合が多い。

日本語は難しい。文末で意味が真逆になるし、背景によっても真意は異なってくる。学生時代に経験あるだろう、国語の問題、この言葉に込めた筆者の想いを述べよ、この問題を解く事が重要であり、基本中の基本なのだ。

<報道姿勢の問題、名誉挽回のチャンス>

メディアも各社、様々な思想信条があって然るべきだろうが、前述の様な誤誘導を発生させている責任を感じる必要があるだろう。特に、平日の朝から昼のモーニングショー、ワイドショーの類だ。好き勝手、言いたい放題の偏向報道により、情弱者を大量生産している。放送法第4条に定める、政治的公平性、事実の報道、対案と論点の提示が全くなく、違法性すら感じる酷さだ。

その点、まだBSの一部やネットメディアの方が対案提示型の討論も多く発信されているが、いかんせん発信先の少なさは否めず、浸透力は充分ではない。

現在、地上波系メディアの多くは自己矛盾を抱えつつある。所謂ブーメランだが、素知らぬ顔での掌返しすら始まっている。しかし、既に大量生産された読解力の無い情弱者は、何の不思議も感じず、流されていくのかもしれない。何事もなかったかのように、忘れ去るかもしれない。しかし、それは国家としての大きな損失でありリスクであろうし、国民の幸福にも結びつかない。

先日のワイドショーでの出来事だが、出演する専門家、日本医科大学特任教授の北村教授が『もう最後の感染対策として各メディアの五輪放送をやめたらいかがですか』と言う趣旨の発言をされたとの事。その場でMCである恵氏は反応が出来ず凍り付いた。今までも、イレギュラーバウンドや異論に対しては反応せず、スルーを繰り返す恵氏だったがこの時も全く同じスルー。しかし、メディアが取るべき本当の行動を本質的に示している提示だっただろう。この提示に対応できないと言う時点で、自己矛盾、無責任な一方的な言いっぱなしの誹りを免れないだろう。

今回、IFJの抗議は、日本の報道機関にとって、名誉挽回、自己矛盾解消の数少ないチャンスである。

そう、海外メディアと同じ行動規制の元、ルールを守った行動をする事。

論理的には、海外からの入国者に対するバブルと言う名の隔離措置と国内の移動は全く異なる。しかし、自ら危機を煽り続けた人流によるリスクを低減する為には、少なからず有効なはずだ。国内メディアの取材対応者も、海外と同様に行動計画の事前登録制、GPSによる行動規制、公共交通の不使用などを実行すると、宣言すれば良いだけだ。政府や組織委員会がどうとか関係ない、自分達の業界の規制として行えば良い。違反に対する罰則は国外退去とはいかないだろうが、メディア活動の一時停止で良いのではないだろうか。

内村選手偽陽性事案検証~『ファクターXの正体』緊急報告~

 拙著『ファクターXの正体』をお読み頂ければ、小生が指摘する問題性はご理解いただけるとは思うが、その典型的な事例がまた発生してしまった。体操の内村選手に対するPCR検査での偽陽性判定事案である。PCR検査で陽性判定を受け隔離処置が施されたが、あまりにも身に覚えがなく症状も全くない為、翌日に3か所での再検査を受け、偽陽性であったと結論された。

 偽陽性と結論される前、本大会の日本の参加辞退の可能性やオリンピックでの感染防止策は難しいと、危機感を煽っていた。それこそ、何万人に最低でも3日に1回、徹底検査をしなければならないと。そんなことをすれば、単純に被害者は膨大に膨れ上がることになるのが誰の目からも明らかなのだが、その後無責任な発言をした反省もなく、識者やマスコミは反省もなく報道もしていない。

 この件は、間違いなく、個人の活動・行動に対する不正制限事故であり、人権侵害問題である。表向きは事なきを得た様に、マスコミでは多くを語ってはいないが、数日間の隔離生活を強いられたことは、大切な大会直前のコンディションを整え、調子を上げていくピーキングが重要な時期に行動制限されることが、どれだけアスリートの成績に影響を及ぼすか、想像に難くない。アスリートにとって、その先の人生に及ぼす重大問題なのである。この様な事案が繰り返されると、多くの被害者が発生し、同時に多くの訴訟事案が発生してしまうだろう。

 なんとか、少しでも理解を広め、この様な事象を回避できることを願って止まない。

 さて、PCR検査の仕組みからおさらいしよう。明確にしておかなければならないのは、検査には誤差、誤判定が付きまとうことである。一部の識者、マスコミでは、PCR検査の精度が高く、誤差など無視できると言い続けているが、仕組みを考えれば、あり得ないことは明白なのである。

 採取した検体の中に微量でも存在する当該のウィルスを増幅する処理を複数サイクル繰り返し検出可能量まで増幅する。増幅されたウィルスの量が、ある閾値を超えると陽性、超えないと陰性という判定が為されるのが、PCR検査である。
 上述のことから常識的に考えて欲しい、増幅させるサイクル数によってウィルス量が増減することは自明なのだが、現在の検査は必要以上に増幅サイクルを増やしている。つまり出来るだけ陽性判定を多くするための検査設定なのである。今の検査方式では、感染などしていない、接触して存在しているだけのウィルスも同様に検出する。当然ながら、不活性化したウィルスであろうがお構いなしに増幅され検出されるのだ。

 そして、閾値を超えるか否かでの判定と言う、極めてアナログ的な判定であることも注意する必要がある。閾値を高く設定すれば、偽陽性は減少するかもしれないが、偽陰性が増加する。閾値を低く設定すればその逆である。
増幅処理で誤差が発生しないことはあり得ない。化学処理で反応に個体差が出ることは当たり前であろう。そして、増幅された結果、閾値近辺のウィルス量が検出された場合はどうなるのだろうか。陰性か陽性か、そんな簡単かつ明確に判定出来るはずが無いのである。

PCR検査の特性を整理すると
1. 検体を増幅処理した結果のウィルス量が閾値を超えたか否かの判定しかできない
2. 検出されたウィルスが不活性であっても活性ウィルスと区別は出来ない
3. 検出されたウィルスが感染したものか単に存在しているだけかを区別できない
4. 増幅サイクルにより検出するウィルス量は大きく変化しうる

 従って、個々人の人生に大きく影響を与えうる行動の許認可判定に、PCR検査の結果を利用するなど、本来はあり得ないのである。

 ここまで記述したのは偽陽性に関する問題点だが、偽陰性に関する問題は更に深刻なのである。多くの人、マスコミの報道も伝えているのが、PCR検査をして、陰性判定を受けた人が安心して経済を回す、或いは、GoToで旅行に行く、と考えられている。極めて危険な思考なのである。
 前述した様に、PCR検査結果が絶対でないだけではなく、感染の有無を示せるものでもないのだ。つまり、陰性と判定されても、非感染の証明にはならない。
 偽陰性は一定の確率で発生する。この確率は、偽陽性よりも遥かに高く、一般的には感染者の内30%もの人が間違って陰性と判定されるのである。

 詳細の統計的分析は拙著『ファクターXの正体』をご確認頂きたいが、この確率で偽陰性が発生し、間違った安心を与えてしまうと、検査をすればする程、感染は拡大する。先進諸国の感染爆発は、このカラクリで発生しており、日本の感染が桁違いに少ないのは、検査を医師が必要と判断した感染を疑う患者に限定されているからである。逆に言うと、先進諸国並みに積極的検査拡大を行うと、同様の爆発的感染につながる危険性が高いのである。

 ならば、何故先進諸国は積極的検査を推奨するのか、アジア諸国など感染が比較的抑え込まれている要因は何なのだろうか。ここでは詳しくは説明しないが、先進諸国の文化的、宗教的背景を考慮する必要があり、結局検査云々ではなく、非民主的な隔離政策が打てれば物理的に抑え込むことは出来るだけなのだ。日本は、文化的にも、民主国家としても同様に考える訳にはいかないのだ。

 従って、PCR検査を実施できるケースとして

1. 医師が他の臨床診断、検査結果と合わせて必要と判断した場合、確定診断として実施する
2. クラスター等、感染が疑われる人を対象に感染経路追跡のために実施する
3. ビジネス等で海外取引上、他国の要請に基づいた検査は実施を容認するが、陰性結果であっても非感染を証明するものではないことを理解した行動を誓約させると同時に陽性判定の結果被る損害も一切関知しないことの了承を受けて実施する

 こういうことを言うと、では無症状の感染者は野放しでいいのか、という反論が予想される。しかし、その通り、野放しで良いのである。
 その理由は、無症状の感染者による感染リスクは、確かにゼロではないが、確率的に極めて低くなるからである。無症状者でありながら他人に感染させるのは、発症の3日前から徐々にリスクが高まるのであり、それ以外は全て有症状者からの感染なのである。それは、ウィルス量が少ない場合や、多くても不活性の場合は他人に感染させないからだ。つまり、無症状の感染者と一般的に呼ばれている人達の大多数が、ウィルス量が少なく発症していない人や不活性ウィルスを保持していただけの人なのである。

 最後に、もうひとつ。PCR検査結果として、毎日、『今日の新規感染者数』と報道されているが、これは全くの誤報道なのである。正確には、『本日の陽性判定された検査検体数』であり、この場合の陽性判定とは、『増幅されたウィルス量が予め設定した閾値を超えた場合』なのである。感染とは全く関係ない。

詳しくは拙著をご一読頂ければ幸いです。

『ファクターXの正体;新型コロナウィルス感染症の日本における感染実態』
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『ファクターXの正体Ⅱ;VOL1-PCR検査の実態』
http://www.amazon.co.jp/dp/B08KSFT239