人財育成の入り口、現代の課題

 最近よく感じるが、活字を読む習慣が現代人に不足している。世の中が大衆迎合にシフトし、分かり易いワンセンテンスで語る傾向が強まると、しっかりと文脈を読む、分析力が衰えていく、鶏が先か卵が先か、は不明だが、その傾向の強さは間違いなくある。朝のワイドショーでは、時のニュースをそこが知りたいと、もっと分かり易いメッセージが政府に欲しい、国民に声が届かないとか言い続けて視聴率が高まっている様だが、私なんかは、知りたければ自分で調べれば良いだろう、政府は説明しているけど聞いていないの?ちゃんと聞いてから反論すれば?と感じるのだ。結局放送内で知りたいことは論理的に解説していないで不安だけ煽っているのだ。

 情報とは、それ程簡単に表現できるものではなく、丁寧に記述し、筋に沿った説明を要するものだ。数字も同じで、読み取る力があれば様々な情報を検知できる。聞き手側に読み取る力が必要になるのだ。発信側は、正確な情報を伝達しようとすれば、ワンセンテンスでは不足し、文脈での伝達が必要になる。出来るだけ分かり易く図やグラフで表現しようとも、文章での伝達は避けられない。従って、情報を受け取り、自分の情報力とする為には、読解力が必要不可欠なのだ。

 しかし、残念ながら多くの人は文章を読まなくなっている。読まないから読解力も衰えていき、論理思考力は尚更なのだ。そして、都合の悪い話には耳を塞ぎ、自分勝手なストーリーを自分の世界だけで作り上げる、悪循環なのだ。文章を読むには一定の胆力が必要だが、その胆力が衰えているのが文章を読めない主要因と考えている。電波やインターネットの動画で受動的に入ってくる情報、それがワンセンテンスに偏っていればいる程、分かり易いので、能動的な情報取得思考、胆力が衰えている。

 小さな子供には最初はこの胆力が備わっていない。集中力と言い換えてもいいが、10分と同じことに集中できないのが、成長と共に徐々に集中力が備わっていく。多くの子供が経験する受験勉強は、その胆力育成の重要なトレーニングとなる。従って、素頭の良い悪いではなく、受験勉強という嫌なことでも頑張ってやり続ける行為で個々人の差が表れる。良い学校に合格したかどうかではなく、自分の学力を伸ばせたかどうか、やるべき時にやるべき事をやることが出来たかで差が出る。

 この胆力、集中力はどうやって育成することが出来るのか。そもそも、精神面だけではなく、体力も必要不可欠なのだ。頑張ろうとしたときに、身体がいうことを聞かなければ話にならないからだ。無理が効く心身、いざという時に、やり通す力だからだ。

 小学生に陸上競技の指導をしている時に感じるのが、彼らは楽しくなければ我慢できない。辛い練習は、心身ともついていけないのが実情だ。その状況で基礎的な運動能力と陸上競技としての競技力、続ける精神力を育成する為の、最高の練習方法が『おにごっこ』だった。

 1日の練習メニューを組み立てる時に、前半に子供たちの嫌いな技術練習を組み込む。通常だと、身が入らず、上の空で、身につかない傾向が強いのだが、練習終了後に『おにごっこ』の時間を設けると、その遊びの為に少しは我慢してくれるのだ。そして、実は前半の練習で体力の限界近くまで来ているのに、『おにごっこ』が始まった瞬間、目の色を変えて走り回ってくれる。これが実は、トレーニング効果としては有効であった。たったそれだけで、今や日本を代表するような選手と同じ舞台で戦うことが出来たのだ。決して、素質にあふれた子供達でなくとも戦えたのである。

 楽しみ、興味があればモチベーションは維持し、基礎的な練習も自分で前向きに取り組むので、成果が出るのは当たり前なのだ。要は、どうやってモチベーションを高めさせるかが全てのポイントになる。そして、スポーツでもモチベーションを高め、厳しいながらも前向きになれる力を養った人財は、他の世界でも同様に頑張れるのだ。

 子供の時代に、このモチベーション向上力を養ってこなかった人材は、大人になってからでは頑張ることがなかなかできない。でも、諦めてはいけない。確かに、子供時代よりハードルは高いかもしれないが、一時我慢して、嫌な話にも耳を傾け、自分の目で見て、考えることを心がければ、必ずモチベーション向上力は身に付き、情報リテラシーが確実に高まる。

 私の周りでも、文章を読まない人間が多い。その癖、知ったかぶりをする。知ったかぶりが出来るワンセンテンスの言葉は耳に受動的に飛び込んでくるからだ。しかし、少し議論をしようとすれば直ぐに化けの皮が剥がれる。直ぐに感情的になり、非論理的に意固地になり、そして無視してソッポを向く。ほんの少しの議論さえ出来ない、薄っぺらになってしまう。そうすると、ワイドショーの視聴率稼ぎや似非政治家による洗脳の餌食となって、それが知りたい、政府は何もやってくれない、と言い始める。

 世の中は、それでもハインリッヒの法則で回るものなのだ。つまり、ほんの一握りの人が全ての方向性を決めて周りを従える。それでも良いと言う人は仕方がないが、ならば民主主義や自由なんて語るべきではない。一人でも多くの人が、情報リテラシーを高め、モチベーションを高く維持し、反対意見があっても議論を交わし、自身の方向性を決めつつ、周りに影響力を発揮していく。そういう人財育成が本当に必要不可欠な時代環境になっていることを理解する必要があるだろう。そして、なんでもいい、活字を読む習慣を身に着けて欲しいし、自身の意見を語れるように心がけて欲しい。小さな前進が、長い時間で大きな成果となることは保証する。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。

モチベーション特性

 モチベーションを高めるには、承認欲求・自己実現欲求が満たせる状態になれる、目指せると思えなければならない。しかし、どうなれば欲求が満たせるのか、このことは個々人よって異なるものであり、一様に語れるものではない。一般的に個々人の性格や志向は異なり、いくつかのタイプに分かれるのだ。以下に、4タイプに分けて簡単に説明する。

・A(attacking).結果追求タイプ;
 人に頼らず自分の力で結果を出すことにこだわるタイプ。
 一国一城の主として、勝ち負けにこだわり、自己責任の元、成功を目指す。人との競争において、秀でることを目指し、結果を出すことに執着する。実行に対して、自分自身に責任・裁量権が与えられないと、物足りなさを感じ、モチベーション低下につながる。また、目標は自ら高く設定する傾向が強く、目標が低いとモチベーションは高まらない。
 このタイプは、大幅に権限移譲をすると期待以上の成果が期待できる。

・T(thinking).分析論理タイプ;
 自身の知識を広げ、探求することにこだわるタイプ。
 物事を論理的に探究し、誰もが到達できない解を導き出すことにこだわるタイプ。特定の分野を深堀、探求したりすることで、問題解決にあたる傾向が強い。因果関係を明確にして突き進めることにモチベーションを感じる。逆に、計画のない行き当たりばったりの環境では、全くモチベーションが高まらない。示される方向性の論拠も明確で論理性が無ければ、モチベーション低下につながる。
 このタイプは、困難な課題に直面すると期待以上の成果が期待できる。

・F(feeling).発想感覚タイプ;
 自分らしさを追求しオリジナルの発想を重要視するタイプ。
 自分らしさ、自分の発想、感覚の趣向が強く、オリジナル性を志向し、新しい価値の創出にこだわる傾向が強い。自身の置かれている環境に自由度がなく発想や活動を阻害する様だと、大きくモチベーションが下がる。また、対応する役割に独自の工夫や相違が必要ない、定型的な行動を強いられるとモチベーションは下がる。
 このタイプは、誰もが未着手の新分野に直面すると、期待以上の成果が期待できる。

・E(empathy).貢献中立タイプ;
 誰かに感謝される、ありがとうと言われたいタイプ。
 人との協調性を重視し、対立を好まず、中立を保とうとする。その上で、人の役に立つことに喜びを感じるタイプ。個人ではなく、チームの成績にこだわり、リーダーではなく、縁の下の力持ちとして支えるタイプ。結果よりもプロセスを重視する。目標ノルマなど結果を厳しく追及されたりするとモチベーションは低下する。成果よりも感謝を受けることにモチベーションを感じる。逆に、無関心に置かれると、たちまちモチベーションは下がる。
 このタイプは。協力的な対人環境に置かれると、期待以上の成果が期待できる。

 以上の様に、タイプを見極めず、良かれと思って実施した施策が、逆効果でモチベーションを下げてしまう結果となり得ることを理解して欲しい。
 試しに身の回りの人物を見てもらいたい。面白いぐらい、上記4タイプで分類できることがお分かりになるのではないだろうか。勿論、筆者の様に、強烈なAタイプと若干のTタイプを持ち合わせる分かり易いパターンから、それ程極端ではなく、バランスよく2パターンを持ち合わせるなど人それぞれである。
 組織構成要因としても、このタイプのバランスが必要であり、Aタイプばかりの集団では、衝突ばかりで結果の前に破綻が見えてきて、モチベーションが生まれなくなってしまう。この特性を見極めた組織、人員配置が必要なのだが、日本の企業は、この考えとは程遠い組織人事が行われるのが、日本型企業の特徴である。どのタイプでも同様の役割、同様のチャンスが与えられる、終身雇用の平等性により、むしろモチベーション低下を招き、生産性の最大化が困難であるのが実態である。
 逆に言うと、この点を改善するだけで、飛躍的進歩の可能性も秘めているのである。

『じんざい』の4象限

『じんざい』という言葉に想いを込めた当て字を、図に示す。

 横軸をモチベーションの高さ、縦軸を能力の高さで、4象限で表している。右上のカテゴリ、モチベーションも能力も高い人、この象限には『人財』という字を当てる。言うまでもなく、社会にとって、組織にとって、財産となるべき、活躍が期待される人財なのである。
 その下の象限、モチベーションは高いが、能力が伴っていない人、この象限には、『人材』という字を当てる。モチベーションの高さを活かして、教育訓練して、知識も詰め込み、経験を積めば、必ずそれを活かす活躍が期待される原石であり、この時点では『材』の字を当てるが、右上の象限を目指せる、期待すべき層である。
 左の上の象限、モチベーションは低いが、実は能力が高い人、この象限は『人在』という字を当てる。人それぞれの個性であり、価値観なので、全面否定は出来ないが、一般的には勿体無い人達なのである。何か、価値観を変えるような出来事や、きっかけを与えれば大きく化ける。至極当然だが、元来能力を持っているのだから、やる気になりさえすれば力を発揮するのである。マッチする環境の提供、環境変化が必要な層なのである。
 実は、世の中の多くの人は、この象限に属すると言っても過言ではないだろう。2:8の法則(パレートの法則)と同様、右側の象限に属する全体の2割が、世の中を動かしている。しかし、動かしている層がマイノリティであるのも事実であり、左側の層から右側に僅かでもシフトすることで、世の中、組織は劇的に良くなる。従って、モチベーションを向上させる環境構築、施策は人が育ち、活躍する上で、最大の要素となるのである。
 左の下の象限、モチベーションも能力も低い人、この象限は『人罪』という字を当てる。非常に厳しい当て字だが、しかし、モチベーション向上策で変わりうるのである。モチベーションと能力のどちらを先に変えるべきかは明らかで、モチベーションなのである。モチベーションさえ向上すれば、それは『人材』領域であり、能力開発は見えてくる。モチベーションのない状態で能力開発と言っても、成果に限りがあるのは当然ではないだろうか。

 では、モチベーションを上げる為にはどうすればいいのか。そもそも、人によってモチベーションを上げる要素は異なるのであり、個々の特性を見極めた対応策が必要なのである。

 ここで、少し視点を変えて、人が欲する欲求のレベルを確認してみる。マズローの欲求モデルを見て見る。人が自己実現に向けての欲求を5階層に分類している。低い層の階層の要求が満たされるとより高い層の欲求を欲する様になるモデルである。

 最下層は『生理的欲求』。人間が生活する上での基本的な欲求で、食欲、性欲、睡眠欲などである。その次が『安全の欲求』で、危機的状況ではないか、健康面の心配はないか、経済面の心配はないか。
 その次の層が『社会的欲求』である。人間としての基本欲に問題なく、身を守る安全も確保できていると次に、社会の一員でありたいという欲求が働く。人間は孤独に耐えられないのであり、村八分や仲間外れは、この欲求を損なう厳しい対応になるだ。
 そして、ここまでの基本的な欲求が満たされると、次に『承認欲求』が働く。社会に認められたい、活躍したい、より高い地位を求めたい、金持ちになりたいなどである。
 そして、最上位の欲求が『自己実現欲求』である。自分の能力を最大限に発揮したいという、かなりレベルの高い欲求になる。

 基本的にモチベーションの要素としては、4段階目の『承認欲求』を得るための意欲、或いは、最高レベルの『自己実現欲求』にどう達するかという意欲となる。ここで、よく考えて欲しい、3段階目までの欲求が満たされない状態で、4段階、5段階の欲求は論外なのである。即ち、環境として、3段階目までの欲求が基本的には満たされている必要があることに注意して欲しい。これが意外と整っていない場合が多いのである。

 学校内で、友達が出来ず、先生にも理解されず、常に怒られてばかりで居場所がない。何をしても認めてもらえるどころか、聞く耳を持ってもらえず、同じ空間を共有できない別モノ扱いされてしまう。
 会社内でも、組織の中で浮いて、誰にもまともに話を聞いてもらえない。仕事も任されず、雑用ばかり。仕事をしていても、上司にも自分の仕事を見てもらえず、丸投げ、まかせっきりで、問題を抱えても誰にも相談できない。
 家庭内でも、会話もなく、話はまともに聞いてもらえず、一方的に言われるだけで、コミュニケーションが成立しない。などなど、様々な例はあるだろうが、その状態でモチベーションが高く保てるのは、特異的な反骨精神の持ち主だけであり、通常の人間はモチベーションを高めるどころの話ではなくなる。
 従って、まずは、この次元の欲求、特に社会的欲求を満たす環境を注意して確認することが入口になる。

 学校教育であろうと、会社組織の人材育成であろうと、ジュニアアスリートの指導であろうとも何も変わらない。指導者、教育者、指導担当、先輩、上司、どう呼ばれようとも、最も重要視しなければならないのは、人が育つ環境を提供出来ているかであり、そこの改善は怠ってはならない。

 そして、モチベーション向上に関してだが、基本的に、承認欲求、自己実現欲求が対象になるが、それ以下の欲求と異なり、事はそう単純ではない。個々人によって、何をもって、承認欲求が満たされるのか、自己実現に近づけるのか、が異なるのである。タイプが異なると言えば分かり易いだろうか。このモチベーションのタイプは別レポートで報告したい。

理系と文系の特性相違点

 私自身は理科系学問(理学部物理学科にて)を学び卒業し、就職後も技術開発などの業務を中心に従事し、企画販促や管理系、経営にも携わってきた。理系の中では幅広い分野に従事したが、その根底にある軸足、判断基準は理系脳による論理思考であったと思っている。

 ビジネスの世界で、理系と文系でどちらが優位なのか、判定は出来ないだろうし、答えはないかもしれないが、私の持論として、理系的論理思考力を持ちつつ、文系的幅広い視野での柔軟な思考展開が出来ることが理想的であり、そのバランスが勝負のキーポイントであると考えている。
 昔、データベース・マーケティング論をビジネスで語りあった時の1例を上げる。データの分析やその仕組みであるシステム思考など、構造的かつシステマチックに理解していなければ、マーケティング分析やCRM提案は出来ない。基礎となるシステムや技術面のバックボーンなく語るのは、いい加減な絵に描いた餅、机上の空論でしかないと論破していた。ちなみに、世の中のこの手の企画提案には、実にきれいに表現した夢の世界の絵に描いた餅の詐欺紛いのものが多いのも実態である。
 一方で、仕組みや論理、技術面に終始すると、その先の可能性や運用面の人の感性などが抜け落ちてしまい、面白くもなんともない、単に難しいだけの企画提案になってしまいがちである。これでは、正しいかもしれないが、実際の利活用には程遠く、夢もない状態に陥ってしまいビジネスでは通用しなくなる。
 実世界、実運用上は、理系、文系のバランスが取れる必要があるのだ。

 では、バランスと言ってもどちらを優位にするべきなのか。論争として、理系センスを持った文系と文系センスを持った理系とどちらが最終的に勝つのか。この論争に答えはない。しかし、実社会では双方のバランスが必要だということに異論はないだろう。しかし、現実社会は、どちらかというと文系脳に偏っている方が優位になる様に感じざるを得ないのは私だけだろうか。もう一つ、現実社会では、理系、文系の分類とは別に、軸としては直交する全く異なる軸として、体育系と芸術系が存在するが、複雑になる為今回はこの軸は除外して考える前提で、どうしても理系だけ偏った印象があるのは事実ではないだろうか。

 理科系学問の性格として、白黒はっきりしている事が上げられる。数学の計算結果に曖昧さはない。物理の法則も真しかなく、化学も再現性が要求される。もちろん、人類が知り得るのは、砂漠の一粒の砂に過ぎないのが自然科学の世界の真ではあるが、その一粒の真理を究明するものだ。解のない場合は、現時点で解がないとはっきりさせ、解を求めていく。万人に共通する解を。
 文科系学問の性格として、人それぞれの思想や考え方によって解は異なってくる。それぞれの見解として。法が絶対的なものと言いつつ、法律で明文化していながら、解釈が人によって異なってくる。歴史も学説として主流派はあっても、異説も異論も多々あるし、それぞれに正誤関係はない。新説に対して反証を繰り返し洗練されていく。しかし、どこまで行っても絶対真理には行きつかない。
 政治や経営の分野は、不確実な未来に対して、確実な答えを持たずに、今の手を打っていく。一長一短ある様々な方法論の中で、総合的に判断して決断するのだ。そこには政治、経営のポリシーが必要だろう。人間である限り、判断に迷う事もあるだろうが、その場合も基準となる根本的な基盤思想を持って判断される。しかし、判断のためにインプットされる情報が偏っていて全体像が俯瞰できなかったり、客観的な状況が見えていないと判断を誤ることもしばしばある。
 だからこそ、政治や経営の責任者は、多くの情報を多面的かつ総合的にインプットしたいと考えるのである。政治で言えば、専門家会議や話題の学術会議、経営であれば事業戦略部門やコンサル、シンクタンクだろう。
 では、この求める情報を提供してもらうためには、理系が良いか文系が良いかを考えて見よう。文系の性格上、答えには個人の思想信条、考えの偏りが必ず発生する。従って、決して客観的とは言えない。つまり、政治や経営に活かす情報としては、一人、一系統の文系系情報のインプットでは偏ってしまう事になり、判断を誤る原因になるのだ。確かに、政治家や経営者自身の思想信条、自分の考えに近しい系統から情報を得ると、自身の考えと一致しやすく、ある意味の心地よさが得られるだろうが、この様な場合の多くは裸の王様化してしまう危険性が高い。従って、文系的な情報をインプットとして活用する為には、真っ向対立する異論含めて多くの情報を多系統から求めなければ、総合的に判断することが出来ない。それが出来ないで偏ってしまうぐらいなら、初めから自身の思想信条、考えに則って他の情報を持たない方がむしろ良い。
 一方で、理系的情報を得るとどうなるのか。理系的性格上、正か誤か、その度合いを数値で表現するなど、情報としては明確になってくる。否定しようのない情報であふれるはずだ。しかしながら、現実に打つべき手が、その事に全面的に沿う必要があるかというと決してそうではない。何故なら、求めた情報の方向性においては真実であろうが、現実世界は多極面が存在する複雑化した社会である。実際に打つ手も、1か0かではなく、バランスが求められる。そのバランス感覚は政治家、経営者の手腕に委ねられるのだ。但し、絶対的事実の情報があれば、バランスが取れた判断に役立てられるのである。

 こうやって考えると、政治や経営で政策判断、経営判断の助けになる情報を取得する方法としては、基本的には理科系面の情報取得が必要不可欠だろう。やはり、客観的情報としては理系的な情報が望ましいと言わざるを得ない。少し、幅を広げても数学、統計的解析の経済まで広げても良いが、何が正か判然としない個々の思想が前面に出る法律系、政治系は情報としては偏ることを織り込む必要がある。人文科学的な情報は、アウトプットされる提言ではなく、その経緯の議事録、議論内容がなければ情報となりえないと言っても良い。一方向に考えをまとめ上げる事を求めているのではなく、両論を公平に聞きたいのであり、一方を封殺する様では採択できる訳がないのだ。
 例えば、原子力エネルギーの政策を検討する上での情報を取得する場合、理系的側面では、原子力、化石燃料、再生可能エネルギーの夫々のエネルギー効率や温暖化ガス排出など多角的な影響面の科学的考察と開発のロードマップ、技術の可能性、安全面や想定リスクなどが情報として得られる。しかし、このことに関して文系的な情報を得ようとすると、イデオロギーを問う様な答えが、正解とは言い切れないにもかかわらず正解の振りをしてアウトプットされてしまう。こんな情報は百害あって一利なしなのだ。いや、言い過ぎたとすれば、住民感情や理解度、説明責任のレベル感などを推し量ることは出来るかもしれないが、事の是非を判断する情報では決してあり得ない。もちろん、最終的には民主主義的手段で決定していくのだろうが、その場合も政治家、経営者の信念で説得する以外になく、おもねる必要はないのだ。ダメだったら、政治家も経営者も進退を伺うだけなのだから。

 さてさて、そうこう考えると、今問題の学術会議はどうだろう。学術会議は政府の諮問機関であるのは誰も疑わないはずだ。しかし、3分の1が自然科学工学系、3分の1が医学薬学系、3分の1が社会科学法学政治学系であり、多くの発言は社会科学系、つまり文系の発信である。この3系統で言えば、母数となる研究者総数に対する比率で言えば、社会科学系は他の2桁下の数でありながら、会議体としては3分の1を占め、発信としては更に全体を牛耳っている印象が強い。これでは正当な判断の為の情報を得ることは出来ないと考えるのが通常だろう。それゆえ、政府は長い期間諮問をしていないのだ。
 この3分野を独立させ、数的にも適正数に配分し、もっと理系的な発信が前面に出る様な会議体にならなければ、政府諮問機関としては機能しないのだ。
 更に加えて言うと、政治家はプロである。そして行政の実行部隊である官僚もプロである。私には、人文科学系の学者がプロとして誇れるのは、自然科学系で言えば理学の分野であり、その実践に当たる工学の分野は、政治家や官僚の領域ではないのだろうか。であれば、人文科学系の学者に敢えて諮問する必要性は無く、あっても情報連携で充分。但し、政治家に絶対的比率で理系が少ないのが実態に見える状況では、自然科学、医学薬学系の学者、専門家への諮問は必要不可欠だろう。

 私は、理科系の人間なので特に強調したいのだが、もう少し理科系の人間を重用し、活躍の場が与えられる社会にならなければ、バランスの取れた判断による、本当の意味での発展にはつながりにくいと考えている。

部活動の外部チーム化

 教職員の働き方改革を考える上で、部活動が最も問題として取り上げられることが多く感じる。長時間労働の諸悪の根源として、時間外の練習、土日など休日の大会などの引率、指導など。
 文部科学省が改革案としてまとめているのが、休日に教員が関わる必要がない仕組みの整備として、外部チーム化を2023年度から段階的に実施を検討している。
 長時間労働に悩む教員の負担を減らすため、文部科学省が、休日に教員が部活動の指導に関わる必要がない仕組みを整備する改革案をまとめたことがわかった。今後、各地域にある拠点校で実践しながら研究を進め、2023年度から段階的に実施するという。
 そして、時間外労働の問題以外に、指導経験のない教員の負担になっている問題も解消を目指すという。

 改革案では、部活動は「必ずしも教員がになう必要のない業務」として、休日などは「指導に携わる必要がない環境を構築する」
 そのために、地域の活動として、民間のスポーツクラブや地域のスポーツ指導者、教員OBなどの人材を確保して対応する。一方で、指導を継続したい教員には指導出来る仕組みを提供するとのことだ。

 賛否両論あるだろう、事実、長短両面ある。ただ、ストレートに申し上げると、受益者視点に少々欠けている様に感じる。確かに、現時点で問題視されている事項が、教員側の問題ばかりであるから、この地点に帰結するのは仕方がないかもしれない。しかし、この問題の本質は、受益者、つまり生徒達、ジュニアアスリートにとって部活動とは何なのかという視点で考えるべきなのだ。

 この問題を検討する前に、現実を見てみると、各部活動には、外部指導員制度が既に存在し、部活動とは別に、地域のクラブチームも現実に存在し、多くのジュニアアスリートは、クラブチームに所属し指導を受けている。マラソンで日本記録を樹立し、1億円の賞金を獲得した大迫選手も、中学生ジュニア時代は東京都の強豪クラブチームに属して活躍していた。
 一方で部活動は、学校をアピールし、生徒募集の大きな要因になるもので、部活動参加率など、多くの学校が誇らしげに数字を掲げている。生徒側は、内申書に部活動参加、部活動の成績などが影響を及ぼすし、場合によっては推薦すら勝ち取れるのである。生徒側から見ると、前向きに活動したい生徒だけでなく、内申書のため、時間をムダに浪費する生徒も事実存在するのであり、現実は、決して、希望者が前向きに活動するだけの集団ではない。そして、極めつけは、学校側の都合が悪くなると、課外活動という名を逃げ口上に使えてしまう。
 また、別の視点で確認すると、例えば中学生の部活動の全国大会、全中には、中体連に所属した生徒以外に参加資格がそもそもない。つまり、その分野で頑張りたければ、学校の部活に所属しなければならないという縛りがある。
 また、一言でクラブチームというが、その中身は千差万別である。営利目的のスポーツクラブ、強豪チームとして多くの強豪選手を抱えるビッグチーム、ボランティアで細々ながら選手本位で活動するチームなど様々である。

 この様に部活動を改めて考えてみると、教育の場なのか、全生徒に自由に開かれた場なのか、将来の職の技能開発・進学の手段なのか、将来の社会活動における団体行動や共通の目的に向かう意識鍛錬の場なのか、それに伴って、学校の運営責任はどこまであって、クラブチームとどうやって共存するのか。

 筆者はテーマとして、「人が育つ環境」を大きな要素として掲げている。「人は育てるものではなく、育つもの」「人を育てたというのは、指導者の奢りに過ぎない」「人が育つことを阻害する環境要因」「人は自分が見えない、指導者はその人を見る目になれる人」「指導者の仕事は人が育つ環境の構築」などなど

 筆者自身もジュニア時代に自身のアイデンティティ基礎基盤を育成してきた環境として部活動が真っ先に挙げられるし、指導者としてもクラブチームを運営し部活動の外部指導員も担った経験があるが、比較して、ここまで確認してきた現実像は、変わり果てた環境に思えてならないのである。ストレートに、人が育つ環境とは思えなくなってきているのである。

 勝利至上主義を問題視する向も多い。しかし、勝利や、最高の結果を目指して、日々努力すること、チームとして協力し力を合わせることに問題があろうはずがない。結果としての勝利に価値がある訳ではなく、本気で勝利を目指すプロセスに価値があり、人が育つ。適当に目指すだけでは得られないプロセスなのである。個人の努力だけでなく、組織としての活動の重要性を学べる貴重な環境が、勝利を本気で目指す場なのである。

 うやって考えると、部活動がいつの間にか美化され、至高の教育の場として、学校のアピールの場になり、強豪校として結果を出さないとアピールできないから指導者にノルマが課され、学校という生徒たちが3年という限られた期間、短期間で結果を出すため、育てるのでなく、能力の高い選手を集めるスカウトに力が入り、部活動という教育の場とは乖離していった。

 そして、実際に集められた選手は、必要以上に大勢になり、少しぐらいの故障、痛みで休んだ瞬間、チャンスが失われるので無理をして多くの選手が潰れる。3年という短期間で結果を出すため、必要以上に長い時間の練習漬けで、故障しなかった選手だけが生き残る、その様な環境で、教育どころか、多くの選手が潰れていく。
 一方で、強豪校でない弱小校では、結果の成績でアピールできないので、全員参加、参加率アップという成果を求め、部活動の中身ではなく参加することに意義がある状態で、やる気もない大勢の生徒が、いやいや時間を浪費し、その時間に顧問という名の指導しない教員が超過労働となる。この場合、結果を求めないので、外部指導員などに任す予算は付かず、万が一ボランティアの協力を得ることが出来たとしても、前向きな目標以前に教員に課せられる後ろ向きな責任とバランスが取れず、直ぐに破綻する。その様な環境で、たまたま存在する才能ある選手も育つ環境が得られないで、才能を伸ばせない。
 強豪校でも弱小校でも、部活動は人が育つ環境とは乖離していっているのが現実の姿かもしれない。

 この状態で、地域のクラブチームに一定の役割を担わされても、何が解決できるというのだろう。強豪校でも、弱小校でも、何も構造は変わらない。確かに、顧問と呼ばれる、指導する気の無い教員の超過労働は削減されるかもしれない。しかし、肝心の生徒達、ジュニア選手たちの活躍する環境に何の変化もない。それでは全く意味がないのだ。

 極論を言うと、両極端の2通りでしかないだろう。
 地域のクラブチームを主とするならば、学校の部活動は全て廃止、教育の場などという偽りのプライドを捨て去って、あくまで個々の趣向に合わせた活動であり、ある意味習い事の一つとして、全ての大会をクラブチーム主導とするべき。それでも、人が育つ環境としては、現在よりは遥かに良くなるだろうし、個々の選手、生徒が自由に選択できる様になる意義が大きい。
 もう一つの極論は、全て学校の部活動を主とし、課外活動でなく、通常の授業と同じ扱いにする。学校に責任を持たせて、逃げ道の無い、主の活動に位置付けてしまう。超過労働問題は、外部指導員を所謂講師職と同様に一般化することで人材確保して解消することが出来る。地域のシニア世代、定年退職を迎えても元気な人間はこれからまだまだ増える。その人材を再登用すれば良いだけだ。

 筆者は、理想的には後者の学校が責任を持って運営する部活動が間違いなく良いとは思う。しかし、学校側既存勢力の意識改革が必要不可欠になってくるが、実際に可能だろうか。本音を言えば、その程度の意識改革すら出来なければ、学業の場すら、主人公を塾に奪われ存在価値が無くなってしまうのだが。