北京五輪が諸問題を露呈して終焉、されど五輪の価値はいまだ高い

ジェノサイド五輪と呼ばれ、ナチスドイツと並び称され批判され続けた(日本国内ではなぜか東京五輪程大きな批判は無かったが)五輪が閉幕した。

問題視された事項を簡潔に列記するだけでも数多くの問題が露見している。ジェノサイドが指摘されるウイグル問題、開会式では聖火最終ランナーとなりながらその後の取材が行えていない様だ。テニスの彭帥(ほうすい)選手に纏わる疑惑も有耶無耶のまま。

選手や関係者の情報の安全問題も永遠に闇の中だろう。セキュリティ問題とは、表面化しないからこそ問題が深刻化する。

持続可能性を社会命題とするのは、最早世界共通であるが、北京五輪、開催国に対して指摘されたのが、まさに持続可能性に関わる問題であり、政治的ボイコットなどあったが、その温度差もあり、決して一枚岩で向き合えた状況ではなく、解決にも向かっていない。

いざ競技が始まると、スケートショートトラックに関わる疑惑の判定、スキージャンプ混合団体時のスーツ規定測定方法の事前通知も無い変更による大量5選手の失格を生み出した問題。女子フィギアスケートにおけるロシア選手のドーピング問題は、未だドーピングが減少しないロシアの競技環境の犠牲に見える選手の人権問題、公平な競技環境を構築出来ていない事象だが、出場年齢制限の検討など本質からずれた案まで飛び出す混乱となった。

歴史的評価は後年為されるだろうが、大きな問題を抱えながら開催された北京五輪であったことは間違いないだろう。

<選手は自身の活動の場を自己都合で選択は出来ない>

しかし、決して間違えてはならないのは、選手には何ら罪はなく(ドーピング違反者は別)、純粋に自らの活動の場が北京であっただけなのだ。もちろん、ボイコットや中止などの決定があればそれに従うのも基本だが、競技自体は普通に開催され、参加するという大多数の決定に従うのが選手個々の立場では筋であるからだ。

五輪への反対意見は根強くある。人権派と呼ばれる人達を中心に喧伝され、一部メディアが陰謀論も含めて煽り、意味も深い理由も理解しない大衆が迎合する構造は、東京五輪の際に顕在化した。

五輪精神が崩壊している、金まみれで一部の既得権益者により私物化、個別競技の世界大会が開催されている現在に五輪の意義は無くなった等だろう。しかし、どれもこれも、本来の主人公である選手、競技者目線はなく、人権派と言いながら、個々の選手の人権など無視するだけでなく、貶める行為である欺瞞に溢れる活動であり、それこそ、自分達の思想信条の押し付け、自己利益誘導のエゴとしか思えない意見が多い。

確かに、現在の五輪に様々な課題がある事は疑い様がない事実であろう。しかし冷静に考えて欲しい、その理由でアスリートの活躍の場、夢の舞台を奪って良い訳では無い事ぐらい理解を示すべきであろう。建設的な対案のある反対論なら良いが、今の反対派にその様な姿勢は感じられず、単に既得権益者、権力者に対する攻撃、活動でしかなく、その被害を一番受けるのがアスリート達である構造を無視している。

<スポーツビジネスの経済性>

スポーツは普及することで底辺の競技人口が増大し、結果として全体の競技レベルが上がり、トップアスリートが育成される。トップアスリートは、自らの競技を通じて多くの人に感動と夢を与え、更に普及が深耕して、引退後の雇用も想像する経済効果が生まれる。

スポーツがコンテンツとしての価値を高め、経済的にも自立しビジネス化していく構造が成立する歴史はそれ程古くない。ほんの少し前ならば、ジュニア世代の選手達は、一部の競技とその更に一部の選手以外は、大人になって競技を離れていた。競技を継続しても趣味の範囲でしかなかった。

ところが最近は、社会人になってからも企業の支援を受け、企業に所属する形なども含めた競技継続者が増加し、プロ化などの道が存在する事もあって、学生時代のスポーツ推薦なども枠が昔に比べれば大きく増え、競技専従者に対する教育環境の選択肢も増えてきている。つまり、職業としてのスポーツという枠が増大しているのだ。

それでも、その世界で夢を適え、花開くのはほんの一部でしかない。その大多数を支える雇用環境の為には、マイナー競技も含めた正の経済発展がなければ成立しようがない。つまり、コンテンツとして、ビジネスとして育てる必要があるのだ。

スポーツ嫌いな人も存在するだろう。でも、芸術や芸能、音楽等にも好き嫌いがある。自分が嫌いでも、否定する理由にはならない。数ある企画、興行の一つであり、その幅を広げる事に異を唱えられる人はいないだろう。

その象徴的なシンボルとして五輪が存在する。この構造を否定できる人はいない。五輪に反対するならそれに代わる対案が必要だが、個別競技の世界選手権ではそれは賄えない。従って、未だ五輪は問題を抱えながらも価値は現存するのであり、事実を認める事から入らないと、身勝手な破壊論にしかならない。

<日本のスポーツビジネス環境の先行き>

日本のスポーツビジネスは今現在、実は曲がり角に差し掛かっている。

余り知られていないかもしれないが、ワールドカップサッカーの最終予選、日本のアウェー戦は地上波での放送が出来ていない。それどころか、カタール本大会すら放送権の獲得が危なかった。米大リーグの「毎日大谷さーん」のBSでの放送も危なっかしい。

コンテンツの放映権が高額化していっているのだ。しかし、単なる高額化ではなく、ワールドワイド市場の経済成長に対して、日本のデフレ環境における経済成長レスによる格差が、日本から見たコンテンツ高騰化に見える構造なのだ。

五輪を金まみれと言うが、世界的にスポーツコンテンツは価値が高まり、高騰化しているのだ。それは、不当な値上げと言う訳では無く、経済論理に沿った価格上昇であり、経済成長できない日本が立ち遅れている構造でしかなく、このままでは再びスポーツ劣等国家への道まっしぐらと言っても過言ではない。

今、抱える課題は、更なる普及によるコンテンツの魅力化、日本国内の企画価値向上を目指したビジネス拡大無ければ、衰退する以外に無いのだ。豊かな精神、健全な肉体を養い、経済的にも成立するビジネス構造を育成して、初めて日本国民も夢と感動を享受できる事を忘れてはならない。

高梨沙羅選手失格に揺れたスキージャンプ混合団体の疑惑

北京五輪、スキージャンプ種目に男女混合での団体種目が生まれ、日本勢にメダルの期待が高まっていた。

しかし、1本目高梨沙羅選手の大ジャンプ103.0m、124.5点がスーツ規定違反となりDSQ(disqualified)失格、得点が無効となった。1本目の10チーム中上位8チームが2本目に進めるルールの為、2本目進出が危ぶまれたが、残り3選手の頑張りと、他チームでも同様の失格者が発生したので、ギリギリの8位で2本目に進んだ。

2本目はその様な状況で、重大なプレッシャーを背負った高梨沙羅選手も涙ながらの大ジャンプ、佐藤幸椰選手、伊藤有希選手、小林陵侑選手もチームとして支える大ジャンプを揃え、メダルまであと一歩の4位に食い込んだ。

このチームとしての競技継続力、奮起を支えたメンタリティーは、なかなか一般には理解され難いかもしれないが、トップアスリートならではのものだろう。人間だから少なからず、『なんでやねん』というマイナスのメンタリティーも発生するだろうが、アスリート気質と言うものは、自分のできる事は徹底的に自分が責任を背負って最後まで執着するが、自分の力の及ばない範疇に関しては、存外無頓着と言っても良い程、仕方が無いと受け入れるのである。

野球のイチロー選手が打席に入るまでに出来る事は徹底するが、結果は気にしない、気にしても仕方がないと発言したのもこれに通じるのだ。

そして、このチームは佐藤幸椰選手が「怪我が無くて良かった」と声をかけ、伊藤有希選手や小林陵侑選手がハグをした様に責任を感じている高梨沙羅選手を支える姿は感動も呼んだ。

何より、誰よりも一番傷ついているのは、失格された当人である高梨選手であり、彼女の責任ではなく、その状態でも最後まで戦った彼女を称えるべきであろう。

<再発防止のために>

この事態に対して一部で「ルールだから仕方がない」「他の競技でも厳しいルールの下、行われているから仕方がない」という主旨の発言も多数見受けられるが、確かに正論なのだが、しかし問いたいのは、ルールは公平であって始めて意味があるという事だ。

この規定は女子の場合、身体の各部位から2~4cm以内の余裕しか許されていないのだが、事前確認と事後の抜打ち確認があるとされている。実際、ゆとりがある方が浮力を生み有利なため、各チームルールギリギリで対応しており、この規定違反自体は高梨選手自身、昨年も経験している様で、さほど珍しくないとも言われるが、同一日の同種目、女子だけから20名中5名も発生しているのが異常なのである。

しかも、この五輪のジャンプ競技に限ってもこの様な高確率での違反は他種目で発生しておらず、異常としか形容のしようがない。

事後検査の必要性を指摘する向もある。競技後に失格ではなく、競技前に確認して是正させて公平な環境を作り出して競技をするという主旨だ。アスリートの対場からいうとこれが正論である。

但し、反論もある様だ。検査合格後に伸縮性のある素材を伸ばして余裕を生ませる不正があるから事後でないと意味が無いというのだ。

この反論を聞いて違和感を感じたのは、伸縮する素材を前提にするならば、身体との余裕をどうやって測定するのかまで定義しないとルールとしては不備だという事である。測り方に恣意性が入る余地があれば、到底公平と言えないだろう。

通常この様な国際大会では、レギュレーションチェックを受けた後の選手は隔離環境にあり道具を使った不正は困難で、出来るとしても自力で密かに引き延ばす程度だろうか。到底、均等に引き延ばすなどは出来ないだろうから、万が一あったとしても事前事後のシルエットチェック程度で済む話だろう。あくまで、検査後の不正を検出する目的ならば。

選手に公平な環境で競技をしてもらう前提ならば、事前の検査を予め定めた測定方法に従い測定し確認する。事後は、あくまで事後の不正検出で良いだろう。

更にもうひとつの問題は、抜き取り検査の頻度などのルールである。これも恣意性が働くと公平性を欠く。

今回の失格者続出を異常事態として、失格を受けた各国は連盟に提訴してでも、今回のジャンプ競技全体と比較して「検査方法」「抜き取り頻度」がどうだったのか実態を明らかにし、他のジャンプ種目と大きく異なる違反者数が発生した原因を論理的に説明する事で、再発防止に向かう必要があるだろう。

公平なルールの下の競技である大原則のために。

ジョコビッチに対する批判集中だが果たしてその中身は

テニスのレジェンド、ジョコビッチ選手がオーストラリア入国を拒否され、全豪オープン第1シードの選手が棄権という事態に陥った。事は今年の全豪に止まらず、今後3年の全豪や他の大会出場も危ぶまれる状況である。一連の動向に、ジョコビッチ選手に対する批判も集中し、同じレジェンドのナダル選手は「ワクチン接種すればいいだけのこと」と言い放った様だ。

しかし、冷静に考えて、これらの批判は正当なものだろうか。ワクチン接種は義務化されるべきものではなく、個々人の事情を勘案する必要があり、個人の判断のはずである。全容を見ずの感情的な批判も多いのではないだろうか。

一方で、確かに批判に相当する部分も見えてくるが、それは正しく事実を見極めた上でなければならない。単なる誹謗中傷、良いがかりに近い論調が跋扈する風潮は健全ではなく、まずは事実関係を整理してみたい。

<ジョコビッチ選手がワクチン接種をしない背景>

ジョコビッチ選手は幼いころからいくつかのアレルギーを抱えていたとの事だ。プロになってからも試合で呼吸困難に陥るなど途中でリタイアする状況が続き、その後、グルテンアレルギーである事が判明している。

グルテンアレルギー対策として食生活を見直し、徐々に改善に向かった。2015年に執筆した本に、グルテンフリーの食生活を取り上げ、グランドスラムタイトルを獲得できた秘訣として食生活の改善だとしている。そして、その後のツアーでも、グルテンフリーの食事とトレーニング用具を準備していたという。

この様な原体験を持ち、アレルギー体質でもあれば、ワクチン接種を躊躇するのはある意味当然では無いのだろうか。

ここでジョコビッチ選手のワクチン接種に関する発言をいくつか取り上げてみる。

全米オープンにて

「ワクチンに関しては常に、それぞれ自分が打ちたいかどうかという判断が重視されるべきだと考えている。そこだけは崩さないでほしい」

ATPファイナルにて

「ワクチンのことだけじゃない。生きることの全てで、個人には選択の自由がある。それが豊かで幸せな人生に必要不可欠なものだと思うから」

フェイスブックのライブチャットでは

「僕はワクチンの接種自体を否定しているのではない。ただ、誰かが僕の体内に無理やり何かを入れるのは嫌だ。受け入れられない」

これらの発言を聞いて、「ワクチン接種すればいいだけのこと」と簡単に片づけられないと感じるのは筆者だけだろうか。

<入国拒否された問題事項>

オーストラリア・テニス協会は、大会参加、それにかかわるビザ発行はワクチン接種を前提としている。但し、過去6か月以内に感染歴があれば免除ともされており、今回のジョコビッチ選手の申請はこの過去感染歴を前提にしていた。

その感染日は2021年12月16日であった。しかし、そこから綻びが発生する。その感染経緯を確認してみる。

12月14日バスケットボール試合を観戦。これがクラスターとなる。

12月16日簡易抗原検査実施で陰性判定。同時に念のためのPCR検査実施

12月17日テニスのジュニアイベントに参加

12月17日イベント後にPCR検査陽性判定通知

12月18日雑誌インタビュー実施

17日のイベント参加は陽性判定前との言い訳はあっても、クラスターの所謂濃厚接触者であり、PCR検査も実施していた訳なので本来であれば結果が出るまで自粛すべきであったとセルビアの首相も非難している。そして、18日のインタビューに関しては弁解の余地は無い。

更にまずいのが、オーストラリア入国書類の過去14日間にどこにも旅行をしていない事を問われる質問に、していないと虚偽申請をしていた事が明らかになっている。

実際は、セルビアからスペイン(ジョコビッチ選手保有宅に3日滞在)を経由してのオーストラリアであった。スペインもワクチン接種証明書が入国に必要だが、どの様に入国許可が下りたのかは不明であり確認中の様だ。

ジョコビッチ選手は同書類をチームスタッフの人為的ミスであり意図的ではないと述べているが、果たして入国書類の不備がミスで済まされるものではないだろう。

ましてや、2021年6月にも自身開催のトーナメントで本人含むクラスターを発生させて批判を浴びており、今回の件も含めて信用が失墜しているのも現実であり、12月16日の感染17日の陽性判定も入国する為の虚偽ではないかとの疑惑まで発生している。

<ジョコビッチ選手に望む>

以上の様な事実関係から、最悪の場合テニス協会から何らかの処分の可能性すらある。テニスの1ファンとして、レジェンドをその様な事で失う事は何が何でも避けて欲しい。

その為には、ジョコビッチ選手には明確な説明責任を果たしてもらいたいと考える。

6月にクラスター発生させた事や12月の濃厚接触後の行動に関して軽率であった事、入国申請書類にミスとはいえ虚偽記載をした事実を含めて、自身の行動が軽率で考えが甘かった事を反省し謝罪会見を開き、テニス協会からの如何なる処分も受けると表明する事を期待したい。

その上で、ワクチン接種を躊躇する原体験を語り、同様の苦しみを持つ人達の存在も訴えるべきであろう。そうして自身の判断に対する理解を求めれば同様の選手達にも手を差し伸べる事になるだろう。これは危機管理、危機コミュニケーションの観点から望む事だ。

ワクチン接種免除は定められているとはいえ、現実には認められる例は僅かとの事だ。この現実に風穴を開けるのはジョコビッチ選手以外にないだろう。

体操のレジェンド内村選手が、世界体操時のPCR陽性判定に異議を唱え、再検査による陰性により偽陽性判定であった事を示し、無事世界体操開催に繋がった。これは、レジェンドでなければ、陽性検出、濃厚接触者判定で多くの棄権者を発生させ、大会が無事では無かっただろう。前例を突破し、改善する為には、その道の先駆者が支持される心情面も背景に勇気を持った行動を超す事で突破口が開ける。

テニス界の為、世の為に、適切な行動を期待する。

日本を衰退に向かわせる人権派の正体、扇動されないためには

静岡県の川勝知事は様々な問題発言で物議を醸しているが、またもや問題発言が発覚した。6月の知事選の期間中に富士市で開かれた集会で、女子学生を念頭に置いて「顔のきれいな子はあまり賢いことを言わないと、きれいになる」との発言だ。

耳を疑う、正気の沙汰とは思えない意図不明の発言だが「傷つかれた人がいたとすれば、申し訳ない」と取材に答えている。この認識も論点がずれた言い訳に過ぎないと思うのは、そもそもの認識の誤りを認めて、謝罪し、修正するという姿勢が全く見えないことだ。

そして筆者が異常に感じるのは、このことを伝えるのがネットが主流であって、マスメディアは殆ど報じず、人権派を名乗る知識人たちは一切声を挙げていないことだ。お仲間には優しいといえばそれまでだが、それでは信義が疑われる。

森元会長の発言には、金太郎飴の様にどこでも同様の糾弾をメディアは繰り返していた。内容的には、全文読めば大した内容でもなく、女性蔑視でもない。むしろ女性が優秀だと言っているのは分かるが、長いくせに、まとまりの無い話で、切り取られて女性蔑視のレッテル貼りされたのだ。そして東京五輪反対キャンペーンへとつなげられたのだ。

あの森元会長の発言でここまで糾弾するなら、なぜ川勝知事の発言には静かなのか、不思議でならない。国民世論と言うが、メディアの恣意的誘導であることは比較して見れば明らかなのだ。ということは、踊らされて、信じ込み、五輪反対、中止と声高に叫んでいた一般国民は冷静に目を覚ます必要があるだろうし、情弱性を反省しなければならないだろう。

<彭帥選手事案に対する反応も同様の構造>

中国テニスの彭帥選手の告発発言に対しても、同様の構造が見えてくる。

共産党最高指導部のメンバーだった張高麗前副首相から性的関係を迫られたことをネットに投稿、その後行方が分からなくなり、一定期間後あたかも中国政権の監視下に置かれている様に感じる不自然な発信やバッハ会長とのオンラインでのやり取りが行われている。

そして、女子テニス協会(WTA)は香港を含む中国でのすべての大会を中止すると発表するまでに至った。

しかし、日本のメディア、左派系の論陣は、東京五輪の時の様な執拗な五輪反対活動を行わない。それどころか、本件の人権に関わる非難すら殆ど発信されていない。

身の安全が保障されたのだから良しとの意見は根本的に間違っている。そもそもの告発は優越的な地位を利用した、生命の危険すら感じさせる状況下での性的凌辱ではないか。このことを糾弾しない人権派なんて、単なる政治活動のための政権政府を攻撃する目的の詭弁でしかなくなる。

メディアも同様である。公平性や良識など一切存在しないと言わざるを得ない。

<五輪に対する純粋な想い>

筆者は、自身が元アスリートでもあり、ジュニアの指導経験もある根っからの体育会系人間である。それ故、全てのアスリートの夢、頂点に位置する五輪に関しては、政治的な背景や、商業価値的背景も含めて一定程度受け入れ、全面的に開催を維持し推進することに賛成する立場である。

世の中綺麗ごとだけでは成立しない、五輪という夢を維持し拡大する為には、泥水を飲んでも目的を達成し、夢を実現することを否定しない。もちろん、そこには一定の良識と秩序は必要であり、法的に問題があったり、道義に反することがあってはならないのは前提である。

その五輪を日本の世論は、メディアや左派系のプロパガンダに扇動された結果とはいえ、大多数が反対との発信をし、推進派である筆者に対しても数々の非論理的な言いがかり、正気の沙汰とは思えぬ非難が寄せられた。

しかし、今、北京五輪に関しては、全くと言っていい程、反対という声が聞こえてこない。

筆者は前述の通り、アスリートの立場に立つ。北京五輪に関しても、人生を掛けた目標として活動している多くの選手、夢かなわなかったが夢の舞台として憧れる多くの選手、夢の舞台に自分の姿を投影する純粋な多くのジュニア選手の気持ちになれば、開催して欲しいと切望していたし、今でも気持ちは変わらない。

しかし、だからといって、前述の中国政府の振る舞いや、ウイグルや香港などの人権問題を糾弾しないのもあり得ないと思っている。あくまで、是々非々で批判するべきは批判し、推進すべきは推進するべきと考えている。

従って、WTAの判断は尊重されるべきであり、同時にアスリートに不利益にならない様な代替策を検討する必要があるだろう。

北京五輪も同様ではないだろうか。もちろん、このまま大会は開催し、政治的ボイコットで済ませる方法もあるだろう。ピーキングなどの調整が必要なアスリートにとっては最善の策である。しかし、日本ではその議論すら上がってこない。

また、オミクロン株で脅威を煽り続けているにも関わらず、北京五輪開催に地獄絵図になると誰も言わないのも不思議である。東京五輪を正気の沙汰では無いとまで言っていた専門家達も一切言及しない。日本選手を送り込むのにだ。つまり、本当に脅威だと思っていた訳ではなく、単に政府を攻撃する材料だったに過ぎないことも明らかなのだ。

総合的に判断して、延期、代替地開催などの議論もあって不思議ではない状況なのだが、その様な議論、糾弾は皆無といっていいだろう。

情弱性は活動家の恣意的な扇動に利用され、正常な判断が出来ない同調圧力に支配され、結果として国家を衰退に向かわせて、自分自身の首を絞めるのだ。

しかし、いつまでも恣意的な扇動を生み出す構造を恨んでも仕方がなく、現実として受け入れた上での対処が必要な時代になったのだろう。

出来るだけ多くの人が、情報をマスメディアに頼らず、自分の努力で様々な情報に触れ、自分の頭で論理思考を繰り返すことが、騙されず、利用されないで、豊かな生活を送るための条件になってきたのだろう。

東京五輪無事閉幕、そしてメディアの暴走が再開

東京五輪が無事閉幕した。

多くの感動を生み出し、同時に多くの悔しさ、次につながるドラマが生まれた。五輪は、他の国際大会と比べても、難民も含めた多くの国家、民族の出場選手が参加し多様性が尊重されている。開催種目も、単一で企画として成立するメジャースポーツだけでなく、多くのマイナースポーツ、地域性にも考慮した種目により、種目の多様性と、その普及に大きな効果がある。これらは横のつながりとして成立する。ノーサイドの精神はラクビー特有のものではなく、全スポーツに共通する事が各種目戦い終わった選手たちの姿や閉会式でのアスリートを見ても分かる。明らかに大きな効果を生み出した。

そして、縦のつながりも同時に生み出せた。本来直接観戦できれば良かったのだが、それでもリモート観戦を通じて、多くの子供達に感動の実感を与えられただろう。また、ミュンヘン五輪から長年の課題でもあった不幸な現実、不運な選手達への気持ちを伝える等、歴史の流れの中での課題に向き合い逃げずに立ち向かい乗り越える、そういった精神も次につなげた。何より、東京で途絶えさせなかった事に安堵させられた。

その結果、世論調査では開催前は反対が大多数だった状況から、大勢の開催して良かったという声に変える事が出来た。

これらは、多くの縁の下の力持ち、大会関係者の方々の献身的で前向きな働きによるものであり、素直に感謝を申し上げたい。本当にありがとう。

私自身、学生時代はアスリートとして戦ってきて、指導者としても多くの子供達と競技に向あってきた経験から言わせてもらうが、大会を開催する為に、多くの人の力が必要なのだ。国際大会であれば尚更だ。

しかも今回は、何か悪い事でもしている様な謂れなきバッシングを受けながらの事だ。辛かっただろうし、厳しかっただろう。こぼれ聞く話では、状況変化や追加施策など、毎日の様に要求が変わり、その為の対応は相当な激務、ブラック状態であったのも事実の様だ。

その様な状況でも全力で支えるという気持ち、アスリートや競技に対する想いが強くなければ完遂出来なかっただろう。

確かに反省点や改善点なども多かっただろうが、それは何をしても、否、大仕事であればある程多いのは間違いないが、それは次の課題への前進なのである。何より、成し遂げた成果は計り知れない。

反対するのも個人の自由であり、思想信条はそれぞれに尊重されるべきだが、この大きな成果を挙げ、絶やさず次へつなげた業績を、無きモノにする事は出来ない。ましてや「瓦礫の山」と貶す論等は、決して受け入れることが出来ない。

嫌いであれば嫌えばいい、嫌なら嫌で、反対でも良い。しかし、純粋に成し遂げた業績に一定のリスペクトを持てないのなら、単なる難癖でしかない。これは、自らを絶対正義として、見下す姿勢が産み出す所作でしかなく、決して許せない。

メディアは開催前、総じて反対の論陣を張った。これでもかというぐらいの攻撃であった。命と五輪の何方を取るのだという、無茶苦茶な無理筋論も、声を揃えて同様に発信する事で無理を通してきた。

開幕後、掌返しの五輪報道で埋め尽くされた。結局、視聴率が取れれば何でも良いというメディアの節操の無さであった。五輪反対の影響で、スポンサー離れまで発生したのだが、それでも目先の視聴率稼ぎを正当とする、反省心の無さを露呈している。即ち、五輪後は再度の掌返しで煽り一辺倒に戻るのだろう。

「司法」「立法」「行政」に次ぐ、第四の権力としての力を歴然と持つ「情報」であり、その担い手である「メディア」だが、一部の左派勢力からは、権力監視という役割を持つのがメディアであり、五輪報道をポジティブに実施した事を政府批判の姿勢を忘れたと批判する論も出ている。しかし、それはメディアに絶対正義としての独裁を要求している様にしか感じない。

第四の権力である時点で、相互監視の対象であり、他の三権を監視するのなら、他の三権から権力行使の監視と牽制を受けなければならない。それを絶対正義で何でも叩けるとした時点で、他を上回る絶対権力となってしまう。そんな簡単な論理も分からない様だ。

健全な相互監視であれば、是々非々でなければならない。ダメな場合は糾弾する必要があるだろうが、良い場合に後押しをする事も重要な相互監視なのだ。何が何でも批判、是とする事は見て見ぬふりの報道しない自由では責任ある権力行使ではなく、「ラクダと老夫婦」の例えそのままのクレーマーでしかない。

「情報」事態が、第四の権力として力を持っている事は誰も疑わないだろう。しかし、その権力を執行する「メディア」にその責任感があるとは到底思えない。視聴率は重要だろう、スポンサー契約もなければ経営が成り立たない。しかし、それだけでは権力行使者ではなく、単なる娯楽企画推進企業、興行関係社でしかない。

第四の権力「情報」の健全な姿への変革の為には、放送法の改正と厳格化、電波権益改革などが必要不可欠だろう。

だが、その健全な方向に向かわせるエネルギーは、逆説的に言うと、そういった踊らされた視聴率を生み出さない、是々非々の健全な議論要求する国民が少しでも多くならなければならない。感覚的、感情的に踊らされ、妄信する空気によって世論を形成させない国民である必要がある。

その為には、教育は重要である。それも論理形成力の直結する理数系の力を育成する教育が。周りを見回しても、数学や科学などを不得手とする人が極めて多く、本人自覚していないだろうが、論理性を保てないのだ。

本当は、国語や社会等の文系科目も論理性が重要なのだが、学校教育では論理よりも記憶科目となっていて、本来の姿である、読解し、誤謬性なく表現したり、歴史の流れを読み解く等は、極めて論理的なのだが、記憶科目化する事で失われているとしか思えない。

第四の権力「情報」は、自国で制度整備をしないと、他国からの影響を受けやすい。それは、意図して他国から世論形成が出来、社会不安に陥れる事も可能という事になる。即ち、国防上の脆弱性にも繋がるのだから、それを防ぐ教育改革と情報制度改革はこの先の重要な国家課題なのだ。

女子プロテスト結果と今後

今年の女子プロテスト、正確に言うと昨年行う筈だったテストの代替として行われた今年のプロテスト前半戦が終了した。先日、注目として『白金台女子ゴルフ部』『DSPEプロジェクト』『三嘴門下生』などから挙げた中からは、僅か2人の合格に留まった。流石に狭き門、厳しい戦いであった。

何はともあれ、その中から見事合格を勝ち取った、植手桃子プロ、篠崎愛プロ、おめでとうございます。この先のレギュラーツアーでの活躍を心から期待し全力で応援致します。そして早速今週、資生堂レディスオープン(戸塚CC)に主催者推薦での出場決定、今回のプロテスト合格者22名中9名も参加、プロテストの調子を維持していれば予選通過、上位争いも期待できるだろう。頑張って欲しい。

プロテストの話に戻るが、最終テストの舞台、静ヒルズは難関コースだが、トップスコアが14アンダーとトンデモナイスコア、合格カットラインも4アンダーとレベルの高い戦いであった。

先に挙げた2人は最終日、合格ラインギリギリの状態で気が許せないスタートだったが、両名とも良い立ち上がりではなかった。植手選手は、2番、4番でボギーというボギー先行、篠崎選手は、更に悪く、1番、2番で連続ボギーとして、合格カットライン以下に一旦落ちている。本来であれば精神的にも追い込まれ、悪循環し兼ねない状況だが、篠崎選手は3番でバンスバック、4番も連続バーディーで振り出しに戻している。植手選手も7番、9番でバーディーとして前半で当日イーブンに戻している。これは、レギュラーツアーで戦う強さに繋がると感じているのは私だけではないだろう。

資生堂レディスでも頑張って欲しい。両名にとってレギュラーツアーは初めての経験でもなく、制度変更さえなければQTから臨むレベルの選手なので、プロテストの方がプレッシャーは大きかっただろうから伸び伸びと力を発揮して欲しい。

篠崎プロの豪快なショット、植手プロの安定感、この二人のプレースタイルは、両極と言ってもいいぐらい違うが、1ファンとして楽しみでならない。

さて、若干エピソードを紹介すると、篠崎愛選手はプロテスト直前にスイングの大幅改造を行っている。YouTubeのビフォーアフターを見れば明らかで、素人目に見ても大きく違う。しかし、普通はこの改造は大事な試合の直前に行えない。素人であってもスイング改造は一旦ボロボロになってからの再スタートになるのであり、プロテストの場で自信を持ってそのスイングをするまで仕上げるのは並大抵ではない。この偉業を成し遂げたのは、三嘴プロトの2人3脚の信頼関係なくしてあり得ないだろう。凄い事だと感動したし、必ずレギュラーツアーでの結果にも繋がるメンタリティだと確信している。

さあ、息つく間もなく今年の本来のプロテストが8月末から始まる。今回残念だった選手たちもリベンジを果たし狭き門をこじ開けるべく臨んでくれるだろう。

引き続き注目する選手を改めて挙げておきたい。

『白金台女子ゴルフ部』から、井上莉花、荒川侑奈、稲葉七海、佐久間夏美、楠本綾乃、岡田唯花、八巻聖良、江口紗代、山下美樹。『三嘴門下』から幡野夏生、瀬戸瑞希、瀬賀百花、今綾奈。『DSPEプロジェクト』からは、柴田香奈、小林瑞希、田邊美莉、平塚新夢、五月女栞雛、西山沙也香、立浦琴奈、鈴木絢賀、新真菜弥、諸西諭里、四村彩也香、須江唯加。

その中でも特に注目したいのが、井上莉花選手、豪快なショットはレギュラーツアーでも注目に値するプレーが期待できる。幡野夏生選手はキャラクターがプロとして魅力を発揮するだろう。瀬賀百花選手は絶対に曲げないショット力が魅力。諸西諭里選手は、何故最終テストで落選したのか不明な程の実力者。

ファンとしての楽しみは広がる。

ゼロリスク原理主義の浸透は社会壊滅を招く

日本人と欧米人の心理的比較分析として昔からよく言われていたのが、コップ半分の水をどの様に考えるかだった。欧米人は、『まだ半分もある』と未来に向けて積極的な姿勢で、半分の水を使いながらも増やしていこうとポジティブに考える。一方、日本人は、『もう半分しかない』と将来の不安を極大化させて、なんとかこの半分の水を守り抜こうと考え、ネガティブな思考に陥る。

この違いは本来的には一長一短あるのだ。『まだ半分もある』という思考回路は、当然の事ながら、大きなベネフィットを得る可能性もあるが、リスクも伴う。アメリカンドリームの世界でもあり、社会は大きく発展するだろうが、格差も拡大するかもしれない。『もう半分しかない』の場合は、大きな失敗はないだろうが、大きな成功も期待できない。

しかし、バランスが取れた状態であれば一長一短で片づけられるが、極端な場合は大きな弊害を生む。例えば、『もうコップの水が1%減ってしまって先が不安だ』となると、これでは身動きできず、社会停滞に繋がる。ゼロリスク原理主義により弊害なのだ。

<確認した1事案は木、統計データによる確率は森>

このゼロリスク原理主義とでも言うべき論理と、前向きな現実策との典型的な衝突が『ABEMA-NEWS 2021/06/17』で繰り広げられていた。

この番組の中で、木村盛世女子は、新型コロナの感染データを元に、若者と高齢者の重症化リスクに大きな違いがある事を示し、重症化リスクの低い若者の行動制限、自粛を殊更強化する事に異を唱えていた。つまり、リスクの高い層に対して対策を集中する事で、重症化や不幸に至る事案を最小化出来るとの主張だ。

これに対して、宇佐美典也氏は、若者でも重症化リスクはゼロではなく、自身の周辺でも実際に若者が苦しむ姿を見ていると言い、確率論で語るのは間違いだと言う。

これは、典型的なゼロリスク原理主義とでも言うべき、騙しのテクニックなのだ。つまり、確率で例えば100万人に1人の確率であろうとも、その1人、当事者にとってみれば、100%なのである。人は、他人事であれば確率が高くても、それ程恐れないが、自身が当事者になれば、その時点で100%であり、事実として突き付けられる恐怖は100%なのだ。それが家族であっても当事者であろうし、身近な恐怖となる。有名人がその対象になったら、赤の他人が対象になるよりも当事者意識の度合いは高まる。昨年の志村けんさんの不幸は多くの国民に新型コロナの恐怖心を植え付けた。赤の他人だったら、あれほどの恐怖は無かったのだ。

この様に、確率に関係なく、当事者度合い、当事者との距離感で恐怖の度合いは変化する。この法則に則り、若者でも重症化する、重症化した若者を実際に見た、だから貴方も重症化する可能性があると脅せば恐怖は実際の確率以上に高まるのだ。

しかし、実際の政策を打つために必要なのは、この100%の当事者目線ではなく、マクロの確率論でリスクを評価し、政策の強弱、方向性を検討する事なのだ。

この様な単純で当たり前の事は言われなくとも分かっていると言うかもしれないが、メディアの報道は殆ど、この論調に終始し、宇佐美氏も何の疑いもなく強弁されているのだ。恐ろしい世の中だ。

井戸端会議で、『・・・とみんなが言っている』という話法が用いられるが、この場合のみんなは、多くの場合単数形だったりする。1人から聞いた事をみんなから聞いたと言い放てるのだ。身の周りの誰々が、若くても重症化したからといって、みんなにリスクがあると言うのは、この論調と同様に言い過ぎなのだ。あくまでデータで示された確率論が前提になる事を忘れてはならない。

弱者を切り捨てるのか、と言う反論も筋違いだ。一人も犠牲者を出さない、というのは聞こえがいいが、その結果多数の被害者を生むのである。犠牲者も被害者も最小限に抑えるために打つ策は、確率とバランスで語らねばならない。

<反対勢力の行動パターン>

経営に携わり、組織の問題に対峙し乗り越えた経験のある方であれば納得して頂けるだろうが、組織の問題の大部分は部分最適思考が元凶となる。全体最適思考による最適策は誰の目から見ても明確であっても、個々の部分最適ではなく、個々に苦労も強いられ、不利益になる事も少なくないので抵抗勢力と化すのだ。その場合の抵抗勢力は、決して自己の利益追求と表向きは言わず、大体の場合は、『できない』『現実的でない』ともっともらしく否定するのだ。

日本がさざ波の新型コロナ感染状況で医療逼迫が発生し、一向に医療体制強化、医療資源適正配分が進まない原因がここにある。

分かり易い討論が上記と同様の番組で繰り広げられていた。木村盛世女子は、前向きに医療逼迫を起こさない為に、患者の広域間搬送を提案していた。日本の重症病床数は4200床あり、その内1200しか使われていないので、オールジャパンの対応を提案したのだ。方法として示されたのは、ICU搭載の自衛隊ヘリによる搬送だ。

それに対して、宇佐美典也氏は、受け入れ側の病院に強制できない。机上の空論であり、出来ない事だと言っていた。しかし、その論法こそが部分最適の抵抗勢力のものに他ならない。その結果として、飲食店含め多くの国民に強制力のない自粛と言う名の要請を繰り返しているのであり、病院にだけ同様の要請が出来ない論理にならない。

百歩譲って、何らかの本当に出来ない理由があるのなら、その事を国民に、医療側が強化対応できない事を頭を下げて論理的に説明し、納得を得る努力が最低限必要では無いだろうか。ところが、日本医師会長や東京都医師会長など、記者会見では上から目線で国民の緩みを攻める様な論調を繰り返してきているではないか。しかも自分達はパーティを開催しながらなので、本当に出来ない理由があるとは誰にも思えない。

では、実際はどうなのかというと、実は一部の首長から、他県の患者受け入れに対しても前向きな姿勢が示された事もある。本気で、政府が号令をかけて、自衛隊の出動も辞さない姿勢を見せれば、少なからず対応する病院も出てくるのではないだろうか。それぐらい医師会が旗振っても罰が当たらないだろう。

ワクチンの場合も、菅首相が1日100万回と言った時、メディアは挙って出来もしない、出来る訳が無いと批判した。更に医師会の抵抗を受けても、自衛隊を出動させ、超法規的措置で歯科医などに展開し、職域接種まで拡大の手を次から次へと打って出た。いつまでも抵抗を続けていたら、存在価値を失うだけだろう。

<医療崩壊抑止の具体策整理>

1年以上、この状態を経験し、医療崩壊を防ぐ方法論はほぼ見えてきている。出来ない事ではなく、やる気になれば出来る方法として見えてきているのだ。簡単に整理すると

  • 町医者の体制で患者の早期ケアを強化する

尼崎の長尾医師の成功事例を水平展開すれば良く、制度面の後押しとしては、リモート診療を導入し効率化を図れば良い。

  • 重症化した患者は、オールジャパン病床の受け入れ態勢で広域搬送も辞さない

患者を受け入れた際の手当の充実は必要だろうが、既に相当レベルの法的措置は為されているはずだ。後は、号令次第だが、本来的には政府が号令をかける前に、医師会が音頭を取るべきだろうし、その方が将来の軋轢は少なくて済む。

  • 専用治療センター建設、強制的に医療スタッフを柔軟に配置

前項と競合する部分もあるが、所謂あの手、この手である。大阪府で同様のセンター設立の際、人材に関して結局自衛隊の支援を得たが、本来なら医師会が音頭を取るべきだろう。

実は、こんな簡単な事も出来ずに、既得権益を死守する意識で内乱状態になってしまっては、外から見ると、国家としての脆弱性を露呈している事になる。それはそうだろう、この国を攻めるのに武力は不要で、メディアに対しての情報操作に極めて弱く、多くの既得権益組織、特に学術団体系を攻め落とせば、易々と混乱状態に陥れる事が出来ると示しているのだ。

これに対抗する唯一の方法は、全体最適思考での政策が適切に打てる姿、岩盤既得権益構造を一つ一つ打破していく事だろう。まずは、医療体制の事業継続計画を確立する事が急務なのだ。

プレーブックを国内メディアも実行すればいかが?

東京五輪のプレーブック第3版が発行された。

IFJ(国際ジャーナリスト連盟)がGPSでの行動管理などをプライバシー完全無視、報道の自由を制限すると非難声明を出した。日本国内メディアに行動制限が課されていない事に不公平感を示し、公平性を保つべきとの意見も含まれている。

一方で、日本のメディアは、未だ連日連夜、この程度のルールでは甘すぎる、リスクが高すぎると非難をやめない。

この構造を冷静かつ客観的に見れば、自分には甘く、人の行動には厳しく、本質的な協力よりも、利己主義で排他的な主張と感じざるを得ない。やはり、スポーツなどイベント開催時に限らず、感染拡大の最大リスクは、メディアの報道姿勢であり、当事者の行動、人流等はそれなりに対策実行が可能だと再認識させられた。

<感染抑止に取り組んできた証、プレーブック>

そもそも、プレーブックの初版は、今年の2月にリリースされ、4月の第2版を経ての今回が3版目である。内容は、選手やマスコミなど関係者の行動ルールを定め、安全安心な大会運営を目指すものであり、当然各所からの建設的な意見、改善要望などを受け入れ、レベルアップするべく改版を繰り返してきた。

ところが、日本のメディアは、どうやって感染抑止するのか分からない、説明が欲しいと、あたかもプレーブックの存在を無視する様に言い続け、多くの国民は何のルールの検討もなく強行しようとしていると勘違いさせられていた。多くのSNSや書き込みが、説明が無いと叫んでいるのが、その事を証明している。

説明して欲しい、と言い続けながら、知ろうともしない。各所で筆者も『プレーブックをお読みください』『その上で問題を感じれば具体的に提案しましょう』『多くの意見を取り入れてレベルアップを図りましょう』と言い続けてきたが、聞く耳を持つ人は殆どいなかった。メディアのプレーブック抹殺報道、報道しない自由の成果であろう。

<国語の読解力が民主主義を支える>

反対をするのは自由だ。個々人で考え方が異なるのは当然の事だからだ。しかし、反対するなら最低限真実の情報と向き合った上である必要がある。聞く耳を持たず、感情的に脊髄反射のヒステリック反応を繰り返すのでは、決して建設的な前進は望めない。自分自身が世の中の絶対正義で、異なる意見は絶対悪だと言うのは原理主義に他ならず、排他的破壊活動に向かうリスクが高い。まずは、相手の話に耳を傾ける事が最低限、その上で不都合な事実からも目を背けず、論理的に対話する事が議論の入り口である。全否定されたら議論出来なくなる、ましてや事実を否定されては、もう何もできない。

政治家が国会などで異論を全否定し、攻撃をやめない様に見えるのは、ある意味パフォーマンスの面もあり、現実的に政治を前に進めるためには、折り合えるところも探っているのが現実なのだ。その点は社会でビジネス交渉やネゴシエーションを日常的に行っている人間であれば当たり前だろうが、経験の無い人には理解できないのかもしれない。見えている部分だけで妄信し、他を全否定する事を一般人が真似し始めると、その行きつく先は全体主義であり、民主主義は崩壊する。

健全な議論ができる民主体制の為に、予てから推奨しているが、多くの人が文章を読む事だ。決して、単語や文節を切り取って曲解しない様に、しっかりと文章を読むことだ。SNS等での批判コメントの多くは、単語や文節切り取りでの誤解、悪くい言えば言いがかりである。

もっと酷いのは、あの人はこう言った!という言いがかり。本当にその人が言ったのか確認もせず、あの人がこう言ったとテレビで言っていた、だけなのに信じ切る。立ち返って、本当にそう言ったのか、前後の脈略はどうなっているのか、最低限確認するべきなのだ。筆者の経験では、かなりの確率で真逆の意味の事を言っている場合が多い。

日本語は難しい。文末で意味が真逆になるし、背景によっても真意は異なってくる。学生時代に経験あるだろう、国語の問題、この言葉に込めた筆者の想いを述べよ、この問題を解く事が重要であり、基本中の基本なのだ。

<報道姿勢の問題、名誉挽回のチャンス>

メディアも各社、様々な思想信条があって然るべきだろうが、前述の様な誤誘導を発生させている責任を感じる必要があるだろう。特に、平日の朝から昼のモーニングショー、ワイドショーの類だ。好き勝手、言いたい放題の偏向報道により、情弱者を大量生産している。放送法第4条に定める、政治的公平性、事実の報道、対案と論点の提示が全くなく、違法性すら感じる酷さだ。

その点、まだBSの一部やネットメディアの方が対案提示型の討論も多く発信されているが、いかんせん発信先の少なさは否めず、浸透力は充分ではない。

現在、地上波系メディアの多くは自己矛盾を抱えつつある。所謂ブーメランだが、素知らぬ顔での掌返しすら始まっている。しかし、既に大量生産された読解力の無い情弱者は、何の不思議も感じず、流されていくのかもしれない。何事もなかったかのように、忘れ去るかもしれない。しかし、それは国家としての大きな損失でありリスクであろうし、国民の幸福にも結びつかない。

先日のワイドショーでの出来事だが、出演する専門家、日本医科大学特任教授の北村教授が『もう最後の感染対策として各メディアの五輪放送をやめたらいかがですか』と言う趣旨の発言をされたとの事。その場でMCである恵氏は反応が出来ず凍り付いた。今までも、イレギュラーバウンドや異論に対しては反応せず、スルーを繰り返す恵氏だったがこの時も全く同じスルー。しかし、メディアが取るべき本当の行動を本質的に示している提示だっただろう。この提示に対応できないと言う時点で、自己矛盾、無責任な一方的な言いっぱなしの誹りを免れないだろう。

今回、IFJの抗議は、日本の報道機関にとって、名誉挽回、自己矛盾解消の数少ないチャンスである。

そう、海外メディアと同じ行動規制の元、ルールを守った行動をする事。

論理的には、海外からの入国者に対するバブルと言う名の隔離措置と国内の移動は全く異なる。しかし、自ら危機を煽り続けた人流によるリスクを低減する為には、少なからず有効なはずだ。国内メディアの取材対応者も、海外と同様に行動計画の事前登録制、GPSによる行動規制、公共交通の不使用などを実行すると、宣言すれば良いだけだ。政府や組織委員会がどうとか関係ない、自分達の業界の規制として行えば良い。違反に対する罰則は国外退去とはいかないだろうが、メディア活動の一時停止で良いのではないだろうか。

西浦教授予言vs高橋教授予測

8割おじさんと言う異名を持つ西浦教授が第5波感染拡大による緊急事態宣言が必要な事態が発生しうると下記の様な予言を発表した。

「8月に宣言相当の流行」21日解除なら、西浦教授試算

この発表によると東京都の重症者数が7月から増加し始め、9月頃にピークで1700人程になると言う地獄絵図だ。東京都の1日の感染者数の過去最高が2520人(1月初)、重症者数の過去最高が160人(1月中)なので、想像を絶する数字なのだ。東京都の重症者基準が異なるとしても桁違いである事は間違いない。

一方で、さざ波発言で物議を醸した高橋教授も予測を自身のYouTubeの中で公表されている。同時期の予測なのだが、感染はかなりのレベルで減少していると言う事を語っているのだ。

ちなみに、両教授の予言と予測は数理モデルによるものであり、それは感染症などの医療的専門知識は必要とせず、簡単な数学(と言っても微分方程式が解ける程度)の知識があれば試算は可能だ。そこに与えるパラメータは過去の統計データや仮説設定によって定められるのだが、その仮説設定の違いで、天と地程異なる結果が導かれているのだ。

では、それぞれのパラメータ設定の基礎条件はどう違うのか。

西浦教授の場合は、大阪で発生した変異株影響による感染爆発と同じ状況が東京で起こる事が前提になっている。簡単に言えば『1か月後は大阪になる』というどこかで聞いたニュアンスだ。『2週間後はニューヨークになる』『何もしなければ42万人死ぬ』と同じであり、とても科学的考察による仮説設定とは思えない。3回目の緊急事態宣言発出時も確か『東京都は大阪と同じ状況になる可能性があるので様子を見たい』と尾身氏が言っていた事も記憶に新しい。今回も同様に、余りにも根拠不明の仮説として、私の表題では、予言と表現させて頂いた。

高橋教授の方は、諸外国の1年間の感染データとワクチン接種後のデータ変化を用いて、今後の日本のワクチン接種条件を1日60万回と低めに設定しての予測との事だ。当たる当たらないは結果が出てみないと分からないし、未来の事を100%的中できる訳ではないが、筆者には、こちらは科学的妥当性、少なくとも統計数字としては妥当な基準による予測であると考えている。

この結果は、速ければ1か月後、遅くとも2か月後には明らかになる。結果が出たらどういう反響になるのだろう。ここまで外し続けても、予言し続けて、しかもメディアも指摘せず、壊れたレコードの様に繰り返され、未だに多くの人が信じて恐れている状況から見ると、どんな結果が出ようとも何も変わらず、相変わらず煽り報道は止まないのかもしれない。しかしながら、いい加減多くの国民が気付くべきではないのか。

<リスク管理とは予測に基づく必要がある>

危機管理の基本は想定される最大の危機に対して、まずは大きく対処し、状況を確認しながら徐々に適正な規模に対策を緩めていく、それが基本だと実しやかに言われていた。これは、絶対に間違いであり、危機管理とリスク管理を混同し、基本が理解できていない誤認識である。

そもそも、危機管理とは実際に発生している危機に対処するのが前提で、発生もしていない予言に対処など出来ない。一方、リスク管理とは、将来発生しうるリスクを評価し、ゼロ化するのではなく、許容範囲にリスクを低減させる策を打つ事である。従って、予測がなければリスク管理は出来ず、リスク評価とは、その発生リスクの確率と発生した場合のダメージの積で表現される。従って、リスク管理上の低減策は、確率を下げる方法と、ダメージを縮小する方法がある。そして、低減策は必ず負の効果(費用や副作用など)も発生するので、負の要素とリスク低減のバランスで対策の検討が行われなければならない。

巷の論を元にすれば、西浦教授の予言が最大の危機であり、それに備えるために緊急事態宣言は永遠に解除するべきでないと言う論理に辿り着いてしまうのだ。これでは、ゼロリスク教としか言い様がない。何故なら、リスクとしての科学的妥当性が担保されない予言は、発生確率が極めて低いからであり、積としてのリスク評価値も低くなり、緊急事態宣言による負の影響とのバランスが取れないからだ。

<筆者も予測に参戦>

さて、実は筆者も予測を僭越ながらしてみたい。筆者は同様の数理モデルではなく、もっとマクロ的な予測を行う。それは、充分にマクロ的分析が可能なデータが揃っていると考えているからだ。

筆者は、1年以上新型コロナの感染データを厚生労働省等より取得し、独自にシミュレーションを続け、インフルエンザなどの感染データとの比較も行ってきた。結果として、感染対策や緊急事態宣言等の要素を無視しても良い様な、感染サイクルの季節性や規則性、一定期間でのピークアウトする傾向など仮説設定が可能と考えている。

感染のピーク発生時期は奇しくも、人の自然免役の弱る時期、つまり冬季や季節の変わり目、夏季で体力低下時期などに感染が起きやすい。但し、温湿度が上昇しウイルスの活性度が落ちる春から夏は本来重症化度合いは低下するはず、だが残念ながら、大切なGW時期に巣ごもりをして、紫外線を充分量浴びることなく自然免役に重要なビタミンDが減少して、自然免役が落ちてしまった要素もある。

そうすると、今年も昨年と同様、8月頃にピークとなる感染波が生じると考えられるのだ。問題はピーク値だ。

昨年の8月のピークは東京都で、1日の感染者数で500人弱、重症者数で最大40人弱、その時の検査数が1日5000程度であった。

現在の検査は1日10000以上普通に実施しているので、感染者数もおよそ倍に増えてもおかしくないだろうが、ワクチンの効果も出始める頃であり、感染者数は500~700人程度の感染は起きても不思議でない。しかし、ワクチンの効果は寧ろ重症化を減少させる筈だ。その時点で70%の高齢者へのワクチン接種が完了していたとすると、そのまま40~60人の70%減、12~18人程度に収まるのではないだろうか。

まさか、これで医療崩壊は起き様が無いと思うのだが。

いや、変異株は怖い、感染力が2倍だ、と言っても、重症者40人まで行かないのだ。冷静になって欲しい。

どの予測、予言が実現するのか、それは神のみぞ知る領域である。しかし、西浦モデルは過去の的中精度ゼロだが、高橋教授の予測は過去のピークを当てている様だ。オッズとしては当然高橋教授の人気が高くなるはずだ。

世の中のデータや現実を見ない予言が跋扈しているのが異常なのだ。

<ついでの周辺社会状況の予測>

東京五輪は開催され、日本選手は活躍し、過去最高のメダル獲得もあり得るだろう。多くの国民は日本選手の活躍に盛り上がり、活況が生まれる。その時に、前述の予言と予測、どちらが実現するかによる政治局面などを筆者の個人的意見として妄想してみる。

まず、西浦教授モデルが実現した場合は、五輪が諸悪の根源だと、メディア、野党が挙って攻撃し、与党の支持率は徹底的に落ちるだろう。結果として、秋の衆議院選挙で与党は議席数を大幅に失う可能性が高い。しかし、立憲、共産など批判し続けた勢力の議席数がそれ程伸びるとは思えない。即ち、第三勢力に票が流れるのではないだろうか。戦い方を間違えなければ、維新勢力や国民民主の躍進の可能性が高い。その力が無ければ、結局、史上最低の投票率で与党が勝利する。

また、高橋教授予測が実現した場合は、五輪のメダルラッシュは、不公平大会の証で、史上最低の五輪と揶揄する勢力が現れるだろう。攻撃する要素がそれ以外になくなるからだ。確かに、不公平の要素があるかもしれないが、スポーツの世界、基本はホームタウンが有利になるのは自然の摂理。その影響と、コロナの影響を論理的に区分できる筈もなく、言いがかり以外の何物でもないが、それでも立憲、共産系はそう動くだろう。

しかし、それで票が獲得できるほど日本人はバカではないと思う。結果、現与党が勢力維持近くの議席数を獲得するだろう。立憲の野党第一党の票が逃げる先が、やはり第三勢力ではないだろうか。

予測できない不確定要素が、日本医師会も含めた、医療従事者480万人の票がどこに行くのか?これは全く予測ができない。

そしてメディがどう立ち回るのか?それ次第で、若者の地上波離れが加速し、レジームチェンジが起こるかもしれない。

日本ゴルフツアー選手権観戦記

6月5日土曜日、日本ゴルフツアー選手権(宍戸ヒルズカントリークラブ西コース)の3日目を家族で観戦に訪れた。

久しぶりの有観客、それでも人数制限を行い、入場前に抗原検査を実施、陰性判定と問診アンケート、検温でクリアした者のみ入場という厳格なルールに基づいた観戦だった。そのお陰もあって、観客は相当少なくガラガラだった。それでも石川遼選手を取り巻くギャラリーは、密であったのは驚くべき事だろう。

スタートホールで暫く各組スタートを見学しつつ、最初に付いたのが阿久津未来也選手。YouTubeで白金台女子ゴルフ部のMC会社員みなみのレベルアップ、部員打倒のラウンドレッスンを行っていた選手だ。3番ショートの右ラフからのアプローチは、あの深いラフで近いピンにどうやって打つのか興味津々で見ていたが、思いっきりフェースを開いて柔らかい球を打ったのは参考にすべきだった。それでも止まらず、惜しくもボギーだったが。同組の坂本選手も含めて、この組はイケメン揃いだった(笑)

次に3番、4番で各組を見送りつつ、朝一番で出た石川遼選手を10番グリーンで出迎え、後半付いて行く予定だったが、あまりにも局所的集中、密状態に断念。どうしても一度見たかったアマチュアの杉原大河選手のショットを見に行った。小柄ながら、他選手と比較しても思いっきりの良いスウィングで打球の初速が違っていた。やはり、楽しみな選手だ。

昼食後、本日の本命、源ちゃんこと選手会長時松選手を追いかけた。MIZUNOファミリーである我が家の注目選手、見かけによらない人柄に好感を持ちファンとなった。12番で追いつきそこからのプレーだったが、そこまででToday3アンダーのイーブンと伸ばしていて思わず力が入った。但し、引っかけ気味のミスを多発させ、スコアを落とし2オーバー(Today1アンダー)まで落としてしまった。

その状態でも、同組の小池選手の帯同キャディとの談笑や、同組の他選手に対する配慮など、見ていて本当に人柄の良さを実感できるプレーだった。写真は、ホールアウト後お声がけし写真撮らせて欲しいとお願いしたものだ。トッププレーヤーがファンの撮影に直立不動なんて、源ちゃん以外では考えられないだろう。思わず、家族で可愛い、と言ってしまった。益々ファンとして応援したくなった日であった。

最後仕上げは、最終18番のセカンド地点とグリーン周りを往復しながら、各選手を迎え入れた。18番のピン位置は無茶苦茶難しい、左に切ってあったが、各選手デッドに攻めてきたのは見応えがあった。

1日を通じて、我が家のゴルフ力向上にも大きく寄与する内容だった。昔は、男子のトーナメントは、規格外過ぎてアマでは参考に出来ず、シニアか女子ツアーが良いと思っていた。しかし、今回は男子プロの打球、飛距離と正確性、アプローチ、パッティングなど数々の参考に出来るプレーが多かったと感じている。飛距離に関しても、単に規格外とは感じず、差はあれども、ミスもする、攻めているばかりでもないプレーに、このレベルでも我慢するところはしていると痛感。そして、なんといってもアドレスに入るルーティンから学ぶべき者は多々あった、収穫多き観戦であった。

最後に、宍戸ヒルズカントリーは、フェアウエイ以外は地獄の様だった。ギャラリーが歩ける観戦可能ルートは山あり谷あり、ぬかるんだ地面で私で1日17000歩。相当タフなコースだった。久しぶりに疲れた。皆さん、プレーされる際は、フェアウエイ必須です!