パンデミック収束までの振り返りと戦後処理の必要性

新型コロナがゴールデンウィーク明けにようやく感染症法上の5類に移行されることが決まった。本当にようやくだ。3年は長かった。

なぜ、GW明けなのだ?という疑問や批判もあるが、それでもようやく正常化に向かう政治決断には素直に安堵の気持ちを示したい。それでも最後のあがきの様に抵抗を示す人々、最後っ屁を国民に向けて発信する医療従事者も少なくない。私には、既得権益者による構造改革に対する抵抗とその周辺の思考停止して指示待ちする大衆に見えて仕方がない。これはある意味で専制体制に他ならないのではないだろうか、その危険性を理解するべきだろう。

3年を振り返ってみよう。

まだ新型コロナが未知の脅威であった当初、ダイヤモンドプリンセス号の乗客である感染者の入国を受け入れるか否かで大きな政治決断が迫られた。法治国家として、入国規制の法的根拠を明確にするために感染症法を改正し2類相当に分類したと考えている。

その場の雰囲気や勢いで、超法規的決断をするのではなく、あくまで法治国家として。

つまり感染症が未知であり、リスクとしては強毒性の疑いを捨てきれずに採った判断であり、この時点での政治判断は間違っていないだろう。

しかし当該豪華客船の感染者に対応した結果、実は日本の専門家はある程度のレベルでこの感染症を把握している。その結果として、ゼロコロナではなくWithコロナを前提に、感染対策として『3密』を提唱した。この『3密』を挙げたという事は、エアロゾルという名称で一般人には話を難しくしたが、要は空気感染リスクを元に換気の必要性まで訴えている。

そして豪華客船に乗り込んだ自衛隊員は感染していないが、同様の装備をしていても厚労省職員は感染した事実がある。この事は、感染抑止装備をしたとしても、日頃から訓練を受けた運用を確実に実行しない限り、有効性に欠ける事が示されたと考えるべきだろう。

当然だろう、例えばマスク一つとっても、折角マスクをしてウイルス吸引を一旦防いだとしても、そのウイルスが付着しているマスク表面を触った手を介してウイルスは体内に侵入する。マスクの装着に隙間があってもそこからウイルスが吸引される。この双方を同時に防ぐためには、厳格に装着したマスクを着用中は触ってはならないのだが、非訓練者が長時間装着すれば表面に触るか、触らなければ装着がズレるのは自明だからだ。

その様な当たり前の常識を棚上げして、スーパーコンピューター富岳での飛沫飛散シミュレーションにあたかも科学的意味があるかのように、飛沫飛散抑止を目的化してしまった。

飛沫飛散抑止であれば、咳エチケットで実現できる。いやそれ以前に有症状者の外出、行動を控える健康管理徹底が本質的には最も効果的である。無症状者からの感染リスクを殊更極大化する傾向があるが、無症状者はその名の通り咳はしないのだから飛沫飛散量は元々少ないのでリスクは低い事は理解できるだろう。

それなのに、なぜかマスクが伝家の宝刀として重用されて現在に至り、いまだ思考停止した声が大きい。デンマークで行われたRCT(ランダム化比較試験)ではマスク着用有無と感染に因果関係はない事を示し、これはエビデンスレベル1と医学的エビデンスのトップの信用度が高い実験論文であるのだが、都合の悪い情報は全く見えないのだろう。

<社会不安を煽るインフォデミック>

そして日本の臨床医療は、PCR検査など殆ど行われていなかった時でも、この感染症の特徴を見抜き、CTにて確定診断を可能にし、世界有数の肺疾患治療ノウハウで被害を最小化する臨床成績を誇っていた。

しかるに、メディアは『PCR検査が出来ないから感染者の実態が分かっていない、全員検査が必要だ』『明日はニューヨークになる』『死者数も隠蔽されていて実態が分かっていない』と科学的な裏付けや統計数字的なマクロ分析も全くなく、不安を煽り続けた。

その結果が、『PCR検査の体制強化、無料化』『様々な行動制限』『直接死因でなくとも死者のPCR検査で陽性であればコロナ死とする定義で運用』と政治が民主主義はゆえに大衆迎合的世論に押し流される政治判断が繰り返された。

陽性と感染の違いすら理解しない大衆が、初年度の春には、この様な風潮をつくりあげたのだ。まさにインフォデミックに陥ってしまった。

その様な状況下で医療体制は、50%に満たない病床使用率でも逼迫だと煽り続けた。どこの世界に、投入したリソースの50%程度の使用状況で逼迫という業界があるのか不思議で仕方がなかったが、その様な疑問を挟む声は極めて少なく、声を上げれば非論理的な感情論の誹謗中傷が鳴りやまなかった。

メディア報道では、ある病院の病床が100%埋まった事態を映し出し、逼迫だと言っていたが、逆に考えると全体が50%の使用率ならば、当然ながら0%に近い病院も存在しなければ数字の辻褄が合わない事を誰も指摘しなかった。

誤解を恐れずに言わせて頂くと、リソ-ス使用率50%程度の民間事業であれば、リソースの追加投下ではなく、削減を企てる数字なのだが、なぜか医療現場は逼迫と言い続けた。しかし、最近の監査報告で医療法人の経営が大幅改善し、補助金不正受給の疑惑の可能性まで噂され始めた。それでも『国民がツケを払え』という主旨の暴言にも感じる発言をする頻繁にメディア出演する医療従事者まで存在するのが現実だ。

結局、逼迫ではなく、リソース再配分の柔軟性に欠けていたのが最大の問題であろう。医療現場は人も含めて流動性が持てないとの批判がありそうだが、一般企業での事業継続時のリソース再配分も同様で、そんなに簡単ではない課題に取り組んできている。医療業界だけ事業継続的思考回路が全く欠落しているのに許されているのはなぜだろう。むしろ事業継続対応は他より必要な業界のはずだ。

<パンデミックを終わらせる条件>

新型コロナパンデミック収束の鍵はワクチンと治療薬だと言われ続けて来た。

しかし治療薬は、風邪コロナウイルス感染症の治療薬すら世の中に存在しない状況なのに、新たに開発できると考えるのは無理がある。あくまで初期は症状を抑える対症療法であり、これは風邪と全く同じ、中等症以上の肺疾患に対しては日本の進んだ臨床医療で対応するのが基本。つまり余程の強毒性を有するか、肺疾患以外の疾病につながる場合を除いて、治療薬に期待するのは筋違いに感じる。

ではワクチンはどうだろう。実際に今までのワクチンは開発や治験に相当な時間を要し、数年後の実用化が精々だと言われていたが、mRNAやウイルスベクターと言われる新たな方式での開発が短期間で実現させ、当時の米大統領トランプ氏の強権により、早期市場投入となった。

新たな方式故の未知のリスク、治験・長期の安全確認が充分でない等のリスクは当初叫ばれていたが、ウイルス感染症が未知で欧米での初期被害が甚大であった事から、ワクチン接種のリスクは少々目をつむってでも感染リスクを抑える判断がなされて、ワクチン接種が進んだ。

この判断に問題は無いだろう。全てのリスク、ベネフットの比較評価によるからだ。

問題は、接種を進めるために行われた事実上の情報統制なのだ。情報空間ではワクチンリスクを語る情報の規制が行われ、ワクチン接種のリスク情報提示も充分ではなかったと言わざるを得ないのだ。こうしてワクチン接種は個人判断と言いながら、半強制的な風潮を産み出した。

更に情報の歪みは接種後のリスク顕在化、死亡発生に関しても同様であった。具体的には、リスクをアレルギー反応に矮小化し、他のリスクを明確に伝えなかったがゆえ、後遺症の疑いなどで苦しむ人にスポットが当たらなかった。

また、死因として特定されないものはワクチン死とカウントされなかったのも同様だ。死因を特定する事自体相当困難だと容易に想定できるのだが、それは死因不明であり、ワクチンとの因果関係を否定するものではない。いやむしろ状況証拠的には因果関係を疑うべきだろう。それは接種後の死に至るまでの期間が不自然な偏りを示しているのだ。

これは前述したコロナ死の定義と根本的に思想が異なっている事はお分かりだろうか。リスクを公平に比較するなら同様の基準で比較するのが当然なのだが。

そして忘れてはならない違いは、新型コロナ感染のリスクは、個人の生活改善などで自己免疫力を強化してリスク低減できる余地が大きい事だ。個々人のリスク要因の大小に応じて、個々人の対策で相当レベルのコントロールが可能なのだ。一方ワクチン接種の場合、リスクはそのまま個人で享受することになり、コントロールの要素が無い。

この様な情報が偏向した環境で半強制的に施策として進めて来たワクチン接種なのだから、せめて被害発生に対して明確にワクチンが原因でないと特定できない限り、一定の政府補償を検討すべきと考えるのは筆者だけだろうか。

予算など既得権益者を肥えさせた補助金の不正をいくつか暴き、回収するだけで充分な費用は賄えるのではないだろうか。

過去の事実は決して消せないが、その事実を直視し、反省する戦後処理が、今後の為にも、必要不可欠であろう。

またもや危機管理とリスク管理の誤解が・・・

中国でゼロコロナ政策から大転換した後のコロナ感染拡大に対して諸外国が入国規制などを強化し、それに呼応するかのように岸田政権の入国時検査強化政策が打ち出されている。

この事に対して、保守系論客を中心に岸田政権の政策の中途半端さ、手ぬるさを批判する声が高まっている。その論旨は入国規制の強化をするべき、危機管理の基本として厳しく措置をして、状況を見ながら大丈夫そうだったらその時点で少しずつ緩めるべきだとの主張である。

以前も強調したが、この主張は根本的に間違っている。それは危機管理の本質、リスク管理との違いを全く理解していないと言わざるを得ないからだ。

間違えないで頂きたいのは、決して岸田政権の政策を擁護している訳では無く、全く本質を外しているというのが素直な感覚なのだが、批判の方向性も全く筋違いであり、あくまで是税比で違うと言いたいのだ。

<危機管理とリスク管理>

まず基本から話す。危機管理とは実際に発生している危機事態に対して、その被害を最小限にするための対応であり、そのマネジメントである。

つまり実際に危機事態が発生しているから危機管理が必要になるのであり、危機事態が発生していない状態での未然予防を危機管理とは言わない。従って、実際に発生している危機事態を現実のものとして、その波及範囲を正確に把握する所から始まる。波及範囲は、可能性を否定できなければ除外することなく波及範囲の可能性として考えるのが普通である。そして徐々に波及範囲を狭めていきながら被害を抑えていくのだ。

間違えてはならないのは、波及範囲とは被害の範囲なのである。もちろん、危機事態において全ての被害が把握できている訳では無く、その波及範囲の特定に骨を折るのは当然だが、それでも被害も起きていない範囲をカバーする訳では無いのであり、リスクを最大限に考慮するのとは根本的に意味が違う。

一方でリスク管理とは、想定されるリスクをリスク発生時の被害規模と発生確率を事前にそれぞれ評価し、その乗数でスコアリングされるリスク値を受容できる値に低減させるための取り組みである。

リスクスコアの時点で、最大のリスクという概念ではなく、客観的に評価されるリスク値を前提としなければならず、リスクを訳もなく最大化する考え方は根本的におかしい。それでは即ちゼロリスク思考に他ならないのである。

保守系論客の危機管理思考は、危機も発生していない状態で危機管理と言い、本質的にリスク管理を語るべき状況にもかかわらず、危機管理の波及範囲最大化を誤用している。

この誤用の基本要因は、対中国の姿勢として、厳しく当たるべきとの思考回路を基礎にした発想なのだろう。その発想自体に異論はない、いや寧ろその姿勢は重要だろうが、だからといって危機管理の誤用が容認される訳では無いのだ。

<中国でのコロナ大流行をリスク管理で考える>

今の中国の状況は、長く続けていたゼロコロナ政策の大転換の影響で感染爆発が顕在化している状況であろう。

この時点で日本に危機事態が発生している訳では決してないが、リスクとしては想定する必要がある。それは中国で感染爆発中のウイルスの日本への流入による影響である。

中国で流行中のウイルスが日本と同じオミクロン株であれば、流入しても何ら問題はない。それは発生被害が既に日本国内で流行している状態から何ら変化は無いからだ。

オミクロンから更に変異した新しい変異株だったとすれば、かなりの確率で弱毒化していると考えるのが通常であろう。それがウイルスの通常の性向だからだ。確かに強毒化した変異株の可能性がゼロとは言えないが、この確率は極めて低いと考えるべきなので、リスク値としては低くなる。この場合も日本側のリスクはそれほど大仰に考えるべきではない。

唯一リスクとして想定すべきなのは、COVID-19ではなくCOVID-22とも言うべき新たなウイルス性感染症であった場合だ。この場合は、人が免疫を持たず強毒性を有する可能性が高まる。

そうやって考えると、真っ先に日本の立場でリスク管理として行うべきは、中国で流行中のウイルスの解析を行う事でリスク値を明確化することなのだ。

確かに中国政府の公式発表はプロパガンダとして信頼できないのは当然だろう。中国での感染状況や死亡率などの情報も、ゼロコロナを継続した結果の数字であるのと、ワクチン自体も自国ワクチンのみの状況なので、他国との比較に値するとは思えない。

国家としてゲノム解析などの対応に非協力的であろうが、在中国の邦人や帰国者などから検体採取するなどしてゲノム解析を急ぐべきなのだ。

そうやって考えると、専門家と呼ばれる先生達は今何をやっているのだろうか?今こそここ数年の体たらくを払拭するべき時なのだが。素人をバカにして煽りまくり、検査ビジネスや病床確保補助金の既得権益に浸り過ぎて、本当の役割を見失っているのだろうか。

政治もなぜ強くその点を追求しないのか意味不明である。

<法治国家としての法的根拠>

岸田政権の中国コロナ大流行に対する政策で致命的に間違っているのは、法治国家としてあり得ないダブルスタンダードにある。

新型コロナに対しては国内では2類相当から5類への緩和を検討し始めている。これはウイルス自体が弱毒化し、正体不明ではなくなりリスクとして正確に評価できる状況になっているからであり、至極当然の取り組みであり、遅すぎるぐらいだ。

ならば、その感染症がどれだけ流入しようとも、日本国内における感染対策と何ら異なる訳では無い。同じウイルスで違った規制を必要とする道理はないのである。

安倍政権時の新型コロナ初期の中国入国規制の甘さとは実は根本的に状況が異なる。

あの時は、規制する法的根拠がなかったのが現実であり、ダイヤモンドプリンセスなどのクルーズ船からの入国を規制する為に、急ぎ法整備をして2類相当に分類して対処したのである。

ということは、日本国内の新型コロナウイルスと、現在の中国で流行している感染症を、別物として分類しなければ、入国規制に法的根拠が保てないのだ。

何か危なそうだからといって、科学的根拠もなく規制することは、法治国家のものではなく、魔女裁判の誹りを免れないだろう。

『テレビは核兵器にも勝る武器』発言を考える

NHK党の立花党首が『テレビの情報は危険である』『テレビは国民を洗脳する装置である』『テレビは核兵器にも勝る武器である』『テレビは真実を隠している』と主張して物議を醸し、テレ朝報道ステーションでの中途での発言制止、退場を促した事が問題視され、民事訴訟にまで発展している。

立花党首の目的の為に手段を択ばない行動には賛同できかねる部分も多分にあるが、各所での批判は、全体像を把握せずしての切り取り印象、誹謗中傷の域を出ない批判も多く、是々非々で判断する必要がある。筆者が予てから提言している第4の権力としての強力な権力を有する『情報』に対しての問題提起として、少し丁寧に検証し、本質的な問題に対峙するべきであろう。

<テレ朝退場事案の事前背景>

まず前提として立花党首が疑われる原因を作っていたのは事実である。

それはある俳優の過去のアイドルへの淫行疑惑をテレビは報道せずに隠していて、自分が暴露して国民に知らしめる主旨の発言をしている。その俳優は連続ドラマの主人公としてドラマ放映される予定であり、スキャンダルを隠しているとの主張なのだ。

事実関係は分からない。だが通常ならスキャンダルとして報道されて然るべきと考えるのも妥当かもしれない。裏取りが出来てないという理由もあるだろうが、果たして過去のスキャンダル報道で同様の裏取りが前提であったかは疑問も残る。事の是非は事実関係が明らかになる事を待つ以外に無いだろう。

これらの背景に、立花党首の過去の破天荒とも呼べる行動もあって、テレビ局側が必要以上に何を発言されるか分からないと危機感を抱き、『警戒すべき』とのレッテル貼りが行われたと容易に想像できる。

かくして立花党首への事前の警告文発信につながったのだろう。内容的には番組の趣旨にそぐわない発言を控える様に言い、その様な発言があれば然るべき対応を取るという、ある意味脅しと取られても仕方がないものであった。実際、立花党首自身が恐怖を感じたと発言している。

番組編集権の範囲で発言内容を統制するという主旨であれば、全出演者に同様の発信をするべきであっただろうが、立花党首にのみ発信されたのは、明らかに個人に対する『警戒すべき』というレッテル貼りに基づくものだろう。

<テレビ局による発言統制の流れ>

この番組自体、参議院選挙を控え、国政政党としての要件を満たす9党の党首に限定して、国民に各党の政策、志向の相違点を伝えるものだったので、本来テレビ局側が発言に関わるのではなく、寧ろ選挙向けの綺麗事を言って誤魔化す発言者の本音を引き出す役割を果たす必要がある。それを番組側の趣旨に沿った発言以外は排除とするのは傲慢というより、そもそも趣旨に反する予定調和の誹りも免れないだろう。

立花党首と局との事前のやり取りも配信されている。

立花党首は「どの様な発言が趣旨に添わずダメなのか分からない」「発言の予定原稿を送るから事前に放送可能か確認して欲しい」と要望し、番組での発言のあらましとして「テレビの情報は危険だ」「テレビは国民を洗脳する装置だ」「テレビは真実を隠している」「テレビは核兵器にも勝る武器だ」とも伝えている。

それに対して局側は、原稿確認実施に関して即答を避けている。その場では、「政治家の発言を制限する趣旨ではない」「生番組で自由な討論を期待している」と説明し、数十分後に折り返して「テレビ局が政治家の発言をチェックするのは恐れ多い」と原稿確認を固辞している様だ。

どうだろう、番組側テーマの趣旨に添わない発言は禁止すると言い、どこまでが許容範囲かの確認要請には、チェックするのは恐れ多いと、明らかに矛盾ではないのだろうか。

果たして番組が始まって、立花党首の発言の場面で、前述の趣旨の発言が行われた。但し、注目すべきは俳優のスキャンダルに関しては一切発言していない。あくまでテレビの情報としての危険性を語っていた。ある意味、ウクライナ情勢が情報の武器としての利活用、プロパガンダの威力を世間に知らしめたのも事実であり、安全保障の問題として情報に関して語ることに何ら違和感はない。ましてやNHK党という政党の性格上、テレビ報道、電波利権等の是正を訴えるのは納得ができる方向性なのだ。

だが番組キャスターは発言を制止し、私の目からは不快感すら覚える上から目線の自分が正義だと言わんばかりの態度で1党首を切り捨てた。警戒はしていたのかもしれないが、立花党首はあくまで自党の安全保障に関わる提言だと信じての発言であり、スキャンダル的な事は一切発信していないのにだ。つまり、番組としては『情報』の安全保障上の問題性を全否定した事になる。ありえないだろう。

本事案は、立花党首により、局とキャスター個人に対して民事訴訟を起こすとの事である。

これらの事実関係を地上波メディアは報じない。それ自体が既に都合の悪い情報を隠ぺいする姿勢に当たるとも思える。本来、椿事件の反省が全くないと言われても仕方がない重大な事案である。それが故、第4の権力とも称せる『情報』を担う権限を有し、国民の財産である電波を低コストで独占する権益を持つ事を認識する謙虚な姿勢が必要であり、改善無ければ、権力の監視、牽制を本気で考えないと日本はダメになるだろう。

国際社会の協力を勝ち得るウクライナの頑張りと今後の交渉

国際社会における交渉とは、「押してもダメなら引いてみな」的な日本文化で語られる方法論で語るのは危険である。

国家間の交渉とは国益のぶつかり合いであり、引くという事は一部の国益となる事を諦める事である。この一方的な譲歩で関係が良くなると考えるのはお花畑思考の非現実的夢想であり、性善説に過ぎない。国益のぶつかり合いという事は、ぶつかり、拮抗するポイントがパワーのバランス地点であり、引くという行為はこのパワーバランスを崩す事に他ならない。つまり、引いた結果として発生するのは、引いた地点がパワーバランスの拮抗点に変化するのである。

即ち、何か妥協して引く場合、別の何かを獲得する前提でなければ交渉ではない。これらの交渉カードを複数持ち、交渉に当たり国益を守るのが外交である。そして、軍事力は核も含め、この交渉カードなのだ。

実際に、ロシアのプーチン大統領がウクライナに対して核使用も持さない考えを公言したのは、大きな交渉カードになっている。逆にバイデン大統領がロシアのウクライナ侵攻前に、アメリカ軍の派兵を否定したため、国際社会側のロシアに対する交渉カードを失い、ロシアの侵攻を許す結果になってしまったと評する専門家が多い。

かろうじて、ウクライナのゼレンスキー大統領が国内に残り、戦う姿勢を明らかにし、ここまで立派に国を守る戦いをした事で国際社会の声もウクライナ側に大きく傾いている。これが、逃げて亡命政権として外から対応していたら、現在の様なここまでの国際協力、情報武装化と経済制裁は得られなかったのではないだろうか。

<パワーバランスを崩す情報戦と場外戦>

この様な状況で、国家の国土と主権のために自衛戦争を戦うウクライナの方々に、逃げろ、命を大事にしろ、今負けても長い目で勝つ道がある、プーチンは高齢のため数年我慢すればよい、等との発言が発信され、炎上している。当たり前だろう、当事者を愚弄する無責任発言にしか聞こえないからだ。

「降伏しろ」など一言も言っていない、と主張するネット民も大勢いる。確かに、その単語は殆ど使われていない。しかし、同義の発言は数々あり、論旨としてはその様に受け取られても仕方がない。ウクライナ人に命を優先して降伏せよと迫っている様に感じ取られ、憤怒され、炎上しているのは事実である。意図が違うというなら謝罪して弁明するのが当然だろうが、言い換えてはいるもののウクライナの方に寄り添う様な発言は現時点で聞こえてこない。

NATOの責任で交渉しろとの論点をずらしも多く見受けられる。

ウクライナはNATOには加盟できていない。同盟国も無い。その状況でNATOが交渉の前面に立つことがどれ程難しいか理解すべきだ。むしろ、今現在のウクライナの頑張りと情報戦が、国際社会の理解を得て、通常では考えられない武器供与や強力な経済制裁、国連でも緊急特別総会での非難決議など、ほぼ国際社会が連帯してロシア批判に踏み切らせている。この事実は実は大きいのだ。ウクライナが戦う姿勢を示さずに超えられる壁では決してないだろう。

中国の姿勢を云々する向もあるが、実はウクライナの頑張りが国際社会の連動を生み出した事実を垣間見る限り、自国の国益を考えた場合、取り得る手段としてロシアと同様の軍事侵攻は困難である事ぐらい馬鹿では無いので理解しているだろう。その上で、どの様に強かに立ち回るべきか、相当研究しているだろう。

その様な激動の国際情勢において、表面上、水面下共に活発な研究、論考、議論が聖域を排除して必要なのだ。それは、際秩序や人道などと綺麗ごとだけでなく、日本の国家としての存亡に関わる国益の観点でだ。

無責任なウクライナ撤退論は侵略者優位に働く結果に繋がる危険性を度外視できず、自国の国益も損ないかねない。もちろん、最優先されるのは当事国であるウクライナの国家としての意思を尊重するべきだが、その結果が我が国のこの先の判断にも影響するのも疑い様の無い事実である。国際ルールを無視してようと、非道であろうと、実効支配、征服した結果を覆すのは、話し合いで解決などと言うレベルではなく、無責任に他ならないからだ。

ウクライナのネオナチ化という批判もある。確かに大なり小なりその様な批判はあるかもしれない。それはそれで克服できていない部分があるなら、国際社会の批判の対象にはなるだろうが、それがロシアの軍事侵攻、一般市民を巻き込み、病院や市庁舎などの施設破壊、各施設への攻撃、占拠などの行為を正当化は絶対に出来ない。必要であればロシア自身が国際社会に訴えかける努力が必用だったのだろうが、一方的な論理が酷すぎる。日本に対して慰安婦や徴用工、アイヌ先住民問題などを交渉カードにするべくプロパガンダを繰り返すのと同様に見えて仕方が無いのだ。

未だに戦争ではなく、攻撃もしてない、ウクライナで核開発や生物化学兵器開発、コロナまで生み出したとまで言うロシアの情報を鵜呑みにして一方的に信用できるはずがない。

<交渉とは>

ここまでの状況は、例えロシアが前面侵攻に成功し、一部の地域を占拠し、傀儡政権を樹立できたとしても、既に国際社会を敵に回し、経済的には致命的な打撃を受け、国内の情報統制が崩れた時に国家存亡の危機状態にまで陥るだろうと見るのが妥当であろう。

つまり、ロシアにとって戦闘に勝って、戦争に負け、国益を失う状況なのだ。

国家間の話し合い、外交は交渉である。交渉とは、社会人なら当然の常識レベルで学ぶだろうハーバード流交渉術によると、WinWinを目指すのが前提である。つまり相手の利益も考えた上で、当方の利益も獲得する両立を目指すのである。

もちろん、国益は相互にWin-Winとなるとは限らず、Win-Loseの場合もあり得る。それは、スタート地点の国力、パワーバランスの崩れがその様な結果を招いているのだ。パワーバランスが崩れるから、そのバランスを適正化する為にWin-Loseとなってしまう。

このパワーバランスを崩す最大の状況は実効支配である事は、日本人であり、歴史を少しは勉強しているなら、理解しているはずであろう。

そして交渉に第三者を巻き込むには、当事者の本気が前提であり、第三者に相応の利益、つまりWin-Win-Winを成立させる必要がある。ウクライナの頑張りで第三者を巻き込む大義名分が生まれ始めている。もう少しだ。ロシアの窮状を生み出せたのは、大きな交渉カードになるのだ。

但し、物事は詰めが肝心である。無責任で当事者を愚弄する様な情報は逆行する力を増しかねず、その認識が拡散してしまうと、非道を正当化してしまう最悪の事態すら生まれかねない。そうなることで自国の活動が抑制されず、最大の利益を得る国家はどこか、考えれば自明なのだ。

今年のJLPGAプロテストが注目だ

日本の女子ゴルフ界が活況に沸く。トップは、世界で通用する事を証明した畑岡奈紗、渋野日向子。そして同じ黄金世代の小祝さくら、原英莉花、河本結、勝みなみ、新垣比菜、吉本ひかる、山路昌、臼井麗香、浅井咲希など。ミレニアム世代の古江彩佳、西村優菜、安田祐香、吉田優利、山口すず夏。その他にも同年代に、稲見萌寧、成人後は日本国籍を予定しているという笹生優花、ベテラン層も上田桃子、鈴木愛、渡邊彩香、菊地絵理香、原江里菜、有村智恵、柏原明日架、藤田光里などまだまだ健在、挙げだしたらキリがなく、群雄割拠で大変楽しみな状況なのだ。

もともと、アマチュアゴルファーにとって、男子プロの異次元の世界のゴルフも楽しみではあるが、自身の距離感と近く、コースの攻め方、持つ番手など参考にもなり、それでいながら好スコアを出してくるプレーは、見ていても親近感を覚え、楽しめるので人気があった所に世界での活躍が後を押したのだ。

そして、昨年中止されたプロテストの延期扱いのプロテストが今年行われているが、大変注目を集めつつ、筆者は1アマチュアゴルファーとしても、大問題も抱えていると感じているのだ。

注目させてくれている要因は、コロナ禍におけるYouTubeによるゴルフ動画の拡散拡大と考えている。その中でも、プロの卵(この表現は正確には間違いである事を後述する)自身が発信する動画や、応援する企画等が目白押しなのだ。『白金台女子ゴルフ部』や『3284TV』、BSまで入れると『ゴルフサバイバル』『激芯ゴルフ~93期生への道~ 』などがその例であろうし、地上波でも珍しく不人気番組であった『日曜ゴルフっしょ』に代わる『ゴルフのキズナ』などにも企画として波及し始めた。それらの番組では、ツアープロと対等に戦える力を持ち、素晴らしいプレーを見せてくれながら、プロテスト合格を目指す姿が映し出されている。キャラも前面に出しつつ、直向きに目標に向かう姿は、自然と応援したくさせてくれるのだ。

しかし、別の視点で考えると、ここまでの注目を集め、企画として成立する背景を考えると、問題性を感じざるを得ないし、改善を期待したいのだ。その問題の根本は余りにも狭き門である事なのだ。

先に『プロの卵』と表現したが、実は彼女たちは既に夫々にプロフェッショナルなのだ。実は、プロのトーナメント(下部ツアーなど)を優勝する力も持ち、上位成績を収めている選手は多い。ステップアップツアーの優勝コメントで次の目標を『プロテスト合格』と話したのを聞いたこともある。QTをクリアしてレギュラーツアーでの活躍も見たことがある。つまり、賞金を稼ぐツアープロ選手であり、その実力があるのだ。

プロテストに合格しても、シード権を取得できず、QTランキングでも上位になれず、試合に出場できない選手は沢山いて、その選手たちとの違いは、プロテストに合格しているか、いないかだけなのだ。

確かに、ある一定の技量をプロの条件とするのは当然の事だろうが、1年に20人の枠は少な過ぎるだろう。昔と異なり、底辺は拡大しており、これだけの群雄割拠状態であれば、それに応じて枠も拡大させて、更なる普及による底辺拡大を目指す事が、世界と戦い勝負する為のレベルアップにも通じる必要条件なのだ。

そもそも、今の時代、プロテストに意味があるのか疑問である。ツアーで戦う技量の担保は、QTやステップアップツアーが担っており、ツアーのレベルは保っているのではないだろうか。プロテストを狭き門にする必要が無いのだ。プロになっても稼げず、稼ぐためには、ツアーに出る権利を獲得しなければならないからだ。

今までは、プロテスト未合格者もツアーに出る戦いをクリアし戦っていたのだが、プロテスト合格者でないとQTにすら出場できない様にルールが改正された。これで、多くのプロテスト難民が発生したのだ。

よく考えて欲しい、アメリカツーにはプロ資格制度は無い。誰でも、出場権を獲得すれば、試合に出場できる。門戸を開きながら、政界最高峰のレベルが担保できている。

現在の女子ゴルフ界の活況は、宮里藍選手に憧れた年代の底辺拡大より繋がっている。黄金世代、プレミアム世代と繋がり、次世代に更に底辺拡大し、ゴルフ界を盛り上げ、世界で戦うレベルアップを果たすためには、今、枠を広めないと、逆行させてしまい、シュリンクする方向に向かうのではないだろうか。

ゴルフ界の繁栄の為にも、今年のプロテストへの注目を更に高め、普及へのギアチャンジを協会に託すべく、拡散できれば幸いである。少なくとも、今年の合格枠は延期であるならば、倍の40名に今からでも増枠を検討するのが筋ではないのだろうか。

最後に筆者の応援する期待の選手を全く私感ではあるが、挙げておく。

『白金台女子ゴルフ部』から、先日の1次予選を通過した、井上莉花、荒川侑奈、稲葉七海、佐久間夏美、楠本綾乃、岡田唯花、八巻聖良、江口紗代、同じく昨年最終予選進出条件で臨む、篠崎愛、植手桃子、山下美樹。その他三嘴門下、幡野夏生、瀬戸瑞希、瀬賀百花、今綾奈。その他にも、DSPEプロジェクトからは、柴田香奈、小林瑞希、田邊美莉、平塚新夢、五月女栞雛、西山沙也香、立浦琴奈、鈴木絢賀、新真菜弥、諸西諭里、四村彩也香、須江唯加・・・・軽く20人を超えてしまう。本当に頑張って欲しい。