教職員の働き方改革を考える上で、部活動が最も問題として取り上げられることが多く感じる。長時間労働の諸悪の根源として、時間外の練習、土日など休日の大会などの引率、指導など。
文部科学省が改革案としてまとめているのが、休日に教員が関わる必要がない仕組みの整備として、外部チーム化を2023年度から段階的に実施を検討している。
長時間労働に悩む教員の負担を減らすため、文部科学省が、休日に教員が部活動の指導に関わる必要がない仕組みを整備する改革案をまとめたことがわかった。今後、各地域にある拠点校で実践しながら研究を進め、2023年度から段階的に実施するという。
そして、時間外労働の問題以外に、指導経験のない教員の負担になっている問題も解消を目指すという。
改革案では、部活動は「必ずしも教員がになう必要のない業務」として、休日などは「指導に携わる必要がない環境を構築する」
そのために、地域の活動として、民間のスポーツクラブや地域のスポーツ指導者、教員OBなどの人材を確保して対応する。一方で、指導を継続したい教員には指導出来る仕組みを提供するとのことだ。
賛否両論あるだろう、事実、長短両面ある。ただ、ストレートに申し上げると、受益者視点に少々欠けている様に感じる。確かに、現時点で問題視されている事項が、教員側の問題ばかりであるから、この地点に帰結するのは仕方がないかもしれない。しかし、この問題の本質は、受益者、つまり生徒達、ジュニアアスリートにとって部活動とは何なのかという視点で考えるべきなのだ。
この問題を検討する前に、現実を見てみると、各部活動には、外部指導員制度が既に存在し、部活動とは別に、地域のクラブチームも現実に存在し、多くのジュニアアスリートは、クラブチームに所属し指導を受けている。マラソンで日本記録を樹立し、1億円の賞金を獲得した大迫選手も、中学生ジュニア時代は東京都の強豪クラブチームに属して活躍していた。
一方で部活動は、学校をアピールし、生徒募集の大きな要因になるもので、部活動参加率など、多くの学校が誇らしげに数字を掲げている。生徒側は、内申書に部活動参加、部活動の成績などが影響を及ぼすし、場合によっては推薦すら勝ち取れるのである。生徒側から見ると、前向きに活動したい生徒だけでなく、内申書のため、時間をムダに浪費する生徒も事実存在するのであり、現実は、決して、希望者が前向きに活動するだけの集団ではない。そして、極めつけは、学校側の都合が悪くなると、課外活動という名を逃げ口上に使えてしまう。
また、別の視点で確認すると、例えば中学生の部活動の全国大会、全中には、中体連に所属した生徒以外に参加資格がそもそもない。つまり、その分野で頑張りたければ、学校の部活に所属しなければならないという縛りがある。
また、一言でクラブチームというが、その中身は千差万別である。営利目的のスポーツクラブ、強豪チームとして多くの強豪選手を抱えるビッグチーム、ボランティアで細々ながら選手本位で活動するチームなど様々である。
この様に部活動を改めて考えてみると、教育の場なのか、全生徒に自由に開かれた場なのか、将来の職の技能開発・進学の手段なのか、将来の社会活動における団体行動や共通の目的に向かう意識鍛錬の場なのか、それに伴って、学校の運営責任はどこまであって、クラブチームとどうやって共存するのか。
筆者はテーマとして、「人が育つ環境」を大きな要素として掲げている。「人は育てるものではなく、育つもの」「人を育てたというのは、指導者の奢りに過ぎない」「人が育つことを阻害する環境要因」「人は自分が見えない、指導者はその人を見る目になれる人」「指導者の仕事は人が育つ環境の構築」などなど
筆者自身もジュニア時代に自身のアイデンティティ基礎基盤を育成してきた環境として部活動が真っ先に挙げられるし、指導者としてもクラブチームを運営し部活動の外部指導員も担った経験があるが、比較して、ここまで確認してきた現実像は、変わり果てた環境に思えてならないのである。ストレートに、人が育つ環境とは思えなくなってきているのである。
勝利至上主義を問題視する向も多い。しかし、勝利や、最高の結果を目指して、日々努力すること、チームとして協力し力を合わせることに問題があろうはずがない。結果としての勝利に価値がある訳ではなく、本気で勝利を目指すプロセスに価値があり、人が育つ。適当に目指すだけでは得られないプロセスなのである。個人の努力だけでなく、組織としての活動の重要性を学べる貴重な環境が、勝利を本気で目指す場なのである。
うやって考えると、部活動がいつの間にか美化され、至高の教育の場として、学校のアピールの場になり、強豪校として結果を出さないとアピールできないから指導者にノルマが課され、学校という生徒たちが3年という限られた期間、短期間で結果を出すため、育てるのでなく、能力の高い選手を集めるスカウトに力が入り、部活動という教育の場とは乖離していった。
そして、実際に集められた選手は、必要以上に大勢になり、少しぐらいの故障、痛みで休んだ瞬間、チャンスが失われるので無理をして多くの選手が潰れる。3年という短期間で結果を出すため、必要以上に長い時間の練習漬けで、故障しなかった選手だけが生き残る、その様な環境で、教育どころか、多くの選手が潰れていく。
一方で、強豪校でない弱小校では、結果の成績でアピールできないので、全員参加、参加率アップという成果を求め、部活動の中身ではなく参加することに意義がある状態で、やる気もない大勢の生徒が、いやいや時間を浪費し、その時間に顧問という名の指導しない教員が超過労働となる。この場合、結果を求めないので、外部指導員などに任す予算は付かず、万が一ボランティアの協力を得ることが出来たとしても、前向きな目標以前に教員に課せられる後ろ向きな責任とバランスが取れず、直ぐに破綻する。その様な環境で、たまたま存在する才能ある選手も育つ環境が得られないで、才能を伸ばせない。
強豪校でも弱小校でも、部活動は人が育つ環境とは乖離していっているのが現実の姿かもしれない。
この状態で、地域のクラブチームに一定の役割を担わされても、何が解決できるというのだろう。強豪校でも、弱小校でも、何も構造は変わらない。確かに、顧問と呼ばれる、指導する気の無い教員の超過労働は削減されるかもしれない。しかし、肝心の生徒達、ジュニア選手たちの活躍する環境に何の変化もない。それでは全く意味がないのだ。
極論を言うと、両極端の2通りでしかないだろう。
地域のクラブチームを主とするならば、学校の部活動は全て廃止、教育の場などという偽りのプライドを捨て去って、あくまで個々の趣向に合わせた活動であり、ある意味習い事の一つとして、全ての大会をクラブチーム主導とするべき。それでも、人が育つ環境としては、現在よりは遥かに良くなるだろうし、個々の選手、生徒が自由に選択できる様になる意義が大きい。
もう一つの極論は、全て学校の部活動を主とし、課外活動でなく、通常の授業と同じ扱いにする。学校に責任を持たせて、逃げ道の無い、主の活動に位置付けてしまう。超過労働問題は、外部指導員を所謂講師職と同様に一般化することで人材確保して解消することが出来る。地域のシニア世代、定年退職を迎えても元気な人間はこれからまだまだ増える。その人材を再登用すれば良いだけだ。
筆者は、理想的には後者の学校が責任を持って運営する部活動が間違いなく良いとは思う。しかし、学校側既存勢力の意識改革が必要不可欠になってくるが、実際に可能だろうか。本音を言えば、その程度の意識改革すら出来なければ、学業の場すら、主人公を塾に奪われ存在価値が無くなってしまうのだが。