勘違いするな日大、教育現場は治外法権ではない

日大アメフト部の大麻疑惑に関して、日大側は個人の犯行との結論に至ったとの報道があった後に、他の部員の関与の疑いとして2度目の家宅捜査が行われた。

危機管理を学問として教える日大が危機管理の基本中の基本を逸脱する失態である。

危機管理とは発生した危機に対して、その波及範囲を最大限カバーして対処する事がまずは求められる。今回の事案でいうならば、大麻・覚せい剤に関わる違法行為の疑惑があり、しかも当初から個人の犯行でなく日大寮内の複数名が関与しているとの疑いはあった。つまり、波及範囲としては関与した全ての個人が特定されなければならない。

この範囲を出来るだけ狭く特定したいのは人情であり、関与していない無実の人への濡れ衣を晴らすべきなのだが、この特定は口で言うほど簡単では無く、絞り込みは容易でない。その場合は、最低限でも寮内全部、いや最悪の場合学内全部を対象として危機対応するのが危機管理の定石である。一旦特定した波及範囲が後に拡大してしまうのは最悪なのだから。

コロナ渦の対応で世のメディアが、危機管理とリスク管理の違いも理解できずに、リスク管理事項に前述の危機管理の定石を当てはめて喧伝するという誤りを後押ししたのは実は日大の危機管理専門家だと筆者は認識しているが、当の日大が実際の危機管理事態に対して、基本を無視したと言わざるを得ないのだ。

繰り返すが、日大は危機事態を一人の犯行と最小範囲に特定したが、実はまだ複数名の関与が疑われる状態であり、特定範囲が広がってしまっているのであり、この状態は日大として今後、何を発言しても信頼できない隠蔽体質と断ずるに足る事態なのだ。信頼を取り戻すには相当な努力と反省を元にした改革が必要だろうが、現時点でその様な様子は感じられない。少なくとも危険タックル事件の反省は無く対策は出来ていないという評価が一般的な感覚ではないだろうか。

<教育現場の治外法権意識の顕在化>

学校組織環境には危機管理の基本よりも上位の概念があるがゆえ、こうなってしまったと考えるべきではないだろうか。その真因を推察し考察したい。

まずは先日の記者会見で抱いた違和感を述べたい。この違和感は教育界全般に横たわるものだと、筆者自身の過去の経験からも感じるものなのである。

違和感の正体は、必ず出てくる「教育的見地から」「教育現場であるがゆえ」というニュアンスで教育業界側から語られることにある。

筆者には、危機管理の要諦どころか、あたかも法的概念よりも上位に教育的概念が位置するかのような物言いに感じ、教育現場が治外法権にあるかのように勘違いしているのではないかと疑うのである。

結論から言うと、違法行為に関して、教育現場であろうと、他の社会であろうとも考え方に違いはない。教育現場だから、教育的視点を入れて、学生の将来を考慮して、学業を優先した対応をするなどというのは許されず、法的に粛々と、そして厳しく対処するべきと考えるべきものなのだ。

自首を促すのは良いとしても、犯人隠匿・証拠隠滅と疑われるような行動はそれ自体に違法性の疑いが生じるため、厳に慎むべきであり、警察捜査に委ねるのが国民としての責務である。ところが、なぜか教育現場であり生徒が対象となった瞬間に、教育者は法の概念を上回る偽善の皮をかぶった独裁者と化したかのような勘違いをして、違法行為や犯人隠匿、隠蔽を正当化しようとする。

今回の件も、個人の犯行で他に関与者がいないと決めるのは、学校側、教育者ではなく、警察であり検察なのだ。そして罰するべきかどうかは司法の役割である。犯行が行われたのが教育現場であるならば学校側は警察捜査に協力するのが当たり前で、知り得たことはつつみ隠さず速やかに報告するのが当然であり、これを放置するのは警察権力にあらがっていると言われても仕方がないだろう。

教育現場は、過去の経験からも、警察を入れることを極端に嫌う傾向がある。犯罪が疑われているにも関わらず、警察を入れず、教育現場だけで内々に処理してしまうことが、あたかも教育現場の正義と勘違いしていると思えてならない。実際に教育現場は特別だとの発言を聞いたのは一度や二度ではない。

これでは法治主義を軽視する、自己都合での組織ぐるみの隠ぺいが完全犯罪として正義になると教える反社会組織となんらかわらない精神構造に思えてならない。

繰り返す、教育現場であろうと、それが教育の対象である生徒であろうと、違法行為であればそれは厳しく法に則って対処するべきあり、それが法治国家としての基本原則でもある。それができない教育は健全な教育ではないと断言させてもらいたい。

リスク管理視点で考えるコロナ感染出口戦略

危機管理とリスク管理の違いを理解しない、間違った認識が拡散されている事に大きな危機感を感じていると以前より申し上げて来た。繰り返し言うが、危機管理とリスク管理は根本的に違うのだ。

リスク管理とは、将来発生しうる危機状態を予め予測し対策を講じてリスクを受容レベルに低減する事を言う。発生しうる危機状態はリスクを何らかの数値化をする事で評価されるが、一般的には、危機が発生しうる確率と発生してしまった場合のダメージ度合いの積で表される。そして、リスク評価値が取り決めた閾値を上回る状態が確認された場合に、リスク低減対策を実施し、閾値以内に抑える状態を維持するのだ。

従って、対策は発生確率を低下させる策と発生した際のダメージを軽減する策と二通りあり、目的を明確にする必要がある。

そして重要なのが発生しうる危機状態としてどこまでを想定するのかという観点である。考えられる最大限というのは根本的にあり得ない。最大限というのは際限がないからだ。記憶に新しいのは東日本大震災時の津波が想定外だったという言質に対しての様々な批判だ。この件も正確に検討経緯を確認すると、決して想定外ではなく、科学的に検討した結果、発生確率や対策内容等の条件より想定しないという判断をしている。つまりリスクとしては受容したというのが正確だろう。極論言えば、巨大隕石の衝突を想定する訳も無く、リスクとしては受容せざるを得ないのと同じだ。

一方で、危機管理とは、今現在発生している危機事態に対して対応する事である。

即ち発生してもいない危機に、かもしれないと可能性で対策を打つ事は危機管理ではあり得ない。

危機事態と認識、判断された時点で、最初に行うのはその危機の波及範囲、実態の確認である。事実何が起こっているのか、どこまで。そして次に、その危機を危機状態でなくすための具体策を実行する。危機を回避する事が最優先される為、危機状態である事の宣言が必要不可欠になる。

例えばの事例で説明しよう。

大切なお客様とのゴルフの約束が明日。日常よりかなり早起きが必要だが、連日の激務やプライベートのトラブルもあって疲労困ぱい、寝坊の可能性もある。寝坊すれば、大切なお客様を怒らせてしまうので、リスク管理策を実行する。強力な目覚ましを用意、出来うる限り早く寝る等は発生確率を低下させる策。万が一の場合に備え、緊急時にお客様に連絡が出来る様に携帯番号を確認しておくのは発生時のダメージ軽減策。そして、不幸にも寝過ごしてしまった時点で、危機事態発生となる。時間を確認し、スタートに間に合うか否か状況を整理し、予め準備した連絡手段で状況を連絡し、あらゆる手段を使って現地に向かい、謝罪から入り、先方に対して最大限の誠意を示す。そうやってお客様の怒りを鎮めるのだ。

参考までに、よく言われる事業継続計画(BCP)とは、事業が継続困難になる危機事態をリスクとして想定し平時より対策を実施、危機事態発生時に事業として何を優先して継続し、何をやめるか、予め方策含めて計画しておく事である。

実は、東日本大震災後、事業継続計画の取り組みの遅れを認識し、経営課題として多くの企業が取り組み始めている。政府も同様の戦略を持ち、特に医療介護業界に対しては、大きなリスクになり得るとして取り組み強化を業界に訴えかけていたが、業界として殆ど対応してこなかったのが現実である。医療逼迫や医療崩壊はこの事業継続困難事態に当たるので、取り組んでいれば、今の事態は未然に防げていたと残念でならないのだ。

<リスク状況が変化すれば対策も変化する>

さて、リスク管理の視点から、政府の発信した対策変更、自宅療養へのシフトに関して考察してみる。

医療崩壊という危機事態を発生させない為に、直接の管理指標値としては病床使用率がある。正直に申し上げて、現時点で50%前後であれば決して危機事態とは言えず、リスク管理策の実効性を高める時期である。

本来資源として50%も余らせるのは、経営視点からも疑問ではあるが、それは置いておくとして、この数値を低減する施策を検討する。真っ先に考える必要があるのが、分母の数字を増やす事、即ち医療資源を増強する事なのだが、この1年以上国家予算を潤沢に用意して要請しても大きな成果は得られていない。原因は追究必要だが、事ここに及んで分母拡大が期待できない前提に立つと、分子の数値を減少させる以外に方法が無い。

つまり入院患者数を減少させる方法になる。これまでは、陽性者数を減少させる方策に拘っていたが、本来のリスクである死者数や重症者数の減少にも繋がる事もあり、今まではそれでも良しと出来たかもしれない。しかし、重症化数、死者数激減により、リスクの構造が大きく変わってきている。つまり、陽性者が多くても、本質的なリスクは高まらない状況になってきた。

新型コロナの直接的リスクは大幅に低下したのが現実なのである。ワクチン効果や変異による症状軽減などの要因が考えられる。

しかし、残存リスクもある。陽性者が急増する状況で、陽性者が原則入院となると病床使用率の分子を拡大させ、病床の逼迫が生じ、医療の負荷を高め、間接的に医療崩壊に向かうというシナリオである。従って、大半を占める無症状者、軽症患者で病床を埋めるのは得策ではないという判断は適切であろう。

但し、であるならば本来は、2類相当から5類に変更するべきなのだ。現実的には1歩前進の策ではあるが、政治的折衷案としての妥協であり、本質的には誤魔化しの感は否めない。

野党や過激な専門家は猛批判、暴言まがいの発言を繰り返しているが、では対案はどうしようというのだろう、論理的で具体的な説明もない。特に確保病床など医療資源の拡充を図るのは、医療業界の役割なのだがその策を棚上げにしての批判はあり得ない。また、中等症の解釈など、騒動のきっかけとなった毎日新聞が誤報と認め訂正しているにもかかわらず、いつまでも揚げ足を取っているのは、あまりにも酷く嘆かわしい。

危機事態ではないので壊滅状態に至っていないが、もし危機事態であれば大変な事に成り兼ねない。もしかすると、今の日本の国家としての最大のリスクかもしれない。

緊急事態宣言から1週間、反政府一辺倒では危機は乗り越えられない

新型コロナ感染拡大の危機事態に医療、メディアは反政府活動を強めている様にしか見えない。これでは、危機は乗り越えられない。

危機管理の基本は、発生している危機事態を正確に把握し、刻一刻と変化している状態に対して、適切な対応策を次々とタイムリーに打っていくことだ。誰が言い始めたか巷で言われる、最初に最大の策を実行するというのは愚策であり大きな勘違いなのだ。極論を言えば、巨大隕石の地球衝突に備えないし、ガミラス船団の襲来に備えて宇宙戦艦ヤマト建造もしない。あくまで、実際に発生している危機事態に対して対応するのが危機管理だ。

一方で、リスク管理は、平時から発生しうるリスクを大小、確率の高い低い、様々に想定し、どこまでそのリスクに対応するか事前に低減策を講じ、発生した場合の対策を計画する。リスクは一般的に、発生確率と発生時のダメージの大きさの積で評価されるので、ガミラス船団襲来の確率は限りなくゼロに近いので、平時に莫大な費用を伴うリスク対応策は実行しない。それは即ち、万が一発生した場合は、絶滅や征服など最悪のシナリオも受容するという判断なのだ。

政府の新型コロナに対するリスク管理は、外部から想定する範囲では、欧米諸国の水準は想定外として、例年のインフルエンザ関連死をMAXとする想定で描かれている様に思える。意識しているかは別にして、ステージ4の数値設定自体がこの水準を前提にしている。感染者数自体はインフルエンザより低く設定し、最悪の死者数を年間1万人以下に抑える計画であれば、感染者数抑制も重要だが、病床占有率は更に重要なのだ。

モノづくり品質保証の基本は『発生源対策』と『流出防止対策』である。前者は、品質を安定させコスト効果も高いが、後者が伴わなければ市場品質を保証できない。感染症でも同様に後者の医療対策が最重要なのだ。つまり、病床占有率の分母の病床確保数を増やす事が絶対必要なのだが、春からこの対策で聞こえてきたのは、大阪コロナ重症センターぐらいではないだろうか。そのセンターですら、人的資源が集まらず苦労しているのである。これは、政府の責任なのだろうか。

世界に胸を張れる医療体制を誇る日本だが、平時のポリシーは皆保険制度と地域医療に根差したきめ細かなサービスの拡充だ。その為に、中小の開業医やクリニックを充実させ、人材資源が集中している。しかし、感染症有事には中小開業医・クリニックに資源が集中していることが仇になっている。本当は、緊急事態において、この中小クリニックの人的資源を大胆に再配置すれば医療崩壊など発生しない。少なくとも、自宅療養者に対するケアを、この豊富な資源で対応するべきだが全く進む気配すら見えない。

飲食店の時短、休業要請に強制力を持たすのなら、開業医やクリニックの半分を休業や時短して、それで浮かした人的資源を活用すれば良い。街を見渡して欲しい、数多くの医院・クリニックが存在するのだから、一時的なかかりつけ医体制のカバーは可能だろう。この策は、医師会がリーダーシップを発揮すれば出来るはずだ。医師会の構成会員は、大病院よりも、中小開業医・クリニックの会員で多数を占めるのだから。

しかし医師会は、医療資源の再配置に消極的だ。日本医師会長は昨年の選挙で政府に物申すと公約して、政府寄りの前任を破って当選した。東京都医師会長の支持を受けた結果だが、次期会長ポスト禅譲の密約が噂される程なので、同様に政府に協力的とは思えない。

誤解されない様に言うが、新型コロナに対応している医療の現場は本当に厳しい状態で、日夜奮闘して頂いている。だからこそ、その現場に必要な資源を投下するのが、リーダーの務めなのだ。ところが、電波に乗って発信されるのは、人材資源の再配置は不可能、医療崩壊から医療壊滅と、命のトリアージが必要になってくると。ある意味、国民の命を出しに強迫めいて聞こえるのは私だけだろうか。

弁護士の八代英輝さんが、日弁連会長の例を挙げて、組織のトップの発言が、その組織の総意を示さない事が多いと語っていた。同様の事を、北村晴男弁護士も以前語っていた。最近の医師会長、TVで発言する医療専門家も医療従事者の総意を語っているとは限らない。

政治家の会食など非難しなくても良い。実際、私は、平時に一晩5人と会食しているのなら、今は10人以上と会食して、情報をより豊富に得て、政策決断に活かして欲しいとすら思う。会議で得られる情報とは種類の異なる本音の情報は絶対必要なのだ。何より、その様な非難の前に、使命を果たす事に全力を尽くすべきではないのか。

危機事態において、政府のメッセージ力が足りないと云うのであれば、それはメディアが補うべきだ。どんなに強く正しいメッセージも、朝から晩まで否定され続ければ、メディアの露出の方が圧倒的に多く、メッセージ性は弱まるのは当たり前だ。有事には、緊急事態に沿った、一致協力の情報発信が国家のためなのだ。政権の監視、政府への提言が使命というのなら、収束後に総括し糾弾すれば良い。今は、危機事態なのだから、考え直すべきだろう。

政府と医療、メディアが反目する状態。危機事態では絶対にあってはいけない状態なのだ。これは、日本が危機事態に対応する国力が無いと海外に露呈してしまう。即ち、国益に反するのだ。いや、この反目した状態が継続できるという事が、本当の危機事態ではない証左なのかもしれない。海外からは、その様に見えても不思議ではないだろう。

東京都の感染拡大が他地区と異なる動きを示す理由の分析

 一旦『K値』そして『T値』(詳細は『ファクターXの正体』をご覧ください)で感染収束が検知された後、しばらくはピークアウトの傾向を示していたが、再び感染拡大に向かい始めている。それも、他地区と大きく異なる変化を東京が示している。森羅万象、世の中の出来事には必ず因果関係が存在する。東京だけ異なる傾向を示すのも、何らかの理由があるはずであるので、丁寧に検討していきたい。

 相変わらず、危機を煽り、政府を非難するだけのメディアも多く、危機管理のなんたるかを尤もらしく語っているが、正直言って、メディアで語られている危機管理は多くの部分で大きな勘違い、思い込みの激しい決めつけで、机上の空論が多すぎる。実践を通じて危機管理に対処してきた立場から言うと、もっとも危機管理対応時にやってはいけないことを多くのメディアは言い続けているのだ。

 考えうる最大のリスクに最初から対応するのが危機管理の基本だと言う間違った説が実しやかに語られている。大きな間違いだ。東日本大震災時の福島原発を襲った津波を想定外と言わしめた反省の様だが、一体どこまでの想定をすれば最大と言えるのか、が問題なのだ。

 例えば、地球崩壊のリスクを想定して巨大隕石の衝突を想定して、対応能力を備える必要があるのか。太陽の巨大クレア発生に備える必要があるのか。笑い事ではない、そんな可能性は無いと馬鹿にしても想定以上の津波は自然現象で発生するのであり、どこまでを馬鹿にできるのか、誰にも答えられない。もっと、身近な例で言うなら、飛行機には乗れなくなる。墜落事故の可能性を考えて命の危険を冒すリスクを取るのか、という事である。墜落事故は、確率は低くとも発生しうるリスクであり、最大のリスクでもあるのだから。更に言うと、車の運転、いや、道を歩くことすら出来なくなる。

 危機管理とは、実際に発生している危機状態を冷静に状況判断し、適切に対応しなければならない。それが基本だ。それ以上でも以下でもダメなのだ。だから、状況変化に柔軟にかつ迅速に適応する必要があり、極めて難しい判断の連続と舵取りを要求される。場当たり的に見えるのは、他人事で無責任が故でしかない。大きく、強力な措置、何もさせない、を実行する程簡単なことはないが、それは危機管理としては極めて無責任、責任回避の良い訳行動でしかないのだ。

もし、本当に日本が危機的状況に陥ると想定された場合は、まず情報統制を真っ先に実施しなければならないだろう。そうしなければ、危機管理対応としての実施策が全て無効化されてしまうからだ。そういう意味では、まだまだ日本は危機管理状態とは程遠い、平常状態なのである。

話を、感染再拡大の原因究明に戻そう。

まず、真っ先に想像できるのが、変位種の感染である。振り返ってみれば、本年3月に武漢種の感染が収束を見せた直後、入れ替わる様に欧米種が感染拡大を見せた。その欧米種は直前の渡航飛来したものと思われている。今回の感染傾向もその当時に酷似しているのだ。変位種はまだ数例だけが確認されているに過ぎないが、実はもっと早く、多く上陸していることも否定はできないはずだ。

少しだけ、疑問なのは、大阪など多くの海外からの入国者が東京と同様に多い筈の地域は、収束に向かい始めているのである。この違いは何だろうか?例によって、メディアは、若者を悪者にして行動の自粛を呼びかけるが、はっきり申し上げよう、大阪と東京で若者の行動レベルに差があると言うのは何の根拠もない。体感的に言うと、大阪の方が寧ろ対策面で緩やかである。その証左の一部として、店舗の正月開店状況を比較すれば分かる。大阪では、正月に普通に福袋が販売される予定が多い。東京ではほとんどが年末からの売り出し、しかも予約制だ。

私がよく用いる地域文化の差を表す、『エスカレータ理論』(詳細は拙著『ファクターXの正体』をご覧頂きたい)、ルールが目的化してしまい目的を見失い行動が東京に多いということも考えられるが、その件は別で議論しよう。

二つ目の仮説だが、民間の検査、誰でもいつでも受けることが出来るPCR検査の影響である。東京ではかなりのレベルで普及してきている。そして、不要不急の外出自粛要請、帰省を控える様なメッセージが発され、医療の世話にならない程度の体調不調時、或いは何もなくても、安心したいと言う理由での検査が爆発的に増えている。この中に感染者が存在した場合、その30%が偽陰性と判定され、誤った安心を得て、少々の症状があっても感染抑止策が不充分な行動に繋がる。これが感染爆発の大きなリスクなのである。このカテゴリに属する人は、安心させず感染抑止行動を徹底させるべきなのだ。

PCR検査は、医師の判断で行う、確定診断の助けになるものであり、勝手な安心を得るものではない。この点の勘違いが多すぎて困る。メディアが煽る、誰でもいつでも何回でも検査を実施している国で感染が抑えられている国があれば数字で語って欲しい。中国は、検査で抑えたのではない、強制的な集団隔離の効果があったのであり、検査は関係ないのだ。

無症状者による感染拡大を殊更大げさに言うが、無症状者はウイルスを保有していたとしても、咳をする有症状者と比較して、ウイルス拡散量は少ないのである。マスクをした状態で、飛沫を防げば、かなりのレベルでウイルス拡散を防止できる。従って、誰もが感染しているつもりでの抑止行動で感染抑止は可能なのである。

合わせて、周囲にウイルスが存在する、常在する前提での、感染抑止行動が重要なのである。つまり、ウイルスをもらっても粘膜に近づけない、洗い流す。そして、自然免疫力を高める様に努める事だ。それで全てではないだろうか。

 更にウイルスの変異であるが、メディアで恐怖の様に語られ続けているが、大きな間違いである。確かに強毒化する変異もあり得るが、今回の変異は、感染力が高まったとしか言っていない。ウイルスの基本的な性質上、感染力が高まると言うのは、毒性は弱まる方向にいくのだ。なぜなら、ウイルスも生存競争を戦っているからだ。毒性が強まった変位種は、感染機会が減少してしまうので自然淘汰されるのだ。もし、毒性と感染力を同時に高めることができれば、強力なウイルス兵器になるが、実はまだ成功事例は聞こえてきていない。つまり、今回の変異は、より通常の風邪の原因ウイルスに近づいたと考えるべきで、歓迎すべき変異に思える。Withコロナとはその様な変異でも近づくことができるのだ。

 最後に確認しておく。東京の状況を危機的と喧伝されるが、それでも欧米先進諸国と比較して、桁違いに感染規模が小さい。ニューヨークでは1日何十万回、いつでも検査が出来るのに、日本は何もしないと言われ続ける。同じ規模の感染に拡大して良いのなら、その選択肢もあるが、私は嫌である。

アメリカ、イギリスではワクチン接種が始まった。副反応のリスクを遥かの凌駕する効果を期待してのことだ。日本では、ワクチン接種に慎重論が専門家筋でもまだ多い。そのことが日本の感染状況が危機的状況ではない証拠でもあるのだ。

正しく恐れ、正しく対処する。必要以上の対応は100害あって1利無し。正しい行動を心がければ、マクロ視点では大きな危機に繋がらず、日本の医療も崩壊しない。

医療崩壊の数値的検証とその対策提言

 諸外国に比べて圧倒的に少ない感染者数、重症者数にも関わらず、医療崩壊の瀬戸際に立たされる日本。愕然とさせられる事象だが、本当であれば国家的に医療体制の脆弱性を真剣に改善しなければ、枕を高くして眠れないだろう。その実態を検証してみなければ、対策の方向性も検討できないので、オープンデータから検証をしてみる。
 
 まず、グラフをご覧いただきたい。このグラフは、感染者総数から死者数と療養解除者数を引いた推移である。つまりマクロな観点では、指定感染症であれば全て入院必要な患者となる。

画像1

 ご覧いただければ分かるのがピークを2回経ながら3回目のピークへと向かって行く傾向の中で3万人というラインに近づいているのが分かるだろう。この3万人という数字が重要である。

 なかなか、減少しない傾向があるのは、一旦療養に入ると他の感染症と比較して療養解除まで長期間必要になる。即ち、他の感染症より病床占有率が高くなるのである。そして、3万人に迫ろうとしている。

 日本の病床数は、概ね100万床と言われているが、新型コロナに備えて準備可能とされたのが、その3%にあたる3万床である。即ち、マクロ的には逼迫している事を数値は示しているのである。

 いやいや、無症状者などホテル隔離、自宅療養も増えているという意見もあるだろうが、現実問題として3万床とはMAXであり通常の回転率、全国に散らばっている総数だと考えると、実質は約80%の2万4千床あたりで、そこいらじゅうでベッドがないと言う調整が必要になり、所謂逼迫状態になる。その分をホテルや自宅でカバーしていると考えれば、3万人に近接してきたという数字は、逼迫と言っていいだろう。

 一方で、今インフルエンザの患者は激減している。例年なら週当たり10万人前後の感染者だったのに対して、今年は数百人に収まっている。この中から入院患者はどれだけいたのだろうか?仮に1割と想定すると、1万人規模となるのであり、その分は病床に余裕があるはずだ。

 また、危機管理の基本中の基本だが、危機に備えて準備した資源(この場合病床であり、対応人数である)3万床で不足する事態が発生する場合、残りの97%から適宜資源の再配分を行うのである。3万から4万、5万というと相当なリスクを孕む規模に感じるかもしれないが、97%を96%,95%に調整すると考えるとそれ程困難には感じないのではないだろうか。現実、企業における危機管理対応時には、普通に当たり前に実行する資源の再配分なのだ。

 私自身、東日本大震災時の企業における危機管理対策本部や、その他のインシデント発生時の組織運営管理者として幾多の危機管理体制に対応した経験から言うと、資源の再配分は権限さえ備わればそれ程難しくないし、通常業務に影響を及ぼさずに対応可能なのである。危機管理体制やプロジェクトに必要不可欠なのは資源の確保に対する権限なのだから。しかし、厄介なのが、権限が付与されていないことを想定する場合なのだ。それでも、その体制をの責任者がまず実行すべきことは、資源の確保なのである。

 そもそも危機管理体制に資源確保の権限が付与されていない時点でお終いなのだ。資源を再配分しようと、全体最適を考えて采配を振るおうとしても、既存組織は既存のミッションを保有し、自組織防衛の為の防御反応が出るので、権限が無ければ、部分最適に引っ張られ、全体最適が犠牲になってしまうのである。

 今の医療界が発信している、既存の医療に影響が出ると言う言い方は、この部分最適の防御反応の象徴なのである。構造的に、医療業界全体を統制管理し全体最適を指揮できる権限機能が存在しないことが、危機管理体制として脆弱である所以なのだ。

 正直言って、冬の感染ピークは想定された現象であり、その時点で3万床の医療資源で間に合うかは極めて心もとなかったと言わざるを得ない。そもそも、諸外国の感染状況を鑑みた場合、当初3万であったとしても、柔軟に増床する資源再配分を想定しておくのが当たり前だ。3万が限界だから、3万以内に感染を抑えるべきだと言うのは、その通りだろうが、収まらなかった時点の策を用意していないのは、余りにも稚拙、怠慢の誹りを免れないだろう。

 特措法で有事の強制力が議論されるが、命を守る医療に対しての国家としての強制力は何よりも最優先するべき事項のはずだ。少なくとも、医療業界の善意による危機管理能力は限界があることが今回露呈しているのだから。

この件も含めて、政府の採るべき対策、法的な対処をまとめると

① 感染症指定時に予め想定できる感染状況を定め、それに対応する、医療体制確保、医療資源配分の要請を医療業界(医師会?)に要請できること
② 予め想定した感染状況を超える事態と感知した際には、医療緊急事態宣言を発出し、医療資源の再配分の指示を強制力を持って出来ること
③ 医療資源再配分とは、病床数、ICU数のみならず、それを運用する医師、看護師も含むものである
④ 当該指示における設備運用費、人的資源費用の通常以上にかかるコストは政府が負担するものとする
⑤ この際必要な、ホテル療養や自宅療養に必要な介護師の人的資源確保とサービス維持を指示し、コストは前期同様政府負担とする

 以上のような内容を、法律としてブラッシュアップして特措法に組み込めば、飲食店などの休業要請よりも、もっと現実的な政府対策になる事は間違いないし、この部分が不足していては、本当の意味で命を守る体制にはなり得ない。

 繰り返しになるかもしれないが、日本の医療資源は世界に堂々と胸を張れる水準であることは疑いようがない。そして、医療のレベルもトップレベルである。皆保険制度に支えられている医療サービス体制も万全だ。日本の医療がこの程度の感染拡大で崩壊することがあろうはずがない。あるとすれば、資源の配分が硬直的で偏っていることに原因がある。であるならば、少なくとも緊急時には、医療業界に不足しているだろうノウハウ、経営のノウハウを注入しなければならない。即ち全体最適を見据えた資源の有効活用のノウハウを注入しさえすれば、今発生している様な動脈硬化現象は必ず解消できる。確かに医療業界は不可侵かもしれないが、崩壊し、国民の命が危機に晒される事態であるならば、背に腹は代えられないはずだ。

 何故、分科会や専門家会議に経済の専門家が入っていながら、この種の提言が出ないのか不思議でならない。経済の専門家という学者は、結局実践力が伴わず、机上論で経営のプロではないとするならば、学者でない本当の経営のプロ、或いは現場指揮を経験した、企業には存在するバリバリの再建人材を入れて議論すべきだろう。