東京五輪無事閉幕、そしてメディアの暴走が再開

東京五輪が無事閉幕した。

多くの感動を生み出し、同時に多くの悔しさ、次につながるドラマが生まれた。五輪は、他の国際大会と比べても、難民も含めた多くの国家、民族の出場選手が参加し多様性が尊重されている。開催種目も、単一で企画として成立するメジャースポーツだけでなく、多くのマイナースポーツ、地域性にも考慮した種目により、種目の多様性と、その普及に大きな効果がある。これらは横のつながりとして成立する。ノーサイドの精神はラクビー特有のものではなく、全スポーツに共通する事が各種目戦い終わった選手たちの姿や閉会式でのアスリートを見ても分かる。明らかに大きな効果を生み出した。

そして、縦のつながりも同時に生み出せた。本来直接観戦できれば良かったのだが、それでもリモート観戦を通じて、多くの子供達に感動の実感を与えられただろう。また、ミュンヘン五輪から長年の課題でもあった不幸な現実、不運な選手達への気持ちを伝える等、歴史の流れの中での課題に向き合い逃げずに立ち向かい乗り越える、そういった精神も次につなげた。何より、東京で途絶えさせなかった事に安堵させられた。

その結果、世論調査では開催前は反対が大多数だった状況から、大勢の開催して良かったという声に変える事が出来た。

これらは、多くの縁の下の力持ち、大会関係者の方々の献身的で前向きな働きによるものであり、素直に感謝を申し上げたい。本当にありがとう。

私自身、学生時代はアスリートとして戦ってきて、指導者としても多くの子供達と競技に向あってきた経験から言わせてもらうが、大会を開催する為に、多くの人の力が必要なのだ。国際大会であれば尚更だ。

しかも今回は、何か悪い事でもしている様な謂れなきバッシングを受けながらの事だ。辛かっただろうし、厳しかっただろう。こぼれ聞く話では、状況変化や追加施策など、毎日の様に要求が変わり、その為の対応は相当な激務、ブラック状態であったのも事実の様だ。

その様な状況でも全力で支えるという気持ち、アスリートや競技に対する想いが強くなければ完遂出来なかっただろう。

確かに反省点や改善点なども多かっただろうが、それは何をしても、否、大仕事であればある程多いのは間違いないが、それは次の課題への前進なのである。何より、成し遂げた成果は計り知れない。

反対するのも個人の自由であり、思想信条はそれぞれに尊重されるべきだが、この大きな成果を挙げ、絶やさず次へつなげた業績を、無きモノにする事は出来ない。ましてや「瓦礫の山」と貶す論等は、決して受け入れることが出来ない。

嫌いであれば嫌えばいい、嫌なら嫌で、反対でも良い。しかし、純粋に成し遂げた業績に一定のリスペクトを持てないのなら、単なる難癖でしかない。これは、自らを絶対正義として、見下す姿勢が産み出す所作でしかなく、決して許せない。

メディアは開催前、総じて反対の論陣を張った。これでもかというぐらいの攻撃であった。命と五輪の何方を取るのだという、無茶苦茶な無理筋論も、声を揃えて同様に発信する事で無理を通してきた。

開幕後、掌返しの五輪報道で埋め尽くされた。結局、視聴率が取れれば何でも良いというメディアの節操の無さであった。五輪反対の影響で、スポンサー離れまで発生したのだが、それでも目先の視聴率稼ぎを正当とする、反省心の無さを露呈している。即ち、五輪後は再度の掌返しで煽り一辺倒に戻るのだろう。

「司法」「立法」「行政」に次ぐ、第四の権力としての力を歴然と持つ「情報」であり、その担い手である「メディア」だが、一部の左派勢力からは、権力監視という役割を持つのがメディアであり、五輪報道をポジティブに実施した事を政府批判の姿勢を忘れたと批判する論も出ている。しかし、それはメディアに絶対正義としての独裁を要求している様にしか感じない。

第四の権力である時点で、相互監視の対象であり、他の三権を監視するのなら、他の三権から権力行使の監視と牽制を受けなければならない。それを絶対正義で何でも叩けるとした時点で、他を上回る絶対権力となってしまう。そんな簡単な論理も分からない様だ。

健全な相互監視であれば、是々非々でなければならない。ダメな場合は糾弾する必要があるだろうが、良い場合に後押しをする事も重要な相互監視なのだ。何が何でも批判、是とする事は見て見ぬふりの報道しない自由では責任ある権力行使ではなく、「ラクダと老夫婦」の例えそのままのクレーマーでしかない。

「情報」事態が、第四の権力として力を持っている事は誰も疑わないだろう。しかし、その権力を執行する「メディア」にその責任感があるとは到底思えない。視聴率は重要だろう、スポンサー契約もなければ経営が成り立たない。しかし、それだけでは権力行使者ではなく、単なる娯楽企画推進企業、興行関係社でしかない。

第四の権力「情報」の健全な姿への変革の為には、放送法の改正と厳格化、電波権益改革などが必要不可欠だろう。

だが、その健全な方向に向かわせるエネルギーは、逆説的に言うと、そういった踊らされた視聴率を生み出さない、是々非々の健全な議論要求する国民が少しでも多くならなければならない。感覚的、感情的に踊らされ、妄信する空気によって世論を形成させない国民である必要がある。

その為には、教育は重要である。それも論理形成力の直結する理数系の力を育成する教育が。周りを見回しても、数学や科学などを不得手とする人が極めて多く、本人自覚していないだろうが、論理性を保てないのだ。

本当は、国語や社会等の文系科目も論理性が重要なのだが、学校教育では論理よりも記憶科目となっていて、本来の姿である、読解し、誤謬性なく表現したり、歴史の流れを読み解く等は、極めて論理的なのだが、記憶科目化する事で失われているとしか思えない。

第四の権力「情報」は、自国で制度整備をしないと、他国からの影響を受けやすい。それは、意図して他国から世論形成が出来、社会不安に陥れる事も可能という事になる。即ち、国防上の脆弱性にも繋がるのだから、それを防ぐ教育改革と情報制度改革はこの先の重要な国家課題なのだ。

東京五輪_全力応援宣言

 自国開催の東京五輪。ここを目指すアスリートは選手生活の全てをかけて、いや人生をかけて、様々な困難を乗り越えて臨もうとしている。そして、その競技姿勢を通じて我々に感動と元気を運んでくれる。であるならば、コロナ禍であろうとも、いやコロナ禍だからこそ、全力で東京五輪を目指すアスリートを全力応援しませんか。

 様々なネガティブ情報も多いのは事実だろうが、それを乗り越えて挑戦する人達を、ネガティブな『Noの論理』ではなく、どうすれば出来るのかというポジティブな『Yesの発想』で応援しませんか。

 いまだ中止を叫ぶ声も多い。その殆どは、リスクを語るが、様々な種目、プロスポーツにおいても、どうやれば安全に開催できるか、真剣に考え、トライアンドエラーが行われている。その結果、現時点でもリスク低減策はかなりのレベルで積み上げてきている。
 応援できなくとも、ネガティブな発信で、挑戦する前向きな人達の妨げになる事だけは、避けるべきと思って頂けませんか。

 個々に考え方も異なるだろうし、国民全員賛同して欲しいとは言わない。しかし、認識して欲しいのは、『中止すべき』という声が大きくなると、少なからず東京五輪を目指すアスリートの活動に負の影響が及んでしまうことだ。
 確固たる信念を持って『中止すべき』との発信をされるなら仕方がない、それはそれで意見として尊重しなければならないだろう。しかし、空気感、感覚論で『中止すべきだと思う』のであれば、是非発想の転換をして『感染リスクを最小化出来るのであれば開催できる』とポジティブな考えを少しでも持って頂けないだろうか。

 個々のアスリートは、感染抑止行動という通常の活動にプラスαした対応を余儀なくされ、苦難に挑み、乗り越えている。それらアスリートの支援のために、感染抑止対策も工夫されレベルアップしているし、これからも新たな策がどんどん追加されていくだろう。
 であれば、出来るだけポジティブな意見を応援メッセージとして発信して頂きたいし、出来なくても、確固たる意思の裏付け無く『中止すべき』という発信は控えてもらえないだろうか。マイナスが減少するだけでも、アスリート一人一人には大きな力になる。

 これは切実な願いである。多くのアスリート達の為、少しでもポジティブに『Yesの発想』で『どうすれば出来るか』『どうすれば安心出来るか』の考えで、応援をしませんか。

<政治家の皆さんへ>
東京五輪を政争の具とするのはもうやめて下さい。政治的国家イベントである事も間違いありませんが、今一度、個々のアスリートに目線を合わせて下さい。野党の皆さん、政権与党を攻撃する格好のネタかもしれませんが、しばらく攻撃は控えて頂けないでしょうか。いやむしろ積極的に政府と連携して開催に向けて全力でご尽力頂けないでしょうか。結果として開催出来れば、皆さんの政治成果となることは間違いないでしょうから。

<マスコミ、メディアの皆さんへ>
ネガティブな情報発信、政府監視の役割も重要でしょうが、東京五輪に向けては全力応援の姿勢を前面に出して頂けないでしょうか。人類の英知を結集した感染抑止を施し、ポジティブな大会にするためには、皆さんの情報発信が極めて重要です。むしろ、メディアの発信が前向きになれば、様々なイノベーションに繋がります。『ここまで対策は考えられている』『もっとこういうことが出来るのではないか』という情報発信を強めて頂ければ、一般国民の意識も前に向き、対応策も確実にレベルアップし、前進できます。国民を前に向かせイノベーションを生み出すのも、後ろに向かせるのも皆さん次第だと言っても過言ではありません。

 先日の体操内村選手のコメントを真正面から受け止めませんか。多くのアスリートが同様の感情を持ち、発信を憚っていた内容、勇気を持っての発信、問題提起です。『できない、ではなく、どうやったらできるのか』『どうか、できないと思わないで欲しい』です。

残念ながら、その後の調査でもネガティブな意見が多いのが現実です。

 過去に自身の責によらずチャンスを奪われた選手として、マラソンの瀬古選手や柔道の山下選手が語られる。彼らは、金メダル確実と言われた選手だったが、同様にチャンスを奪われた。しかし、実際にチャンスを奪われ、人生が狂わされたアスリートは代表以外も含めて大勢埋もれており、その何十倍、何百倍も存在する。

彼らに、歴史の不幸な繰り返しを経験させないで欲しい。

 どうやったらできるのか、それを追求して達成できた時に、得られる成果は有形無形で計り知れない。できない、と思った瞬間に前に進むことが出来なくなる。負のエネルギーは、前を向いて、障害を乗り越え、前進している正のエネルギーにも負の影響が生じる。

 このメッセージは、極めて感情論として、感情的に発信している。その理由は、世の中の『できない』『中止すべき』との声の多くは極めて感情論だと思っているからだ。

 論理的にリスクマネジメント観点で語る事、状況を統計的かつ客観的に分析する事は可能であり、前向きな情報として発信することも出来る。しかし、それだけでは社会の感情的なパワーには届かない。マイナスパワーの方が多いのが論理的であれば仕方がないが、極めて感情的であり、論理だけでは押し戻せない。

 東京五輪は開催して欲しいし、開催するべきと信じている。代表選手だけでなく、選に漏れた選手も含めて多くのアスリートの人生を支え、チャレンジする価値を高めてくれる。その姿を見ることで、多くの人は正のエネルギーを得ることが出来る。その結果が社会に還元される効果が大きいからだ。