政治と金の問題、本質的には不正な使用、収賄などで私腹を肥やす事を規制することが目的のはずだ。本来の政治目的以外の行為を禁ずることだろう。ならば、政治だけの問題ではなく、広く一般の社会活動において同様の問題であり、政治特有の問題では決してない。
しかし、最近の政治と金に対する報道のされよう、一般国民の認識がズレてきて、お金を使う事自体を批判する風潮が高まってきている。あたかも、一般家計の支出と比較して無駄使いの様な印象操作を元に庶民感覚で理解されないと批判が展開されている。
文書交通費の問題が典型的だろう。1日の稼働で100万円支給されたことに、日本維新の会小野議員が声を上げたことから始まった。印象として「1日であぶく銭が100万円のぼろもうけ」となり、「日割り支給」「返還」「領収書添付」などの議論が展開され、以前の投稿で違和感を表明させてもらった。
「経費の不透明な無駄使い」を政治家が殊更追及されるのは、その経費は税金で成り立っているからという論理であろう。しかし、企業における経費の無駄使いも、損金として処理され、納税額が減少する構造なので、同様に税金に関わる事を理解していれば政治家特有の問題ではない。
「我々の税金を無駄使い」というのと、「我々が支払った代金(商品、サービスの対価)が不当に高い(企業の無駄使い、暴利)」と同義であり、「無駄使い」の判定は、金額の大小ではなく、それによって得られるメリットが対価に見合うかどうかなのである。
そういう意味で、小野議員が声を上げたことに、東京都知事選挙当時から応援していた立場からも残念としか言いようが無いのである。「100万円という想像以上の経費予算に、それ以上の成果を挙げる責任を痛感し、改めて身が引き締まる思いです。見合う成果をお約束するために活動を強化します」と言って欲しかったのである。
企業の経費に立ち返ってみよう。一部上場企業の管理職クラスで、月額100万円程度の経費予算を持っている人は多数存在するだろう。部下の人数にもよるが、出張費・交通費・通信費・文書費・資料費・会議費・交際費・試作費・外注費など合わせて決して望外な金額ではない。通常は、年度計画の中で組織運営に必要な経費を申請し、一方で売上や利益額という成果の計画をコミットして成立するのである。あくまで成果を出すために経費を使う事が前提である。
これを政治家に当てはめてみよう。コミットする計画とは、選挙における公約に他ならない。この観点に立脚すれば、予想外の経費予算が計画されている事実に初めて気づいたのであれば、政権公約以上の政策実現を立案し増強計画として世に問うべきであろう。それは規模でも良いだろうし、実現スピードでも良いだろう。有権者は、その成果をもって次回選挙で判定すれば良いのだ。
月額100万円の経費を家計費に置き換えれば、かなり裕福な富裕層であろうし、贅沢だと庶民感覚では批判されるだろうが、それは適切な批判ではない。100兆円規模の計画予算を持つ組織の経営責任者が使う経費としては、余りにも少ないと考えるのが、投資対効果、経営感覚だからだ。
<日本に未だに巣くう貴穀賤金思想>
貴穀賤金思想は、江戸時代に徳川家康がすべての武士に徹底させた朱子学の教えによるものである。主君への忠誠を誓わせて国家運営の安定を図ったとされるが、その弊害として根付いた思想とされる。江戸時代において経済はすべて米を基準として、金銭の取り扱いを卑しいとし、質素倹約が尊いとされた。
しかしよく考えれば分かる事だが、米は農産物であり豊作時には供給過多で米の価値は下がり、凶作時は米の価値が上がる。そして農業生産力を高める施策により生産量が増える事で、頑張った結果、供給過多のデフレ経済停滞に陥る構造であった。
かつての歴史教育においては江戸時代の3大改革として享保・寛政・天保の改革を称賛していたが、基本的に質素倹約を主にするものでしかなく、マクロ経済面で考えて最近は、愚策であったと評価される向きも多い。
この様な時代でも問題意識を持った傑物は存在した。しかし前述の時代の空気、価値観が正当な評価をせず多くは不名誉な扱い、排斥されている。荻原重秀は新井白石に、徳川宗春は徳川吉宗に、田沼意次は松平定信に追い落とされ不名誉な烙印を押された。歴史家も資料絶対主義の為、当時の批判的な資料の数々を元に不名誉な烙印を是としていた。当時の空気感が残した資料において、批判されているからといって、それが正しい評価とは言えないにもかかわらずだ。
この構造は、昨今の社会においてマスコミが「政治と金の問題」、「税金の無駄使い」と煽り立て、財政支出に対して「財政赤字拡大」「将来世代へのツケ」というレッテル貼りで緊縮財政を美徳とし、政治家の質素倹約を求め、果ては増税を仕方がないという印象操作につなげている構造に酷似している。
経済は投資が活発になり、通貨の流通が増える事で好景気になっていく。家計簿感覚で、爪に火を点すやりくりでマクロ経済を語れば、緊縮経済でデフレ、不景気になるのは自明。結果、失業問題で社会が混迷化するのだ。
政治家の評価は、使う金の倹約度合いではなく、結果として何を生み出したのか、どの様な規制改革を実現し社会に貢献したのか、どの様な社会問題を解決したのか、日本の世界の中での位置付けをどれだけ高められたか等の成果で評価すべきなのだ。
もちろん、不正はダメだ。それは法治主義として法に反する行為が許されないからだ。しかし、法で許されている範囲であれば、何が問題なのか。昔に比べれば、政治資金規正など雁字搦めで現在摘発されている不正はある意味、規模的に小さくなっている。これ以上雁字搦めで何も出来なくして良いのだろうか。
「政治には金がかかる」と言われているが、本音で認めていないから批判しか生じないのだろう。政治は、もっとダイナミックにイノベーションを起こし、国家を支える壮大なビジョンを支えるものであり、志を持った人間が目指す夢の職業であるべきでは無いのか。
官僚も本来であれば、同様の夢ある職業であり、志を持った集団でなければならないが、過重労働で、ミスが一切許されない、攻められるだけの立場となって、不人気就職先に成り下がっている。
政治家なんて信用できない。というのは、間接民主制の否定でしかない。選挙という手段で選んだのは有権者なのだから、選んだ政治家を信用できないなら、自分の信じる独裁者による専制政治を望むのだろうか。意義があれば、自身が出馬して、変革を生み出せば良い。自分は斜めを向いて何もせずに、社会が悪いとグレる反抗期は民主主義の有権者としては無責任でしかない。
日本は、これでいいのか。