島根県知事の主張、動き方に対して物申す

島根県丸山達也知事の一連の動きが物議を醸している。あたかも五輪反対の様に受け取っている人も多いのではないだろうか。しかし、中身はそうでもないのが実態なのだ。まずは、主要発言を列記し、検証してみる。

「新型コロナウイルス感染症対策の改善・強化がなされないままでは、今夏、東京2020オリンピック・パラリンピックを開催すべきではなく、また、そのプレイベントである県内での聖火リレーについても、中止と判断せざるを得ないと考えております」

漠然と感染症対策の改善・強化と言っているが、具体的に何を示しているのかこの文脈では不明。メディアや根強い五輪反対派(この層はコロナは関係なく反対)は、我が意を得たりと言わんばかりに、五輪反対キャンペーンを強化し、多くの国民は島根県が『五輪反対宣言をした』と誤解している状況だろう。

「東京オリンピックをこういった(逼迫した現状の)事業者(島根県の飲食店)のみなさんが快く受け入れられる状況にはありません

少々首を傾げるのが、島根県は緊急事態宣言の対象ではなく、時短などの要請は県独自の施策であり、本来通常営業をしても良い環境、感染状況ではないのだろうか。緊急事態宣言下の地域との往来、観光事業としてGoToなどを要望しているのだろうか。メッシュ細かくゾーニングして対策するべきだとメディアも専門家も言っているはずだが、全国統一の規制が必要と言わんばかりの、同調圧力に侵されて、県民を苦しめているのは県政ではないのかとも感じる。

「すべてとは申しませんが我々の地域で飲食店が残っていけるような別途の給付金の支給が必要だということで要望させていただいている」「日本の政治とか経済の世界ではルール破り、常識を外れたことをやっていることは分かります」とした上で、「この状況で我慢をしてオリンピックを受け入れるのが国民の義務だとは島根県民の方々には言いがたい

結局、金の無新なのか?

一連の島根県知事の主張に、吉村大阪府知事が共感するとして発信しているのが、

情報はすべて東京目線の発信。島根県知事からすると、地域経済は疲弊していると思う。観光や飲食は打撃を受けていて、全国から人が来ない。苦しい中でこれ(聖火リレー)をやるんですか?社会経済と感染対策の両立を図る、こういうところにもっと力を入れなきゃわれわれはやっていけない、ということでは」

地方が観光事業に立脚した経済基盤で成立している状況からも、地域経済の疲弊には手を打つ必要があるのは、その通りだろう。しかし、首都圏と地方とは、感染状況もその影響も同様に格差があるので、均一化する事は出来ないというより、するべきではないだろう。当然、地域によってバランスのとり方も異なるべきだが、その事を、『五輪反対』『聖火リレー反対』に繋げるのは、無理筋だろう。

これに対して、自民党竹下亘元総務会長の発言は、

「発言は不用意だ。注意しようと思っている」「・・・知事が決めるこっちゃねえだろう」

極めて乱暴に聞こえるし、国民向けの説明ではない為、国民目線では説明不足に感じるが、本質的に言わんとしていることは、地方と国の政治家同士の諫言としては理解できる。別に国から地方に対しての上から目線ではなく、無理筋を窘め、言っている事と求めている事が違うという事を言っているのだろう。

国が新型コロナウイルス対策の財源として自治体に交付する「地方創生臨時交付金」に地方と都市で格差があるのは事実だ。その部分の是正を求めるのであれば、その合理的な必要性を元に具体的な是正案を公に示し共感を得る必要があるだろう。

休業要請せざるを得ない状況があれば、緊急事態宣言発出の要請をするのも一つ。独自の対策の必要性があるのなら、その科学的合理性の説明とそれによる支援要請の具体的な提案。どちらにしても、具体的な要求を示さなければ、単なる駄々っ子の愚痴でしかない。これはサラリーマンだったら新人レベルに教育する事項であり、反対ではなく、前向きな提案をセットしなさいと教育される極基本的な心得すら出来ていない幼稚性がある。ましてや、聖火リレーに協力出来ないと持ち出すのは、国家事業を人質にした、不当要求の誹りを免れない。

青空の下で聖火リレーを実施する事で感染リスクが拡大するとは到底思えない。

県内の飲食業の苦しい状況を打開する為であれば、寧ろ、この聖火リレーを活用して、飲食業にお金が落ちる様なキャンペーン、工夫をするべきであり、この様なやり方は逆効果でしかない。

真っ当な事業ではなく補償で苦しい状況を凌ぐのは、他に方法が無く仕方がない状況に限られるべきで、出来うる限り事業が活性化する様にしなければ、本当の意味での復興はあり得ないし、復興なくしてコロナ禍からの脱却はない。

地方経済を立ち直らせるためには、寧ろ、GoTo再開を要請するべきであり、感染リスクを云うのなら、緊急事態宣言下以外の地域の行き来を活性化するべきではないのか。

少し考えるだけでも、いくらでも打開策は出てくる、もっと考えれば、いくらでも出せるだろう。 この一連の動きをもってして、五輪反対運動に繋げる事だけは、絶対にやめて欲しいし、その様な事態を招いた島根県知事の罪は重い。

東京都の公園施設閉鎖措置に対する異議申し立て

東京都の公園施設閉鎖は、全く意味不明である。

人によって考え方が異なり、意見も異なるのは当然の事であり、多様性の尊重と言われるまでもなく、各人の主義主張は、それが責任を持った主張であれば尊重されなければならない。しかし、物事を決めて前に進める為には、異なる意見も交えて、議論した結果、決められた結論は決して総意ではないだろうが結論として、異なる主義主張の人間も従わねばならないのが民主主義のルールである。勿論、個人の主義主張を曲げろという訳ではなく、その後の言論も自由であるべきだが、ルールに従わない場合、或いは、言論の自由を笠に攻撃的で相手の名誉を棄損する行為や公序良俗に反する方法論は処罰の対象となっても仕方がない。それ故、結論を決める時の民主主義的ルールは厳格であるべきであるし、決められた根拠の説明責任が必要不可欠なのである。

前置きはこの辺にしておいて、

東京都が2月22日に、2月27日から3月7日までの公園施設閉鎖を発表した。目的は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止である。しかし、感染は収束に向かい、新規感染者数は11月水準にまで下がっている。減少スピードの停滞を問題視しているのだろうが、いつかは飽和するのが自然現象であり、決して緩みの影響ではないと断言しても良い。ましてや、屋外の施設など閉鎖する事にどの様な科学的根拠があるのだろうか?不明である。

『人流増が感染増加につながるのは当たり前だ』という事が絶対真理の様に語られ、多くの人が無条件に信じている。しかし、未だに人流増と感染増の因果関係を示す統計的根拠は示されていないのだ。あのGoToトラベルが感染拡大につながるエビデンスはないと言った時に、因果関係がないエビデンスもないと実しやかに『悪魔の証明』を求めていたのも記憶に新しい。如何に言いがかりであるかは、少しでも数学的論理展開を理解していれば自明なのだ。マクロ的に考えれば、GoTo実施時期、拡大時期に感染がどの様な状況だったのか、オープンデータで調べれば明確なのだから。

それでも、『人が動かなければ、ウイルスも動かない』というのは真理である。しかし、ウイルスが動いても即感染リスク増とはならないのだ。単純化するとAとB両者がウイルスを保有するキャリアだったとしても、位置を入れ替わるだけでは感染リスクは増大しない。もう少し複雑に考えても、感染者の移動が地域内であっても、域をまたいでも、通過した空間の時間積分値が感染リスクなので変わらないのであり、ロックダウン、いや完全隔離でもしないとリスクは同等なのである。その事は以前投稿している『感染拡大と因果関係のない対策』にも書かせて頂いている。

筆者の経験値も含めた持論になるが、無症状者の感染拡大よりも、軽症者含めた有症状者の行動制限を厳格化する事が最大の感染抑止効果につながるのだ。何故なら、無症状者と有症状者を比較して、ウイルスを含んだ飛沫を飛散させる量が圧倒的に有症状者の方が多いからである。従って、健康な人間がどれだけ移動しようとも感染拡大への影響は僅少と考えるべきなのだ。

更に、今回の東京都の対策は、3密とは無縁の屋外施設の制限に及んでいる。これには、開いた口が塞がらず、説明責任も果たされていない。

筆者の想像であるが、『緩み』を抑えるための精神的制限策に思えるのだ。これは、悪い言い方をすれば『煽り』もしくは『脅し』である。人々を煽り、脅し、恐怖により人々の行動を抑制しようとしていると言われても仕方がないのだ。事実、メディアやメディアで発言する専門家と称する人達、専門家でもなく知識もないのに適当に情動的発言を繰り返すコメンテイター達により少なからず、恐怖支配の構造で世論が影響を受けている。毎日の様に、正論と言い、正義を振りかざし、人流を悪と非科学的に喧伝され続けているのだから。

この構造は健全ではない。正しい情報が不明であれば、両論併記が大原則であり、両論の情報公開と一方的な排他的正義による断定を止めるべきであり、施政者はそれを政局に利用しては絶対にならない。

もし、『緩み』が問題であるのならば、その改善策は『煽り』『脅し』ではなく、『説明責任』『情報公開』でしかないのだ。国民は、客観的な情報に基づき行動するのだから。

五輪を開催できない理由は全く無い

冷静に考えて欲しい。何故、これ程までに開催国である日本の与論が開催に前向きでないのだろうか、その理由は何なのか?脊髄反射的に、『コロナ禍で出来る訳がない』『公平な競技が出来ない』『そんなお金があれば補償に使うべき』などなど。私に聞こえてくる限り、合理的理由になっていない、単なる言いがかりに聞こえてくる話が殆どだ。だが、そう感じるのは少数派らしく、猛反発を食らうかもしれないが、アスリートファーストで考えた場合に、どうしても黙っていられないので語らせて頂く。

『コロナ禍で出来る訳がない』だが、何故コロナ禍では出来ないというのだろうか。既に、様々なスポーツ大会は開催されている。プロ野球、サッカーJリーグ、大相撲、卓球、水泳、体操等、その中で感染拡大の問題は聞こえてこない。海外に目を向けても大リーグ,アメフト、バスケ、テニス、ゴルフなどなど開催されている。即ち、世界的にコロナ禍において、スポーツの大会を安全に開催運営するノウハウは獲得しており、これからも最後まで知恵を結集した、より安全な運営の模索は可能である。森前会長がコロナ禍でもやると言い切ったのは、言葉足らずだったかもしれないが、それだけの安全対策、リスク低減策に手ごたえがあっての事なのだ。ましてや、北半球が夏季に向かい、ワクチン効果も少なからずあるのだから反対する理由にならない。

『公平な競技が出来ない』に関しても、確かに国ごとに感染状況が異なり、選手派遣どころではないという事情もあるかもしれない。選手選考も困窮を極めているかもしれない。しかし、そもそも今までの大会で全ての選考が公平だったと言い切れるのだろうか。ボイコットやドーピング問題だけでなく、通常の選考でも悲喜交々であり、その時の状況、環境に大なり小なり影響を受け有利不利はあっただろう。それもドラマだ。そして、今回は突然でなく1年延期しての時間的猶予もあった。出来ない理由にはならない。

『そんなお金があれば補償や医療対策に使うべき』。いやいや、それは別の問題であろう。これだけ財政出動している状況で、五輪がなくなったらそのお金が余ると考える方が間違っている。必要なお金は、赤字国債発行してでも予算を組む状況なので、全く論点がズレている。

冷静に考えて欲しい。コロナ禍以前から、根強い反対層が存在したのは事実だ。その方々は、信念を持っておられるのだろう。しかし、多くの方々は、今のメディア報道の影響を受け、感覚的な感情論、排他的な思い込みが形成されてしまい、冷静に落ち着いて様々な情報を俯瞰して考えた結果とはとても思えないのだ。冷静に考えれば、開催できない理由はことごとく解消されており、世界的に外堀も埋まっているのだ。もし、反対論が出るとすれば、政治的な利害関係が伴うものと理解するべきであり、コロナ禍は言い訳に過ぎないのだ。

思い出して欲しい、出来ないではなく、どうやれば出来るのか考えて欲しい、という魂の叫びを。アスリートの心の叫びに少しは耳を傾けて欲しいのだ。

<組織委員会会長選出でもイチャモンが多すぎる>

森会長辞任を受けた、組織委員会の会長選考に当たって、皆が納得する答え、国民をステークホルダーとする国民参加型の意思決定とプロセスの透明性担保が必要と毎日の様に報道されている。川渕氏が一時内定された様に報道されたのは、何も川渕氏が自ら発表した訳ではなく、マスコミが直撃インタビューしたスクープの結果なのに、密室での決定と言い放つ。ご本人も、正式に推薦されればと前提を置いて話していたので、候補としての意気込みや使命感を語ってくれた内容だった。人事のプロセスにおいて事前に情報が洩れると破談になる典型例だろう。なのに、透明性を担保しろという?

国民参加の透明性確保は理想論であろうが、現実的なのだろうか。国民投票でもしろというのだろうか。その様な時間の猶予が無いことぐらい分かるだろう。そもそも、各理事が国民の意見を代表して理事会で発言するべきなのだが、そこから手を付けていると、制度改革や規則改定など様々な手順が必要不可欠で、何年先の話になるのだろうか。組織が機能不順に陥り、短期間で結果を出さなければならないのであれば、強力なリーダーシップがなければ何も解決しないことは、マネジメントや組織論を少しでも理解していれば自明なのだ。権限移譲が不可欠であり、総意などあり得ないのだ。

何か答えを出したら、何かにつけてイチャモンを付けるのが今のメディアだろう。つまり、どんな答えでも納得性を失墜させる強力な力をメディアは持っている。その逆風を真っ向から受ける状況下、所謂、修羅場に身を投じて結果を出せる資質は、綺麗ごとでは身につかない。寧ろ、平時は嫌われ者で、敵の多いタイプでないと出来ない汚れ仕事なのだ。

そんな修羅場をリアルに想像できる人間は実際には殆どいないだろうから、皆の総意では組織は破綻するのは当然なのだ。

不要不急の外出は感染拡大どころか国民の健康促進に繋がる

一般的にインフルエンザや風邪など上気道感染症は春から夏にかけて、感染は下火になる。しかし、新型コロナは、小さいとはいえ一定の感染拡大が発生した。この事実に対して論考、夏にも感染拡大が発生した要因の仮説検証する医療系専門家は、私の知る限り多くない。説明できない事から逃げて、それ程感染力が強いと言わんばかりで、何でも危機感を煽る方向にもっていく。とても科学者のスタンスとは思えないのだ。

発生する事象には必ず原因がある。複合要因もあり、単純化は困難な場合が多いのも事実だが、しかし、追及の考察は可能であり、そういった一つ一つの仮説と検証が、一歩ずつ事実に近づく唯一の道なのだ。医療分野は素人である筆者だが、理学部卒業後、企業でも様々な科学実験と開発、統計的手法も駆使してきた知見を以って、一つの仮説を提唱する。

その仮説とは、紫外線量の強まる春先、特にゴールデンウィークの期間、国民の多くが巣ごもりを行うことで、例年と比較して日光を浴びなかった為ではないだろうか、というものだ。

日光浴の効果として、様々あるが、その中でもビタミンDの体内での合成がある。このビタミンDは免疫力調整機能があり、実際にインフルエンザや風邪などの予防効果があるのだ。冬季に風邪が流行るのは、低温・低湿度によるウイルスの活性化が主に言われているが、紫外線量低下によるビタミンDの体内濃度の低下で免疫力が低下する事も一因と言えるのだ。

従って、折角紫外線量が多くなり、ビタミンD合成が増やせる時期に、巣ごもりをしたと云うのは大きな痛手であったのは間違いないと考えられる。

つまり、日中の外出は不要不急でなく、人間の健康に必要不可欠な行為である事が示されたのだ。

<人流を抑えても感染は収まらない>

もう一つ、常識として語られている非科学的な説が、人の行動が感染拡大に繋がるという事だ。ある条件下での行動が感染拡大に繋がることは事実だが、感染蔓延状況、ウイルス常在環境においては、それは当たらないのだ。

ある条件とは、非感染地区と感染地区が明確に区分できている状態、隔離されている状態を示す。その状態で、感染地区と非感染地区を人が移動すれば、当然のことながらウイルスも持ち込まれて感染が拡大する。

しかし、感染地区内での人の移動に関してはどうだろう。地区内での行動を一切禁じれば、感染拡大は無くなるだろう。それは感染地区を最小区分である個人単位とする強制隔離に他ならないからだ。それが出来ない自由主義国家においては、感染地区内での行動は一定量発生し、その時点で、感染地区内のウイルスの濃度は均一になっていく。

では、ウイルス濃度の異なる地域を跨ぐ行動の場合はどうだろう。濃度の低い地域は、行動により濃度が高まる可能性はあるだろうが、同時に元々高い地域の濃度は低下するのだ。地域を跨ごうが跨ぐまいが、ミクロで1人の感染者が発出するウイルスが同量だとすると、全国をマクロ的に見た場合濃度は等しくなる。寧ろ、全体的の濃度を薄めた方がリスク対応はやり易く、一部に集中するよりも、日本の皆保険制度、地域に根差した医療の力の発揮しどころのはずだ。

従って、GoToトラベルで人の移動を活発化させ様とも、一定の感染抑止行動さえ実行できておれば、感染拡大の要因とならなかったのは当然なのだ。2回目の緊急事態宣言時の時短要請も、対策が甘く、これでは収束しないとメディアに出演する専門家は猛攻撃していたが、実際は予想を上回る感染減少を示している。人流と感染拡大に因果関係は無い事が証明された。

<新型コロナ騒動で国民の健康促進が図れた皮肉と課題>

未だに、『徹底検査がゼロ化に繋がる』『人の行動が感染拡大に繋がる』と強弁し続け、サイレントマジョリティを騙し、世論を形成し、政府の政策決定にも一定の悪しき影響を及ぼしている。非科学的、非論理的な強弁は、『そうに決まっている』と断定し反論を許さない主張を繰り返し、反論にも『あり得ない』と馬鹿にして無視する事で民主的な議論すら封殺しようとしている。

しかし、実際に起こっている事象は、これらの説とは全く異なっている事は示した。

風邪は万病の元。インフルエンザは既往者や高齢者にはリスクが高い。これらは、新型コロナも同じである。違うのは、発生する症状や後遺症、メカニズムとして未だ解明されていない部分であり、この事は唯一、リスクと考えるべきだろう。しかし、風邪だって全て解明されているとは言えないのが現実で、安易に町医者で風邪だね!と言われるのは、症状だけの判断で、原因不明の場合も実際にあるので過剰反応も適切とは言えない。

言うまでもなく、国家として国民の健康は永遠の課題だ。今回の感染騒動で、日本では、肺炎死者、超過死亡など総数としては減少し、実は健康増進されたとも言える。理由は想定できる

  1. 風邪気味(或いは風邪患者)の人の外出自重風土が生まれ、人に移すリスクが減少した
  2. 不要不急の病院受診を控える事により過剰な医療が制限された

この2点に尽きるのではないだろうか。この事は、今後も継続するべき事項だ。加えて、人流は抑えるのではなく、適切な外出による活動を促し、個々人の免疫力強化促進する事で、更に良くなるだろう。

そして、残存する課題は、新たな新型コロナの後遺症含めた症状のメカニズムを解明し、治療方法を開発することだけではないだろうか。インフルエンザのリレンザやタミフルに相当する薬の開発が出来れば全く問題なくなるだろう。

人権派の攻撃は対象の人権を蹂躙する

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。発言は撤回され謝罪をして、IOCも一旦、問題は終わったと幕引きを図ったが、人権派の攻撃は過激化し、世界的世論も背景に同調圧力も加わり、公開処刑、私刑にも似た状況になっている。

森会長の発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、この様な騒ぎに発展しうるリスクを軽視し、自身の責任ある立場による影響力も軽んじたと非難されても仕方が無く、本意でなかったとしても、決して許されるものとは思えない。だからこそ、撤回し謝罪したのだろう。

日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と国際社会に評価されてしまうマイナスは大きい。ジェンダー・ギャップ指数が121位と低迷しているが、その中でも政治分野が144位と最悪なのだ。しかし、この順位が実態を本当に反映しているのだろうか、真の問題が見えなくなっているのではないだろうか、疑問に思っている。

実際、性差別は今でもゼロではないだろう。そして、差別は性差別だけでなく他にも様々ある。人は等しく平等で、人権は守られるべきだが、何故か差別は発生する。それは自己を優等種、或いは正義とするが故にそれ以外を劣等種、悪とする、自己正当化の原理主義、排他的なエゴなのだ。

そうやって考えると、性差別自体は社会悪である事は間違いないが、同時に森会長をバッシングする事象も同様の排他的な社会現象ではないのだろうか。好き嫌いあろうとも一定のリスペクトは必要であり、今の現象は不快感を通り越して忌むべきと感じるのは私だけだろうか。謝罪会見でも、逆切れも悪いが、質問の仕方が余りに下劣なのも問題と感じる。

百歩譲って、絶対悪だとしても、弁護人もなく私刑の集中攻撃に処して良いのか。釈明の余地を与え、つまみ食いでなく全容を正確に把握し、敵対するのではなく一定の寛容性も持ち、発言に至った背景の問題性を冷静に提起し、解決策を前向きに議論すべきではないだろうか。

森会長より発言があった際に、異論を挟めない空気感も問題とされているが、逆に、今森会長擁護発言を発信出来ない空気感、同調圧力が世間で出来上がっている。発言した瞬間、女性の敵、人類の敵扱いで攻撃を受けるだろう。その空気感で、遺憾の意を表する発信も増えている。これでは、集団リンチといっても過言ではない。

野党は政府に会長に辞任を要請する様に国会で答弁している。しかし、政府に人事権は無い。人事権を有する学術会議の人事に対して攻撃しながら、人事権の無い組織への政府の人事介入を言う神経が理解できない。

何より、女性アスリートと今回の発言に何の繋がりもない。オリンピックの主役は言うまでもなくアスリートだ。アスリートファーストで考えるならば、大会直前に何かにつけて反対活動の大騒ぎをするのではなく、本当に前向きに開催に向け、応援するメンタリティが必要だ。裁くべきがあれば、後に裁けばよい。今は純粋にアスリートファーストであるべきではないか。今回の事象の被害者はアスリートである。加害者は、森会長含め日本社会だと糾弾したいのだろうが、糾弾する側もアスリートを無視した加害者になってしまっているのが残念でならない。

逆境であればあるほど、アスリートの為に、騒がず、前向きに立ち上がるべきなのだ。

<ジェンダー・ギャップの現実と課題>

少し話題を戻し、オリンピックではなくジェンダー・ギャップの問題について考えたい。

日本が最も劣っているという政治の世界を見る為、2019年に行われた参議院選挙、直近の国政選挙の数字を見てみる。全体では、当選者124人中、女性は28人、22.6%である。立候補者総数370人中、女性は104人で28.1%。その差は、5.5pであるが、これをどう評価するか。

<総務省選挙関連資料令和元年7月21日執行参議院議員通常選挙速報結果より集計>

この中で特筆すべきは、与党の女性候補者の当選確率が85%を上回っている事だ。与党から出馬すれば、ほぼ当選しているという事だ。逆に野党は20%を下回っているのだ。

この数字から結果としての男女平等に近づける為には、与党の女性候補を増やすことが有効だと分かる。しかし残念ながら、与党からの立候補者の女性比率が13%前後と低いことが課題だろう。野党は50%に近い候補を擁立していても、当選率が低く、ある意味泡沫候補で数を揃えても意味が無い事が示されている。

従って、本当に実力があり、モチベーションも高い女性候補者を少しでも多く育成していくことが最短にして最大の対策になるだろう。

大学までの教育環境で、それ程大きな性差別は数字としては無い。というより学部学科による志向の違いで発生する差はあるが、合格に対して基本的に男女差は無いはずだ。では、社会に出る際はどうだろう。基本的に雇用機会均等は進み、最近の定期採用者の女性数は激増しているはずだ。しかし、管理職候補生は、まだまだ圧倒的に男性の方が多いのが現実だろう。選考に当たってはインセンティブという名の逆差別が堂々と行われているが、それでも簡単に差は埋まっていない。ここに課題がある。

それは社会構造の課題もあるだろうが、女性自身の意識、モチベーション向上なども不可欠なのだ。そんなに簡単ではないだろうが。

臭いモノを力で封じ、正義を押し付ける、グローバル的感覚では問題は本質的に解決しない。分断を生み出し、亀裂を深めて、見えなくしているだけである。排他的な原理主義で形や数だけ合わせるのではなく、遠回りかもしれないが、本質的な意識改革が必要であり、それが可能なのは、寧ろ日本社会の方だろう。

巨大情報企業の情報規制が及ぼす問題性

世界的巨大企業であるGAFAが、世界中の情報に一定の統制力がある事は誰も疑わない。トランプ前大統領のアカウントが停止されたことも記憶に新しい。建前としては、民間企業として自社のポリシーに則った規制は何も問題ない。しかし、世界中の情報を統制管理する力を持ったメディアとして、社会的責任もあると考えるべきだろう。

今、新型コロナに関する情報発信には規制がかかっている。建前は、世界的危機事態なのでデマゴギー等の情報拡散による混乱を防止する為であり、Expertise(専門性)、Authoritativeness(権威性)、Trustworthiness(信頼性)を盾に検閲まがいの事も行われている。

確かに、特にネット上には疑わしい情報も多く、玉石混交の状態である事は間違いない。しかし、前述の検閲で適切な評価が行われているとは思えず、内容の判別すら恣意的ではないかと疑わしいのが実態である。

実際にあった話をしよう。

昨年8月末にKindle電子出版で拙著『ファクターXの正体』~新型コロナに関する書籍を発刊した際の話である。最初は取り扱いできないとの断りの回答が来た。その理由を問い合わせつつ再申請したが、公式の情報以外は取り扱えないとのことで2度目も却下だった。間違いなく、内容を読まずに審査していると感じたので、1次情報として政府発信の情報を利用、札幌医科大学にも連携したデータを活用し、統計的・科学的・論理的考察を行っていることを主張し、再々申請を行ったところ、ようやく承認されたのだ。

つまり、情報の内容ではなく、筆者が無名であり、医療関係者でもないが故にデマゴギー扱いされたのである。確かに他の専門家とは異なる説だろうが、一定の論理性はあると自負していたのだが。読んで頂き、疑いは晴れたのだが、異議申し立てしなければ封殺されていたのだ。そして、Googleアドセンス審査は未だにOKになっていないのだ。

<従来の専門性・権威性・信頼性の概念は通用しなくなっている>

情報の価値に、発信者が有名か否かは本質的に関係ない。専門家であろうとも考え方は十人十色であり異説があるのは当然、寧ろ専門家故の専門常識バイアスも散見されるのも現実だ。テレビで発信している専門家の危機的な憶測が何一つ実現していない事からも、専門家でも絶対正しい訳ではなく、発信情報は同様に玉石混交なのだ。ましてや、他の分野で有名なだけで規制の対象にはならない、情緒的で非科学的な情報発信も多いが、有名であるが故に影響力があるので、むしろ大問題なのだ。

今や、インターネットを探れば、貴重なオープンデータは誰でも取得できる。専門的な論文も、詳しくは読破出来なくても、サマリ程度なら素人でも読み込める。それに対する様々な反対意見も調べれば確認できる。まさに情報発信、議論の俎上に上がるハードルは圧倒的に下がっているのだ。それ故、素人でも本質を突いた情報発信もあるし、専門家でも権威性を前面に押し出しているだけの、非論理的な発信もあるのだ。専門家も人間であり、個人の思想信条をベースにした発信もあるのだから当然なのだ。

即ち、情報の玉石混交状態では、従来の専門性、権威性、信頼性は適切な評価基準ではなくなってきている。従来の基準に則った、情報の選別は、良識ある情報の封殺にも繋がり、悪質なデマゴギーをのさばらせる原因にもなってしまうので、改めるべきなのだ。

<多様化する玉石混交情報社会での日本の位置付け>

GAFAなどは、自分たちの基準をグローバルスタンダードであり正義と称するだろう。これは、実は自分達の価値基準内では寛容だが、それ以外を悪とする極めて排他的なものなのだ。これは、宗教的思考基盤によるので、一朝一夕には改められないのだ。

一般的には殆ど語られていないが、グローバルとは、文化的侵略の一面がある。グローバルの発信源は、聖書を軸とする契約ありき、唯一絶対神を持ち、白黒、明確に判別する文化背景にある。一方で、日本は多神教国家として正義と悪の区分すらアナログ的で、生前は悪でも死去後に善の神になる大転換すらある。日本の文化的背景、宗教的背景の違いは、実は日本人自身が認識しているよりも遥かに大きいのだ。

GAFAは言うまでもなく、グローバル企業であり、それらの判断基準はグローバル基準である。グローバルは、多様性に寛容であるべきと言いつつ、異論には極めて排他的なのだ。しかし、日本の文化、良さは、多くの神を受け入れる寛容性を持つほど、実は多様性に関しては、国際的に先頭を行くべき存在なのだ。遅れていると評価されるのは、グローバル基準からの評価であり、日本人の奥ゆかしさから反論をしないで受け入れてしまっている結果に過ぎない。

この情報侵略ともいえる状況に抗う為に、日本が大きな役割を担う必要がある。グローバル基準も柔軟に受け入れつつ、他のマイノリティも尊重し、融合していくのは、本来的に日本の得意技だからだ。

その為にも、日本人一人一人の情報リテラシーを高め、アンテナを高め、自身の思考による意見表明と、反対意見にも耳を傾け、丁寧な議論が出来る様になる事が重要である。方法論として、教育から見直す必要もあるかもしれないし、電波メディアのワンセンテンス発信に流されず、しっかりと活字を読む力も養成する必要がある。本当の意味で、『広く会議を興し万機公論に決すべし』、『和を以って貴しと爲し』、が必要になってきたのだ。

女性蔑視発言に対する世間の反応から見えてくる本質的な問題

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。謝罪はしたが、辞任する考えもなく、会見では更に火に油を注ぐ様な印象を与えたのではないだろうか。全力で五輪開催に向けて、後ろ向き意見を乗り越え、どうやったら出来るのか、前向きな知恵を結集し、ある意味イノベーションを起こす必要がある状況だと考えているが、誠に残念である。

この発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、決して許されるものとは思えない。日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と思われる大きなマイナスなのだから。

五輪問題は一旦置いておいて、本質的な問題である、ジェンダー・多様性に関する事を考えたい。

昼の番組での信州大学特任准教授の山口真由氏の意見が秀逸であった。それは、男女平等を訴えるばかりに、本音では反対意見を持ちながら、言い出せない雰囲気で封殺し、解決に必要な反対意見が聞こえてこない事が問題であると指摘。そして、海外などの状況も表面上は女性の社会進出が進んでいる様に見えるが、反対意識も根強く存在し、臭いものに蓋をしているだけなので、この様な本音の意見は実は貴重で排除すべきではないとの趣旨だった。

男性陣の発言は、時代の変化を認識するべきだとか、思っていても言うべきでないとかの意見が主だったのが対照的だ。それは、実は本音では男女平等に対して反論はあっても、時代が変わったので仕方がない、言わない、言えないと聞こえて来た。その様な状況で、女性からの本質的な問題提起は貴重である。表面上ではなく、本質的な問題に目を向けないと、本来的な解決は出来ないからだ。

実際に、ポストへの登用数はガイドライン等で数値目標が定められる傾向が強いが、本当は、男女区別せずに、適任者を登用するべきはずだ。適任者の男女比率が実際には等しくない事が本質的な問題であり、その状態で無理に女性から選任する事も同様に不平等であることは疑い様がない。結果の平等と機会の平等のどちらを選択するかなのである。

理想的には、機会の平等を担保し、現実に男女ほぼ同数の人材が育っていて、結果としても平等になることだろうが、現実はそんなに甘くない。

機会の平等を優先すれば、結果としては同数にならない可能性が高く、今現在であれば間違いなくそうなるだろう。それは、女性の社会参画に対するハードルもあるだろうが、それ以外にも個々人の意思、モチベーション、それに伴う経験値や能力の差は現実にあるだろう。

女性側にも厳しい競争環境を戦い抜き、自分を磨き、成長する強い意志と実行力が必要になるのだ。ある意味、女性には厳しい条件かもしれないが、これが本当の平等である。

結果の平等を優先すれば、新たな差別が生じるし、そのことを言及する意見を封殺する環境が出来上がっていく。だから、失言に対して問題の本質を正すのではなく、排他的で、ある意味差別的な攻撃が始まってしまう。

森会長の発言された組織運営幹部からすれば、ガイドラインに合わせ様とすると、現実は無理が生じ、能力のある男性人材が逆差別を受ける事になるという事だろう。そうならない為には、女性人材も、ほぼ同数揃う環境が必要なのだが、現実にはそうなっていないのに、結果だけ合わそうとすると無理が生じるのだ。環境が整っていない事を問題視するべきなのだ。

繰り返しになるが、森会長の発言、会見での発言は批判に値し、女性蔑視と取られても言い訳のしようが無く、決して許されるものではない。しかし、排他的な原理主義による結果平等を絶対正義と称して、本質的な問題を見ず、反対意見を吊し上げ、封殺する行為も決して許されるとは思えない。

この問題意識は、男女平等だけでなく人種差別なども同様であり、日本は、余程、機会平等が進んでいるが、結果平等までには至っていないジレンマを抱えている。逆に、欧米は結果平等を形の上で作り上げる事で分断が深刻化しているとも感じる。

本当の意味での多様性に寛容になる必要があるのだ。人は人の数だけ考えがあり、身体的にも得手不得手があり、個々に尊重されなければならない。個々の意見に問題性があるなら、目を逸らさず、膝を突き合わせて、理性的な議論が必要だ。そこには、必ず真の問題が隠れているからだ。