東京都の公園施設閉鎖措置に対する異議申し立て

東京都の公園施設閉鎖は、全く意味不明である。

人によって考え方が異なり、意見も異なるのは当然の事であり、多様性の尊重と言われるまでもなく、各人の主義主張は、それが責任を持った主張であれば尊重されなければならない。しかし、物事を決めて前に進める為には、異なる意見も交えて、議論した結果、決められた結論は決して総意ではないだろうが結論として、異なる主義主張の人間も従わねばならないのが民主主義のルールである。勿論、個人の主義主張を曲げろという訳ではなく、その後の言論も自由であるべきだが、ルールに従わない場合、或いは、言論の自由を笠に攻撃的で相手の名誉を棄損する行為や公序良俗に反する方法論は処罰の対象となっても仕方がない。それ故、結論を決める時の民主主義的ルールは厳格であるべきであるし、決められた根拠の説明責任が必要不可欠なのである。

前置きはこの辺にしておいて、

東京都が2月22日に、2月27日から3月7日までの公園施設閉鎖を発表した。目的は、新型コロナウイルス感染症の拡大防止である。しかし、感染は収束に向かい、新規感染者数は11月水準にまで下がっている。減少スピードの停滞を問題視しているのだろうが、いつかは飽和するのが自然現象であり、決して緩みの影響ではないと断言しても良い。ましてや、屋外の施設など閉鎖する事にどの様な科学的根拠があるのだろうか?不明である。

『人流増が感染増加につながるのは当たり前だ』という事が絶対真理の様に語られ、多くの人が無条件に信じている。しかし、未だに人流増と感染増の因果関係を示す統計的根拠は示されていないのだ。あのGoToトラベルが感染拡大につながるエビデンスはないと言った時に、因果関係がないエビデンスもないと実しやかに『悪魔の証明』を求めていたのも記憶に新しい。如何に言いがかりであるかは、少しでも数学的論理展開を理解していれば自明なのだ。マクロ的に考えれば、GoTo実施時期、拡大時期に感染がどの様な状況だったのか、オープンデータで調べれば明確なのだから。

それでも、『人が動かなければ、ウイルスも動かない』というのは真理である。しかし、ウイルスが動いても即感染リスク増とはならないのだ。単純化するとAとB両者がウイルスを保有するキャリアだったとしても、位置を入れ替わるだけでは感染リスクは増大しない。もう少し複雑に考えても、感染者の移動が地域内であっても、域をまたいでも、通過した空間の時間積分値が感染リスクなので変わらないのであり、ロックダウン、いや完全隔離でもしないとリスクは同等なのである。その事は以前投稿している『感染拡大と因果関係のない対策』にも書かせて頂いている。

筆者の経験値も含めた持論になるが、無症状者の感染拡大よりも、軽症者含めた有症状者の行動制限を厳格化する事が最大の感染抑止効果につながるのだ。何故なら、無症状者と有症状者を比較して、ウイルスを含んだ飛沫を飛散させる量が圧倒的に有症状者の方が多いからである。従って、健康な人間がどれだけ移動しようとも感染拡大への影響は僅少と考えるべきなのだ。

更に、今回の東京都の対策は、3密とは無縁の屋外施設の制限に及んでいる。これには、開いた口が塞がらず、説明責任も果たされていない。

筆者の想像であるが、『緩み』を抑えるための精神的制限策に思えるのだ。これは、悪い言い方をすれば『煽り』もしくは『脅し』である。人々を煽り、脅し、恐怖により人々の行動を抑制しようとしていると言われても仕方がないのだ。事実、メディアやメディアで発言する専門家と称する人達、専門家でもなく知識もないのに適当に情動的発言を繰り返すコメンテイター達により少なからず、恐怖支配の構造で世論が影響を受けている。毎日の様に、正論と言い、正義を振りかざし、人流を悪と非科学的に喧伝され続けているのだから。

この構造は健全ではない。正しい情報が不明であれば、両論併記が大原則であり、両論の情報公開と一方的な排他的正義による断定を止めるべきであり、施政者はそれを政局に利用しては絶対にならない。

もし、『緩み』が問題であるのならば、その改善策は『煽り』『脅し』ではなく、『説明責任』『情報公開』でしかないのだ。国民は、客観的な情報に基づき行動するのだから。