オミクロン株で岸田首相は全面的な鎖国政策断行だが

オミクロン株(変異株「B.1.1.529」)が世界で拡大し、WHOは懸念される変異株(VOC)に指定したと発表した。VOCは最も危険視される変異株の分類である。現在世界の主流株となっているデルタ株や、デルタ株に感染力で劣るアルファ株やベータ株、ガンマ株が指定されている。

そして、この事態を受けて岸田首相は、外国人の入国について、11月30日午前0時より全世界を対象に禁止した。

この件に関して賛否両論が飛び交うだろうと思っていたら、支持し、賛同する声一色に日本中が染まっている様に見える。少なくともテレビ報道に例外は無いだろう。ワクチン接種率80%を誇る、国民の一体性、同調性を象徴するかの様な現象に、天邪鬼の筆者は首を傾げている。

この件に関して異を唱えた瞬間、感情論のコロナ脳による総攻撃を受けかねない危険性すら感じ、筆者にはこの様な状況に危機感を感じる。それでも、昨年の春頃より、はるかに理解を受けられる可能性も高いとも考えている。

今回の全面鎖国は、危機管理の要諦として最大の危機に備えた対策として称賛を受けているが、本対策による悪影響面が同時に語られていないことに問題がある。どこにもその様な被害に関して語らず、知らず知らずの内に享受させられるのだから。

鎖国のマイナス面は言わずと知れた経済影響である。折角、海外との行き来を再開し、正常化に踏み切ろうとした矢先なのでダメージは計り知れないが、そのダメージを評価せず、無条件で受け入れた形になってしまった。このただでさえ、増税を匂わせる状況下で、経済ダメージを更に強める動きだ。

それでも、オミクロン株による脅威、リスクが高いと判断されれば致し方が無い判断かもしれない。しかし筆者の把握している範囲でその様な脅威の元になる情報は確認できない。この2年間、恐怖を煽られ続けた国民は、新たな脅威に、未知の恐怖を抱いたのかもしれないが。

「ワクチンが効かないかもしれない」、「感染力が高まっているかもしれない」、「空気感染するかもしれない」などが報じられているが、どれも「かもしれない」であり、科学的な確定情報ではない。今までも同じことを言い続けて来た同じ文言ばかりに過ぎない。いや、それどころか、南アフリカでは一人も入院する症状に至っていないとの話もあり、他でも重症化例は聞こえてこない。症状も従来の味覚異常などもなく、倦怠感など風邪やインフルエンザと同等の症状が報告されている。

確かに、まだ母数として少ないが故に全体像を語ることが出来ないと言うのは正論である。しかし、逆説的に言うと母数が少ないということはそれ程拡大していないということでもある。

一旦入れてしまった後では遅いというのも一理ある。しかし、2年もの経験値から「かもしれない」が実現したことはなく、確率で語るべきである。

リスク対策の観点で、オミクロン株の流入を許してしまった場合の被害を想定、確率を元にしてリスク値として評価し、鎖国政策で受ける被害のリスク評価と比較して提示するのが当然なのである。しかも、全面鎖国と言いつつ、完全に流入を防ぐことは事実上不可能なことも忘れてはいけない。

<コロナ対策で鎖国やロックダウンは一時しのぎに過ぎない>

鎖国政策やロックダウンなどの対策は、新型コロナに対しては、効果は一時しのぎに過ぎず、いずれ流入を許した時に総被害としては同等レベルが避けられないことも国際的な経験値から分かっている。

即ち、本来、鎖国政策は時間稼ぎであり、その間に別の策を打たない限り、総合的に見ると何の意味も無いのである。では、日本の現状で時間稼ぎをして何をするのだろうか。

時間稼ぎをしている間に打てる策として有力なのは、高齢者へのブースター接種だろうか。それ以外には、医療資源の最適再配分が柔軟に行える様にする、5類相当にして初期医療体制を強化する等は必要だろうが、今まで手つかずなのに、1か月で対応が可能だろうか。分科会含めて、筆者にはその様な方向性には全く感じないのだが、どうだろう。また、幽霊病床を抱え、患者受け入れ拒否して、医療崩壊だと騒ぐだけでは無いのか。

なぜこの様な状況で総合的に状況を俯瞰することもなく、鎖国が全面的な称賛となるのか不思議で仕方がない。

岸田政権の立ち上げから、親中路線や、財務省どっぷりの増税路線で、保守支持層の批判を受けていた中で、鎖国政策は今まで後手後手だった状況から脱却した唯一評価出来るとされているが、単に世論を気にした大衆迎合に過ぎないだろう。

これでは、世論に阿る姿勢での判断に見え、コロナ対策一本足打法の政策でもあり、再度の緊急事態宣言発出もあり得ると危惧される。

一般的にウイルスはDNAコピーエラーは避けられず、生き残ったのが変異株となる。生き残る条件は、感染力が強くて、毒性が弱いこと。毒性が強まると宿巣も途絶え、感染できないからだ。今回、オミクロン株の毒性が弱まっていると現時点で断言はできない、あくまで「かもしれない」だ。しかし、脅威を感じる「かもしれない」と比較して、当然のごとく確率は高い、自然現象だからだ。

必要以上に恐れて、他への悪影響を拡大させるべきではない。精神的不健康は、身体的不健康にも繋がるリスクが高い。

もちろん、全く恐れるなとも言わない。病気なのだから、あくまで正しく恐れ、正しく対処するべきである。そして、日本における真っ当なリスク評価を行えば、経済損失を拡大し、増税まで背負って対策するべきではないというのが通常の感覚のはず。

その上で、健康管理は個人が心がけるべきである。風邪だって拗らせれば万病の元だから、各人が出来る事を行うべきなのだ。その上で患った患者は医師が、医師法に則って職務を全うすべきだ。その事が、2年の経験で理解出来ないことが全くもって意味不明だ。

外国人の地方住民投票券は国防問題である

武蔵野市の松下玲子市長が発表した外国人に投票権を与える住民投票条例案に対する賛否が戦わされている。これは軽く考える問題ではなく、国防に関わる重要な問題である。

松下市長は、外国人参政権に通じる問題との指摘に対して「論理の飛躍だ。同姓でも離婚する人がこれだけいる中、夫婦別姓制度を実現すると『家族が壊れる』と言っている人に似ている」と発言し否定している。

この否定の仕方事態が論理になっていない。『同姓でも離婚する人がいる』は決して『同姓だから離婚する人がいる』のではない。つまり同姓、別姓に関係なく、結婚は人と人の繋がりなので離れる事もありえるということでしかない。『夫婦別姓制度を実現する』と危険因子が増加し『家族が壊れる』可能性が高まる、不要な争いが起きうることを『同姓でも離婚する人がいる』という事象で否定できない。これこそが論理の飛躍に他ならない。

この様な論理破綻の言い訳を堂々と発言できること自体、自己正当化の詭弁である誹りは免れないというのが筆者の見解ではあるが、そのことはさておき、この問題についてリスク面から考えていきたい。

<外国人への投票権を与えるリスク>

制度のリスクは性善説のみで語ってはならない。悪意をもって実行した場合に、どこまでのことが可能で、どれだけの影響があるか、そしてその行為は事前にどれだけ把握できて、影響最小化のリスク対策がどれだけ可能か、客観的にかつ冷静に検証する必要がある。

悪用の仕方は簡単だ。大人数の工作員を所定の市町村に住所変更させた後に重要な案件(市町村合併、原子力発電誘致、基地建設など)の住民投票を行い、多数の民意を形成して首長が強権を振るうことだろう。これは合法的、民主的な手段による独裁と言っても良い。

これは誇大妄想でも何でもない。歴史的にも、中世に宣教師がキリスト教を布教し、地域に根ざし、植民地支配に移行していく手段は同様であろう。新疆ウイグルやチベットなどへの侵攻も同様。もっと言えば、アメリカ大陸もオーストラリアも結局現地人よりも多数派の移民による、実力行使力獲得によるものといっても良い。

別の例を挙げると、現地の施政権は取れなくても、情報覇権を占有する方法。現代戦において、情報発信のチャネルを寡占し、規制する事は、世論操作や扇動が容易であり、制空権を握るに等しく占領を容易にする効果がある。そして更に効果的なのは、現地の教育現場を占有することだろう。

つまり地方自治体の攻略は、武器を使った攻撃の様な自軍被害のリスクもなく、平和裏に民主的に侵攻を可能にする手段なのである。

実は、日本国内で外国人に投票権を認める自治体は既に43存在し、在留期間を要件に付けない条例は、神奈川県逗子市、大阪府豊中市の2例存在し、武蔵野市は3例目で東京都内では初の事例になる。これほど多くの事例が既に存在することに驚きである。住民は本当に意味を理解しているのだろうか、筆者は疑問に感じざるを得ない。

<国益の全体最適思考が個人の利益にも通じる>

リスクがあるから、それが全て顕在化するとは限らない。しかし、今現在顕在化していないからといって、リスクがある事を否定はできないし、軽く見積もってもいけない。サイレント・インベージョンは現実の脅威と考えるべきであろう。

本来、国防や外交に関わる要件は国政マターの筈である。

全国に43もの侵略リスクの高い拠点が存在することを認識し、その危険性が無いか適宜状況確認を継続する必要がある。本来であれば、住民がその役割を果たすべきだが、恐らく正しく周知されていないのだろうから、正しく周知させる事から始めるべき。

その内リスクの高い2カ所には具体的な対応策が必要だろう。そして今後これ以上増えない様に、武蔵野市における議論を広く周知し、本当の意味でのリスクを周知する努力は必要不可欠だろう。

決して外国人を差別しようと言っている訳では無い。住民サービスや社会保障は外人であろうと、住民であれば享受できる権利があるものも多い。公平に受ける権利が行使できるようにするべきだろう。

しかし、リスクの高い重要事項に関する決定に関与する権利は基本的に住民である前に、日本国民である必要がある参政権に属するものではないだろうか。それは、そのリスクは地域で留まるものではないからだ。

よく言われる例えに、税金を払っているのだから権利も与えるべきだと言うのは詭弁に過ぎない。商品を購入するユーザーは、商品やサービスに関して物申す事は出来ても、株主として投資しない限り経営に口は出せない。それだけなのだ。

市民活動は、何故か、国家の利益を毀損する活動が多い。国家の利益よりも個人の利益を優先するのがリベラルの根本思想と聞いたことがあるが、個人の利益を追求し過ぎて、全体の国家として利益が失われるのなら、結局、個人の利益失墜にもつながることが理解できないのだろうか。これでは、単なる目先の利益、部分最適思考、利己的な利益追求でしかない。

個人と国家の利益やリスクは、あくまでバランスであり、全体最適思考で検討すべきであろう。

政府分科会の辞書には「反省」の文字が無いのか

新型コロナの政府分科会が新指標に合意したと報じられた。政府分科会尾身会長は、新指標について「感染状況を医療が逼迫(ひっぱく)しない水準に抑え、社会経済、日常生活を取り戻すことが目的だ」と説明。「新規感染者数は注視するが、医療逼迫の状況をより重視する」とのことだ。

凡その考え方を下図に示す。

出典:テレビ朝日系(ANN)11/8(月)

どうだろう、問題の本質を分かっていない、反省という事が出来ない集団なのだろうかと改めて痛感するのは筆者だけなのだろうか。

<新型コロナ対策の本質的な問題>

日本の感染状況は、最初から現在に至るまで、常に海外比較で『さざ波』状態で、穏やかであった。色々批判を受け、アジアとの比較や、成功している国との比較と揶揄もされていたが、現在に至って総合的に世界最優秀と言っても過言ではない。問題は、その状態で医療崩壊が発生してしまうという事が日本特有の脆弱性だったのであり、普通の感覚であれば真っ先に反省するべき事項のはずだ。

このレベル2に示す「感染者増加傾向も病床増で対応可」という状態は、病床を状況に応じて増減できれば、このレベルを超える事は本来あり得ない論理だ。逆説的に言うと、病床数を増やせなければ、感染がどれだけ穏やかでも、直ぐにレベルが上がるという事だ。つまり、生殺与奪の権を、一部の医療従事者、いや医療界への影響力を考慮すれば分科会や医師会が握る事になるのではないだろうか。

レベル3の「一般医療を相当制限」はもっと酷い。相当制限とはどの程度の事か全く不明で、恣意的に何とでも言える。それだけでなく、一般医療の定義が不明で、既得権益を守ろうとする排他的な定義としか思えない。村組織の中で縦割りを超えさせない自衛意識の象徴ではないか。

そもそも一般医療とコロナ対応医療を別のものとしている時点で、医療資源の適切な配分など出来様がない。見え隠れするのが、救急医療へのしわ寄せをして自分達のリスクを回避しようとしている様にしか見えないのだ。あくまで、コロナ対応も含めて一般医療として、その配分を現場状況に応じて臨機応変に対応していく事が、当たり前の世界だからだ。百歩譲っても、呼吸器内科系の一括りで治療体制は語るべきでは無いのか。

本来のあるべき姿で考えれば、確保病床数を分母に入院必要数を分子にする指標は、分母さえ増やせば閾値を超える事はあり得ない。また、この指標が50%程度で云々する事も、一般の資源リソース評価としてもあり得ない。

通常のリソース管理は、上限の閾値を80%程度にして、超えそうな70%あたりでアラートを鳴らして資源増強を図るトリガーとする。逆に50%を下回る様な状態であれば、資源リソースの過剰投資として資源の他への転換を図るトリガーとする。これが通常のリソース管理である。結果として、この指標は50%を下回ることが無いのが、正常な資源管理だ。

他の資源再配分と医療は異なる、そんな簡単では無いとの言い訳は聞き飽きる程聞いてきたが、この点こそ国際比較して欲しい。諸外国は見事に柔軟に対応している。いや、せざるを得ない状態に追い込まれ対応しているのだ。比べて、日本の医療体制は幽霊病床で補助金を獲得する等、余りにも悠長ではないのだろうか。第5波になってようやく野戦病院等の施設を唱え始めたが、昨年大阪の専門病床に対しては非協力的で結局、自衛隊出動した。ワクチン接種も歯科医や自衛隊出動するまで非協力的だったのだ。追い込まれたらできる事でも、非協力的であった事は紛れもない事実なのである。

これは、飲食業や観光業、昔はパチンコ屋、夜の街などの弱者、政治的影響力の弱い集団の活動を制限し、一般国民を恐怖で縛り、我慢を強いる事で、医療業界全体としての対応を回避したと言えるだろう。

勿論、その中で実際のコロナ対応医療関係当事者は、本当に患者に向き合い、治療に従事していて、真剣にコロナ対応をして頂いている事は疑い様がない。要は、その人数、資源を増やさない事、増やせない事が日本の医療の構造上の問題なのだ。

筆者は、この構造に対して昨年より指摘し、批判を続けたが、当時は全くと言っていいほど理解を頂けず、逆に心無い攻撃すら受ける状況であった。しかし、今となってはネットを中心に同様の言論があふれ始めている。状況は変わったのだ。

今こそ、この問題点に真摯に向き合い、コロナだけでなく、今後の医療のレジリエンス体制を確保する為に、事実を総括し、反省するべきで、分科会も解体し責任を取るべきだろう。

にもかかわらず、まだ新指標とは、開いた口が塞がらない。

エレルギー問題の対応はバランスが重要

エネルギー問題は国家の安全保障にも通じる重要課題であり、本来国家として一枚岩になって取り組むべきなのだが、政局利用や活動家の具となり、本質的な問題をタブー視する傾向が強くなって久しい。更に、環境問題がここに重なってきて部分最適が進み、混迷が深まっている。

はっきり申し上げる、バラ色のエネルギーなど世の中には存在しない。それは物理学のエネルギー保存の法則に従えば自明なのだ。世の中の様々な事象は、このエネルギーの微妙なバランスによって現在の環境が成立しているのであり、そのエネルギーを他の形に変換して利用する場合、元のエネルギーバランスを崩す事に他ならず、偏れば必ず何らかの歪が生じる。従って、エネルギー利用には歪を最小限にするバランスが必要不可欠なのだ。漫画「ドラゴンボール」の「元気玉」の様に、少しずつ分けてもらって大きなエネルギーに変換する、そういった検討が重要なのだ。

この様に考えると、再生可能エネルギーが環境に優しい究極のエネルギーだという論調も基本の部分で間違っている。

例えば、太陽光エネルギー。パネルの設置による自然破壊、土砂被害の可能性も指摘されるが、それだけではない。そもそも自然の恵みで降り注ぐ太陽光があって地球環境が成立している。光合成により栄養源が生成され、太陽光熱は様々な自然現象を呼び起こす。仮に地球の何割かの表面を太陽光パネルで覆ったら、自然環境は劇的に変化するだろう。

水力発電も当初は水の位置エネルギーを電気に変換する、究極の再生可能エネルギーの様に期待されていたが、その実、自然災害のリスク以外にも、河川環境や下流地域の生態系等にも重大な影響を及ぼす事が分かっている。

変化が微小な僅かな利活用であれば問題が顕在化しなくても、量的に無視できなくなると予想できない何らかの影響が顕在化するのは疑い様が無い。しかも、人類の電力消費量は年々増加、日本もIT化を進めようとする中で電力消費量はこの先莫大に増加する事が報告されている。

更に、CO2削減、実質排出ゼロを目指すとなると、石化エネルギーの燃焼という手段は限定的にならざるを得ない。

以上の様な現実に直面している状況下では、あらゆるエネルギーをバランスよく利活用するべきなのだ。従って、根拠もなく、或いは根拠ある様に見せての原子力発電ゼロ化推進は無責任との誹りを免れないというのが筆者の基本姿勢である。

<リスク管理視点で見た原子力発電>

但し、リスク管理視点で見た場合、原子力発電の事故発生時の被害をどう考えるべきかは、大きな課題である。一度、被害発生した場合その規模は絶大で、発生確率が少々低くても、リスクスコアとしての「被害×確率」は高くなるのが必定であり、この点を考慮する必要性がある。どこまで安全対策を充実させてもゼロにはなり得ないので、リスクスコアは決してゼロにはならないのだ。

但し、福島原発事故以前ならば被害想定が困難で、ともすれば人類存続不能ともされる言質もあったが、各所での大小の事故を経験した今なら定量化する情報が存在するはずだ。是非今一度リスク管理の側面で客観的に評価するべきだろう。他のエネルギーのリスク評価と比較して実はそれ程大きくないという結果になるのではないかと想定しているが、極めて専門的な計算が必要であり、冷静な議論が必要だろう。

そして、何より危惧しているのが、技術力の低下だ。筆者が大学入試を受ける頃は、原子力工学は花型で、優秀な学生が集まっていた。今はどうだろう、その種の学部があまり見当たらない。これは、原子力忌避思想に縛られ、非難を受け続ける市中環境では、志望する学生が減少する状況に追い込まれざるを得なかった結果ではないだろうか。かつては、日本の原子力技術は世界に誇るべき水準であったが、今はどうだろう。

ましてや、原子力ゼロ、自然消滅と言っても、今ある原子力発電所廃炉や廃棄物処理には、長い時間が必要である。その為に、何世代の技術者が関わる必要があるのか、まだまだ優秀な技術力の育成は必要不可欠なはずだ。この様に考えれば、後ろ指さされる技術にしてしまっては先行きが危ない。それこそ、技術者不足、技術力低下は、リスク発生確率も、発生時の被害も高めるのは間違いない。

だからこそ、原子力技術を花形の学問にもう一度復活させる必要がある。幸いなことに、小型モジュール化など新技術が期待されている。この技術の実現性に疑問を投げかける前に、渡りに船だと、国家上げての強化、支援を高める事で総合的な技術力向上も期待できるのだ。実情を考えると、戦略的投資をしない手はないのだ。

<期待される水素エネルギー>

筆者はエネルギー問題の解決策の一つとして以前から水素エネルギーに注目していた。燃焼時に無駄な廃棄物も生じないクリーンエネルギーとして。

但し、水素はご存じの方も多いだろうが、取り扱いが難しい。危険で、保存にも膨大なエネルギーが必要だからだ。

エネルギーは、必要な時に必要な場所で必要なだけ供給できる必要がある。その為には、保存・蓄積、運搬も必要になる。水素は液化して運搬も可能だが、その取扱いには注意が必要になる。それらの問題を解決するのが、水素キャリアとしてのアンモニア利用なのである。

筆者は7年ほど前、このアンモニア利用に注目し、各種研究論文を読み漁った時期があった。その時、受験生であった長女も物見遊山で同様の文献に目を通し、自身の第一志望校にこの研究をする研究室を発見し、興味を深め、このテーマで小論文を書いたほど、その時期注目していた。そして現在、アンモニア運搬船が開発されるまでに至っている。

世の中には、否定論者も多く存在する。アンモニアは、燃焼時にNOxという有害物質が生成される危険性がある。そして、生成法として現状の主となるのが「ハーバー・ボッシュ法」であり、これには膨大な熱と圧のエネルギーが必要なので、その時点でエネルギー効率の悪さやCO2発生問題が伴うからだ。

しかし、日本の燃焼技術は世界トップクラスであり、安全な燃焼はそう難しくない。低エネルギー生成法の開発さえ実用化出来れば問題なくなるのだ。そして、アンモニアの生成が工業的に容易になれば、現在の主用途である肥料用途にも利活用が広がり、食糧問題の解決にも繋がる一挙両得なのだ。科学技術は、諦めず、目的に向かえば、不可能を可能にする。期待したい。