学術会議問題に関しての検証2

 本件に関して、私は勝負あったと断じたのだが、いまだに反対の政府攻撃は収まらない。ネットでの誹謗中傷論は、ひと時も休むことなく多くの学者や専門家などから続けられていたが、電波による攻撃は一時静かになった。しかし、総理の105人のリストを見ていないと言う発言を境に、電波でも再燃した様に感じる。これは、あたかも沈静化しそうだったのを、再燃させるべく一石を投じたと見るのは私だけだろうか。

 リストを見なかった発言で、左派系野党議員は声を荒げて、違法行為とまで言っているが、本当に違法だと思っているのなら法廷に持ち込めばいい。本音では、違法行為ではない、少なくとも法廷で違法との判決を得られるとは思っていない証拠であり、政争の具としてあら探しをしているだけにしか一般的には見えない。例え告訴しても、勝訴を目的としている訳ではなく、世間に対する印象操作でしかない。

 リスト全体を見ていなくても違法でもなく、無責任でもないことは、仕事の仕組みが理解できていれば分かることだ。推薦に対して、責任部門が指示や方針に基づいて、全体リストを精査し、結果を説明して承認を得る。至極当然のワークフローである。何の問題もない。

 わざわざ、菅総理がこのことを情報として流したことに意図があると考える方が素直だろう。元々、任命理由に関して必要以上の説明を避けている、これも意図的だと感じる。

 分かっている人間が考えると、推薦理由が疑わしいリストに対して世間が納得できる推薦理由を学術会議側が説明出来ていない。『優れた研究又は実績』という理由を尤もらしく語っているが、その説明に当てはまる科学者は日本国中で105人以外に相当数存在するはずだ。従って、105人の推薦理由を『優れた研究又は実績』で説明すること自体間違っている。それはあくまで法的に定めた基準であり、理由ではない。
 『総合的、俯瞰的な活動を確保する観点』も確かに曖昧で、99人の任命理由として弱いのは事実だろう。だが、人事のことは詳細にできないという理由も尤もであり、何より、推薦理由と並べて同じレベルで語っているのである。そこがポイントであり、ある意味罠だろう。

 推薦者リスト自体が偏っている、と言うよりは学術会議の存在そのものが偏っている。従って、ここに手を付けたいが、抵抗勢力は強力で、一般国民の信任も簡単には得られない。学問の自由、言論の自由と言う大義名分で攻めてこられると、理性的・論理的な議論にはならず、感情的な陰謀論に終始してしまう。

 そこで、任命を99人に絞り一石を投じ、学術会議からの攻撃を敢えて受けているのではないだろうか。想像ではあるが、総理からの指示で定員以上のリストが出てこなければ、一定数の除外者を出せと。その除外する考え方として『総合的・俯瞰的』を指示したと考えられないだろうか。その目的は、はっきり言って、6人を拒否したというよりも任命権が内閣側にあることを意思表明することであり、一部のマスコミが言う様な反政府思想者の除外ではない。それは、99人の中にも相当数反政府思想者が含まれているのだから成立しないのである。

 そして、論理的に、法的に誹りを受けない最低限の発出に抑え、敢えて攻撃をさせている。それにより、馬脚を現わさせる。実際に、学術会議に参加している学者からの攻撃は目に余る酷さがある。一般の人が聞いてどう感じるだろうか。正直私が感じるのは、『上から目線の常識知らず』『自分の思い通りにならないことは他人の責任』『自分の学問の自由、自分の許さない学問に対する制限』『何様のつもり』など、世間常識を逸脱する、ある意味一国の政府に対する誹謗中傷の暴力的な暴言は聞き苦しいほどだ。学者先生の身勝手であれば、まだ百歩譲って笑って許せても、国家反逆とも取られかねない件も多く耳にするのは如何なものだろう。

 この様な実態を世間に詳らかにして、世論に問題提起をしようとしているのではないだろうか。

 確かに、6人を拒否した理由の説明を求める声は大きいだろう。それに詳細を応えないことは、国民の理解を得られないリスクも高い。しかし、それ以上に、この組織の実態を晒して、そうせざるを得ない現実を理解してもらう方が、構造改革には近道だろう。身を切らせて骨を断つだ。

 本当の意味での学術会議に求められる社会的責任は重い。学問の自由などではなく、国家として行く末を誤らないための、多方面からの検討、検証の機関として、聖域なく追及してもらう必要がある。その機能が、この様な偏った反政府組織になっていては国家としてのリスクである。
 学術会議から遠い学者たちも加えた、本当の意味での組織体とする為には、大なたが必要だろうし、次の総選挙の争点でもあるだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です