情弱が産み出す国民感情に政治は寄り添えるのか

リスク評価に対応する科学的対応策だけでなく、国民感情に寄り添い勘案するべきだとの主張をする有識者もいるが、では、国民感情とは何なのか?そこから考えなければならないだろう。

<感情とは>

感情とは個人がコントロールする事が難しい。アンガーマネジメントの方法論など書籍が多数発刊されているという事は、悩む人が多いから需要がある現れなのである。では、特に怒りの感情のコントロールが難しい原因を確認していきたい。

まず、完璧主義である事。物事が自分の理想的な思いの通りに進まない事にはストレスを受けるのだが、完璧主義であるが故、世の中の出来事の殆ど全ては思い通りに行くはずもなく、ストレスが極大化する傾向にある。

更に、ネガティブ思考は過去も含めていつまでも失敗や後悔、他の人への恨みなどを引きずってしまうので、同様にストレスを増大させる。

これらのマイナス要素でストレスを増大させることで、怒りの感情はコントロールできなくなり爆発してしまう。爆発してしまった感情に寄り添う事など事実上あり得ないので、爆発しない様に、コントロールできる範囲に収める事が必要不可欠になる。

では、コントロール可能な範囲に収める為にはどうすれば良いかを次に考える。

完璧主義に対しては、人の考えや意見などは多種多様であり、専門家といえども異論反論は普通に存在するという現実を知らしめることだろう。その結果としての個人の見解や主義主張を持つ事は問題ないが、それが唯一絶対の真理、絶対正義でない事を認識する必要があるだろう。

ネガティブ思考に関しては、言うまでもなくポジティブ思考に少しでも転換する事。ネガティブにより全否定される状況から、あの手この手、どうにかしてこの状況を好転させる為には何ができるか、確実に一つ一つ実行に移す事でストレスは解消されていく。ポジティブまでは難しい、とするのなら少なくともデータやFACTに目を向け、感情的にならず論理的に思考する事で、少なからず不要な不安に陥る様なストレスは回避できるだろう。

以上の事から、感情に寄り添うには、多様性を認めた議論、意見交換が活発に行われる事、ポジティブに、事実に基づいて思考する静かな環境が必要になる。

逆に言うと、この必要な環境を壊せば、感情はコントロールできない状態に導くことが可能なのだ。実は、この環境破壊を日常的に行っているのが地上波メディアによるニュース、ワイドショーなのである。

<情報弱者とは>

情弱とはウィキペディアによると、『情報環境が良くない場所に住んでいる』『情報リテラシーやメディアリテラシーに関する知識や能力が十分でない』これらの原因により『放送やインターネット等から必要な情報を享受できない人』を元の意味として、『各種の情報に疎くて上手に立ち回れない人に対する蔑称』と表現している。

今の地上波メディアは、多様な意見を封殺し、ある恣意的な一方的な意見だけで埋め尽くし、異論を許さず、異論を言う人間をあり得ないとあからさまに非難し続けて、情報環境が良くない場所を作り出している。

この悪環境は元来、平日日中に地上波テレビにお世話になる人達のみが晒されていたが、コロナ渦でホームステイ率が拡大し対象が増えている。つまり状態は悪化しているのだ。

この状態悪化は人々の能力を劣化させる。普段から、両論による議論に触れて、思考訓練されなければ能力は当然ながら劣化する。こうなると悪循環となり、多様性のある玉石混交状態のインターネットの情報に触れても、自身の触れてこなかった異質な情報を受け入れ、かみ砕き、考察する事が出来なくなり、見ても完全スルーで中身まで見る事が無くなり、都合の良い偏った情報だけに触れる偏りが強くなるのだ。この状態は、ネットでも多様な情報に触れていると勘違いし、かつ自身の意見が大多数であり正義であるとの誤った認識を持った情弱者が生まれる。

この事は、例えばヤフーニュースのコメント等を見ていると絶望したくなる状態になっている。

典型的な事例として、先日の五輪での酒類提供禁止の決定に関して昼のあるワイドショーでの一幕を挙げる。内容的には酒類提供の検討をして禁止と決定した事に対して、番組内コメンテイターは口を揃えて検討すらあり得ないと言い切っていた。たった一人、良識あるコメンテイターが検討は良いのでは、と言った瞬間、総攻撃で他の全員が全否定してのけたのだ。

この件を記事にしたヤフーニュースのコメントの大多数が、酒あり得ない、という感情論で番組趣旨に同調する内容であった。普通に考えれば、何か物事を決定しようとすれば、両論戦わせ、プラス面とマイナス面を考慮し、検討しなければならない。この手順を欠くと所謂独裁、独断でしかないのは自明なので、番組は民主主義を否定、自分達の意見は絶対正義で議論は必要なく従えと言っているに等しく、非難されるべき、少なくとも放送法第4条違反とされるべきなのだが。しかし多くのコメントは民主主義否定に賛同を示したのだ。

少し調べれば嘘と分かる事すら調べず、切り取られ偏向した断片を妄信し、少しまともに聞いていれば以前言っていた事と矛盾していると気付ける事もまともな思考回路を働かせる事が出来ない人達、情報弱者が大量生産されているのだ。

<国民感情に寄り添う為には>

まず、国民と冠が付いているが、決して全ての国民が同じ感情を抱いている訳ではないし、統一されている訳がない。従って、拡大解釈した、国民○○という言い方は、本来都合よく使うべきではない。よく、国民の総意だとか、政府を攻める時に使われるフレーズでもあり、ほんの一部の意見である場合のカモフラージュである事が多い。国民感情も同様である。従って、国民感情と称する場合は大抵の場合、一部の反対意見を持つ感情にどう対峙するかと解釈するべきであろう。

この反対感情に強行的に対峙し続けるだけでは、昔なら一揆に繋がる、現代でも社会情勢不安定に繋がり兼ねないので得策ではなく、寄り添うべきなのだろう。しかし、寄り添うと言っても、良い事と悪い事は区分けし、是々非々の対応が必要になる。100%反対感情に寄り添っていては、政治は全体最適を失い、他の多くの国民に悪影響を及ぼしてしまうからだ。

即ち、バランスでありバランスを欠いた時に支持を失うのが民主主義政治だろう。

反対感情に寄り添いながら、バランスを取り、出来うる限り全体最適を目指す為には、反対感情を生み出す元を改善する事の方が、より全体最適に迎える事は疑い様がない。

感情を爆発させず、コントロール可能で健全な範囲に止める為には、多種多様な意見、確かな事実とデータに基づく情報発信が行える環境を構築する必要がある。

そういう意味で今の地上波系のニュースやワイドショーの類はターニングポイントである。反省して、放送法第4条に恥ずかしくない形に改革するか、反省せず存在意義を失い、自滅していくか。どちらにしても、ネット空間の情報の充実とテレビに関しては、専用チャンネル等多種多様な情報発信に触れる事が出来る番組制作とNHK改革で両論戦わす討論系の番組を増やす等、明確な手を打っていく必要があるだろう。

一見正義に思える考えも、深く議論して見れば、様々な考え方や、越えなければならない課題なども見えてくる。時には、その課題を越える事で発生する弊害に気付き、寧ろデメリットの方が大きく、考えを変える事もあるだろう。そういった深い議論、深い思考が重ねられる環境こそが、国民感情に寄り添える環境になると確信している。

ゼロリスク原理主義の浸透は社会壊滅を招く

日本人と欧米人の心理的比較分析として昔からよく言われていたのが、コップ半分の水をどの様に考えるかだった。欧米人は、『まだ半分もある』と未来に向けて積極的な姿勢で、半分の水を使いながらも増やしていこうとポジティブに考える。一方、日本人は、『もう半分しかない』と将来の不安を極大化させて、なんとかこの半分の水を守り抜こうと考え、ネガティブな思考に陥る。

この違いは本来的には一長一短あるのだ。『まだ半分もある』という思考回路は、当然の事ながら、大きなベネフィットを得る可能性もあるが、リスクも伴う。アメリカンドリームの世界でもあり、社会は大きく発展するだろうが、格差も拡大するかもしれない。『もう半分しかない』の場合は、大きな失敗はないだろうが、大きな成功も期待できない。

しかし、バランスが取れた状態であれば一長一短で片づけられるが、極端な場合は大きな弊害を生む。例えば、『もうコップの水が1%減ってしまって先が不安だ』となると、これでは身動きできず、社会停滞に繋がる。ゼロリスク原理主義により弊害なのだ。

<確認した1事案は木、統計データによる確率は森>

このゼロリスク原理主義とでも言うべき論理と、前向きな現実策との典型的な衝突が『ABEMA-NEWS 2021/06/17』で繰り広げられていた。

この番組の中で、木村盛世女子は、新型コロナの感染データを元に、若者と高齢者の重症化リスクに大きな違いがある事を示し、重症化リスクの低い若者の行動制限、自粛を殊更強化する事に異を唱えていた。つまり、リスクの高い層に対して対策を集中する事で、重症化や不幸に至る事案を最小化出来るとの主張だ。

これに対して、宇佐美典也氏は、若者でも重症化リスクはゼロではなく、自身の周辺でも実際に若者が苦しむ姿を見ていると言い、確率論で語るのは間違いだと言う。

これは、典型的なゼロリスク原理主義とでも言うべき、騙しのテクニックなのだ。つまり、確率で例えば100万人に1人の確率であろうとも、その1人、当事者にとってみれば、100%なのである。人は、他人事であれば確率が高くても、それ程恐れないが、自身が当事者になれば、その時点で100%であり、事実として突き付けられる恐怖は100%なのだ。それが家族であっても当事者であろうし、身近な恐怖となる。有名人がその対象になったら、赤の他人が対象になるよりも当事者意識の度合いは高まる。昨年の志村けんさんの不幸は多くの国民に新型コロナの恐怖心を植え付けた。赤の他人だったら、あれほどの恐怖は無かったのだ。

この様に、確率に関係なく、当事者度合い、当事者との距離感で恐怖の度合いは変化する。この法則に則り、若者でも重症化する、重症化した若者を実際に見た、だから貴方も重症化する可能性があると脅せば恐怖は実際の確率以上に高まるのだ。

しかし、実際の政策を打つために必要なのは、この100%の当事者目線ではなく、マクロの確率論でリスクを評価し、政策の強弱、方向性を検討する事なのだ。

この様な単純で当たり前の事は言われなくとも分かっていると言うかもしれないが、メディアの報道は殆ど、この論調に終始し、宇佐美氏も何の疑いもなく強弁されているのだ。恐ろしい世の中だ。

井戸端会議で、『・・・とみんなが言っている』という話法が用いられるが、この場合のみんなは、多くの場合単数形だったりする。1人から聞いた事をみんなから聞いたと言い放てるのだ。身の周りの誰々が、若くても重症化したからといって、みんなにリスクがあると言うのは、この論調と同様に言い過ぎなのだ。あくまでデータで示された確率論が前提になる事を忘れてはならない。

弱者を切り捨てるのか、と言う反論も筋違いだ。一人も犠牲者を出さない、というのは聞こえがいいが、その結果多数の被害者を生むのである。犠牲者も被害者も最小限に抑えるために打つ策は、確率とバランスで語らねばならない。

<反対勢力の行動パターン>

経営に携わり、組織の問題に対峙し乗り越えた経験のある方であれば納得して頂けるだろうが、組織の問題の大部分は部分最適思考が元凶となる。全体最適思考による最適策は誰の目から見ても明確であっても、個々の部分最適ではなく、個々に苦労も強いられ、不利益になる事も少なくないので抵抗勢力と化すのだ。その場合の抵抗勢力は、決して自己の利益追求と表向きは言わず、大体の場合は、『できない』『現実的でない』ともっともらしく否定するのだ。

日本がさざ波の新型コロナ感染状況で医療逼迫が発生し、一向に医療体制強化、医療資源適正配分が進まない原因がここにある。

分かり易い討論が上記と同様の番組で繰り広げられていた。木村盛世女子は、前向きに医療逼迫を起こさない為に、患者の広域間搬送を提案していた。日本の重症病床数は4200床あり、その内1200しか使われていないので、オールジャパンの対応を提案したのだ。方法として示されたのは、ICU搭載の自衛隊ヘリによる搬送だ。

それに対して、宇佐美典也氏は、受け入れ側の病院に強制できない。机上の空論であり、出来ない事だと言っていた。しかし、その論法こそが部分最適の抵抗勢力のものに他ならない。その結果として、飲食店含め多くの国民に強制力のない自粛と言う名の要請を繰り返しているのであり、病院にだけ同様の要請が出来ない論理にならない。

百歩譲って、何らかの本当に出来ない理由があるのなら、その事を国民に、医療側が強化対応できない事を頭を下げて論理的に説明し、納得を得る努力が最低限必要では無いだろうか。ところが、日本医師会長や東京都医師会長など、記者会見では上から目線で国民の緩みを攻める様な論調を繰り返してきているではないか。しかも自分達はパーティを開催しながらなので、本当に出来ない理由があるとは誰にも思えない。

では、実際はどうなのかというと、実は一部の首長から、他県の患者受け入れに対しても前向きな姿勢が示された事もある。本気で、政府が号令をかけて、自衛隊の出動も辞さない姿勢を見せれば、少なからず対応する病院も出てくるのではないだろうか。それぐらい医師会が旗振っても罰が当たらないだろう。

ワクチンの場合も、菅首相が1日100万回と言った時、メディアは挙って出来もしない、出来る訳が無いと批判した。更に医師会の抵抗を受けても、自衛隊を出動させ、超法規的措置で歯科医などに展開し、職域接種まで拡大の手を次から次へと打って出た。いつまでも抵抗を続けていたら、存在価値を失うだけだろう。

<医療崩壊抑止の具体策整理>

1年以上、この状態を経験し、医療崩壊を防ぐ方法論はほぼ見えてきている。出来ない事ではなく、やる気になれば出来る方法として見えてきているのだ。簡単に整理すると

  • 町医者の体制で患者の早期ケアを強化する

尼崎の長尾医師の成功事例を水平展開すれば良く、制度面の後押しとしては、リモート診療を導入し効率化を図れば良い。

  • 重症化した患者は、オールジャパン病床の受け入れ態勢で広域搬送も辞さない

患者を受け入れた際の手当の充実は必要だろうが、既に相当レベルの法的措置は為されているはずだ。後は、号令次第だが、本来的には政府が号令をかける前に、医師会が音頭を取るべきだろうし、その方が将来の軋轢は少なくて済む。

  • 専用治療センター建設、強制的に医療スタッフを柔軟に配置

前項と競合する部分もあるが、所謂あの手、この手である。大阪府で同様のセンター設立の際、人材に関して結局自衛隊の支援を得たが、本来なら医師会が音頭を取るべきだろう。

実は、こんな簡単な事も出来ずに、既得権益を死守する意識で内乱状態になってしまっては、外から見ると、国家としての脆弱性を露呈している事になる。それはそうだろう、この国を攻めるのに武力は不要で、メディアに対しての情報操作に極めて弱く、多くの既得権益組織、特に学術団体系を攻め落とせば、易々と混乱状態に陥れる事が出来ると示しているのだ。

これに対抗する唯一の方法は、全体最適思考での政策が適切に打てる姿、岩盤既得権益構造を一つ一つ打破していく事だろう。まずは、医療体制の事業継続計画を確立する事が急務なのだ。

プレーブックを国内メディアも実行すればいかが?

東京五輪のプレーブック第3版が発行された。

IFJ(国際ジャーナリスト連盟)がGPSでの行動管理などをプライバシー完全無視、報道の自由を制限すると非難声明を出した。日本国内メディアに行動制限が課されていない事に不公平感を示し、公平性を保つべきとの意見も含まれている。

一方で、日本のメディアは、未だ連日連夜、この程度のルールでは甘すぎる、リスクが高すぎると非難をやめない。

この構造を冷静かつ客観的に見れば、自分には甘く、人の行動には厳しく、本質的な協力よりも、利己主義で排他的な主張と感じざるを得ない。やはり、スポーツなどイベント開催時に限らず、感染拡大の最大リスクは、メディアの報道姿勢であり、当事者の行動、人流等はそれなりに対策実行が可能だと再認識させられた。

<感染抑止に取り組んできた証、プレーブック>

そもそも、プレーブックの初版は、今年の2月にリリースされ、4月の第2版を経ての今回が3版目である。内容は、選手やマスコミなど関係者の行動ルールを定め、安全安心な大会運営を目指すものであり、当然各所からの建設的な意見、改善要望などを受け入れ、レベルアップするべく改版を繰り返してきた。

ところが、日本のメディアは、どうやって感染抑止するのか分からない、説明が欲しいと、あたかもプレーブックの存在を無視する様に言い続け、多くの国民は何のルールの検討もなく強行しようとしていると勘違いさせられていた。多くのSNSや書き込みが、説明が無いと叫んでいるのが、その事を証明している。

説明して欲しい、と言い続けながら、知ろうともしない。各所で筆者も『プレーブックをお読みください』『その上で問題を感じれば具体的に提案しましょう』『多くの意見を取り入れてレベルアップを図りましょう』と言い続けてきたが、聞く耳を持つ人は殆どいなかった。メディアのプレーブック抹殺報道、報道しない自由の成果であろう。

<国語の読解力が民主主義を支える>

反対をするのは自由だ。個々人で考え方が異なるのは当然の事だからだ。しかし、反対するなら最低限真実の情報と向き合った上である必要がある。聞く耳を持たず、感情的に脊髄反射のヒステリック反応を繰り返すのでは、決して建設的な前進は望めない。自分自身が世の中の絶対正義で、異なる意見は絶対悪だと言うのは原理主義に他ならず、排他的破壊活動に向かうリスクが高い。まずは、相手の話に耳を傾ける事が最低限、その上で不都合な事実からも目を背けず、論理的に対話する事が議論の入り口である。全否定されたら議論出来なくなる、ましてや事実を否定されては、もう何もできない。

政治家が国会などで異論を全否定し、攻撃をやめない様に見えるのは、ある意味パフォーマンスの面もあり、現実的に政治を前に進めるためには、折り合えるところも探っているのが現実なのだ。その点は社会でビジネス交渉やネゴシエーションを日常的に行っている人間であれば当たり前だろうが、経験の無い人には理解できないのかもしれない。見えている部分だけで妄信し、他を全否定する事を一般人が真似し始めると、その行きつく先は全体主義であり、民主主義は崩壊する。

健全な議論ができる民主体制の為に、予てから推奨しているが、多くの人が文章を読む事だ。決して、単語や文節を切り取って曲解しない様に、しっかりと文章を読むことだ。SNS等での批判コメントの多くは、単語や文節切り取りでの誤解、悪くい言えば言いがかりである。

もっと酷いのは、あの人はこう言った!という言いがかり。本当にその人が言ったのか確認もせず、あの人がこう言ったとテレビで言っていた、だけなのに信じ切る。立ち返って、本当にそう言ったのか、前後の脈略はどうなっているのか、最低限確認するべきなのだ。筆者の経験では、かなりの確率で真逆の意味の事を言っている場合が多い。

日本語は難しい。文末で意味が真逆になるし、背景によっても真意は異なってくる。学生時代に経験あるだろう、国語の問題、この言葉に込めた筆者の想いを述べよ、この問題を解く事が重要であり、基本中の基本なのだ。

<報道姿勢の問題、名誉挽回のチャンス>

メディアも各社、様々な思想信条があって然るべきだろうが、前述の様な誤誘導を発生させている責任を感じる必要があるだろう。特に、平日の朝から昼のモーニングショー、ワイドショーの類だ。好き勝手、言いたい放題の偏向報道により、情弱者を大量生産している。放送法第4条に定める、政治的公平性、事実の報道、対案と論点の提示が全くなく、違法性すら感じる酷さだ。

その点、まだBSの一部やネットメディアの方が対案提示型の討論も多く発信されているが、いかんせん発信先の少なさは否めず、浸透力は充分ではない。

現在、地上波系メディアの多くは自己矛盾を抱えつつある。所謂ブーメランだが、素知らぬ顔での掌返しすら始まっている。しかし、既に大量生産された読解力の無い情弱者は、何の不思議も感じず、流されていくのかもしれない。何事もなかったかのように、忘れ去るかもしれない。しかし、それは国家としての大きな損失でありリスクであろうし、国民の幸福にも結びつかない。

先日のワイドショーでの出来事だが、出演する専門家、日本医科大学特任教授の北村教授が『もう最後の感染対策として各メディアの五輪放送をやめたらいかがですか』と言う趣旨の発言をされたとの事。その場でMCである恵氏は反応が出来ず凍り付いた。今までも、イレギュラーバウンドや異論に対しては反応せず、スルーを繰り返す恵氏だったがこの時も全く同じスルー。しかし、メディアが取るべき本当の行動を本質的に示している提示だっただろう。この提示に対応できないと言う時点で、自己矛盾、無責任な一方的な言いっぱなしの誹りを免れないだろう。

今回、IFJの抗議は、日本の報道機関にとって、名誉挽回、自己矛盾解消の数少ないチャンスである。

そう、海外メディアと同じ行動規制の元、ルールを守った行動をする事。

論理的には、海外からの入国者に対するバブルと言う名の隔離措置と国内の移動は全く異なる。しかし、自ら危機を煽り続けた人流によるリスクを低減する為には、少なからず有効なはずだ。国内メディアの取材対応者も、海外と同様に行動計画の事前登録制、GPSによる行動規制、公共交通の不使用などを実行すると、宣言すれば良いだけだ。政府や組織委員会がどうとか関係ない、自分達の業界の規制として行えば良い。違反に対する罰則は国外退去とはいかないだろうが、メディア活動の一時停止で良いのではないだろうか。

西浦教授予言vs高橋教授予測

8割おじさんと言う異名を持つ西浦教授が第5波感染拡大による緊急事態宣言が必要な事態が発生しうると下記の様な予言を発表した。

「8月に宣言相当の流行」21日解除なら、西浦教授試算

この発表によると東京都の重症者数が7月から増加し始め、9月頃にピークで1700人程になると言う地獄絵図だ。東京都の1日の感染者数の過去最高が2520人(1月初)、重症者数の過去最高が160人(1月中)なので、想像を絶する数字なのだ。東京都の重症者基準が異なるとしても桁違いである事は間違いない。

一方で、さざ波発言で物議を醸した高橋教授も予測を自身のYouTubeの中で公表されている。同時期の予測なのだが、感染はかなりのレベルで減少していると言う事を語っているのだ。

ちなみに、両教授の予言と予測は数理モデルによるものであり、それは感染症などの医療的専門知識は必要とせず、簡単な数学(と言っても微分方程式が解ける程度)の知識があれば試算は可能だ。そこに与えるパラメータは過去の統計データや仮説設定によって定められるのだが、その仮説設定の違いで、天と地程異なる結果が導かれているのだ。

では、それぞれのパラメータ設定の基礎条件はどう違うのか。

西浦教授の場合は、大阪で発生した変異株影響による感染爆発と同じ状況が東京で起こる事が前提になっている。簡単に言えば『1か月後は大阪になる』というどこかで聞いたニュアンスだ。『2週間後はニューヨークになる』『何もしなければ42万人死ぬ』と同じであり、とても科学的考察による仮説設定とは思えない。3回目の緊急事態宣言発出時も確か『東京都は大阪と同じ状況になる可能性があるので様子を見たい』と尾身氏が言っていた事も記憶に新しい。今回も同様に、余りにも根拠不明の仮説として、私の表題では、予言と表現させて頂いた。

高橋教授の方は、諸外国の1年間の感染データとワクチン接種後のデータ変化を用いて、今後の日本のワクチン接種条件を1日60万回と低めに設定しての予測との事だ。当たる当たらないは結果が出てみないと分からないし、未来の事を100%的中できる訳ではないが、筆者には、こちらは科学的妥当性、少なくとも統計数字としては妥当な基準による予測であると考えている。

この結果は、速ければ1か月後、遅くとも2か月後には明らかになる。結果が出たらどういう反響になるのだろう。ここまで外し続けても、予言し続けて、しかもメディアも指摘せず、壊れたレコードの様に繰り返され、未だに多くの人が信じて恐れている状況から見ると、どんな結果が出ようとも何も変わらず、相変わらず煽り報道は止まないのかもしれない。しかしながら、いい加減多くの国民が気付くべきではないのか。

<リスク管理とは予測に基づく必要がある>

危機管理の基本は想定される最大の危機に対して、まずは大きく対処し、状況を確認しながら徐々に適正な規模に対策を緩めていく、それが基本だと実しやかに言われていた。これは、絶対に間違いであり、危機管理とリスク管理を混同し、基本が理解できていない誤認識である。

そもそも、危機管理とは実際に発生している危機に対処するのが前提で、発生もしていない予言に対処など出来ない。一方、リスク管理とは、将来発生しうるリスクを評価し、ゼロ化するのではなく、許容範囲にリスクを低減させる策を打つ事である。従って、予測がなければリスク管理は出来ず、リスク評価とは、その発生リスクの確率と発生した場合のダメージの積で表現される。従って、リスク管理上の低減策は、確率を下げる方法と、ダメージを縮小する方法がある。そして、低減策は必ず負の効果(費用や副作用など)も発生するので、負の要素とリスク低減のバランスで対策の検討が行われなければならない。

巷の論を元にすれば、西浦教授の予言が最大の危機であり、それに備えるために緊急事態宣言は永遠に解除するべきでないと言う論理に辿り着いてしまうのだ。これでは、ゼロリスク教としか言い様がない。何故なら、リスクとしての科学的妥当性が担保されない予言は、発生確率が極めて低いからであり、積としてのリスク評価値も低くなり、緊急事態宣言による負の影響とのバランスが取れないからだ。

<筆者も予測に参戦>

さて、実は筆者も予測を僭越ながらしてみたい。筆者は同様の数理モデルではなく、もっとマクロ的な予測を行う。それは、充分にマクロ的分析が可能なデータが揃っていると考えているからだ。

筆者は、1年以上新型コロナの感染データを厚生労働省等より取得し、独自にシミュレーションを続け、インフルエンザなどの感染データとの比較も行ってきた。結果として、感染対策や緊急事態宣言等の要素を無視しても良い様な、感染サイクルの季節性や規則性、一定期間でのピークアウトする傾向など仮説設定が可能と考えている。

感染のピーク発生時期は奇しくも、人の自然免役の弱る時期、つまり冬季や季節の変わり目、夏季で体力低下時期などに感染が起きやすい。但し、温湿度が上昇しウイルスの活性度が落ちる春から夏は本来重症化度合いは低下するはず、だが残念ながら、大切なGW時期に巣ごもりをして、紫外線を充分量浴びることなく自然免役に重要なビタミンDが減少して、自然免役が落ちてしまった要素もある。

そうすると、今年も昨年と同様、8月頃にピークとなる感染波が生じると考えられるのだ。問題はピーク値だ。

昨年の8月のピークは東京都で、1日の感染者数で500人弱、重症者数で最大40人弱、その時の検査数が1日5000程度であった。

現在の検査は1日10000以上普通に実施しているので、感染者数もおよそ倍に増えてもおかしくないだろうが、ワクチンの効果も出始める頃であり、感染者数は500~700人程度の感染は起きても不思議でない。しかし、ワクチンの効果は寧ろ重症化を減少させる筈だ。その時点で70%の高齢者へのワクチン接種が完了していたとすると、そのまま40~60人の70%減、12~18人程度に収まるのではないだろうか。

まさか、これで医療崩壊は起き様が無いと思うのだが。

いや、変異株は怖い、感染力が2倍だ、と言っても、重症者40人まで行かないのだ。冷静になって欲しい。

どの予測、予言が実現するのか、それは神のみぞ知る領域である。しかし、西浦モデルは過去の的中精度ゼロだが、高橋教授の予測は過去のピークを当てている様だ。オッズとしては当然高橋教授の人気が高くなるはずだ。

世の中のデータや現実を見ない予言が跋扈しているのが異常なのだ。

<ついでの周辺社会状況の予測>

東京五輪は開催され、日本選手は活躍し、過去最高のメダル獲得もあり得るだろう。多くの国民は日本選手の活躍に盛り上がり、活況が生まれる。その時に、前述の予言と予測、どちらが実現するかによる政治局面などを筆者の個人的意見として妄想してみる。

まず、西浦教授モデルが実現した場合は、五輪が諸悪の根源だと、メディア、野党が挙って攻撃し、与党の支持率は徹底的に落ちるだろう。結果として、秋の衆議院選挙で与党は議席数を大幅に失う可能性が高い。しかし、立憲、共産など批判し続けた勢力の議席数がそれ程伸びるとは思えない。即ち、第三勢力に票が流れるのではないだろうか。戦い方を間違えなければ、維新勢力や国民民主の躍進の可能性が高い。その力が無ければ、結局、史上最低の投票率で与党が勝利する。

また、高橋教授予測が実現した場合は、五輪のメダルラッシュは、不公平大会の証で、史上最低の五輪と揶揄する勢力が現れるだろう。攻撃する要素がそれ以外になくなるからだ。確かに、不公平の要素があるかもしれないが、スポーツの世界、基本はホームタウンが有利になるのは自然の摂理。その影響と、コロナの影響を論理的に区分できる筈もなく、言いがかり以外の何物でもないが、それでも立憲、共産系はそう動くだろう。

しかし、それで票が獲得できるほど日本人はバカではないと思う。結果、現与党が勢力維持近くの議席数を獲得するだろう。立憲の野党第一党の票が逃げる先が、やはり第三勢力ではないだろうか。

予測できない不確定要素が、日本医師会も含めた、医療従事者480万人の票がどこに行くのか?これは全く予測ができない。

そしてメディがどう立ち回るのか?それ次第で、若者の地上波離れが加速し、レジームチェンジが起こるかもしれない。

ワクチン接種後のマスク着用に関して

ワクチン接種先行国では、接種後はマスク着用義務の免除と言い出し、最近のバイデン大統領はマスク姿でなくなってきた。ファウチ氏疑惑問題等も含めて、大統領選挙戦術でしかなかったとも疑われる掌返しにも思える。本音では余程マスク着用したくなかったのだろうとも想像でき、外す言い訳が欲しかったのであり、少なくとも科学的な検証結果とは思えないのだ。

一方で、日本のテレビ出演する専門家達は、ワクチン接種後も100%感染を防ぐのではなく、暫くはマスクを外すべきではないと、相変わらずのゼロリスク神話に基づく非科学的な見解を発信している。結局、ワクチン接種が進み、感染者が季節性感染症と比較しても桁違いに少なくなってからでないと怖くて怖くてマスクは外せないというのが主旨の様だ。

今や、インドも感染が収束に向かい、結局変異株の強毒化はデータでは否定された。つまり、感染力が高まる自然の変異は発生しても、未だ強毒化を示すデータは無く、日本でも決して重症化率は高まっておらず(寧ろ重症化率は低下傾向にある)、『・・かもしれない』『・・の可能性がある』という根拠のない煽りは、相変わらず何一つ実現していない。

8割おじさんが再び、夏に緊急事態宣言の事態に陥る可能性があるとの発表を行ったが、よく聞くと、大阪で起こった感染拡大と同じ事が東京で発生した場合との前提であった。2週後はニューヨークになる、と言われ続け、確か今回の緊急事態宣言発出時も『東京は大阪と同様になる可能性があるので様子を見たい』だったはずだが、その様な事は起こらなかったのに、また大阪と同じ状況になるとは、正気とは思えない。

数学的には、パラメータが間違っていると言えるのだが、もう少し現実的なパラメータ設定でないとこの様な出鱈目が続くだろう。素人は騙せても、少し数学や物理が理解出来れば何が間違っているか一目瞭然なのだから。

結局、この様な社会情勢では、掌返しが起こらない限り、永遠にマスク着用は非科学的同調圧力として継続されるだろう。掌返しとは論理性を持たない行為なので、予測不能である。それでは検討が何もできないので、これらの事情を除外して科学的論理性を元に、ワクチン接種後マスク着用が必要かどうか検討してみる。

<前提条件の設定>

ワクチン接種後のマスク着用の必要性を議論する前提として、次の二つの要素は検討から除外する。それは、そもそもマスク不要論とマスク絶対論の両極の論である。この両極の論に与した瞬間に、全ての検討は無になり議論が先に進まなくなる。あくまで現在マスクを着用せざるを得ない状態であり、かつ出来うるならば着用による悪影響も考慮に入れ、マスク着用しないに越した事はないという前提に立ちたい。

その場合、そもそもマスク着用が必要になっている理由、言い換えると、マスク着用の効果から整理する必要がある。

マスクの効果として、自分が感染しない為の予防と自分が無症候感染者である前提で他人に感染させない予防と言う二つの側面がある。実は、巷の意見はこの二つの側面をごっちゃごちゃにしている事が多い。事実、以前の筆者の投稿に対するご意見もいつの間にか、この二つが入れ替わってしまう言われ方があったと記憶している。それでは論理性が一気に欠落してしまうので、明確に分けて検討したい。

<他人へ感染させるリスク低減効果面>

まず、自分が無症候感染者である前提で感染を広めない効果に関して検討する。

この場合、感染力のあるウイルスを大量に含んだ飛沫を撒き散らす事を防ぐ効果がマスクにはある。勿論、ゼロ化出来る訳ではないが一定の比率で飛沫の飛散量を減少させるので感染抑止に効果があるのだ。

この事を仮に数値で示すと、0.1%の市中感染率と想定した場合、無症候感染者はおよそ0.09%と想定出来、1人平均1日100万のウイルスを発散させるとすると、マスク着用でウイルス30万に減少させる事が出来る。ウイルス飛散指標値として、30万×0.1%=300となり、有症者が出歩かない前提だと、270まで減少する。

ではワクチン接種が進みどう変化するか。基本的メカニズムから考えても、感染を抑止するのではなく、感染してもウイルスの増殖を抑え、重症化を低減する。つまり、感染率は同様の0.1%であるが、有症状者が10分の1に減少すると考え、無症候感染者は0.099%に高まるだろう。

また、ワクチンの効果はウイルスの増殖を抑える訳で、1人平均1日に発散するウイルス量も減少するのが当然だ。この数値を仮にワクチンの効果で試算すると、ウイルスの飛散量は10万に減少させることが出来る。ワクチン接種100%とすれば、10万×0.1%=100となり、有症者が出歩かない前提では、99となる。接種率が80%とすれば、1000×20%+99×80%=279.2、有症状者が出歩かない前提で276.4まで減少する。

1年間の知見では、有症状者が出歩かない想定は無理があると考えられるので、その場合ワクチン接種でマスク着用以上の感染抑止が可能であり、例え有症状者が出歩かない前提でも大差はない。つまり、少なくとも全員マスク着用の必要性はなくなる。

かなり仮の設定の部分もあるが、8割おじさんよりは妥当性のある設定だと自負している。

<自分が感染するリスク低減効果面>

次に、自分が感染をしない予防観点での検討だ。

ウイルス暴露環境において、マスクがウイルスの吸引を防ぐのは、飛散と同様で70%削減出来るとしよう。但し、この一旦防いだウイルスはマスクに吸着されている。短時間の厳格なマスク着用運用が為されていれば良いが、1日中着用の現行ルールでは、大部分の人は、マスク表面に手で触れて接触感染のリスクを増大させている。折角、防いだマスクがウイルスのアンテナとなってしまうリスクがある。従って、実はマスク着用の効果は元々極めて限定的なのである。

一方で、ワクチン接種効果の方は、ウイルス曝露時に感染抑止にはならないが、無症候で気付かず治癒する確率が高まり、結果として見た目の感染率も減少する。つまり、マスク無くとも大丈夫といって良くなる。

<結論としてのマスク着用の必要性>

この様に考えると、ワクチン接種が相当な率で進めば、基本的に全員マスク着用は必要ない筈だ。但し、インフルエンザと同様に、有症状者は感染有無関係なく出歩かせない、止むない場合も少なくともマスク着用を義務化、感染者検出場所やその近辺の領域など疑わしい場合には一定期間のマスク着用など、現行のインフルエンザルールを応用する必要はあるだろう。

筆者の周辺でもよく見かけたが、有症状でありながら平気で外出、活動したり、マスク着用を指摘されても自分は大丈夫と拒否する人を許さない事の方が余程重要だろう。そして、マナーとしての咳エチケット、手洗いうがいの励行を継続すればマスクを手放す事は科学的には可能だろう。

注意する必要があるのは、ワクチンパスポート等の行動の許認可にワクチン接種の有無を用いてはならない事だろう。接種不可の人も存在し、接種のリスク判断も個人により異なるのだから、これは絶対にやるべきではないのだ。従って、マスクも社会としてのワクチン接種率の状況での判断であり、個々人の接種有無の判断に委ねては決してならない。マスクも全員マスク不要が基本なのだ。

既得権益に血眼な医療系専門家の危機煽りと、メディアの世論誘導による同調圧力、一部の政治利用勢力の非科学的政府攻撃活動さえなければマスクから逃れられる日は遠くないだろうが、実はこの3要素は障壁としては極めて高い。これを乗り越えるのは、世論として形成する国民の声が、冷静に、科学的論理性を以って、自分の頭で考えるという基本行動が浸透した結果になる事だろう。

日本ゴルフツアー選手権観戦記

6月5日土曜日、日本ゴルフツアー選手権(宍戸ヒルズカントリークラブ西コース)の3日目を家族で観戦に訪れた。

久しぶりの有観客、それでも人数制限を行い、入場前に抗原検査を実施、陰性判定と問診アンケート、検温でクリアした者のみ入場という厳格なルールに基づいた観戦だった。そのお陰もあって、観客は相当少なくガラガラだった。それでも石川遼選手を取り巻くギャラリーは、密であったのは驚くべき事だろう。

スタートホールで暫く各組スタートを見学しつつ、最初に付いたのが阿久津未来也選手。YouTubeで白金台女子ゴルフ部のMC会社員みなみのレベルアップ、部員打倒のラウンドレッスンを行っていた選手だ。3番ショートの右ラフからのアプローチは、あの深いラフで近いピンにどうやって打つのか興味津々で見ていたが、思いっきりフェースを開いて柔らかい球を打ったのは参考にすべきだった。それでも止まらず、惜しくもボギーだったが。同組の坂本選手も含めて、この組はイケメン揃いだった(笑)

次に3番、4番で各組を見送りつつ、朝一番で出た石川遼選手を10番グリーンで出迎え、後半付いて行く予定だったが、あまりにも局所的集中、密状態に断念。どうしても一度見たかったアマチュアの杉原大河選手のショットを見に行った。小柄ながら、他選手と比較しても思いっきりの良いスウィングで打球の初速が違っていた。やはり、楽しみな選手だ。

昼食後、本日の本命、源ちゃんこと選手会長時松選手を追いかけた。MIZUNOファミリーである我が家の注目選手、見かけによらない人柄に好感を持ちファンとなった。12番で追いつきそこからのプレーだったが、そこまででToday3アンダーのイーブンと伸ばしていて思わず力が入った。但し、引っかけ気味のミスを多発させ、スコアを落とし2オーバー(Today1アンダー)まで落としてしまった。

その状態でも、同組の小池選手の帯同キャディとの談笑や、同組の他選手に対する配慮など、見ていて本当に人柄の良さを実感できるプレーだった。写真は、ホールアウト後お声がけし写真撮らせて欲しいとお願いしたものだ。トッププレーヤーがファンの撮影に直立不動なんて、源ちゃん以外では考えられないだろう。思わず、家族で可愛い、と言ってしまった。益々ファンとして応援したくなった日であった。

最後仕上げは、最終18番のセカンド地点とグリーン周りを往復しながら、各選手を迎え入れた。18番のピン位置は無茶苦茶難しい、左に切ってあったが、各選手デッドに攻めてきたのは見応えがあった。

1日を通じて、我が家のゴルフ力向上にも大きく寄与する内容だった。昔は、男子のトーナメントは、規格外過ぎてアマでは参考に出来ず、シニアか女子ツアーが良いと思っていた。しかし、今回は男子プロの打球、飛距離と正確性、アプローチ、パッティングなど数々の参考に出来るプレーが多かったと感じている。飛距離に関しても、単に規格外とは感じず、差はあれども、ミスもする、攻めているばかりでもないプレーに、このレベルでも我慢するところはしていると痛感。そして、なんといってもアドレスに入るルーティンから学ぶべき者は多々あった、収穫多き観戦であった。

最後に、宍戸ヒルズカントリーは、フェアウエイ以外は地獄の様だった。ギャラリーが歩ける観戦可能ルートは山あり谷あり、ぬかるんだ地面で私で1日17000歩。相当タフなコースだった。久しぶりに疲れた。皆さん、プレーされる際は、フェアウエイ必須です!

何のためにオリンピックをやるのか?

何のためにオリンピックをやるのか、この問いかけが昨今実しやかに語られている。尾身会長がその様に発信し、元大阪府知事橋下氏まで同調している。この問いかけに答えられないから、国民の納得が得られないと。

<目的は皆理解しているはずだが、敢えて語ると>

スポーツや文化を目的論で語る事に、私は違和感を感じざるを得ない。心豊かな暮らしを育む為、心身ともに健康である為、人間らしく生活する為、等という言い方でいくらでも語れるし、スポーツや文化、芸術を奪われた生活を無味乾燥とは思わないのだろうか。恐らく、緊急事態だから優先順位が低いと片づけられてしまうのだろうが、本当にそれでいいのだろうか。

本当に人間が究極の危機状態に晒された時に、すがるものが必要ではないのだろうか。ある意味、宗教も同様かもしれない。人間生活において様々な苦境を乗り越え、精神的な支えとする宗教を、こんな危機状態だから意味が無いと言う人はいないだろう。何の目的で神にすがるのかはっきりさせろ、と問われても論理的回答など有り様が無いだろう。

百歩譲って、目的は百も承知だが、緊急時なので優先順位が低くなるはずだと言いたいのならば、『何のため』という、そもそもの目的を疑う様な言い方は、間違いである。

東京五輪大会関係者は、およそ10万人だが、それはスポーツ界における頂点の人達だ。その頂点で戦う姿、活躍が無ければ、底辺の拡大は成立しない。トップ選手を見て、感動し、次の世代の子供達は自分もああなりたいと夢を抱く様になる。日本女子プロゴルフ界が黄金世代やプレミアム世代と活況を示し始めているが、これは宮里藍選手に憧れた世代(親も含めて)であり、大きく影響を受けている。そして、大リーグに挑戦し成功した野茂選手の活躍があって、今の大谷選手が存在する。

トップ層だけではない。ジュニアアスリート層などへの影響、底辺の拡大、普及に確実に繋がる。当然、ジュニア世代などは、人間教育の視点も含まれるし、他の世代では、自身の参加による健康促進、観戦による心の健康促進等様々な波及効果がある。この正の連鎖現象を長い目で見て支えるのがオリンピックに他ならず、底辺含めた多くのアスリートたちが夢として目指す場所であり、社会全体にも大きな影響をもたらしている。これを奪うべきではないだろう。

勿論、その中でスポーツビジネスと言う観点での経済活動も拡大するだろうし、そうする事で、トップ層の引退後や関連企画、周辺技術等も含めた多くの雇用も生み出す。金まみれと言う批判もあるが、スポーツがビジネス化し経済効果を産み出す事は、決して悪い事ではない。悪いとすれば、その利権を既得権益層が独占する事であり、効果を産み出す構造を破壊する方向に向かうのは本質的問題解決ではなく、産業構造としての自由化、オープン化を目指す事で解決すべきなのだ。既得権益構造が存在するから、その業界をつぶせと言うのは、暴論なのだ。

<非科学的な・・・かもしれない>

ここまでの話は、反対派の皆さんには聞く耳すら持って頂けないかもしれない。自身がスポーツ文化との関わりが薄かったり、興味が無ければ尚更そうだろう。その方々に理解を求める事は出来ないだろうし、価値観を変える等と奢った考えはさらさらない。しかし、よく考えて欲しい。そういう方々は、文化や芸能にもそういった理解を示さないのだろうか。宗教に拠り所を求めたりはしないのだろうか。少なくとも、五輪を夢見、目標とし、人生をかけている人々も選手だけでなく多数存在するのであり、その存在を認め、多様性を尊重すべきではないのか。五輪悪論で苦しみ、悲しむ人達が世界中に多数存在する事を忘れないで欲しい。

反論として、人の命が優先すべきと言う論をよく聞く。命より大切なものはない、それは間違いない。それが故、五輪開催におけるリスク評価をするべきとの提言もある。全くその通りだろう、だからこそ真っ当なリスク評価を是非行って欲しいのだ。しかし、電波メディアで発言する多くの専門家と称する方々の言はリスク評価と言えるものではない事も認識しておかないと本当のリスクを見誤ると考えている。

昨年からずっと専門家と称する方々の予測が発信されているが、殆ど実現していない。それだけならまだいいが、実現しなかった事実を検証しフィードバックをすると言う、科学的アプローチが一切為されていない。『・・・かもしれない』とリスク評価をする上で絶対必要な発生確率を無視した、可能性論だけで、次から次に材料を見つけ出して、過去の反省もなく危機を煽っているのが実態だ。

この点は明確にしておきたいのだが、『可能性がある』と言うのは極めて非科学的発言で、正確に言い直すと『起こるかもしれないし、起こらないかもしれない』程度の意味でしかない。科学的にリスク評価する為には『何%の確率で起こり得る』でなければならない。この理由は明確で、『・・・かもしれない』では、根拠も論理もなく、何でも言いたい放題であり、本来は評価出来ないのだ。これを非論理的勝手理論と言う。

人流が増えて感染増と言う論理を持ち出すのならば、例えば、今迄の人流と感染の相関関係をデータとして示して論理性を担保する必要がある。『エビデンスはないが遠因になっている事は否定できない』この論理破綻が理解できない人は義務教育から学びなおすべきだろう。

反対の為の反対、多様性を認めない排他的で攻撃的な反対、根拠の無い『かもしれない』という恐怖に縛られた思考は、もう止めませんか?

<医療の自己防衛による分断構造>

日本のコロナ禍における緊急事態とは医療崩壊を防ぐ事が主目的だ。世界に誇る医療体制の、ほんの2%~程度しかコロナ対応をしていないのだから、例えば5%に上げるだけで危機は大きく減じる。ロックダウンを経験した様な先進国は一説では、約20%の医療資源を柔軟に再配分して、医療崩壊を避けたとの事。

確かに新型コロナが単なる風邪でない事は、高齢者の致死率等のデータから見れば明らかだ。しかし、逆に言えば高齢者、基礎疾患者、若者でも肥満や糖尿病患者などリスクの高い人達へのケア、重症化抑止対応を強化すれば、緊急事態は回避できるだろうし、その他大勢は、経済を回し、社会を活況化することが出来る。オリンピックも同様だろう。

専門家と称する医療従事者は、国民に我慢を強いる前に、医療体制強化を本気で拡充する事が職業上の責務ではないのか。現時点で、コロナ対応に追われ、日夜戦っている医療従事者の方々は、国民に我慢を強いる前に、大規模パーティーや寿司会食に興じる同業の責任者とその組織を徹底的に糾弾するべきではないのか。

今、スポーツ業界と医療業界が分断して何も良い事は無い。

スポーツ業界は、その価値を高めつつ、課題となっている既得権益構造に各団体、組織等、本気で向かうべきだが、そういう意味では組織委員会の組織改革などは一つの大きな前進であり、大会規模種縮小や関係者への様々な規制も前向きに受け入れている。

医療業界も、どう言い訳しようとも、先進諸国と比較して脆弱で劣後している事は間違いなく、本気で向き合う必要がある。政府や制度の責任にしてはいけない。業界の責務として、政治への影響力も強いのだから。

それぞれが、それぞれの役割と責任を全うし、他に迷惑を掛けず、他を支え、そして別ステージではあっても競い合う。そうあるべきだろう。

大坂なおみ選手の全仏棄権問題に見るアスリートとメディアの関係式

テニスの4大大会、全仏オープンテニスの会見拒否から、心の健康を理由に棄権となった。各メディアやトップアスリートがそれぞれの立場でコメントを発しているが、ワイドショーという環境に守られた無責任コメンテイター達は相変らず、どこかポイントがズレている発言が多く感じる。

<心の健康は現代社会の問題>

この問題は、決してトップアスリートに限った問題事象ではないし、テニス特有の問題でもない。現代の社会問題なのである。

まず、棄権に関してだが、複雑に考える必要は無く、物事は単純化して整理するべきだし、そうでないと本当の問題は見えてこない。

大会の場は、大坂なおみ選手にとって職場であり、そこでの仕事は試合だけでなく、記者会見などのメディア対応、ファン対応なども含めて全て仕事である。その仕事を責任持って実行する事が出来ない健康上の事由が発生して、棄権(休暇)するという事だ。

心の病気も病気であるし、職場を離れざるを得ない立派な事由である。従って、しっかりと療養し治癒させ、復帰プログラムを経て復帰できることを心待ちにしたい。否、こういう期待も心の病の回復には障害に成り得るので静かに見守るべきだろう。メディアも朝から晩まで報道するのではなく、事ここに及んでは静かにするべきだろう。

確かに、会見拒否から、棄権声明のSNS発信など、正直叩かれてもおかしくない表現もいくつかあるが、そこは心の病が故の所作と考えて大目に見ても良いだろう。

これは、アスリートの世界特有の現象ではなく、一般の社会、企業でも多数発生している現象であり心の健康を取り戻すべく対応する以外にないだろう。

会見なしで、プレーだけ出来る様に周囲で配慮、時代遅れの規則を見直すべき等と無責任に言う向も多いが、それは根本的に違う。会見に耐えられない病状で、プレーのストレスに耐えられるとは到底思えない。プレーであっても、自身の思う通りに行かない厳しい場面に出会うだろう、そのプレッシャー、ストレスを乗り越えて、正常にプレーを続け様とする事も、病状を悪化させる要因になり得るのだ。

繰り返すが、プレーと会見等セットで仕事であり、その一部が耐えられない状態であれば、その原因に向き合い、まずは適応できる様に回復を目指すべきなのだ。

<アスリートとメディアの関係>

トップアスリート故のメディア対応の負担だとか、記者会見で浴びせられる心無いインタビューの数々、それらの問題性を殊更極大化して取り上げるのも、本質的ではない。

念のため断っておくが、筆者はメディアの姿勢に関しては、問題性を孕んでいると、憤りを隠せない。数々の上から目線で自身が絶対正義であるかの様な振る舞い、言葉狩、揚げ足取り、人格攻撃等も多く見受けられ、人間的にも、社会的にも決して許されるものではないと感じている。それでも、今回の件で記者会見の方法論や、ルール化等に安直に結びつけるのは、論点のすり替えであり、本質的な問題解決に向かわず、筋が違う論点と考えている。

メディアの問題姿勢に対しては、問題提起はしつつ、自分自身が変える事の出来ない社会悪として、その存在を認識し、自己防衛をする事で対処する必要があるのだ。事実、トップアスリートだけでなく、ジュニアアスリート時代から、メディア対応は教育訓練の対象になっている。

ジュニアアスリートによる、大人から見たら問題発言に思える、天狗の様な発言、振る舞いに対してメディアが総攻撃する事案が過去に幾例も発生していた。ある程度、年齢を重ね、社会に出れば、コミュニケーションの方法や不必要に事を荒げない振る舞いは自然と身に付いてくるが、ジュニアアスリートはその力を備える前にメディア等に晒されるリスクがある。

ジュニアアスリートに対しては、学校やチームの代表としての認識、責任感を持たせ、普段の振る舞いから、メディア対応等も教育している。筆者が代表としてコーチを務めていたクラブチームの選手達も同様に教育を受けていた。学生アスリートなどがテレビのインタビューで、『そうですね・・・』と、決まり言葉から入る事を意識された事はあるだろうか。突拍子もない質問が飛んでくる事も想定し、いきなり答えるのではなく、同意を示しながら、冷静に考える時間を稼ぐ手法、身を守る手法の一つなのである。

ジュニアが自己防衛せざるを得ないという問題は孕んでいるものの、今回の大坂なおみ選手の件とは別次元で検討する必要があるだろう。

<スポーツ普及における共存共栄関係>

スポーツの普及には、底辺の拡大とトップ選手の養成、その両輪が必要不可欠だ。底辺が拡大普及してこないと、トップ選手は出て来ない。トップ選手が活躍しないと底辺の拡大が図れない。そして、選手自ら、地域密着、ファンサービス、普及活動や広報活動にも前向きに取り組む事で競技自体の普及が図れ、それによってアスリート自身の活動の場が確保できるという繋がりがあるのだ。

アスリートだって、他の仕事と同様、全て自分の自由になる訳ではない。思い通りにいかない事も多いだろう。上に行けば行く程、周囲に対する責任も重くなる。それは至極自然の事ではないだろうか。

また、スポーツの普及の為にはメディアの力は必要不可欠だ。ネットの拡販力も相当高まってきてはいるが、まだまだ電波系メディアには敵わない。従って、アスリートとメディアは利害関係者であり、共存共栄が必須の関係なのだ。

そして、昨今の社会問題でメンタルヘルスの問題は更に拡大してきており、アスリートも例外でなくなっているのだろう。これは、別次元で対応するべき問題なのだ。例え、自分自身と思想信条や主義主張が異なろうとも、多様性も尊重し、リスペクトする事が重要。その上で、記者会見も含めた言論空間では、論理性を保つと言う最低限のルールの上、スポーツ競技に関しては競技ルールに則って、遠慮なく全力で戦うべきなのだ。