Noの論理よりYesの発想

<現状認識>

昨年からのコロナ禍で、朝・昼のワイドショーにおける『Noの論理』のオンパレードが、在宅勤務が中心になり否応なく耳に入ってきた。

朝から晩まで、徹底的に流される偏向情報に多くの国民がサブリミナル効果を受けているのか、余りにも感情的な言動も多く聞こえてくる。他の意見や現実に出ているデータすら見ざる聞かざるで、陰謀論まで展開し、自己の主張を絶対正義と押し付け、異論には暴力的に誹謗中傷まで展開する。両論あるのに、持論に決まっていると非科学的に断定し、両極端に分断が進行している。

元々、日本人は、コップ半分の水を『もう半分しか残っていない』と直ぐに悲観的になって守りに入りがちだ。グローバル標準は『まだ半分もある』と前向きに、半分の資源を使って次の打開策を進める。外圧や上からの指示には、Noと言えない日本人だが、じゃあやってみろと言われても、後ろ向きで自らは踏み出せない傾向がある。

この様な状態でもパレートの法則に則り、前向きな少数が全体を牽引出来ていれば良いが、後ろ向きでマジョリティが形成されてしまうと話が異なってくる。どうも最近の世論形成は、『Noの論理』に支配され、所謂悪しきポピュリズムを生み出す方向に舵を切っている様に感じる。

この事態を目の当たりにし、このままではとんでもないことが起きる。自分に何が出来るだろうかと考えさせられ、偶々、定年に向けてカウントダウン、第二の人生を本気で考える段階でもあり、一念発起、個人事業としてLogINラボ(屋号)を立ち上げ、一石を投じたいと考えた。まだ、この先何が出来るかは、暗中模索状態ではあるが、何か役に立てはしないかと日々考えている。

<回顧録>

思えば、私の人生は波乱万丈と言っていいだろう。『Yesの発想』なくして今の状態はなく、『Noの論理』に絡めとられたら、前進は出来なかっただろう。小学生まで身体が弱く虐められていた少年が、小中高と体育会系でトップとは言わないが、一端のアスリートには成長できた。進路指導の先生に100%不可能と言われた受験を成功させた。社会人になってからも、結果を妥協無く追求する事で、多くの敵を作りつつ、修羅場を乗り越え、成果も人一倍出してきたと自負している。Noという選択肢を持たず、否、歯を食いしばり常にYesと前を向いて、多くの火中の栗を拾ってきた。

新会社の代表職、伸び悩む新事業の製造部門長、日本中物資不足・サプライチェーンが破綻した東日本大震災時の調達部門長、国家の威信をかけた最後のチャンスである国家プロジェクトの受注生産部門のトップ、など、どれも修羅場であった。『Noの論理』に絡めとられる反対勢力と対峙し、組織を活性化し、一定の成果を挙げてきた。

<『Yesの発想』は最も楽な道の選択>

人は精神的に弱い動物で、危機を感じると守りに入る。守りに入った時に、次の前進を前提にすればまだ良いが、前進しない自分を正当化し、後ろめたさを覆い隠すための論理武装を始める。そして、いつしか、当初正当化した後ろめたさを忘却し、前進しない事が正義と本気で信じる様に変化していく。この負のスパイラルは質が悪く、本人は正義だと信じて疑わない。

そして、負のスパイラルは人に伝搬しやすい。脱出しようとする者には同調圧力をかけて、時には暴力的に反対行動を起こす。正義の名のもとに。どこかで、このスパイラルを打ち破り、前進に転ずる事が出来れば、結果は天と地ほど違ってくるのだが、そう容易くない。

私の経験から言おう。『Yesの発想』で前進する事は、一見難しく感じるかもしれないが、一旦ポジティブチェンジが出来れば、実はネガティブ状態より遥かに気分は楽になる。確かに責任は重くなるが、失敗したところで命までは取られないし、皆がNoであれば、失敗してもNoの状態のまま、失敗しても当たり前、マイナスは無い。一方、Yesに転じる事が出来れば大きな成功の果実が得られる。実は、負けて当たり前の状態は、それ以上悪くなることが無い、気楽な状態なのだ。

今、世の中がネガティブに染まり、『Noの論理』が跋扈する状況で、一人でも多くの人が負のスパイラルを断ち切る事が出来れば、日本は凄まじい発展を遂げる事が出来るはずだが、その為に必要な要素は何だろう。それは、そこいら中に転がっているオープンデータを元にして統計データ分析をベースとした、ロジカルシンキングによる真理の追及だと確信している。

<世の中に前向きな成果をもたらす>

真理は一つしかない。しかし、真理には人間如きがそう簡単に到達出来ない。だから、『Noの論理』を入り込ませる隙が出来る。しかし、『Noの論理』には必ず論理破綻、論理矛盾が内在する。それは、真理追及が目的ではなく、Noと結論する事が目的なので、論理がご都合主義に侵されるからだ。

『Yesの発想』も決して傲慢になってはならない。真理は一つでも、そこに至るプロセスには多種多様であり、考察の方向性も様々なのだ。決して、自身の分析・検討のプロセスは唯一絶対ではないことも知らねばならない。100人いれば、100の考え方がある。思想信条は人の数だけあり、それぞれに異なり、尊重されるべき。多様性に寛容である必要がある。

しかし、その100種類の考えから、前向きな『Yesの発想』を活かし、最大公約数を目指せば、大きな勢力となり成果に繋がることは間違いない。異なる意見にも耳を傾け、尊重しつつ、最善と思える意見を示し、粘り強く説得し続ける。継続に不可欠なのが、ぶれない論理性だろう。

『Noの論理』を振りかざし、ポピュリズム手法で、『煽り』『脅し』で扇動する方が簡単で多くの信任を得られるかもしれないが、それでは長続きしないだろうし、結果は悲劇的である可能性が高い。地道で粘り強い『Yesの発想』の追及と普及は、一朝一夕には拡大しないが、一旦定着すれば、根強く正のスパイラルアップを生み出し、大きな力に必ず成長していける。

『Yesの発想』を持ち続け、真理に近づく論理を軸に、小さな一石を投じる事が出来れば、この先の人生も充実できるだろうし、必ず前向きな成果を世の中にもたらすこともできるだろう。

現代版学問ノススメ

 福沢諭吉先生の学問ノススメ。日本人で知らない人間はいない程有名だが、ではその中身を理解している人間はどれぐらいいるのだろう。大きな誤解をしている人間が多いのではないだろうか。

有名な冒頭『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず』を、平等社会を訴えた様な言い方をする人が多いのではないだろうか。その後に『といへり』となってその後に逆説的に続いているところまで理解している人が少ないのである。

逆説的に続いている部分は『されども今廣く此人間世界を見渡すにかしこき人ありおろかなる人あり貧しきもあり富めるもあり貴人もあり下人もありて其有様雲と泥との相違あるに似たるは何ぞや』なのである。つまり、万人は平等と言うが、現実社会は貧富の差、賢人と愚人など違いは確実にあるが、それは何故だろう、としているのだ。

決して平等だと言っているのではなく、平等と言われているが現実は異なるぞ!なのだ。

結論として、その差を生み出すのが学問であるとしていて、学問のススメになるのだ。学問をすることで、賢明な国民が健全な民主主義を運営できるのであり、賢明になれなければ健全な民主主義が運営できないことになる。学問は、個人が自分自身で努力すべきことであり、まさに、自助による個が自立・自律することが近代国家の最優先課題だとうったえていることになる。

どこかの政党の党首は、菅首相の国家像として示した『自助・共助・公助』に対して、自助を政府の立場で語るのは無責任だと頓珍漢な攻撃を行ったのは記憶に新しい。流石に、自助をベースとした個が成立しなければ、近代国家の自由・独立・平等が成立できず、封建的独裁国家になってしまうことは理解しているはずだが、恐らく、政府の言うことには条件反射的に反対すると言う脊髄反応を示したのだろう。末期的症状と言われても仕方がない。

それはともかく、学問のススメの時代背景は、それまでの江戸時代、武家による封建制度から、欧米の様な自由と民主主義を追随し、経済発展を目指すべく明治維新という時代変革に挑戦していた。勿論、国家としての役割、機能、制度を整えるのは絶対必要なのだが、今までの様にお上の言う通り、その範疇で実行するという国民では、大きな時代変革におけるイノベーションを阻害してしまう。むしろ、国民一人一人、個人が主人公にならなければならない、個々が責任を持たねばならなかったのだ。その為には個々人のポテンシャルを上げる必要があり学問が勧められたのであった。

今、再び時代は大きく変動しようとしている。その変動の最大なるポイントは情報革新である。インターネット環境下で、5G、AIが実用化され、量子コンピューティング、量子暗号などの技術がブレークスルーしようとしており、誰もがビッグデータに直面して、自由に確認することが出来る様になってきた。これまでの、マスを対象とする、画一的であるが故に、偏向するか、内容が希薄かのどちらかにならざるを得ない情報から、多様性を包含し、奥深く中身の濃い様に変貌してきている。しかし、一方でそれ故、玉石混交状態であるのも事実なのだが。

自由と民主主義を成立させる個々人、その個々人の思考が民意として、進むべき道は選択されるが、その判断に必要不可欠なのが情報なのである。しかし、今、この情報性向の変化に個々人が適応しているとは思えないのが問題なのである。

それ故、マスに発信される情報は、今まで以上に偏向する傾向が強くなってきている。ある意味、何らかの意思があるのではと感じる程なのだ。それは、個々人に、玉石混交の情報の中で判断できる情報の選択と分析、解析するリテラシーが備わっていない為に、所謂フェイクニュースが有効になってしまい、更にひどくなるという悪循環が生じている様に感じる。

簡単である、フェイクニュースに対して、きちんと論理的に是々非々の個々の考えが発信できる様になれば、その様に情報に向き合うリテラシーが備われば、マスの発信も無駄なことは避ける方向に向かい、情報として洗練されてくる。

今のメディアは目に余るフェイクニュースの発信を繰り返しているが、それが輿論形成に繋がってしまい、視聴率の獲得のために更にフェイクニュースが増えるという悪循環を発生させてしまっている。この状態が継続されると、人類は再び不幸な道に向かってしまいかねない。その勢いは、良識ある一部の為政者が存在しようとも、せき止める事は出来ない、それが民主主義だからだ。

であれば、今こそ、現代版の学問のススメが必要になる。個々人の情報リテラシーを備える努力が必要不可欠になるだろう。そして、更に、ビッグデータに向き合い、統計的、論理的思考によるデータの解釈、分析が出来る様になれば万全だ。

まずは、私自身、統計的、論理的思考による情報発信を続け、リテラシーを備え、データ分析による思考が出来る人材が一人でも多く育ってもらい、議論を戦わせる様になることが目標だろう。

政治刷新の本質、日本は今危機事態にある

最近は連載以外はコラムを書いていなかったが、書かざるを得ない衝動に突き動かされた。それは政治と金の問題に関してである。世間を騒がせているが、そんな世間で語られる次元ではなく、決して許されない、堪忍袋の緒が切れたのだ。

私自身、政治と金の問題に関して個人的には、ある程度汚い金も必要悪で、その目的とする事が国益に資する事であれば容認する考えを持っている。清廉潔白な政治家など、戯言は語れても現実社会への貢献など出来るとは思えないし、綺麗ごとの通じない国際社会の中で国益視点では、ある程度泥にまみれ、汚い手も使う、清濁併せ呑む覚悟も必要だからである。それは政治家にしかできないはずだ。軍隊が国家を防衛するにあたり覚悟が必要なのと同様、政治家にも覚悟が必要と考えている。

しかし、昨年末から今年にかけての自民党のパーティー券騒動は、余りの出鱈目、政治家たる資質の欠如、いや社会人としての人間性の欠落、国益度外視の私利私欲の塊のドタバタ劇を見せられて怒らない国民はいないのではないだろうか。そして冷静に一つ一つを繋げて俯瞰して見ると、そこには公平・公正な論理はなく、野党もメディアも含めてまともな論理が通じない日本を壊す存在であり、民主主義の危機だと言わざるを得ない。

まず一つ目は、いつまでも安倍派と呼称している事に違和感を感じている。

安倍元総理は総理時代、派閥を離脱している。これは部分最適に陥らないための慣習であり、派閥に属していたのは総理退陣後暫くしてから無くなるまでのほんの数か月だけである。つまり対象とされる5年の殆どは、総理在任中の細田派であり、亡くなった後のことなのだ。

更に、安倍元総理は派閥の領袖に就任後、裏金の処理に関して厳しく糾弾し禁じる指示をしていた。現実に在任時のパーティーはキックバックもされていない。問題は亡くなった後にキックバックが復活している点であり、安倍氏には関係なく、安倍派と印象操作するのは、余りにも故人を冒涜する行為に思えてならない。

そして本件に関わる岸田総理の人事には違和感を通り越して、嫌悪感すら感じる。

事件が発覚して直ぐに、まだ疑惑の段階で清和政策研究会(安倍派と呼称)の閣僚達が揃って更迭された。しかし、志帥会(二階派)の閣僚は派閥離脱するだけで更迭はされていない。宏池会(岸田派)に至っては略式起訴されるに至ってもなんら処分はされてない。岸田総理退陣の声が上がらないのは異常であり、ダブルスタンダードである。

事件の本質は政治と金の問題で、法的に問題なのは収支報告書への不記載、即ち裏金化である。これは一般的にはマネーロンダリングに当たる行為である。しかし、パーティーを禁止したり、キックバックを悪としたり、本質から目を逸らす論点ずらしにしか思えない行為が目立ち、メディアも共謀しているのか本質を問う情報が発信されない。

はっきり言う、野党も含めて政治家の多くが、同様の金の扱いをしている。決して安倍派だけではない。なのに安倍派議員だけ血祭りにあげられている。本来、金額の過多が問題ではない。ある意味扱う金額が大きいという事は、それだけ力があるという事である。もちろん悪を為す力も大きくなるので糾弾の対象となるのは当然だが、悪を為しながら力も持たない(金額小さい)人物は政治家として何も為せない能力不足の証明でしかない。

このことを問題整理すると、政治と金の問題で法的に金額で閾値を設けざるを得ないのは現実論として仕方ないだろうが、政治家としての善悪を問うなら、金額の過多は関係ない。政治家の善悪にダブルスタンダードは許してはならないだろう。ましてや同じ悪で力も無いのは無用の長物に過ぎないのだから、一刻も早く政界を去るべきだ。

そして政治家以前に一人の社会人として、人間性の問題を指摘せざるを得ない事象もある。

岸田総理は前述した慣習を破って、総理就任後も派閥のTOPに居座り続けた。しかし事件発覚後なぜか派閥離脱を宣言した。何の意味があるのか不明で、降りかかる火の粉から逃れようとしたとまで勘ぐらざるを得ないが、今度は岸田派解散を宣言した。派閥を離脱した人物に権限はないのだが、何ら追及されず、他の派閥解散を言及する立場にないとの発言までした。自民党総裁という立場なら全派閥に物申す事も可能で、離脱した岸田派に対してと完全にダブルスタンダードなのだが、本人も気付いていないのだろうか。気付いていないなら総理としての能力に問題あり、気付いていての発言なら、社会人の資質として決して認められる人物ではない事が露呈している。

社会人としての資質に関しては、いまだに秘書と会計責任者の責任に押し付け、自分は知らなかったと言い訳する議員がいる。反社会勢力でも鉄砲玉に親分の身代わりをさせるなんていまや許されない前時代的構造に思える。百歩譲って、本当に知らなかったとしても責任者として責任を取る姿勢を見せるのが当然である。そして、秘書や会計責任者に罪があるなら、訴えるべきであり、そんな事例を見たことはない。トカゲのしっぽを切って終わる時代ではないことすら認識できない人物に政治が任せられるはずがない。

最後に、不記載の政治資金がどこからきているのか、何に使われたのかという問題を追及する必要がある。実は、この件はこれまで全く触れられていない。

使われ方に関しては、逮捕者まで出した自民党の愛知県連に対する日本保守党の公開質問状に対してもゼロ回答を決め込んでいる。

どこからの金かという問題では、そもそも政治資金は外国人からの献金はNGなのだが、パーティー券とする事で闇に紛れて外国人献金を受ける構造が囁かれている。当然だが、国益に資するはずの国会議員が外国人から献金を受けて、真面な政治が行えるとは思えない。それこそサイレントインベージョンを拡大する構造であり、場合によっては外患誘致罪にも問うべき程重い事象である。

岸田派の政治資金パーティーに多くの外国人が参加しているのは知られている事実であり、岸田派の未記載政治資金の修正記載のうち、99.8%が出所不明のままとなっている。これは外国人がゆえに公に出来ないと想像するのは間違いだろうか。

そもそも55年体制において、自民党一党政治が継続できたのは、党内派閥による政権交代が起きて政治に国民の声が届く牽制効果があったとされていたが、それは既に制度劣化し機能不全に陥っている状態であろう。

安倍元総理時代は、保守系の人気を集め長期政権を執りながら、社会のリベラル寄りの声も拾い上げる政策も実施して支持を集めた。菅政権を経由後の岸田政権は完全にリベラル色に染められながら、逆に保守系の声、特に安倍元総理存命中の意見もとりあげた政権運営であったが、その安倍元総理が暗殺され、国民の声を聞く耳が持てない政権がリベラルに傾倒したと考えられる。その現れがLGBT 法案強行採決だろう。

しかしよく考えて欲しい、リベラル政権に国民が投票した訳では無い。国民の声も聞かず、勝手にリベラル政権に政権交代した状態なのだ。これは民主主義の冒涜に他ならない。政権の支持率が低下の一途を辿り、野党の指示も伸びないのも道理なのだ。保守の仮面をかぶったリベラル勢力は堂々とリベラルとして国民に訴えかけるべきであり、その上での多数を目指すのが当然だ。

現状は国民に選択肢がない不健全な状態になっており、このままでは国民の信託を得ないリベラル独裁に陥ってしまう。健全な民主主義を再構築するなら、米国の共和党と同じ存在の政権能力を有する保守系の国政政党が誕生するべきだろうし、それ以外に健全化の道が思いつかない。

勘違いするな日大、教育現場は治外法権ではない

日大アメフト部の大麻疑惑に関して、日大側は個人の犯行との結論に至ったとの報道があった後に、他の部員の関与の疑いとして2度目の家宅捜査が行われた。

危機管理を学問として教える日大が危機管理の基本中の基本を逸脱する失態である。

危機管理とは発生した危機に対して、その波及範囲を最大限カバーして対処する事がまずは求められる。今回の事案でいうならば、大麻・覚せい剤に関わる違法行為の疑惑があり、しかも当初から個人の犯行でなく日大寮内の複数名が関与しているとの疑いはあった。つまり、波及範囲としては関与した全ての個人が特定されなければならない。

この範囲を出来るだけ狭く特定したいのは人情であり、関与していない無実の人への濡れ衣を晴らすべきなのだが、この特定は口で言うほど簡単では無く、絞り込みは容易でない。その場合は、最低限でも寮内全部、いや最悪の場合学内全部を対象として危機対応するのが危機管理の定石である。一旦特定した波及範囲が後に拡大してしまうのは最悪なのだから。

コロナ渦の対応で世のメディアが、危機管理とリスク管理の違いも理解できずに、リスク管理事項に前述の危機管理の定石を当てはめて喧伝するという誤りを後押ししたのは実は日大の危機管理専門家だと筆者は認識しているが、当の日大が実際の危機管理事態に対して、基本を無視したと言わざるを得ないのだ。

繰り返すが、日大は危機事態を一人の犯行と最小範囲に特定したが、実はまだ複数名の関与が疑われる状態であり、特定範囲が広がってしまっているのであり、この状態は日大として今後、何を発言しても信頼できない隠蔽体質と断ずるに足る事態なのだ。信頼を取り戻すには相当な努力と反省を元にした改革が必要だろうが、現時点でその様な様子は感じられない。少なくとも危険タックル事件の反省は無く対策は出来ていないという評価が一般的な感覚ではないだろうか。

<教育現場の治外法権意識の顕在化>

学校組織環境には危機管理の基本よりも上位の概念があるがゆえ、こうなってしまったと考えるべきではないだろうか。その真因を推察し考察したい。

まずは先日の記者会見で抱いた違和感を述べたい。この違和感は教育界全般に横たわるものだと、筆者自身の過去の経験からも感じるものなのである。

違和感の正体は、必ず出てくる「教育的見地から」「教育現場であるがゆえ」というニュアンスで教育業界側から語られることにある。

筆者には、危機管理の要諦どころか、あたかも法的概念よりも上位に教育的概念が位置するかのような物言いに感じ、教育現場が治外法権にあるかのように勘違いしているのではないかと疑うのである。

結論から言うと、違法行為に関して、教育現場であろうと、他の社会であろうとも考え方に違いはない。教育現場だから、教育的視点を入れて、学生の将来を考慮して、学業を優先した対応をするなどというのは許されず、法的に粛々と、そして厳しく対処するべきと考えるべきものなのだ。

自首を促すのは良いとしても、犯人隠匿・証拠隠滅と疑われるような行動はそれ自体に違法性の疑いが生じるため、厳に慎むべきであり、警察捜査に委ねるのが国民としての責務である。ところが、なぜか教育現場であり生徒が対象となった瞬間に、教育者は法の概念を上回る偽善の皮をかぶった独裁者と化したかのような勘違いをして、違法行為や犯人隠匿、隠蔽を正当化しようとする。

今回の件も、個人の犯行で他に関与者がいないと決めるのは、学校側、教育者ではなく、警察であり検察なのだ。そして罰するべきかどうかは司法の役割である。犯行が行われたのが教育現場であるならば学校側は警察捜査に協力するのが当たり前で、知り得たことはつつみ隠さず速やかに報告するのが当然であり、これを放置するのは警察権力にあらがっていると言われても仕方がないだろう。

教育現場は、過去の経験からも、警察を入れることを極端に嫌う傾向がある。犯罪が疑われているにも関わらず、警察を入れず、教育現場だけで内々に処理してしまうことが、あたかも教育現場の正義と勘違いしていると思えてならない。実際に教育現場は特別だとの発言を聞いたのは一度や二度ではない。

これでは法治主義を軽視する、自己都合での組織ぐるみの隠ぺいが完全犯罪として正義になると教える反社会組織となんらかわらない精神構造に思えてならない。

繰り返す、教育現場であろうと、それが教育の対象である生徒であろうと、違法行為であればそれは厳しく法に則って対処するべきあり、それが法治国家としての基本原則でもある。それができない教育は健全な教育ではないと断言させてもらいたい。

経産省トランスジェンダートイレ使用に関する最高裁判決を受けて

性同一性障害の経済産業省職員に対する女性トイレの使用制限を違法とする最高裁判決が下された。

直後、勝ち誇ったような情報発信も多く、「これで俺も女子トイレに堂々と入れる」と判決文を読みもしない勘違いが広まっている。これを鵜呑みにする情報弱者、或いは分かっていて悪用する輩が発生する事も否定できない。

一方で保守系の一部から、この判決は特殊事情が前提であり、一般的に女性の安全は少しも脅かされていないので、慌てて拡散する事は百害あって一利なしとの発信も目立つ。また、同じ保守系論陣で、事態の最悪化を訴える人達もいる。

一体現実はどう考えるべきなのか?

ここからは筆者の個人的見解だが、判決としては特殊事情であるとしても拡大解釈される危険性の高い最悪の判例と考えている。だが、この現実に抗う方法論も明確に示されたとも考えている。

以下、順にこの考えに至る理由を述べるが、そのためには最初に判決の要旨を示しておく必要がある。

まずこの事例が特殊である点だが、原告は20年以上前から性同一性障害と診断されており、ホルモン投与で性衝動に基づく性暴力の可能性が低いとの診断もある。性転換手術は健康上の理由で受けられないという事だが、肉体的男性による偽装性自認ではないともいえるだろう。

そして環境が経済産業省職場内部の話であり、長年その状態で、原告自身がトランス女性であるとの認識は相当レベルで周知されており、一般的な不特定多数が誰でも出入りできる公衆トイレとは環境が異なり、当然判断も異なる。

以上の事から、経済産業省内における労働環境の改善義務が定められた国家公務員法の違反として判決が下っている。だからある意味、労働争議の範疇との解釈もできる。

そして労働環境という視点で考えた際に、原告と他の女性職員の双方の労働環境、問題点を比較して見る必要があり、判決では、多くの女性職員との間で長年トラブルが生じたことがないとされ、説明会でも原告のトイレ使用に関して数名の女性職員が違和感を抱いているようにみえたものの、明確に異を唱える職員がいた訳ではないとの主旨も記述されている。

以上の様に内容を見ると冷静保守派のいうように、一般の公衆トイレ使用にまで波及するものではなく、慌てる必要は無いとの主張も理解はできる。但し、それでも企業や学校などの環境、特定された人物で使用される環境では影響を受けるのは間違いないだろう。そしてその環境での訴訟リスクや、設備工事要求などの活動も活発になるだろう。

<現実的な問題点と対処策は>

以上のような判決なのだが、注意する点をもう少し踏み込み、問題点を明らかにしていきたい。

まず医師による診断書について考えたい。どこまで科学的根拠に基づく診断なのか、責任はあるのか等である。

性暴力のリスクは低いと診断だが、もし判決後に晒された、本人の裏アカとされる投稿が本当に本人のものだとしても診断は変わらないのだろうか。そもそも自認というのは、その場の認識であり移ろうものである。衝動は更に、その時々の精神状態や環境で起きるものである。医学的には一定年齢を過ぎてからのホルモン投与は生まれながらの性別的特徴を覆せるほどの影響には乏しいので、ジェンダーアスリートも男性としての肉体的優位性は失われないとされるの通説がある。

ならば何をもってして性暴力のリスクが低いと判断できるのか、そして判事は何を根拠にその診断に合理性があると判断できたのか、理解に苦しむ。

例えばタレントのはるな愛さんは性転換手術を受け、女性としての生活をされ、周囲も受け入れている。日本はトランスジェンダーには極めて寛容で理解ある証拠である。しかし、この経産省の事例は肉体的には男性なのであり話が違うのだ。ここまでは許されるが、ここからは駄目と線引きされるのが自然であり、トイレや浴場などの使用に関しては、その根拠は肉体的な区別であるのが科学的合理性ある公平な判断ではないのか。

医師だって人間であり個々に思想信条、主義主張を持ち合わせている。悪意ある訴訟ビジネスを担っているリスクもあるだろうし、そもそも誤診もあるだろう。科学的裏付けの困難な診断は特に慎重に判断材料として取り扱うべきではないのかと疑ってしまうのだ。

即ち、恣意的判断の介在を出来うる限り排除し、科学的に実証可能な、この場合では肉体的違いで区別する以外に方法はなく、その理解を深める必要があるのではないだろうか。

そして筆者が最もいいたいのは、職場の女性の明確な異論がなかったという点に関してだ。

容易に想像できるが、この状況で明確にノーと発言できる人がどれほど存在するかという問題なのだ。よく考えて欲しい、この状況で明確にノーと言えば、明らかに当人が特定される状況でもあり、差別主義者とのレッテル貼りと、ネットだけでなく私生活にも影響を及ぼすような迷惑行為、いやがらせが予想されるのではないだろうか。それだけではない、職場内でも処遇面で影響がないとはいえない。

そのような状況に置かれたら、内心は嫌と思いつつも、我慢し、声を上げない、という態度になるのが通常ではないだろうか。もしそうなら、それこそ労働環境として問題であるはずだ。

なぜこのように思うかというと、私が聞く範囲では、総じてこの様なケースでのトイレ使用に違和感を持ち、危険性を感じるという声が圧倒的だからだ。

繰り返しになるが日本において、LGBに対する理解は他国より圧倒的に高く、個々人の好き嫌いとは別に存在として理解を示している。この問題の本質は、LGBTに対する理解を殊更極大視し、異を唱えると差別だとレッテルを貼る行為が、多くの女性の恐怖心、違和感を理解していないのではないかと思わざるをえないのだ。

であれば取るべき有効手段は、女性自身が声を上げること、違和感を発信する事だろう。そして男性はその女性の声に耳を傾け、いわれなき攻撃を受ける女性を全力で擁護することではないだろうか。

多くの職員が異を唱えなかったことが判決の理由になるならば、異を唱えること、声を上げる以外にないだろう。沈黙は同意と判断されたのだから。経産省も裏アカ投稿を調査し、その情報を受けた女性職員の正直な声を今一度拾い上げることが必要ではないのか。今からでも遅くないはずだ。

自称「権力を監視する役割」を語る偏向メディアの欺瞞

メディアは時に「権力を監視する役割」を大上段に振りかざす。そして少し批判されれば直ぐに「言論の自由」を返してくる。

冷静に考えてみよう。「権力を監視する役割」を機能させるためには、権力を倒す力、揺るがす力をも持つ事となり、その時点でその機能自体が『権力』に他ならない。ならばその自ら持つ『権力』をも監視する役割も必要となるが、自らの行為を自ら監視する構造は独裁でしかない。まさにBPOは自らの内輪の監査に過ぎず、機能していない事は誰の目にも明らか、メディア同士もなんら監視、牽制しているとは思えない。少なくとも制度的に権力としての牽制機能は存在しない。そのようなメディアが権力を有するのは民主主義ではない。

従って、「権力を監視する役割」というのは自称に過ぎず、その様な権限は制度として何ら形にはなっていない。但し、「言論の自由」という範疇で権力を批判する事も容認されている。それだけに過ぎない。

もし本当に「権力を監視する役割」を大上段に掲げるならば、自らの権力に謙虚でなければならず、そこに「言論の自由」を持ち込むべきではなく、自らの活動も批判の対象にならねばならない。このパラドックスを理解せずに自己都合の身勝手は許される訳がない。

その様な権限はないので、一定の「言論の自由」は保証されるが、それでも情報を配信する機能を有するという事は、それだけで扇動する力を持ち、しかも国家の公共財産である電波を格安で利用する権限を与えられているために、放送法によって公平性を保つことが前提として規定されているのだ。

さて、ではこの放送法に規定する公平性は保たれているだろうか。保たれている、守られているという屁理屈の一つに、解釈としての「一つの番組ではなく放送事業者の番組全体を見て判断する」というものである。

百歩譲って、この解釈を正当だと仮定したとしても、一部の番組で偏った政府批判が行われている事を事実上認めているのだろう。一方、全体で公平性が保たれているためには、真逆の番組が存在する必要がある。まさに、政府批判の言葉尻をとらえた揚げ足取り、単なる難癖を徹底的に批判する番組が必要だが、どこにその様な番組があるのだろうか。その時点で全体としても公平性は保たれていないのは自明である。

常識的に考えて、一部の番組でも酷く偏ったものであれば、全体でバランスをとる事は困難である。つまり全体でバランスを取るといっても、個々にある程度の公平性は保たれなければならないのは当然なのである。それが選挙期間など偏向報道による扇動の影響が大きい時期には平常時以上に公平性が必要不可欠になる。ただそれだけのことに過ぎない。

しかし、今また騒動が起きた。またメディアによる一方的で非論理的な誹謗中傷がこれでもかと繰り返されるかと思うと憂鬱になる。加えて、それに便乗して、日本語読解も出来ず、文書管理の基本も知らずに、鬼の首を取ったかのように騒ぎまくるボーカルマイノリティにも辟易する。

はっきり申し上げる。権力の監視は有権者である国民が行うものである。その結果は選挙で民意を意思として表すのが民主主義である。メディアにその権限はない。奢るのもいい加減にして欲しい。加えて、全ての国民に「言論の自由」はある。しかし自由が保証される前提には、一定の責任と義務が伴うのは当然である。その責任を認識できないで自由だけ叫ぶのはガキの我儘に過ぎない。

メディア放送・報道の役割は、あくまで真実を伝える事である。その上で若干の解説を加えるまでは良いだろうが、一部の番組の様に偏った思想の解説者を揃え、徹頭徹尾誹謗中傷を続ける行為は決して許されるべきではないし、それが権力の監視ではない。自らの主義主張を叫ぶなら、堂々と公共の電波を返上し、自らの力で発信するべきである。国家の財産である電波を使った単なる自らのプロパガンダは、本気で糾弾すべき時代になったのだろう。

全く話は変わるが、今回の小西議員が取り上げた総務相の文書だが、正直言って、こんな文書としての基本も守られていないものを見て騒ぎ立てるとは、嘆かわしい限りである。

公式文書であるとの批判が聞こえてきそうだが、真っ当な文書形式の部分に関しては、内容に問題性を感じないし、政府もその様に答えている。文書の体裁を為していない個人メモとして何ら裏付けも、確認のされていないものも混在している。それを分けて議論すべきである。

個人のメモは好き勝手に書ける、それは虚実含まれていても成立する。文書として真実の記録となり得るには、5W1Hがあり、関係者による確認・承認を経る必要がある。単純にそれだけであり、それ以上でもそれ以下でもない。文書管理のイロハも分からずに何を騒いでいるのか、なぜこれで政府を批判できるのか正気とは思えない。バカ騒ぎする時間がもったいないとしか思わない。

パンデミック収束までの振り返りと戦後処理の必要性

新型コロナがゴールデンウィーク明けにようやく感染症法上の5類に移行されることが決まった。本当にようやくだ。3年は長かった。

なぜ、GW明けなのだ?という疑問や批判もあるが、それでもようやく正常化に向かう政治決断には素直に安堵の気持ちを示したい。それでも最後のあがきの様に抵抗を示す人々、最後っ屁を国民に向けて発信する医療従事者も少なくない。私には、既得権益者による構造改革に対する抵抗とその周辺の思考停止して指示待ちする大衆に見えて仕方がない。これはある意味で専制体制に他ならないのではないだろうか、その危険性を理解するべきだろう。

3年を振り返ってみよう。

まだ新型コロナが未知の脅威であった当初、ダイヤモンドプリンセス号の乗客である感染者の入国を受け入れるか否かで大きな政治決断が迫られた。法治国家として、入国規制の法的根拠を明確にするために感染症法を改正し2類相当に分類したと考えている。

その場の雰囲気や勢いで、超法規的決断をするのではなく、あくまで法治国家として。

つまり感染症が未知であり、リスクとしては強毒性の疑いを捨てきれずに採った判断であり、この時点での政治判断は間違っていないだろう。

しかし当該豪華客船の感染者に対応した結果、実は日本の専門家はある程度のレベルでこの感染症を把握している。その結果として、ゼロコロナではなくWithコロナを前提に、感染対策として『3密』を提唱した。この『3密』を挙げたという事は、エアロゾルという名称で一般人には話を難しくしたが、要は空気感染リスクを元に換気の必要性まで訴えている。

そして豪華客船に乗り込んだ自衛隊員は感染していないが、同様の装備をしていても厚労省職員は感染した事実がある。この事は、感染抑止装備をしたとしても、日頃から訓練を受けた運用を確実に実行しない限り、有効性に欠ける事が示されたと考えるべきだろう。

当然だろう、例えばマスク一つとっても、折角マスクをしてウイルス吸引を一旦防いだとしても、そのウイルスが付着しているマスク表面を触った手を介してウイルスは体内に侵入する。マスクの装着に隙間があってもそこからウイルスが吸引される。この双方を同時に防ぐためには、厳格に装着したマスクを着用中は触ってはならないのだが、非訓練者が長時間装着すれば表面に触るか、触らなければ装着がズレるのは自明だからだ。

その様な当たり前の常識を棚上げして、スーパーコンピューター富岳での飛沫飛散シミュレーションにあたかも科学的意味があるかのように、飛沫飛散抑止を目的化してしまった。

飛沫飛散抑止であれば、咳エチケットで実現できる。いやそれ以前に有症状者の外出、行動を控える健康管理徹底が本質的には最も効果的である。無症状者からの感染リスクを殊更極大化する傾向があるが、無症状者はその名の通り咳はしないのだから飛沫飛散量は元々少ないのでリスクは低い事は理解できるだろう。

それなのに、なぜかマスクが伝家の宝刀として重用されて現在に至り、いまだ思考停止した声が大きい。デンマークで行われたRCT(ランダム化比較試験)ではマスク着用有無と感染に因果関係はない事を示し、これはエビデンスレベル1と医学的エビデンスのトップの信用度が高い実験論文であるのだが、都合の悪い情報は全く見えないのだろう。

<社会不安を煽るインフォデミック>

そして日本の臨床医療は、PCR検査など殆ど行われていなかった時でも、この感染症の特徴を見抜き、CTにて確定診断を可能にし、世界有数の肺疾患治療ノウハウで被害を最小化する臨床成績を誇っていた。

しかるに、メディアは『PCR検査が出来ないから感染者の実態が分かっていない、全員検査が必要だ』『明日はニューヨークになる』『死者数も隠蔽されていて実態が分かっていない』と科学的な裏付けや統計数字的なマクロ分析も全くなく、不安を煽り続けた。

その結果が、『PCR検査の体制強化、無料化』『様々な行動制限』『直接死因でなくとも死者のPCR検査で陽性であればコロナ死とする定義で運用』と政治が民主主義はゆえに大衆迎合的世論に押し流される政治判断が繰り返された。

陽性と感染の違いすら理解しない大衆が、初年度の春には、この様な風潮をつくりあげたのだ。まさにインフォデミックに陥ってしまった。

その様な状況下で医療体制は、50%に満たない病床使用率でも逼迫だと煽り続けた。どこの世界に、投入したリソースの50%程度の使用状況で逼迫という業界があるのか不思議で仕方がなかったが、その様な疑問を挟む声は極めて少なく、声を上げれば非論理的な感情論の誹謗中傷が鳴りやまなかった。

メディア報道では、ある病院の病床が100%埋まった事態を映し出し、逼迫だと言っていたが、逆に考えると全体が50%の使用率ならば、当然ながら0%に近い病院も存在しなければ数字の辻褄が合わない事を誰も指摘しなかった。

誤解を恐れずに言わせて頂くと、リソ-ス使用率50%程度の民間事業であれば、リソースの追加投下ではなく、削減を企てる数字なのだが、なぜか医療現場は逼迫と言い続けた。しかし、最近の監査報告で医療法人の経営が大幅改善し、補助金不正受給の疑惑の可能性まで噂され始めた。それでも『国民がツケを払え』という主旨の暴言にも感じる発言をする頻繁にメディア出演する医療従事者まで存在するのが現実だ。

結局、逼迫ではなく、リソース再配分の柔軟性に欠けていたのが最大の問題であろう。医療現場は人も含めて流動性が持てないとの批判がありそうだが、一般企業での事業継続時のリソース再配分も同様で、そんなに簡単ではない課題に取り組んできている。医療業界だけ事業継続的思考回路が全く欠落しているのに許されているのはなぜだろう。むしろ事業継続対応は他より必要な業界のはずだ。

<パンデミックを終わらせる条件>

新型コロナパンデミック収束の鍵はワクチンと治療薬だと言われ続けて来た。

しかし治療薬は、風邪コロナウイルス感染症の治療薬すら世の中に存在しない状況なのに、新たに開発できると考えるのは無理がある。あくまで初期は症状を抑える対症療法であり、これは風邪と全く同じ、中等症以上の肺疾患に対しては日本の進んだ臨床医療で対応するのが基本。つまり余程の強毒性を有するか、肺疾患以外の疾病につながる場合を除いて、治療薬に期待するのは筋違いに感じる。

ではワクチンはどうだろう。実際に今までのワクチンは開発や治験に相当な時間を要し、数年後の実用化が精々だと言われていたが、mRNAやウイルスベクターと言われる新たな方式での開発が短期間で実現させ、当時の米大統領トランプ氏の強権により、早期市場投入となった。

新たな方式故の未知のリスク、治験・長期の安全確認が充分でない等のリスクは当初叫ばれていたが、ウイルス感染症が未知で欧米での初期被害が甚大であった事から、ワクチン接種のリスクは少々目をつむってでも感染リスクを抑える判断がなされて、ワクチン接種が進んだ。

この判断に問題は無いだろう。全てのリスク、ベネフットの比較評価によるからだ。

問題は、接種を進めるために行われた事実上の情報統制なのだ。情報空間ではワクチンリスクを語る情報の規制が行われ、ワクチン接種のリスク情報提示も充分ではなかったと言わざるを得ないのだ。こうしてワクチン接種は個人判断と言いながら、半強制的な風潮を産み出した。

更に情報の歪みは接種後のリスク顕在化、死亡発生に関しても同様であった。具体的には、リスクをアレルギー反応に矮小化し、他のリスクを明確に伝えなかったがゆえ、後遺症の疑いなどで苦しむ人にスポットが当たらなかった。

また、死因として特定されないものはワクチン死とカウントされなかったのも同様だ。死因を特定する事自体相当困難だと容易に想定できるのだが、それは死因不明であり、ワクチンとの因果関係を否定するものではない。いやむしろ状況証拠的には因果関係を疑うべきだろう。それは接種後の死に至るまでの期間が不自然な偏りを示しているのだ。

これは前述したコロナ死の定義と根本的に思想が異なっている事はお分かりだろうか。リスクを公平に比較するなら同様の基準で比較するのが当然なのだが。

そして忘れてはならない違いは、新型コロナ感染のリスクは、個人の生活改善などで自己免疫力を強化してリスク低減できる余地が大きい事だ。個々人のリスク要因の大小に応じて、個々人の対策で相当レベルのコントロールが可能なのだ。一方ワクチン接種の場合、リスクはそのまま個人で享受することになり、コントロールの要素が無い。

この様な情報が偏向した環境で半強制的に施策として進めて来たワクチン接種なのだから、せめて被害発生に対して明確にワクチンが原因でないと特定できない限り、一定の政府補償を検討すべきと考えるのは筆者だけだろうか。

予算など既得権益者を肥えさせた補助金の不正をいくつか暴き、回収するだけで充分な費用は賄えるのではないだろうか。

過去の事実は決して消せないが、その事実を直視し、反省する戦後処理が、今後の為にも、必要不可欠であろう。

またもや危機管理とリスク管理の誤解が・・・

中国でゼロコロナ政策から大転換した後のコロナ感染拡大に対して諸外国が入国規制などを強化し、それに呼応するかのように岸田政権の入国時検査強化政策が打ち出されている。

この事に対して、保守系論客を中心に岸田政権の政策の中途半端さ、手ぬるさを批判する声が高まっている。その論旨は入国規制の強化をするべき、危機管理の基本として厳しく措置をして、状況を見ながら大丈夫そうだったらその時点で少しずつ緩めるべきだとの主張である。

以前も強調したが、この主張は根本的に間違っている。それは危機管理の本質、リスク管理との違いを全く理解していないと言わざるを得ないからだ。

間違えないで頂きたいのは、決して岸田政権の政策を擁護している訳では無く、全く本質を外しているというのが素直な感覚なのだが、批判の方向性も全く筋違いであり、あくまで是税比で違うと言いたいのだ。

<危機管理とリスク管理>

まず基本から話す。危機管理とは実際に発生している危機事態に対して、その被害を最小限にするための対応であり、そのマネジメントである。

つまり実際に危機事態が発生しているから危機管理が必要になるのであり、危機事態が発生していない状態での未然予防を危機管理とは言わない。従って、実際に発生している危機事態を現実のものとして、その波及範囲を正確に把握する所から始まる。波及範囲は、可能性を否定できなければ除外することなく波及範囲の可能性として考えるのが普通である。そして徐々に波及範囲を狭めていきながら被害を抑えていくのだ。

間違えてはならないのは、波及範囲とは被害の範囲なのである。もちろん、危機事態において全ての被害が把握できている訳では無く、その波及範囲の特定に骨を折るのは当然だが、それでも被害も起きていない範囲をカバーする訳では無いのであり、リスクを最大限に考慮するのとは根本的に意味が違う。

一方でリスク管理とは、想定されるリスクをリスク発生時の被害規模と発生確率を事前にそれぞれ評価し、その乗数でスコアリングされるリスク値を受容できる値に低減させるための取り組みである。

リスクスコアの時点で、最大のリスクという概念ではなく、客観的に評価されるリスク値を前提としなければならず、リスクを訳もなく最大化する考え方は根本的におかしい。それでは即ちゼロリスク思考に他ならないのである。

保守系論客の危機管理思考は、危機も発生していない状態で危機管理と言い、本質的にリスク管理を語るべき状況にもかかわらず、危機管理の波及範囲最大化を誤用している。

この誤用の基本要因は、対中国の姿勢として、厳しく当たるべきとの思考回路を基礎にした発想なのだろう。その発想自体に異論はない、いや寧ろその姿勢は重要だろうが、だからといって危機管理の誤用が容認される訳では無いのだ。

<中国でのコロナ大流行をリスク管理で考える>

今の中国の状況は、長く続けていたゼロコロナ政策の大転換の影響で感染爆発が顕在化している状況であろう。

この時点で日本に危機事態が発生している訳では決してないが、リスクとしては想定する必要がある。それは中国で感染爆発中のウイルスの日本への流入による影響である。

中国で流行中のウイルスが日本と同じオミクロン株であれば、流入しても何ら問題はない。それは発生被害が既に日本国内で流行している状態から何ら変化は無いからだ。

オミクロンから更に変異した新しい変異株だったとすれば、かなりの確率で弱毒化していると考えるのが通常であろう。それがウイルスの通常の性向だからだ。確かに強毒化した変異株の可能性がゼロとは言えないが、この確率は極めて低いと考えるべきなので、リスク値としては低くなる。この場合も日本側のリスクはそれほど大仰に考えるべきではない。

唯一リスクとして想定すべきなのは、COVID-19ではなくCOVID-22とも言うべき新たなウイルス性感染症であった場合だ。この場合は、人が免疫を持たず強毒性を有する可能性が高まる。

そうやって考えると、真っ先に日本の立場でリスク管理として行うべきは、中国で流行中のウイルスの解析を行う事でリスク値を明確化することなのだ。

確かに中国政府の公式発表はプロパガンダとして信頼できないのは当然だろう。中国での感染状況や死亡率などの情報も、ゼロコロナを継続した結果の数字であるのと、ワクチン自体も自国ワクチンのみの状況なので、他国との比較に値するとは思えない。

国家としてゲノム解析などの対応に非協力的であろうが、在中国の邦人や帰国者などから検体採取するなどしてゲノム解析を急ぐべきなのだ。

そうやって考えると、専門家と呼ばれる先生達は今何をやっているのだろうか?今こそここ数年の体たらくを払拭するべき時なのだが。素人をバカにして煽りまくり、検査ビジネスや病床確保補助金の既得権益に浸り過ぎて、本当の役割を見失っているのだろうか。

政治もなぜ強くその点を追求しないのか意味不明である。

<法治国家としての法的根拠>

岸田政権の中国コロナ大流行に対する政策で致命的に間違っているのは、法治国家としてあり得ないダブルスタンダードにある。

新型コロナに対しては国内では2類相当から5類への緩和を検討し始めている。これはウイルス自体が弱毒化し、正体不明ではなくなりリスクとして正確に評価できる状況になっているからであり、至極当然の取り組みであり、遅すぎるぐらいだ。

ならば、その感染症がどれだけ流入しようとも、日本国内における感染対策と何ら異なる訳では無い。同じウイルスで違った規制を必要とする道理はないのである。

安倍政権時の新型コロナ初期の中国入国規制の甘さとは実は根本的に状況が異なる。

あの時は、規制する法的根拠がなかったのが現実であり、ダイヤモンドプリンセスなどのクルーズ船からの入国を規制する為に、急ぎ法整備をして2類相当に分類して対処したのである。

ということは、日本国内の新型コロナウイルスと、現在の中国で流行している感染症を、別物として分類しなければ、入国規制に法的根拠が保てないのだ。

何か危なそうだからといって、科学的根拠もなく規制することは、法治国家のものではなく、魔女裁判の誹りを免れないだろう。

国論を分断した原因は国葬儀ではない

国論が二分された事を問題視し、国葬儀賛成派の一部からも、プロセスに問題があり、静かに弔意を示せる環境構築が必要だったという声も聞こえてくる。その為に国会決議が必要だったなどと言う意見まである。

しかし、物事の因果関係を考察し、真因を分析すれば、前述の考え方では対策になりえないだろう。

例えば、詳細の国葬儀規定が法文に長々と記載されていたところで、何とでも言えるだろうからだ。それ程今回の決定プロセスは法的に問題なく、司法判断まで下されている事は以前のコラムで述べた。それでも『憲法違反』とまで批判されているのだ、どんな法案を作ろうとも結果は同じだろう。そこが問題では無いのだ。

国論を二分させる程の状態に陥った真の原因を検証していくと『メディアの政府批判目的化』にあると結論できると考えている。その理由を説明しよう。

ノイジーマイノリティと称される先鋭的な活動家は、独自の思想信条を持ち、恐らくその考えを変えることはなく、活動はされるだろうし、民主主義社会においてこの活動を反社会的にならず、暴力的要素など違法行為がない限り、妨げることは出来ない。現状、このマイノリティの声が必要以上に拡大、再生され拡散されている。

しかし、この勢力の声だけで国論を二分にする力など無いのも現実である。

もし、それ程の力があるのなら、それこそ革命は現実性を帯びているだろうし、選挙の様相が根本的に変わるだろう。そうなっていないのは、現時点ではそこまでなのだ。

国葬儀当日、反対デモを喧伝し動員もしたのだろう、その結果が警察発表で500人、野鳥の会調べでは更に少ない。それが現実である。一方で誰に強制されるでもなく(旧統一教会の動員だという根も葉もない話はデマとして)黙って献花を自費で調達し数時間も列に並んだ人数の方が遥かに多いのが現実である。

これはメディアがこれらのマイノリティの声をマジョリティの様に取り扱い、あたかも一般市民の声であり、世論であるかのように誘導し、不都合な事実は報道せず、攻撃材料になる内容であれば裏取りなしに報じる偏向報道により扇動した結果、多数の反対派が実際に形成されたのが現実と考えられる。

マジョリティの思考傾向は、情報環境次第で大きく移り変わるのが現実であり、メディアがこれ程までに偏った情報発信を継続すると、それに大なり小なり誘導されるのは人間社会として致し方ないだろう。

勿論、ネット情報環境の拡大に伴い、自ら情報取得し、自ら思考し、メディアの情報をOne of Them として冷静に対処できる層は増えている。マクロ的にその現象が見てとれるのは、ネット社会と親和的な若者ほど政府批判の声が低く、高齢者ほど批判が精鋭化している傾向だろう。『今どきの若者は』という時代は過去のもので、今は『今どきの年寄りは』という状況なのだ。

では、なぜメディアはこれ程までにノイジーマイノリティの声を殊更取り上げ、あたかも一般国民の声であるかの様な印象操作を繰り返すのだろうか。

その答えは『政府を監視し批判をする事がメディアの使命』という誤った信念ではないだろうか。

一方で国葬儀の対象として議論となる政治家は、間違いなく力を持ったリーダーである。当たり前だろう、誰が見ても愚かな宰相を国葬に相応しいとは感じないだろう。それは細かな基準や規則ではなく、自然発生的に生まれるものだからだ。

確かに強いリーダーであればある程、反対派も先鋭化するだろう。それらの攻撃を受けても、やるべき事を確実に前に進めるのは力のあるリーダーの証拠であり、選挙という民意は答えを出すのだ。これを独裁と揶揄するのは間違っている。1回や2回ではなく複数回の選挙という洗礼をクリアしているのは国民が望む強いリーダーだからだ。実際に、毎年首相が交代する状況に対して強いリーダーが嘱望されていたのがその証拠である。

こうなると強いリーダーの存在は、政府を監視・批判する使命を持ったメディアにとっては不倶戴天の敵となり、手段を択ばず攻撃を繰り返し『アベガー』を産み出した。その流れで先鋭化したマイノリティを担ぎ出す選択をするのは自然だろう。

その結果、メディアの情報を真とする思考を持つ人間が、その情報が極左的な主張である背景も理解できず、盲目的に同調し、分断を生み出す。これはメディアによる扇動に他ならないのだ。

それだけの力を現時点ではメディアは持っている。ジャーナリズム精神がまだ生きていれば、真実を追求し、物事には是々非々で検証し、多様な意見を提示するのがメディアの使命の筈であり、それなら分断は生まれ難いだろう。

そもそも現在の政界の構造を冷静に見ると、与党である自民党の政策は、保守的な政策から極めてリベラル的な政策までウイングが広範囲に渡っている。それを、今までの感覚で政府攻撃を目的化させてしまうと、自然と極左化するのだろう。是々非々で語れず、反対の対抗軸を作るのは、極左化でないと形成できないからだ。そして坊主難けりゃ袈裟まで憎い状態で、『アベガー』と称される、『安部が安倍である限り許さない、たたっ切ってやる』という理不尽な感情論に支配されてしまうのだろう。

だからこそ、本来は個々に論理的に是々非々で向かい合う必要がある。そのことに気付かないメディアは役割が失われるだろう。歴史的分岐点にメディアは立っているのだ。

その様に歴史が動く時代環境において、個々人の責任は自ずと高くなるだろう。自分の力で情報を取得し、分析検証し、自分の考えとして軸足をはっきりとさせる責任があるのだ。

かつては民主主義が浸透する条件として教育の浸透などの必要性が求められてきたが、これからの時代は、最低限の教育だけでなく、個々人が情報力を高め、責任を持った意思決定と意思表明が出来る力を養う必要がある。そうなっていけば、流石にメディアもバカでは無いだろう、政府批判に明け暮れ左傾化するのではなく、自然と是々非々に対応できる様に近付くだろう。なれなければ消滅するだけだから。

その結果、個々の思想信条は多様であるのは当然として、批判や誹謗中傷ではない健全な議論がたたかわされる環境に近付けるべきなのだ。

故安倍元総理国葬儀が無事執り行われた

様々な反対活動でメディアも同調し、相当数の扇動された情報弱者含めて世論として反対意見が過半数を占めたが、無事執り行われ胸をなでおろしている。

私自身、四谷まで伸びる長蛇の列におよそ2時間半並び、感謝の意を込めて献花させて頂いた。途中余りの列の長さに脱落する方、駆け付けたが時間に間に合わなかった方など大勢いらっしゃり、自民党本部にも急遽献花台が用意される程の状況だった。

当日の献花者の実数は、手荷物検査近くでカウントしており約26000人と発表された。献花の意思を持ち、当地まで訪れた実数は更に多くなるだろう。

一方で反対デモの人数は主催者発表で15000人だが、いつもの如くの大本営発表で大幅水増しでの数字の様だ。実際、警察発表は全然違っているなど、人数的には反対は圧倒的少数になってしまうのだが、これが現実ではないだろうか。

献花の列と反対派のデモの接触は、一部反対派のビラ配りが為されている程度で、ほぼなく、静かに並ぶことが出来た。もちろん帰りの際に目撃した、九段下近辺の騒動は相当に酷く、暴力的で近づき難い様相ではあった。

日付が変わった翌日、メディアは『反対多数の中での強行』『将来に禍根を残す』など批判を止めていない。

過去に強行と言われた事案を振り返ると、例えば『日米安保闘争』は反対派の学生運動が先鋭的になり、死者まで出す事態に至った。しかし日米安保の改正は、日本が不利な片務性の一部改正であり、これによって日米安保体制が盤石になり経済成長に結びついた。あの時もし反対派意見が勝っていたら、歴史にIFは無いが、日本は共産主義国家になっていたかもしれない。北朝鮮を地上の楽園としていたのだから。そうでなくとも国防上の大問題を抱え経済成長などは夢だったのではないだろうか。

安倍政権時の平和安全法制は、反対派が『軍靴の音が聞こえる』『徴兵制が始まる』『戦争反対』と声高に叫んでいたが、事実どうなっているだろうか。インド太平洋構想などはこの時の平和安全法制がなければあり得ず、国際社会の信頼を失っていたのではないだろうか。

とは言え、今回の騒動で、「安倍氏の業績は素晴らしいが、国葬するプロセスが問題」「最低でも国会で決議して欲しかった」「今の状況で税金をこれだけ使うのは如何なものか」という意見も多数耳にする。筆者にしてみれば、それらは情報不足故の意見であり、ワイドショーを中心とするメディアの偏向報道、日本赤軍を称賛する様な過激な意見による偏向報道に少なからず影響を受けた結果だろうと考えている。なぜなら都合の悪い事実を伏せられ、反対意見ばかり、時にはデマを交えて聞かされれば、良識的な情報不足者は判断を誤ってしまうだろうからだ。

<国葬儀反対派の実態は>

では、今回の『国葬反対』活動を少し論理的に掘り下げてみよう。

まず反対デモのメッセージをよく見ると、国葬儀とは関係ない『憲法改正反対』『戦争反対』などが並ぶ。これはどう考えても、国葬儀は単なる口実であって、過激的左派勢力の活動の要素が多分に含まれている。プラカードの多くには日本の文字とは思えない漢字が使われ、通常であれば間違い様がない誤字も多数ある。これは外国勢力も相当数入っている証拠である。

中核派で杉並区区議会議員の洞口朋子氏はユーチューブの番組で、「国葬を行うと日本による中国への侵略戦争が起きる」「岸田政権の政策に核配備計画がある」などと発言し物議を醸し、多くの人が根も葉も無い妄想だと感じたのだ。

ここまで現実離れしたら妄想と喝破できるのだろうが、同じ様に妄想であっても、もしかしたらあるかもしれないという微妙なポイントをついてきた場合、果たして根も葉もない妄想と喝破できるだろうか。

否である。多くの人は知らず知らずに信じ込むか、少なからず影響を受けるだろう。

実は、国葬反対派の主張には多分にこの要素が含まれ、メディアが偏向報道で裏付けすることで洗脳が完成している。その結果での反対多数だというのが実態だろう。

勿論、革新的な反対派も存在する。彼らは活動目的でもあり彼らの思想信条を否定は出来ないし、その気も無い。ただ、革新的反対派は極少数派に過ぎず、大多数は前述の様に情報を誤って認識しているので、それらの方を対象に具体的に情報の何がおかしいかの検証が必要だろう。

<国葬儀反対理由の欺瞞を暴く>

突拍子もなく関係性の薄い意見を省き、本質的な反対理由を整理すると

  1. 国葬儀実施のプロセスに問題があり、国会決議が必要
  2. コロナ禍で経済困窮状況での多額の税金使用に違和感
  3. コロナ禍で一般人が葬儀もできない状況でなぜ国葬が出来る

に集約できるのではないだろうか。上述は立憲民主辻本議員の発言を元にしながら整理している。

では”1”である。実は多くの人がこの疑問を抱くのは情報不足なのだ。

政府は内閣府設置法に基づくと説明しているが、その内閣府設置法の条文に定められる国の儀式に今回の国葬儀が該当する規定がないと反発するのが反対派。

しかし法律というのはその成立要件や解釈などが重要で、この成立過程において故吉田元首相の国葬時に法的根拠が無いとの問題指摘を解決する為に、明確に憲法7条10号に規定する儀式(即位の礼など)以外に、国の儀式と位置付けられる儀式として例に前述の吉田元首相の国葬を挙げており、コンメンタール(逐条解説)に明記されている。

法律とは解釈が分かれる部分も多分にあるので、この様に解説を加え、法の趣旨と適用を明確化するのだが、それを無視したら法律の身勝手な解釈が横行し、法治主義が崩壊してしまう。

行政機関である内閣は、国会で制定された法律に則って、判断し執行するのであり、内閣府設置法という国会で成立した法律に基づいて判断した事に何の問題もない。国会審議が必要と言う人は、立法と行政を理解していないのであり、その様な考えが民主主義崩壊につながる事を理解して欲しい。

そして行政の権能に関しては、判例で司法判断も出ており、所謂『侵害留保説』に基づくのが一般的だ。『侵害留保説』を聞きなれない方もいるだろうが、法律で定められるのは森羅万象網羅する訳では無く、行政執行時に判断する基準は、国民の権利や自由、財産を権力的に制限、侵害するような行政活動に限り、法律の根拠を必要とすることが通常である。これに反する考えを『全部留保説』といい、あらゆる事に法律に明記されている事が前提であり、それ以外の行政執行は認めないという考えだが、こんな説を採れば、国家行政は一気に機能不全に陥るのは自明であり、現実的でないとされている。

反対派の意見は法律の成立要件解釈を無視し、『全部留保説』を採る法治国家としてはあり得ない感情的煽りに過ぎないことを理解するべきであろう。騙されないで欲しい。

その証拠に、各地での国葬予算執行停止などの提訴は、現時点で全て棄却されている。これは既に司法判断が下されている証拠である。また、政府批判声明を出し続ける日弁連ですら、今回は声明を出していない。恐らく法曹界にいる以上、ここまでの法治主義の否定は出来ないと想像するのである。

唯一、筆者が問題だと感じるのは、当の政府からは、この種の明確な説明が為されていない事だろう。揚げ足取りの批判を恐れ、大衆に迎合して弱気で信念を貫けないと感じる。

法治主義を無視して感情論のデマ拡散を続ける野党が問題なのは当然だが、それに対峙できない与党も情けない限りである。

<国葬儀反対理由の欺瞞2>

さて次に”2”の税金の使途に関して。

極当たり前の判断として、投資は回収されれば成功である。投資の過多の問題でなく、どれだけの効果を生み出すのか、投資対効果が判断基準のはずだ。

そして国家の行事にかかる費用を一般家庭の家計簿感覚で考えてはならない。規模が異なるのだから当然だ。

費用を見てみると、総額で概算16億6000万円とされている。内訳は、実際の費用が2億5000万円、警備費用8億円、要人接遇6億円、車両借り上げなど1000万円程度とされている。

この内予算引き当てされたのが予備費からの2億5000万円のみで他は当初予算範囲内である。

海外からは218の国や地域、国際機関合わせて700人が参列している。当然だが来日は身辺警護や秘書官など取り巻きも多数いてこの何倍にもなる。その人達が単純に日本に落としていく金額はどれ程なのだろう。日本政府要人の海外の数日間の外遊は普通に数億円かかっていると考えると、このインバウンドだけでも経済効果は絶大なのではないだろうか。しかも円安環境が更に効果を上乗せするのだ。

それに加え、弔問外交という無形の効果は間違いなく大きい。外交とは、決めるだけでなく、外堀を埋める活動、人間関係構築などが重要なのは、企業人でもそれなりの立場を経験すれば分かる筈だ。

野党の反対派はこの絶好の機会をみすみす失っている。誰が反対活動を扇動する勢力を、国家の未来の政治指導者として接するだろうか。それこそ、専制主義国家など日本の革命による政権転覆を期待する勢力以外にないだろう。極左野党勢力を国際的に日本を背負う責任政党とは認識しないだろう。残念で仕方がない。

最後に”3”を検証する。

コロナ禍で一般の葬儀が行えない、というのは事実だろうか。確かにコロナ禍当初はその様な問題指摘が報道された。しかしその直後、厚生労働省者は葬儀を遺族の意思に基づき実施する様に通達が為されている。それはそうだろう死体から飛沫は飛散しないのだから。

実際にコロナ禍において筆者も複数の葬儀に参列している。確かに、これまでの葬儀や通夜の様に、その後の故人を偲んでの会食は激減しているが、それは別問題である。

従って、この主張は明らかに事実と反するデマなのである。

繰り返しになるが、安倍批判の通称アベガー、政府批判を目的とする方々の思想信条は自由であり、覆そうとは思わない。しかし、事実を知らず、知らされず、限られた扇動情報によって間違った判断をする人達は、一時の感情論に動かされず、冷静に事実を見据えてもらいたいと切に希望する。それが日本が健全であり続ける条件だろうからだ。

安部元首相暗殺事件は安全保障の観点で語るべき

安部元首相暗殺事件に関して安全保障の観点で語るメディアがほとんど皆無だ。なぜだろう。

日本の周辺環境は言わずと知れた一触触発の状況である。中露の日本周辺海域での軍事行動は激増している。北朝鮮のミサイル実験も今年に入り増加しており、ロシアの代理実験も含まれるとの憶測もある。とても平和ボケしていられる状況ではない。

その様な状況下で、国際社会に大きな影響力を未だ持ち続ける安部元総理が暗殺されたのだ。その客観的事実をつなげた調査分析は必須であろう。

もちろん、現段階で特定する様な情報はないかもしれないが、決して陰謀論ではなく、現実の安全保障観点で考えれば、最大のリスクとして想定し、徹底的に調査・情報分析し、その可能性がなければそれはそれで良しとするべき事態である。それがインテリジェンスであろう。

もちろん、特定の国家に限らず、国際社会におけるあらゆる過激組織、国内における反体制組織団体関与の可能性を否定せず捜査する必要があるのだ。

恐らく国家としてはその様な視点での捜査は実行しているのだろうと期待している。当然関連国、例えば米国なども全力で調べているはずだ。当然だろう、自国の安全保障に影響を及ぼしかねない事態なのだから。

その構造を考えれば、奈良県警が捜査を担っているのはほんの一部でしかなく、犯人からの聴取が全てでは決してないのだ。その一部がリークされメディアで実しやかに動機や真相と伝えられているが、全く現実の全体像とはかけ離れている様にしか感じられないのが現実だ。国際的影響力のある政治家の暗殺を個人的な怨恨による殺人事件の様に矮小化して報道するのは、私には奇怪にしか感じない。

<メディア報道のどこがかけ離れているか?>

まず動機だが、メディアの伝える動機は、母親が統一教会に入信し破産し、自身の生活も崩壊し恨みを持っていることである。しかし、それは20年も前の話でありその後の時間経過の中で恨みが増長し犯行に至るまでのつながりが薄すぎる。そしてなぜか恨みの対象が宗教団体の人間ではなく、安倍元総理に向いたのかの説明もビデオメッセージだけでは根拠薄弱過ぎる。しかも衝動的な犯行ならまだしも、計画的犯行なのだから、それを支える強い動機が必要と考えるのが自然だろう。

冷静に考えて欲しい、この種の恨みを動機とするならば、日本中に他にどれだけの犯人予備軍が存在するか計り知れないだろう。それでも大多数は犯行には及んでいないのだ。

筆者自身も複数事例、身近で見て来た。学生時代の先輩が統一教会に洗脳後拉致されたのだ。親御さん及び周辺の関係者の方々が奪還作成を実行し、救出後逆洗脳した事件を目の当たりにしている。また別の事例では、統一教会ではないが、クラブの後輩がある宗教に入信し、クラブ活動が信仰上の事由で困難になる事態に陥った。その時、宗教団体の本部に乗り込んだが、「神の思し召し」とか繰り返されるだけ、暖簾に腕押し状態で、彼のクラブ活動復帰には至らなかった。

この様に、世の中には、少なからず、宗教による生活への悪影響の側面、被害者が存在する事実は理解しているつもりだ。

繰り返すがこれが動機なら、他に有象無象の犯人予備軍が存在する。しかし、恨みを持つことと、犯行に及ぶことには大きな隔たりがある。犯行に及ぶには、何か協力に背中を押す何かがなければ人はなかなか犯行には及ばないのだ。計画的犯行となれば尚更だ。その背中を押す何かが、真の犯行の動機のはずだ。

今のメディアが伝える宗教による被害を殊更喧伝する事は、犯行の真因を紛らわし、安部元首相が宗教法人に関わった事が悪の様に印象操作をし、被害者のはずの要人を貶める様にも見えてくる。『アベガー』『アベシネ』『安部は人間でない』『安部が安部である限り許さない』など、生前繰り返された事実無根の誹謗中傷、暴力的なヘイトの延長線上にあるとさえ思える。

国際社会の反応が、改めて安部元首相の偉大さ、為してきた偉業、国際社会での影響力を物語っているのだが、なぜか日本のメディアや一部過激な人達は決して認めたくないらしい。

百歩譲って、その様な方々も思想信条は自由なので(暴力的なヘイト、根拠の無い誹謗中傷は許されないが)仕方がないが、私の周辺にも、根拠もなく『安倍さん嫌い』という人は一定数存在する。根拠もなく、印象だけであり、説明しても聞く耳持たず感情的に『そんなの知らない』と言う。少なくともこの種の人は目を開いて、自分の頭で考えて欲しいのだが。

さて話を戻そう。今回の暗殺事件だが、東スポが関連団体の存在をスクープした。正直、事の是非は現時点で不明であり、情報源も分からない。それでも、この種の可能性を一つ一つつぶし、シロならシロとする作業が絶対必要不可欠だろう。

大勢存在する実行犯予備軍を上手く取り込み、時には洗脳し、背中を押す事で自らの手を汚さずに犯行が成し遂げられたのならば、これは反体制勢力としては方法論として見逃さないだろうし、日本も国家としての大きな脆弱性になる。敵対国家も見逃さないだろう。だからこそ、そのスキームを解明し対処する事が必要なのだ。

<その他も同様の問題構造にある>

安部元首相の演説に暴力的妨害が常態化していることはよく知られている。しかし、それに対処したら言論弾圧として警備側が敗訴する様な判例も生まれてしまっている。この様な暴力的妨害に異を唱える一般人が撮影していたスマホを破壊するような暴力事案も聞こえてくる。この様な状況では要人の警護は覚束ないだろう。

何より最優先するべき、安全保障の観点で事に当たらないと、本当に国家の脆弱性が高まるばかりだろう。

確かに要人警護の観点で言えば今回の暗殺を防げなかったのは大失態である。抜本的な対策のみならず、責任追及は必要だろう。しかし、本当に実効力のある要人警護を実施するために反省しなければいけないのは警護体制だけではなく、暴挙を許す土壌にもメスを入れる必要があるだろう。

『アベシネ』『安部は人間でない』『安部が安部である限り許さない』などの暴力的言動を例え権力者に対してでも容認してしまう社会環境は決して建設的にはなれないだろう。

そういう意味で、日本にもインテリジェンスの機能強化は必要不可欠だろうし、スパイ防止やテロを計画段階で本気で防ぐための法整備、体制構築は待ったなしなのだ。

『テレビは核兵器にも勝る武器』発言を考える

NHK党の立花党首が『テレビの情報は危険である』『テレビは国民を洗脳する装置である』『テレビは核兵器にも勝る武器である』『テレビは真実を隠している』と主張して物議を醸し、テレ朝報道ステーションでの中途での発言制止、退場を促した事が問題視され、民事訴訟にまで発展している。

立花党首の目的の為に手段を択ばない行動には賛同できかねる部分も多分にあるが、各所での批判は、全体像を把握せずしての切り取り印象、誹謗中傷の域を出ない批判も多く、是々非々で判断する必要がある。筆者が予てから提言している第4の権力としての強力な権力を有する『情報』に対しての問題提起として、少し丁寧に検証し、本質的な問題に対峙するべきであろう。

<テレ朝退場事案の事前背景>

まず前提として立花党首が疑われる原因を作っていたのは事実である。

それはある俳優の過去のアイドルへの淫行疑惑をテレビは報道せずに隠していて、自分が暴露して国民に知らしめる主旨の発言をしている。その俳優は連続ドラマの主人公としてドラマ放映される予定であり、スキャンダルを隠しているとの主張なのだ。

事実関係は分からない。だが通常ならスキャンダルとして報道されて然るべきと考えるのも妥当かもしれない。裏取りが出来てないという理由もあるだろうが、果たして過去のスキャンダル報道で同様の裏取りが前提であったかは疑問も残る。事の是非は事実関係が明らかになる事を待つ以外に無いだろう。

これらの背景に、立花党首の過去の破天荒とも呼べる行動もあって、テレビ局側が必要以上に何を発言されるか分からないと危機感を抱き、『警戒すべき』とのレッテル貼りが行われたと容易に想像できる。

かくして立花党首への事前の警告文発信につながったのだろう。内容的には番組の趣旨にそぐわない発言を控える様に言い、その様な発言があれば然るべき対応を取るという、ある意味脅しと取られても仕方がないものであった。実際、立花党首自身が恐怖を感じたと発言している。

番組編集権の範囲で発言内容を統制するという主旨であれば、全出演者に同様の発信をするべきであっただろうが、立花党首にのみ発信されたのは、明らかに個人に対する『警戒すべき』というレッテル貼りに基づくものだろう。

<テレビ局による発言統制の流れ>

この番組自体、参議院選挙を控え、国政政党としての要件を満たす9党の党首に限定して、国民に各党の政策、志向の相違点を伝えるものだったので、本来テレビ局側が発言に関わるのではなく、寧ろ選挙向けの綺麗事を言って誤魔化す発言者の本音を引き出す役割を果たす必要がある。それを番組側の趣旨に沿った発言以外は排除とするのは傲慢というより、そもそも趣旨に反する予定調和の誹りも免れないだろう。

立花党首と局との事前のやり取りも配信されている。

立花党首は「どの様な発言が趣旨に添わずダメなのか分からない」「発言の予定原稿を送るから事前に放送可能か確認して欲しい」と要望し、番組での発言のあらましとして「テレビの情報は危険だ」「テレビは国民を洗脳する装置だ」「テレビは真実を隠している」「テレビは核兵器にも勝る武器だ」とも伝えている。

それに対して局側は、原稿確認実施に関して即答を避けている。その場では、「政治家の発言を制限する趣旨ではない」「生番組で自由な討論を期待している」と説明し、数十分後に折り返して「テレビ局が政治家の発言をチェックするのは恐れ多い」と原稿確認を固辞している様だ。

どうだろう、番組側テーマの趣旨に添わない発言は禁止すると言い、どこまでが許容範囲かの確認要請には、チェックするのは恐れ多いと、明らかに矛盾ではないのだろうか。

果たして番組が始まって、立花党首の発言の場面で、前述の趣旨の発言が行われた。但し、注目すべきは俳優のスキャンダルに関しては一切発言していない。あくまでテレビの情報としての危険性を語っていた。ある意味、ウクライナ情勢が情報の武器としての利活用、プロパガンダの威力を世間に知らしめたのも事実であり、安全保障の問題として情報に関して語ることに何ら違和感はない。ましてやNHK党という政党の性格上、テレビ報道、電波利権等の是正を訴えるのは納得ができる方向性なのだ。

だが番組キャスターは発言を制止し、私の目からは不快感すら覚える上から目線の自分が正義だと言わんばかりの態度で1党首を切り捨てた。警戒はしていたのかもしれないが、立花党首はあくまで自党の安全保障に関わる提言だと信じての発言であり、スキャンダル的な事は一切発信していないのにだ。つまり、番組としては『情報』の安全保障上の問題性を全否定した事になる。ありえないだろう。

本事案は、立花党首により、局とキャスター個人に対して民事訴訟を起こすとの事である。

これらの事実関係を地上波メディアは報じない。それ自体が既に都合の悪い情報を隠ぺいする姿勢に当たるとも思える。本来、椿事件の反省が全くないと言われても仕方がない重大な事案である。それが故、第4の権力とも称せる『情報』を担う権限を有し、国民の財産である電波を低コストで独占する権益を持つ事を認識する謙虚な姿勢が必要であり、改善無ければ、権力の監視、牽制を本気で考えないと日本はダメになるだろう。