パンデミック収束までの振り返りと戦後処理の必要性

新型コロナがゴールデンウィーク明けにようやく感染症法上の5類に移行されることが決まった。本当にようやくだ。3年は長かった。

なぜ、GW明けなのだ?という疑問や批判もあるが、それでもようやく正常化に向かう政治決断には素直に安堵の気持ちを示したい。それでも最後のあがきの様に抵抗を示す人々、最後っ屁を国民に向けて発信する医療従事者も少なくない。私には、既得権益者による構造改革に対する抵抗とその周辺の思考停止して指示待ちする大衆に見えて仕方がない。これはある意味で専制体制に他ならないのではないだろうか、その危険性を理解するべきだろう。

3年を振り返ってみよう。

まだ新型コロナが未知の脅威であった当初、ダイヤモンドプリンセス号の乗客である感染者の入国を受け入れるか否かで大きな政治決断が迫られた。法治国家として、入国規制の法的根拠を明確にするために感染症法を改正し2類相当に分類したと考えている。

その場の雰囲気や勢いで、超法規的決断をするのではなく、あくまで法治国家として。

つまり感染症が未知であり、リスクとしては強毒性の疑いを捨てきれずに採った判断であり、この時点での政治判断は間違っていないだろう。

しかし当該豪華客船の感染者に対応した結果、実は日本の専門家はある程度のレベルでこの感染症を把握している。その結果として、ゼロコロナではなくWithコロナを前提に、感染対策として『3密』を提唱した。この『3密』を挙げたという事は、エアロゾルという名称で一般人には話を難しくしたが、要は空気感染リスクを元に換気の必要性まで訴えている。

そして豪華客船に乗り込んだ自衛隊員は感染していないが、同様の装備をしていても厚労省職員は感染した事実がある。この事は、感染抑止装備をしたとしても、日頃から訓練を受けた運用を確実に実行しない限り、有効性に欠ける事が示されたと考えるべきだろう。

当然だろう、例えばマスク一つとっても、折角マスクをしてウイルス吸引を一旦防いだとしても、そのウイルスが付着しているマスク表面を触った手を介してウイルスは体内に侵入する。マスクの装着に隙間があってもそこからウイルスが吸引される。この双方を同時に防ぐためには、厳格に装着したマスクを着用中は触ってはならないのだが、非訓練者が長時間装着すれば表面に触るか、触らなければ装着がズレるのは自明だからだ。

その様な当たり前の常識を棚上げして、スーパーコンピューター富岳での飛沫飛散シミュレーションにあたかも科学的意味があるかのように、飛沫飛散抑止を目的化してしまった。

飛沫飛散抑止であれば、咳エチケットで実現できる。いやそれ以前に有症状者の外出、行動を控える健康管理徹底が本質的には最も効果的である。無症状者からの感染リスクを殊更極大化する傾向があるが、無症状者はその名の通り咳はしないのだから飛沫飛散量は元々少ないのでリスクは低い事は理解できるだろう。

それなのに、なぜかマスクが伝家の宝刀として重用されて現在に至り、いまだ思考停止した声が大きい。デンマークで行われたRCT(ランダム化比較試験)ではマスク着用有無と感染に因果関係はない事を示し、これはエビデンスレベル1と医学的エビデンスのトップの信用度が高い実験論文であるのだが、都合の悪い情報は全く見えないのだろう。

<社会不安を煽るインフォデミック>

そして日本の臨床医療は、PCR検査など殆ど行われていなかった時でも、この感染症の特徴を見抜き、CTにて確定診断を可能にし、世界有数の肺疾患治療ノウハウで被害を最小化する臨床成績を誇っていた。

しかるに、メディアは『PCR検査が出来ないから感染者の実態が分かっていない、全員検査が必要だ』『明日はニューヨークになる』『死者数も隠蔽されていて実態が分かっていない』と科学的な裏付けや統計数字的なマクロ分析も全くなく、不安を煽り続けた。

その結果が、『PCR検査の体制強化、無料化』『様々な行動制限』『直接死因でなくとも死者のPCR検査で陽性であればコロナ死とする定義で運用』と政治が民主主義はゆえに大衆迎合的世論に押し流される政治判断が繰り返された。

陽性と感染の違いすら理解しない大衆が、初年度の春には、この様な風潮をつくりあげたのだ。まさにインフォデミックに陥ってしまった。

その様な状況下で医療体制は、50%に満たない病床使用率でも逼迫だと煽り続けた。どこの世界に、投入したリソースの50%程度の使用状況で逼迫という業界があるのか不思議で仕方がなかったが、その様な疑問を挟む声は極めて少なく、声を上げれば非論理的な感情論の誹謗中傷が鳴りやまなかった。

メディア報道では、ある病院の病床が100%埋まった事態を映し出し、逼迫だと言っていたが、逆に考えると全体が50%の使用率ならば、当然ながら0%に近い病院も存在しなければ数字の辻褄が合わない事を誰も指摘しなかった。

誤解を恐れずに言わせて頂くと、リソ-ス使用率50%程度の民間事業であれば、リソースの追加投下ではなく、削減を企てる数字なのだが、なぜか医療現場は逼迫と言い続けた。しかし、最近の監査報告で医療法人の経営が大幅改善し、補助金不正受給の疑惑の可能性まで噂され始めた。それでも『国民がツケを払え』という主旨の暴言にも感じる発言をする頻繁にメディア出演する医療従事者まで存在するのが現実だ。

結局、逼迫ではなく、リソース再配分の柔軟性に欠けていたのが最大の問題であろう。医療現場は人も含めて流動性が持てないとの批判がありそうだが、一般企業での事業継続時のリソース再配分も同様で、そんなに簡単ではない課題に取り組んできている。医療業界だけ事業継続的思考回路が全く欠落しているのに許されているのはなぜだろう。むしろ事業継続対応は他より必要な業界のはずだ。

<パンデミックを終わらせる条件>

新型コロナパンデミック収束の鍵はワクチンと治療薬だと言われ続けて来た。

しかし治療薬は、風邪コロナウイルス感染症の治療薬すら世の中に存在しない状況なのに、新たに開発できると考えるのは無理がある。あくまで初期は症状を抑える対症療法であり、これは風邪と全く同じ、中等症以上の肺疾患に対しては日本の進んだ臨床医療で対応するのが基本。つまり余程の強毒性を有するか、肺疾患以外の疾病につながる場合を除いて、治療薬に期待するのは筋違いに感じる。

ではワクチンはどうだろう。実際に今までのワクチンは開発や治験に相当な時間を要し、数年後の実用化が精々だと言われていたが、mRNAやウイルスベクターと言われる新たな方式での開発が短期間で実現させ、当時の米大統領トランプ氏の強権により、早期市場投入となった。

新たな方式故の未知のリスク、治験・長期の安全確認が充分でない等のリスクは当初叫ばれていたが、ウイルス感染症が未知で欧米での初期被害が甚大であった事から、ワクチン接種のリスクは少々目をつむってでも感染リスクを抑える判断がなされて、ワクチン接種が進んだ。

この判断に問題は無いだろう。全てのリスク、ベネフットの比較評価によるからだ。

問題は、接種を進めるために行われた事実上の情報統制なのだ。情報空間ではワクチンリスクを語る情報の規制が行われ、ワクチン接種のリスク情報提示も充分ではなかったと言わざるを得ないのだ。こうしてワクチン接種は個人判断と言いながら、半強制的な風潮を産み出した。

更に情報の歪みは接種後のリスク顕在化、死亡発生に関しても同様であった。具体的には、リスクをアレルギー反応に矮小化し、他のリスクを明確に伝えなかったがゆえ、後遺症の疑いなどで苦しむ人にスポットが当たらなかった。

また、死因として特定されないものはワクチン死とカウントされなかったのも同様だ。死因を特定する事自体相当困難だと容易に想定できるのだが、それは死因不明であり、ワクチンとの因果関係を否定するものではない。いやむしろ状況証拠的には因果関係を疑うべきだろう。それは接種後の死に至るまでの期間が不自然な偏りを示しているのだ。

これは前述したコロナ死の定義と根本的に思想が異なっている事はお分かりだろうか。リスクを公平に比較するなら同様の基準で比較するのが当然なのだが。

そして忘れてはならない違いは、新型コロナ感染のリスクは、個人の生活改善などで自己免疫力を強化してリスク低減できる余地が大きい事だ。個々人のリスク要因の大小に応じて、個々人の対策で相当レベルのコントロールが可能なのだ。一方ワクチン接種の場合、リスクはそのまま個人で享受することになり、コントロールの要素が無い。

この様な情報が偏向した環境で半強制的に施策として進めて来たワクチン接種なのだから、せめて被害発生に対して明確にワクチンが原因でないと特定できない限り、一定の政府補償を検討すべきと考えるのは筆者だけだろうか。

予算など既得権益者を肥えさせた補助金の不正をいくつか暴き、回収するだけで充分な費用は賄えるのではないだろうか。

過去の事実は決して消せないが、その事実を直視し、反省する戦後処理が、今後の為にも、必要不可欠であろう。