数字が示すコロナ死の実態

新型コロナの死亡者数のカウントが死因コロナだけではなく、死者からウイルスが検出されたらカウントするという曖昧な基準で、実態より多い数字になっているという事は、当初より問題提起されていた。ただ、公表されている数字だけでは、それがどの程度の割合なのか計る手段がなく、筆者自身も10%~20%程度であろうかと想定していた。

しかし、弱毒化した変異株であるオミクロン株が数字でこの誤謬性を示してくれた。一部報道にあった山梨県の重症者がいないのに死者が6名も発生したという事実である。

ところが、この事実が公表されてもメディアは殆どスルー。死者数のカウントに誤謬性がある事自体も、一部ネットで広まるだけで、未だ初耳だという人はまだまし、殆どの人は事実すら知らないのが現実だ。

筆者はこの事態を憂い、山梨県以外の実態も確認してみた。同様に重症者がゼロで死者が発生している都道府県が存在するのかだが、複数あったのだ。

1月末時点での重症者数がゼロで1月中の死者数がカウントされているケースだが

・北海道 陽性者数30591、重症者数0、死者数27

・青森県 陽性者数4074、重症者数0、死者数3

・徳島県 陽性者数1542、重症者数0、死者数1

・佐賀県 陽性者数5473、重症者数0、死者数3

・大分県 陽性者数5258、重症者数0、死者数1

・宮崎県 陽性者数5182、重症者数0、死者数2

・鹿児島県 陽性者数6790、重症者数0、死者数5

それ以外にも、明らかに重症者数と死者数が異常と筆者が感じるのが

・栃木県 陽性者数8372、重症者数1、死者数10

・千葉県 陽性者数46753、重症者数3、死者数23

であり、これに前述の山梨県までの数字を合算すると

・異常値の都道府県 重症者数4、死者数81

となり、全国の死者数が399人であるから、なんとこれだけで20%を占める。もちろん、他の都道府県でも同様のケースは内在するはずであり実態の占有率は更に増えるだろう。

一方で、日本における総死者数は年間で140万人近くである。便宜的にこれを12で割り、各都道府県の人口分布率で乗じたら、各都道府県の月間死亡者の平均的な想定値とできるだろう。つまり、コロナ関係なく、通常統計的に示される確率での死者数を上記の異常値を示す都道府県全体で算出すると 109人なのである。

コロナ死としてカウントされる実数81と、統計的推測全死者数109 を比較してどうお感じになるだろうか。数値に差があるのは、統計的バラツキであり意味のある差ではないと思われる。但し、超過死亡が倍増する様な状況であれば統計的にはあり得るのだが、到底その様な状況には思えず、大多数がコロナ死因では無いとの仮説もそれ程荒唐無稽ではない様にすら感じる。

<重篤化は統計上現れていない>

少し前にECMOネットのデータも示されたが、現時点のECMOネットのデータを確認したい。

ECMOとは、肺炎の重篤な患者に装着する重症者に特化した治療装置である。そしてこのデータは実際に世の中のECMOが使用されている状況を示している。これを見る限り、ECMOの使用は、12月中にほぼゼロ化し、1月中はゼロ近似、2月1日時点では完全に0なのである。

日本ECMOnet(sCOVID-19重症者におけるECMO装着数の推移)

この事が示すのは、オミクロン株は肺炎にはほぼならず、なったとしても重篤でECMOのお世話になる程悪化する症例はほぼ無いと言って良いだろう。

<まん延防止や緊急事態に該当し得るのか>

新型インフルエンザ等対策特別措置法の第一章、総則(目的)第一条は

「この法律は、国民の大部分が現在その免疫を獲得していないこと等から、新型インフルエンザ等が全国的かつ急速にまん延し、かつ、これにかかった場合の病状の程度が重篤となるおそれがあり、また、国民生活及び国民経済に重大な影響を及ぼすおそれがあることに鑑み、・・・」

とある。

よく見ると「国民の大部分が……免疫を獲得していない」とあり、国民の大部分がワクチン2回接種を済ませている状態では該当しないと判断できる。ブースター接種云々を言い始めると、永遠に免疫獲得を語れず、この前提が入っている事を無視してはならないだろう。

加えて、「これにかかった場合の症状が重篤となるおそれがあり」ともあるが、前述の確認で重篤する例は統計的にゼロ化と言っても良い状態なのだ。

更に「国民生活および国民経済に重大な影響を及ぼすおそれ」は、感染症によるものではなく、必要以上の規制によるものであり、どう考えても、この法律を前提とするまん延防止や緊急事態宣言は不当であると言うべきではないのだろうか。

<正しく恐れて、正しく対処する>

いまや、オミクロン株に変異してコロナは身近な疾病になった。実際、筆者の身近でも感染者が発生した。症状は軽く、1日程度38度以下の発熱だったが直ぐに平熱に下がり、他の症状も軽い喉の症状だけで自宅待機で普通にリモート業務をしながら回復した。医師の診断、検査を受け、処方されたのは通常の風邪薬のみ、解熱剤も無かった。因みに、ワクチンは未接種である。症状だけ見れば余程インフルエンザの方が重く、本当に単なる風邪であった。

同居家族も、家内での極端な隔離はせず、濃厚接触の自宅自粛を一緒に続けながら、気を付けたのは手洗いうがい等の基本的対策、健康管理的自己防衛策をいつも以上に徹底する事だけだった様だが、一切症状は現れず、無事自粛期間を終了した様だ。

この1例を示して大丈夫と言う気はない。しかし、マスメディアの報じる1例で危機と不安に感じるのも愚かだと言わざるを得ない。正しく恐れて、正しく対処する。そう、風邪であろうとも、万病の元であり、既往症があれば重篤化し得るのだから、軽視せず、健康管理の自己防衛、それ以上でも以下でもないのではないだろうか。

ジョコビッチに対する批判集中だが果たしてその中身は

テニスのレジェンド、ジョコビッチ選手がオーストラリア入国を拒否され、全豪オープン第1シードの選手が棄権という事態に陥った。事は今年の全豪に止まらず、今後3年の全豪や他の大会出場も危ぶまれる状況である。一連の動向に、ジョコビッチ選手に対する批判も集中し、同じレジェンドのナダル選手は「ワクチン接種すればいいだけのこと」と言い放った様だ。

しかし、冷静に考えて、これらの批判は正当なものだろうか。ワクチン接種は義務化されるべきものではなく、個々人の事情を勘案する必要があり、個人の判断のはずである。全容を見ずの感情的な批判も多いのではないだろうか。

一方で、確かに批判に相当する部分も見えてくるが、それは正しく事実を見極めた上でなければならない。単なる誹謗中傷、良いがかりに近い論調が跋扈する風潮は健全ではなく、まずは事実関係を整理してみたい。

<ジョコビッチ選手がワクチン接種をしない背景>

ジョコビッチ選手は幼いころからいくつかのアレルギーを抱えていたとの事だ。プロになってからも試合で呼吸困難に陥るなど途中でリタイアする状況が続き、その後、グルテンアレルギーである事が判明している。

グルテンアレルギー対策として食生活を見直し、徐々に改善に向かった。2015年に執筆した本に、グルテンフリーの食生活を取り上げ、グランドスラムタイトルを獲得できた秘訣として食生活の改善だとしている。そして、その後のツアーでも、グルテンフリーの食事とトレーニング用具を準備していたという。

この様な原体験を持ち、アレルギー体質でもあれば、ワクチン接種を躊躇するのはある意味当然では無いのだろうか。

ここでジョコビッチ選手のワクチン接種に関する発言をいくつか取り上げてみる。

全米オープンにて

「ワクチンに関しては常に、それぞれ自分が打ちたいかどうかという判断が重視されるべきだと考えている。そこだけは崩さないでほしい」

ATPファイナルにて

「ワクチンのことだけじゃない。生きることの全てで、個人には選択の自由がある。それが豊かで幸せな人生に必要不可欠なものだと思うから」

フェイスブックのライブチャットでは

「僕はワクチンの接種自体を否定しているのではない。ただ、誰かが僕の体内に無理やり何かを入れるのは嫌だ。受け入れられない」

これらの発言を聞いて、「ワクチン接種すればいいだけのこと」と簡単に片づけられないと感じるのは筆者だけだろうか。

<入国拒否された問題事項>

オーストラリア・テニス協会は、大会参加、それにかかわるビザ発行はワクチン接種を前提としている。但し、過去6か月以内に感染歴があれば免除ともされており、今回のジョコビッチ選手の申請はこの過去感染歴を前提にしていた。

その感染日は2021年12月16日であった。しかし、そこから綻びが発生する。その感染経緯を確認してみる。

12月14日バスケットボール試合を観戦。これがクラスターとなる。

12月16日簡易抗原検査実施で陰性判定。同時に念のためのPCR検査実施

12月17日テニスのジュニアイベントに参加

12月17日イベント後にPCR検査陽性判定通知

12月18日雑誌インタビュー実施

17日のイベント参加は陽性判定前との言い訳はあっても、クラスターの所謂濃厚接触者であり、PCR検査も実施していた訳なので本来であれば結果が出るまで自粛すべきであったとセルビアの首相も非難している。そして、18日のインタビューに関しては弁解の余地は無い。

更にまずいのが、オーストラリア入国書類の過去14日間にどこにも旅行をしていない事を問われる質問に、していないと虚偽申請をしていた事が明らかになっている。

実際は、セルビアからスペイン(ジョコビッチ選手保有宅に3日滞在)を経由してのオーストラリアであった。スペインもワクチン接種証明書が入国に必要だが、どの様に入国許可が下りたのかは不明であり確認中の様だ。

ジョコビッチ選手は同書類をチームスタッフの人為的ミスであり意図的ではないと述べているが、果たして入国書類の不備がミスで済まされるものではないだろう。

ましてや、2021年6月にも自身開催のトーナメントで本人含むクラスターを発生させて批判を浴びており、今回の件も含めて信用が失墜しているのも現実であり、12月16日の感染17日の陽性判定も入国する為の虚偽ではないかとの疑惑まで発生している。

<ジョコビッチ選手に望む>

以上の様な事実関係から、最悪の場合テニス協会から何らかの処分の可能性すらある。テニスの1ファンとして、レジェンドをその様な事で失う事は何が何でも避けて欲しい。

その為には、ジョコビッチ選手には明確な説明責任を果たしてもらいたいと考える。

6月にクラスター発生させた事や12月の濃厚接触後の行動に関して軽率であった事、入国申請書類にミスとはいえ虚偽記載をした事実を含めて、自身の行動が軽率で考えが甘かった事を反省し謝罪会見を開き、テニス協会からの如何なる処分も受けると表明する事を期待したい。

その上で、ワクチン接種を躊躇する原体験を語り、同様の苦しみを持つ人達の存在も訴えるべきであろう。そうして自身の判断に対する理解を求めれば同様の選手達にも手を差し伸べる事になるだろう。これは危機管理、危機コミュニケーションの観点から望む事だ。

ワクチン接種免除は定められているとはいえ、現実には認められる例は僅かとの事だ。この現実に風穴を開けるのはジョコビッチ選手以外にないだろう。

体操のレジェンド内村選手が、世界体操時のPCR陽性判定に異議を唱え、再検査による陰性により偽陽性判定であった事を示し、無事世界体操開催に繋がった。これは、レジェンドでなければ、陽性検出、濃厚接触者判定で多くの棄権者を発生させ、大会が無事では無かっただろう。前例を突破し、改善する為には、その道の先駆者が支持される心情面も背景に勇気を持った行動を超す事で突破口が開ける。

テニス界の為、世の為に、適切な行動を期待する。

オミクロン株感染拡大は自然現象、そして自然に収束する

オミクロン株による感染拡大が日本でも始まった。筆者の第6波発生予測時期からおよそ半月遅れているが、やはり自然現象はその名の通り自然に発生した。

この半月のズレは、岸田政権による鎖国強化の影響だろうか。しかしながら自然現象である限り、総和としての結果に違いはないと考えるのが妥当であろう。半月ずらしたことで、その間に何か有効な準備が為されているなら別だが、今の所その様な様子は見えてこない。

そして、自然現象であるもう一つの要素、弱毒化も確実に進んでいる様だ。

WHOの発表が正しいとは言い切れない事は、これまでにも数々の実例が示しているが、とはいえ明確にオミクロン株の弱毒化を発信している事は注目すべきだ。デルタ株と比較して上気道に留まり肺炎などの重症化が発生し難く、入院率も低下するとの報告だ。

少し、疑問に感じるのが、デルタ株も昨夏の各国の報告では、おもな症状は「鼻風邪」レベルと言っていたのだが、更に弱毒化が進んだと認識するべきだろう。

米国首席医療顧問のファウチ博士もオミクロン株の重症化リスクの低さを公表しており、1日100万人の新規感染者を発生させている同国ではロックダウンなどの措置は不要と判断、多くの国がほぼ同様の方向性である。

しかし、米国と比較して3桁規模が小さい感染状況で、地上波メディアは挙って危機を煽り始めた。確かに、少しトーンダウンしているのかもしれないが、「不安」を連発しているのは間違いない。

一方で元医系技官の木村盛代先生は「感染を無理に止めるな」とミヤネ屋で主張した。

他にも同様の過剰対応を批判する専門家は多数存在する。しかし、メディアから聞こえてくる専門家意見の大多数は、過剰に恐怖を煽る方向に偏向している。その論に過去の反省や、実績データのフィードバック分析などの要素は一切なく、感情論が主流である。

むしろ、素人コメンテイターの方が違和感を発することがあるが、それらは完全スルーが基本である。

両論併記の原則、多様な意見による議論は今のメディアには不要らしい。異論は異教徒のもので、廃絶の対象なのだろう。

しかし、その状態に自らの自由を従順に差し出し、反論もせず、むしろ熱狂的な信者の様に感情論を展開する層が多い事が不思議でならない。

<変異が怖い>

変異はこの種のウイルスでは自然現象で日常的に発生しているコピーエラーである。その中から環境適合するエラーのタイプが存続する。強毒化してしまえば宿巣である人間の活動を抑制するので感染拡大は起き難い。従って環境適合の大きな要因に弱毒化がある。活動量の多い軽症者増で感染も拡大、ウイルスも生存できる。

この様に考えると変異は人間にとっても歓迎すべきなのだ。

間違えてはならないのは、所謂突然変異という部類の現象。これは、新型と言われる正にメジャー変異の部類であり、動物を宿巣とするウイルスが人間に感染する様に変異するなどだろう。

しかし、この種の変異を可能性で恐れるならば、現在の新型コロナに限らず、旧型コロナ、所謂風邪やインフルエンザでも恐れる必要がある。

新型と旧型では違うとの感情論も聞こえてきそうだが、そこに論理性はない。東京五輪を反対し、感染地獄とまで言い、他の国際競技と五輪は違うと感情的に強弁し、何ら数字や論理性が示せない人達を思い出す。

究極の可能性でリスクを語るのであれば、他の究極の可能性も同列でリスクとするべきである。そして、科学的な確率の数値、論理的な説明が必要だが、この2年間聞いたことが無く、未知が故の可能性の一点張りだ。これは非科学的ダブルスタンダードでしかない。

<ワクチンは安全だ>

ワクチン接種の重症化リスク低下の効果は間違いなく高い。感染後のウイルス増殖を抑制する獲得免役力として科学的に証明されている。

一方で、副反応やリスクに対しての評価は意見が分かれる。多くの接種推進派は接種リスクが僅かでベネフィットが上回ると論じている。しかし、ここに科学的数値、確率で示している例は極めて少ない。

そもそも感染によるリスクは、年齢や基礎疾患、肥満や喫煙など個人毎に大きく異なる。これに個々人の健康管理意識や環境条件を重ねると更に格差は拡大し、桁違いと言っていいだろう。

またワクチン接種の効果も永遠に継続する訳では無く、複数回継続接種が求められるというのが一般的だ。であれば、ワクチン接種のベネフィットは期間限定であり、リスクは接種回数に相関するのだ。

更に注意すべきは、リスクを評価するべき死亡率の中身である。現在示されている数字は感染者の死亡事例であって死因コロナだけではない。つまりリスク観点では、報告数字よりも低い評価が必要になる。

冷静に、ベネフィットとリスクを比較評価するべきであるが、それは個々人によって設定要素が異なり、評価結果は雲泥の差になる。だから、強制ではなく個人の判断とするべきである。他人にとやかく言われる類のものではない個人の健康観、リスク判断なのだから。

だからこそ、仏マクロン大統領の「未接種者うんざりさせたい」 の様な発言は決して許されるものではない。

<特効薬が無い>

新型コロナは未だ特効薬が無いから収束できないという声も聞こえる。

しかし、風邪の特効薬は存在せず、開発出来ればノーベル賞級と言われてきた。つまり、現在の風邪薬は対症療法であり根治薬ではない。新型コロナも同様であり、根治薬開発は困難だろう。いや、根治薬がもし開発されれば、それはウイルスと人類の共存関係を破壊する自然破壊の影響の方が筆者は恐れる。

ワクチンにより社会リスクは大幅に低下した、経口薬も開発され、今後も増えるだろう。重症化リスクも低下し、なぜ更に特効薬を求めるのだろうか。

<医療崩壊はなぜ起きる>

1日100万人の新規感染者が発生する米国でも医療崩壊は起きていない。なぜ、日本はこれだけ医療崩壊と騒がれるのか。

メディア出演の専門家、政府分科会、東京都モニタリング会議などの言い方は「医療崩壊を起こさせない様に感染を抑えるべき」「そのために行動制限」という方向性である。これでは、医療機関を守る為に私権制限しろと聞こえても不思議ではない。

医療機関は個人の健康を守り、命を助けるために存在する。それが逆転構造になってしまっているのではないだろうか。この構造を生み出す、制度的な問題点は、2類相当の感染症としている事であろう。

感染者全員を入院させる国家は日本以外にあるのだろうか。入院が必要ない人を入院させるから、入院が必要な人が入院できない現象が発生する。当たり前だ。

自宅療養を、自宅放置と揶揄し、急激な悪化リスクを殊更問題視するが、入院の必要のない症状の人が自宅療養するのは至極当然のことではないのか。そうすればムダに医療資源を浪費せず、入院が必要な重症者に対応する余力が生じるはずだ。

そして日本の医療の長所である町医者によるきめ細かな医療サービス体制を最大限生かし、軽症者に早期診療を実施。検査も無駄に無症状者に拡大せずに、有症状者に必要に応じた実施に留めれば感染拡大も抑制できる。結果として、重症化リスクを低減させ、入院必要な患者も減少させるだろう。

即ち、2類相当の扱いで、初期医療を制限し重症化リスクを高め、ただでさえ後ろ向きな医療資源の再配分を硬直させていた。その様な状況で、検査や補助金を権益化する悪循環が蔓延り、医療崩壊が起きた。

打開策は簡単である。5類相当の普通の対応に戻し、町医者による初期医療と大学病院などによる重症化対応とする。そして、医療法を遵守し、中長期的に日本医療の弱点である救急医療を強化する。患者は無暗な検査をやめ、症状があれば診療を受ける。それだけで既に収束し医療崩壊も起き様がないはずだ。

日本を衰退に向かわせる人権派の正体、扇動されないためには

静岡県の川勝知事は様々な問題発言で物議を醸しているが、またもや問題発言が発覚した。6月の知事選の期間中に富士市で開かれた集会で、女子学生を念頭に置いて「顔のきれいな子はあまり賢いことを言わないと、きれいになる」との発言だ。

耳を疑う、正気の沙汰とは思えない意図不明の発言だが「傷つかれた人がいたとすれば、申し訳ない」と取材に答えている。この認識も論点がずれた言い訳に過ぎないと思うのは、そもそもの認識の誤りを認めて、謝罪し、修正するという姿勢が全く見えないことだ。

そして筆者が異常に感じるのは、このことを伝えるのがネットが主流であって、マスメディアは殆ど報じず、人権派を名乗る知識人たちは一切声を挙げていないことだ。お仲間には優しいといえばそれまでだが、それでは信義が疑われる。

森元会長の発言には、金太郎飴の様にどこでも同様の糾弾をメディアは繰り返していた。内容的には、全文読めば大した内容でもなく、女性蔑視でもない。むしろ女性が優秀だと言っているのは分かるが、長いくせに、まとまりの無い話で、切り取られて女性蔑視のレッテル貼りされたのだ。そして東京五輪反対キャンペーンへとつなげられたのだ。

あの森元会長の発言でここまで糾弾するなら、なぜ川勝知事の発言には静かなのか、不思議でならない。国民世論と言うが、メディアの恣意的誘導であることは比較して見れば明らかなのだ。ということは、踊らされて、信じ込み、五輪反対、中止と声高に叫んでいた一般国民は冷静に目を覚ます必要があるだろうし、情弱性を反省しなければならないだろう。

<彭帥選手事案に対する反応も同様の構造>

中国テニスの彭帥選手の告発発言に対しても、同様の構造が見えてくる。

共産党最高指導部のメンバーだった張高麗前副首相から性的関係を迫られたことをネットに投稿、その後行方が分からなくなり、一定期間後あたかも中国政権の監視下に置かれている様に感じる不自然な発信やバッハ会長とのオンラインでのやり取りが行われている。

そして、女子テニス協会(WTA)は香港を含む中国でのすべての大会を中止すると発表するまでに至った。

しかし、日本のメディア、左派系の論陣は、東京五輪の時の様な執拗な五輪反対活動を行わない。それどころか、本件の人権に関わる非難すら殆ど発信されていない。

身の安全が保障されたのだから良しとの意見は根本的に間違っている。そもそもの告発は優越的な地位を利用した、生命の危険すら感じさせる状況下での性的凌辱ではないか。このことを糾弾しない人権派なんて、単なる政治活動のための政権政府を攻撃する目的の詭弁でしかなくなる。

メディアも同様である。公平性や良識など一切存在しないと言わざるを得ない。

<五輪に対する純粋な想い>

筆者は、自身が元アスリートでもあり、ジュニアの指導経験もある根っからの体育会系人間である。それ故、全てのアスリートの夢、頂点に位置する五輪に関しては、政治的な背景や、商業価値的背景も含めて一定程度受け入れ、全面的に開催を維持し推進することに賛成する立場である。

世の中綺麗ごとだけでは成立しない、五輪という夢を維持し拡大する為には、泥水を飲んでも目的を達成し、夢を実現することを否定しない。もちろん、そこには一定の良識と秩序は必要であり、法的に問題があったり、道義に反することがあってはならないのは前提である。

その五輪を日本の世論は、メディアや左派系のプロパガンダに扇動された結果とはいえ、大多数が反対との発信をし、推進派である筆者に対しても数々の非論理的な言いがかり、正気の沙汰とは思えぬ非難が寄せられた。

しかし、今、北京五輪に関しては、全くと言っていい程、反対という声が聞こえてこない。

筆者は前述の通り、アスリートの立場に立つ。北京五輪に関しても、人生を掛けた目標として活動している多くの選手、夢かなわなかったが夢の舞台として憧れる多くの選手、夢の舞台に自分の姿を投影する純粋な多くのジュニア選手の気持ちになれば、開催して欲しいと切望していたし、今でも気持ちは変わらない。

しかし、だからといって、前述の中国政府の振る舞いや、ウイグルや香港などの人権問題を糾弾しないのもあり得ないと思っている。あくまで、是々非々で批判するべきは批判し、推進すべきは推進するべきと考えている。

従って、WTAの判断は尊重されるべきであり、同時にアスリートに不利益にならない様な代替策を検討する必要があるだろう。

北京五輪も同様ではないだろうか。もちろん、このまま大会は開催し、政治的ボイコットで済ませる方法もあるだろう。ピーキングなどの調整が必要なアスリートにとっては最善の策である。しかし、日本ではその議論すら上がってこない。

また、オミクロン株で脅威を煽り続けているにも関わらず、北京五輪開催に地獄絵図になると誰も言わないのも不思議である。東京五輪を正気の沙汰では無いとまで言っていた専門家達も一切言及しない。日本選手を送り込むのにだ。つまり、本当に脅威だと思っていた訳ではなく、単に政府を攻撃する材料だったに過ぎないことも明らかなのだ。

総合的に判断して、延期、代替地開催などの議論もあって不思議ではない状況なのだが、その様な議論、糾弾は皆無といっていいだろう。

情弱性は活動家の恣意的な扇動に利用され、正常な判断が出来ない同調圧力に支配され、結果として国家を衰退に向かわせて、自分自身の首を絞めるのだ。

しかし、いつまでも恣意的な扇動を生み出す構造を恨んでも仕方がなく、現実として受け入れた上での対処が必要な時代になったのだろう。

出来るだけ多くの人が、情報をマスメディアに頼らず、自分の努力で様々な情報に触れ、自分の頭で論理思考を繰り返すことが、騙されず、利用されないで、豊かな生活を送るための条件になってきたのだろう。

オミクロン株で岸田首相は全面的な鎖国政策断行だが

オミクロン株(変異株「B.1.1.529」)が世界で拡大し、WHOは懸念される変異株(VOC)に指定したと発表した。VOCは最も危険視される変異株の分類である。現在世界の主流株となっているデルタ株や、デルタ株に感染力で劣るアルファ株やベータ株、ガンマ株が指定されている。

そして、この事態を受けて岸田首相は、外国人の入国について、11月30日午前0時より全世界を対象に禁止した。

この件に関して賛否両論が飛び交うだろうと思っていたら、支持し、賛同する声一色に日本中が染まっている様に見える。少なくともテレビ報道に例外は無いだろう。ワクチン接種率80%を誇る、国民の一体性、同調性を象徴するかの様な現象に、天邪鬼の筆者は首を傾げている。

この件に関して異を唱えた瞬間、感情論のコロナ脳による総攻撃を受けかねない危険性すら感じ、筆者にはこの様な状況に危機感を感じる。それでも、昨年の春頃より、はるかに理解を受けられる可能性も高いとも考えている。

今回の全面鎖国は、危機管理の要諦として最大の危機に備えた対策として称賛を受けているが、本対策による悪影響面が同時に語られていないことに問題がある。どこにもその様な被害に関して語らず、知らず知らずの内に享受させられるのだから。

鎖国のマイナス面は言わずと知れた経済影響である。折角、海外との行き来を再開し、正常化に踏み切ろうとした矢先なのでダメージは計り知れないが、そのダメージを評価せず、無条件で受け入れた形になってしまった。このただでさえ、増税を匂わせる状況下で、経済ダメージを更に強める動きだ。

それでも、オミクロン株による脅威、リスクが高いと判断されれば致し方が無い判断かもしれない。しかし筆者の把握している範囲でその様な脅威の元になる情報は確認できない。この2年間、恐怖を煽られ続けた国民は、新たな脅威に、未知の恐怖を抱いたのかもしれないが。

「ワクチンが効かないかもしれない」、「感染力が高まっているかもしれない」、「空気感染するかもしれない」などが報じられているが、どれも「かもしれない」であり、科学的な確定情報ではない。今までも同じことを言い続けて来た同じ文言ばかりに過ぎない。いや、それどころか、南アフリカでは一人も入院する症状に至っていないとの話もあり、他でも重症化例は聞こえてこない。症状も従来の味覚異常などもなく、倦怠感など風邪やインフルエンザと同等の症状が報告されている。

確かに、まだ母数として少ないが故に全体像を語ることが出来ないと言うのは正論である。しかし、逆説的に言うと母数が少ないということはそれ程拡大していないということでもある。

一旦入れてしまった後では遅いというのも一理ある。しかし、2年もの経験値から「かもしれない」が実現したことはなく、確率で語るべきである。

リスク対策の観点で、オミクロン株の流入を許してしまった場合の被害を想定、確率を元にしてリスク値として評価し、鎖国政策で受ける被害のリスク評価と比較して提示するのが当然なのである。しかも、全面鎖国と言いつつ、完全に流入を防ぐことは事実上不可能なことも忘れてはいけない。

<コロナ対策で鎖国やロックダウンは一時しのぎに過ぎない>

鎖国政策やロックダウンなどの対策は、新型コロナに対しては、効果は一時しのぎに過ぎず、いずれ流入を許した時に総被害としては同等レベルが避けられないことも国際的な経験値から分かっている。

即ち、本来、鎖国政策は時間稼ぎであり、その間に別の策を打たない限り、総合的に見ると何の意味も無いのである。では、日本の現状で時間稼ぎをして何をするのだろうか。

時間稼ぎをしている間に打てる策として有力なのは、高齢者へのブースター接種だろうか。それ以外には、医療資源の最適再配分が柔軟に行える様にする、5類相当にして初期医療体制を強化する等は必要だろうが、今まで手つかずなのに、1か月で対応が可能だろうか。分科会含めて、筆者にはその様な方向性には全く感じないのだが、どうだろう。また、幽霊病床を抱え、患者受け入れ拒否して、医療崩壊だと騒ぐだけでは無いのか。

なぜこの様な状況で総合的に状況を俯瞰することもなく、鎖国が全面的な称賛となるのか不思議で仕方がない。

岸田政権の立ち上げから、親中路線や、財務省どっぷりの増税路線で、保守支持層の批判を受けていた中で、鎖国政策は今まで後手後手だった状況から脱却した唯一評価出来るとされているが、単に世論を気にした大衆迎合に過ぎないだろう。

これでは、世論に阿る姿勢での判断に見え、コロナ対策一本足打法の政策でもあり、再度の緊急事態宣言発出もあり得ると危惧される。

一般的にウイルスはDNAコピーエラーは避けられず、生き残ったのが変異株となる。生き残る条件は、感染力が強くて、毒性が弱いこと。毒性が強まると宿巣も途絶え、感染できないからだ。今回、オミクロン株の毒性が弱まっていると現時点で断言はできない、あくまで「かもしれない」だ。しかし、脅威を感じる「かもしれない」と比較して、当然のごとく確率は高い、自然現象だからだ。

必要以上に恐れて、他への悪影響を拡大させるべきではない。精神的不健康は、身体的不健康にも繋がるリスクが高い。

もちろん、全く恐れるなとも言わない。病気なのだから、あくまで正しく恐れ、正しく対処するべきである。そして、日本における真っ当なリスク評価を行えば、経済損失を拡大し、増税まで背負って対策するべきではないというのが通常の感覚のはず。

その上で、健康管理は個人が心がけるべきである。風邪だって拗らせれば万病の元だから、各人が出来る事を行うべきなのだ。その上で患った患者は医師が、医師法に則って職務を全うすべきだ。その事が、2年の経験で理解出来ないことが全くもって意味不明だ。

政府分科会の辞書には「反省」の文字が無いのか

新型コロナの政府分科会が新指標に合意したと報じられた。政府分科会尾身会長は、新指標について「感染状況を医療が逼迫(ひっぱく)しない水準に抑え、社会経済、日常生活を取り戻すことが目的だ」と説明。「新規感染者数は注視するが、医療逼迫の状況をより重視する」とのことだ。

凡その考え方を下図に示す。

出典:テレビ朝日系(ANN)11/8(月)

どうだろう、問題の本質を分かっていない、反省という事が出来ない集団なのだろうかと改めて痛感するのは筆者だけなのだろうか。

<新型コロナ対策の本質的な問題>

日本の感染状況は、最初から現在に至るまで、常に海外比較で『さざ波』状態で、穏やかであった。色々批判を受け、アジアとの比較や、成功している国との比較と揶揄もされていたが、現在に至って総合的に世界最優秀と言っても過言ではない。問題は、その状態で医療崩壊が発生してしまうという事が日本特有の脆弱性だったのであり、普通の感覚であれば真っ先に反省するべき事項のはずだ。

このレベル2に示す「感染者増加傾向も病床増で対応可」という状態は、病床を状況に応じて増減できれば、このレベルを超える事は本来あり得ない論理だ。逆説的に言うと、病床数を増やせなければ、感染がどれだけ穏やかでも、直ぐにレベルが上がるという事だ。つまり、生殺与奪の権を、一部の医療従事者、いや医療界への影響力を考慮すれば分科会や医師会が握る事になるのではないだろうか。

レベル3の「一般医療を相当制限」はもっと酷い。相当制限とはどの程度の事か全く不明で、恣意的に何とでも言える。それだけでなく、一般医療の定義が不明で、既得権益を守ろうとする排他的な定義としか思えない。村組織の中で縦割りを超えさせない自衛意識の象徴ではないか。

そもそも一般医療とコロナ対応医療を別のものとしている時点で、医療資源の適切な配分など出来様がない。見え隠れするのが、救急医療へのしわ寄せをして自分達のリスクを回避しようとしている様にしか見えないのだ。あくまで、コロナ対応も含めて一般医療として、その配分を現場状況に応じて臨機応変に対応していく事が、当たり前の世界だからだ。百歩譲っても、呼吸器内科系の一括りで治療体制は語るべきでは無いのか。

本来のあるべき姿で考えれば、確保病床数を分母に入院必要数を分子にする指標は、分母さえ増やせば閾値を超える事はあり得ない。また、この指標が50%程度で云々する事も、一般の資源リソース評価としてもあり得ない。

通常のリソース管理は、上限の閾値を80%程度にして、超えそうな70%あたりでアラートを鳴らして資源増強を図るトリガーとする。逆に50%を下回る様な状態であれば、資源リソースの過剰投資として資源の他への転換を図るトリガーとする。これが通常のリソース管理である。結果として、この指標は50%を下回ることが無いのが、正常な資源管理だ。

他の資源再配分と医療は異なる、そんな簡単では無いとの言い訳は聞き飽きる程聞いてきたが、この点こそ国際比較して欲しい。諸外国は見事に柔軟に対応している。いや、せざるを得ない状態に追い込まれ対応しているのだ。比べて、日本の医療体制は幽霊病床で補助金を獲得する等、余りにも悠長ではないのだろうか。第5波になってようやく野戦病院等の施設を唱え始めたが、昨年大阪の専門病床に対しては非協力的で結局、自衛隊出動した。ワクチン接種も歯科医や自衛隊出動するまで非協力的だったのだ。追い込まれたらできる事でも、非協力的であった事は紛れもない事実なのである。

これは、飲食業や観光業、昔はパチンコ屋、夜の街などの弱者、政治的影響力の弱い集団の活動を制限し、一般国民を恐怖で縛り、我慢を強いる事で、医療業界全体としての対応を回避したと言えるだろう。

勿論、その中で実際のコロナ対応医療関係当事者は、本当に患者に向き合い、治療に従事していて、真剣にコロナ対応をして頂いている事は疑い様がない。要は、その人数、資源を増やさない事、増やせない事が日本の医療の構造上の問題なのだ。

筆者は、この構造に対して昨年より指摘し、批判を続けたが、当時は全くと言っていいほど理解を頂けず、逆に心無い攻撃すら受ける状況であった。しかし、今となってはネットを中心に同様の言論があふれ始めている。状況は変わったのだ。

今こそ、この問題点に真摯に向き合い、コロナだけでなく、今後の医療のレジリエンス体制を確保する為に、事実を総括し、反省するべきで、分科会も解体し責任を取るべきだろう。

にもかかわらず、まだ新指標とは、開いた口が塞がらない。

リスクを取らない事が最大のリスクだ

話題のCM『UQUEEN』のワンフレーズ『リスクを取らない事が最大のリスクだ』は、マーク・ザッカーバーグの名言を捩ったものであり、リスク管理の視点では究極の課題でもある。

実は、巷で吹聴される『ゼロリスク』志向の問題は、このリスクを取らない事によるリスクなのである。リスクというと後ろ向きのイメージを持ちがちだが、チャンスを掴むためにはリスクは必ず付随し、リスクゼロは、即ちチャンスゼロを意味する。また、リスクは一通りでなく、複数のリスクが共存し、そのバランスで全体最適を図る必要がある。一つのゼロリスクで語るのは愚の骨頂なのだ。

国家運営や企業、組織経営において、リスクは決して単一ではない。複雑に絡み合った環境で複数のリスクが相互関係も持ちながら存在するのである。従って、単一のリスクをゼロ化した所で、その結果生じる他のリスク増要因も現実に存在するのだ。本来であれば全体最適思考で全リスクを総合評価し、バランスが取れたリスク対応計画が必要になるのだ。

<ゼロリスクの弊害実例>

現在の新型コロナ対策を前に進ませない最大の負の要因が『ゼロコロナ』思考と言われている。政府分科会は、感染リスクばかり殊更喧伝し、行動制限、私権制限、自粛の必要性ばかり吹聴するが、一方で発生する経済リスクに関して一切論じない。言葉を選ばず言うと、『自粛させても金さえ渡しておけば良い』とでも言わんばかりに聞こえる。

実際、政府分科会は経済リスクなども総合的に分析する為に、経済の専門家も途中から加わっている。筆者は、この経済専門家が巷に発信するのが感染抑止策ばかりで、経済影響等の発信が無い事を批判してきた。しかし、最近になってこの経済専門家より、分科会で経済リスクに関して発言すると、「それは他でやって欲しい、ここは感染リスクを話し合う場だ」と言われ相手にされなかったと漏らしている。つまり、経済専門家は加わっていても意見の言えない状態で検討のバランスを欠いていたのだ。

経営の立場で考えて欲しい。自らの経営判断を行う為の、情報分析、整理する部門が偏った志向でバランスを欠く状態であれば、信頼できる情報とならず経営判断を誤るだろう。偏っている事を問題視し、バランスを図る為の人材を投入する人事を発動しても、抵抗勢力に囲われ期待の働きが出来ない状態であれば次に何をするべきか。

この抵抗勢力への対峙の仕方は、それだけで何冊も本が書ける内容でもあり、簡単に語れる訳では無いが、どちらにしても対峙して解消するのが最大の経営課題となる。

そして、休業した場合のリスクは決して金銭だけで賄えるものではない事ぐらい素人でも分かるはずだ。固定客の離反や取引先との信頼関係、設備の保全や老朽化防止、事業しているからこそ見える課題も埋もれてしまう等、事業を回しているからこそリスク対応ができる事項も多いのである。

政府分科会に話を戻すと、『コロナ感染リスク』だけを検討するだけでなく、『経済リスク、経済死』等もバランス良く評価する機能が必要になる。今の分科会がその機能を果たせないなら、権限者の行うべきは、人事刷新か組織改革でしかない。ましてや現組織構成員の様々な不正疑惑と説明責任を果たさない不誠実な姿勢が露呈しており、私であればスクラップアンドビルドして、判断できる分析情報が上がる状態に舵を切るだろう。

<日本型マネジメントPDCAがリスク管理でも必要>

リスク管理とは、考えられるリスクを評価する所から始まる。重要なのは、発生確率と発生時の被害であり、出来うる限り数値で夫々算定し、その積をリスクスコアとする。リスクスコアが一定数値を上回った時点で自動的にリスク対応計画を求め、リスク低減策が実行される。このリスク低減策には、当然ながら発生確率を下げる策と、発生時の被害を縮小する策と二通り存在する。低減策が実行された結果として、実際にリスクがどの様に変化したか再評価し、残ったリスクを残留リスクとして更なる低減策が必要か判断する。これがリスク管理のマネジメントサイクルでありPDCAなのだ。

勿論、これはマネジメントであるので、要所要所での経営判断、経営レビューが必要となり、時には経営の意思として、リスクスコアが低く評価されていてもリスク対応計画を求める事もある。これは経営の方針であるので、その様な判断がある事が寧ろ健全なのである。

この観点で新型コロナ対策を考えると、最大の間違いは、リスク評価を誤っている事だろう。特に問題なのは、発生確率を一切評価していない事だ。『かもしれない』ばかりで、可能性があるだけで、あたかも発生確率が高い様に訴え続けている事。これではリスク評価を間違いなく誤る。

同時に、リスク低減策を実行した場合の新たな発生リスク(経済リスク等)を同じテーブルで評価していない。そして極めつけは、PDCAのC、チェックを一切実行できていない事だろう。

実は、このPDCAサイクルとは日本的マネジメント手法である。それは、終わりなく、常に改善しながら回り続ける、季節感で言う春夏秋冬、死生観で言う輪廻転生なのだから、文化的にも日本文化が馴染みやすい筈である。大局的にある、終末思想、マルクスなど究極の理想郷を追求する思考とは根本的に異なるのである。

巷では、エドワーズ・デミングが提唱したとされているが、実態は、日本科学技術連盟が確立し、品質保証などの分野で日本型経営として定着させ、トヨタ生産方式、カイゼンを普及させ、『JAPANasNO1』で激賞されるなど世界の先頭を走ってきた。

その後、ISO認証取得の運用形骸化という問題もあったが、マネジメント運用に問題がある訳ではなく、マネジメントサイクルを回す事自体は見直されてきている。

資本主義社会として、成長を続けるために、経営の意思を込めたPDCAを回し続ける事こそ、新たなイノベーションも生み出し、継続成長を促し、同時にリスク対応も確実に行える基礎となるだろう。

感染拡大と収束に関する仮説

第5波と言われるデルタ株による感染が収束してきた。専門家達は、この収束の原因を説明できない。説明できないから、注意が必要と意味不明の煽り発言まで出てくる始末だ。『5割の行動制限が必要』と言いながら、実行なく収束した事実の検証もせずにだ。

第5波に関して感染拡大時期には『制御不能だ』とも言っていた。制御できていた実績が無かったにも関わらずだ。『人流が~』と言うが、明らかに人流と感染の相関関係もない事は現実が示している。

『2週間の勝負』と言って、2週間後には前言は忘れ去って『これからが勝負』といつまでたっても金太郎あめ状態。

8月の降雨時には、『デパートは雨の日ポイントで寧ろ人が多い』と言って、感染増加の原因とし、収束し始めると『9月に入って天気が悪いので人出が抑えられた』と同一人物が言う。恥ずかしくないのだろうか?しかも、9月の天候不順の前から感染は収束し始めていたのだから、事実認識すら出鱈目すぎる。

どれだけ論破されても、次の瞬間忘れ去ってそれでも『人流が~』と言い続ける。これでは国家の危機事態に対して政策を誤らない為の適切な提言は行えない。

感染症の専門家は、スペイン風邪の終息すら理由付けができていない。風邪やインフルエンザに対する対処もこれまで有効性が高かったとは決して思えない。専門家は万能ではない証拠だ。

寧ろ素人がデータの真実に真正面から向き合い、変な専門バイアスに侵されず、普通の論理思考で分析し、仮説立てした方が真実に近い可能性があると、予てから発信してきた。昨年夏に電子出版した幣著『ファクターXの正体』で記した仮説が今も尚、論理的には成立しており、第5波のワクチン接種拡大後の陽性者数激増にも、同様の推論が成立しているのだから。

<第5波感染激増要因の仮説>

諸外国と比較して日本の感染者数が『さざ波』で収まっている、所謂『ファクターX』として、無暗にPCR検査を増やさなかった事を一番に挙げた。詳細は省くが、簡単に言うと検査の偽陰性者が間違った安心を得て、感染を拡大させるというメカニズムだ。

検査手法や科学実験の事を少しでも理解している人なら分かるはずだが、あの実験手法で白黒明確にする等無謀である。医師の臨床判断の助けとしてCT等他の検査と合わせて確定診断の為の活用、一定レベルの検疫検査、疫学調査の範囲に留めるべきだと分かるはずだ。いつでも、誰でも検査はリスク増大の方が大きいのである。

これと似た構造が、ワクチン接種者の間違った安心が今発生している。

ワクチン接種により、感染後のウイルス増殖を抑える効果があるのだから、重症化や致死率を下げる効果があるだけでなく、無症候感染や軽症の感染者を増加させる事になる。ワクチン接種有無に関係ない行動であれば、接種者の発するウイルス量はマクロで減少するのは間違いない。しかし、社会現象としてはそういう訳にはいかない。

自粛というのは、自分が感染しない為にするよりも、自分自身が感染者であると想定してウイルス拡散を抑える為に行う。そして、ワクチン接種有無は、ウイルス暴露を受ける確率に何の影響もなく、ウイルス拡散する確率にも影響はない。ならば、安心した行動がウイルス拡散に繋がるのだ。

つまり、PCR偽陰性と同様、ワクチン接種も間違った安心が感染リスクに繋がるのだ。

インフルエンザの減少をコロナ感染抑止行動である、マスク、手洗い、手指消毒等のお陰だとする考えが主流だが、筆者はそれだけではないと考えている。コロナ前後で、肌感覚で大きな変化を感じているのが、発熱、風邪症状等の人が市中や企業事務所で激減している事だ。昨年初めの頃でも、風邪症状、発熱しながら出社し、「これはコロナではなく大丈夫だ」と言い張る輩も存在したが、今は目にする事は殆どない。風邪が流行っていれば、身の回りで何人か有症状者を見かけていたのではないだろうか。今はいない。インフルエンザは発症後直ぐの感染性が高いので、有症状者が出歩かなければ、自ずと流行はしないのだ。

<第5波が収束した原因仮説>

昨年末頃の論考で、新型コロナの感染傾向を自然現象と論じた。拡大時期や、波と考えた際の幅、サイクルがほぼ一定で、ピークだけが異なる波形を示すのだ。つまり、人流に関係なく拡大する時は拡大し、一定サイクルで収束する。これを繰り返している。

人の社会的活動範囲は、実はある限られた空間でしかない。時空間を越えた活動をする訳でなければ、その空間内で飽和すれば収束するのが自然現象だ。下図をご覧頂きたい。

各領域範囲内で個人の活動が行われ、人との接種はこの範囲内のグループに限られる。濃い中心(最小が家庭)が密で、薄い周囲へ行く程、疎となる活動範囲があり、他の領域との共通範囲、重なりは僅かなのだ。この僅かを遮断するのが検疫ではあるが、すべて遮断するのは人間の社会活動上極めて困難なので、飛び火は一定数有り、伝搬していく。しかし、それもその範囲で飽和すれば自然に収束する現象だ。

活動範囲に大きな変化は無く、飽和するスピードも一定となるので、収束に転じる波の幅もほぼ一定になるとの仮説だ。あくまで仮説ではあるが、他に説明できる仮説が無く、否定できない限り仮説としては成立し得る。

<Withコロナ>

そうやって考えると、第6波は必ず訪れるだろう。そして、ピーク値は予測できないが、ワクチン接種が更に進む状況からは、ピークが高くなる可能性もあるだろう。しかし、確実に言える事は、それでも重症化率、致死率は大幅に減少する事だろう。

であれば、今までの様に必要以上に不安にならず、正しく恐れて正しく対処するべきである。

交通事故死を減少させる為に、車を廃止、或いは減少させるとは決して言わない。正しく、車には安全機能を開発し装備する。道路交通法で飲酒運転の厳罰化や煽り運転の罰則規定を法整備する。当たり前に行っている事を、新型コロナでも実行するだけだ。

ワクチン、治療薬の開発、国産化を進め、通常医療で診療できる様に5類相当に位置付け初期医療を強化する。それでも感染拡大に伴い重症者が絶対数として増加する場合にも備え、医療資源の全体最適が柔軟に且つ速やかに行える様にインフラと法規制を整備する。医療業界には自浄能力を高める為に事業継続やレジリエンス体制強化を義務化すると同時に実効能力の無い医師会組織解体、厚労省医系技官や自治体保健所等の体制も再構築。何と言っても、煽り一辺倒のメディアを電波法に基づく厳格対応を実行。2~3年なんて待てない、今直ぐ着手すべきだ。

それで国民は通常の社会生活を取り戻せるだろう。

行動規制緩和の科学的提言が出来ない分科会は解体以外に無い

政府よりワクチン検査パッケージによる行動制限緩和の提言が為されたが、分科会尾身会長は、緊急事態宣言解除後でないと行動規制緩和はあり得ない。議論すら緩みに繋がる、誤ったメッセージになると記者会見で答えた。いつまでこの様な発言を繰り返すのだろうか?

まず、緊急事態宣言が解除されたら、当然だが行動制限や酒類提供規制を実施する理由が無くなる。尾身会長の話を聞いていると、いつの間にか、宣言発出の有無に関わらず、日常的に行動規制実施が前提になっている。

政府発信と分科会の提言で内容が異なる、とメディアは指摘するが、当然であろう。分科会が提言した内容が全て政策として実現する等、あり得ない。いつのまに、分科会による専制政治を求める様になったのか、政府攻撃の手段に使うメディアもどうかしているが、その状態を許している国民もいい加減目を覚ますべきだ。

分科会の本来の役目は、現実に起こっている感染危機事態の実態解明が最優先のはずだ。何故なら、危機管理の入り口は危機事態の影響範囲、実態の把握だからだ。それなくして有効な対策は議論もできない。そして、実行した施策の評価、有効な手段と非効率的な手段を切り分けていく事も重要な役割だ。それらは、全て科学的アプローチによって為されなければならない。

例えば、酒類提供禁止での効果は評価されているのだろうか。一切聞こえてこない。実際にマクロ視点でデータを見る限り、酒類提供有無で感染状況に相関関係など確認できない。人流も同様だ。しかし、分科会や専門家は『緩み』『誤ったメッセージ』と精神論を非科学的に言い続ける。定量評価できない専門家はその時点で自ら退くべきだろう。そして、その様な専門家を利用し続けるメディアも混乱の責任を取るべきだろう。

『緩み』『誤ったメッセージ』が如何に根拠もなく、苦し紛れの言い逃れに過ぎないかという事は、言っている当事者がその対象者である事を示し続けている事からも分かる。

思い起こせば、有症状者が生放送に入りクラスターを発生させ、会食自粛状況で会食クラスターを発生させ、その後も会食のドンチャン騒ぎは後を絶たず、再発防止策もない。寿司会食や大規模パーティー開催、移動もしまくっている。間違ってならないのは、これらは世間沙汰になったほんの一部、氷山の一角である。つまり、『緩み』『誤ったメッセージ』を発し続けているのは、言っている当の本人達である、専門家、メディアであって、ダブルスタンダードの極みなのだ。

<ワクチンパッケージのリスク観点での問題性>

緊急事態宣言下でも行動制限を緩和できる可能性としての『ワクチン検査パッケージ』の効用を考察する。

宣言下という事は感染拡大が懸念され、医療が逼迫している状態が前提となるので、規制緩和は『感染リスクが低い』という理由が必要になる。この感染リスクは二通り分けて考える必要がある。『自分が感染するリスク』と『他人に感染させるリスク』だ。

『自分が感染するリスク』は、ワクチン接種で95%リスク低減できると言うのは実は考え方が違う。95%低減は事実だが、それはマクロで見た場合の確率であり、個々人のリスクとしては、個々人の状況によって異なるのだ。5%の確率であってもその該当する当事者にとっては、リスク低減されていないのだ。しかも、経時変化でリスクも変化するので個々には一律で語れないのだ。

未接種者も同様で、全員の感染リスクが高い訳では無い。個々人の免疫力は固有であり、中には感染により抗体を持っている人も存在する等種々の条件に起因するからだ。

次に、『他人に感染させるリスク』を考える。

ワクチンの効用を考えると、あくまで自分が重症化しにくい事が主眼であり、自ずと無症状感染者や軽症者が割合として増えるのは自明。発症前後が最も感染性が高いという新型コロナの性状から考えると、ワクチン接種の無症状者は寧ろ感染拡大のリスクを高める可能性もある。軽症が故、行動の幅が広がるから、安心するからこその現実であり、第5波の感染者数増の原因とする仮説すら成立する。

現在の陽性検出者の内、約8割がワクチン未接種者だ。これはワクチン接種の効果である事は間違いないが、市中感染の機会が接種有無で、接種有無同数だと仮定すると、6割相当の人達が陽性検出から逃れている計算になる。逃れていると言う表現は、同様にウイルス曝露を受けながら、恐らくは症状も無く検査対象にならなかったという事を示す。つまり、この6割相当の人達は感染拡大の一因を担っていると想定できるのである。

つまり、単純に人に感染させるリスクで言うならば、寧ろワクチン接種者の方が症状が軽いが故に、感染させるリスクが高まるとなり、ワクチン検査パッケージの目的をそもそも果たせなくなる。

間違えないで頂きたいが、ワクチン接種は大きな感染抑止効果がある。接種個人の重症化予防と社会全体でも一定率の接種が進めばマクロとしての安全性は拡大する。だからこそ、個々人の差を付けず、社会として行動制限は緩和されるべきである。その時点で緊急事態宣言なる状態から脱している事を意味するのである。勿論、それでも危機事態に陥る可能性は否定せず、準備として医療資源再配分の法整備を急げばよいのだ。

この状態でワクチン接種有無での行動規制の差を付ける事は到底容認できる内容ではない。

<ワクチンパッケージの他の観点での問題性>

そして、ここまでに示した要素を考慮に入れると、個人のサービス認証に使う事も不適切なのだ。個人認証とは、当該サービスを享受する資格を有する当人である事を示す方法であり、感染リスクが低い事を権利の要件とするならば、ワクチン接種有無では資格を有すると示す事が出来ないので認証手段としては不適である。

「この人はリスクが低い可能性が95%です」では、本来の認証ではなく、選別に過ぎない。銀行から預金を引き下ろす際に、「この人は95%権利を持った本人です」で取引を行えない事ぐらい分かるだろうし、認証を少しでも学べば自明であるので、何故専門家が異議を唱えないのか、専門家に聞いていないのか不明だ。

そういう意味で、唯一の可能性は抗原検査によるその場での陰性確認かもしれない。PCRでは時間差が容認できず、CT値も相当低く設定しない限りその場での真の感染リスクを表せない。その点、抗原検査であれば感染に必要な一定のウイルス量が無ければ反応せず、即時性も担保できるので「この人は感染リスクのあるウイルス量を保有していない」と出来る可能性はある。

マーケティング的にも、必ず発生する未接種者の壁、諸外国では70%の壁とも言われているが、30%の顧客を除外するという選択をする客商売が永続的に反映できるのであろうか。顧客マーケティングとして対象顧客との関係性を慎重に見極めなければ、一時的であろうとも重要顧客を選別した事実は、将来に禍根を残す結果にもなり得るだろう。

そして、最後にもしかすると最も重要な問題点は、個人情報保護、しかも要配慮個人情報保護の問題である。

要配慮個人情報とは、『人種、信条、社会的身分、病歴、前科、犯罪被害情報、その他(本人に対する不当な差別、偏見が生じないように特に配慮を要するもの)』であり、通常の基本情報よりも一段高い規律が求められるものだ。

ワクチン未接種の理由は正にこの条件に該当するであろう。理由を宣言する訳では無くとも憶測が定着化する現象を考えると到底容認できる訳がない。それがあらゆるところで、通常のサービスを受ける条件として晒されるのである。

1対1で情報が保持管理され、サービス提供者以外には漏れない、等という運用状態を確立できるはずが無く、学校での手上げアンケート取得などという問題事案も発生しているのだ。それこそ、対応するサービス提供者全てがプライバシーマークを取得するぐらいの運用体制が確保できないと到底守れないだろう。

故に、先行する諸外国では暴動や警察による暴行なども起こっているのだ。

<安全は技術・科学、安心は本来安全状態の周知で成立>

『安全・安心』は、小池都知事が豊洲市場移転問題で『安全だけど安心ではない』という趣旨の発言をしてから一般にも定着している。企業における従来の『安全第一』に安心が精神的要素として加わったが、現場運用的には安全を確保出来ている状態を周知し安心できる環境を維持すると言う意味合いで、安全を維持するマネジメントが機能すれば安心も達成できる内容だ。

しかし、メディアなどで声高に叫ばれる安心はその域を遥かに超えている。一人でも不安に思えば、その理由が何であれ安心が達成できない状況だと言い切る事が出来てしまうのだ。所謂、言ったもの勝ちの世界だ。そして、日常的に不安を煽り立てる。まさしく、不安な状態を作り出し、安心できないと批判する、マッチポンプなのだ。

そして、不安を煽る一役を専門家と称する人達が担う。

安全は技術的に確立でき、科学で立証できる。しかし、安心できないと言い切られてしまうと、対応の方法が無くなる。あくまで安全な状態を説明する以外に方法が無いからだ。

従って、専門家と称する人達が、『緩み』『誤ったメッセージ』等、精神論の安心に関する発信を繰り返すのは、論外であろう。過去の施策や状態の科学的検証が報告されていない時点で危機事態を把握する事が出来ていないと評価すべきなのだ。

やはり、分科会は既に機能不全状態であり、解体する以外に無いだろう。

偏向する専門家に騙されない、データと事実に基づくワクチン接種の判断

ワクチンは若年層も接種すべきか、という問いに対する発信で公平な論述が殆ど存在しない。接種推進派と反ワクチン派は夫々に自分の考えを絶対正義として他意見を科学無視の印象論、レッテル貼りで攻撃を繰り返す。

勿論、厚生労働省や首相官邸ページには客観的な情報やオープンデータも提示されているので、その情報から個人が判断する事は充分に可能だ。しかし、その判断を惑わすマスメディアの一方的な発信が全てをかき消し、上書きしているのが実態であろう。

テレビに出演する専門家も同様である。交差接種に関して、政府が検討に入ったが、8月30日のある番組では専門家が「安全性が充分に確認されておらず時期尚早」と批判して見せた。デジャビュ―に襲われる感覚だったが、ワクチン接種開始に関しても、日本の専門家や野党が慎重論を発し、ワクチンのリスクを煽り続けた結果、政府として慎重な治験実施を決断し開始時期が遅れたが、後日諸外国と比較して接種遅れを批判しているのは同一勢力である。

交差接種は既に各国で議論が進んでおり、これを否定するなら、ワクチン接種自体の否定にも繋がりかねない意味不明の慎重論に思える。特に筆者は予てからウイルスベクターのチンパンジーアデノウイルスを1回目と2回目で同じモノを使用(スプートニクⅤは変えている)している事にメカニズム上の疑問を持っていたので、1回目アストラゼネカ、2回目にmRNAのファイザーやモデルナという選択は合理的に感じている。(単なる素人の感想であり疑問だがこういう事を論じる専門家がテレビ番組にはいない?)

その様な状況で、専門家のいう事を素人が鵜呑みにするのは極めて危険に感じる。その専門家を信用できるか、思想的に偏ってないか、セカンドオピニオンではないが数多くの情報、多様論に触れなければ判断しようがない。

しかし、素人でも判断する方法はある。それは政府などの発信するデータを元に考える事だ。データは決して嘘をつかない。但し、解釈の誤謬性はあり得るが、バイアスのかかった解釈による誤謬性を見極める事さえ出来れば、データそのものは決して嘘をつかないのだ。

<ワクチン接種の判断情報>

以前もワクチン接種判断の情報として発信したが、その当時まだ接種自体が少なかったので、続報の形で論じたい。

まず、ワクチン接種の安全性に関して、逆に言うとデメリット、危険性に関して確認したい。

ワクチン接種後の死亡例に関して、8月末現在で厚労省のページに掲載されている事例は、900件以上存在する。その中でワクチン接種が原因と特定された事例は1件もなく、圧倒的に多いのが「情報不足等によりワクチンと死亡との因果関係が評価できないもの」である。

この情報不足という表現が発生するのは、病理解剖もそうだが接種前の精密検査が無いので、ビフォーアフターの比較ができない事が大きい。考えてみれば分かるが、ワクチン接種前に精密検査を受けている事例なんてほんの僅かだろうからだ。

素人目に見ても、因果関係が無いと思われる事例も確かに含まれるが、逆にこれは何らか関係あるだろうと思われる事例も事実存在する。そして、数字には自然発生とは思えない不自然さが現れる事もある。接種後の死亡報告までの経過日数がそれにあたる。下グラフをご覧頂きたい。

接種後の経過日数が自然発生とはとても思えない分布を示しているのである。明らかに接種後1週間程度までに事例が集中しているのだ。64歳以下でも実数は少ないが傾向は同じである。

これをもって因果関係を立証は出来ないが、否定はできないという前提を持つべきなのだ。そして、高齢者接種実績との割合を考慮しても、明らかに64歳以下の報告事例は少ない事も特筆すべき事実である。

直感的に言うと、コロナ感染で死に至るのと同様、高齢者は副反応が強ければ体力的に耐えられないケーズも存在するという仮説も成立する。

従って、ワクチン接種によるリスクは確実にあると言っても良いだろうが、だからリスクが高いと言うのは短絡的過ぎる。100万人換算で言えば、全数直接起因だとしても、7.65人程度で、この時点で交通事故の死亡リスク23人程度と比較して3分の1でしかない。更に、全て直接起因ではない事は自明であろうから、更にリスクは低まる。最悪のリスクはその程度なのだ。

一方で接種のメリットは、感染によるリスクを低減させる事。

死亡率は、高齢者の60台で1.2%、70台で4.6%、80代以上で13.2%に至るが、これを95%防ぐ効果があるという事だろう。陽性率は実績で約0.1%だが、隠れ陽性含めて仮に5倍と想定し0.5%と設定すると、例えば80歳代以上なら100万人換算で約70人の死亡者が発生し、ワクチン接種でこの95%、66人程度の命が助かる計算だ。同様に70歳代では24人、60歳代で8人が助かるのだ。70歳代以上で、交通事故死以上のリスクからそれ以下に抑える効果があるのだ。

但し、50歳代、40歳代では交通事故死リスクのおよそ10分の1のリスクであり、30歳代以下では、ほぼ死亡リスクとしては算出範囲外なのだ。

数字で検討すると、高齢者はワクチン接種のメリットが上回り、交通事故死リスク以下のリスク低減が期待できる事は間違いない。体力的に無理がある、例えば看取りを決断せざるを得ない状況では接種は慎重に検討する必要があるかもしれないが、それ以外は基本接種推奨で疑い様がない。

しかし、30歳代以下の若年層ではどうだろう。接種の致命的なリスクは低い。感染による死亡リスクもほぼゼロ。数字上はそうなる。勿論、ワクチンの中長期的リスクは未知数だ。まさか5Gに繋がる等のガセ情報は別として、何らかのリスクは想定されるだろうが、交通事故リスクと比較して大きいと思うか否かが検討のポイントではないだろうか。

これらを表にまとめると以下の様になる

上表の数字は、想定比率の設定以外は現時点の事実である。しかし解釈は様々出来るだろうし、個々の事情に応じて判断は異なって然るべきだろう。個人の事情には社会活動を実行する上での制限や、職業上の事由、思想信条による事由、個人の健康状態による事由なども加味すれば良いが、それでも数字度外視では判断を誤りかねないだろう。

専門家に騙されるのも自己責任といえばその通りだが、出来れば自分自身で数字を見て、調べ、自分の頭で考える、それこそ自己責任であり、自由の原点なのだ。

今回題材として取り上げたのはワクチン接種の是非。筆者自身は積極推進派でもなければ、決して反ワクチンでもない。事実を示すデータ、情報を正確に読み取り、本当に是々非々の判断を不確定要素の部分も含め個々人が行うべきであり尊重されるべきと考えている。