政府よりワクチン検査パッケージによる行動制限緩和の提言が為されたが、分科会尾身会長は、緊急事態宣言解除後でないと行動規制緩和はあり得ない。議論すら緩みに繋がる、誤ったメッセージになると記者会見で答えた。いつまでこの様な発言を繰り返すのだろうか?
まず、緊急事態宣言が解除されたら、当然だが行動制限や酒類提供規制を実施する理由が無くなる。尾身会長の話を聞いていると、いつの間にか、宣言発出の有無に関わらず、日常的に行動規制実施が前提になっている。
政府発信と分科会の提言で内容が異なる、とメディアは指摘するが、当然であろう。分科会が提言した内容が全て政策として実現する等、あり得ない。いつのまに、分科会による専制政治を求める様になったのか、政府攻撃の手段に使うメディアもどうかしているが、その状態を許している国民もいい加減目を覚ますべきだ。
分科会の本来の役目は、現実に起こっている感染危機事態の実態解明が最優先のはずだ。何故なら、危機管理の入り口は危機事態の影響範囲、実態の把握だからだ。それなくして有効な対策は議論もできない。そして、実行した施策の評価、有効な手段と非効率的な手段を切り分けていく事も重要な役割だ。それらは、全て科学的アプローチによって為されなければならない。
例えば、酒類提供禁止での効果は評価されているのだろうか。一切聞こえてこない。実際にマクロ視点でデータを見る限り、酒類提供有無で感染状況に相関関係など確認できない。人流も同様だ。しかし、分科会や専門家は『緩み』『誤ったメッセージ』と精神論を非科学的に言い続ける。定量評価できない専門家はその時点で自ら退くべきだろう。そして、その様な専門家を利用し続けるメディアも混乱の責任を取るべきだろう。
『緩み』『誤ったメッセージ』が如何に根拠もなく、苦し紛れの言い逃れに過ぎないかという事は、言っている当事者がその対象者である事を示し続けている事からも分かる。
思い起こせば、有症状者が生放送に入りクラスターを発生させ、会食自粛状況で会食クラスターを発生させ、その後も会食のドンチャン騒ぎは後を絶たず、再発防止策もない。寿司会食や大規模パーティー開催、移動もしまくっている。間違ってならないのは、これらは世間沙汰になったほんの一部、氷山の一角である。つまり、『緩み』『誤ったメッセージ』を発し続けているのは、言っている当の本人達である、専門家、メディアであって、ダブルスタンダードの極みなのだ。
<ワクチンパッケージのリスク観点での問題性>
緊急事態宣言下でも行動制限を緩和できる可能性としての『ワクチン検査パッケージ』の効用を考察する。
宣言下という事は感染拡大が懸念され、医療が逼迫している状態が前提となるので、規制緩和は『感染リスクが低い』という理由が必要になる。この感染リスクは二通り分けて考える必要がある。『自分が感染するリスク』と『他人に感染させるリスク』だ。
『自分が感染するリスク』は、ワクチン接種で95%リスク低減できると言うのは実は考え方が違う。95%低減は事実だが、それはマクロで見た場合の確率であり、個々人のリスクとしては、個々人の状況によって異なるのだ。5%の確率であってもその該当する当事者にとっては、リスク低減されていないのだ。しかも、経時変化でリスクも変化するので個々には一律で語れないのだ。
未接種者も同様で、全員の感染リスクが高い訳では無い。個々人の免疫力は固有であり、中には感染により抗体を持っている人も存在する等種々の条件に起因するからだ。
次に、『他人に感染させるリスク』を考える。
ワクチンの効用を考えると、あくまで自分が重症化しにくい事が主眼であり、自ずと無症状感染者や軽症者が割合として増えるのは自明。発症前後が最も感染性が高いという新型コロナの性状から考えると、ワクチン接種の無症状者は寧ろ感染拡大のリスクを高める可能性もある。軽症が故、行動の幅が広がるから、安心するからこその現実であり、第5波の感染者数増の原因とする仮説すら成立する。
現在の陽性検出者の内、約8割がワクチン未接種者だ。これはワクチン接種の効果である事は間違いないが、市中感染の機会が接種有無で、接種有無同数だと仮定すると、6割相当の人達が陽性検出から逃れている計算になる。逃れていると言う表現は、同様にウイルス曝露を受けながら、恐らくは症状も無く検査対象にならなかったという事を示す。つまり、この6割相当の人達は感染拡大の一因を担っていると想定できるのである。
つまり、単純に人に感染させるリスクで言うならば、寧ろワクチン接種者の方が症状が軽いが故に、感染させるリスクが高まるとなり、ワクチン検査パッケージの目的をそもそも果たせなくなる。
間違えないで頂きたいが、ワクチン接種は大きな感染抑止効果がある。接種個人の重症化予防と社会全体でも一定率の接種が進めばマクロとしての安全性は拡大する。だからこそ、個々人の差を付けず、社会として行動制限は緩和されるべきである。その時点で緊急事態宣言なる状態から脱している事を意味するのである。勿論、それでも危機事態に陥る可能性は否定せず、準備として医療資源再配分の法整備を急げばよいのだ。
この状態でワクチン接種有無での行動規制の差を付ける事は到底容認できる内容ではない。
<ワクチンパッケージの他の観点での問題性>
そして、ここまでに示した要素を考慮に入れると、個人のサービス認証に使う事も不適切なのだ。個人認証とは、当該サービスを享受する資格を有する当人である事を示す方法であり、感染リスクが低い事を権利の要件とするならば、ワクチン接種有無では資格を有すると示す事が出来ないので認証手段としては不適である。
「この人はリスクが低い可能性が95%です」では、本来の認証ではなく、選別に過ぎない。銀行から預金を引き下ろす際に、「この人は95%権利を持った本人です」で取引を行えない事ぐらい分かるだろうし、認証を少しでも学べば自明であるので、何故専門家が異議を唱えないのか、専門家に聞いていないのか不明だ。
そういう意味で、唯一の可能性は抗原検査によるその場での陰性確認かもしれない。PCRでは時間差が容認できず、CT値も相当低く設定しない限りその場での真の感染リスクを表せない。その点、抗原検査であれば感染に必要な一定のウイルス量が無ければ反応せず、即時性も担保できるので「この人は感染リスクのあるウイルス量を保有していない」と出来る可能性はある。
マーケティング的にも、必ず発生する未接種者の壁、諸外国では70%の壁とも言われているが、30%の顧客を除外するという選択をする客商売が永続的に反映できるのであろうか。顧客マーケティングとして対象顧客との関係性を慎重に見極めなければ、一時的であろうとも重要顧客を選別した事実は、将来に禍根を残す結果にもなり得るだろう。
そして、最後にもしかすると最も重要な問題点は、個人情報保護、しかも要配慮個人情報保護の問題である。
要配慮個人情報とは、『人種、信条、社会的身分、病歴、前科、犯罪被害情報、その他(本人に対する不当な差別、偏見が生じないように特に配慮を要するもの)』であり、通常の基本情報よりも一段高い規律が求められるものだ。
ワクチン未接種の理由は正にこの条件に該当するであろう。理由を宣言する訳では無くとも憶測が定着化する現象を考えると到底容認できる訳がない。それがあらゆるところで、通常のサービスを受ける条件として晒されるのである。
1対1で情報が保持管理され、サービス提供者以外には漏れない、等という運用状態を確立できるはずが無く、学校での手上げアンケート取得などという問題事案も発生しているのだ。それこそ、対応するサービス提供者全てがプライバシーマークを取得するぐらいの運用体制が確保できないと到底守れないだろう。
故に、先行する諸外国では暴動や警察による暴行なども起こっているのだ。
<安全は技術・科学、安心は本来安全状態の周知で成立>
『安全・安心』は、小池都知事が豊洲市場移転問題で『安全だけど安心ではない』という趣旨の発言をしてから一般にも定着している。企業における従来の『安全第一』に安心が精神的要素として加わったが、現場運用的には安全を確保出来ている状態を周知し安心できる環境を維持すると言う意味合いで、安全を維持するマネジメントが機能すれば安心も達成できる内容だ。
しかし、メディアなどで声高に叫ばれる安心はその域を遥かに超えている。一人でも不安に思えば、その理由が何であれ安心が達成できない状況だと言い切る事が出来てしまうのだ。所謂、言ったもの勝ちの世界だ。そして、日常的に不安を煽り立てる。まさしく、不安な状態を作り出し、安心できないと批判する、マッチポンプなのだ。
そして、不安を煽る一役を専門家と称する人達が担う。
安全は技術的に確立でき、科学で立証できる。しかし、安心できないと言い切られてしまうと、対応の方法が無くなる。あくまで安全な状態を説明する以外に方法が無いからだ。
従って、専門家と称する人達が、『緩み』『誤ったメッセージ』等、精神論の安心に関する発信を繰り返すのは、論外であろう。過去の施策や状態の科学的検証が報告されていない時点で危機事態を把握する事が出来ていないと評価すべきなのだ。
やはり、分科会は既に機能不全状態であり、解体する以外に無いだろう。