戦争有事における情報戦、ロシア擁護派の欺瞞

ウクライナに侵攻したロシア軍の戦争犯罪と思われる惨状が、連日メディアだけでなくネット含めて報告されている。一方でロシアは全面否定、軍事施設への攻撃しか行っていないとの主張を続ける。これはある意味、戦時下における情報戦でもあり、お互いに自身が不利になる情報発信は決して行わない構造により発生する事象である。

その様な状況でロシア批判の意見が圧倒的に多くなるのは、客観的に見て当然と思えるのは筆者だけではないだろう。一方で、根強くロシア擁護論を展開する層も存在しており、いくつかのタイプに分かれている。

その中で質の悪いのは、「アゾフ」「ネオナチ」というワードに縛られる視野狭窄、客観性を欠いた論であろう。国際社会がどの様に調査し、その結果としてどの様に判断しているか等、客観的情報を全て陰謀論で片づけてしまう。そして陰謀論を信じ、国際社会の判断を覆しうる根拠は何も示しもしないのだ。

民族的ナショナリズムを前面に活動する組織が存在するのは事実である。しかし存在するから全ての悪行がその組織の責任である事にはならないし、それだけの活動力があれば、国際社会の目を欺くのは今の時代困難だろう。

また、周辺状況や過去の歴史を認識するだけで客観的に物事を把握する事は可能である。冷静に考えれば、「ナチズム」は現存しないが、民族的ナショナリズムは現存する。しかし、「ナチズム」程の過激な活動は確認できていない、何故なら国際社会の調査研究が物語っている。一方で「スターリニズム」は現存する事を否定できないし、ウクライナ都市の現況やその他のロシアの侵攻を見る限り戦争犯罪の疑いは晴れない。

この種のロシア擁護派は、これらの状況証拠を覆し、擁護する根拠に至る情報提示、感情的陰謀論でない論理的な説明が必要なのだが、今の所、聞こえてこないのが実態であろう。本来、それらの情報なく信じるに至る事自体が筆者には理解できない。

間違えてならないのは、日本のメディアが報じる情報は極めて偏っている事だ。例えば世界中の紛争が決して均等には伝わっていない。また、歴史認識も思考停止を継続している。

また情報がどの様にねじ曲がっていくかを我々日本人は目の前で見ている筈なのだが、その認識が甘い。「南京大虐殺」と称される事案は、当時の人口やその後の人口推移など客観的事実を見れば説明できないし、東京裁判で裁かれた内容を見ても大虐殺など無かったと考えるべきだが、それでも情報戦では異なる指摘を受ける。「真珠湾攻撃」も未だに象徴的レッテル貼りのワードとして使われ、慰安婦や旧朝鮮半島出身労働者も同様。デマを元に日本のマスメディアが誤報を繰り返し国際問題化した。

少し冷静に、事実関係を調べれば明確であり、論理的にも説明が出来る内容でも、プロパガンダにより国際問題化出来るのだ。ならば、例え悪意をもったプロパガンダ情報であろうとも、冷静かつ客観的に調べ、論理思考さえすれば、大きな間違いは避けられるはずであり、情報を受ける側一人一人の責任が実は大きいのだ。

<劣化し両極化するジャーナリズム>

最近のジャーナリズムはその精神を忘れ、裏取りもせずに誤報を垂れ流す事が多い。しかし、今回のウクライナ戦争において、その逆張りの自分の目で見ないものは信用しないと言う極論も一部で確認した。

それはロシア侵攻の跡地での惨状を伝えるウクライナ側の情報を現場・現実・その瞬間を見た訳ではないので、誰が、何の為にやったか判断できず、一方的にロシア軍の仕業と言うことは出来ないと言うのだ。

確かに一理はある。ジャーナリズムと言いながら、「アベガー」「スガガー」や「森掛桜」など判明した事実は報じず、裏取りしない疑惑を実しやかに報じる様な劣化現象が激しいのが現状であり、その反省に立てば、事実関係の裏取りが報道の前提であることは当然だからだ。

しかし、それも行き過ぎは良くなく、逆張りの疑いすら感じざるを得ない。

そもそも今回の様な戦争有事において、全て取材をして裏取りをする事は不可能だろうし、事実関係が判明するには相当な時間を要する。その間、全てにおいて分からない、判断できないでは報道にならないだろう。

状況証拠を並べ、各種の発信を時系列で論理的に分析し、その上で前提付きで判断すべきなのだ。そして前提を覆す情報が新たに出てくれば、訂正し、再発信すれば良いのだ。

<情報論理分析とは>

世の中に流通する情報には発信する側の意図が必ず介在する。情報とは、FACTを示すデータ(文字・画像・動画・数値)を分析し、解釈を加えて情報となるのであり、意図が介在するのは当然である。しかし、それは少しだけ注意して情報と向き合えば、比較的簡単に意図は透けて見え、フェイクは見抜ける。

従って、一つの情報を妄信する安易な行為が危険である認識さえ持てば、情弱に陥る事は簡単に防げる。実際は、それ程簡単でなく、人間は弱い存在なので、冷静さを失い、簡単に騙され妄信してしまい、情弱に陥る。その結果、社会不安定にまで発展させる危機を生み出す。

今回のウクライナにおける惨状において、確かに首をひねる様なものも多い。何故、その瞬間の動画が撮影できるのだろうか、この画像はいつのどこの画像だろうか、等である。しかし、SNSも含めた多様な情報を総合的に見ればある程度の実態は推定可能だろう。筆者が最大注目すべきと考えるのは、ロシア政府、外交筋から発信される情報を時系列で並べた時の論理矛盾があり説明出来ない事実である。ウクライナ発信は一方で誇張表現はあっても論理的矛盾は感じない。

情報論理分析とは、多くの情報を取得する努力を前提として、その時点における取得可能な情報の範囲で論理的に考察して判断する事であり、新事実・新情報が出てくれば当然ながら判断は覆る事もあるのだ。その反省があれば朝令暮改があっても良いだろう。むしろ、全ての情報を取得できると考えるのは傲慢でしかなく、その様な神の領域を求めるものではない。そして、最も重要なのが論理性の担保なのである。

情報論理分析の要諦、分かり易い情報とは?

企業内の業務遂行時に、自身の業務成果を資料として残す。また、自身の業務遂行において過去の他人の実績を参考にするために過去の資料を紐解き、分析して自身の業務に役立てる。当然の業務遂行上の規範である。

ある日耳に入ってきたのが、過去の資料が分かり難く、読み解くのに当時の担当者に何度もヒアリングするなど苦労したので、他人が見て分かり易い資料の作成を心がけよう、との事だった。しかし、言わんとすることは正論でも、それでは精神論でしかなく、結局何も改善しないと言わざるを得ないのだ。

分かり易い資料とは、具体的にどんな資料なのだろうか?

<資料が分かり難い原因は情報の中身?>

一言で分かり易い資料といっても、具体的にはどの様なものを指すのだろう。巷のハウツー本では、箇条書きにして、図表など一目見て感覚的に認識できる様にだとか、テクニックは語られている。しかし、それだけでは情報自体の品質は保証できない。情報を伝えるべき資料であれば最優先するべきなのにだ。

情報と言う観点で言うなら、あらゆる情報が満載された情報に不足ない資料は、読み手に取って極めて分かり難いだろう。プロセスを割愛したグラフィックや図表を使えば視覚的に理解し易いが、そのプロセスの誤謬性には気付き難くなる。

一方で、全ての必要情報が分かり易く論理的に整理されてあっても、読み手側の読解能力不足で誤った解釈をしたり、自明である推論すら、明確に記述されておらず曖昧と資料の責任に転嫁する場合もあるだろう。

そもそも人間が作成した資料であり情報なのだから、記載されている内容に間違いもある、或いは誤った解釈されている場合は当然あり得るだろう。従って、読み手側にも一定の解釈が必要なのだ。

<世の中にまん延する情報の誤謬性>

企業の業務報告や記録の例で語っているが、世の中に広まるメディア発信の情報も同様の誤謬性、読解力不足の誤解など、全く同じ構造が存在する。まずは、この情報について反面教師として考察してみたい。

マスメディアの発信する情報とは、2次情報、或いは3次情報である。従って、常々鵜呑みにせず、1次情報に当たり確かめる事を推奨している。1次情報からどの様なプロセスと論理考察で生成された2次情報なのか紐解くのである。ニュースソースは明かされず1次情報に辿り着けないとの批判もあるかもしれないが、殆どの場合、外堀を埋める情報は存在し、少なくとも推論は立てられる。

そうすると、余りにも可笑しい論理飛躍、結論ありきの無理筋が如何に多いか気付くのである。仮設としてその結論に辿り着く1次情報は何が考えられるか、推論すれば、その周囲の情報との矛盾が隠せず、帰納的にも論理破綻が示せる場合が多い。その様な作業を心がけておれば、自然と2次情報を見ただけで、その誤謬性の存在、胡散臭さに気付けるような能力も養われる。

マスメディアの発信する情報が偏向するという事実は、歴史的に見ても明らかである。大本営発表と悪の権化の様に政府情報統制を語られるが、事実は民間の新聞社の発信する情報だったのだ。

現在の、電波系メディア、新聞系メディアもある思想信条、意図を持った方向性に偏向しており、現実的に放送法4条は守られていない。結論ありきの無理筋、過去発言との整合性ない論理矛盾。意向に沿わない情報を発信しない報道の自由。これを鵜呑みにすることは危険極まりないのだが、未だ影響力は絶大で、多くの人は知らず知らずに信じ込まされている。

しかし現在はネット空間に発信される情報が存在する。もちろん、その情報の一つ一つ、個々に見ると夫々に偏向していると言っていいだろう。しかし、規制がかからない、いや色々な規制がかかっても全員参加の双方向性メディアとして、オールドメディアに比べて大きく情報発信の自由度が高く、種々雑多な情報が埋もれている。

実は、オールドメディア側から見るとこれは大きな脅威なのだ。自分達の情報の信頼度が低下する事態を招きかねないからだ。従って、ネットの情報は胡散臭く、オールドメディアが正しいというプロパガンダが蔓延り、規制に必死なのだ。場合によっては、報告などで広告剥しやアカウント停止を目論んだ抑制が厳しいのが実態である。

しかし、よく考えて欲しい。情報とは、発信側は自身が伝えたい意図に沿ったものなので偏向は当然だろうが、受け手側はあらゆる情報を受け取る権利がある。そして、多くの情報の中で自身が必要とする情報、活かせる情報を取捨選択するのが当たり前ではないか。

ならば、オールドメディアの様にどこを見ても金太郎あめの様な一律の情報(しかも偏った)ではなく、ネットを中心とする有象無象の情報から受け手側が是々非々で取捨選択する方が正しい姿ではないのだろうか。実は、今迄はこの役割を書籍が果たしてくれていた。これからも書籍の役割は継続するだろう。しかし、ネット情報の活性化により、情報革命が起こり、素人でも昔の諜報部員並みのオープンデータ取得した情報分析が可能な時代になったのだ。逆に大なり小なり、情報力を高めなければ、社会に適合できなくなるリスクすらあるだろう。

だから、常々、情報の論理分析力を高める活動を推奨し、1次情報に当たり、自身の頭で考察する癖を身に着けるべきだと言い続けている。

<企業における情報伝達、ノウハウ継承>

前述した情報論理分析力は、これからの社会において必要不可欠であり、企業人としても是非、普段から心がけてもらいたいと思っている。

その上で、そうは言っても資料の1次情報に毎回当たっていては業務効率が悪すぎるのも事実だろう。

そのために必要となるのが必要な情報の構造化ブレークダウンだろう。

前述の例で考えて見よう。過去実績の担当による資料が分かり難いのは、何故か考察するのだ。情報が不足していたのか、必要のない情報が満載で必要な情報が検出し難いのか、情報に誤りがあったのか等。

この考察の結果、情報不足であれば、どの様な情報があれば良いのか、具体的に項目出しをしなければならない。当然それは、継続的にフィードバックがかかるようなプロセスで、不足情報の項目出しを加えていく仕組みが必要になる。何故なら、一度の考察、検討で、必要な情報の全てを網羅するのは不可能だからだ。やりながら、レベルアップしていくのだ。そして必要項目記載をルールとし、ミスロス削減の為にもテンプレート化しておくべきだろう。

不要な情報が満載でと言うのなら、少し考える必要がある。何故取捨選択が出来ないのか。

情報が整理されておらず判然としないのなら、定型の情報は固定表記される様にテンプレート化して整理すれば良いだけだ。むしろ情報が満載なのは良い事で、受け手側とは一人ではなく多面的なので、それに対応するのは情報自体が最小公倍数を実現する必要がある。

必要な情報が整理され表記されていて、尚且つ分かり難いと言う事例を多く確認する事がある。つまりこの現象の原因は、受け手側の情報読解能力の問題なのだ。

その次の情報に誤りがある場合も難解だ。基本的には資料として記録を残す際にミスロスを防ぐ策が大前提である。前述の項目整理やテンプレート化は有効な策となろう。それでも人間のする事に完全はなく、一定のミスは発生する。

これは本質的には一定のリスクを受容する必要はあるが、最小化する為に資料作成時の対策は不可欠だが、加えて受け手側が利用する際に一定程度の感性を持って見抜ける能力の養成が必要不可欠なのだ。

ひとつの方法は、時々抜き取りでも、1次情報に戻る作業で能力を高める。普段から周辺で起きている時事問題、経済界の課題などに関心を持ち、書籍やネット情報を確認し、時々その背景にある1次情報、オープンデータや論文も確認し、自身の思考を磨く作業を行っておく事が重要だろう。

実は、この能力の基礎は、義務教育で誰もが教育されている、国語の読解力、長文を読んで筆者の気持ちは?この主人公の言葉の意図は?とい問いであり、演繹法や帰納法を駆使した論理証明などである。そんなに難しい事では無いはずなのだ。