人権派の攻撃は対象の人権を蹂躙する

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。発言は撤回され謝罪をして、IOCも一旦、問題は終わったと幕引きを図ったが、人権派の攻撃は過激化し、世界的世論も背景に同調圧力も加わり、公開処刑、私刑にも似た状況になっている。

森会長の発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、この様な騒ぎに発展しうるリスクを軽視し、自身の責任ある立場による影響力も軽んじたと非難されても仕方が無く、本意でなかったとしても、決して許されるものとは思えない。だからこそ、撤回し謝罪したのだろう。

日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と国際社会に評価されてしまうマイナスは大きい。ジェンダー・ギャップ指数が121位と低迷しているが、その中でも政治分野が144位と最悪なのだ。しかし、この順位が実態を本当に反映しているのだろうか、真の問題が見えなくなっているのではないだろうか、疑問に思っている。

実際、性差別は今でもゼロではないだろう。そして、差別は性差別だけでなく他にも様々ある。人は等しく平等で、人権は守られるべきだが、何故か差別は発生する。それは自己を優等種、或いは正義とするが故にそれ以外を劣等種、悪とする、自己正当化の原理主義、排他的なエゴなのだ。

そうやって考えると、性差別自体は社会悪である事は間違いないが、同時に森会長をバッシングする事象も同様の排他的な社会現象ではないのだろうか。好き嫌いあろうとも一定のリスペクトは必要であり、今の現象は不快感を通り越して忌むべきと感じるのは私だけだろうか。謝罪会見でも、逆切れも悪いが、質問の仕方が余りに下劣なのも問題と感じる。

百歩譲って、絶対悪だとしても、弁護人もなく私刑の集中攻撃に処して良いのか。釈明の余地を与え、つまみ食いでなく全容を正確に把握し、敵対するのではなく一定の寛容性も持ち、発言に至った背景の問題性を冷静に提起し、解決策を前向きに議論すべきではないだろうか。

森会長より発言があった際に、異論を挟めない空気感も問題とされているが、逆に、今森会長擁護発言を発信出来ない空気感、同調圧力が世間で出来上がっている。発言した瞬間、女性の敵、人類の敵扱いで攻撃を受けるだろう。その空気感で、遺憾の意を表する発信も増えている。これでは、集団リンチといっても過言ではない。

野党は政府に会長に辞任を要請する様に国会で答弁している。しかし、政府に人事権は無い。人事権を有する学術会議の人事に対して攻撃しながら、人事権の無い組織への政府の人事介入を言う神経が理解できない。

何より、女性アスリートと今回の発言に何の繋がりもない。オリンピックの主役は言うまでもなくアスリートだ。アスリートファーストで考えるならば、大会直前に何かにつけて反対活動の大騒ぎをするのではなく、本当に前向きに開催に向け、応援するメンタリティが必要だ。裁くべきがあれば、後に裁けばよい。今は純粋にアスリートファーストであるべきではないか。今回の事象の被害者はアスリートである。加害者は、森会長含め日本社会だと糾弾したいのだろうが、糾弾する側もアスリートを無視した加害者になってしまっているのが残念でならない。

逆境であればあるほど、アスリートの為に、騒がず、前向きに立ち上がるべきなのだ。

<ジェンダー・ギャップの現実と課題>

少し話題を戻し、オリンピックではなくジェンダー・ギャップの問題について考えたい。

日本が最も劣っているという政治の世界を見る為、2019年に行われた参議院選挙、直近の国政選挙の数字を見てみる。全体では、当選者124人中、女性は28人、22.6%である。立候補者総数370人中、女性は104人で28.1%。その差は、5.5pであるが、これをどう評価するか。

<総務省選挙関連資料令和元年7月21日執行参議院議員通常選挙速報結果より集計>

この中で特筆すべきは、与党の女性候補者の当選確率が85%を上回っている事だ。与党から出馬すれば、ほぼ当選しているという事だ。逆に野党は20%を下回っているのだ。

この数字から結果としての男女平等に近づける為には、与党の女性候補を増やすことが有効だと分かる。しかし残念ながら、与党からの立候補者の女性比率が13%前後と低いことが課題だろう。野党は50%に近い候補を擁立していても、当選率が低く、ある意味泡沫候補で数を揃えても意味が無い事が示されている。

従って、本当に実力があり、モチベーションも高い女性候補者を少しでも多く育成していくことが最短にして最大の対策になるだろう。

大学までの教育環境で、それ程大きな性差別は数字としては無い。というより学部学科による志向の違いで発生する差はあるが、合格に対して基本的に男女差は無いはずだ。では、社会に出る際はどうだろう。基本的に雇用機会均等は進み、最近の定期採用者の女性数は激増しているはずだ。しかし、管理職候補生は、まだまだ圧倒的に男性の方が多いのが現実だろう。選考に当たってはインセンティブという名の逆差別が堂々と行われているが、それでも簡単に差は埋まっていない。ここに課題がある。

それは社会構造の課題もあるだろうが、女性自身の意識、モチベーション向上なども不可欠なのだ。そんなに簡単ではないだろうが。

臭いモノを力で封じ、正義を押し付ける、グローバル的感覚では問題は本質的に解決しない。分断を生み出し、亀裂を深めて、見えなくしているだけである。排他的な原理主義で形や数だけ合わせるのではなく、遠回りかもしれないが、本質的な意識改革が必要であり、それが可能なのは、寧ろ日本社会の方だろう。

女性蔑視発言に対する世間の反応から見えてくる本質的な問題

東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長の発言が国内外で炎上している。謝罪はしたが、辞任する考えもなく、会見では更に火に油を注ぐ様な印象を与えたのではないだろうか。全力で五輪開催に向けて、後ろ向き意見を乗り越え、どうやったら出来るのか、前向きな知恵を結集し、ある意味イノベーションを起こす必要がある状況だと考えているが、誠に残念である。

この発言自体、今の世界的な情勢、価値観の変容を理解しているとは思えず、決して許されるものとは思えない。日本は遅れている、認識が甘い、女性蔑視社会と思われる大きなマイナスなのだから。

五輪問題は一旦置いておいて、本質的な問題である、ジェンダー・多様性に関する事を考えたい。

昼の番組での信州大学特任准教授の山口真由氏の意見が秀逸であった。それは、男女平等を訴えるばかりに、本音では反対意見を持ちながら、言い出せない雰囲気で封殺し、解決に必要な反対意見が聞こえてこない事が問題であると指摘。そして、海外などの状況も表面上は女性の社会進出が進んでいる様に見えるが、反対意識も根強く存在し、臭いものに蓋をしているだけなので、この様な本音の意見は実は貴重で排除すべきではないとの趣旨だった。

男性陣の発言は、時代の変化を認識するべきだとか、思っていても言うべきでないとかの意見が主だったのが対照的だ。それは、実は本音では男女平等に対して反論はあっても、時代が変わったので仕方がない、言わない、言えないと聞こえて来た。その様な状況で、女性からの本質的な問題提起は貴重である。表面上ではなく、本質的な問題に目を向けないと、本来的な解決は出来ないからだ。

実際に、ポストへの登用数はガイドライン等で数値目標が定められる傾向が強いが、本当は、男女区別せずに、適任者を登用するべきはずだ。適任者の男女比率が実際には等しくない事が本質的な問題であり、その状態で無理に女性から選任する事も同様に不平等であることは疑い様がない。結果の平等と機会の平等のどちらを選択するかなのである。

理想的には、機会の平等を担保し、現実に男女ほぼ同数の人材が育っていて、結果としても平等になることだろうが、現実はそんなに甘くない。

機会の平等を優先すれば、結果としては同数にならない可能性が高く、今現在であれば間違いなくそうなるだろう。それは、女性の社会参画に対するハードルもあるだろうが、それ以外にも個々人の意思、モチベーション、それに伴う経験値や能力の差は現実にあるだろう。

女性側にも厳しい競争環境を戦い抜き、自分を磨き、成長する強い意志と実行力が必要になるのだ。ある意味、女性には厳しい条件かもしれないが、これが本当の平等である。

結果の平等を優先すれば、新たな差別が生じるし、そのことを言及する意見を封殺する環境が出来上がっていく。だから、失言に対して問題の本質を正すのではなく、排他的で、ある意味差別的な攻撃が始まってしまう。

森会長の発言された組織運営幹部からすれば、ガイドラインに合わせ様とすると、現実は無理が生じ、能力のある男性人材が逆差別を受ける事になるという事だろう。そうならない為には、女性人材も、ほぼ同数揃う環境が必要なのだが、現実にはそうなっていないのに、結果だけ合わそうとすると無理が生じるのだ。環境が整っていない事を問題視するべきなのだ。

繰り返しになるが、森会長の発言、会見での発言は批判に値し、女性蔑視と取られても言い訳のしようが無く、決して許されるものではない。しかし、排他的な原理主義による結果平等を絶対正義と称して、本質的な問題を見ず、反対意見を吊し上げ、封殺する行為も決して許されるとは思えない。

この問題意識は、男女平等だけでなく人種差別なども同様であり、日本は、余程、機会平等が進んでいるが、結果平等までには至っていないジレンマを抱えている。逆に、欧米は結果平等を形の上で作り上げる事で分断が深刻化しているとも感じる。

本当の意味での多様性に寛容になる必要があるのだ。人は人の数だけ考えがあり、身体的にも得手不得手があり、個々に尊重されなければならない。個々の意見に問題性があるなら、目を逸らさず、膝を突き合わせて、理性的な議論が必要だ。そこには、必ず真の問題が隠れているからだ。