西村大臣事件の真の問題性になぜ迫らない

西村大臣の法的根拠の無い酒類提供に纏わる民業圧迫発言、優越的地位の乱用は、法治国家として決して許されるべき問題ではない。しかし、責任追及、辞任要求と馬鹿の一つ覚えの批判一辺倒の野党では、国民の真の信頼獲得には程遠い。野党にとって、政権の息の根を止める絶好のチャンスなのだが、本質を突き、改善提案を展開する動きが見えてこないのが残念でならない。

真相究明が必要だ!と言うのはその通りだろうが、前後関係含めた連綿とした流れ、既にオープンとなっている情報から、構造的な欠陥と真の問題性は、ほぼ見えてきているはずだ。責任を問い、批判するのではなく、改善策を提案しなくてどうする。

<超法規的施策実行手段としての事務連絡>

少し重要事項の事実関係を深読みした整理、考察をしてみる。

一連の通達、指示内容が法的根拠を持たず、問題であるとの認識は官僚であれば周知のはずだ。もし政治家の暴走なら、『お代官様!ご乱心』と止めるはずだ。それがスルーされている。しかも『事務連絡』という手法にて行われた。『事務連絡』とは閣僚会議など経ずに行われる、まさに本当の意味での事務連絡に過ぎないが、つい先頃この手法を使った前例があった。

ワクチン接種に医師が非協力的で、打ち手不足のため、先行きが見えなかった際、超法規的措置により政府は打ち手を歯科医まで容認すると発表、更にそれでも不足の場合は、薬剤師など二の手三の手があると示した。それによって、自身の領域(権益?)が侵される危機感を感じたのか利得確保のためか、接種が加速し始めた。この時に使用した通達が『事務連絡』なのだ。

つまり、本来法改正が必要な事案に対して、目的達成の為に超法規的手段を講じる裏技的に『事務連絡』を使用する前例となったのだ。

断っておくが、ワクチン接種促進の為の超法規的措置は政府の英断であり、評価すべき政策実現だと筆者自身は思う。しかし、前例となってしまったが故に、悪用されるリスクも想定すべきであったと反省するべきだろう。

<事務連絡が使われた背景?>

東京都に対する4度目の緊急事態宣言においては、客観的に見ると酒類制限以外に制限措置は無いと言っても過言ではない。しかし、その措置自体、精神論であって、科学的根拠がなく、強制力もない為に実効効果に乏しいのも現実。巷では協力金の充実、早期支給があればという言われ方をするが、それは規制に対するダメージ軽減策でしかなく、措置の効果を有効化する手段ではない。

緊急事態宣言発出自体に科学的根拠が無い状態なので、納得感のある有効な手が無く、手詰まり状態で、苦肉の策として魔が差して血迷った方法論に向かってしまったと考えるべきだろう。

では『事務連絡』の利用、今回の措置のアイデアは西村大臣発のものだったのだろうか。もしそうなら、前例のワクチン接種と異なり、官僚の様々なブレーキが働くと考えるのが通常だろう。官僚側から見ると、少なくとも分かっていてスルーさせた、もしくは意図して仕掛けた可能性も否定できないと感じている。

それは、政権運営の基盤が揺らぎだした所で、官邸主導の状態から官僚主導に揺り戻したいという力が強まり、前例ある超法規的措置実行手段としての『事務連絡』利用を企てた。政治関与を弱めた政策強行手段としての活用、万が一発覚しても問われるのは政治であり、更なる政治弱体化を産み出せれば、官僚主導への回帰が加速でき、活用におけるリスクは低い。こう考えた企てだと考えるのは考え過ぎだろうか。

財務官僚幹部とテレ朝の社員との関係、情報リークに関して堂々と番組でも語られる事も含め、政治に対する官僚の攻勢が強まっているのは、事実だろう。

そして、もう一つの観点。この『事務連絡』の文書は自治体でもスルーされているという事だ。自治体で、これはおかしいと、抵抗があって然るべきだが、何事もなくスルーされている。

一部の話では、自治体の責任回避、国家への責任転嫁等、政治利用できる強力なネタとして使えるので握りつぶしてスルーしたという説も語られている。

<では、どうするべきか?>

どちらにしても、大臣の首を取ったり、責任を追及、真相解明という事が進んでも、国民には何の利益もない。改善策案を明示し、実効性を担保する方法を指し示すことが国民の利益に繋がり、信頼を勝ち取る唯一の方法だ。そして、政治主導の体制をもう一度作り上げるのか、官僚主導とするのか、バランス再考するのか、その議論が重要だろう。

個人的には、やはり民主的に選出された議員を主導とする政治主導とするべきと考えるが、ポピュリズム等で民主的に間違った選択に偏った場合の最低限のセーフティガードの為に官僚にも一定の力が必要だろうし、そうでないと国家運営における有能な人材、能力が育ってこない。従ってバランスだろうが、議論を重ね、固定化せずに一定の振幅幅での柔軟な体制変更で継続できる構造が必要だろう。

そして、やはり超法規的措置は、放置していては良くないだろう。従って、ワクチン接種の打ち手は、後付けとなっても法的裏付けを備えるべき。同時に、今の法制度では有効な手が打てず、手詰まりになる現実があるのだから、有効な措置が打てる法的整備が急務である。

4回目の緊急事態宣言に科学的根拠が無い事も問題だろう。有効な措置を発令する条件、緊急事態発令の根拠として、科学的根拠に基づく論理性を保った背景説明を必須要件とするべきだろう。

科学的条件は、一部の専門家と称する偏った意見に支配されずに、多様な意見の元に政治決断できる様にするべき。一部の専門家に権限が集中してしまうと、バランスが取れなくなりやすく、政治判断まで求められる事態に発展してしまう。

緊急事態時の措置において、補償は必要だが最優先ではなく、論理性を保った納得感のある条件設定の方が最優先なのだ。

まとめると

・政治主導の官僚統制体制の再構築、バランスの見極め

・既に発した超法規的措置(ワクチン接種)の法的裏付け構築

・科学的多様性のある見解の議論の場を整理し、政治判断に活かす体制の検討

・緊急事態の定義、科学的根拠と条件設定の法制整備

簡単ではないだろうか。法的根拠を作る事でしかない。立法府の皆さんが、法的根拠を作る事に全力を投じず、小手先の協力金や責任追及しかやらないのは、職務放棄に等しいのではないだろうか。

有事対応の地方自治と中央集権のバランスの問題が決着

河野大臣がワクチン接種予約の初期混乱に対して、BS報道番組で混乱を発生させた原因を、自分自身の指示が甘い、ミスだったと謝罪した。

ワクチン接種の順番は様々な議論が存在した。一番公平なのは、先着順。しかし、この場合のデメリットは初期の混乱であった。何らかの順位をつけると、混乱を防ぐ効果はあるが、デメリットとして公平性の担保が難しい。

その状況で、全国一律に決める事は困難で、地域毎の事情に合わせて、バランスを取る様に政府からは指示が発せられたが、これが地域任せで充分な機能が果たせず、もっと中央から細かな指示を出すべきだったとの反省の弁なのだ。

つまり、地方自治における判断能力、執行能力に問題があり、国が権限行使し統制する形にしないとダメだと判断した事になる。百歩譲っても、有事においては中央政府が責任と権限を握って采配を振るう必要があると、問題提起しているのである。

この1年、国と地方の対立が数々指摘され、結局地方では有事対応は無理だと、一定の結論が出された事になる。この考え自体が、次期総理候補から発せられた事も重要であろう。

橋下元知事や片山元知事などは、地方の事情を熟知した知事に、もっと権限を委譲するべき趣旨の発言が多かったが、知事経験者からは確かに実権(法的根拠のある)を持たないと何もできないと言うのは分かるが、この1年間、全国を見ても執行能力の差などが顕著な状況が露呈し、無理がある事は明らかだろう。

日本のコロナ禍における最大の問題は医療崩壊である事は疑い様が無いだろう。さざ波状態の感染者数で、医療資源は世界に誇れる程豊富であるにもかかわらず、コロナ対応に割ける資源が枯渇すると言う状態である。様々な言い訳は聞こえてくるが、所詮言い訳に過ぎず、やるべき事は明確なのに、やっていない、やれない事は誰も否定できないはずだ。

医療体制の強化に関して、政府が何もしていないとメディアは騒ぐが、実行責任は地方自治側にある。都道府県、市町村と地域医療との協力体制において必要な資源配分を決める必要があるのだが、これが全く機能していない。法的強制力が無い、地域医師会が非協力的、無理強いすると次回選挙で組織票が逃げる等の問題があろうとも、有事対応はそんな平時の感覚で対応していては破綻するのは至極当然の事なのだ。

法的整備とは、各地方での具体策が検討された上で必要な整備を行うものである。実運用上の必要性を訴えて初めて俎上に上がるのだ。つまり、受け身ではダメで、現場の具体策なくして法整備など進む訳がない。

唯一、大阪府吉村知事は、集中治療センターを開設して対応強化を図ったが、結局人的資源の獲得、医療業界の協力が得られず、自衛隊の投入まで要請された事は記憶に新しい。

ワクチン接種も同様。政府の調達が成功しても、打ち手がいないと後ろ向きな姿勢が全般を締めていた。結局、政府が集中接種センターを開設し自衛隊まで投入する決断を下し、更には、超法規的措置、明らかな法律違反である歯科医にも接種をさせる方向まで覚悟を決めて打ち出し、医療業界に突き付けた形だ。

この相次ぐ措置は強力だ。抵抗勢力であった、医師会に対し、表向き全面協力を要請しながら、『非協力的であれば貴方達を充てにしなくてもやって見せるけど、どうするの?』という姿勢なのだ。そして、医師会長のパーティー事件に対しても、政治からは特段の追及は野党も含めてなく、政治資金と既得権益は維持する方向である。この状況でも非協力的、抵抗を続けている様では、自らの既得権益を根本的に失う事態も招きかねない状態にまで追い込んでいる。これで、協力しなければ身を滅ぼすだけだろう。

ここまで国がやって、地方行政は何もできない。様々な知事がパフォーマンスはご立派でも、本質的な医療体制にメスを入れる行動は出来ず、住民へのしわ寄せに終始するだけでは、地方自治は、夢のまた夢としか言い様がない。最小から国が強権発動していたら、それはそれで反発も大きかっただろうし、潰されていたかもしれないと考えると、民主主義とはかくも面倒なものだと改めて痛感する昨今である。

五輪の医療体制も、コロナ対応とは全く別の90%以上の資源で協力体制が確立しつつある。国民の命を犠牲にする医療資源を割く必要は全くなく、バブルという一種の隔離対策で、感染の抑止を行えば、五輪開催反対の理由は、元々の反対、五輪の政治利用以外に存在しなくなる。

唯一、観客をどこまで入れるかという問題はあるが、最悪無観客まで覚悟すれば、何も問題ない。医師会も左翼政治活動系団体以外は反対できないだろう。寧ろ、反対せずに、リスクを最小化する為に全面協力すると宣言すれば、立場の挽回も可能だろう。

夢の祭典を純粋に応援する。スポーツが与える感動は、文化と同様、不要不急ではなく、心を豊かにし活力をもたらす、現代社会にとって欠くことが出来ない要素である事を、もう一度、コロナ禍だからこそ、全世界に訴える、その様な意義のある大会に出来るだろう。