『安全第一』から『安全安心』への社会変化に適応する要点

安全は全てにおいて最優先するべき事項である。安全が担保されなければ、あらゆる活動に支障を来たすからだ。工場・プラント・建設現場などに、大きく『安全第一』と掲げられているのを一度は見たことがあるだろう。そこで働く人の『安全』が担保されなければ、結果としての事業や製品の品質にも差し障り、事業継続が困難になるのだから、最優先されるのだ。国家でも同じだ。安全でなければ、国民の生命・生活に支障を来たすのだから、安全確保が国家の最大の責務なのだ。

では、最近よく耳にする『安全安心』とは何か、『安全第一』と何が異なるのか。その理解をせずに都合よく乱用されているケースが多いのは憂うべき事なのだ。

<安全と安心の定義>

まず、安全と安心の定義、何が異なるのかを確認したい。

安全とは、危険ではない状態、許容できないリスクがないことであり、客観性と科学的事実にに基づく検証と評価が必要であり、主観的であってはならない。

一方で、安心は、主観的に評価してリスクの少ない状態のことであり、安全を心で感じるものなのだ。従って、極めて主観的であり心理的な評価になる。

この安全と安心の状態を4象限で表すと下図の様になる

右上と左下の象限、つまり安全と安心が同等の評価を受けている状態は、ある意味正常な状態である。

右上の安全・安心が両立している状態は、言うまでもなくベストの状態であり、この状態は、科学的データの公開、説明責任の履行で継続できるだろう。

左下の不安全で不安な状態は、不安全である事を認識できており、その科学的対策を客観的に実施する事で、この状態を脱する事が可能である。民間の事業であれば、安全策の実施が確認できるまでサービスを利用しなければ良い。国家事業であっても、厳しい追及を継続すれば良い。不安全が見える状態なだけ、健全ではある。

問題は、右下と左上だ。左上は、言わずもがなだが、科学的に不安全状態を不安に思わず、安心している状態なので、どの様なリスクが顕在化してもおかしくなく、危険と隣り合わせが放置されているのだ。

この状態が発生する原因は、不安全な状態の説明が充分に為されておらず、周知が甘い、或いは、意識的に隠ぺいされている場合。そして、逆説的には、どれだけ説明しても聞く耳を持っていない状態だろう。

次に右下だ。これは、科学的に安全な状態にもかかわらず、不安を抱いてしまう社会不安状態で極めて危険なのだ。安全性の説明が不十分な状態もあり得るだろうが、往々にして、どれだけ説明しても聞く耳を持たない、感情的、情緒的な脊髄反応が主原因の場合が多いので質が悪い。本人は、僅かに存在するリスクを極大評価していることに気付かず、至極真っ当な論理と思い込み、非科学的に妄信してしまう。100の安全性データがあっても、1のリスクで安全性はゼロと断じてしまう、勝手論理なのだ。

この状態に陥ると、何も前に進めることが出来なくなる。回避行動として、タブー視し語る事を憚り、隠蔽などの悪循環に至る可能性がある。これは悪循環であり、左上の状態を他に多数発生させる危険性がある。また、この状態は、論理的には手が打てず、社会不安状態となり、人心を扇動する独裁者が現れやすい社会環境でもある。

<不安状態を回避するには>

民間企業の事業、サービスの場合、基本的に右上の状態でないと成立しない。安心を勝ち取らないと、需要が無くなるからだ。例え、左上の様な不安全で安心となっても、いずれ発覚し、その時の信用の毀損はとてつもなく大きく、余程の悪徳企業でもない限り、この象限には向かわない。右下の状態の場合、安全性を強く訴えるだろうが、理解されない場合、市場が受け入れなかったとして事業撤退の選択となるので、ここも継続的に存在しえないのだ。

しかし、国家事業や行政となるとそうはいかない。事業撤退など出来ないからだ。だから、何が何でも説明し、安全である事を納得してもらう必要がある。逆に言うと、政局的にも攻め所であり、政治利用は激しくなりがち。同様に、政府を監視する使命を自負するメディアも、ここぞとばかりに不安を煽り、視聴率を稼ぐ。結果は最悪の社会不安状態でしかなくても関係ない。

この危機的な不安状態に陥る事を防ぐ方法はあるのだろうか。煽るなと言っても、止めるはずもなく、法的な縛りを設けようとしても、煽りのネタが増えるだけで、激しさを増すだろう。与党を追い込む絶好のチャンスとして、結果の責任も持たないで、野党の攻撃が増すだろう。本来危機的な不安状態では、与野党関係なく、メディアも含めて、緊急事態という名に相応しい協力体制で国難に向かうべきだが、現実はそうはならない。

本質的には、民主主義で選択された政権を信じ、委ねるべきである。しかし、これだけ政権とは別に不安を煽る構造が充実していれば、弱い人間は次の選挙まで待つという余裕もなくなり、不安が爆発してしまう。人間は、精神的に弱い動物だ。本能的、動物的な危機察知よりも、精神的な脅し、脅迫に弱い。命の危険、財産の危険などで不安を煽れば、論理的には理解出来ていても、意味不明の不安を抱きやすい。継続的に不安が高まれば、いつの間にか、論理も拭き取んでしまう。

そうすると、最後の砦は、国民一人一人であろう。個々人が責任を持った思考回路を働かせ、論理的に、是々非々で判断する責任が重大となる。本来、民主主義とは、例え間接民主主義であろうとも、一人一人が有権者として政権運営に責任を持つ。その為の選択の手段として選挙がある。

世の中、ゼロリスクにはならない。リスクがある限り、少なからず不安も生じる。確率が低かろうとも、当事者になった場合は、それは自身にとって100%の事実なのだから、不安を持つのは仕方がない。

結局、不安な事は、安全性の論理的、科学的、そして客観的考察によって和らげることしかない。それでも、不安全であれば、少しでも自身が安全に向けて出来る事を考えて実行するしかない。出来ない事を、あれこれ悩んでも、不安が増すだけで、何も良くならない。あくまで出来る事を一つ一つ着実に実行するのだ。そのプロセスが、前向きなモチベーションにもつながり、不安も解消していくという正のスパイラル効果も期待できるのだ。

国を動かす、32県知事の要望

3月17日にGoToトラベル事業の段階的な再開に関わる国への緊急要望が32県知事より提出された。これに対して、赤羽国土交通大臣は、『再開は簡単ではない』として、当面再開は出来ないとしたが、32知事の訴えは、一定のメッセージとして届いたのではないだろうか。その要望の要旨を抜粋すると、

・感染状況が落ち着いている地域では、独自に宿泊割引等の観光需要の喚起を行っているところであるが、これまでにクラスターが発生したとの報告はない。

 ⇒宿泊等の観光事業喚起と感染拡大には相関関係が無い事実を語る

・地域の観光需要喚起に有効な「GoToトラベル事業」の早急な再開

 ⇒地方の観光需要喚起(GoToトラベル再開)を要望

・まずは感染状況が落ち着いている県単位で早急に「GoToトラベル事業」を再開

 ⇒方法論として、具体的にリスクの低い所から徐々に再開を提案

・観光関連事業者の経営は極めて深刻な状況にあり、回復には相当の期間を要する。

 ⇒地方経済の根幹を支える事業の困窮を説明

・また、段階的に対象エリアを広げた場合、地域間に不公平が生じるおそれがある

・6月末とされている「GoToトラベル事業」の実施期間を大幅に延長する

 ⇒徐々に再開した場合のリスクを提示し、解消策まで提案

前向きな提案実施で、要望そのものは却下されたものの、観光事業者への支援策の検討を急ぐという約束を勝ち取った。

ビジネスの世界でも参考に出来る、上手いやり方だろう。あくまで前向きな提案、そして、想定リスクに対しても具体的に打つ手の可能性まで用意しているのが、相手を説得し、動かせた成功要因だろう。

ところで、32知事という事は、全知事ではないのだが、どういうメンバー構成なのだろうか調べてみると、頷く点と、驚く点の両面があった。

頷く点は、外れた都道府県だ。当然だろうが、現時点で緊急事態宣言中の1都3県含め、解除されたとはいえ緊急事態宣言の対象となっていた、東京・神奈川・埼玉・千葉・栃木・愛知・岐阜・大阪・兵庫・京都・福岡の11都府県。まだその時期ではないだろうという判断は理解できる。加えて、北海道・沖縄も現時点の感染状況、今までの感染拡大経験を踏まえて慎重になるのも分かる。

驚いたのは、宮城県だ。GoToイート再開の影響だろうか、感染拡大状況にあり、独自の緊急事態宣言を出さざるを得ない状況だが、32県に名を連ねているのだ。確かに、GoToトラベルは感染拡大との因果関係は無く、GoToイートは確証までは無くとも因果関係はありそうな状況で、GoToイートは止めて、GoToトラベルを再開と言う、極めて合理的な判断とも言えるが、県民感情的に大丈夫なのだろうか、と心配になる。

そして最後に意味不明が、名を連ねなかった、島根・徳島の2県。両県とも、感染状況は落ち着いていて、地域経済も疲弊しているだろう。島根県は、聖火リレーボイコット、五輪反対まで持ち出して、地域経済支援を要望していたはずだ。地域選出の国会議員に窘められても政府に反旗を翻した形になっているが、それでは結果を引き出すのは難しいだろう。徳島はなぜなのだろうか、聞こえてきていない。

32知事が勝ち取った支援は全地域に対して差の無いものにはなるだろう。しかし、人が動かす組織である限り、何らかの心情面が目に見えない形で差となる事もあり得る事を認識しているのだろうか。それをカバーする別の動きはあるのだろうか。

女性タレント容姿侮辱問題は、禁じ手である悪質な魔女狩り?

東京オリンピック開会式などの演出の統括役、佐々木氏が辞任に追い込まれた。

最初は、文春オンラインから『女性タレントの容姿を侮辱するような構想』『豚を意味するピッグを五輪とかけて女性タレントが扮するアイデア』と発信したとの事だった。ここだけ、摘み取れば一発アウト、弁明の余地もなく、現状認識も出来ない不適切な行為と非難されるべきだ。

しかし、徐々に全容が見えてくると、逆に違和感を感じざるを得なかった。

まず、この女性タレントとは国際的にも活躍中の渡辺直美さんだ。果たして、当の本人はこの演出が万が一採用されたとしても、侮辱されたと受け取るのであろうか。彼女の芸風は、周知のごとく、容姿の特徴を前面に出したものだ。それを否定するのだろうか?

アホの坂田(古い?)に対して、アホ扱いする企画は、本人を侮辱するものだろうか。寧ろ、『ご馳走様』と受け入れる事で見ている人の笑いを取るのではないだろうか。一般人をアホ扱いして侮辱するのとは、全く意味が違うぐらいは理解出来るだろう。

確かに、これが一般女性やシリアス系の女優に対しての企画であれば、侮辱と受け取られる事もあるだろうが、あくまで本人次第ではないだろうか。芸の幅を広げると受け取る人もいれば、自分の像が崩れると拒否する人もいるだろう。渡辺直美さんの場合、『ご馳走様』側ではないのだろうか。

彼女のコメントが発表され、非常に練られた、当たり障りのない発信が為された。

その内容は、『見た目を揶揄されることも重々理解した上でお仕事をさせていただいている』『今まで通り、太っている事だけにこだわらず渡辺直美を表現していきたい』『それぞれの個性や考え方を尊重し認め合える・・』などだ。

タレント渡辺直美の個性を踏まえた時に、この企画案を蔑視と断定することが個性を認めたことになるのだろうか。逆に個性、別の言い方をすると芸風を否定する事になっていないのだろうか。いつ、自身の芸を自虐的で女性蔑視に当たるとの攻撃を受けるかもしれないと、恐れるのではないだろうか。

演出側も、この騒動で渡辺直美を同様のキャラとして今後起用しにくくなる。それは女性蔑視といつ攻撃を受けるか分からないからだ。ひょっとすると、ゆりやんレトリィバが自分に役が回ってくるチャンスだと感じて、また太ろうと思っているかもしれない。

次に、この案は、1年前の案出しの段階でメンバーからの非難を浴び、即却下され、不適切だとの認識を持ち、メンバーに対して謝罪までされている。ある意味、内部情報の没情報である。この種の内部情報は極秘扱いのはずだ。間違いなく、秘匿義務を負った人間が情報漏洩したことになる。こちらの方が本質的には大問題なのだ。

この秘匿義務違反を犯してまで情報流出させるのは、明確な意図があると考えるのが普通だ。あくまで個人的な想像ではあるが、佐々木氏潰し、もしくは、五輪潰し、その両方の場合もあるだろうと感じるのだ。これは悪質な禁じ手であろう。

渡辺直美さんのコメント『それぞれの個性や考え方を尊重し、認め合える、楽しくて豊かな世界になれる事を心より願っております。』が魂の叫びではないだろうか。筆者自身も、その様な世界を切望して止まない。

アイヌ差別発言問題で考える日本における差別問題考

3月12日の日テレ『スッキリ』の番組中で発生したアイヌ民族への差別発言が問題になっている。

発言自体は、なぞかけの言葉遊びの世界であり、当の本人に悪気は無かっただろう事は容易に想像できるが、人を犬呼ばわりする表現は、歴史的事実が無くとも、侮辱されたと受け取られても言い逃れできないだろう。ましてや、歴史的に、和人による支配構造で飼い犬と表現されていた事例などを知っていれば、冗談で済ませられない事は理解できただろう。

言葉遊びのレベルでは、筆者も、『お前のその服はタダ(多田と無料をかけて)か?』と子供の頃よくからかわれた経験があるが、私自身全く気にしなかったので大丈夫だったが、この手の冗談でも受け手によっては、傷つくこともある。許されるかどうかは、相手次第だろう。逆に言うと、公共の電波に乗せた発言としては、多数相手への発信であり、相応しくないとならざるを得ないかもしれない。

しかし、この種の禁句は、無数に存在し、その一つ一つを規制する事は困難だろうし、現実的ではない。従って、ある程度の発生リスクは存在するが、発生した都度、相手を傷つけてしまった事実に対して、丁寧に謝罪する事で対応する以外にないだろう。

一方で、歴史的背景がある等、根が深い問題で控えるべき表現は、本来放送禁止用語などで明確に定義されるべきである。放送禁止用語として明確に定義されている差別表現には、厳しいチェックが出来る。そのチェックにかからず、発信してしまった場合は、前述の言葉遊び以上の責任追及と再発防止策が要求されるだろう。

その様に考えると、今回の事案は、どちらに該当するのだろうか。

発言した当人は、反省の意を示し、謝罪し、今後勉強して償う行動、出来る事があれば対応する趣旨の発信もしている。他意もないことから、個人的には、謝意を受け入れ、雨降って地固まる、で前者の対応で良いのではないだろうか、と感じる。歴史的背景を熟知していれば、教育されていれば、との言質も多いが、それらは、感覚論、感情論に感じる。原理原則の差別問題教育は必須としても、個々の事例、事案の教育は言い出したら際限がなく、その全てに臨場感を以って網羅する事は現実的には不可能だろう。

しかし、日テレは放送事業者として、後者の観点の対策も必要ではないだろうか。確かに、今回の表現は、明確に定義できてはいないし、定義できる種類でもないだろうが、それが責任を逃れる理由にはならない。そこは、一般的な品質保証で必要不可欠な、発生原因と流出原因の観点が必要であり、この場合、流出原因対策が必要なのである。放送事業のプロとして、録画チェックなど、防げなかった原因と再発防止策の説明責任を果たす必要があると考えるべきだろう。

<日本における根深い差別問題の元凶>

差別問題は日本でも現実に存在する。しかし、諸外国のそれと比較すると、異質でレベル感が異なるのも事実である。

私自身の少年期を過ごした住環境は、近くに同和問題の地区もあり、在日韓国・朝鮮人問題の地区もあったので、日常生活、友人関係の中で差別問題が身近に臨場感を以って実感できた。そして、学校の同和教育だけでは、自分事としての臨場感は持てないだろうとも確信している。その証拠に、その後関東地区に転勤で引っ越した際には、周囲にその様な臨場感が感じられなかったし、同年代の人との会話でも、ピンと来ていない様子だったのが印象的であった。知識はあっても、現実感を持っていないのだ。

現在の教育では現実の臨場感、問題意識を醸成する事は困難なのだろう。諸外国では、今もなお、現実に目の前で臨場感を以って差別が行われているのと比較して、ある意味、過去の知識に風化している傾向がある。それ故、知識不足を問題として、教育を対策とするのは必要条件かもしれないが十分条件にはならず、本質的な解決にならないだろう。

アイヌ問題にしても、自身の生活で直面する事は少ないだろう。同和問題も教科書で知識はあっても、実生活での実感を持っていない人が多いのではないだろうか。良い意味で同化し、差別が解消され、風化しているのであれば良いが、臭いモノに蓋をしている事が問題なのではないだろうか。それが諸外国の様に差別が分断も生み、暴力的な社会問題化して、蓋など出来様がない状態とは、違う環境であり、対処は異なる必要がある。臭いモノに蓋の問題は、寧ろ被差別者側からすると、暴力的ではなくても、根が深い問題かもしれないのだ。

即ち日本的な、問題意識を口になかなか出さない、タブー視して発言を憚る事自体が、問題を根深くし、解決から遠ざけていると言うべきだと思う。

<日本人のメンタリティに潜む課題>

欧米社会において人種差別は今でも根深く存在している。日本人も黄色人種として差別の対象であった。『イエローモンキー』『ジャップ』などと侮蔑されて来ていた。しかし、日本国内でその様な差別に対して大きな問題として提起している訳でもなく、赦しの心情、寛容な感情で乗り越えているのが実態だろう。それ故、ユダヤ人に対するホロコーストは国際問題視されるが、日本に対する東京大空襲や2度の原爆投下は、差別問題としては語られておらず、事実検証上疑わしい、南京大虐殺や慰安婦問題、戦時労働者問題等は糾弾され、自虐的反応すら続けている。ある意味日本人は、差別を受ける際も、差別をする際も、鈍感で、いい加減で、お人好しなのかもしれない。

実は、今回の問題を提起する記事をいくつか読んでいて感じたのだが、アイヌ人に対する差別を語りながら、平気で『倭人』と表記しているものも複数存在していた事に違和感を感じざるを得なかった。

諸説あるかもしれないが、『倭』とは中華思想による差別表現であると言っていいだろう。歴史資料として残っている表記であれば(例えば『魏志倭人伝』等)、その通りに記述するべきだが、一般的には差別待遇を乗り越え、独立して勝ち取った『和』という表記が適切ではないだろうか。皆、寛容なので問題視しないが、『アイヌ人』との対象で『倭人』というのは極めて不適切な表現なのである。

筆者自身、前述の被差別地区の方々とも普通に交流もあり、友人関係もあった。その様な関係で、差別の問題もタブーではなかったし、逆差別の問題も話していた。その方が臭いモノに蓋をして臨場感を失うよりも、よっぽど差別問題は解消に向かうと確信している。

即ち、知識の共有は必要だが、それ以上に重要なのは、タブー視して腫物に触る対応を続ける事を止めて、喧々諤々と議論を戦わす事ではないだろうか。時には、度を越えてしまい、誤って相手を傷つけてしまうことがあっても、言うべきことを言って、誤解に対しても誠意を以って認め謝罪しつつ、最終的に分かり合える環境が必要であり、本質的解決に近づくことは間違いないだろう。

また、アイヌの文化の様に、文字を持たず、それ故記録も乏しいが、口伝伝承し継続してきた文化背景、メンタリティを研究する事は、実は日本の根深い問題を検証する為に有効かもしれない。

なぜ恐れる? 変異株

連日の様に、新型コロナの変異株を脅威と言われ続けている。変異株は何が脅威なのか?その事を理解せずに、危機感のみ殊更喧伝されるのは、極めて非科学的な感情論に過ぎないのだが、最近顕著な現象として、多くの人が思考停止し、盲目的に信用することで多数を形成し、排他的に異論を排除し、相手にしない傾向も現れている。信じて主張する当の本人は、正義と信じているのだから質が悪いのだ。この現象は、国家としてコロナよりも危機的であり、警鐘を鳴らし続けたい。

まず、コロナウイルスはRNAウイルスであり変異しやすい。そして、変異が検出されたのは、今回が初めてではない。少し振り返ってみよう。

昨年、一般的に第1波と言われる感染拡大で緊急事態宣言に繋がった3月中旬から始まった感染拡大は、欧州株である。それまで主流であった武漢株が3月初め頃収束に向かい置き換わったのだ。

欧州株は日本に2月下旬から上陸を徐々に始めた。そして、収束に向かう武漢株と入れ替わる形で、感染の主流となり、変異で高まった感染力を背景に、感染の拡大が発生した。変異株が上陸してからおよそ1か月以内に拡大したのだ。

次に、緊急事態宣言後、欧州株が収束状態になり、入れ替わって東京株による感染が拡大し始めている。この感染拡大は、筆者としては独自の説を唱えているが、それはさておき、夏に向けて感染波が生じた。

この様に、日本では、ダイヤモンドプリンセス号、武漢株、欧州株、東京株と変異株を経験している。そして傾向から見ても、同時に多種の変異株が流行するのではなく、入れ替わっていく事も見て取れる。一般的に、ウイルスの変異とはそういうもので、同時に異種が流行ピークを迎える事は無いのである。思い起こして欲しいが、インフルエンザでも、A型とB型は同一シーズンに流行すると言っても、入れ替わる様に流行が遷移している。同じなのだ。

変異株が国内に上陸したのは、昨年末であり、それから2か月以上経過している事と、一旦収束状況にある現在、既に一つの変異株に入れ替わっていても何ら不思議ではない状況である。しかし、未だ複数の変異株が併存していて、拡大の顕著な兆候もない。

即ち、変異株は、警戒は必要かもしれないが、少なくとも日本では脅威を感じる状況ではない。勿論、今後も変異は繰り返されるのは自然現象であり、追跡調査は継続強化するべきだろうが、変異イコール脅威と言うのは言い過ぎだろう。

そもそも、ウイルスの変異とは、ウイルスが生存していくために起こるのであり、宿巣との共存がなければ生存できない宿命上、感染力が上がれば毒性は低くなる。逆に、毒性が強まれば、感染力は下がるのが自然の摂理である。感染力が高く、毒性も強くなれば、宿巣である人間を絶滅させるため、ウイルスも生き残れないのだ。

今後、再感染拡大は起こるだろう。定期的な波を描く事は自然の摂理である。その時期の考え方は複数ある。一つは、既存の株が変異株に置き換わるタイミングだ。もう一つは、何らかの自然現象、例えば時期に起因するタイミングだ。前者であれば、いつ拡大してもおかしくない、否、既に感染拡大して置き換わっている筈なのだ。これは、変異株恐れるべからずと言っても差し支えない。後者の場合、昨年の欧州株の拡大時期、即ち間もなく拡大を示し始める。この場合は、自然現象として一定の拡大はあるだろうが、本来『まん延防止等重点措置』策をタイムリーに打って対処すれば良い。

そうやって考えると、緊急事態宣言は延長すべきではなかった。本来だらだらと長期間実施するべき策ではなく、解除しておいて、変異株の状況を観察し、適時『まん延防止等重点措置』を武器に使えば良かったのだ。複数の変異株が併存して置き換わっていない現実からも、感染が本当の意味で蔓延しているとは言えないのだ。蔓延していれば、各株が市中で遭遇し淘汰されていくと考えて良いだろうからだ。

筆者の論考は、客観的事実関係(事実を示すデータ)を基にした考察が多く、所詮帰納法的な論考に過ぎないとの非難もあるかもしれない。しかし、演繹法的な論考で結論を得ることは、この様な混とんとした状況では困難であり、寧ろ先が見えない状況では、演繹法的な考察に拘ると、現実を無視した誤りに陥るリスクが高い。

現実の数字を、客観的に、比較評価して初めて事実が見えてくるのである。もし、この数字がインフルエンザのものなら、今年の流行は低調であったと評価される数字で、脅威を感じる方が奇怪なのだ。

コロナ禍で進展するDX(デジタルトランスフォーメーション)、活かすも殺すも日本人のマインド改革がポイント

<日本社会はデジタル化後進国である>

日本のデジタル化が遅れている事は、昨年からのコロナ禍で誰の目からも明らかになった。

ナショナルID(※1)は先進国で普及できていないのは今や日本ぐらいだ。日本も今まで複数回トライし頓挫してきた。現在ラストチャンスとしてマイナンバー利活用を目指しているが道半ばである。

感染者数などのトレーサビリティも未だ不充分で、FAX手入力が残存し、データのリアルタイム性や正確性に課題を残している。

スピードが要求される環境下でも、未だに重厚長大なウォーターフォール式開発の発想が捨てきれず、要求品質とスケジュール感がアンマッチした様なシステムトラブル(COCOA等)が増えている。

振り返ってみると日本では、『ものづくり』で最先端を行き『ジャパンASナンバー1』と言われた時代以降、バブルが崩壊し、ロスジェネ時代を経ている内に、諸外国のデジタル化の進展に取り残されてしまい、生産性も低い国になってしまっているのが現実だ。

かつては、グローバル企業として多くの日本企業が君臨してきたが、今や日本企業の影すら見えないのが実態だ。

<コロナ禍は、デジタル化推進の絶好機>

一方で昨年からのコロナ禍の影響で、否応なくデジタル化は進んでいるのも事実だ。数年前から課題となっていた『働き方改革』の一つの回答になる様に、リモート業務が急増している。

筆者自身、多くの移動を伴う業務都合から、移動時の効率を考えたサテライト業務など、予てからリモート対応が日常的であったので、移動が激減しただけだが、多くの人には、根本的な仕事の有り方すら考える変化があっただろう。

この変化がもたらしたものは、『物理的距離の短縮』『物理空間の狭小化』なのだ。

歴史を振り返ってみると、16世紀のマゼランに始まる大航海時代、18世紀の蒸気機関発明による欧米の世界進出、20世紀後半のインターネット普及など、物理的距離を縮める事で、世の中に大きな変革をもたらしている。

21世紀の今、AIや5G、ブロックチェーン(※2)、その先の量子コンピューティング(※3)などの影響は計り知れなく、所謂DX(デジタルトランスフォーメーション)(※4)が時代の潮流になる事は間違いない。

例えば、都心一極集中は必要なくなるのだ。日本国中、どこにいても、仕事の効率が変わらなくなり、場所の概念が無意味になり、移動ロスが極小化する。結果として生まれる時間が更なる消費を拡大する。

その昔、グローバル化が叫ばれた当初、『グローカル(※5)と言う名で地域活性化、地方のグローバル参画の戦略性が語られたが、産地直送程度と成果は限定的だった。今回のDXは、それこそ地方にとっては千載一遇のチャンス、ものづくり企業にとっても新たなイノベーションを生み出す絶好のチャンスなのだ。

そう、DXとは決してデジタルだけで成立するものではなく、デジタルとアナログの融合、バーチャルとリアルの接点にこそ本当の活路が見出せるのだ。地域特性も活かしながら、ものづくりのノウハウを活用し、デジタルを利活用する事が、新たな価値を生み出し、生産性を向上させるのだ。

<日本社会に根強く巣くう課題>

但し、日本がこれまでデジタル化に関して後れを取った反省に立脚しないと、このチャンスは掴めないだろう。では、何故デジタル化は遅れてしまったのか、考察してみたい。

一番大きな原因は、デジタル化しなくても困っていない、裕福で満足しているからだろう。

デジタル化で大きな進歩を遂げた代表格は、エストニア、東南アジア、韓国などだが、これらの国は、デジタル化は国家存続の至上命題の様に、国家も国民も志向し取り組んだのだ。社会システム自体が成熟しておらず、殆ど白地からのデジタルインフラ構築、国家の命運をかけた取り組みだったのだ。

片や日本の場合、既に存在する重厚長大なレガシーと言われるインフラが存在し、まがりなりにも機能しているので、敢えて載せ替えるモチベーションが産まれ難いのだ。

そして、何といっても大きいのが、ゼロリスク信仰の強さではないだろうか。

日本人の行動心理を諸外国と比較する際に、昔からよく使われた例えに、コップ半分の水をどう考えるかがある。日本人の傾向として、コップ半分の水に対して『あと半分しかない』『もう半分だ』と危機感を募らせ、後ろ向きになり、守りに入りがちだ。しかし、グローバル標準は、『まだ半分も残っている』なのだ。この差による結果は、天と地ほど異なる事は、自明だろう。

例えば、ナショナルIDだが、間違いなく個人情報のリスクを過大評価し、適切なセキュリティ対策にも非論理的に耳を貸さず、ゼロリスクを盾に前に進む事を拒み続けている。

個人情報管理は元来、欧州の人権問題意識から発し、OECD8原則(※6)の元、様々な制度と対策を構築し、現在ではGDPR(※7)と言う保護規則を定め、欧州域内のリスク管理体制が確立されている。知っておいて欲しいのは、日本も安倍政権時に、このGDPRの十分性認定(※8)を受け、国際的には個人情報管理体制の確立は認められている。しかし、未だに『マイナンバーカードを落としたらどうするんだ』と無知な質問が繰り返されている。

また、システムは絶対でなければならないと言う、古い信仰が、スピード優先し、試用しながら柔軟に仕様変更するべき事案に対しても、リスクゼロ化を求めるという根本的矛盾による無理がCOCOAの様なトラブルを招いている。

<今こそチャンスを活かすべき>

首都圏で進展するDXは、所詮申し訳程度で最低限に留まる可能性が高い。『物理的距離の短縮』の御利益を得るのは、首都圏ではなく地方である。地方は創生の為に、必要に迫られる環境ではないのだろうか。

例えば、東京五輪と言いながら聖火リレーは全国規模のイベントだ。人が集まるのを恐怖と感じるのなら、バーチャルも並行すればよい。海外からの観客を受け入れないのであれば、その代わりに、バーチャルでご当地を走ってもらうのはどうだろう。リアルの走者の横をバーチャルの走者が走る。アバターでも良い、障碍者でも元気に走れる、パフォーマンスを披露してもらっても良い。全世界参加型の聖火リレーなんて、今までにない概念、大会の一体感を演出できるのではないだろうか。

当然、その中にご当地名産や観光スポットなどの紹介も織り交ぜれば絶大なる宣伝にもなる。新たなビジネスチャンスにも繋がるだろう。

3月25日にその様なシステムは間に合わないだろうが、それでも良い。当初はリアル中心になりながら、アジャイル開発でバーチャルを徐々に組み込み、改善しながら、進化する聖火リレーとして演出すれば良い。当然ながら、開会式や閉会式も同様だろう。

五輪以外にも、ものづくり企業、中小企業は事業拡大、生産性向上の好機である事は間違いない。無限の可能性がある。

この好機をつかむポイントは、『まだコップの水は半分もある』という、ポジティブなエネルギーなのである。

※1;ナショナルID;国民を確実に認識し、国民であることを確認できるデータベースシステム、国民に対して公. 正で公平な行政サービスが実施できる。

※2;ブロックチェーン;分散型台帳とも呼ばれ、高度なセキュリティ要求に対応する基盤技術

※3;量子コンピューティング;従来の0or1判定に加え、3段階にすることで、計算速度が飛躍的に向上する技術、スパコンで1万年かかる計算が数分で可能になる。

※4;DX(デジタルトランスフォーメーション);デジタル技術による業務やビジネスの変革

※5;グローカル;地球規模の視野で考え、地域視点で行動する(Think globally, act locally)」という考え方

※6;OECD8原則;個人情報保護の共通した基本原則、1980年に採択され、現在もグローバル・スタンダードである

※7;GDPR;EU一般データ保護規則。EU域外でも広く影響ある、個人情報保護の規則

※8;十分性認定;EU域外の国や地域の個人情報保護が水準を満たしていることを欧州委員会が審査認定する。EU圏とのビジネス交流には必要不可欠である。

Noの論理よりYesの発想

<現状認識>

昨年からのコロナ禍で、朝・昼のワイドショーにおける『Noの論理』のオンパレードが、在宅勤務が中心になり否応なく耳に入ってきた。

朝から晩まで、徹底的に流される偏向情報に多くの国民がサブリミナル効果を受けているのか、余りにも感情的な言動も多く聞こえてくる。他の意見や現実に出ているデータすら見ざる聞かざるで、陰謀論まで展開し、自己の主張を絶対正義と押し付け、異論には暴力的に誹謗中傷まで展開する。両論あるのに、持論に決まっていると非科学的に断定し、両極端に分断が進行している。

元々、日本人は、コップ半分の水を『もう半分しか残っていない』と直ぐに悲観的になって守りに入りがちだ。グローバル標準は『まだ半分もある』と前向きに、半分の資源を使って次の打開策を進める。外圧や上からの指示には、Noと言えない日本人だが、じゃあやってみろと言われても、後ろ向きで自らは踏み出せない傾向がある。

この様な状態でもパレートの法則に則り、前向きな少数が全体を牽引出来ていれば良いが、後ろ向きでマジョリティが形成されてしまうと話が異なってくる。どうも最近の世論形成は、『Noの論理』に支配され、所謂悪しきポピュリズムを生み出す方向に舵を切っている様に感じる。

この事態を目の当たりにし、このままではとんでもないことが起きる。自分に何が出来るだろうかと考えさせられ、偶々、定年に向けてカウントダウン、第二の人生を本気で考える段階でもあり、一念発起、個人事業としてLogINラボ(屋号)を立ち上げ、一石を投じたいと考えた。まだ、この先何が出来るかは、暗中模索状態ではあるが、何か役に立てはしないかと日々考えている。

<回顧録>

思えば、私の人生は波乱万丈と言っていいだろう。『Yesの発想』なくして今の状態はなく、『Noの論理』に絡めとられたら、前進は出来なかっただろう。小学生まで身体が弱く虐められていた少年が、小中高と体育会系でトップとは言わないが、一端のアスリートには成長できた。進路指導の先生に100%不可能と言われた受験を成功させた。社会人になってからも、結果を妥協無く追求する事で、多くの敵を作りつつ、修羅場を乗り越え、成果も人一倍出してきたと自負している。Noという選択肢を持たず、否、歯を食いしばり常にYesと前を向いて、多くの火中の栗を拾ってきた。

新会社の代表職、伸び悩む新事業の製造部門長、日本中物資不足・サプライチェーンが破綻した東日本大震災時の調達部門長、国家の威信をかけた最後のチャンスである国家プロジェクトの受注生産部門のトップ、など、どれも修羅場であった。『Noの論理』に絡めとられる反対勢力と対峙し、組織を活性化し、一定の成果を挙げてきた。

<『Yesの発想』は最も楽な道の選択>

人は精神的に弱い動物で、危機を感じると守りに入る。守りに入った時に、次の前進を前提にすればまだ良いが、前進しない自分を正当化し、後ろめたさを覆い隠すための論理武装を始める。そして、いつしか、当初正当化した後ろめたさを忘却し、前進しない事が正義と本気で信じる様に変化していく。この負のスパイラルは質が悪く、本人は正義だと信じて疑わない。

そして、負のスパイラルは人に伝搬しやすい。脱出しようとする者には同調圧力をかけて、時には暴力的に反対行動を起こす。正義の名のもとに。どこかで、このスパイラルを打ち破り、前進に転ずる事が出来れば、結果は天と地ほど違ってくるのだが、そう容易くない。

私の経験から言おう。『Yesの発想』で前進する事は、一見難しく感じるかもしれないが、一旦ポジティブチェンジが出来れば、実はネガティブ状態より遥かに気分は楽になる。確かに責任は重くなるが、失敗したところで命までは取られないし、皆がNoであれば、失敗してもNoの状態のまま、失敗しても当たり前、マイナスは無い。一方、Yesに転じる事が出来れば大きな成功の果実が得られる。実は、負けて当たり前の状態は、それ以上悪くなることが無い、気楽な状態なのだ。

今、世の中がネガティブに染まり、『Noの論理』が跋扈する状況で、一人でも多くの人が負のスパイラルを断ち切る事が出来れば、日本は凄まじい発展を遂げる事が出来るはずだが、その為に必要な要素は何だろう。それは、そこいら中に転がっているオープンデータを元にして統計データ分析をベースとした、ロジカルシンキングによる真理の追及だと確信している。

<世の中に前向きな成果をもたらす>

真理は一つしかない。しかし、真理には人間如きがそう簡単に到達出来ない。だから、『Noの論理』を入り込ませる隙が出来る。しかし、『Noの論理』には必ず論理破綻、論理矛盾が内在する。それは、真理追及が目的ではなく、Noと結論する事が目的なので、論理がご都合主義に侵されるからだ。

『Yesの発想』も決して傲慢になってはならない。真理は一つでも、そこに至るプロセスには多種多様であり、考察の方向性も様々なのだ。決して、自身の分析・検討のプロセスは唯一絶対ではないことも知らねばならない。100人いれば、100の考え方がある。思想信条は人の数だけあり、それぞれに異なり、尊重されるべき。多様性に寛容である必要がある。

しかし、その100種類の考えから、前向きな『Yesの発想』を活かし、最大公約数を目指せば、大きな勢力となり成果に繋がることは間違いない。異なる意見にも耳を傾け、尊重しつつ、最善と思える意見を示し、粘り強く説得し続ける。継続に不可欠なのが、ぶれない論理性だろう。

『Noの論理』を振りかざし、ポピュリズム手法で、『煽り』『脅し』で扇動する方が簡単で多くの信任を得られるかもしれないが、それでは長続きしないだろうし、結果は悲劇的である可能性が高い。地道で粘り強い『Yesの発想』の追及と普及は、一朝一夕には拡大しないが、一旦定着すれば、根強く正のスパイラルアップを生み出し、大きな力に必ず成長していける。

『Yesの発想』を持ち続け、真理に近づく論理を軸に、小さな一石を投じる事が出来れば、この先の人生も充実できるだろうし、必ず前向きな成果を世の中にもたらすこともできるだろう。