ジョコビッチに対する批判集中だが果たしてその中身は

テニスのレジェンド、ジョコビッチ選手がオーストラリア入国を拒否され、全豪オープン第1シードの選手が棄権という事態に陥った。事は今年の全豪に止まらず、今後3年の全豪や他の大会出場も危ぶまれる状況である。一連の動向に、ジョコビッチ選手に対する批判も集中し、同じレジェンドのナダル選手は「ワクチン接種すればいいだけのこと」と言い放った様だ。

しかし、冷静に考えて、これらの批判は正当なものだろうか。ワクチン接種は義務化されるべきものではなく、個々人の事情を勘案する必要があり、個人の判断のはずである。全容を見ずの感情的な批判も多いのではないだろうか。

一方で、確かに批判に相当する部分も見えてくるが、それは正しく事実を見極めた上でなければならない。単なる誹謗中傷、良いがかりに近い論調が跋扈する風潮は健全ではなく、まずは事実関係を整理してみたい。

<ジョコビッチ選手がワクチン接種をしない背景>

ジョコビッチ選手は幼いころからいくつかのアレルギーを抱えていたとの事だ。プロになってからも試合で呼吸困難に陥るなど途中でリタイアする状況が続き、その後、グルテンアレルギーである事が判明している。

グルテンアレルギー対策として食生活を見直し、徐々に改善に向かった。2015年に執筆した本に、グルテンフリーの食生活を取り上げ、グランドスラムタイトルを獲得できた秘訣として食生活の改善だとしている。そして、その後のツアーでも、グルテンフリーの食事とトレーニング用具を準備していたという。

この様な原体験を持ち、アレルギー体質でもあれば、ワクチン接種を躊躇するのはある意味当然では無いのだろうか。

ここでジョコビッチ選手のワクチン接種に関する発言をいくつか取り上げてみる。

全米オープンにて

「ワクチンに関しては常に、それぞれ自分が打ちたいかどうかという判断が重視されるべきだと考えている。そこだけは崩さないでほしい」

ATPファイナルにて

「ワクチンのことだけじゃない。生きることの全てで、個人には選択の自由がある。それが豊かで幸せな人生に必要不可欠なものだと思うから」

フェイスブックのライブチャットでは

「僕はワクチンの接種自体を否定しているのではない。ただ、誰かが僕の体内に無理やり何かを入れるのは嫌だ。受け入れられない」

これらの発言を聞いて、「ワクチン接種すればいいだけのこと」と簡単に片づけられないと感じるのは筆者だけだろうか。

<入国拒否された問題事項>

オーストラリア・テニス協会は、大会参加、それにかかわるビザ発行はワクチン接種を前提としている。但し、過去6か月以内に感染歴があれば免除ともされており、今回のジョコビッチ選手の申請はこの過去感染歴を前提にしていた。

その感染日は2021年12月16日であった。しかし、そこから綻びが発生する。その感染経緯を確認してみる。

12月14日バスケットボール試合を観戦。これがクラスターとなる。

12月16日簡易抗原検査実施で陰性判定。同時に念のためのPCR検査実施

12月17日テニスのジュニアイベントに参加

12月17日イベント後にPCR検査陽性判定通知

12月18日雑誌インタビュー実施

17日のイベント参加は陽性判定前との言い訳はあっても、クラスターの所謂濃厚接触者であり、PCR検査も実施していた訳なので本来であれば結果が出るまで自粛すべきであったとセルビアの首相も非難している。そして、18日のインタビューに関しては弁解の余地は無い。

更にまずいのが、オーストラリア入国書類の過去14日間にどこにも旅行をしていない事を問われる質問に、していないと虚偽申請をしていた事が明らかになっている。

実際は、セルビアからスペイン(ジョコビッチ選手保有宅に3日滞在)を経由してのオーストラリアであった。スペインもワクチン接種証明書が入国に必要だが、どの様に入国許可が下りたのかは不明であり確認中の様だ。

ジョコビッチ選手は同書類をチームスタッフの人為的ミスであり意図的ではないと述べているが、果たして入国書類の不備がミスで済まされるものではないだろう。

ましてや、2021年6月にも自身開催のトーナメントで本人含むクラスターを発生させて批判を浴びており、今回の件も含めて信用が失墜しているのも現実であり、12月16日の感染17日の陽性判定も入国する為の虚偽ではないかとの疑惑まで発生している。

<ジョコビッチ選手に望む>

以上の様な事実関係から、最悪の場合テニス協会から何らかの処分の可能性すらある。テニスの1ファンとして、レジェンドをその様な事で失う事は何が何でも避けて欲しい。

その為には、ジョコビッチ選手には明確な説明責任を果たしてもらいたいと考える。

6月にクラスター発生させた事や12月の濃厚接触後の行動に関して軽率であった事、入国申請書類にミスとはいえ虚偽記載をした事実を含めて、自身の行動が軽率で考えが甘かった事を反省し謝罪会見を開き、テニス協会からの如何なる処分も受けると表明する事を期待したい。

その上で、ワクチン接種を躊躇する原体験を語り、同様の苦しみを持つ人達の存在も訴えるべきであろう。そうして自身の判断に対する理解を求めれば同様の選手達にも手を差し伸べる事になるだろう。これは危機管理、危機コミュニケーションの観点から望む事だ。

ワクチン接種免除は定められているとはいえ、現実には認められる例は僅かとの事だ。この現実に風穴を開けるのはジョコビッチ選手以外にないだろう。

体操のレジェンド内村選手が、世界体操時のPCR陽性判定に異議を唱え、再検査による陰性により偽陽性判定であった事を示し、無事世界体操開催に繋がった。これは、レジェンドでなければ、陽性検出、濃厚接触者判定で多くの棄権者を発生させ、大会が無事では無かっただろう。前例を突破し、改善する為には、その道の先駆者が支持される心情面も背景に勇気を持った行動を超す事で突破口が開ける。

テニス界の為、世の為に、適切な行動を期待する。

情報と金の問題2:メディアの再構築素案

『情報』を制する事が、民主的に優位に運ぶ最善策である事は疑い様が無い。『情報』は時には世論を動かし、国家権力である3権(立法・行政・司法)をも動かす力を持つ、即ち国家権力と並ぶ、時には上位になるポテンシャルがある。ならば、『情報』を扱う担い手であるメディアには、権力としての監視・牽制がなければ民主主義は独裁へと向かう危険性がある。

これは『言論の自由』を制限するという話では決してない。むしろメディアを監視・牽制する構造は、『言論の自由』を適切に保護する事にも通じるのだ。

現在のマスに属するメディアの偏向度合いは目に余るものがある。その実態はネット空間との論の幅を比較すれば明らかである。そこにはある一定の力、意思すら感じざるを得ない。

マスメディアの偏向疑惑が懸念される状況下でCLP問題や意味不明の報告と思われるコンテンツ攻撃など、一部の政治勢力・活動家などの勢力の動きが疑われている。『情報』の扱いに金の流れが伴った工作の懸念である。

歴史的には外交的妥協を模索する政府を、弱腰と非難し煽り続けたのがメディアであり、それに国民が扇動され好戦的な世論が形成され、クーデターも含めた実力行使もあり軍部が政府を動かし開戦に向かった。

歴史に学び、現状の偏向実態を鑑み、今こそ『情報』の担い手『メディア』を監視・牽制する法制度に舵を切り、新時代の民主主義の権力構造を模索するべきだろう。

<ネットメディアの処方箋>

ネットの特性上、『情報』の担い手としては、実は最も公平で両論併記、各論議論が可能な言論空間なのである。誰でも参加ができるハードルの低さ、尺の制限の緩やかさ、双方向性である事などが要因だろう。逆に弊害として、玉石混交である事、情報量の巨大さ故エコーチェンバーなどの受け手側の意図せぬ偏向による勘違いを生むリスクは高く、単独メディアの中で公共性を担保する事は困難である。

従って、公共性は政府発信のオープンデータなど裏付けが確かなものに限られるだろう。一方で公党や政治組織の情報発信は、より深い情報を対案との対比で示す事が可能なメディアとして有効である。

それ故、CLPが理念として掲げていた、公共性を民間のネットメディアに求めるのは困難である事を前提とするべきだろう。フェイクニュースという定義も立場によって都合よくレッテル貼りする傾向も強く、対峙すると言ってもその事で公平性を示している訳では無い。

そしてどの様な色が着いているか受け手が確認できる必要があり、その資金構成と編集方針を透明化し、資金やニュースソース、解説の方向性を明らかにする必要がある。ネットメディアであろうとも相応のお金はかかり、お金には大なり小なり色が付くのだから、金の流れ、構成を明らかにすることは透明性担保に重要な要素なのである。

つまり、資金の背景を明確にし、編集方針に加えて、編集者の思想信条も分かる様なコラム掲載などを義務付けし、どの分野でどちらの方向にどれだけ傾いているのか、透明化した上で、視聴者側が選択すれば良い。公平でなくて良い、偏向は当然、情報受信側がその事実を把握しておれば良いのである。そして、公開情報に偽りや、隠ぺいがあった場合に厳しい罰則が伴う法規制が必要だろう。スポンサーもその構造で集まる視聴者である前提で考え、企業イメージに色が付く事を理解して広告出稿するべきだろう。

ネットメディアはマクロで見ると実は最も健全化に向かうエネルギーを持っている。それもかなりのスピード感で。実は、ほんの数年前ネットの言論空間はかなりのレベルで左傾化していた。少し真っ当な発言をすると袋叩きにされる程酷い状態であった。それが現在はかなり改善されて両論、ウイング広い言論空間になっている。

これらの特徴を生かし、主要メディアに成長させるべく、制度改革を進めるべきだ。

<地上波メディアの報道に関する処方箋>

ワイドショーなども報道と位置付けた上で、ネットと同様に情報の傾き度合いの透明性が必要だろう。残念ながら、現在の地上波メディアは公平な情報、両論併記などの放送法の大原則を守っているとは言えない状況だろう。それなのに、公共性や公平性を掲げられているのは寡占状態が故であろう。

政府を監視し糾弾する事がメディアの役割との思想、筆者に言わせれば前時代的な思想の元、批判を目的とする批判に終始し、都合の悪い情報は尺の制限で省かれる。結果として、極めて偏向した情報になり、視聴者の正しく、客観的な情報を、様々な視点での議論を通じて、即時性と簡易性を伴って取得する環境を破壊している。そして問題が顕在化しても、寡占状態が故責任を取ることはなく、改善も為されない。

視聴率至上主義も、危機を煽り、政府を悪とする陰謀論を匂わせるエンターテイメントで部分的に稼げるだろうが、その事自体が若者のテレビ離れを促進させる事になっていると考えるべきだろう。

しかし、即時性と簡易性という長所は捨て難く、その事を活かしつつ、国家としての公共性や公平性を一定程度実現する再構築が必要だろう。

その為に、限られた国家資源である電波を使用する前提として、資本構成は外資を制限する必要があるだろう。情報を国家の権力の一つと位置付け、より世論形成力が強い即時性、簡易性を持つメディア、ある意味サブリミナル的な効果すら持てるメディアとして当然ではないだろうか。現行法制度にも存在するのだが、より厳格に、違反や虚偽、隠ぺいに対して厳罰化は必須だろう。

その上で、政府発信のコンテンツ、公党発信のコンテンツを明確に一定枠設ければ良い。それに関わる費用は一定程度税金で構成しても良いだろう。

<ぺーパーメディアは生き残れるか>

筆者の持論は、ペーパーメディアを決してなくしてはならないという事だ。もちろん、今の形態が良いという訳では無い。

ペーパーメディアの受け手側としての最大の利点は、全体感のイメージ把握、物事の重要性の大小把握、概要から詳細への検索などを極めて効率良くできる事だ。この同様の機能を他のメディアに求めるのは実は困難なのだ。

一方で日本の国益を損ねる国際問題を自ら火の無い所に煙を立てたのもこのメディアであり、日本の場合、電波系メディアの資本構成に漏れなく加わっている事も一旦偏向すると歯止めがかからない構造である事も大きな問題であろう。

更に、地方によっては地方紙の独占状態にあり、一定の方向性以外の『情報』が得にくい状態が発生している。これは『情報』を選択する自由の侵害に他ならない。

これらの問題を解決するには、まずは資本の独立性を担保する事だろう。同時に整理統合を進め、様々な資本の参入により情報のバラエティ性を高めて寡占状態を解消する。

そして個々の情報取得の選択性を高めるために、1紙だけでなく、複数紙のクリッピングをサービス化する事。個人の意思、思考で自動的に各紙から情報をセレクトし、パーソナライズされた紙面をオンデマンド配信する。技術的には各紙紙面をスキャニングOCR処理し選択した上で自動組版する。オンデマンドプリントが必要な場合は、郵便局インフラを利用しサービス化すればよい。著作権問題もクリア出来ない訳が無い。

更に隠し味として、偏った設定を個人がしても、ある一定レベルの公平性を保ったセレクトをシステム側で自動設定すれば、嗜好性を保ちつつ、両論併記、公平性のある対案も提供出来、地方インフラの問題での情報格差も解消される。

結論としてペーパーメディアはその利点を存続させる為に生き残らねばならない。その為に、デジタル化、サービス統合、資本再編は不可欠だろう。

情報と金の問題、メディアのスクラップ&ビルドが必要不可欠

Choose Life Project(CLP)というインターネットメディアに立憲民主党から約1500万円の資金提供があった件で、ネット空間は特大ブーメランと騒いでいるが、地上波メディアでは報道されない。その後の調査の結果、9億円以上の金銭がメディア関連や市民活動に流れている疑惑も浮上しており、全容は不明、というより第三者の調査でもない限り明らかにはならないだろうし、闇に葬ろうとしている様にも見えてくる。

地上波メディアは、Dappiの件では自民党の疑惑と騒ぎ立て、虎ノ門ニュースの動画を流用する等して、同ニュースより公開質問状が出される事態にまで至ったが、未だ無回答と聞く。そして、CLPに関しても沈黙。自己批判にも繋がりかねない故の沈黙と言われても仕方がない程のダブルスタンダードである。

メディアに公党から金銭が支払われる事自体は問題ではない。その費目は、宣伝広告のコンテンツ制作やコンテンツ発信、そしてスポンサーとしての支援等だろう。前者の場合は、党の名前が前面に露出されるし、後者でも名前が前面に出なければステルスマーケティング(ステマ)の疑惑が生じるので日本では違法ではないが(アメリカなど多くの先進国では違法)、基本的には避けるべきだろう。今回の場合、金の流れを代理店経由など迂回させており、隠蔽の疑いさえあるのだから、更に悪質との疑いがある。

そして、福山氏の発信を素直に読むと、「理念に共感しての支援」であり、当時メディア側発信によると「理念すらない」状態での立上げとあるので、CLP立上げ者の出身母体であるTBS報道特集の流れを汲んだメディアへの経営支援との疑惑が生じる。少なくとも資金援助により忖度は働くであろうし、番組内容に影響を及ぼすことはないという言い訳は通用せず、立憲民主得意の論調を借りれば、「忖度の無かった事の説明責任」いわゆる『悪魔の証明』が求められるはずだ。

そこは自省し、自身の行為を振り返るのならば、それは健全化の方向性として受け入れるべきだろうが、その兆候が見えてこないのは残念でならない。少なくとも説明責任を果たす事が最低条件ではないだろうか。

<メディアと金の問題>

情報に関わる不正な金の流れ、金を使って恣意的に情報を操作し、大衆を誘導しようとする疑いの行為は、それ以外にも数々指摘されている。

市民活動家への活動資金援助であったり、デモ活動を金で雇った動員で行ったり、テレビの街角インタビューで答える人が他局でも同一人物が繰り返しインタビューに答えているなど、やらせが疑われる事象であったりだ。

数々の疑惑があるが、全て金の流れを明確にして透明化すればあぶり出せる。

また、昨今のネット空間において横行する、異論の発信に対する『報告』攻撃での広告剥がし、最悪の場合BANというコンテンツ削除を目的とする行為。これが組織的な活動である疑い。もし、これらが組織的活動であれば必ず裏には金が流れている。

この場合は金の流れだけでなく、実際の『報告』という行為を公開条件にするか、少なくとも指摘する事由を明確にし、合理的な事由であることを前提としつつ、合理的と認められない場合、例えばユーチューブで人による審査で問題ないと判定された場合は公開されるなどの罰則を伴わなければ、再発を防げないし、公平性を欠く状態である事は間違いない。

政治と金の問題が未だに問題視され、多少なりとも違法性のある事案は発生している。本質的な問題は、金で政策の方向性を歪める行為が横行し、民主主義がエラーを起こす事だろう。その観点で冷静に考えると、メディアと金の流れの方が今現在問題性としては大きいのが現実ではないだろうか。それなのに、扱われ方は遥かに小さい。それは既得権益構造に対する抵抗勢力化しているからではないだろうか。

メディアとは、言わずもがなだが『情報』の担い手であり、『情報』事態が世論を形成させる大きな力を持ち、『情報』が民主主義の根幹を支える要素である。筆者はこの構造に対して『情報』を4つ目の権力と明確に位置付け、他の3権(立法・司法・行政)に加えて牽制する4権分立の法制化が必要と考えている。その入り口が金の流れを抑える事ではないだろうか。

その為には、「ネットメディア」「地上波メディア」「ペーパーメディア」毎にスクラップ&ビルドを前提とする大改革が必要だろう。

オミクロン株感染拡大は自然現象、そして自然に収束する

オミクロン株による感染拡大が日本でも始まった。筆者の第6波発生予測時期からおよそ半月遅れているが、やはり自然現象はその名の通り自然に発生した。

この半月のズレは、岸田政権による鎖国強化の影響だろうか。しかしながら自然現象である限り、総和としての結果に違いはないと考えるのが妥当であろう。半月ずらしたことで、その間に何か有効な準備が為されているなら別だが、今の所その様な様子は見えてこない。

そして、自然現象であるもう一つの要素、弱毒化も確実に進んでいる様だ。

WHOの発表が正しいとは言い切れない事は、これまでにも数々の実例が示しているが、とはいえ明確にオミクロン株の弱毒化を発信している事は注目すべきだ。デルタ株と比較して上気道に留まり肺炎などの重症化が発生し難く、入院率も低下するとの報告だ。

少し、疑問に感じるのが、デルタ株も昨夏の各国の報告では、おもな症状は「鼻風邪」レベルと言っていたのだが、更に弱毒化が進んだと認識するべきだろう。

米国首席医療顧問のファウチ博士もオミクロン株の重症化リスクの低さを公表しており、1日100万人の新規感染者を発生させている同国ではロックダウンなどの措置は不要と判断、多くの国がほぼ同様の方向性である。

しかし、米国と比較して3桁規模が小さい感染状況で、地上波メディアは挙って危機を煽り始めた。確かに、少しトーンダウンしているのかもしれないが、「不安」を連発しているのは間違いない。

一方で元医系技官の木村盛代先生は「感染を無理に止めるな」とミヤネ屋で主張した。

他にも同様の過剰対応を批判する専門家は多数存在する。しかし、メディアから聞こえてくる専門家意見の大多数は、過剰に恐怖を煽る方向に偏向している。その論に過去の反省や、実績データのフィードバック分析などの要素は一切なく、感情論が主流である。

むしろ、素人コメンテイターの方が違和感を発することがあるが、それらは完全スルーが基本である。

両論併記の原則、多様な意見による議論は今のメディアには不要らしい。異論は異教徒のもので、廃絶の対象なのだろう。

しかし、その状態に自らの自由を従順に差し出し、反論もせず、むしろ熱狂的な信者の様に感情論を展開する層が多い事が不思議でならない。

<変異が怖い>

変異はこの種のウイルスでは自然現象で日常的に発生しているコピーエラーである。その中から環境適合するエラーのタイプが存続する。強毒化してしまえば宿巣である人間の活動を抑制するので感染拡大は起き難い。従って環境適合の大きな要因に弱毒化がある。活動量の多い軽症者増で感染も拡大、ウイルスも生存できる。

この様に考えると変異は人間にとっても歓迎すべきなのだ。

間違えてはならないのは、所謂突然変異という部類の現象。これは、新型と言われる正にメジャー変異の部類であり、動物を宿巣とするウイルスが人間に感染する様に変異するなどだろう。

しかし、この種の変異を可能性で恐れるならば、現在の新型コロナに限らず、旧型コロナ、所謂風邪やインフルエンザでも恐れる必要がある。

新型と旧型では違うとの感情論も聞こえてきそうだが、そこに論理性はない。東京五輪を反対し、感染地獄とまで言い、他の国際競技と五輪は違うと感情的に強弁し、何ら数字や論理性が示せない人達を思い出す。

究極の可能性でリスクを語るのであれば、他の究極の可能性も同列でリスクとするべきである。そして、科学的な確率の数値、論理的な説明が必要だが、この2年間聞いたことが無く、未知が故の可能性の一点張りだ。これは非科学的ダブルスタンダードでしかない。

<ワクチンは安全だ>

ワクチン接種の重症化リスク低下の効果は間違いなく高い。感染後のウイルス増殖を抑制する獲得免役力として科学的に証明されている。

一方で、副反応やリスクに対しての評価は意見が分かれる。多くの接種推進派は接種リスクが僅かでベネフィットが上回ると論じている。しかし、ここに科学的数値、確率で示している例は極めて少ない。

そもそも感染によるリスクは、年齢や基礎疾患、肥満や喫煙など個人毎に大きく異なる。これに個々人の健康管理意識や環境条件を重ねると更に格差は拡大し、桁違いと言っていいだろう。

またワクチン接種の効果も永遠に継続する訳では無く、複数回継続接種が求められるというのが一般的だ。であれば、ワクチン接種のベネフィットは期間限定であり、リスクは接種回数に相関するのだ。

更に注意すべきは、リスクを評価するべき死亡率の中身である。現在示されている数字は感染者の死亡事例であって死因コロナだけではない。つまりリスク観点では、報告数字よりも低い評価が必要になる。

冷静に、ベネフィットとリスクを比較評価するべきであるが、それは個々人によって設定要素が異なり、評価結果は雲泥の差になる。だから、強制ではなく個人の判断とするべきである。他人にとやかく言われる類のものではない個人の健康観、リスク判断なのだから。

だからこそ、仏マクロン大統領の「未接種者うんざりさせたい」 の様な発言は決して許されるものではない。

<特効薬が無い>

新型コロナは未だ特効薬が無いから収束できないという声も聞こえる。

しかし、風邪の特効薬は存在せず、開発出来ればノーベル賞級と言われてきた。つまり、現在の風邪薬は対症療法であり根治薬ではない。新型コロナも同様であり、根治薬開発は困難だろう。いや、根治薬がもし開発されれば、それはウイルスと人類の共存関係を破壊する自然破壊の影響の方が筆者は恐れる。

ワクチンにより社会リスクは大幅に低下した、経口薬も開発され、今後も増えるだろう。重症化リスクも低下し、なぜ更に特効薬を求めるのだろうか。

<医療崩壊はなぜ起きる>

1日100万人の新規感染者が発生する米国でも医療崩壊は起きていない。なぜ、日本はこれだけ医療崩壊と騒がれるのか。

メディア出演の専門家、政府分科会、東京都モニタリング会議などの言い方は「医療崩壊を起こさせない様に感染を抑えるべき」「そのために行動制限」という方向性である。これでは、医療機関を守る為に私権制限しろと聞こえても不思議ではない。

医療機関は個人の健康を守り、命を助けるために存在する。それが逆転構造になってしまっているのではないだろうか。この構造を生み出す、制度的な問題点は、2類相当の感染症としている事であろう。

感染者全員を入院させる国家は日本以外にあるのだろうか。入院が必要ない人を入院させるから、入院が必要な人が入院できない現象が発生する。当たり前だ。

自宅療養を、自宅放置と揶揄し、急激な悪化リスクを殊更問題視するが、入院の必要のない症状の人が自宅療養するのは至極当然のことではないのか。そうすればムダに医療資源を浪費せず、入院が必要な重症者に対応する余力が生じるはずだ。

そして日本の医療の長所である町医者によるきめ細かな医療サービス体制を最大限生かし、軽症者に早期診療を実施。検査も無駄に無症状者に拡大せずに、有症状者に必要に応じた実施に留めれば感染拡大も抑制できる。結果として、重症化リスクを低減させ、入院必要な患者も減少させるだろう。

即ち、2類相当の扱いで、初期医療を制限し重症化リスクを高め、ただでさえ後ろ向きな医療資源の再配分を硬直させていた。その様な状況で、検査や補助金を権益化する悪循環が蔓延り、医療崩壊が起きた。

打開策は簡単である。5類相当の普通の対応に戻し、町医者による初期医療と大学病院などによる重症化対応とする。そして、医療法を遵守し、中長期的に日本医療の弱点である救急医療を強化する。患者は無暗な検査をやめ、症状があれば診療を受ける。それだけで既に収束し医療崩壊も起き様がないはずだ。

情弱な社会環境に対峙する決意

新年あけましておめでとうございます

今年は、私自身還暦という人生の節目を迎えます。昔は、還暦というと爺さんのイメージでしたが、いざ自分がその立場になると、まだ人生の折り返し点、やり残したことがあると感じている。これまでの経験、ノウハウを、今後は、何らかの形で社会にお返しをすることに費やす時間と認識を新たにしております。

昨年、一昨年の約2年間、世界はコロナ禍という、インフォデミックを経験し、未だ抜けきれないでおります。

PCR検査には偽陰性と偽陽性が存在する、それは感度と特異度という精度が100%でないからだ。小学生でもできる計算を行えば、検査で決して安心が得られる訳では無いのだが、いつの間にか人は安心を求め、検査に走り出している。

そして発熱しているにもかかわらず、検査で陰性と判定された後に安心して社会活動を始めるという例がまだ散見される様だ。あれだけ社会事例で、発熱後の検査で陰性とされた後に感染させる、クラスターを発生させた例が報告されているにも関わらず、いざ自分の事になると、検査で安心してしまう。

その個人は、悪気がある訳ではない。日本語が理解できない訳でも無く、知能が低い訳でも無い。しかし、人は安心を求め、誤った行動をとってしまう、弱い生き物なのだ。私は、それを『性弱説』で説明されると考えている。

許せないのは、人の弱みに付け込み、危機を煽り、時には自身のビジネス上の利益の為に人に不安感を抱かせる行為を公共の電波を使って垂れ流すことだ。あたかも、正義を気どり、多様性と言いながら、異論を許さない。人権問題を主張しながら、人権を侵害する行為を拡大する。最近の報道姿勢は目に余る状況であり、何か勘違いしているとしか思えない。

この様な社会環境で、弱い人間を支えるのは、自己防衛でしかない。そのためには、それを支える正しい情報が必要であり、情報を読み解く論理的分析力を鍛える必要があると確信している。企業においてはリスク管理であったり、危機管理、セキュリティ管理の領域を充実し、従業員の健全活動が活動を支える環境の構築が重要になるだろう。

私の残りの人生、微力ながら、所謂『情弱』な状態に陥らない為の個を育成し、企業環境構築に貢献できれば幸いと考えているので、引き続きご支援の程よろしくお願いいたします。